【1】 そもそも、極楽に往生するための教行は、濁りはてたこの末の世の目とも足ともなるものである。僧も俗も、身分の高いものも低いものも、誰かこれに従わぬものがあろうか。しかし、顕教や密教のみのりはその説くところがさまざまであり、事や理に依る業因は、その行が多い。それらは智慧がさとく、努力を怠らぬ人は、むずかしいと思わないであろうが、私のような愚かなものは、どうして進んで修行することができようか。こういうわけであるから、念仏の一門に依って、少しばかり経論の肝要な文を集めた。これをひもといて、念仏の行法を修めると、覚り易く行じ易いことであろう。

 この書は総じて十門から成り、三巻に分けてある。第一には厭離穢土、第二には欣求浄土、第三には極楽証拠、第四には正修念仏、第五には助念方法、第六には別時念仏、第七には念仏利益、第八には念仏証拠、第九には往生諸業、第十には問答料簡である。これを手元に置いて忘れないように備えよう。

【2】 大文第一に、厭離穢土というのは、ぜんたい迷いの三界は安らかなことがなく、最も厭い離れるべきである。今、その有様を明かすと、総じて七種がある。一つには地獄、二つには餓鬼、三つには畜生、四つには阿修羅、五つには人、六つのは天、七つには総結である。

【3】 第一には地獄、これがまた八種に分かれる。一つには等活、二つには黒縄、三つには衆合、四つには叫喚、五つには大叫喚、六つには焦熱、七つには大焦熱、八つには無間である。

【4】 はじめに等活地獄というのは、この世界の下、一千由旬の所にあって、広さは一万由旬である。ここにいる罪人は、互いに絶えず相手を傷つけようとする心をいだいている。もしふと相手に出会うと、ちょうど猟師が鹿を見つけたようなもので、それぞれ鉄の爪で、互いに掴み裂いて、血も肉もすっかり無くなってしまい、ただ骨だけが残っているという有様である。あるいは地獄の鬼が手に手に鉄の杖や鉄の棒を取って、頭から足まで、くまなく皆打ち突くと、罪人の身体からだは破れ砕けて、まるで、ばらばらに散り去る砂のようになってしまう。あるいは、非常に鋭い刀で、ずたずたに肉を切りさくことは、ちょうど料理人が魚肉を調理するようである。ところが、涼しい風が吹いてくると、それにつれて、もとのように生きかえり、あっという間に起きあがって、前のように苦を受ける。あるいは、こう述べてある。空中に声がして「この多くの者ども、もとのように等しくきかえれ」というとも説かれてあるし、あるいは地獄の鬼が鉄のさすまたで地面を打って「活きかえれ、活きかえれ」と唱えるとも説かれている。このような苦しみは、詳しく述べることができない。

 人間世界の五十年を四天王天の一昼夜として、四天王天の寿命は五百年であるが、その四天王天の寿命を、この等活地獄の一昼夜として、この地獄の罪人の寿命は五百年である。殺生した者がこの地獄に堕ちる。《優婆塞戒経》には、初天の一年を初地獄の一昼夜としている。以下もこれに準ずる。

 この地獄の四門の外に、また十六の付属した別処の地獄がある。一つには屎泥処。ここには非常に熱い泥のように溶けた糞便があって、その味は最も苦い。金剛のように堅い嘴のある虫が、その中にち満ちている。罪人が中にいて、この熱糞を食べると、多くの虫が集まって、この罪人を一斉に争って食べる。皮を破り、肉を噛み、骨を砕いて髄を吸うのである。むかし鹿や鳥を殺した者が、この中に堕ちる。

 二つには刀輪処。ここには鉄壁が周囲を取り巻いて、その高さは十由旬である。猛火が盛んに燃えて、絶えずこの中に満ちている。人間世界の火は、これに比べると、まるで雪のようなものである。この猛火が、ほんの僅かでも罪人の身体に触れると、芥子のようにこまかく身体が砕けてしまう。また熱鉄が豪雨のように降ってくる。また刀林があって、その刃は非常に鋭い。また両刃の剣があって、雨のように降ってくる。このように多くの苦しみがかわるがわる来て、とても辛抱することができない。むかし物を貪って生物を殺した者が、この中に堕ちる。

 三つには瓮熱処。ここでは、罪人を捕えて、鉄のかめの中に入れ、豆のようにり尽くす。昔、生物を殺して煮て食べた者が、この中に堕ちる。

 四つには多苦処。この地獄には万億種の無量の苦しみがあって詳しく説くことができない。むかし縄で人を縛り、杖で人を打ち、人を遠い旅路に追い立て、嶮しいところから人を突き落とし、煙をくすべて人を悩まし、子供をおどしたりする、このような種々に人を悩ました者が、皆この中に堕ちる。

 五つには闇冥処。罪人は暗黒の所にいて、絶えず闇火に焼かれる。烈しい猛風が、金剛山を吹いて、ちょうど砂を散らすように磨り合わせ砕く。罪人は鋭い刀で切りかれるように、この熱風に吹かれる。むかし羊の口と鼻とを塞ぎ、二枚の瓦の中に亀を置いて押し殺した者が、この中に堕ちる。

 六つには不喜処。ここには大火炎が昼夜に燃えている。熱い炎を吐く嘴をもつ鳥や犬・狐がいて、その声は非常に気味悪く、はなはだ恐ろしい。絶えずこれらの動物が来て罪人を噛みくらうので、骨や肉が散乱している。金剛の嘴をもった虫が骨の中を動きまわって、その髄を食べる。むかし貝を吹き、鼓を打ち、おそろしい声を出して、鳥獣を殺した者が、この中に堕ちる。

 七つには極苦処。ここの罪人は、嶮しい崖の下にいて、絶えず鉄火に焼かれる。むかし、ほしいままに生物を殺した者が、この中に堕ちるのである。

【5】 二つに、黒縄地獄は等活地獄の下にあって、広さは前と同じである。地獄の鬼が罪人を捕えて熱鉄の地に臥せさせ、熱鉄の縄で縦横に身体に墨縄を引き、熱鉄の斧で、この墨縄の通りに身体を切り割る。あるいは鋸で引き切り、あるいは刀で切り刻み、幾百千の肉片として処々に散らしておく。また、熱鉄の縄を懸けて、無数に交錯させ横たわらせてある。罪人を追い立てて、その中に入らせると、悪風が激しく吹いて、罪人の身に絡まりあい、肉を焼き骨を焦して、その苦しみは極まりがない。

 また左右に大きな鉄山がある。山の上には、それぞれ鉄の幢を建て、その先に鉄縄を張り、縄の下には熱い釜が沢山ある。罪人を追い立てて、この鉄山を背負わせ、縄の上を綱渡りさせ、はるか下にある鉄の釜に落して、罪人を砕き煮ること極まりがない。

 等活地獄と十六の付属した別の地獄のあらゆる苦しみを十倍して重く受けるのである。地獄の鬼が罪人を責めていう。

「心は第一のあだである この怨が最も悪質である

この怨がよく人を縛って 閻魔王の所に送りとどける

汝だけが ひとり地獄の火に焼かれ 悪業のために食われる

妻子兄弟などの親族も救うことができない」

と。後の五つの地獄が、それぞれその前のすべての地獄のあらゆる苦しみを十倍して重く受けることは、これを例として知るべきである。

 人間世界の百年を忉利天の一昼夜として、忉利天の寿命は千年である。その忉利天の寿命を黒縄地獄の一昼夜として、この地獄の寿命は千年である。生物を殺し、盗みをした者が、この地獄に堕ちる。

 この地獄にも付属の別処がある。等喚受苦処と名づける。ここでは高さ無量由旬の嶮しい崖に罪人を挙げておき、熱い炎に包まれた黒い縄で縛り、繋ぎ終わって、その後、罪人を推しやって、鋭い鉄の刀が立っている熱地の上に突き落とす。罪人は、鉄炎の牙のある犬に噛み殺されて食べられ、身体のすべてはばらばらに分離してしまう。大声を上げて吼えるように叫んでも、誰も救ってくれる者はない。むかし法を説くとき、まりがった見解の論によって、すべてが真実でなく、あらゆる事をかえりみないで、崖から身を投げて自殺した者が、この中に堕ちるのである。

 また別処がある。畏鷲処と名づける。ここでは、地獄の鬼が、怒りに任せて激しく杖で罪人を打ち、昼も夜も、絶えず走りつづけ、手には火炎に包まれた鉄刀を持ち、弓を引き矢をつがえ、罪人の後につきしたがって走り追い、切ったり打ったり射たりする。むかし物を貪るために、人を殺したり人を縛ったりして食物を奪った者が、この中に堕ちるのである。

【6】 三つに衆合地獄は黒縄地獄の下にあって、広さは同じである。この地獄には、鉄山が多くあって、それぞれ二つずつ向かいあっている。牛や馬の頭をした多くの地獄の鬼が、手に手に責め道具を持って、罪人を追いたてて山の間に入らせる。この時、両方の山が罪人に迫ってきて押し合わせると、罪人の身体は砕け折れ、血は流れて地面に満ちる。あるいは鉄山があって空から落ちて罪人を打つと、砕けてちょうど沙のような有様となる。あるいは罪人を石の上に置き、岩で罪人を押しつぶし、あるいは鉄の臼に入れ、鉄の杵でく。極めて恐ろしい地獄の鬼や、熱鉄の獅子・虎・狼などのいろいろな獣や烏・鷲などの鳥が、先を争ってやって来て罪人を噛みくらう。

 また、鉄炎の嘴のある鷲が、罪人のはらわたを取り出して、機の頂上に掛けて置いて、これを食う。この地獄には大きな河があり、河の中には鉄の鉤があって、皆ことごとく火と燃える。地獄の鬼は罪人を捕え、その河の中に投げて、鉄の鉤の上にとす。また、その河の中に熱せられた赤銅の汁があって、投げ込まれた罪人を漂わせる。日の初めて出る時のように身体の浮いているものもあるし、重い石のように沈んでいる者もある。手を挙げ、天に向かって叫び泣いている者もあるし、共に身体を近づけあって泣き叫んでいる者もある。長い間、非常な苦しみを受けているのに、頼りとする者もなければ、救い手もない。

 また、地獄の鬼が罪人を捕えて刀葉の林に置く。かの木の頂上を見ると、みめ麗しく、きらびやかに装った女がいる。罪人は、この女のいる事に気がついて、すぐさま木に上ると、木の葉は刀のように罪人の身体の肉をき、次にその筋を割く。こうして身体のすべての場所を、ずたずたに切り割いて、やっと木の上に登ることができて、かの女を求めると、もはや地上にいて、媚を湛え、欲情に満ちた眼差しで、罪人を見あげながら、こういう言葉を投げかける。「わたしはあなたを恋しさのあまり、ここに来ましたのよ。なぜ、今あなたはわたしの傍に来て下さいませんの。どうしてわたしを抱いて下さらないの」と。罪人は、この女を認めるがはやいか、欲情は火と燃えあがり、女の所へと次第に、ふたたび降りて行くと、刀葉は上向きになって、剃刀かみそりのように鋭い。罪人は前のように、身体のすべての部分を残す所もなく切り割かれて、やっと地上に降り立つと、かの女は、またもや木の頂上にいる。罪人は、これを見ると、また木に登って行く。こうして無量百千億年の長い間、自分の心に欺かれて、この地獄の中で、このようにぐるぐるめぐり、このように焼かれるのである。これはよこしまな欲情がその因である。地獄の鬼が罪人を責めたてて、次のようなうたを説く。

