みょうにょ 明如 (1850-1903) 本願寺21代。 広如の五男。 童名は峩君、 諱は光尊。 安政4年 (1857)、 広如の嗣法であった徳如の養子となり新々門跡と称された。 慶応4年 (1868) に徳如が没し、 明治4年 (1871)、 広如の示寂にともない22歳で本願寺を継職する。 翌5年、 欧州等へ僧侶数名を派遣し、 海外の宗教事情を調査させた。 その後、 明治政府の廃仏毀釈・政教一致の宗教政策に対し、 政教分離を推し進め、 同8年 (1875)、 本願寺を大教院から分離させた。 また同13年 (1880) に寺法を制定、 翌14年に集会を開設するなどして教団の諸制度を近代化した。 同33年 (1900) に大日本仏教慈善会財団設立をするなどして宗門の社会貢献体制の基礎を築くとともに、 北海道・鹿児島・沖縄やハワイ・北米開教にも尽力し、 明治36年、 54歳にて示寂した。 諡号は信知院。