【42】●第四に観察門とは、初心の人の修する観行は、深奥なものには堪えられない。《十住毘婆娑論》にいわれてあるとおりである。
初めて発心した菩薩は、まず仏の
また、いろいろの経典の中に、初心の人のためには
●これを分けて三つとする。第一は別相観、第二は総相観、第三は雑略観である。それぞれの
【43】●第一の別相観には、また二つがある。●まず華座を観ずるのである。●《観経》に説かれている。
かの阿弥陀仏を観察しようと思うものは、よく想念を起こせ。七宝の大地の上に蓮華があると想い、その蓮華の一々の花びらに百宝の
●このようなすぐれた花は、もと法蔵比丘の願力によって成就せられたものである。もしかの阿弥陀仏を観念しようと思うならば、まずこの華座の観法をなせ。この観法をするときには、雑然と観じてはならない。みな一々に観じて、一々の花びら、一々の珠、一々の光、一々の台、一々の幢をみなあきらかになるようにさせよ。ちょうど鏡に自分の顔かたちを映しみるように観ぜよ。●このように観ずるのを正観と名づけ、もしこれと違った観じ方をするなら、邪観というのである。以上。この蓮華の座の相を観ずる者は、五万劫という長い間の生死の罪が滅し除かれて、かならず極楽世界に生まれることができる。
●次に、まさしく仏の
●一つには、頂の上に肉髻がある。それを見ることのできる者はない。高く顕われて円いことは、ちょうど天蓋のようである。あるいは広く観じようとねがう者は、次に、このように観ずるがよい。仏の頂の上には、大きな光明があって、千の色を
●二つには、頂の上の八万四千の髪の毛は、みな上向きに
●三つには、その髪の生え際に、五千の光があり、まじわってあきらかである。みな上向きに靡き、諸の髪を囲み、頂を五回りも遶る。天の画師が作った画法のようである。円く等しくて、一糸のように細い。その糸の間に多くの化仏があらわれ、化菩薩を眷属とされている。すべての
●四つには、耳は厚く広く長くて、耳たぶがよくととのっていられる。あるいは広く観ずるがよい。七つの毛が旋り生じ、五つの光を流し出す。その光には千の色があり、その色ごとに千の化仏がおられる。仏ごとに千の光を放って、遍く十方の無量の世界を照らす。このこまかい随好 (すがた) の業因を考えてみよ。《観仏三昧経》に説かれている。「この好 (こまかいすがた) を観ずる者は八十億劫の生死の罪を滅し、後の世には、いつも陀羅尼をたもつ人の眷属となる」下略。以下いろいろの利益は、みな、また《観仏三昧経》に依って註する。
●五つには、額は広く、平らかで正しく、形相は殊に
●六つには、
●七つには、眉間の白毫は、右にゆるやかにめぐっている。柔らかなことは覩羅綿のようで、鮮やかに白いことは白雪にもまさっている。あるいは、次に広く観ずるがよい。この白毫を伸ばすと、長く長大になって、白瑠璃の筒のようであり、白毫を放してしまうと、右に旋って頗梨の珠のようになる。一丈六尺の仏の白毫は、長さが一丈五尺。右旋りの直径が一寸、周囲が三寸である。あらゆる方向に量りない光を現わすことは万億の日のようで、くわしく見ることはできぬ。ただ、光の中に諸の蓮華を現わす。上は数限りもない世界を過ぎるまで、花と花とが次々に連なって、円くふくらかで、大きさはみな一様である。一々の花の上には、一人の化仏が坐し、相好はりっぱで、眷属が囲み遶っている。一々の化仏は、また無量の光を出し、その一々の光の中にも、また無量の化仏がいられる。この諸の仏がたは、歩まれる方も無数、住まられる方も無数、坐っていられる方も無数、臥してしられる方も無数である。あるいは大慈大悲を説き、あるいは三十七品を説き、あるいは六波羅蜜を説き、あるいは諸の不共法を説かれている。もし広く説くならば、すべての衆生から、十地の菩薩に至るまでも、またこれを知ることはできぬであろう。《大集経》に説かれている。「他人の徳を隠さずに、その徳を褒めたたえたので、この相を得たのである。」《観仏三昧経》に説かれている。「量りない昔から、昼夜に努め励んで、身も心も怠ることなく、頭に火がついたのを打ち消すようにして、六度・三十七品・十力・無畏・大慈大悲など諸のすぐれた功徳を勤修して、この白毫の相を得たのである。この相を観ずる者は、九十六億那由他恒河沙微塵数劫の生死の罪を除き去る。」
●八つには、如来の
●九つには、仏の眼は青と白とで、上下ともまたたく。白いところは白宝より越え、青いところは青蓮華よりも勝れている。あるいは、次に広く観ずべきである。その眼より光明を出し、分かれて四つの
●十には、鼻は、ながく高く
●十一には、唇の色は赤く好もしいこと、頻婆の
●十二には、四十本の歯は
●十三には、四本の牙歯は鮮やかで白く、光の
●十四には、仏の舌の
●十五には、舌の下の両辺には、二つの宝珠があり、甘露を注ぎ流して、舌の上に滴らす。諸の天人、世の人、十地の菩薩には、このような舌がなく、また、このような味わいもないのである。《大般若経》には、これと異なった節があるから、考えてみるがよい。《涅槃経》に説かれている。「飲食を施したから、上味の相を得たのである。」
●十六には、如来の
●十七には、頚から円光を出す。咽喉の上に、はっきりとした点の相があり、一々の点の中から、一々の光を出す。その一々の光は、前の円光を
●十八には、頚より二つの光を出す。その光に万の色があり、あまねく十方一切の世界を照らす。この光に遇う者は、縁覚となる。この光はもろもろの縁覚の頚を照らす。この相が現われる時、行者はあまねく十方一切の諸の縁覚が、鉢を大空に投げて身を十八種に変化し、一々の足の下にみな文字があって、その字が十二因縁を説き宣べるのを見るのである。
●十九には、
●二十には、世尊の肩
