【58】●大文第七に、念仏の利益を明かすというのは、大きく分けて七つある。第一には滅罪生善、第二には冥得護持、第三には現身見仏、第四には当来勝利、第五には弥陀別益、第六には引例勧信、第七には悪趣利益である。その文は、それぞれ多いが、今は略して、その要を挙げよう。
【59】●第一に滅罪生善とは、●«観仏三昧経》の第二巻に説かれている。
一時の中を分けて少分とし、その少分の中で、よくしばらくの間でも仏の白毫相を念ずるのに、心をはっきりとさせて乱れた
●また説かれている。
釈迦仏が世を去りたもうた後に、三昧に入って、仏の歩まれる相を想う者も、また千劫の極めて重い悪業を除くであろう。仏の歩まれる相は、上の助念方法門に示すとおりである。
●また説かれている。
仏が、阿難に告げられる。「そなたは今日から、如来の
●また説かれている。
老女が仏を見たてまつり、邪見で信じなかったのに、それでも、よく八十億劫の
●また説かれている。
もろもろの凡夫、および僧・尼や信男・信女の弟子で、大乗経を謗り、五逆罪を作り、四重禁を犯し、寺院の財物を盗み、比丘尼を犯し、八戒斎を破り、諸の悪事や種々の邪見をなすものがある。このような人も、もしよく至心に、一日一夜、
●また説かれている。
仏世尊に帰依する者や、仏のみ名を称える者は、百千劫の煩悩の重い障りを除く。まして、正しい心で念仏三昧を修めるものは、なおさらのことである。
●«宝積経》の第五巻に説かれている。
種々色と名づける宝珠がある。大海の中にあって、数限りのない多くの速い流れが大海に入るのであるが、この珠の火の力で、水を消滅させ、満ち溢れないようなものである。これと同様に、如来が菩提を
●«遺日摩尼経》に説かれている。
菩薩は、また数千巨億万劫のあいだ、愛欲の中にあって、罪に覆われていても、もし、仏経を聞いて、一遍でも善を念ずるならば、その罪は、すぐさま消え尽きるであろう。以上の諸文は滅罪の文である。
●«大悲経》の第二巻に説かれている。
もし善男・善女があって、三千大千世界の中に満ちみつる須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢の聖者たちを、もしは一劫、もしは一劫未満のあいだ、いろいろの意にかなったすべてのたのしみの品々で恭敬し尊重し、へりくだって供養したとする。もし、また人あって、諸仏のみもとで、ただ一たび合掌し、一たびみ名を称えるとする。このような福徳を前の福徳に比べると、前のものは、この百分の一にも及ばず、百千億分の一にも及ばず、無数分の一にも及ばぬのである。どういうわけでかといえば、如来は、諸の福田の中で、最も無上だからである。こういうわけで仏に布施したてまつるのは、大きな功徳と成るのである。抜き書きした。三千世界に満ちみつる縁覚の場合について比較してみても、また同じことである。
●«普曜経》の偈に説かれている。
すべての人々が縁覚となり たとい億数劫のあいだ
飲食・衣服やまた寝具
もし一心に十指をくみ合わせ 心を専らにしてみずから一仏に帰依し
口にみずから「南無仏」と称えるならば この功徳の方が最上である
●«般舟三昧経》の念仏三昧を説く偈にいわれている。
たといすべてのものがみな仏となって 聖の智慧は清浄第一となり
みな億劫を過ぎるまで 一偈の功徳を講説し
入滅するまでその功徳をほめ
この三昧を説く一偈の功徳を 極め尽くすことはできない
すべての仏国のあらゆる土地 八方および上下のうちに
満ちみちた珍宝を施し もって天中の天である仏に供養しても
もしこの三昧を聞きうるものは その福徳を得ることが前の供養にまさる
安らかに
一仏土を砕いて塵とし、その一々の塵を取って、また一仏土を塵にするように砕き、この一塵を一仏土として、それら多くの仏土の中に満ちている珍宝をもって諸仏に供養する。これをもって比べるのである。以上は生善の文である。
●«度諸仏境界経》に説かれている。
もし、諸の人々の中で、如来を念じて、諸の行を生ずる者は、無数劫の間、地獄・餓鬼・畜生や閻魔王に生まれることを断つ。もし人々の中で、一念でも意を作して、如来を念ずる者は、その得る功徳に限りはなく、量ることもできない。百千万億那由他の諸の大菩薩が、ことごとく不可思議解脱三昧を得てその功徳を計っても、その限りを知ることはできないであろう。
●«観仏三昧経》に説かれている。
仏が阿難に告げたもう。「われ涅槃に入って後に、諸天や世の人々で、もし、わが名を称え、さらに〈南無諸仏〉と称えるならば、その得る福徳は無量無辺であろう。まして、また念を繋けて諸仏を念ずる者で、諸の障碍を滅ぼし除かないはずがあろうか。」以上は滅罪と生善の文である。その他は、上に述べた正修念仏門に出すとおりである。
【60】●第二に冥得護持とは、●«護身呪経》に説かれている。
三十六部の神王は、万億恒沙の鬼神を眷属として、仏法僧の三宝に帰依する者を護る。
●«般舟三昧経》に説かれている。
劫が尽きて世界が壊れ焼ける時、この三昧を
●«般舟三昧経》の偈に、
鬼神や乾闥婆はともに護り 諸天や人々もまたこのようにする
ならびに阿修羅や摩睺羅伽も この三昧を行ずる人をこのように護る
諸天はことごとく共にその徳をほめ 天・人竜神緊那羅も
諸仏もほめて欣いのようにさせたもう 経を誦み説いて人のためにするからである
国と国と相い戦って人民はすさび 飢饉がしきりにおこって苦しみが窮まっても
ついにその定まった寿命を中夭しない よくこの経を誦んで人を教化するからである
いさましく諸の魔事を降伏し 心に畏れることなく毛も
その功徳の行ははかることができぬ この三昧を行ずるものはこのようになることができる
と説かれている。《十住毘婆娑論》に、これらの門を引き終わっていう。「ただ、業報で必ず受けねばならぬものを除く。」
●«十二仏名経》の偈に説かれている。
もし人が仏のみ名を
行住座臥のすべてにわたり そのてがかりを得ることはできない
【61】●第三に現身見仏とは、●«文殊般若経》の下巻に説かれている。
仏が仰せられる。「もし善男・善女が一行三昧に入ろうと思えば、静かな処にあってすべての乱れ
●善導禅師が釈していわれる。
衆生は障りが重く、観察の行は成就しがたい。そういうわけで釈尊はこれを哀みくださって、ただ専ら名号を称えることを勧められたのである。
●«般舟三昧経》に説かれている。
「前に聞かなかった経巻を、この菩薩がこの三昧を
●また《般舟三昧経》の偈に説かれている。
阿弥陀仏国の菩薩たちが 百千の仏を見たてまつるように
この三昧を得た菩薩もそのように 百千の仏を見たてまつるであろう 中略
もしこの三昧を
たとい命の終わる時の大きな恐れにも この三昧を持てばおそれることはないであろう
●«念仏三昧経》の第九巻の偈に説かれている。
もしことごとく現在・未来および十方の すべての仏を見ようとおもい
あるいはまた妙なる法輪を転ずることを求めても またまずこの三昧を修め習え
●«十二仏名経》の偈に説かれている。
もし人がよく至心に 七日の間仏のみ名を
浄らかな眼を得て よく無量の仏を見たてまつる
【62】●第四に当来勝利とは、●«華厳経》の偈に説かれている。
もし如来のわずかな功徳を念じ さては一年の心ででも専ら仰ぎまつれば
諸の悪道の怖れはみな永く除き 智慧の眼はここによく深く悟る 智眼大王の偈頌である。
●«般舟三昧経》の偈に説かれている。
