めいわのほうろん 明和の法論 本願寺派学林のう法霖の教学をめぐって、 学林とせんとの間でおこった教学論争。 明和元年 (1764)、 智暹が ¬浄土真宗本尊義¼ を著して、 学林の正統とされていた法霖の本尊論を暗に批判し、 同時にその教学を一益いちやくたつ (一益いちやく法門ほうもんの一種) の異義としたことから、 学林が反発して互いに反論書を著して議論の応酬となった。 明和4年 (1767) 5月に、 智暹側と功存ら学林側が本願寺で対論し、 二度にわたって一益達解の問題を論じ合ったが、 議論が深まらないまま打ち切られた。 同年6月に本願寺が双方を処分する裁定を下すと、 学林のしょは承服せず本願寺に乱入し、 二条所司代の沙汰をうけるに至った。 その後も ¬浄土真宗本尊義¼ の刊行許可などをめぐって駆け引きが続いたが、 明和5年 (1768) に智暹と学林の能化義教が相次いで没し、 やがて終息した。 この論争以後、 本尊論と正定滅度についての議論がより緻密になった。 また智暹は亀山本徳寺をはじめ播磨国の僧俗の支持をうけており、 地方において活発な教学研究が行われていたことが窺われる。