●二十一には、如来の腋の下は、悉くみな充ちみちており、赤紫の光を放ち、いろいろの仏のはたらきをして、衆生を利益する。《無上依経》に説かれている。「衆生の中で、利益の事を行ない、四正勤を修めて、心に畏れることがなかったので、両肩が平整で両腋の下が満ちている相を得たのである。」
●二十二には、仏の両臂は、ながくまっすぐで、
●二十三には、諸の指は円く、ふっくらとして
●二十四には、一々の指の間には、ちょうど雁王のように、ことごとく
●二十五には、その手の柔らかなことは、覩羅綿のようで、すべてのものに勝れ、内側でも外側でも、ともに握ることができる。《涅槃経》にいう。「父母・師匠・長上の人が病気で苦しんでいる時、すすんで手を荒い拭い、身体を択り持ち、摩でさすってあげたから、手の柔らかな相を得たのである。」
●二十六には、世尊の
●二十七には、胸に卍がある。実相印と名づけ、大きな光明を放つ。あるいは、次に広く観ずるがよい。光の中には、量りない百千の多くの花があり、一々の花の上には量りない化仏がいられる。この化仏たちに、それぞれ千の光があって、衆生を利益し、そうしてあまねく十方の仏の頂に入る。時に諸仏の胸からは、百千の光を出し、一々の光は六波羅蜜を説く。一々の化仏は、弥勒菩薩のような姿の端正で微妙な一人の化人を遣わされ、行者を慰問せられるのである。この相の光を見る者は、十二億劫の生死の罪を除く。
●二十八には、如来の心臓の
●二十九には、世尊のおん身の皮膚は、みな真金の色である。その光は
●三十には、身の光は、自然に、三千大千世界を照らす。もし照らそうと思われる時には無量無辺である。しかし、もろもろの人々を憐れむために、光を摂めて、平常は十方それぞれ一尋を照らされる。《涅槃経》に説かれている。「香・花・燈明などを人に施したので、この相を得たのである」下略。大光明を観ずる者は、ただ見ようと発心するだけで、多くの罪を除き去る。
●三十一には、世尊の身の
●三十二には、世尊の体の
●三十三は、世尊の
●三十四には、如来の
●三十五には、世尊の両足、両手の掌、
●三十六には、世尊の両
●三十七には、世尊の足の
●三十八には、世尊の足の
●三十九には、如来の身には、前後左右、および頂の上には、それぞれ八万四千の毛が生え、柔らかでつややかで紺青の色であり、右に
●四十には、世尊の足の
●四十一には、世尊の足の
●四十二には、広く観ずることを願う者は、次のように観ずるがよい。足の
●このもろもろの
●また相好の業因には、総と別とがある。●その総の業因というのは《瑜伽論》の第四十九巻にいわれている。
菩薩の初めの位である清浄勝意楽地から収めたあらゆる菩提の
●別の業因というのは、かの論に三種がある。●一つには六十二の因である。詳しくは、 《瑜伽論》の文のとおりである。●二つには浄戒である。もし菩薩たちが浄戒を犯すと、賎しい人身でさえも得ることができない。まして
●相好の前後の次第は、諸文また不同であるけれども、今はその宜しいものに依って、これを取って順序を立てたのである。相と好とをまじえて観法とすることも、また、《観仏三昧経》の例である。順観の順序は、おおむねこのようである。逆観は、これに反して、足から頂に至るのである。
●《観仏三昧経》に説かれている。
眼を閉じて見ることができるには、心想の力でせよ。はっきりとして、仏の在世のようにすべきである。この相を観ずるといっても、数多くしてはいけない。一事から始めて、また一事を想え。一事を想い終わると、また一事を想え。順観・逆観を十六辺、反復せよ。このようにして、心想のを極めてはっきりとさせ、そうして後に心を
●善導和尚がいわれている。
十六遍の後、心を住めて、白毫の相を観察せよ。雑乱してはならない。
【44】●第二に総相観とは、まず前に述べたように、多くの宝で飾られた広大の蓮華を観じ、次に阿弥陀仏が華の台の上に坐したもうことを観ぜよ。仏身の色は百千万億の閻浮檀金のようで、おん身の高さは六十万億那由他恒河沙由旬である。眉間の白毫は
●このように、八万四千の相があり、一々の相には、それぞれ八万四千の随好がある。一々の好にはまた八万四千の光明があって、一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂め取って捨てたまわないのである。これで知られるであろう。一々の相の中には、それぞれ七百五倶胝六百万の光明を具え、そのあかあかとさかんに輝いて威徳の気高いことは、金山王が大海の中にあるようなものである。無量の化仏菩薩は、光の中に充ちみちて、それぞれ神通を現わし、阿弥陀仏をとりまいている。かの仏はこのように無量の功徳相好を具足して、菩薩たちの集まりの中におられ、正しいみ法を説きのべられる。行者にはこの時、すべて他の
●あるいは、次のように観ずるがよい。かの阿弥陀仏は法・報・応の三身を一体に具えている仏身である。
●かの阿弥陀仏一身については、観察する者の見方に不同がある。すなわち、あるいは一丈六尺、あるいは八尺、あるいは広大の身である。現わしたもう仏身はみな金色であって、利益したもうことはそれぞれ無量である。すべての諸仏と、その
●また、一々の相好は、凡夫も聖者もその極まりを知らず、梵天でさえも仏の頂を見ず、目連でもその声の果てを聞かず、形なき第一の体であり、荘厳を超えた荘厳である。十力・四無畏・三念住・大悲、八万四千の三昧門、八万四千の波羅蜜門、恒河の沙ほどの数多い法門が究まり円満している。あらゆる諸仏と、その意は同一である。報身である。
●妙に浄らかな法身には、もろもろの相好を具足している。一々の相好は、すなわち実相である。実相の法界は、すべてを具えていて減ずることはない。生ぜず滅せず、去ることも来ることもない。同一でもなく相違でもない。断ずるものでもなく常なるものでもない。有為・無為のもろもろの功徳は、この法身に依って、常に清浄である。すべての諸仏とその体は同一である。法身である。