その人はついに地獄に堕ちず 餓鬼道および畜生を離れ
世々の生まれる所で宿命を知る この三昧を学べばこのようになることができる
●«観仏三昧経》に説かれている。
もし人があって、一たび上に述べたような仏身の功徳や相好や光明を聞くならば、億々千劫のあいだ悪道に堕ちず、
●«安楽集》にいわれている。
《大集経》に説かれてある。「諸仏がこの世に出られると、四種の方法をもって衆生を済度せられる。その四種は何かというと、一つには、口に経を説かれる。これは法をもって衆生を済度されるのである。二つには、仏たちには多くの光明や相好がある。すべての衆生は、ただよく心をかけてこれを観察すれば、利益を獲ぬことはない。これは仏が身をもって衆生を済度されるのである。三つには、はかりしれない功徳、神通力、いろいろな相をあらわすことがある。これは神通力で衆生を済度したもうのである。四つには、仏たちには、多くの名号がある。通号、または別号である。衆生が心をかけてみ名を称えるならば、障りを除き利益を獲て、みな仏のみもとに生まれないことはない。これは名号をもって衆生を済度されるのである。」
●ある人がいう。この文は《正法念経》にあると。
●«十二仏名経》の偈に、
もし人が仏のみ名を
智慧があって
もし人が仏のみ名を持てば 七宝の華の中に生まれる
その華は千億の花びらで 尊い光の相が具わっている
と説かれている。以上の諸文は、永く悪趣を離れて浄土に往生することを明かすのである。
●«観仏三昧経》に説かれている。
もし、よく至心にして、念が内に在り、端座して心を静め、仏の
●«大集念仏三昧経》の第七巻に説かれている。
このような念仏三昧は、総じて一切の功徳を摂めていると知るべきである。この故に、かの声聞・縁覚の二乗の知るべき境界ではない。もし人あって、しばらくでも、この法を説くのを聞く者があるならば、この人はのちの世には必ず成仏することに疑いはないのである。
●同じ経の第九巻に説かれている。
ただ、よく耳にこの三昧の名を聞くならば、たとい読まず、
●同じ経の偈に説かれている。
もし諸の妙なる相を円満し 多くのすぐれた荘厳を具えようとおもい
また清浄の家に生まれることを求めるならば 必ずまずこの三昧を受け
●また、ある経に説かれている。
もし仏の福徳を生ずる田に よくわずかの善を植えるならば
初めには善い境界に生まれ 後には必ず
●«大般若経》に説かれている。
仏を敬い
●«宝積経》に説かれている。
もし、人が如来のみもとにあって、少しの善でも起こすならば、苦の
●また説かれている。
もし菩薩が勝れた
●«十二仏名経》の偈に説かれている。
もし人が仏のみ名を
身の通力で虚空に遊び よく無辺の国に至って
まのあたり諸仏を見たてまつり よく甚深の義を問うならば 中略
仏はために微妙な
●«法華経》の偈に説かれている。
もし人が散り乱れた心のままに 塔廟の中に入り
一たびも南無仏と称えるならば みなすでに仏道を成ずる
●«大悲経》の第三巻に説かれている。
仏が阿難に告げたもう。「もし、人があって、仏のみ名を聞くならば、わたしは『この人はついに必ず涅槃に入ることができる』と説くのである。」
●«華厳経》の法幢菩薩の偈に説かれている。
もし諸の人があって まだ菩提心を
一たび仏のみ名を聞くことを得るならば 必ず
●ただ、名号を聞くだけでもこのような勝れた利益がある。まして、しばらくでも仏の相好・功徳を観念し、あるいは、また一華・一香を供養するものは、いうまでもない。まして一生のあいだに勤め修めた功徳はついに虚しくはならぬのである。
かくして、仏法に
むしろ地獄の苦を受けても 諸仏のみ名を聞くことを得よ
量りない楽を受けても 仏の名を聞かぬことがあってはならぬ
と説かれている。●以上の四項は諸仏を念ずる利益を総じて明かしたのである。その中《観仏三昧経》は釈迦仏を主とし、《般舟三昧経》は多く阿弥陀仏を主とする。けれども、実際の道理の上からはともに一切の諸仏に通ずる。《念仏三昧経》は過去・現在・未来の三世の諸仏に通ずる。
●問う。《観仏三昧経》に説かれている。
この人の心は、仏心のとおりで、仏と異なることはない。
また《観経》に説かれている。
仏が阿難に告げたもう。「諸仏如来は、これ法界身であって、一切衆生の心想の中に入りたもう。このゆえに、おんみらは心に仏を想う時は、この心が、すなわち三十二相・八十随形好である。この心が作仏する。この心がこれ仏である。諸仏正遍知海は心想より生ずる。」
この為義はどうであるのか。
●答える。《往生論》の智光の《疏》に、この文を解釈していわれている。
衆生の心に仏を観ずる時に当たって、仏身の相好が衆生の心の中に現われるのである。たとえば、水が澄んでおれば、物の形が現われ、水とあらわれた形とは一でもなく、また別のものでもないようなものである。それだから仏の相好身が心想であると仰せられたのである。「この心が作仏する」というのは、心がよく仏の相好身をそこに作り出すのである。「この心がこれ仏である」とは、感ずる心の外に別の相好身はないのである。たとえば、火は木から現われて機を離れることはできない。木を離れないから、よく木を焼き、木が火のために焼かれて、そのまま火となるようなものである。
●また、その他の解釈もあるが、学ぶ者はさらに考えるがよい。
●わたくしにいう。《大集経》の日蔵分に説かれている。
行者は、次のような
この文の意味は、《観経》と同じである。智光師の解釈も、また違うことはない。
●問う。心が仏を作ると知るならば、どのような勝れた利益があるのか。
●答える。もしこの道理を観ずるならば、よく過去・現在・未来の三世の、すべての仏法を
●«華厳経》の如来林菩薩の偈に説かれている。
もし人が三世一切の 仏を知ろうと望むなら
わが心が諸の如来を造ると このように観ずべきである
●«華厳伝》にいわれている。
文明元年に、都の人で、王という姓の人がいたが、その名前は伝わっていない。戒行は全くなく、これまでに善根を修めたこともなかった。病気にかかって死んでしまった。二人の獄卒に引かれて、地獄の門前に至り、見ると一人の僧がいる。地蔵菩薩だという。菩薩は、そこで王氏に教えて、この一偈を
【63】●第五に、弥陀別益とは、●行者に、その心を決定させるために、特別に、これを明かすのである。滅罪生善と冥得護持と現身見仏と当来勝利とは、次のとおりである。
●«観経》の像想観に説かれている。
この観を成就するものは、無量億劫という長い間の
●また説かれている。
ただ無量寿仏のみ名と観音・勢至の二菩薩のみ名を聞くだけでも、はかり知られぬ長い間の
●また説かれている。
ただ仏像を想うだけでも無量の福徳を得るのであるから、ましてかの無量寿仏のまどかにそなえられた
●«阿弥陀思惟経》に説かれている。
たとい天輪王が、千万歳のあいだ、四天下に満ちている七宝を、十方の諸仏に布施しても、僧・尼・信男・信女たちが、指を弾くほどのわずかのあいだでも、坐禅し、平等の心で、すべての人々を憐れんで、阿弥陀仏を念ずる功徳には及ばない。以上は滅罪生善である。
●«称讃浄土教》に説かれている。
もし、善男・善女で、無量寿仏の極楽世界、清浄仏土の功徳荘厳に、あるいは、すでに願を
●«観経》に説かれている。
光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を修め取って捨てたまわない。
