ごんにょ 厳如 (1817-1894) 大谷派21代。 20代達如の第三子。 諱は朗澄、 のちに光勝と改めた。 愚皐などと号した。 院号は真無量院。 弘化3年 (1846) に継職した。 安政5年 (1858) の大火で本堂御影堂を焼失し、 文久元年 (1861)、 仮堂で親鸞600回忌を勤修ごんしゅした。 元治元年 (1864)、 禁門の変 (蛤御門の変) によって再び両堂が類焼すると、 その復興に尽力した。 明治になると、 教団の近代化に努め、 また新政府の意で北海道開拓・開教を進めた。 明治22年 (1889)、 寺務を現如に譲った。