●こういうわけで、三世十方の諸仏の三身、ありとあらゆる無量の法門、僧衆の法界円融の万徳、およそ無尽の法界は、阿弥陀仏の一身に備わっているのである。縦でもなく、横でもなく、また一でもなく異でもない。実でもなく虚でもなく、また有でも無でもない。その本性は清浄で、心に思い言葉にあらわすこともできない。譬えば、如意珠の中には、宝があるのでもなく、宝がないのでもないようなものである。仏身に具わる万徳もまたこのようである。
●また陰入界を、そのまま名づけて如来とするのではない。かのもろもろの衆生には、みな悉く陰入界があるからである。陰入界を離れて名づけて如来とするのでもない。これを離れると、因縁のない
【45】●第三に雑略観とは、かの阿弥陀仏の眉間には、一つの白毫がある。
●もし、極めて簡略をねがう者は、次のように念ずるがよい。かの仏の眉間の白毫相は、めぐり渦巻いて、ちょうど頗梨珠のようである。光明はあまねく照らして、われわれを摂めたもう。願わくは、衆生と共にかの国に生まれたいものである。
●もし、相好を観念するに堪えないものがあるならば、あるいは帰命の想に依り、あるいは引接の想に依り、あるいは往生の想に依って、一心に称念すべきである。以上。人々の望みが不同であるから、いろいろの観を明かすのである。
●行くも
●問う。かの阿弥陀仏の真身は、凡夫の念力の及ぶところではないから、ただ仏の像を観ずべきであろう。どうして広大な仏身を観ずるのか。
●答える。《観経》に説かれている。
無量寿仏の
●明らかに知られる。初心のものも、またねがいのままに仏の真身を観ずることができるのである。
●問う。前に述べたように、阿弥陀仏の一身はそのまま一切仏の身であるというのは、どういう証拠があるのか。
●答える。天台大師がいわれる。
阿弥陀仏を念ずると、そのまま一切の仏を念ずることになる。故に《華厳経》に説かれている。
一切諸仏の御身は そのまま一仏の御身である
一つの心一つの智慧であり 十力・四無為もまたそのとおりである
●また《観仏三昧経》に説かれている。
もし、一仏をおもえば、そのままが一切の仏を見たてまつるのである。
●問う。諸仏の体性が無二であるように、念ずる者の功徳も、また差別はないとするのか。
●答える。等しくて差別はない。それ故《文殊般若経》の下巻に説かれている。
一仏を念ずる功徳は無量無辺であって、また無量の諸仏の功徳と同じである。思いはかられぬ仏のみ法も、等しくてへだてなく、みな一如にかなって
●問う。いろいろの相の功徳の中では肉髻の相と梵音声の相とを最も勝れたものとされる。それにいま白毫相を観ずることを多く勧めるのは、どういう証拠があるのか。
●答える。その証拠は非常に多い。略してその一・二を出そう。《観経》に説かれている。
無量寿仏を観じようとするものは、まずかの仏の一つの
●また、《観仏三昧経》に説かれている。
如来には無量の相好があって、一々の相の中には、八万四千のもろもろのこまかな相好がある。このような相好は、白毫相のわずかの功徳にも及ばない。それ故今、将来のもろもろの悪い衆生のために、白毫相から放つ大悲の光明が悪をほろぼす観法を説くのである。もし、邪見で極重の悪人があって、仏のすぐれた相貌を具えていられるのを観ずるということを聞いて、
●また説かれている。
乱れやすい心で仏像を観じても、このような無量の功徳を得る。ましてまた念を繋けて、み仏の眉間の白毫相の光を観察するものは、なおさらのことである。
●また説かれている。
釈迦牟尼仏は行者の前に現われて告げて言われる。「そなたは観仏三昧の力を修めた。それ故わたくしは涅槃相の力でそなたに
●ここに「上に説いたところ」というのは、仏の種々の境界を見たてまつることである。その他のいろいろの利益は、下の別時の行および利益門に至って知るべしである。
●問う。白毫の一相を観じても、また三昧と名づけるのか。
●答える。そのとおりである。それゆえ《観仏三昧経》の第九巻に説かれている。
もしよく心を繋けるならば、一つの毛孔を観じても、この人は念仏三昧を行ずるものと名づける。仏を念ずるのであるから、十方の諸仏はつねにその人の前に立って、その人のために正しいみ法を説かれている。この人は、よく三世のもろもろの如来の種を生ずるとする。まして仏の色身をつぶさに念ずるものはなおさらのことである。
●問う。どういうわけで、浄土の荘厳を観じないのか。
●答える。今は、広く行ずることに堪えられない者のために、ただ簡略な観法を勧めるのである。もしそれを観じようと思う者は、《観経》を読むがよい。まして、前に浄土の十種の楽事を明かしてある。それが浄土の荘厳である。
●問う。どういうわけで、観音・勢至を観じないのか。
●答える。簡略のゆえに述べなかったが、仏を念じ終わった後には、二菩薩を観ずべきである。あるいはその
【46】●第五に回向門を明かすと、次にいう五つの義を具えたのが真実の回向である。●一つには、過去・現在・未来の三世にわたる一切の善根を集める。《華厳経》の意 ●二つには、一切智を求める心と相応する。●三つには、この善根を一切衆生と共にする。●四つには、無上の
●これらの意義に依って、心に念じ、口にも言い、修めるところの功徳と、および三世一切の善根とを、その一 自他の別な苦あらゆる所のすべての衆生に回向して、平等に利益し、その二 罪を滅し善を生じて、共に極楽に生まれ、普賢の行と願とを速やかに円満し、自他ともに無常の
●問う。未来の善根は、まだ修めていないのに、どうして回向しようか。
●答える。《華厳経》に、第三回向の菩薩の修行相を説いていわれる。
過去・現在・未来の三世の善根をもって、執着することなく、相なく相を離れて、悉く回向する。
●これについて、《刊定記》に二つの解釈をしている。第一に、未来の善根は、まだ作っていないけれども、今もし願を