●また説かれている。
無量寿仏が無数の化身をあらわして、観音・勢至の二菩薩と共においでになり、つねにこの行者の所においでになる。
●«十往生経》に、釈尊が、阿弥陀仏の功徳や国土の荘厳などを説きおわって仰せられる。
清信士・清信女で、この経を読み、この経をひろめ、この経を敬い、この経を謗らず、この経を信じ喜び、この経を供養するものがあるとする。このような人たちは、この信じ敬った因縁で、わたしが今日より常に、前にのべた二十五菩薩にこの人を護らせて、常にこの人を病がなく悩がないようにし、悪鬼・悪神も、破り害せず、また、この人を悩まさず、また手がかりを得させないようにするであろう。以上。ねてもさめても、歩いても、とどまっても、至るところみな悉く安穏にさせよう。下略。
●唐土の諸師たちがいわれている。
二十五菩薩は、阿弥陀仏を念じて往生を願う者を護りたもう。
これもまた、かの《十往生経》の意に
●«無量寿経》の阿弥陀仏の本願 (第三十七願) にいわれている。
人々がわたしの名を聞いて、身を地に投げて、うやうやしく礼拝し、喜び信じて菩薩の行にいそしむならば、天・人ともに、その行者を敬わぬものはないであろう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開くまい。以上は冥得護持である。
●«大集経》の賢護分に説かれている。
善男・善女があって、端座して、
●«観経》に説かれている。
眉間の白毫を観ずるならば、八万四千の相好が自然に見られるであろう。こうして、無量寿仏を見たてまつるならば、それはすなわち、十方世界の無数の諸仏がたを見ることになる。無数の諸仏がたを見るのであるから、それによって諸仏がたは、まのあたり成仏の記別を授けてくださるであろう。これを〈あまねく一切の
●«鼓音声王経》に説かれている。
十日十夜のあいだ一日に六度、念を専らにし、身を地に投げて、かの阿弥陀仏を礼敬し、堅く正しい
●«平等覚経》に説かれている。
仏が仰せられる。「かならず斎戒を
●«無量寿経》の偈に説かれている。
かのみ仏の本願力は 名号を聞いて往生を願うものを
みなことごとくかの国に到らせ おのずから不退の位に入らしめる
●«観経》の下品上生の人は、
命の終ろうとする時に臨んで、手をくみ合わせて合掌し「南無阿弥陀仏」と称える。仏の名を称えることにより、五十億劫という長い間の生死の罪がすべて除かれ、化仏の後にしたがって、浄土の宝池の中に生まれるのである。
●下品中生の人は、
命の終ろうとする時に臨んで、地獄の猛火が一時にその人の前に押し寄せて来るが、阿弥陀仏の十力の威徳と甲様の不思議の力とその戒・定・慧と解脱と解脱智見のすぐれた徳を聞くと、八十億劫という長い間の生死の罪を除き、地獄の猛火は、たちまち、さわやかな風に変って多くの華を吹き散らす。その花の上には、いずれも化仏と化菩薩がおられて、その人を迎えられ、直ちに往生する。
●下品下生の人は、
命の終ろうとする時に臨んで、臨終の苦しみにせめられて、仏を念ずることができない。そこで、善知識の教に随って、ただ、こころから声をつづけて、「南無無量寿仏」と十声称える。仏のみ名を称えたことによって、一声一声の中に八十億劫という長い間の生死の罪が除かれ、わずかな時間のうちに、はや極楽世界に往生することができるのである。
●«無量寿経》の阿弥陀仏の本願にいわれている。
あらゆる世界の衆生が、わたしの名を聞いて、涅槃を得るに定まった身となり、もろもろの深妙の智慧を得られないようなら、決してさとりを開くまい。(第三十四願)
他方の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに不退の位に到ることができないようなら、決してさとりを開くまい。(第四十七願)
●«観経》に説かれている。
もし、念仏するものがあるならば、その人こそ、まことに人々の中で白蓮華ともたたえられる尊い人であると知るがよい。それゆえ、観音・勢至の二菩薩は、その人のために勝れた友となってくだされる。そこで、その人は、諸仏の家である無量寿仏の浄土に生まれて、かならず成仏するのである。以上は将来の勝れた利益である。その他は上の別時念仏門のとおりである。
【64】●第六に引例勧信とは、●«観仏三昧経》の第三巻に、仏が弟子たちに告げて仰せられる。
毘婆尸仏の像法の世に、ひとりの長者があった。名づけて月徳という。その五百人の子供が、同時に重い病にかかった。父の長者は、子の前にいって涙を流し、合掌して、子供たちにいった。「お前達は、邪見に沈んで、正しい法を信じていない。今、無常の刀は、お前達の身を截りさくのだが、何をたのみとするのか。毘婆尸と名づける仏がおられる。お前達は、この仏のみ名を称えるがよい。」子供たちは、その父を敬っていたので、この言葉を聞いてから、「南無仏」と称えた。父はまた、「お前達、帰依法と称えよ、帰依僧と称えよ」と告げた。三度称えないうちに、子供たちは命が終った。しかし「南無仏」と称えたために、四天王のところに生まれた。その天上界での寿が尽きると、前の邪見の業によって、大地獄に堕ちた。獄卒の羅刹は、熱い鉄の
●また説かれている。
燃灯仏の末法の時に、ひとりの阿羅漢があった。その千人の弟子が、阿羅漢の説を聞いて、心に瞋り恨みをいだいたのである。その寿命の長さにしたがって、それぞれ、寿が終ろうとしたとき、阿羅漢が「南無諸仏」と称えるように教えた。仏名を称えおわったので、忉利天に生まれることができた。中略 未来の世に、仏となることができて、「南無光照」と号するであろう。
●«観仏三昧経》の第七巻には、文殊菩薩が、みずから、過去の宝威徳仏に値って、礼拝したことを説いている。
その時、釈迦世尊は、讃めて仰せられた。「よろしい、よろしい。文殊師利よ、そなたはむかし、一たび仏を礼拝した功徳によって、数限りない多くの仏たちに
●また説かれている。
あるとき十方世界の仏が、釈迦如来の所に来て、結跏趺坐せられた。東方の善徳仏が大衆に告げて仰せられるには、「わたしが、過去無量世の時を思うのに、宝威徳上王という仏が世に出られた。その時に一人の比丘があって、九人の弟子とともに、仏塔に
●また説かれている。
四仏世尊が空から降りて、釈迦仏の床に坐り、讃めて仰せられた。「善いかな、善いかな。釈迦仏は、よく未来の時の濁悪の人々のために、三世の諸仏の白毫の光の相を説いて、諸の人々の罪咎を滅ぼすことを得させられる。どういういわれかというと、わたしの昔を
●また説かれている。
財首菩薩は、釈迦仏に申しあげていう。「世尊、わたくしが量りない過去世の時を思いますに、仏世尊がおられて、やはり釈迦牟尼と申しあげました。かの仏の滅後に金幡という一人の王子がありました。憍慢・邪見で、正法を信じませんでした。ところが、定自在と名づける善知識の比丘がいて、王子に告げていうには、『世に仏像があって、多くの宝で飾られてあります。しばらく塔に入って、仏のおすがたを観られるがよい』と。そこで王子は、善知識の言葉に随って、塔に入り仏像を観ました。仏像の
●また説かれている。
仏が仰せられる。「わたしは、今の世の諸の菩薩と一緒に、かつて過去の栴檀窟仏のみもとで、この諸仏が現わされるさまざまの
●«迦葉経》に説かれている。