他人の作った悪事のために お前が苦しみを受けるのではない

自分の作った業のために自分が受ける報いなのだ 世の人々はすべてこの通りである

 人間世界の二百年を夜摩天の一昼夜として、夜摩天の寿命は二千年である。その夜摩天の寿命を、この衆合地獄の一昼夜として、この地獄の寿命は二千年である。生物を殺し、盗みをし、邪な淫欲を犯した者が、この地獄に堕ちる。

 この大地獄には、また十六の付属した別の地獄がある。そこに悪見処と名づける一地獄がある。他人の子供を奪って、強迫し暴行して、泣き叫ばせた者が、ここに堕ちて苦しみを受ける。その有様をいえば、罪人は自分の子供が、地獄の中にいるのを見る。地獄の鬼は、鉄の杖や鉄の錐で、その子供の陰部を突き刺し、あるいは鉄の鉤で、その子供の陰部に釘うつ。罪人は、わが子の、このような悲惨な有様を見た時、子供かわいさの心より、悲しみのあまり気絶して、堪え忍ぶことができぬ。この子供を愛する心より起こる苦しみは、火に焼かれる苦しみと比べると、火に焼かれる苦しみは、この苦しみの十六分の一にも及ばぬのである。罪人は、このように心の苦しみに責められおわると、また身体の苦しみを受ける。その有様は、頭を下にし、熱した銅汁を盛って罪人の肛門に注ぎ、その身の内に入れ、内臓・大小腸などを焼く。次第に焼いてしまうと、下の方から流れ出る。つぶさに身と心の苦しみを受けて、無量百千年の長いあいだ止むことがない。

 また、別の地獄がある。多苦悩処と名づける。男色を犯した者が、この地獄に堕ちて苦しみを受けるのである。その苦しみの有様をいうと、前世に愛した男を見ると、身体のすべての個所に、皆ことごとく熱炎がある。この炎の男が来て罪人の身を抱くと、身体のすべての部分が皆ことごとく分解し散乱してしまう。死んでしまって、またきかえる。非常な怖れを抱いて、走り逃げていくと、嶮しい岸から堕ち、炎の嘴のある烏や炎の口をもつ狐がやってきて、罪人を噛みくらうのである。

 また別の地獄がある。忍苦処と名づける。他人の妻を犯した者が、この地獄に堕ちて苦しみを受ける。その苦しみの有様をいうと、地獄の鬼が罪人を樹の頂上に吊す時、頭を下にし、足を上にする。下には激しい炎を燃やして、身体のすべての部分を焼く。焼き尽くすと、また生きかえる。苦しさのあまり、大声で叫ぼうとして口を開くと、火が口から入って、心臓・肺臓などの五臓六腑を焼く。その他の別の地獄については経に説いてある通りである。

【7】 四つに叫喚地獄は衆合地獄の下にあり、広さは前の地獄と同じである。地獄の鬼の頭は、金のように黄色で、目の中から火が燃え出て、赤色の衣を着ている。手足は長く大きくて、風のように早く走る。口から恐ろしい声を出して、罪人を射る。罪人は怖れのあまり、頭を叩いて、哀れみを求め、「どうぞお慈悲を掛けて、すこしはお許し下さい」という。この言葉をいっても、ますます地獄の鬼は怒りを増す。

 あるいは鉄棒で頭を打ち、熱鉄の地を走らせ、あるいは熱い鍋に入れ、繰り返してあぶり、あるいは熱した釜に投げこんで煎じ煮る。あるいは激しく炎が燃える鉄の部屋に追い立てて入らせ、あるいはかなばさみで罪人の口を開いて、満ち溢れるばかりに煮えた銅汁を注ぎ、内臓を焼き爛らして、下から直ちに流れ出る。

 罪人は偈を唱え、閻魔王に仕える鬼を怨み悲しんでいう。

あなたは何という慈悲の心がないことよ また何と寂静しずけさのないことか

わたくしは慈悲の心の持ち主であるのに わたくしにどうして慈悲を掛けぬのか

すると、閻魔王に仕える鬼は、罪人に答えていう。

みずから愛欲のわなに欺かれて 善からぬわざを作り

いま悪業の報いを受けたのに どうして我を怒り恨むのか

また、いう。

汝はもと悪業を作り 愚かな欲に欺かれた

そのとき何故悔いなかったのか 今になって後悔してもどうしてまにあおうか

 人間の四百年を兜率天の一昼夜として、兜率天の寿命は四千年である。その兜率天の寿命を、この地獄の一昼夜として、この地獄の罪人の寿命は四千年である。殺生し、盗み、よこしまな淫欲をお菓子酒を飲みなどした者が、この地獄に堕ちる。

 また十六の付属した別の地獄がある。その中に火末虫処と名づける一地獄がある。むかし酒を売る時に水を加え増した者が、この中に堕ちて、四百四病というあらゆる病気に罹る。その一つの病の力は、一昼夜のうちに、四大洲の若干の人を皆殺すことができる。また、罪人の身から虫が出て、その皮肉骨髄を破って飲みくらう。

 また別の地獄があって、雲火霧処と名づける。むかし酒を人に飲まし、酔わせてしまってから、その人を調からかいもてあそんで恥かしめたものが、この地獄に堕ちて苦を受ける。その有様は次のようである。この地獄の火が充満している厚さは、肘の長さの二百倍である。地獄の鬼は、罪人を捉えて、この火の中を歩かせるので、罪人の足の先から頭の先まで、すべて溶けてなくなってしまう。罪人を取り上げると、また生きかえる。このようにして無量百千年という長い間止めどもなく苦を与え続ける。そのほかの地獄については経文のとおりである。また、地獄の鬼は罪人を責めたて、次のような偈を説く。

仏のみもとで愚痴を起こし 世間や仏法の事を破壊し

解脱の智慧を焼くこと火のようなもの それが酒というものである

【8】 五つに大叫喚地獄は叫喚地獄の下にあって、広さは前の地獄と同じであり、罪人の受ける苦しみの有様も同じである。前に挙げた四つの地獄とそれらの十六の別な地獄におけるすべてのあらゆる苦しみを十倍して重く受ける。

 人間の八百年を化楽天の一昼夜として、化楽天の寿命は八千年である。その化楽天の寿命をこの地獄の一昼夜として、この地獄の罪人の寿命は八千年である。殺生し、盗み、邪な淫欲を犯し、酒を飲み、嘘をつく者がこの地獄に堕ちる。地獄の鬼は罪人の前で、責め立てて次のような偈を説く。

嘘偽りは一番おそろしい火で 大海をすら焼き尽くす

まして嘘つきの人を焼くのは 草木の薪を焼くようである

 また、十六の付属した別の地獄がある。その中に受鋒苦処と名づける一地獄がある。罪人は、熱鉄の鋭い針で、口も下も共に刺され、泣き叫ぶこともできない。

 また別の地獄がある。受無辺苦処と名づける。地獄の鬼は、熱鉄のかなばさみで、罪人の舌を抜き出す。抜いてしまうと、舌はまた生え、生えるとまた抜く。眼をくり抜くことも同様である。また、刀で罪人の身体を削る。その刀は非常に薄刃で鋭いこと、ちょうど剃刀のようである。これらのような違った種類のいろいろの苦しみを受けることは、すべて嘘をついた報いである。その他のことは、経に説いてある通りである。

【9】 六つに焦熱地獄は大叫喚地獄の下にあって、広さは前の地獄と同じである。地獄の鬼は罪人を捕えて、熱鉄の地の上に臥せさせ、仰むけたりうつぶせたりして、頭から足に至るまで、大きな熱鉄の棒で、打ったり突いたりして、肉団子のようにならせる。あるいは、非常に熱した大きな鉄の鍋の上に置き、激しい炎で罪人を炙り、左右に罪人を転がし、背中からも腹の方からも焼いて細らせる。あるいは、大きな鉄の串で、下から罪人を貫き、頭まで突き通し、繰り返して在任を炙り、この人の身体の各部、毛穴、口の中に全部炎を起こさせる。あるいは、熱鉄の釜に入れ、あるいは、熱鉄のたかどのに置くと、鉄火は激しく燃えて、罪人の骨髄に徹る。

 もし、この地獄の豆ほどの火を、この世界に置くならば、瞬間にこの世を焼き尽くすであろう。まして、罪人の身の軟らかいことは、今萌え出た草のようである。それを長らく焼くのであるから、どうして堪えることができようか。この地獄の人は、前の五つの地獄の火を見て、まるで霜か雪のように冷たいと思う。

 人間の千六百年を他化天の一昼夜として、他化天の寿命は一万六千年である。その他化天の寿命を一昼夜として、この地獄の寿命も同様である。殺生したり、盗み、よこしまな淫欲を犯し、酒を飲み、嘘をつき、間違った考えをいだく者が、この中に堕ちる。

 この地獄の四門の外に、また十六の付属した別な地獄がある。その中に、分荼離迦処と名づける一地獄がある。その有様をいうと、かの地獄の罪人の身体中、芥子つぶほども火炎の無いところはない。ほかの地獄の人は、次のように話しかける。

 「君よ、早くおいで、早くおいで。ここに分荼離迦の池がある。飲める水があるよ。しっとりとした林の木影があるよ。」

 罪人が、その言葉につれて走って、その場に行くとき、道のほとりに坹があって、その中に燃え上がる炎が充満している。罪人は、この坹に落ち込むと、身体のすべてが、ことごとく焼け尽きてしまう。焼けてしまうと、また、もとどおりになり、もとどおりになると、また焼かれる。それでも分荼離迦池に行こうと欲望に駈られて、前に進んで池に入る。さて、かの池に入ると、分荼離迦の火炎が、五百由旬の高さに燃え上がる。罪人は、かの炎に焼き炙られ、死ぬるとまた活きかえる。もし人が、みずからが死して天上界に生まれたいと願い、また他人に教えて間違った考えを持たせた者は、この地獄に堕ちる。

 また付属した別の地獄がある。闇火風処と名づける。その有様をいうと、この地獄の罪人は、恐ろしい風に吹かれて、空中に巻き上げられ、頼る所もない。車の輪のように早く回転するので、罪人を見ることができぬ。このように回転したあと、別に剣のような風が起こり、罪人の身体を砕いて砂のようにして、十方に散らす。散ってしまうと、また身体がもとどおりになり、もとどおりになるとまた散る。いつもこのようで、きりがない。もし人が〈あらゆる物がらには常と無常とがある。無常というのは身体であり、常というのは四大である〉というようなまちがった考えを起こすならば、その人はこのような苦しみを受けるのである。そのほかは、経に説く通りである。