●問う。五種の回向の第二義を、どうして一切智と相応する心と名づけるのか。
●答える。《大智度論》にいう。
無常の菩提の
●問う。第三義と第四義とは、どういうわけで、必ずすべての衆生と共にし、および無上の菩提に回向するのか。
●答える。《六波羅蜜経》に説かれている。
どういうわけで、わずかな布施の功徳が多いのか。それは、方便力をもって、僅かな布施の功徳を回向して、「すべての衆生とともに、同じく無上正等菩提を証ろう」と発願するのである。そういうわけで、功徳が無量無辺であることは、ちょうど、わずかな雲が次第に大空に拡がってゆくようなものである。また、わずか一つの華、一つの果を施すこともまた同様である。《大論》の意もまたこれと同じ。
●また《宝積経》の第四十六巻に説かれている。
菩薩大士は、自分のもっているすでに発したあらゆるすぐれた善根を、ことごとく無上菩提に回向し、この善根を永遠に尽きることのないようにさせる。譬えば、僅かな水でも、大海の中に入ると、たとい劫末の大火の中にあっても尽きることがないようなものである。
●また《大荘厳論》の偈にいわれている。
施しをしてもりっぱな財物の報いを求めず また天人の世界に生まれようとも願わず
ひとえに無上の勝れた菩提を求めるならば すこしのものを施しても無量の福を受ける
●こういうわけであるから、諸の善根を悉く仏道に回向するのである。
●また《大智度論》にいわれている。
譬えば、ものおしみする人は、そうするわけなしには、ただの一銭も施さないで、おしみ集めて、ひたすら増すことを望むようなものである。菩薩もまた、このようである。福徳が沢山であっても、僅かであっても、それを他の事にはふり向けないで、ひたすら惜しみ集めて、一切智に向かわせるのである。
●問う。もし、そうであるならば、ただ菩提に回向すべきである。どういうわけで、更に極楽に往生するというのか。
●答える。菩提は果報であって、極楽は花報である。
●問う。発願と回向とは、どういう差別があるのか。
●答える。誓って求めるところを期待するのを名づけて願とする。そのなしたところの行業をふりむけて、
●問う。一切智と無上菩提と、この二つは差別がない。どうして二つに分けるのか。
●答える。《大智度論》に回向を説明する際、二つに分けている。それゆえ今も、これに
●問う。次に、どういうわけで、すべての事を観じて悉く空とするのか。
●答える。《大智度論》にいう。
心や相に執着している菩薩が修めた福徳の失い易いことは、草から生じた火が消し易いようなものである。もし実相を体得した菩薩が大悲心で行なうもろもろの行は、これは破り難いものである。それは、ちょうど水の中の火は消すことができぬようなものである。
●問う。もしそうならば、「空であって、とらえるところはない」と唱えていうべきであろう。どういうわけで今「法界に回施する」というのか。
●答える。道理としては、実に、そうあるべきである。けれども、今はこの国の風俗に順うのであるから「法界」というのであって、その道理を違うことはない。そういうわけは、法界とはすなわち本来、
●問う。最後に、どういうつもりで「大菩提に回向する」と唱えいうのか。
●答える。これは一切智と相応させるのである。これもまた、この国の風習に順って、これを最後に置くのである。一切智というのは、すなわち菩提のことである。前に出した《大智度論》の文のとおりである。
●問う。有相の回向には利益がないのか。
●答える。前にしばしば論じたとおりである。勝劣はあるけれども、それでも大きい利益がある。●《大智度論》の第七巻にいうとおりである。
小さい因で大きい果を得、小さい縁で大きい報いを得ることがある。仏道を求めて一偈でも讃え、一たびも南無仏と称え、一
●この文は、深く妙で、
●龍樹菩薩に帰命したてまつる わたしの心の願いを知ろしめたまえ
【47】●大文第五に助念方法とは、およそ、一つの目の網では、鳥を捕えることはできないように、いろいろの方法を用いて観念を助けて極楽往生の大慈が成就するのである。今、七項目を設けて、簡略にその方法を示そう。第一には方処供具、第二には修行相貌、第三には対治懈怠、第四には止悪修善、第五には懺悔衆罪、第六には対治魔事、第七には総結行要である。
【48】●第一に方処供具とは、まず心も身体もともに浄め、どこか閑静な場所をえらび、分に応じて華や香その他の供物を調えるがよい。●もし華や香などのものに事欠くようなことがあるならば、ただひたすら仏の功徳、威神力を念ずるがよい。●もし、まのあたり仏像に
【49】●第二に修行相貌とは、《証大乗論》などに依って四種の相を用いる。
●一つには長時修。●《西方要決》にいわれている。
初発心より、仏果を得るまで、つねに清浄の因を行じて最後まで退かない。
●善導禅師がいわれている。
命終わるまで誓って中止しない。
●二つには慇重修。これは極楽の仏・法・僧の三宝を心にいつも憶念して、もっぱら尊重を起こすのである。●《西方要決》にいわれている。
行・住・坐・臥に、西方に背を向けず、
●善導禅師がいわれている。
西方に向かうのが、もっとも勝れている。ちょうど樹が倒れる場合には、かならず、さきよりその傾いている方向に随うようなものである。故に、どうしても西方に向かうことができないような妨げのある場合には、ただ西方に向かう思いをなすだけでもよい。
●三つには無間修。●《西方要決》にいわれている。
すなわち常に仏を念じて往生の想いをする。一切の時において心にいつも想いめぐらせ。譬えば、人あって他人にさらわれ、いやしい身となってつぶさに苦難を受ける。そこで忽ちに父母のことを思い、逃れて故郷に帰りたいと思うが、旅の支度がととのわないで、まだ他郷にいる。そうして日夜にあれこれと思うて苦しみは忍ぶことができず、しばらくも両親を忘れて
●善導禅師がいわれている。