「むかし、過去久遠阿僧祇劫に、光明と名づける仏が世に出られた。この仏が涅槃に入りたもうた後、大精進と名づける一人の菩薩があった。年はやっと十六で婆羅門の種族で、たぐいなく端正であった。一人の比丘が白い毛氈の上に仏の
さて、仏は迦葉に仰せられた。「この昔の大精進とは、今のわたくしのことである。かの仏像を観じたことに由って、いま成仏することができたのである。もし、よくこのような観を学ぶ人があるならば、未来には、必ず無常仏果を成就するであろう。」
●«比喩経》の第二巻に説かれている。
昔、ひとりの比丘があった。その母を済度しようと思ったが、母は、はやすでに命がつきていた。そこでさとりの眼で、天上界や人間界や、畜生・餓鬼の中をさがし求めたけれども、遂に母を見つけられなかった。地獄を観ると、その中に母が落ちている。そこで、もだえ悲しみ広く方法をめぐらして、その苦しみを逃れさせたいと思った。時に、父を殺して国を奪った辺境の王があった。比丘は、この王の命は余すところ七日で、その罪を受ける処が、この比丘の母と同じ所であることを知ったので、ものしずかな夜に、王の寝所に到り、壁に孔をあけて半身を現わした。王は怖れて、刀を抜いて頭を切り、頭はすぐに地に落ちたが、比丘はもとのとおりであった。数辺も頭を切って、仮現の頭は地に満ちたけれども、比丘は少しも変わらない。王の
●«優婆塞戒経》に説かれている。
善男子よ、わたしは、昔、邪見の家に堕ち、煩悩の網がみずからわたしを覆っていた。わたしは、そのとき、広利という名であった。妻はすぐれた女で、努め励み、量りなくさとり、十善をもって人を導いていた。わたしは、そのとき、猟殺の心を起こし、酒肉をむさぼり、怠りなまけて、努力することができなかった。妻は時に、わたしに、「その猟殺を止め、酒肉を誡めて断ち、努力していくようになされば地獄の苦悩の
●また、
●問う。《観経》にある下下品の人と、《観仏三昧経》の五百の仏弟子とは、臨終に同じく念仏したのに、一は昇り、他は沈むとは、どうして区別があるのか。
●答える。《群疑論》に説明していわれている。
五百の仏弟子は、ただ父の教に依って、一たび仏を念じたけれども、菩提心を
【65】●第七に、悪趣の利益を明かせば、●«大悲経》の第二巻に説かれている。
もし、また人があって、ただ心に仏を念じ、一たびも敬い信ずる心を起こすならば、この人はまた
●問う。それはどういう事であるか。
●答える。《大悲経》の第三巻に、仏が阿難に仰せられる。
むかし、大商主があった。多くの商人をひきいて、大海に入ったとき、その船はにわかに、摩竭大魚に呑みくわれようとした。その時に、大商主や多くの商人は心驚き、身の毛も
●また《菩薩処胎経》の八斎品に説かれている。
竜の子が、金翅鳥のために、次のような偈を説いていう。
生物を殺すのはこれ不善の行で
この身は朝の露のようで 光を見ればすぐに命が終る
戒を持って仏語にしたがえば 長寿天に生まれることができる
永劫に福徳を積めば 畜生道に堕ちることはない
わが身は竜の身を受けているが 戒徳を浄く
畜生道の中に堕ちてはいるが 必ずみずから免れ出よう
この時、竜の子が、この偈を説いたときの他の竜の子や竜の女たちは心が開けたのである。かくて寿命が尽きた後には、みな阿弥陀仏の国に往生することになるであろう。以上。これは八斎戒を守っている竜の子である。
●その他の悪趣のものも、仏語を信ずるならば、浄土に生まれることは、これに準ずる。地獄における利益は、前に引いた〈比喩経〉の国王の因縁、ならびに下に出す粗心の妙果に明かすとおりである。
●また諸のその他の利益は、下に明かす念仏の功徳のとおりである。
【66】●大文第八に念仏の証拠とは、
●問う。すべての善業には、それぞれ利益があり、それぞれ往生することができるのに、どういうわけで、ただ念仏の一門だけを勧めるのか。
●答える。今、念仏を勧めることは、決して、その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。ただ男でも女でも、身分の高いものでも、低いものでも、その行住座臥の区別なく、
難陀国の波瑠璃王が、使者を遣わして、仏に申しあげていう。「ただ願わくは世尊、殊にいつくしみを垂れて、わたくしに肝要な法を賜り、日夜をたやすく修行することを得させ、未来世には多くの苦しみを離れさせて下さい。」仏は告げて仰せられる。「大王よ、もし
●まして、またもろもろの聖教の中には、多く念仏を往生の業としている。その文は甚だ多いが、略して十文を出そう。
●一つには、《占察経》の下巻に説かれている。
もし人あって、他方の現在の浄土に生まれようとおもうならば、かの世界の仏の名号に随い、意を専らにしてとなえるべきである。一心不乱にして、上のように観察するならば、まちがいなく、かの仏の浄土に生まれることができ、善根が増長して速やかに不退の位に入るであろう。ここに「上のように観察する」というのは、地蔵菩薩の法身と諸仏の法身と自分自身とは、その体性が平等であって、二つなく、生ぜずメッセ図、常楽我浄であって、功徳が円満していると観ずる。また自分の身は無常で、幻のようであり、厭うべきものであると観ずるなどのことをいうのである。
●二つには、《無量寿経》の三輩の業については、それぞれ浅深があるけれども、いずれにも通じて説かれている。
一向にもっぱら、無量寿仏を念ぜよ。
●三つには、四十八願の中で、念仏の法について、特別に一願を
少なくとも十念して、もし往生しなかったならば、仏にはなるまい。
●四つには、《観経》に説かれている。
極重の悪人は、他の方法がない。ただ身だの名号を称念して、極楽往生を得るばかりである。
●五つには、同じ経に説かれている。
もし
●六つには、同じ経に説かれている。
光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂め取って捨てたまわない。
●七つには、《阿弥陀経》に説かれている。
自分が積むような、わずかな善根功徳の
●八つには、《般舟経》に説かれている。
阿弥陀仏が仰せられる。「わが国に来生しようと念うならば、わたしをたびたび念ずべきである。常にもっぱら念じて、やめてはならない。このようにすれば、わたしの国に来生することができよう。」
●九つには、《鼓音声経》に説かれている。
もし、僧俗男女があって、よくまさしくかの阿弥陀仏の名号を
●十には、《往生論》にいわれている。
かの阿弥陀仏の浄土や仏・菩薩の功徳を観念することをもって往生の業とする。
●この中で、《観経》の下下品と《阿弥陀経》と《鼓音声経》とは、ただ名号を称念することを往生の業としている。まして相好や功徳を観念することについてはいうまでもないことである。
●問う。念仏以外の行には、どうして信を勧めるの文がないのであろうか。
●答える。その他の行法は、かの法のいろいろの
●これらの文で、はっきりとしている。どうして重ねて疑問を生ずることがあろうか。
●問う。諸経に説くところは、それぞれの機に随ってさまざまである。どうしてせまい考えで、一文に固執するのか。
●答える。馬鳴菩薩の《大乗起信論》にいわれている。
