じょうおうのげきしょう 承応の鬩牆 本願寺派学寮の能化西吟と肥後国の月感との間でおこった教学論争。 承応2年 (1653)、 月感が西吟の学説を聖道の教え、 自性唯心に偏したものと非難し、 本願寺に訴状を提出したことに始まる。 両者の論争が次第に激しくなったため、 本願寺13代良如は双方に不足の点はあるものの宗義に違背はないと裁定し和解を求めた。 月感はこれに納得せず、 自身の養子の実父である興正寺19代准秀を後ろ盾として、 執拗に西吟批判を申し立てたため、 本願寺は態度を硬化させ、 論争が本願寺と興正寺の対立に転化した。 最終的には幕府の介入を受けるに至り、 学寮の破却、 准秀・月感の逼塞処分をもって終息した。 この論争では、 聖浄二門の関係が中心問題となり、 以後、 聖道門と浄土門の相違が、 より明確にされていった。 なお、 鬩牆とは兄弟間の争いのことで、 西吟と月感がともに了尊を師とする兄弟弟子であったことに由来する。