【10】七つに大焦熱地獄は焦熱地獄の下にあって、広さは前の地獄と同じであり、苦しみの有様も同じである。

 けれども、前の六つの根本の地獄とこれに付属する別の地獄とにおけるあらゆるすべての苦しみを十倍して重く受ける。詳しく説くことはできない。罪人の寿命は一中劫の半分である。殺生し、盗み、邪な淫欲を犯し、酒を飲み、嘘をつき、間違った考えを起こしたもの、ならびに浄戒を保っている尼をけがした者が、この地獄に堕ちる。この悪業の人は、まず死んでから、まだ地獄に至らぬ中有の間に、大地獄の有様を見る。そこには閻魔王に仕える鬼がいて、恐ろしい顔をし、手も足もきわめて熱く、身体をよじて肱を怒らせる。罪人は、これを見て非常に恐れる。その鬼の声はまるで雷がとどろくようで、これを聞いて、罪人は更に恐れを増すのである。その手には鋭い刀を持ち、腹は非常に大きくて黒雲の色のようである。炎と燃える眼の色は灯火のようで、曲った牙は鉾のように鋭い。臂も手も皆長く、振り動かして勢いをつけると、身体のすべての部分が、皆ことごとく荒々しい姿になる。そして、かようないろいろと恐ろしい形相をして、罪人の咽喉のどをしっかりと捕える。こうして罪人をつれて行き、六十八百千億由旬を過ぎると、地海州城が海の外辺にある。また三十六億由旬を行って、次第に下に向かうこと十億由旬である。あらゆる風の中で、一番激しいのは業風である。このような業風が悪業の人を連れ去って、かの所に至る。さて、かの所に行き着いてみると、閻魔王が、いろいろと罪人を責めたてる。責めたてられることが終わってしまうと、悪業の縄で縛られ、地獄へと出て行く。遠く遥かに大焦熱地獄の、みわたす限り大火炎が燃えているのを見る。また、地獄の罪人の泣き叫ぶ声を聞く。罪人は、これを見聞して、悲しみ恐れて、無量の苦しみを受ける。かようにして、限りもなく長い年月の間、地獄の罪人が泣き叫ぶ声を聞くのである。これを聞いて十倍にも恐れ、心は驚きふるえる。閻魔王の手下は、罪人を責めたてていう。

汝、地獄の苦しみの声を聞いただけで このように恐れおののく

まして地獄の火に焼かれることは 乾いた柴を焼くようである

火で焼くといっても実の火が焼くのではなく 悪業が焼くのである

火の焼くのは消すこともできるが 業の焼くのは消すことができない

 このように十分に責め苦しめたのち、地獄に連れて行くと、大きな炎の集まりがある。その炎は五百由旬の高さに燃え上がり、その炎の広さは二百由旬である。この炎が盛んに燃え上がるのは、罪人が作った悪業の勢力に依るのである。地獄の鬼が、俄かに罪人をかの炎の集まりに投げ下ろすのは、ちょうど大きな山の崖から押して嶮しい岸につきおとすようなものである。

 この大焦熱地獄の四門の外に十六の付属した別の地獄がある。その中の一地獄は、少しのすき間もなく、大空までも、皆すべて炎が燃えている。針の穴ほども、炎が燃えぬ所とてはない。罪人は、炎の中で声を出して叫び呼んでも、無量億年の間、常に焼かれ続ける。清浄な信女を犯した者が、この中に堕ちる。

 また別の地獄がある。普受一切苦悩と名づける。その有様は、まず炎の刀ですべての身体の皮を剥ぎ割きながら、その肉を傷つけないでおく。さて、その皮を剥いでしまうと、身体と列ねて熱地に敷いておき、火でこれを焼き、沸き上る熱鉄を罪人の身体に注ぐ。このように無量億千年の間、大きな苦しみを受けるのである。比丘が、酒を持戒の婦女に飲ませて誘惑し、その心を迷わしてしまってから、邪な行いをし、あるいは金品を与えたりしたような者が、この地獄に堕ちる。その他は経の中に説いてある通りである。

【11】八つに阿鼻地獄は、大焦熱地獄の下、欲界の最も底の所にある。罪人が、この地獄に落ちて行く時、まず、中有の際に、泣き叫び、次のような偈をいう。

あらゆるものはただ炎ばかり 大空あまねく隙間もない

四方もまた四維にも 地上にもあいた所がない

地上のあらゆる場所には 悪人がみな遍く満ちている

わたしはいま落着くべき所もなく ただ独りで同伴つれもない

厭わしい暗黒の中にあって 大きな炎のかたまりの中に入る

わたしは虚空の中にあっても 日も月も星も見えぬ

そのとき閻魔王の手下は、怒りの心で罪人に答えていう。

増劫の時も減劫の時も 大火が汝の身を焼くのだ

愚かな人よ悪事を作った後に 今になってどうして後悔の心を起こすのか

天や阿修羅や健達婆や 龍や鬼のしわざではない

自分の作った業の網に縛られるのだ 汝を救うことのできる者はない

たとえば大海の中にして ただ一掬の水を取るとすれば

汝の今の苦しみは一掬の水であり これから受ける苦しみは大海のようだ

 さて、罪人を責めたててしまうと、地獄に連れて行くのであるが、この地獄から二万五千由旬はなれた所で、かの地獄で泣き叫ぶ罪人の声を聞いて、苦しみは十倍し、悶絶する。頭は下にあり、足は上にあって、二千年を経る間、すべて下に向かって落ちて行く。

 かの阿鼻城は、広さ八万由旬である。七重の鉄城、七重の鉄網があり、下に十八のへだてがあり、刀林がその周囲を取りかこんでいる。四隅に四匹の銅の犬がおり、身長みのたけは四十由旬である。その眼はいなずまのごとく、牙は剣のごとく、歯は刀の山のごとく、舌は鉄のとげのごとくである。すべての毛孔から皆猛火を出し、その烟は臭悪で、世の中で喩えられるものもない。十八人の獄卒がいて、その頭は羅刹のごとく、口は夜叉のようである。牙の先から火が流れ出て、阿鼻城に満ちみちている。頭の上には八つの牛頭があり、一々の牛頭には十八の角があって、一々の角の先から皆猛火を出す。また七重の城内には、七本の鉄のはしらがあり、幢のさきから炎が湧き出し、ちょうど煮えたつ泉のようである。その炎は迸り流れて、また城内に満ちみちている。四門のしきいの上には八十の釜があり、煮えたった銅が湧き上り、また城内に満ちみちている。一々の隔の間には八万四千の鉄の蟒や大蛇がいて、毒を吐き、火を吐いて、その身は城内に満ちている。その蛇のたけり吼えることは、百千の雷のようで、大鉄丸を雨ふらせて、また城内に満ちている。また五百億の虫がいて、八万四千の嘴があり、嘴の先から火が流れ出ることが、雨のようにふりそそぐ。この虫が下りてくる時、地獄の火は、ますます盛んになり、遍く八万四千由旬を照らす。また苦しみの中の苦しみ八万億千は集まってこの中にある。

 《瑜伽論》の第四にいう。

東方、数百由旬の三熱の大鉄地の上から、猛く盛んな火があって炎を挙げて来て、地獄の人々を刺す。河を貫いて肉に入り、筋を断って骨を破り、また、その髄に通り、蝋燭のように焼く。このようにして、体中が皆猛火となる。東方からの炎のように、南方・西方・北方からも、また、このように炎が迫って来る。こういうわけで、かの地獄の人々は、猛火と混りあって、ただ炎の塊が四方から来るのを見るだけである。火炎は混りあって隙間もなく、受ける苦痛も隙がない。ただ、苦しみに迫られて罪人が泣き叫ぶ声を聞いて、はじめて火炎の中に人のいる事が分るだけである。また鉄の箕で三熱の鉄の炭を盛りあげ、これを焙り揃え、また、熱鉄の地の上に置いて、大熱鉄の山に登らせる。上ってはまた下り、下ってはまた上る。罪人の口から、その舌を抜き出し、多くの鉄の釘でうちつけ、舌を拡げて、皺のないようにするのはちょうど牛の皮を張るような有様である。また、更に熱鉄の地の上に仰むきに寝かせ、熱鉄のかなばさみで口を挟んで開かせ、三熱の鉄丸を、その口の中に入れると、すぐさまその口・咽喉のどを焼き、内臓を通って下から出る。また、沸き上った銅を、その口に流し込むと、咽喉と口とを焼き、内臓を通って下から流れ出る。

 前の七つの大地獄とならびにそれに付属した別の地獄のあらゆる苦しみを一分とすると、阿鼻地獄の苦しみは、これらに勝ること一千倍である。こういう次第であるから、阿鼻地獄の罪人は、大焦熱地獄の罪人を、ちょうど他化自在天の楽しい所にいる人のようにおもう。四天下の所、欲界の六天も、阿鼻地獄の臭気を嗅ぐと、すぐに、全部気を失ってしまうであろう。なぜかというと、阿鼻地獄の人はきわめて臭いからである。すれに、この地獄の臭気が、どうしてやって来ないかというと、大きな山が二つあって、その一つを出山と名づけ、その二を没山と名づけるが、この山が、かの臭気をさえぎっているからである。もし、人が、阿鼻地獄にある苦しみのすべてを聞くと、皆ことごとく堪えられないであろう。もし、これを聞くならば、死ぬであろう。このようであるから、阿鼻地獄については、その千分の一も説かぬのである。なぜかというと、説き尽くすこともできぬし、聞くこともできぬし、喩えることもできないからである。もし、この地獄を説いたり聞いたりする人があるならば、このような人は血を吐いて死ぬであろう。

 この無間地獄の罪人の寿命は一中劫である。五逆罪を作り、因果の道理を否定し、大乗をそしり、四重禁を犯し、いたずらに信者の施し物を受けた者が、この地獄に堕ちる。

 この無間地獄の四門の外にも、また十六の付属した別な地獄がある。その中の一処を鉄野干食処と名づける。その有様は罪人の身体の上に大きさ十由旬の火が燃えており、いろいろの地獄の中でも、この苦しみが一番まさっている。また、鉄の瓦を激しい夏の雨のように降らし、罪人の身体は、ちょうど乾肉のように破れ砕ける。炎の牙のある狐が、常に来て罪人を噛みくらい、どんな時でも、苦しみを受けることが止まない。むかし仏像を焼いたり、僧房を焼いたり、僧の寝具を焼いた者が、この中に堕ちる。

 また別の地獄があって、黒肚処と名づける。その有様は、罪人は飢えと乾きに身を焼いてみずから自分の肉を食う。食い終わるとまた肉がもと通りになり、もと通りになるとまた食う。黒い肚をした蛇が、かの罪人に絡みつき、足の甲から始めて、次第次第に噛みくらう。あるいは罪人を猛火の中に入れて焼き、あるいは鉄の釜に入れて煎り煮る。限りない長い間、このような苦しみを受ける。むかし仏に供えた財物を取って、これを食べ用いた者が、この中に堕ちる。

 また別の地獄があって、雨山聚処と名づける。その有様は、大きさ一由旬の鉄山が上から落ちて、かの罪人を打つと、砕けて一握りの砂のようになる。砕けてしまうと、またもとどおりになり、もとどおりになると、また砕かれる。また、十一の炎があり、罪人の周囲を包んで、その身を焼く。また、地獄の鬼は、刀で身体の各部分を残り泣く割き、非常に熱い鉛の汁をその裂け目に入れる。四百四病のすべてが、いつも起こり、家急に苦しみを受けて、何年という期限がない。むかし縁覚の食事を奪って自分が食べ、縁覚に与えなかった者が、この中に堕ちる。