また次に、初めてこの法を学ぼうとする人で、その心がおびえて弱く、信心が成就することのできがたいのをおそれ、退転しようとおもう者は、如来にはすぐれた方法があって、信心を護ってくださると知るがよい。すなわち、専心に仏を念ずる因縁によって、願いのままに、他方の仏土に往生することができるのである。経に、「もし人があって、専ら西方の阿弥陀仏を念じ、作った善業を回向して、かの世界に生まれようと願い求めるならば、すなわち往生することができると説いてあるとおりである。
●これで明らかに知られた。経には多く念仏を往生の要としているのである。もし、そうでないならば、人々の依りどころとなる四依の菩薩は、道理をつくさないこととなるであろう。
【67】●大文第九に往生の諸行を明かすというのは、すなわち極楽往生を求める者は、必ずしも念仏を専らにするとは限らず、その他の行をも明かして、それぞれの望みに任す必要がある。これをまた二つに分ける。一つには個々別々に諸経の文を明かし、次には総じて諸業を結ぶ。
【68】●一つに、諸経を明かすならば、《四十華厳経》の普賢願、《三千仏名経》・《無字宝篋経》・《法華経》などのもろもろの大乗経、《随求陀羅尼経》・《尊勝陀羅尼経》・《無垢浄光大陀羅尼経》・《如意輪陀羅尼経》・《阿嚕力迦》・《不空羂索神変真言経》・《光明真言》・《阿弥陀大呪》、および龍樹菩薩が感得せられた往生浄土などの呪文がそれである。これら顕教・密教の諸大乗の中には、みな受け
●«大阿弥陀経》に説かれている。
斎戒し、一心清浄にして、中夜に常に念じて阿弥陀仏の国に生まれようと願い、十日十夜の間、絶えないようにすべきである。わたしは皆これを愍み、悉く阿弥陀仏の国に往生させるであろう。特に、そうすることができなければ、みずから思うて、よくよく計るがよい。この身を救い脱れようと思うならば、浄土への念を絶ってはならない。愛着を去って、家の事を
●«十往生阿弥陀仏国経》に説かれている。
わたしは今、そなたのために説こう。十種の往生法がある。その十種の往生法とは何であるかというと、一つには、身を観じて正念に、いつも歓喜の心をいだき、飲食・衣服を仏および僧に供養するならば、阿弥陀仏の国に往生する。二つには、正念にすぐれた良い薬をもって、独りの病気の比丘、およびすべての衆生に施すならば、阿弥陀仏の国に往生する。三つには、正念に、生物の命を一つもそこなわず、すべてのものをあわれむならば、阿弥陀仏の国に往生する。四つには、正念に師匠のもとに従って戒を受け、浄らかな心で仏道の行を修め、心にいつも喜びをいだくならば、阿弥陀仏の国に往生する。五つには、正念に、父母に孝行し、師長に敬いつかえて、憍慢の心を懐かないならば、阿弥陀仏の国に往生する。六つには、正念に、僧房に参詣し、塔寺を敬い、法を聞いて一義を領解するならば、阿弥陀仏の国に往生する。七つには、正念に、一日一夜のあいだ、八戒斎をたもち、一日一夜のあいだ
●«弥勒問経》に説かれている。
「仏がお説きになったとおり、阿弥陀仏の功徳利益を願って、もしよく十念相続し、たえずかの阿弥陀仏を念ずる者は、往生することができるということでありますが、それはどのように念ずべきでありましょうか。」仏が仰せられる。「これにはおよそ十念がある。その十とはどういうものか。一つには、すべて衆生に対し、常に
●«宝積経》の第九十二巻に、仏は、またこの十心で弥勒菩薩の問に答えられている。その中の第六心にいう。
仏の一切智を求め、すべての時に、これを忘れない心。
その他の九種の心は、その文は少し異なるけれども、その意味は前の経に同じ。ただ、その結びの文にいわれている。
もし、人があって、この十種の心の中で、どれか一つの心を成就してかの仏の世界に往生しようと願い、もし生まれることができないというならば、そんな道理はない。
これで見ると、かならずしも十心をすべて具えて、往生の業とするのではないことが、明らかである。
●«観経》に説かれている。
「かの極楽世界に生まれようと願うものは、つぎの三種の福徳を積まねばならない。一つには、父母に孝養をつくし、よく師匠や目上の人に仕え、慈悲の心をもって殺生をせず、十善の行を修める。二つには三帰戒を受け、いろいろの戒を
●また説かれている。
上品上生というのは次のようである。もし人々の中で、かの国に生まれたいと願う者は、三種の心を発してすなわち往生する。その三種の心とは何かといえば、一つには至誠心、二つには深心、三つには廻向発願心である。この三種の心を欠けめなく具えるものは、かならずかの国に生まれるのである。
●さて、上品上生というのは、このような人々の中で、つぎの三種の行を修める人をいうのであって、それらの人々は、いずれもみな往生することができる。その三種の行を修める人とは、どのようなものかといえば、一つには、慈悲の心をもって殺生をせず、よくいろいろの戒行を守るもの。二つには、大乗の経典を読誦するもの。三つには、六念を修行するものがそれである。これらの人々は、おのおの、その修めるところの善根功徳によって、かの国に生まれたいと願い、少なくとも一日から七日ぐらいのあいだ行じて、それらの功徳をそなえ、それによって、ただちに往生することができる。
●上品中生というのは、かならずしも大乗の経典を受持するとは限らないが、そのわけをよく理解し、奥深い第一義の道理を聞いても、それによって心が驚き動かされるようなことはなく、深く因果の道理を信じて、大乗の経典を謗らず、その功徳によって、極楽浄土に生まれようと願うものである。
●上品下生というのは、また因果の道理を信じて、大乗の教を謗らず、ひとえに無上菩提を求める心を起こして、その功徳により、極楽に生まれようと願うものである。
●中品上生というのは、人々の中で、五戒をまもり、八戒斎をたもち、その他、もろもろの戒律を修めて、五逆の罪を造らず、また、いろいろの
●中品中生というのは、人々の中で、あるいは一日一夜の間、八戒斎を受け、あるいは一日一夜の間、沙弥戒をまもり、あるいは一日一夜の間、具足戒をたもって、少しも威儀を乱さず、その功徳によって、極楽浄土に生まれようと願うものである。
●中品下生というのは、世間一般の善男・善女で、父母に孝養をつくし、いつくしみの心から、世の中のいろいろの善を行っているものである。
●下品上生というのは、人々の中で、さまざまの悪業をつくっているもので、大乗の経典を謗るようなことはないが、いろいろの悪をつくって、少しも心に恥じることを知らない愚かな人たちである。こういう人が命の終ろうとするとき、いろいろな経典の題号のいわれを聞き、さらに合掌して「南無阿弥陀仏」と称える。
●下品中生というのは、人々の中で、五戒や八戒や具足戒などのおきてを犯し破っているものである。このような愚かな人がいよいよ命の終ろうとするときには、地獄のさまざまの猛火が一時にその人の前に押し寄せて来る。このとき、たまたま善知識が、哀れみの心から、その人のために阿弥陀仏の十力の威徳を説き、さらにひろく光明の不思議の力を説き、また、その戒・定・慧と解脱と解脱智見のすぐれた徳をほめたたえるのに遇う。その人はこれを聞いて、ただちに八十億劫という長い間の
●下品下生というのは、人々の中で、最も重い罪である五逆や十悪を作り、その他、悪という悪のすべてを犯しているものである。こういう愚かな人は、その悪業の報いで、かならず悪道におちねばならない。ところが、こういう愚かな人が命の終ろうとするとき、たまたま善知識に遇い、心に仏を念ずることはできないけれども、ただ
●«無量寿経》の三輩の行業も、また、この《観経》の九品の外ではないのである。●また《観経》には、十六観の法を往生の