心々が相続して、他の行をもってはさまず、また、貪欲・瞋恚などをもってはさまないようにする。もしこれを犯せば、すぐに懺悔して、念を隔てず、時を隔てず、日をも隔てずに、つねに清浄ならしめよ。
●私、源信がいう。昼夜六時あるいは三時二時に、かならず方法を
●四つには無余修。●《西方要決》にいわれている。
専ら極楽を願って阿弥陀仏を礼拝・念想する。すべてその他のもろもろの行業はまじえて起こしてはならない。なすところの行業は、日ごとに、念仏読経を修して、他の
●善導禅師がいわれている。
専ら阿弥陀仏の名号を称え、かの仏やすべての聖衆がたを専ら念じ、専ら想い、専ら礼し、専ら讃えて、他の行をまじえてはならぬ。
●問う。その他の事業には、どういう
●答える。《宝積経》の第九十二巻に説かれている。
もし菩薩があって、世間の仕事を
●また、同じ経の偈に説かれている。
戯論・諍論の場所は いろいろの煩悩を起こすことが多い
智慧ある人は遠く離れて 百由旬を隔てるがよい
●その他の方法については、詳しくは《止観》に示すとおりである。
●問う。もしそうならば、在家の人は念仏の行に堪え難いであろう。
●答える。もし世俗の人が仕事を捨て難いならば、ただいつも
譬えば、龍が行くときは、雲が龍につき随うように、心がもし西に逝けば、業もまたこれに随うのである。
●問う。修行には、総じて四種の
●答える。《観経》に説かれている。
もし人々の中で、かの国に生まれようと願う者は、三種の心を
●善導禅師がいわれている。
一つには至誠心。礼拝・讃嘆・念観の三つの行業は、かならず真実をもってするからである。二つには深心。わが身は煩悩を具えている凡夫であり、善根は少なく、三界にさまよって、迷いの境界を出ることができないと信知し、いま弥陀の本願は、名号を称えること、わずか十声・一声などの者に至るまで、まちがいなく往生を得させてくださると信知して、一声の称名に至るまで疑いの心がないからである。三つには回向発願心。自分の修めたすべての善根を、ことごとく皆ふりむけて、往生を願うからである。この三心を具えて、まちがいなく往生を得るのである。もし一心を欠いたならば、往生ができない。この文は抜き書きしたのである。《観経》の文は、上品上生に出ているけれども、善導禅師の解釈のようであると、その道理は九品全体に通ずる。他師たちの解釈は、今詳しく述べることができない。
●《鼓音声経》に説かれている。
もし、よく深く信じて孤疑のないものは、必ず阿弥陀仏の国に往生することができる。
●《涅槃経》に説かれている。
無上菩提を得るのは信心を因とする。この菩提に至る因は、また無量であるけれども、信心をいえば、その中にすべてを摂め尽くすのである。
●これらの文で、仏道を修めるには、信心を首とすることが明らかに知れた。
●また善導和尚がいう。
もし観想に入ろうとする時、および眠ろうとする時には、まさにこの願を起こすがよい。もしは坐り、もしは立って、一心に合掌し、正しく
●問う。行者が、平生に往生を心にかけて念ずる
●答える。前に引いた《西方要決》の中に有る本国に帰ろうと想うという
●また《安楽集》にいわれている。
たとえば、人が広々とした所において、恐ろしい賊が剣を抜き、勇をふるってまっすぐに襲い来り、殺そうとするのに
●元暁師も、これと同じことをいっている。
●問う。念仏三昧というのは、ただ心に念ずるだけのものとするのか、また、口にも唱えるものとするのか。
●答える。《止観》の第二巻にいうとおりである。
あるいは唱と念とともに行ない、あるいは先に念じて後に唱え、あるいは先に唱えて後に念じ、唱と念とがあい継いで
●また懐感禅師がいわれている。
《観経》に説かれている。「この人は、臨終の苦しみに逼められて仏を念ずるいとまがない。そこで善知識は、口に阿弥陀仏のみ名を称えよと、教え勧める。このようにして、その人は心から声を続けて称名する。」この経文をみると、苦悩に逼められて、
【50】●第三に対治懈怠とは、行者は、つねに勇み立って修行に進むことができぬ。あるいは心が朦朧となり、あるいは心がくじける。そういう時には、いろいろの勝れた事に寄せて、自分の心を励ますべきである。
●あるいは三悪道の苦しい果報を浄土の功徳に比べて、このような
●あるいは浄土に往生する人々のことを思い浮かべて、このような念を起こすがよい。「あらゆる世界のもろもろの人々は、時々刻々に安楽国に往生している。かの人々は堅固な志の者である。自分もやはりそうである。自分でわが身を軽んじて、くじけてはならない。」往生する人については、下の利益門や料簡門に述べるとおりである。
●あるいは仏のすぐれた功徳を知るべきである。
●問う。どういう功徳であるか。
●答える。それは無辺であるが、略してその要を挙げよう。
●第一には、仏の四十八願を思うがよい。●《無量清浄平等覚経に説かれている。
阿弥陀仏は、観世音菩薩や大勢至菩薩とともに、大願の船に乗って
これは、往き易いことを示したのである。●《心地観経》の偈に説かれている。
衆生は生死の海に沈み 五悪趣を経めぐって出る時がない
仏はいつもすぐれた
●そこで次のように
●第二には、名号の功徳を思うがよい。●《維摩経》に説かれているとおりである。
諸仏の
●《西方要決》にいわれている。
《維摩経》に説かれている。「仏の十号の中、初めの三つのみ名を、仏がもし広く説くならば、阿難が一劫かかっても、これを領受することはできないであろう。」《成実論》に仏の
●《華厳経》の偈に説かれている。
もしもろもろの人々があって まだ菩提心を
一たび仏の
●そこで次のように
●第三には、仏の相好の功徳を思うがよい。●《六波羅蜜経》に説かれている。