 また別の地獄があって、閻婆度処と名づける。像のように身体の大きい猛鳥がいて、その名を閻婆という。嘴は鋭くて炎を吐いている。この鳥が罪人を捕えて、遥かに空中に上り、あちこと飛び回り、そののち罪人を放すと、ちょうど石が地上に堕ちたように、罪人の身体は粉々に砕ける。砕けてしまうと、またもとの身体になり、もとのようになってしまうと、この鳥がまた罪人を捕えるのである。また鋭い刃が道に満ちて、罪人の足を切り割く。あるいは、ほのおの歯のある犬がやって来て、罪人の身体を噛む。かくて、長い間、大きな苦しみを受ける。むかし人々が用いている川の流れを断って、人を渇き死にさせた者が、ここに堕ちる。その他は経に説いてあるとおりである。

 《瑜伽論》の第四には、八大地獄の近辺にある別の地獄を総括して、次のようにいってある。

 かのいろいろのすべての大地獄には、皆、四方に四岸・四門があって、鉄の垣が周囲を取巻いている。その四方の四門から出ると、その一々の門の外には、四つの外園がある。

 まず、焼けた灰が膝まで積もっている。地獄の罪人たちが出て、家を求めて、あちこち歩き、ここに至る。足をおろす時、皮も肉も血も、皆、すぐさま溶け爛れる。足を上げると、またもとの通りになる。

 次に、この焼けた灰の続きに屍糞の泥沼がある。この地獄の罪人たちは、家を求めるために焼けた灰から出てしまうと、次第次第にあちこちと歩き、この中に落ち込んで、首も足も共に沈んでしまう。また、屍糞の泥沼の内には、いろいろな虫が沢山いて、嬢矩と名づける。罪人の皮を貫き肉に食い込み、筋を切って骨を破り、髄を取って食べる。次に屍糞の泥沼の続きに、鋭い刀の刃を仰むけて道としている所がある。かの地獄の罪人たちは、家を求めるために、屍糞の泥沼から出てしまうと、あちこち歩き回ってここに至り、足を下す時に、皮も肉も筋も血も、すべて皆、粉々になって爛れる。足を挙げる時、またもとどおりになる。次に、刀の刃の道に続いて、刃の葉の林がある。かの地獄の罪人たちは、家を求めて、刃の道から出てしまうと、かの林の木陰に行き、ちょっとでも木の下に坐ると、微風がすぐ吹き起こって、刃の葉が落ち、罪人の身体の節々のすべてを切り裂くので、罪人は、たちまちの間に地上に倒れる。真っ黒な犬がいて、背中や腹をつかみ裂いて、罪人を噛みくらうのである。

 この刃の葉の林に続いて、鉄の設柆末梨の林がある。かの地獄の多くの罪人たちは、家を求めて、さっそく、ここにやって来て、とうとうこの林の木の上に登る。登る際には、あらゆる刺が、すべて下に向き、降りようとする時には、あらゆる刺が、また上に向く。こういうわけで、罪人の身体を貫き刺しその節々まで行きわたる。その時、鉄の嘴のある大きな烏がやって来て、罪人の頭の上に止まったり、肩に止まったりして、目の球を探してついばみ、これを噛みくらう。鉄の設柆末梨の林に続いて、広く大きな川がある。煮えたぎる熱い灰の水が、その中に満ちみちている。かの地獄の罪人たちは、家を探し求めて、鉄の設柆末梨の林から出おわると、やって来て、この河の中に落ちる。ちょうどまめを大きな釜に入れ、烈しく強い火を燃やして、この豆をいり煮るようである。湯が沸き上がるにつれて、罪人はぐるぐるとめぐり回る。川の両岸に、多くの地獄の鬼がいて、その手に杖と縄と大きな網とを持ち、ずらりと並んで立ち、かの罪人をさえぎって、出られないようにしてある。あるいは縄を掛け、あるいは網で掬う。

 また、広大な熱鉄の地上に罪人を置いて仰むけ、これに向かって、「お前達は、今、どんな望みがあるか」と問う。罪人は「私たちは、今はどんなことも感ぜられませんが、いろいろのうえの苦しみに悩まされています」というように答える。すると、かの地獄の鬼は、すぐに鉄のかなばさみで口を挟んで開かせ、非常に熱く燃えている鉄丸をその口の中に入れる。その他は前に述べた通りである。もし罪人が「私は、今、渇きに苦しめられています」と答えると、その時、地獄の鬼は、すぐに煮えたぎるあかがねを、その口に注ぎ込む。こういう次第で、罪人は、長い間、苦しみを受ける。このようにして、前世に作ったすべての悪業はよく地獄に堕ちるという報いをうける。悪業が無くならないあいだは、この地獄の中から出られない。ところで、刀刃の路も刃葉の林も、鉄の設柆末梨の林も、これを総括して一つとするから四つの外園があることになるのである。

 また、頞部陀などの八寒地獄がある。詳しくは、経・論に説いてある通りである。今、これを述べるいとまがない。

【12】第二に餓鬼道を明かすと、その住む場所が二つある。一つには地の下五百由旬の所にあって、閻魔王の世界である。二つには、人間界と天上界との間にある。餓鬼のすがたは甚だ多い。今、その一部分を説明しよう。身のたけが一尺のものもあるし、人間と同じ身の長のものもある。千由旬の身の長のものもあるし、雪山のような巨大な餓鬼もいる。

 あるいは、鑊身と名づける餓鬼がいる。その身は高く大きくて、人間の二倍ある。顔も目もなく、手足はちょうどかなえの足のようである。熱い火が、中に満ちみちて、その身を焼く。むかし財宝欲しさのために、ほふり殺した者が、この報いを受ける。

 あるいは、食吐と名づける餓鬼がいる。その身は広大で、身の長は半由旬である。いつも、吐き出した汚物を求めているが、手に入らぬので困っている。むかし夫が自分は御馳走を食べながら妻子には与えなかったり、また、妻が自分は食べて、夫と子には与えなかったりした者が、この報いを受ける。

 あるいは、食気と名づける餓鬼がある。世間の人が病気のために、水辺や林の中で祭を行なう時、この香気を嗅いで、それで自分の命を保つのである。むかし妻子らの前で、自分ひとり御馳走を食べた者が、この報いを受ける。

 あるいは、食法と名づける餓鬼がある。嶮しい難所で、走り回って食物を求める。色は黒雲のようで、涙の流れることは雨のようである。僧侶のいる寺に行って、人が祈願したり説法したりするような時に、その力を受けて命を保つのである。むかし名誉や利欲を得ようとして、不浄説法をした者が、この報いを受ける。

 あるいは、食水と名づける餓鬼がいる。飢えと渇きに身を焼き、あわてて水を求めるが、得ることができないで困っている。髪は長く垂れて顔を覆い、目も見えぬまま、川の方に走って行き、もし、人が川を渡る際、足の下から落ちる余り水があると、すばやく手に受けて、それで命をつなぐのである。あるいは、人が水を掬って、亡くなった父母に施すことがあれば、その際、すこしの水を手に入れて、生き長らえることができる。もし、自分で水を取ろうとすると、水を守る多くの鬼が、杖で殴り打つ。むかし酒を売るのに水増ししたり、みみずや蛾を沈めたりして、善いことをしなかった者が、この報いを受ける。

 あるいは悕望と名づける餓鬼がある。世にいる人が、亡くなった父母のために法事を設ける時だけ、その施物を食べることができる。その他は、すべて食事をする事ができぬ。むかし他の人が苦労して僅かばかりの物を手に入れたのに、それをだまし取って使ったような者が、この報いを受ける。

 あるいは、海中の小島に生まれる餓鬼がある。林の木も川の水もなく、その居る場所は、非常に熱い。そこの冬の日を人間世界の夏の日と比べると、千倍も勝って熱い。ただ、朝の露を飲んで、やっと命を保っている。海中の小島に住んではいるが、海は乾ききっていると感ずるのである。むかし病の苦しみに疲れきっている旅人の商品をだまし取って、わずかばかりしか代金を払わなかった者が、この報いを受ける。

 あるいは、このような餓鬼がいる。いつも墓場に行き、火に焼かれた死骸を食べるが、それでも、なお満足することができないのである。むかし牢獄を取締る役をして人の飲食を取った者が、この報いを受ける。

 あるいは、木の中に生まれている餓鬼がいる。ちょうど木賊虫のように、その身体を押し付けられて窮屈なため、大きな苦しみを受ける。むかし日陰となる涼しい木を切り倒し、さては、僧侶たちの庭園の林を切り倒した者が、この報いを受ける。

 あるいは、また、このような餓鬼がいる。髪の毛が垂れ下がって、身体全体にまつわっている。その髪は刀のようで、その身を刺し切り、あるいは火に変わって、身体をとりまいて焼く。

 あるいは、このような餓鬼がいる。昼夜に、それぞれ悟忍の子を生む。生むにつれて、その子を食べるが、それでも、いつも飢えている。

 また、餓鬼がいる。食物という食物は、すべて食べることができない。ただ、自分でわが頭を破り、脳を取り出して食べるのである。あるいは、こんな餓鬼がある。火を口から出し、飛んでいる蛾が火の中に落ちるのを飲食とする。あるいは、こんな餓鬼がいる。糞・涙・膿血や、食器を洗った残り汁を食べる。

 また、外の障りのために食べることのできない餓鬼がいる。その有様は、いつも飢え渇きに迫られて、身体はすっかり枯れかわいている。たまたま、浄らかな流れを遥かに眺め、走ってその場所に行くと、力の強い鬼がいて、杖で打つ。あるいは、水が火と変わり、あるいは、すべてがあがってしまう。あるいは、内の障りのために食べることのできない餓鬼がいる。その有様をいうと、口は針の穴のようであり、腹は大きな山のようである。たとい、飲食にめぐり逢っても、食べる術がない。あるいは、内と外の障りはないけれども、飲食できぬ餓鬼がいる。その有様をいうと、やっと僅かばかりの食物にありついて食べると、それが烈しい炎に変わり、その身体を焼いて出るのである。

 この餓鬼道は、人間の一月を一昼夜として年月ができており、その寿命は五百歳である。《正法念経》に「ものを惜しみ貪り、人を嫉む者が餓鬼道に落ちる」と説かれている。

【13】第三に畜生道を明かすと、その住む場所が二つある。本来は大海に住み、その分かれは人間界や天上界にまじっている。別々に論ずると、三十四億の種類があるが、総括して論ずると三種類外はない。一つには鳥類、二つには獣類、三つには虫類である。

 このような畜生の各種類は、強いものと弱いものと、それぞれ傷つけある。飲むときも食べるときも、しばらくの間も安らかな時はない。昼も夜も、絶えず怖れをいだいている。まして、また水に住むいろいろの畜生たちは、漁師のために殺され、陸を歩むいろいろの畜生たちは、狩人のために殺される。象・馬・牛・驢馬・駱駝・騾馬などのような畜生は、あるいは鉄の曲った鉤で、その頭脳あたまを打たれたり、鼻の中を突き通されたり、轡で首を繋がれたり、身体には、いつも重い荷物を背負って、いろいろの杖で打たれたりする。これらの畜生は、ただ水を飲み、草を食べたいとの思いだけで、その外は何事も分からない。また、蚰蜒げじげじ鼠狼いたちなどは、闇の中で生まれて、闇の中で死ぬ。虱・蚤などは、人間の身体に依って生まれ、また人間によって殺される。また、いろいろの龍たちは、三熱の苦しみを受けて、昼夜休むことがない。あるいはまた、蟒蛇うわばみは、その身体は長大であるが、おろかで足がなく、くねりまわって腹ばいして行き、いろいろの小さい虫に吸い食べられる。あるいは、また、一本の毛の百分の一のようなもの、あるいは、窓の中に飛んでいる塵のようなもの、あるいは一万由旬ぐらいの大きさのものもある。