●«宝積経》には仏前の蓮華に化生するのに、四つの因縁があることを説いている。その偈にいう。
花香を仏や塔廟にささげ 他のものを害せずまた仏像を造り
大菩提を深く信解すれば 蓮華にすわって仏の前に生まれることができる
●その他は、煩雑になるから、ここには出さない。
【69】●第二に、総じて諸業を結ぶというのは、慧遠法師が浄土往生の因の要を明かしているのに、四つある。
一つには、観を修めて往生する。十六観のようなものである。二つには、業を修めて往生する。三福業のようなものである。三つには、心を修めて往生する。至誠心などの三心である。四つには、帰依して往生する。浄土の事を聞いて帰依し、正念し、讃嘆するなどである。
●今、私見を出すと、諸経に説かれている行業は、総じて言うならば、 《梵網経》の戒品を出るものではなく、別して論ずるならば、六度の行を出ないのである。さらにくわしくその相を明かすならば十三となる。一つには、財物を与え、法を説くなどの布施。二つには三帰・五戒・八戒・十戒などの多くの戒行。三つには忍辱。四つには精進。五つには禅定。六つには般若。第一義(真如の理)を信ずるなどがこれである。七つには菩提心を発す。八つには六念を修行する。仏・法・僧・戒・施・天を念ずるのを六念という。十六想観も、また、これを出でぬ。九つには大乗の経典を読誦する。十には仏法を守護する。十一には父母に孝順し、師長に
●«大集経》の月蔵分の偈に説かれている。
樹の実が繁ると速く自ら枯れるように 竹や芦が実を結ぶのもまたそのとおりである
驢馬がはらめばみずから身を喪うように 無智の者が利を求めることもまたこのとおり
比丘がもし供養を受けて 利養を求めて
世にこれ以上の悪はなく かくて
このように利養を貪る者は すでに道を得てもまたふたたび失う
●また《仏蔵経》に、迦葉仏が、
釈迦牟尼仏は、多く供養を受けるから、その教法ははやく滅ぶであろう。
●如来の上においてさえ、このような次第であるから、まして凡夫にあっては、いうまでもないことである。大きな象が窓から出ようとして、ついに、ただ一つの尾のために妨げられ、行者が家を捨てても、ついに、名聞利養のために縛られるということがある。そこで、この迷いの世界から出離する最後の窓は、名聞利養より大きなものはないことが知られる。ただ、維摩居士は、身は家に在っても、心は家を出ており、薬王菩薩は、その前生に世塵を避けて雪山に居られた。今の世の行者もまた、このようにあるべきである。みずから、その根機をはかってふるまうべきである。もし、その心を制することができなければ、やはりその地を避けるべきである。麻の中に生えている蓬は自然と真直ぐになり、屠所の辺につながれた象は気が荒くなるという。その好くなったり、悪くなったりするのは何に由るのであろうか。《仏蔵経》を見て、その是非を知るべきである。
【70】●大文第十に問答料簡というのは、略して十となる。第一には極楽の依正、第二には往生の階位、第三には往生の多少、第四には尋常の念相、第五には臨終の念相、第六には粗心の妙果、第七には諸行の勝劣、第八には信毀の因縁、第九には助道の資縁、第十には助道の人法である。
【71】●第一に、極楽の依正とは、
●問う。阿弥陀仏とその極楽浄土は、どういう仏身と、どういう仏土とであるか。
●答える。天台大師がいわれている。
応身の仏であり、凡夫と聖者とが一緒に居る国土 (凡聖同居土) である。
●慧遠法師がいわれている。
応身であり、応土である。
●道綽法師がいわれている。
報仏であり報土である。昔から伝えて、みな「化土であり化身である」というが、これは大きな誤りである。《大乗同性経》によると「浄土で成仏される仏は、すべて報身であり、穢土で成仏される仏は、すべて化身である」といわれてある。またかの経には「阿弥陀如来・蓮華開敷星王如来・竜主如来・宝徳如来など、もろもろの仏たちの清浄なる仏国において、現にさとりを得られている方や、またまさにさとりを得べき方、このようなすべての仏はみな報身の仏である。どういうのが化身であるかというと、あたかも今日の踊歩健如来や魔恐怖如来などのような仏たちである」と説かれてある。以上。《安楽集》による。
●問う。かの阿弥陀仏は、成道したもうてから、もう久しい時間がたったのかどうか。
●答える。諸経には、多く十劫といい、《大阿弥陀経》には十小劫といい、《平等覚経》には十八劫といい、《称讃浄土教》には十大劫という。どれが正しいのか、よく分らない。けれども《無量寿経》の憬興師の疏には、《平等覚経》の十八劫という説を解釈していう。
十八劫の「八」というのは、考えてみると「小」の字の書き誤りで、その中の点を欠いたものであろう。
●問う。阿弥陀如来の未来の寿命はどれほどであるか。
●答える。《阿弥陀経》に説かれている。
無量無辺、阿僧祇劫である。
●«観音授記経》に説かれている。
阿弥陀仏の寿命は、無料百千億劫であるが、その終極があるはずである。仏が入滅したもうて後、正法が世に住まることは仏の寿命と等しいであろう。善男子よ、この阿弥陀仏の正法が滅んで後、夜中を過ぎて夜が明ける時、観世音菩薩は菩提樹の下でさとりをひらいて、普光功徳山王如来と号するであろう。その仏の国土には、声聞や縁覚の名もない。その仏の国土を、衆宝普集荘厳と号するであろう。この普光功徳如来が入滅せられ、正法が滅んだ後、大勢至菩薩はただちに、その国で成仏し、善住功徳宝王如来と号するであろう。その国土・光明・寿命、さては正法の住まることは、等しくて異なることはないであろう。
●問う。《大乗同性経》には「報身」といい、《観音授記経》には「入滅する」という。この二経の相違を諸師は、どのように矛盾なく解釈しているか。
●答える。道綽禅師は《観音授記経》を解釈していわれている。
これは、如来の報身が、
●迦才は《大乗同性経》を解釈していわれている。
浄土での成仏を報身と判定するのは、受用身であって、実の報身ではない。
●問う。どちらを正しいとするのか。
●答える。迦才がいわれる。
人々の修行には、すでに千差があるから、往生して仏土を見るにも、また万別あるわけである。もし、このような解釈をするならば、諸の経や論の中に、あるいは報と判定したり、あるいは化と判定したりしても、皆妨げはない。ただし、諸仏の修行は、具さに報と化の二土を感得するということを知るべきである。●«摂大乗論》の釈に「前方便の行は化を感じ、証を得るための正しき行は報を感ずる」というとおりである。報であっても、化であっても、皆、人々を救い遂げたいと思われるのである。つまり仏土は
●この迦才の釈は善い。専ら称念すべきであって、苦労してかれこれと分別しないようにせよ。
●問う。かの阿弥陀仏の相好は、どうして同一でないのか。
●答える。《観仏三昧経》に、諸仏の相好を説いていわれている。
人間の相に同ずるために、三十二相と説き、諸の天人の相好に勝れていることを示すために八十好と説く。諸の菩薩のためには八万四千の諸の妙なる相好と説くのである。
かの阿弥陀仏の相好の不同についても、これに準じて知るべきである。
●問う。《無量寿経》には、
かの仏の菩提樹は、高さ四百万里である。
といい、《宝積経》には、
菩提樹は高さ十六億由旬である。
といい、《十往生経》には、
菩提樹の高さ四十万由旬で、樹の下に獅子座があり、その高さは五百由旬である。