諸の世間で、あらゆる過去・未来・現在の三世のすべての衆生、まだ学ぶべき人も学ぶべきもののなくなった聖者および縁覚など、このような人々のもっている無量無辺の功徳は、仏の一すじの毛の功徳と比べると、百千万分の一にも及ばない。このような一々の毛端は、みな仏の無量の功徳から生じたものである。すべての毛端のあらゆる功徳を集めて、ともに一髪の功徳を成す。このような仏の髪は八万四千あって、一々の髪の中には、それぞれ上に述べたような功徳を具えている。このように集まって、ともに一つの随好の功徳を成し、そのすべての随好の功徳を集めて、ともに一つの相の功徳を成す。すべての相の功徳が集まって百千倍に至り、眉間の白毫相の功徳を成す。その相は円満で、渦巻き、右まわりして、頗胝迦宝 (水精) のようで、浄く鮮やかである。ちょうど夜の闇に輝く明星のようである。白毫相は、これをのばすと、上は色界の阿迦膩天 (色究竟天) にまで至り、これを巻くと、もとのようにまた白毫相となって、眉間に
●また《宝積経》には無数の比較が説かれている。学ぼうと思う人は、よく調べるがよい。●また、《大集念仏三昧経》の第五巻に説かれている。
このような世界および十方の無量無辺のもろもろの世界の中のあらゆる衆生が、たとい悉くみな同時に成仏して、その諸の仏たちが無量劫のあいだに、皆また仏の一すじの毛の功徳を
●《華厳経》の偈に説かれている。
清浄なる慈悲の功徳は数限りなく あい共に仏の一つの妙なる相となる
一々の諸相はすべてこのとおりであり それゆえ見るものは厭くことがない
●そこで次のように
●第四には、光明の不思議なはたらきを思うがよい。●《平等覚経》に説かれている。
無量清浄仏「無量清浄仏」というのは、阿弥陀仏のことである。の光明は、最尊第一で
●《無量寿経》の意も、これと同じで、次のように説かれている。
無量寿仏の不思議な光明は最勝第一であって、諸仏の光明の到底及ぶところではない。ある仏の光明は百の世界を照らし、ある仏の光明は千の世界を照らすというふうに、諸仏の光明はさまざまであって、その究極をいえば、東方の恒沙の数ほどの国々を照らすのである。南・西・北・四維・上下の各方もまた同様である。それゆえ、この仏を、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏 玄一師がいう。「ともに等しいものがないからである。」炎王光仏 玄一師がいう。「最も勝れて自在であるから。」清浄光仏 玄一師がいう。「三垢 (貪欲・瞋恚・愚痴) を滅するから。」憬興師がいう。「貪る心の無い善根より生ずるから。」歓喜光仏 玄一師がいう。「この光に遇う者は、意が悦ばしくなるから。」憬興師がいう。「瞋りの心の無いことより生ずるから。」智慧光仏 玄一師がいう。「智慧より発るものであるから。」憬興師がいう。「愚痴の心の無いことより生ずるから。」不断光仏 玄一師がいう。「たえず相続するから。」難思光仏・無称光仏 玄一師がいう。「仏の得を称め尽くすことができないからから。」その他の仏名の意義は知るべきである。煩わしいから記さぬ。超日月光仏と申しあげる。もし三塗の苦悩の中にあって、この光明を拝むなら、ふたたび苦しみ悩むことなく、命終の後には、ことごとく迷いを離れることができよう。ひとりわたしが、今その光明をたたえるばかりでなく、すべての仏たちも、みなともに讃嘆されるのである。もし、その光明の量り知られない功徳を聞いて、日夜それをほめたたえ、
●《比喩経》の第三巻に、釈迦世尊の光明の相を明らかにしていう。
釈尊が入滅せられて百年の後、阿育王がいた。国内の民が仏の遺された経文を誦んでいると、阿育王は、
●《華厳経》の偈に説かれている。
一々の毛孔から雲のような光を現わし 虚空に遍くひろがって大音を
あらゆるくらやみの所を照らし尽くして 地獄の衆苦もみなほろぼしたもう
●そこで、次のように
●第五には、何者にも
風災劫の起こる時には、世に大風が吹く。その風を僧伽多と名づける。その風は、この三千大千世界の須弥山・鉄囲山、および四大洲、八万の小洲、大山・大海を吹き挙げること、その高さ百由旬、さては無量百千由旬に及び、挙げおわれば粉々に砕いて塵としてしまう。また、上は夜摩天宮、さては遍浄天のあらゆる宮殿を撃ち壊し、それらもまたみな散り滅してしまう。ところで、この風で如来の衣を吹いても、一すじの毛の端をさえ動かすことはできない。まして、衣の一角、さらには衣全体をどうして動かしえようか。
●《十住毘婆娑論》にいわれている。
諸仏の不可思議なことは、喩をかって知るべきである。たとい、あらゆる十方世界の衆生に皆、力をもたせ、もし、一人の悪魔が非常な勢力があるとして、かの十方の一々の衆生の力をこの悪魔のようにならせ、ともどもに、仏を害おうと思っても、仏の一すじの毛をさえ動かすことはできない。まして、仏を害するものが、どうしてあろうか。
●《十住毘婆娑論》の偈にいわれている。
もしもろもろの世間の中で 仏を害いたてまつろうと
この事はすべて成功しない 不殺生の行を成就せられているからである
●そこで次のように
●第六には、飛行することが自在であることを思うがよい。
●《十住毘婆娑論》にいわれている。
仏は、空中で、足を挙げるも下すも、行くも
●《観仏三昧経》に説かれている。
空中で、み足を挙げて行きたもう時、足の下の千輻輪の相は、みな八万四千の蓮華を雨ふらす。このような多くの蓮華に、微塵の数ほどの仏がおられて、また空中を歩まれる。以上。抜き書きした。
●また、
空中を踏んで行きたもうとき、千輻輪相は、地上に現われる。快よい妙香を放つ紅蓮華は、おのずから湧き出て如来のみ足を承ける。もし、畜生界のあらゆる生物が、如来のみ足に触れられたら、七夜を満ちるまで諸の快楽を受け、命が尽きた後には、善趣の楽しい世界に往き生まれる。《宝積経》に説かれている。
●もし、四十里の
●《華厳経》の慧林菩薩が仏を讃ずる偈に説かれている。
自在の神通力は 無量で思い