 このようなさまざまの畜生は、ほんの僅かな間か、あるいは七時を経たり、あるいあ一劫、さては百万千万億劫にわたって限りない苦しみを受ける。あるいは、いろいろと思いそめぬ事柄にあって、しばしば殺されるのである。これらのいろいろの苦しみは数え尽すことができない。愚痴無慚で、信の上の施物をいたずらに受け、ほかの物で償わなかった者が、この報いを受けるのである。

【14】第四に阿修羅道を明かすと、二つがある。本来の勝れたものは、須弥山の北、大海の底に住み、その分かれの劣ったものは、四大州の間の山や岩の中に住んでいる。雲間で雷が鳴るような時には、天の鼓だと思って恐れ慌てて、心は甚だしくおののき悩むのである。また、常にいろいろの天人から侵され傷つけられる。あるいは身体を害し、あるいはその命を失う。また、毎日三度、苦しみの責め道具が、自然にやって来てそこなう。そのさまざまな憂いや苦しみは説き尽くすことができない。

【15】第五に人道を明かすと、略して三つのすがたがある。詳しく観察して行こう。一つには、不浄の相、二つには苦の相、三つには無常の相である。

【16】一つに不浄というのは、だいたい、人間の身体の中には、三百六十の骨があって、節と節とたがいに支えている。その有様をいうと、足指の骨は足の骨を支え、足の骨は踝の骨を支え、踝の骨ははぎの骨を支え、の骨は膝の骨を支え、膝の骨はももの骨を支え、の骨はしりの骨を支え、臗の骨は腰の骨を支え、腰の骨は背の骨を支え、背の骨は肋の骨を支え、また背の骨はうなじの骨を支え、項の骨はおとがいの骨を支え、頷の骨は歯を支え、上に頭蓋骨がある。また項の骨は肩の骨を支え、肩の骨は臂の骨を支え臂の骨は腕の骨を支え、腕の骨は掌の骨を支え、掌の骨は指の骨を支えている。このように次々に連続して、次第に鎖のように成り立っている。

 これらは、三百六十の骨が集まって成り立ったもので、ちょうど、朽ち破れた家のようなものである。多くの節で支え保ち、四つの細い脈で、身体中をぐるぐると回って、残るところなく分布している。五百に分かれている肉はちょうど泥のようで、六つの脈が互いにつながり、五百の筋がからみついている。七百の細い脈は、それで連絡をして、十六の太い脈は、ぐるぐる回って互いに連なっている。二個の肉の縄がある。長さ三尋半で、その内部で巻きつき絡んでいる。十六の腸胃は生熟蔵をめぐっている。二十五の気脈は、ちょうど窓穴のようで、百七の節はちょうど破れ砕けた器のようである。八万の毛孔は、乱れた草が覆うようで、五根と七つの穴は、不浄で満ちみちている。七重の皮で包み、六味で養うことは、ちょうど、祭の火が、すべてを呑み受けて、飽き足ることがないようなものである。このような身体は、すべてが臭く穢れて、元来、くずれ爛れている。このような身体を、誰が愛したり誇ったりするだろうか。

 あるいはいう。九百の肉片がその上を覆い、九百の筋が、その間を連らねる。三万六千の脈があり、三升の血が、その中にあって流れ注ぐ。九十九万の毛孔があって、さまざまの汗が、いつも出る。九十九重の皮が、さらに、その上を包んでいる。

 また、腹の中には五臓があって、葉のように幾重にも覆い、重なりあって下に向かうのは、ちょうど、破すの花のようなかたちである。孔は空洞で、内外が互いに通じあい、それぞれ九十重ある。肺臓は上にあって、その色は白く、肝臓はその色が青い。心臓は中央にあって、その色は赤く、脾臓はその色が黄色い。腎臓は下にあって、その色は黒い。また、六腑がある。その中でも、大腸は伝送する腑であり、また肺の腑でもある。長さは三尋半で、その色は白い。胆を清浄の腑とする。また肝の腑でもある。その色は青い。小腸を受盛の腑とする。また心の腑でもある。長さは十六尋で、その色は赤い。胃を五穀の腑とする。また脾の腑でもある。三升の糞がその中にあって、その色は黄色である。膀胱を津液の腑とする。また腎の腑でもある。一斗の尿がその中にあって、その色は黒い。三膲を中涜の腑とする。このような臓腑が縦横に分布している。大腸と小腸とは、赤く白く色を交えあって、十八回もぐるぐるめぐり、ちょうど毒蛇がとぐろを巻いているようである。

 また、頭の先から足の裏まで、骨の髄から皮膚まで、八万匹の虫がいる。四つの頭、四つの口、九十九の尾があって、その形は一様ではない。その一々の虫に、また九万の細い虫がいて、極めて細い毛の先よりも、まだ小さい。

 《宝積経》に説かれている。「初めて母胎から出る時、七日を過ぎると、八万匹の虫が、身体から生じて、自由自在にその身体を食う。二匹の虫がいて舐髪と名づける。髪の根に住み、いつもその髪を食う。繞眼という二匹の虫がいる。眼に住み、いつもその眼を食う。四匹の虫は脳に住んで、その脳を食う。一匹を稲葉と名づける。耳に住んで、耳を食う。一匹を蔵口と名づける。鼻に住んで鼻を食う。二匹の虫がいて、その一を遥擲と名づけ、その二を遍擲と名づける。唇に住んで唇を食う。一匹を針口と名づける、舌に住んで下を食う。また五百匹の虫がいる。身体の左側に住んで左側の肉体を食う。右側も同様である。四匹の虫は生臓を食い、二匹は熟臓を食う。四匹は小便道に居て尿を飲んで住み、四匹は大便道に住んで糞を食うて住む。その他いろいろな虫がいるが、一匹を黒頭と名づける。脚に住んで脚を食う。このような八万匹の虫は、この身体を依り所として、昼も夜も食い、ひどく身体を悩ませる。また、心に心配があって、いろいろの病気が起こる。名医も、これを治療することはできぬ。」

 《僧伽経》に説かれている。「人が死にかけている時、多くの虫たちは恐れて、互いにくらいあうので、いろいろな苦痛を受ける。男女親族は、これを見てひどく悲しみ悩む。さて、多くの虫が殺しあい、最後にただ二匹の虫がいて、七日の間、争い続ける。七日を過ぎてしまうと、一匹の虫は命が尽きるが、一匹の虫はまだ生きている。

 また、たとい、どのような上等のいろいろな食事をしても、一晩過ぎる間には、みな不浄なものになる。ちょうど、糞便が大小便ともに臭いようなものである。この身体も、またそのようである。幼い時から年老いるまで、不浄というより外はない。たとい、海水をことごとく注いで洗っても、浄らかにすることはできない。外に、どのような美しい姿を装ってみても、身体の内には、いろいろな不浄を包んでいる。ちょうど、きれいに画いてある瓶に糞便を詰め込んであるようなものである。

 それゆえ、《禅経》の偈に、

この身は臭く不浄とわかっても 愚かな者はとりわけ惜しむ

外のきれいな顔に迷い 内の不浄には気もつかぬ

と説かれている。

 まして、命が尽きた後は、この身体は捨てられる。一日二日、さては七日を経ると、死体は腫れふくれて、色は青黒く変わって行く。臭く爛れて、皮は破れ、膿血が流れ出てくる。熊鷹・鷲・鵄・梟・狐・犬などのいろいろの鳥や獣が、死体を噛み裂いてくらう。鳥や獣が食べてしまい、不浄なものが、潰れ爛れると、限りもない多くの種類の蛆虫が湧いて、臭い所に雑多に出てくる。その気持ちの悪いことは、死んだ犬よりも、なおひどいものである。このようにして白骨になってしまうと、節々があらばらになり、手も足も髑髏も、それぞれ違った場所に散らばってしまう。風に吹かれ日に曝され、雨に注がれ霜に閉じられて、長い年月が過ぎると、その色や姿が、すっかり変わってしまう。とうとう腐り朽ち、粉々になって、塵や土と一緒になってしまうのである。

 これで知るべきである。この身体は、初めから終わりまで不浄である。自分が合いして居る男も女も、すえてがこのようである。智慧のあるものなら、誰が、この肉体に執着を起こそうぞ。それゆえ《止観》にいってある。

この不浄の姿を見ない間は、愛着が甚だ激しいけれども、もし、この不浄の姿を見てしまうと、愛欲の心はすっかり消え失せ、とても辛抱することができない。ちょうど、糞便を見ない間は、食事をすることができても、急にその臭気を嗅ぐと、すぐさま吐くようなものである。

またいってある。

もし、この不浄の相を悟ると、もう、高い眉、青い眼、白い歯、赤い唇の美人でも、ちょうど一かたまりの糞便の上を、白粉おしろいで包んだようなものとなり、腐り爛れた死骸に、かりに彩色のある絹物を着せたようなものとなる。目で見るにも堪えぬものであるのに、まして、身体を近づけることがあろうか。鹿杖梵士を雇って殺してもらった比丘があった。まして、くちづけしたり抱きあって、淫欲の楽をどうしてしようか。このように思うのは、淫欲という病気によく効く薬である。

【17】二つに苦というのは、この身体が初めて生れた時から、いつも苦しみを受けている。《宝積経》に説かれているとおりである。

男であれ女であれ、たまたま生を受けて、大地に落ちる時、手でだきあげられ、きぬえうけとられ、あるいは夏や冬に、熱風や寒風が身に触れると、ひどい苦しみを受ける。ちょうど、牛を生はぎにして、土塀や壁に触れさせるようなものである。

さて成長してからも、苦しみが多い。《宝積経》に説いている。

この身に受ける二種類の苦しみがある。すなわち、眼・耳・鼻・舌・咽喉・歯・胸・腹・手・足などに、いろいろの病気が生ずる。このような四百四病が、その身をめるのを内の苦と名づける。また外の苦がある。すなわち牢獄に入れられて叩き打ち鞭うたれるものもあれば、耳や鼻を削られたり、手足を切られるものもある。いろいろの悪鬼神は、これにつけこんで来る。また蚊・虻・蜂などの毒虫に刺されたり、噛みつかれたりする。寒さや熱さ、飢えや渇き、風や雨、これらのさまざまの苦しみがやって来て、その身を逼めるのである。この五陰の身体は、行・住・坐・臥のいずれの場合もすべて苦しみでないものはない。もし、いつまでも歩いて、すこしも休息しないと、これを外の苦と他付ける。とどまるのも、坐るのも、るのも、また同様にみな苦しみである。

その他のいろいろな苦しみの有様は、目の前に見られることであるから、説明するまでもないであろう。

【18】三つに無常というのは、《涅槃経》に説かれている。

人の命がとどまらないのは、山から落ちてくる水よりも激しい。今日は生きていても、明日を保証することは難しい。それなのに、どうして心をほしいままにして悪い事をしておられようか。