といい、《観経》には、
仏身の高さは、六住万億那由他恒河沙由旬である。
などと説かれている。菩提樹と仏座と仏身と、どうしてつりあわないのか。
●答える。いろいろな解釈があって不同である。あるいは「仏の境界は、大小ともに互いに
●問う。《華厳経》に「娑婆世界の一劫を、極楽国の一日一夜とする」などと説かれている。これによって上品中生の人が、一夜を経て蓮華が開くというのは、この娑婆の半劫に相当するのであり、さては、下品下生の人が十二劫に至るというのは、この娑婆の恒河沙の微塵劫に相当することになることが知られる。これではどうして極楽と名づけられようか。
●答える。たとい恒河沙劫を経るまで、蓮華が開けなかったとしても、もはやわずかな苦もないのであるから、どうして極楽でないことがあろうか。●«無量寿経》に説かれているとおりである。
その胎生の人たちのいる宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬というような大きさであって、各自がその中でいろいろの楽しみを受けていることは忉利天のようである。
●ある師がいう。
胎生とは、中品と下品とである。
●ある師がいう。
胎生は、九品には摂めないのである。
●このように異説があるけれども、そのうける快楽には変わりがない。ましてかの九品の経る日時を判定することについては、諸師の説は不同であるから、なおさらのことである。懐感や智憬などの諸師が、かの国土の日夜・劫数であると認める立場からいえば、まことに疑問の起こるのは擣染である。しかし、ある師が言う。
仏は、この娑婆世界の日夜で、これを説いて、人々に知らしめたもうのである。
●いま、私が考えるには、この最後の解釈には
●一つには、かの阿弥陀仏の実の高さが若干由旬であるというのは、かの仏の指の長さをかさねて、かの由旬としたのではない。もし、そうでないならば、須弥山のように
●二つには、《尊勝陀羅尼経》に説いてあるとおりである。
忉利天上の善住天子は、空中の声に「そなたは、七日を過ぎると死ぬであろう」と告げるのを聞いた。その時、帝釈天が、仏のお指図をうけて、かの天子に、七日の間、修行させたところ、七日を過ぎて後に、その寿命が延びることができたのである。
●これは、人間世界の日夜で説いたのである。もし、天上界の七日に依るならば、人間世界では七百年に当るから、釈迦仏が世におられた八十年の間では、そのことが決定しないであろう。九品の日夜も、またこれと同様であろう。
●三つには、法護が訳した経 (今の康僧鎧訳の《無量寿経》) に説かれている。
胎生の人は、五百年を過ぎて、仏を見たてまつることができる。
《平等覚経》に説かれている。
蓮華の中に化生して、城の中にいる。この娑婆での五百年の間は出ることができない。
憬興などの諸師は、この文によって、この娑婆世界の五百年であることを証している。いま、考えてみると、かの胎生の年数を、すでに、この娑婆の年数によって説いてあるとするならば、九品の時間は、どういう特別の理由から、かの胎生の場合と異なるとするのであろうか。
●四つには、もし、かの極楽世界の時間によって、九品を説いたのであるとするならば、上品中生の一夜、上品下生の一日一夜は、この娑婆世界の半劫と一劫に相当することになる。もし、そういう事を認めるならば、胎生の疑心の者でさえも、なお娑婆世界での五百年を経て、速やかに仏を見たてまつることができるのに、上品の信行の者が、どうして、半劫や一劫を過ぎて、遅く蓮華が開けるのであろうか。こういう道理があるから、後の解釈は
●問う。もし、この娑婆世界の日夜の時間で、かの九品の相を説いたのであるとするならば、かの上上品の人は極楽国に生まれて、ただちに無生法忍を悟るはずはない。その理由は、この娑婆世界でのわずかの間の修行を勝れたものとし、かの極楽国での長い間の善根を劣ったものとするからである。すでに、そうであるとすると、上上品の人は、この世界にあって、一日から七日に至るまで、三福の業を具えても、なお無生法忍を証ることができないのに、どうして、かの国土の長い時間を経て無生法忍を悟るのであるということがわかるのである。そうすると、かの極楽国での立場からただちに悟ると名づけても、この娑婆世界に対照してみると、億千歳となるのである。あるいは、上上品の人は、必ず方便位の最後心の行の円満した者であるといってよかろう。もしそうでなければ、多くの文が矛盾するであろう。
●答える。かの極楽国の多善は劣り、この娑婆世界の少善が勝れているということは、まだよくわからない。
●問う。《無量寿経》に説いている。
この世において、ひろく徳のもとを積んで、恵みを施し、戒めを犯さず、よく耐え忍び、努め励み、心を静め、智慧をみがき、またそれを人にも教えて善根功徳を修めるがよい。心を正しくして浄らかに斎戒を守ることが、わずか一昼夜であっても、それは無量寿仏の国で、百年間善を修めるよりも、一層まさるといえよう。なぜなら、かの国は無為自然の境界であって、努めなくても、おのずから多くの善根を積むことができ、少しも悪のない所だからである。また、この世界で、中夜十日間善を修めたなら、他方の諸仏の国で、千年間善を修めたよりも、さらにまさるといえよう。
この文が、その勝劣を示すのである。
●答える。極楽と娑婆との二つの世界における善根は、厳密に対照すれば、そうでもあろう。けれども、仏に値いたてまつる縁が勝れているから、速やかに悟るとしても、決して
仏の在世にあって信解するのは、まだ勝れたものとするには足らぬ。仏のなくなられた後の信解を勝れたものとするのである。
●あるいは、その他の解釈もあるけれども、これを詳しく述べることができない。
●問う。娑婆世界における修行の
●答える。だいたいは差別がないけれども、細かい点では差別がある。●«陀羅尼集経》の第二巻に説かれているとおりである。
もし、人があって、香華・衣食などを供養しなければ、かの浄土に生まれても、香華・衣食などのいろいろの供養の報いを得ない。この文は、かの仏の因位の願に相違する。更に、よく思い考えるべきである。
●また、玄一師と因法師とは、同じくいわれている。
その実について論ずるならば、また勝劣もある。けれども、その
●問う。極楽世界は、この娑婆世界を去ること、どれほどの所であるか。
●答える。《阿弥陀経》に説かれている。
これより西の方、十万奥の諸仏の国々を過ぎたところに、極楽世界がある。
●ある経に説かれている。
これより西の方に、この娑婆世界を去ること、百千倶胝那由他の仏土を過ぎて、仏の世界がある。名づけて極楽という。
●問う。この二経は、どういうわけで異なるのか。
●答える。《往生論》についての智光の《疏》の意にいわれている。
倶胝とは、漢訳して億とする。那由他とは、この国では
この解釈によって思うべきである。
●問う。かの阿弥陀仏が教化したもう場所は、ただ極楽だけとするのか。また、その他にもあるとするのか。
●答える。《大智度論》にいわれている。
阿弥陀仏にも、また、浄土と浄土でない国土とがあることは、ちょうど釈迦牟尼仏の国土と同じである。
●問う。いったい、どれがそうなのか。
●答える。極楽世界が、いうまでもなく浄土である。けれども、阿弥陀仏の穢土が、どこであるかは分らない。ただし、道綽禅師などの諸師は、《鼓音声経》に説いてある国土を阿弥陀仏の穢土としている。●かの経に説かれているとおりである。