来りもせずまた去りもせずに 法を説いて衆生を救いたもう
●そこで次のように
●第七には、神通が無碍であることを思うがよい。●《十住毘婆娑論》にいわれている。
仏は、よく恒河の沙の数ほどの世界を微塵のように粉々に砕いて、また、よく元通りに合わせたもう。あるいはまた、よく無量無辺阿僧祇の世界を、みな金や銀などに変え、またよく恒河の沙の数ほどの世界の大海の水を、みな乳酥などに変えたもう。
●《浄名経》に菩薩の不思議解脱を説いていわれている。
この三千大千世界を陶工の用いる
●菩薩の力でさえも、このようである。まして、仏の力は、いうまでもない。それゆえ《度諸仏境界経》に説かれている。
よく十方の世界を一つの毛孔に入れ、中略 一つの微塵の中に、よく無量無数の説くこともできぬほどの世界を現わされても、あらゆる衆生は、すこしも窮屈なことはない。また、無量無数の説くこともできぬほどの永劫の間に起こる
●《華厳経》の真実幢菩薩の偈に説かれている。
すべての如来は 神通力が自在にまします
すべての過去・現在・未来の中に これを求めても得ることができぬ
●そこで次のように
●第八には、機類に応じてすがたを現わされることを思うがよい。●《十住毘婆娑論》に、
仏は、一念の中に、十方の無量無辺の恒河沙の数ほどの世界で、無量の仏身を現わしたもう。その一々の化現せられた仏も、またよくいろいろの仏の事を
といわれている。以上に述べた四つの事がらは、神境通に関するものである。
●《度諸仏境界経》に説かれている。
如来の現わしたもうことは、特に心を用いず、特に考えたわけでもない。衆生の根性にしたがって、自然と違った見方をするのである。ちょうど、十五日の夜、この閻浮提の人々は、それぞれ、月がその上に現われていると見るけれども、月はなにも、特に心を用いて、その上に現われたのではないようなものである。
●《華厳経》の偈に説かれている。
如来の広大な御身は あらゆる世界にあまねくして
この座を離れることなく すべての所に満ちたもう
●また説かれている。
智慧甚深の海のような功徳で あまねく十方無量の国に現われたまい
諸の衆生の見るところにしたがって 光明遍く照らして
●そこで次のように
●第九には、明らかにすべてを見通す
大力の声聞は、明らかに見通す眼をもって、よく小千国土を見、また、その中の衆生の生まれる時と死ぬ時とを見る。小力の縁覚は、十の小千国土を見、その中の衆生の生まれる時と死ぬ時とを見る。中力の縁覚は、百の小千国土を見、その中の衆生がどこに生まれて、どこに死んで行くかを見るのである。諸仏がたは、無量無辺の不可思議の世界を見、またその中の衆生の生まれる時と死ぬ時とを見られるのである。
●《華厳経》の偈に説かれている。
み仏の眼は広大で
その中の衆生は数限りがないが 大神通を現わしてすべてを調え帰伏せしめらる
●そこで次のように
●第十には、声を聞きわけることが自在であるのを思うがよい。●《十住毘婆娑論》にいわれている。
たとい恒河の沙の数ほどの三千大千世界の人々が同時に言葉を出し、また同時に百千種の音楽を奏でるのに、それが遠くても近くても、
●《華厳経》の文殊菩薩の偈に説かれている。
すべての世間の中の あらゆる諸の
仏智はみな一々知りたもうが また分別を用いたもうことはない
●そこで次のように
●第十一には、他の心を知る智慧を思うがよい。●《十住毘婆娑論》にいわれている。
仏は、よく無量無辺の世界の現にいる衆生の心、および心に考えているいろいろの浄・不浄のことなどを知りたまい、またよく無色界の衆生のいろいろの心をも知りたもうのである。
●《華厳経》文殊菩薩の偈に説かれている。
すべての衆生の心が 普く三世にわたるのを
如来はよく一念に みな悉く知りたもう
●そこで次のように
●第十二には、過去世のことを思いのままに知る智慧を思うがよい。●《十住毘婆娑論》にいわれている。
仏がもし、ご自身をはじめ、あらゆる衆生の無量無辺の過去世のすべてのことを念じようと思われるならば、みな悉く知り、恒河の沙の数ほどの限りない昔の事でも、知りたまわぬことはない。この人は何処に生まれたか、姓名・貴賎、どのような
●同じ論の偈にいわれている。
前世の事を知りたもう智慧は量りなく 天眼で見そなわしたもうことも
すべての人も天人も そのきわまりを知りうるものはない
●そこで次のように
●第十三には、智慧の無碍自在であることを思うがよい。●《宝積経》の第三十七巻に説かれている。
たとい、人あって恒河沙の数ほどの世界中にあるすべての草木を取り、悉く焼いて墨として、他方の恒河沙の数ほどの世界の大海の中に投げこんで置き、百千年の間これを
●《六波羅蜜経》に説かれている。
●このような須弥四州および諸の山を紙とし、八大海の水をその墨とし、すべての草木をその筆として、すべての人や天人が一劫の間に書写したとしても、舎利弗の得た智慧に比べると、その十六分の一にも及ばない。また、この三千大千世界の中の衆生が持っている智慧を、舎利弗とひとしくして異なることがないようにさせたとして、菩薩が通達した布施の行の持っている智慧は、かのあらゆる衆生の智慧に百倍も過ぎている。また、この三千大千世界のあらゆる衆生にみな布施の行の智慧を具えさせたとしても、ひとりの菩薩の得た持戒の行の智慧には及ばない。このようにして、智慧の行に至るまで順次にまた同様である。また、この三千大千世界のあらゆる衆生に、みな六波羅蜜の智慧を具えさせたとしても、ひとりの初地の菩薩の智慧には及ばない。このように十地まで順次にすぐれていることは、同様である。また、この十地の菩薩の智慧を、弥勒よ、そなたの一生補処の菩薩の智慧と比べるならば、そなたの百千分の一にも及ばない。ところで、この三千大千世界のあらゆる衆生のもっている智慧を、みな弥勒と等しくして異なることがないようにさせるとしても、このような菩薩が