《出曜経》に説かれている。

この日がもはや過ぎると 寿命はさらに減ってゆく

わずかな水に住む魚のようで ここに何の楽しみがあろうか

《摩耶経》の偈に説かれている。

喩えてみると旃陀羅が 牛を追いたてて屠殺所へ行くのに

牛の歩みは一歩一歩死地に近づくように 人の命もまたこのとおりである

たとい長生きの業をもっていても、最後には無常を免れることはない。たとい富貴のむくいを得ても、きっと衰え病む時がある。《涅槃経》の偈に説かれているとおりである。

すべてもろもろの世の中では 生きているものはみな死んでいく

たとい長い命をうけていても きっと尽きはてる時がある

思えば盛んな者は必ず衰え 会う者はまた別れ離れる

年の若さも久しくはとどまらず 盛りの色も病に侵される

命は死のために呑まれ 常にあるものとては更にない

また《罪業応報経》の偈に説かれている。

水の流れはいつも満ちてはいず 燃えさかる炎も久しくはない

さし昇る日はすぐに沈んで行き 月は満つればまた欠けて行く

位高く世の栄えを受ける者も 無常の訪れはさらに早く至る

これを思うて勤め励み 無上の仏を礼しまつるがよい

この無常は、ただ、一般の愚かな人たちだけに、このような恐れがあるのではない。仙人となって神通力を得たものも、またこのとおりである。《法句譬喩経》の偈にいうとおりである。

空にいても膿の中にいても 巌の間にかくれていても

この浮世はどこにいても 死からまぬかれるところはない

これで知るべきである。いろいろの他の苦しみは、免れることがあっても、無常というこの一事は、到底、逃げ場がないのである。ぜひとも、仏の説きたもうとおりに修行して、永遠の楽しみという果報を願い求めるべきである。《止観》にいうとおりである。

無常という殺鬼は、強いものも賢いものも、区別することはない。この身は脆くて堅固でなく頼りにし難い。それなのに、どうして安閑として、百年も生きながらえるように思って、あちこちと走り回って、財産を積み貯え集め収めるのだろうか。集め収めることが、まだ充分でないうちに、急に永遠とわの旅路に行くことになれば、所有していた財産は、空しく他人の所有となり、冥途の旅路をひとり行く。誰がその是非を訪ねようか。もし無常が、急流・烈風・電光よりも激しいことを覚るならば、山や海、空や町にいても、無常を逃れ避ける場所と手はない事がわかる。このように観じおわれば、心は非常に怖れを起こす。眠っていても寝床に落着かず、食事をしても口に甘さを感じない。ちょうど頭に火が燃えているのを払いのけるように、迷いの世から出る肝要な方法を求めよ。

またいう。

譬えてみると、狐が、耳や尾、牙を取られるまでは、眠ったふりをしてのがれようと思っていても、突然、頭を切ってしまうと云うのを聞くと、非常に驚き恐れるようなものである。生・老・病に出会っても、まだ、急ぎの用事と思わない人も、死という一事は、ゆるがせにしていられぬから、どうして怖れないでおられようか。怖れる心が起こる時、煮え湯や炎を踏むようなものである。世間のいろいろな楽しみも、貪る余裕がないのである。

 人間世界は、このようなものである。本当に厭い離れるべきである。

【19】第六に、天上界を明かすと、三つがある。一つには欲界、二つには色界、三つには無色界である。その有様は、非常に広いものであるから、詳しく述べることは難しい。今はしばらく一処を挙げて、その他の類例としよう。

 かの忉利天の場合、快楽は極まりないが、命の尽きる時になると、五種の衰えの相が現われる。一つには、頭の上の花の髪飾りが急に萎む。二つには、天の羽衣も塵や垢に汚される。三つには、腋の下から汗が出るようになる。四つには、両方の目がくらんでしばしばまたたく。五つには、本からいる住居すまいを楽しく思わぬようになる。この五つの相が現われる時には、天女も、眷属も、皆すべて遠ざかり離れて、この天人を、まるで雑草のように棄ててしまう。そこで、林の間に倒れ伏し、悲しみ歎いて云う。

「この多くの天女たちを、自分はいつも可愛がってやったのに、どうして、こうも急に自分を雑草のように棄てるのか。自分は、今や依りどころもなく、たのむところもない。誰が自分を救ってくれようか、帝釈天の善見宮城の参内は、今、もうできなくなろうとしている。帝釈の宝座は拝謁しようにも、もう手だてがない。殊勝殿の中は、もう永遠にこれを仰ぎみることができなくなり、帝釈天の宝象には、いつの日か、共に乗ることがあろう。衆車苑の中も、ふたたび見ることができず、麁渋苑のうちでよろいかぶとをつけることも、もう決してない。雑林苑の中で、宴会する日もなく、歓喜苑の中で、遊び戯れる時もない。劫波樹の下にある白玉の軟らかな石には、もう坐る時がなく、曼陀枳尼の殊勝池の水に沐浴することもできない。四種の甘露も、もう食べることができず、五つの妙なる音色の音楽は、突然、聞こえぬようになってしまった。悲しいことよ、自分だけが、この苦しみに逢うとは。なにとぞ、お慈悲を垂れて、私の寿命いのちを救い、あとわずかの日でも延ばしていただけたら、どんなに楽しいことでしょうか。あの馬頭山・沃焦海に落さないようにしてください。」

 こういう言葉を述べても、決して救うものはないのである。

 これで知られるであろう。この苦しみは地獄の苦しみよりも甚だしいのである。それゆえ《正法念経》の偈に説かれている。

天上界から落ちようとする時 心に大きな苦しみが湧く

地獄の多くの苦しみは 十六分の一にもおよばない

 また、非常に威徳のある天人が、この天上界に生まれてくると、もとの天人の眷属たちは、皆もとの主を棄てて新しい天人に従う。また威徳の或天人があって、その心に従わぬ時は宮殿から追い出されて、住むことができないようにされる。

 他の五つの欲界の天にも、すべてこの苦しみがある。上の三界、すなわち色界と無色界の中には、このような事はないけれども、結局、下界に落ちてしまう苦しみがある。さては非想非非想天でさえも、無間地獄に落ちることは避けられぬのである。これで知られるであろう、天上界も楽しむべき所ではないのである。

【20】第七に、総じてこの三界六道の厭うべき有様を結んで述べると、すなわちこの身体は苦しみばかりをおさめた箱であって、すべて、執着し楽しむようなものではない。生・老・病・死という四つの山は押し合って迫り、避け逃げる場所はない。それなのに、多くの人々はものを貪り愛する心で、われとわが身を包み、深く五欲に執着して、常ではないものを常だと思い、楽ではないものを楽だと思う。ちょうど、ようを洗って、ちょっと楽になったのを本当に楽だと思い、睫を掌に置いて、それが目の中に入った時の苦しみを思わぬようなものである。どうして厭わずにおられようか。まして、剣の山、炎の湯は次第に近づいて来ようとする。智慧のある人は、誰が、この肉体を宝として愛でようか。それ故に《正法念経》の偈に説かれている。

智慧ある人はたえず憂いをいだいて さながら牢屋に囚われているようである

愚かな人はたえず楽しみに耽って あたかも光音天の楽しみのように思っている

《宝積経》の偈に説かれている。

いろいろの悪い行いで財宝を集め 妻子を養って楽しみと思うが

命の終わる時になると苦しみは身にせまり 妻子もこれを救うことはできぬ

かの三悪道の恐ろしい中では 妻も子も知り合いのものも見えぬ

車も馬も財宝もすべて他人のものとなり この苦しみを共に分かちあうものは誰もない

父母も兄弟も妻も子も 友もしもべも財宝も

死んでしまえばひとりとして来り親しむものはない ただ悪業だけが常につきまとう 中略

閻魔王はいつもかの罪人に告げる 「僅かの罪でもわれは汝につけ加えはしない

汝自身が罪を作って今みずから来たのだ 業報は自分で招いたので誰も代る者はない

父母も妻子も救うことのできる者はない ひたすら出離さとりたねを勤め修むべきである」 と

この故にぜひとも悪道に縛られる行いを棄てて よく娑婆を厭うて安楽の世界を願うべきである

また《大集経》の偈に説かれている。

妻子も珍宝もまた王の位も 命の終わる時には随う者はさらにない

ただ持戒と布施と不放逸とは 今の世も後の世も伴侶ともとなる

 このように、めぐり転って、悪を造っては苦しみを受け、空しく生死を繰返し、車輪の回るように極まりがない。経の偈に説くとおりである。

ただ一人が一劫のあいだに 受ける多くの身の骨が

たえず積もって腐らないなら 毘布羅山のようになろう

 一劫でさえもそのとおりである。まして、無量劫においては、なおさらである。私たちは、これまでにまだ、仏道を修行しなかったから、空しく限りない長い劫を経たのである。今、もし仏道を勤め修めないならば、未来もまた同じことになるだろう。このように限りなく続く生死の中で、人間の身を得ることは非常に難しい。たとい、人間に生まれることができても、不具者でない完全な身体を保つこともまた難しい。たとい、完全な身体を具えても、仏のみ教に遇うことはまた難しい。たとい仏のみ教に遇うことができても、信心を起こすことはまた難しい。それ故、《涅槃経》に説かれている。

人間界に生まれる者は爪の上の土ほどだが、三悪道に落ちる者は十方世界の土のように多い。

《法華経》の偈に説かれている。

はかりない無数の劫を経ても このみのりを聞くことはむずかしい

よくみ法を聞く者は この人もまたまたむずかしいことである

 ところが、今、たまたまこれらのたよりを具えている。これで知られよう、迷いの苦しい海を離れて、浄土に往生することになるのは、ただ今生で決まることなのである。それなのに私たちは、頭には霜や雪と見まごう白髪を戴きながら、心は浮世の塵に染まり、この一生は終わろうとするのに、いろいろな望みは尽きない。とうとう日の照るこの世を離れ、ひとり黄泉よみの底に入る時は、数百由旬も燃えさかる猛火の中に落ちて、天に呼び地を叩いて歎いても、何の役にもたたぬのである。多くの仏道修行の人たちよ、何とぞ早くこの世を厭い離れる心を起こし、速やかに娑婆を出る道にしたがうがよい。宝の山に入りながら、手を空しくして帰ってはならない。

 問う。どういうあり方で、この世を厭う心を起こすべきであろうか。

 答える。もし、広く観じようとおもえば、前に説いたように、地獄から天道までの六道の因果、不浄・苦などがある。あるいはまた、龍樹菩薩が、禅陀迦王を勧められた偈にいわれている。