阿弥陀仏は声聞たちと一緒におられる。その国を清泰国という。聖王の住まれている所である。その城の広さは十千由旬で、その中に王族の人たちが満ちている。阿弥陀如来の父を月上転輪聖王と申しあげる。その母を殊勝妙顔と申しあげる。子を月明と名づけ、お仕えする弟子を無垢称という。智慧ある弟子を攬光といい、神足通をもって勤める弟子を大化という。その時の魔王を無勝といい、提婆達多があって、寂静と名づける。阿弥陀仏は、六万人の大比丘とともにましますのである。
●問う。かの阿弥陀仏が教化したもう所は、ただ極楽と清泰との二国だけであるのか。
●答える。経典の文は、それぞれの機縁にしたがって、しばらく一端を挙げられているのにすぎない。その実際の場合を論ずると不可思議である。●«華厳経》の偈に説かれているとおりである。
菩薩が諸の願界を修行せられるのは 普く衆生の心の願いにしたがう
衆生の心は広くて
●また説かれている。
如来は十方に遍く出現され 一々の塵の中に無量の国がある
その中の世界もまた量りなく 悉く無辺無尽の永劫に住みたもう
●問う。如来が教化を施したもうことは、ひとりで起こるものではなく、かならず機縁に対するのである。どうして遍く十方にゆきわたるのか。
●答える。永劫に修行して、無量の衆生を教化することを成就したもうから、その機縁も、また十方世界にゆきわたるのである。●«華厳経》の偈に説かれているとおりである。
その昔勤修することが多劫であって よく衆生の重い障りを転ぜられた
それ故よく身を分けて十方に遍く 悉く菩提樹の下に現われたもう
【72】●第二に、往生の階位とは、
●問う。《瑜伽論》にいわれている。
三地の菩薩が、まさに浄土に生まれる。
それなのに、今、初地以前の凡夫や声聞に浄土往生を勧めるのは、どういう意味があるのか。
●答える。浄土には差別がある。それ故に
諸の経論の文に、浄土に生まれることを説くのは、それぞれ一義に拠るものである。浄土に、すでに粗妙勝劣の差別があるから、往生を得ることにも、また上下高低がある。
●また道宣律師がいう。
三地の菩薩になって、はじめて、報身仏の浄土を見ることができる。
●問う。たとい、報土でないにしても、煩悩悪業の重い者は、どうして浄土に往生することができようか。
●答える。天台大師がいわれている。
無量寿仏の国は、果報がことにすぐれているけれども、臨終の時に懺悔して念仏すると、悪業の障はすぐに転じて、往生することができる。煩悩を具えているけれども、願力によって心を
●問う。もし、凡夫もまた往生することができると認めるならば、《弥勒所聞経》の文は、どういうように、さし障りなく解釈することができようか。経の文に説かれている。
仏を念ずるのは、凡愚の念ではない。煩悩の念を
●答える。《西方要決》に、これを解釈していわれている。
娑婆世界は苦であると知って、永く煩悩に汚れた世界を離れようとするのは、決して浅薄な凡夫の心ではない。当来には仏となって、その意は専ら広く、あらゆる世界の衆生を済度しようとするのである。このような勝れた領解があるから愚かではない。まさしく仏を念ずる時には、煩悩がおさえふせられるので、煩悩の念を
この意味をいうと、凡夫の行者でも、このような徳を具えているというのである。
●問う。かの国の人々は、みな不退転である。そうすると、これは凡夫の生まれるようなところではないということが明らかに分るではないか。
●答える。いまいう不退転というのは、必ずしも聖者の徳に限られたものではない。●«西方要決》にいわれているとおりである。
いま不退を明かすと四種に分かれる。《十住毘婆娑論》にいう。一つには位不退。すなわち因を修行することがすでに一万劫に亘り、もはや悪律儀の行に退き堕ちて、
●問う。九品の階位には、いろいろな解釈があって不同である。●慧遠法師のいうのでは、
上品上生は四・五・六地であり、上品中生は、初・二・三地であり、上品下生は初地以前の三十心である。
といい、力法師は、
上品上生は十行・十回向であり、上品中生は十解 (十住) であり、上品下生は十信である。
といい、基法師は、
上品上生は十回向であり、上品中生は十解・十行であり、上品下生は十信である。
といい、ある師は、
上品上生は十住の初心であり、上品中生は十信の後心であり、上品下生は十信の初位である。
といい、ある師は、
上品上生は十信、およびそれ以前のよく三心を発して三行を修行する者である。上品中生と上品下生とは、ただ十信以前で、菩提心を発して、善を修める凡夫を指す。行の浅深で中生・下生の二品を分けるのである。
●このように、諸師の判定が不同である理由は、無生法忍の位の取り方に不同があるからである。すなわち《仁王経》には、無生法忍は七・八・九地に在るといい、諸の論には初地に在るといい、あるいは忍位であるとする。《本業瓔珞経》では十住に在るとし、《華厳経》では十信に在るとし、《占察経》には一行三昧を修めて、相似の無生法忍を得た者であると説いてある。こういうわけで、諸師は、それぞれ、一義によるのである。
●中品の三生については、慧遠は、
中品上生は前三果であり、中品中生は七方便であり、中品下生は解脱分の善根を植えた人である。
といい、力法師は、この説と同じである。基法師は、
中品上生は四善根位であり、中品中生は三賢位であり、中品下生は方便 (三賢・四善根位) 以前の人である。
といい、ある師は、
次第のように、忍位と頂位と煖位とである。
といい、ある師は、
三生はいずれも、解脱分の善根を植えた人である。
といわれている。以上の六品については、また、その他の解釈もある。得感禅師の《群疑論》や、龍興の《記》などを見るがよい。
●下品の三生には、特別の階位はない。ただ煩悩にしばられた造悪の人である。
●これで、往生する人には、その位に限りがあるということが明白になった。それでも、どうしてこれがわれわれの分であるということが知られようか。
●答える。上品の人は、その階位がたとい高くても、下品の三生は、どうして、われわれの分でないことがあろうか。ましてかの後の解釈では、すでに、十信以前の凡夫を指して、上品の三生としているのだから、なおさらのことである。●また、善導禅師の《観経玄義分》には、大乗と清浄との七方便以前の凡夫を九品の位に判定して、諸師が判定しているような高い位を認めないのである。また、経や論は、多くは、文に依って義を判断するのである。今の経に説く上三品の行業を、どうして深く固執して、高位の行とすることがあろうか。
●問う。もし、そうであるならば、かの極楽浄土に生まれても、早く無生法忍を悟ることはできないであろう。
●答える。天台の教義では、無生法忍の位に二つがある。もし、別教の人であるならば、永劫に修行して、無生法忍を悟るのである。もし、円経の人であるならば、たとい悪趣の身であっても、次第を超えて、ただちに
●問う。上品生の人の得益の早さは、一定してそうなのであるか。
●答える。経文の中では、しばらく一類を挙げたにすぎない。●それ故に慧遠和尚の《観経義記》にいわれている。
九品の人が、かの浄土に生まれてから、利益を得るまでの劫数は、その勝れたものに依って説いてある。道理として、また、これに過ぎる者もあるべきである。
●いま考えてみるに汎く九品を論ずると、あるい