●《宝積経》に説かれている。
たとい、十方の無量無辺のすべての世界のあらゆる衆生に、みな悉く一生補処の菩薩の智慧を備えさせたとしても、如来の十力の一つである処非処智と比較しようとすれば、その百千万分の一にも及ばない。中略 烏波尼沙陀分の一にも及ばない。さては、数えることも譬えることも及び得ないところである。
●《華厳経》の偈に説かれている。
如来の甚深の智慧は 普ねくすべての世界に入り
よく三世にわたって
●同じ経の普明智菩薩が仏を讃えた偈に説かれている。
すべて諸の法の中で み仏の法門は
●そこで次のように念うべきである。「いま阿弥陀如来は、わたしの身口意の三業を明らかに知ろしめすことであろう。願わくは、み仏のようにこの上もなく浄らかな智慧の眼を得たいものである。」
●第十四には、能く心を調伏したもう徳を思うがよい。●《十住毘婆娑論》にいわれている。
諸仏は、禅定に入っても、禅定に入らなくても、心を一つの
●そこで次のように念うべきである。「願わくは、わたしに仏覚三昧を得させてください。」
●第十五には、常に安慧にあることを思うがよい。●《十住毘婆娑論》にいわれている。
諸仏の心は安穏であって、常に
●《十住毘婆娑論》の偈にいわれている。
み仏の念は大海のように 湛然として安らかであって
世のいかなる
●そこで、次のように念うべきである。「願わくは、み仏、わたくしの
●第十六には、衆生を悲念したもうことを思うがよい。●《大般若経》に説かれている。
十方の世界には、一人として、如来の大悲の光が、よく照らしたまわぬものはない。
●《宝積経》に説かれている。
たとい、恒河の沙の数ほどの諸仏の世界を過ぎたところに、ただひとりの人がいて、その人が仏の教化の限りであったとしても、そのとき如来は、御自身でその場所に往かれ、その人のために法を説いて悟りに入らせたもう。
●また、同じ経の偈に説かれている。
ひとりの人を救うがため はてもない永劫の時をかけて
その人を済度したもう 大悲心はこのようなものである
●《華厳経》の文殊菩薩が仏を讃えられる偈に説かれている。
一々の地獄の中で 無量永劫の時を経ても
衆生を済度するために よくこの苦しみを忍びたもう
●《涅槃経》の偈に説かれている。
すべての衆生が受けるいろいろの苦しみを 如来は一人の苦しみとする 中略
衆生は仏のよく救いたもうことを知らない それゆえ仏と法と僧の三宝を謗る
●《大智度論》にいわれている。
仏は仏眼で、毎日毎夜それぞれ三時に、すべての衆生を観そなわし、だれか救うべき者があれば、その時を失なうことはない。
●ある論にいわれている。
譬えば、魚の母がその卵のことを念じないならば、卵は爛れこわれるように、衆生の場合も同様である。仏が、もし衆生を念じたまわないならば、その善根は、すぐさまこわれてしまうであろう。
●《荘厳論》の偈にいわれている。
菩薩が衆生を念じ これを愛したもうことは骨髄に徹り
いつも利益しようと
●これらの
父母の間に生まれた子が 生まれながらの
親の慈悲心があついので 見捨てることなく養い育てる
子は父母を見なくても 父母はいつも子を見るように
諸仏が衆生を
衆生は仏を見たてまつらぬけれども 実は諸仏の前に在る
●そこで次のように念うべきである。「阿弥陀如来は、常にわが身を照らし、わが善根を護念し、わが機縁を観察したもう。わたしがもし、機縁が熟するならば、時を失わずに、み仏に引接せられるであろう。」
●第十七には、無碍弁説を思うがよい。●《十住毘婆娑論》にいわれている。
もし三千大千世界のあらゆる四天下に充満している微塵の数ほどの三千大千世界の衆生が、みな舎利弗のように、また縁覚のように、皆悉く智慧楽説を成就し、その寿命も上に述べた微塵の数ほどの大劫であるとして、この諸の人たちが、四念処の義について、その寿命を尽くすまで、如来に難問したてまつっても、如来は、かえってその四念処の義で、その問に答えたもうのに、言葉も意味も重ならず、その楽説が窮まりないであろう。
●また、いわれている。
仏の説きたもうことには皆、利益があって、まったく空言はない。これもまた、希なことである。中略 もし一切の衆生の智慧や勢力が、みな縁覚のようであるとして、この諸の衆生が、もし仏の思し召しを承けないで、一人を済度しようと思っても、そういう事はできないのである。もし、この諸の人が法を説く時は、無色界の煩悩の、ほんのすこしでも、断ちきることはできない。もし仏が衆生を済度したいと思し召して、説きたもうことがあると、外道・邪見・諸龍・夜叉など、さてはその他の仏語を理解しない者にまでも、みな悉く理解させたまい、これらの者もまた、無量の衆生を次々に教化する。中略 こういうわけで、仏を最上の導師と名づける。
●《十住毘婆娑論》の偈にいわれている。
四つの問答において 超絶してたぐいがない
衆生の尋ねる多くの問難には ことごとく皆たやすく答えたもう
初めも中ほども終りも 説きたもうすべてのことばは
決してむなしからず 常に大きな果報がある
●《華厳経》の偈に説かれている。
諸仏の広大なみ声は あらゆる世界に聞こえぬところはない
菩薩はよくさとって よく音声海に入る
●《維摩経》の偈にいわれている。
仏は一つの声で法を説きたもうのに 衆生は機類に応じて
みな世尊はその語を同じうしたもうとおもう これが仏だけの持たれる不思議な徳である
●また《比喩経》の第三巻に説かれている。
阿育王は、その心に仏を信じなかった。その時、海辺に随という鳥がいた。その声は非常に美しく調和し、おぼろげながら仏の
●そこで次のように念うべきである。「わたしはいつの時にか、み仏の
●第十八には、仏の法身を観ずることについて思うがよい。●文殊師利菩薩の仰せられるとおりである。
わたしが如来を観じたてまつるのに、如来は真如の