この身は不浄なものが九つの穴から流れ 川や海のように果もなく続いている

薄い皮が覆い隠しうわべは浄らかそうでも 瓔珞をつけてわれと飾っているようなもの

多くの智慧ある人ははっきりと見定め その偽りの姿を知って棄てる

譬えばひぜんの人が烈しい炎に近づけば 初め暫くは気持ちがよくても後に苦しみが増すようなものである

貪欲むさぼりの思いもまたまた同じことで 初めには楽しんで執着するが後にはうれいが多い

このみのまことのすがたはみな不浄と見る これすなわち空・無我を観ずるものである

もしこの観を修めることができる者は 利益の中でも最もすぐれている

容貌がよく家柄も高く博識であっても 戒と智の無いものはさながら鳥獣のようである

顔醜く家柄低く学問は浅くても よく戒と智を修める者を勝れた人と名づける

利衰などの八法は免れうる者はない もし除き断つことがあればまことにたぐいがない

すべての出家や修道者 父母・妻子また親族などの

気持ちを迎えてその言葉を受け入れ 広く不善・非法の行いをしてはならぬ

もしこれらのために多くのあやまちを犯せば 未来の大苦はただわが身に受けるばかり

多くの悪事を犯してもすぐには報いず 刀で傷つけ割かれるようなことではないが

命の終わる時に罪のすがたが始めてみな現われ 後地獄に堕ちていろいろの苦しみを受ける

信と戒と施と聞と慧と慚と愧と このような七つのものを聖なるたからと名づける

真実で比べものはないと仏が説きたもう この世のいろいろの珍しい宝に超えすぐれている

足ることを知るならば貧しくても富むと言える 財産はあっても欲望が多ければこれを貧しいと名づける

もし財産が豊かであればいろいろの苦を増す 龍は首が多ければ苦しみを増すようなものである

美味は毒薬のようだと観じ 智慧の水を注いで浄らかにさせるべきである

この身を保つためには食べねばならぬが むやみに美食を求めて憍慢の心を増してはならぬ

いろいろの欲望に対しては厭う心を起こし 勤めて無常涅槃の道を求むべきである

この身を整えて安らかにさせ その後に斎戒を修めるがよい

一夜を分けて五つの時とする そのうちの二時の中に眠り休むべきである

初夜・昼夜・後夜の三時には生死を観じ 勤めてさとりを求め空しく過ごしてはならぬ

譬えば僅かの塩を恒河に入れても 水に塩辛い味をつけることができぬように

わずかの悪は多くの善に遇うと 消え去ってしまうことまたこのようである

たとい梵天の欲を離れた楽しみを受けても また炎の燃えさかる無間地獄の苦しみに堕ちる

天の宮に住み光明を具えていても 後には地獄の暗闇の中に入る

いわゆる黒縄や等活地獄の 焼き割き剥ぎ刺す苦さては無間地獄

これら八地獄がたえず盛んに燃えるのは すべて衆生の悪行の報いである

地獄絵を見たり人の話を聞いたり さては経文を見て自分で思い浮かべ

こうして地獄の苦を知っただけでも忍びがたい まして自ら地獄を経めぐるときはなおさらである

もしまた人あって一日の内に 三百の矛でその身を刺しても

阿鼻地獄での一瞬の苦しみに比べると 百千万分の一にも及ばない

畜生道に落ちても苦しみは限りない 繋ぎ縛られるものもあれば鞭うたれるものもある

さては明珠や羽・角・牙 骨や毛皮や肉を取るために殺されるものもある

餓鬼道の中の苦しみもまた同じことである 欲しいものは思うように手に入らず

飢渇に迫られ寒熱に苦しみ 身心疲れ物に乏しいなど苦しみは限りがない

糞尿などの穢物その他の不浄さえ 百千万劫にも手に入れることができぬ

たといまた尋ね求めて僅かばかりを得ても 更にまた奪い取られて失ってしまう

涼しい秋の月にも暑さを患え 暖かい春の日にも甚だ寒さに苦しむ

園や林に行けば食べようとする果実は皆なくなり 清いながれに至ると飲もうとする水は俄かに干上る

罪業のえにしのために命は長く 一万五千の年を経る

多くの苦しみを受けて欠けることのないのは すべて餓鬼の果報むくいである

煩悩の急流は衆生を漂わし 深い恐れの燃え上る苦しみとなる

このような多くの煩悩を滅しようと思うなら ぜひとも真実の解脱の道を修めよ

この世の多くの仮のすがたを離れるならば 清浄不動の処を得る

 もし簡略に示すなら、馬鳴菩薩の作った頼和羅という伎楽に唱われているとおりである

迷いのすべてのものは、幻のごとく仮のものである 三界の牢獄に縛られ楽しむべきものは一つもない

王位は高く際立って精力は自在であっても 無常の風が訪れると保ち得る者は誰もない

あたかも空中の雲のごとくたちまちに散り果てる この身の虚しいことはさながら芭蕉のようである

あだとなり賊となり親しみ近づくことはできぬ 毒蛇を入れた箱のようで誰が愛で楽しもうか

それ故諸仏は常にこの身を責めたもう

 この中に、詳しく無常・空・無我のことわりを述べてあるから、聞く者は、仏道を悟るのである。また、堅牢比丘の石窟の壁に書かれている偈にいわれている。

生死の迷いを断ち得ぬのは 貪欲むさぼりに耽るがためである

あだを養うて墓に入り 空しく多くの苦しみを受ける

この身の臭いことは死骸のようであり 九つの穴から不浄を流す

厠の虫が糞を喜ぶように 愚かな者はこの身を貪る

思い乱れるいろいろの考えが 五欲の源となる

智慧のある人は執らわれることなく 五欲はすぐに断ち切える

邪な思いから頓着むさぼりが起こり 頓着から煩悩が起こる

正しい思いで貪欲がなければ 他の煩悩もまた尽きる

 昔、弥楼犍駄仏の滅後、正法が滅んだ時、陀摩尸利菩薩が、この偈を求め得て仏法をひろめ、無量の衆生を利益したという。さらにまた、《仁王経》に、無常・苦・空・無我の四非常を述べた偈があるから見るがよい。もし、極めて簡略なことを願うなら《金剛経》に説かれているとおりである。

すべてうつりゆくものは 夢や幻泡や影のようであり

また露やいなづまのようであると このように観ずべきである

あるいはまた、《涅槃経》の偈に説かれている。

あらゆるものは無常であり これが消滅の法である

消滅の相がなくなれば これが寂滅さとりの楽である

 祇園寺の無常堂の四隅に、頗梨の鐘があって、その鐘のうちにもまたこの偈を説く。病気の僧が、その鐘の音を聞くと、苦しみがすぐ除かれ、さわやかな楽しみを感じ、三昧に入るごとく浄土に生まれたという。また雪山で道を求めた大士は、身を捨てて、この偈を得られたということである。仏道を行ずる人たちよ、よく思いをめぐらされよ。決してうっかりしてはならぬ。仏の説きたもうように観察して、むさぼりいかりおろかなどの迷いのわざを離れるありさまは、獅子が人間を追いかけるようにするがよい。愚かな犬が土塊つちくれを追うように、外道の真似をして無益な苦行をするようなことがあってはならぬ。

 問う。不浄・苦・無常の三つは、その訳がよくわかる。ところで、現に、ものは存在しているのに、どうして「空」と説くのか。

 答える。経に「夢・幻・化のようだ」と説かれてあるではないか。それ故、夢の世界に例を求めて、空の意義を考えて見よう。《西域記》にいうとおりである。

婆羅痆斯国の施鹿林の東、二三里ばかり行くと干上った池がある。むかし、一人の世捨人がいた。この池のほとりに庵を結んで身を隠し、いろいろと技術を習って奥深い道理を究め、瓦や石塊いしくれを宝物に変えたり、人や獣などのすがたを変化させることができた。けれども、まだ風雲に乗って天上の仙界に赴くことができなかった。そこでいろいろと書物を調べ、古くからの事を考え、更に仙術を求めた。その手段というのは「一人の勇士に命じて、長い刀を手にもって壇の隅に立たせ、息を殺し、無言のまま、夕方から夜明けまで続けさせる。仙人になりたい者は、中央の壇に坐り、手に長い刀を執り、口に不思議な呪文を唱え、見ることも聞くこともしないままで、夜明けまで修行すると、仙人になって天に登る」というのである。とうとう、この仙術のやり方に依って、一人の勇士を探し出し、さいさい手厚い贈物を与え、内々に恩徳を施した。そして世捨人がいうよう、 「どうか、一晩中、声を出さないでいてくれ」と。その勇士は「死ぬことさえ厭いません。無言の行くらい何でありましょう」といった。

 そこで修行の道場を設け、仙法を受け、やり方どおりに行事を取り行った。そして、日暮を待ち、日が暮れると、それぞれ自分の任務についた。世捨人は不思議な呪文を唱え、勇士は鋭い刀を手にした。ところが、もう夜明けになろうとする時、俄かに声を出して叫んだ。その時、世捨人は問うていうよう、「君によく注意して、声を立てないようにといったのに、どうして驚いて叫んだのか。」勇士がいうよう、「仰せを受けてから、夜中になると、ぼんやりとしてしまい、夢のように、いろいろと不思議なことが起こりました。むかし、仕えた主人が、わざわざ来て慰めてくださるのを見ましたが、あなたの手厚い御恩を受けている事を感じて、辛抱して返事をしませんでした。すると、その主人は激怒し、とうとう私は殺されて中陰の身を受けました。自分の死骸を眺めて、歎き惜しみはしましたが、それでも世々を経ても、無言を続け、それであなたの手厚い御恩に報いたいと願いました。ついに私は南印度の大婆羅門の家に生まれかわったのです。母胎に宿り、誕生後、いろいろと苦しみを受けてきましたが、あなたの恩徳を受けている事を思って、一度も声を出しませんでした。さて、加行をうけつぎ、結婚し、親をうしない子供のできた後にも、たえず前生の御恩を思い、辛抱して無言を続けたので、親戚中の人が、みな不思議がっていました。六十五才を過ぎた時、私の妻が『あなた、お話をしてください。もし、そうでなければ、あなたの子供を殺しますよ』といいました。私はその時に思いました。〈もう今では、前生と違っている。自分のありさまを考えると、年老い衰えて、ただ、このおさな児だけしかない。それゆえ、妻が子供を殺すのを止めさせよう〉と。それで、とうとう、こういう声を出したのでございます。」世捨人がいった。「自分の過ちであった。これは悪魔が邪魔をしたのだ。」かの勇士は、世捨人の恩を感じ、仙術が失敗したことを悲しみ、憤りのあまり死んでしまった。

 夢の世界は、このようなものである。あらゆるものも、やはり同様である。妄想の夢がまだ覚めないので、空なるものを実の有であると考えている。それゆえ《唯識論》にいわれている。

まだ真のさとりを得ない時は、常に夢の中にいるようである。それゆえ仏は生死まよいの長夜と説きたもうのである。

 問う。もし、無常・苦・空などの観をするならば、小乗の人が、自分ひとりの道を修め、ひとり解脱することと々ことではないか。

 答える。この観は、小乗だけに限らないので、大乗にも通じて存在するのである。《法華経》に説かれているとおりである。

大慈悲をへやとし 柔和・忍辱を衣として

あらゆるものの空を座とし ここに坐って法をとこう

 すべてのものが空であることでさえ、大慈悲心を邪魔するものではない。まして、苦・無常などの観は、菩薩の願を促すのである。それゆえ、《大般若》などの経には、不浄観などをも、菩薩の法としている。もし知ろうと思う者は、さらに経文を読むがよい。

 問う。このように観ずると、どんな利益があるのか。

 答える。もし、たえずこのように心を調ととのえ鎮めると、五欲が次第に薄れて、命の終わる時には、正しい思いを保って乱れず、悪い世界に落ちないのである。《大荘厳論の、正しい思いを起こす事を勧める偈にいうとおりである。

年若く憂いもない時は 怠って道に努めず

世の中の努めにあくせくし 施と戒と禅とを修めなかった者は

死のために呑まれようとする時 はじめて後悔して善を修めようと望む

智慧ある者は観察し 五欲の思いを断ち除くがよい

努めて道に励むものは 命の終わる時悔いる思いはない

心が道にひたすらであれば 乱れ誤る思いはない

智慧ある者は務めて心を保てば 臨終には心乱れず

心を励むこと専らでないならば 臨終には必ず心が散り乱れる

また《宝積経》の第五十七巻の偈に説かれている。

この身を観ずることをせよ 筋と脈とはたがいにまつわりめぐ

潤う皮は包み覆う 九つの所に出口があって

糞尿その他不浄のものが 遍く常に流れ出る

さながら倉と笊の中に 多くの米や麦を盛るがようである

この身もちょうどそのように いろいろのきたないものがその中に充ちている

骨の機関あやつりを動かせば 危なくもろくて確かでない

愚かな者はたえず愛し好むけれども 智慧ある者は執着することがない

はなつばき・汗はたえず流れ 膿血はいつも満ちみちている

黄色い脂は乳と混ざり 脳は髑髏の中に満ちる

胸にはねばい痰が流れ 内にはさまざまの内臓がある

脂肪あぶらと皮膚と 五臓やその他の胃腸など

このように臭く爛れた 多くの不浄と共に住む

この罪多い身は深く恐れるがよい これこそあだかたきの家なのだ

それをも知らずに耽り貪る人は 愚かにもこの身をたえず護るが

このように臭く穢れた身は さながら朽ちはてた城のようである

昼も夜も煩悩にめられ 移り流れて暫くもとどまることはない

この身は城 骨は壁 地や肉を泥とする

むさぼりいかりおろかを絵具として その場所ごとに色どり飾る

骨身の城を憎むがよい 血と肉は互いに連らなり

いつも悪い知識とものために 内外の苦で煎られるようである

難陀よ汝はよく心得るがよい わたしが説き聞かせたように

昼夜にたえず思いをかけ 欲望の世界を思ってはならぬ

もし遠ざけ離れようと思う者は 常にこのような観を修め

解脱さとりの世界を求めるならば 速やかに生死まよいの海を超える

その他の利益は《大論》・《止観》などを見るがよい。

【21】大文第二に欣求浄土というのは、極楽の国土と衆生とは、その功徳が無量で、百劫・千劫という長い間かかっても、説き尽すことはできない。数でも喩えでも、また知りわけられることではない。けれども、《群疑論》には極楽浄土の三十種の徳益を明かし、《安国鈔》には二十四種の楽を挙げている。そこで、極楽をめたたえることは、ただ人の考え方によるということが知られる。

 今、私は十種の楽を挙げて、極楽浄土をめようと思うが、それはちょうど、一筋の毛で大海の水を滴らせるようなものである。第一には聖衆来迎の楽、第二には蓮華初開の楽、第三には身相神通の楽、第四には五妙境界の楽、第五には快楽無退の楽、第六には引接結縁の楽、第七には聖衆倶会の楽、第八には見仏聞法の楽、第九には随心供仏の楽、第十には増進仏道の楽である。

【22】第一の聖衆来迎の楽とは、およそ悪い行いをした人の命が尽きる時には、身体の中の風の要素と日の要素が、まず無くなるから、その人は動乱し発熱して苦しみが多い。善い行いをした人の命が尽きる時には、身体の中の地の要素と水の要素とが、まず無くなるから、その人の臨終はおだやかで、苦しみがない。

 まして、念仏の功徳を積み、極楽に心を寄せることに長い年月を重ねた者は、臨終の時になると、大きな喜びが自然と湧いて来る。その訳は、阿弥陀如来が、その本願の通りに、多くの菩薩や百千の比丘たちと共に、大きな光明を放ち、はっきりと目の前に現われたもう。その時、大悲の観世音菩薩は、多くの福業を積んで成就せられた御手を差し伸ばし、宝の蓮台を捧げて、念仏行者の前に来られ、大勢至菩薩は、無量の聖衆とともに、同時に讃めたたえ、手を差しのべて引接せられるのである。この時、念仏行者は、まのあたり自らこれを見て、心の中で歓喜し、身も心も、禅定に入るように安楽だからである。知るがよい、草の庵で目を閉じる時が、すなわちはちすうてなに坐る時である。そこで阿弥陀仏の後に従って、菩薩たちの仲間に加わり、一念の間に西方の極楽世界に生まれることができる。

 かの忉利天上の億千年もの楽しみや大梵王宮の深い禅定の楽しみ、これらの多くの楽しみは、まだ本当の楽しみとするには足らぬ。それらは、車の輪のように転じ変わることが際限もなく、ついには三途を免れないのである。ところが、今、観音のたなごころに乗り、宝蓮のうてなに託すると、永く苦しみの海を越えて、初めて浄土に往生するのである。その時の歓喜よろこびの心は、言葉で言い尽くすことはできない。

 龍樹菩薩の偈にいわれている。

もし人が命終わって 彼の国に生まれることを得たならば

すなわち量りない徳をそなえる それゆえわたしは帰命したてまつる

【23】第二の蓮華初開の楽とは、行者がかの極楽に生れてから蓮華が初めて開く時、その受ける歓楽たのしみは、前の楽しみに百千倍する。ちょうど、盲人めしいが始めて眼が開いたようであり、また、身分の低い者が、急に王宮に入ったようなものである。みずから、その身を見ると、はやすでに紫磨金色の体となり、自然の宝衣を身に着け、たまきかんざしや宝の冠などが、限りも無くその身を飾り立てている。

 仏の光明を見て、清浄の眼を得、前世の因縁に依って、多くの説法の声を聞く。眼に触れ、耳に聞こえるもののすべてが、勝れて妙でないものはない。虚空のはてまで満ちる荘厳は、雲路を見やる眼もとまどい、勝れたみ法を説きたもう声は、国中に満ちわたる。楼殿たかどのや林や池は、互いに照り輝き、かも・雁・鴛鴦おしどりなどは遠く近く群がり飛ぶ。あるいは人々が、十方世界から俄雨のように、生まれて来るのを見たり、あるいは聖衆が、数限りない仏のみ国から恒河の砂のように来るのを見たりする。楼台たかどのに登って、十方を眺める者もあるし、宮殿に乗って虚空にとどまっている者もある。空中に留って、経を読み、法を説く者もあるし、空中に留って、坐禅して定に入る者もある。地上でも林の間でも、また同様である。処々に、また河を渡り、流れで洗い、音楽を奏で、花を散らし、楼殿にゆきして、仏を礼拝し、讃めたたえる者もある。このような数限りもない天人聖衆は、思いのままに遊び戯れる。まして化仏・化菩薩が、香の雲、花の雲のように、極楽浄土に充ちみちていて、詳しく一々述べることはできぬ。

 また、次第に眼を転じて、遥かに見たてまつると、弥陀如来は、黄金の山のように宝の蓮華の上に坐り、宝池の中央にまします。観音と勢至の二菩薩は、御姿尊く、これまた宝の蓮華に坐って、仏の左右に侍りたまい、無量の聖衆は敬って、み仏を囲みめぐっている。また、宝地の上には宝樹がならび、宝樹の下には、それぞれ一仏と二菩薩とがましまして、光明で飾られ、その光が瑠璃の地に行きわたっていることは、夜の闇の中に、大きな炬火たいまつを燃しているようなものである。時に、観音と勢至の二菩薩は、行者の前に来られ、大慈悲の声をいだして、いろいろに慰め説かれる。行者は、蓮台から降り、身体を大地に投げ出し、ぬかずいて敬礼したてまつる。すぐさま菩薩の後について、ようやく仏のみもとに至り、七宝の階段にひざまずき、あらゆる功徳を具えられた尊いお姿を見たてまつる。そこで真如実相の道を聞き、普賢の願いを起こし、歓喜よろこびの涙を流して有難い思いが骨身にみ通るのである。

 このように、仏の世界に入って、はじめて、今までになかった喜びを得る。昔、行者は、かつてこの世にいるときわずかに経文を読んではいたが、今まさしくこの事を見て、その喜びの心は、どれほどであろうか。

 龍樹菩薩の偈にいわれている。

もし善根を積んで生まれようとする 疑心の行者であれば華は開けず

信ずる心の清浄な者は 花が開けて仏を見たてまつる

【24】第三に身相神通の楽とは、極楽の人々は、その身体真金色で、内も外も、ともに清浄である。いつも光明があって、互いに照らしあっている。三十二のすぐれたすがたがそなわり、その姿はことのほか端正で、この世で比べるものがない。声聞たちの身の光は、一尋である。菩薩の光明は、百由旬を照らす、あるいは十万由旬ともいう。第六天の主を極楽の人々に比べると、ちょうど乞食が帝王の側にいるようなものである。

 また、極楽の人々は、皆、五つの神通力を具え、その不思議なはたらきは測り難く、思いのままに自由自在である。もし、十方世界のありさまを見ようと思えば、足を運ばずにすぐさま見え、十方世界の声を聞こうと思えば、その座を立たずに、すぐさま聞こえる。限りない前世の事も、今日聞くようにわかり、六道の衆生の心は明らかな鏡に映るすがたのようである。数限りもない仏の国を、間近なところのように往来する。およそ空間的には百千万億那由他の国を、時間的には百千万億那由他の劫を、一念のうちに、自由自在に往来し見聞するのである。

 今、この娑婆世界の人々は、三十二相の中で、誰が一相でも得ているか。五神通の中で、誰が一つの通力でも得ている者があろうか。灯火か太陽の光でもなければ照らすこともなく、足で歩いて行かなければ、どこにも至ることはできぬ。紙一重でも、その外は見えず、一念でも、その後はわからぬ。鳥篭のような迷いの世界をまだでないから、事々に妨げがあるのだが、極楽の人々には、ひとりとしてこれらの功徳を具えていないものはない。百大劫の間に相好を得る行業を植えたのでもなく、四禅定の中に、神通を得る因を修めたのでもなくて、ただこれは極楽で生まれながらに得たねんの果報なのである。なんと楽しいことではないか。

 龍樹菩薩の偈にいわれている。

人々の身相は同じくて あたかも金山の頂のようである

いろいろのすぐれた所を集めている それゆえぬかずき礼したてまつる

かの国に生まれたならば 天眼通や天耳通をそなえて

十方にあまねくさえぎられる所がない 聖中の尊である如来にぬかずきたてまつる

その国のすべての人々は 神足通および他心通

また宿命通をそなえている それゆえ帰命し礼したてまつる

【25】第四に五妙境界の楽とは、阿弥陀仏は四十八願で浄土を荘厳せられてから、あらゆるすべてのものは、美しく妙なる極みである。見るものはすべて浄らかな色、聞くものはすべてが解脱の声でないものはない。香・味・触の境界もやはりこのようである。

 さて、かの世界は、瑠璃を大地とし、金の縄でその道を区切り、平らかで高低たかひくもなく、広やかで、はてもない。その輝きは、いとすぐれ、麗しく浄らかである。いろいろのすぐれたきぬをその地上に敷きつめ、人々はすべてこれを踏んで行く。

 多くの宝からできている国土の一々の地域の上には、五百億の七宝からできている宮殿楼閣があり、その高さは心のまま、広さも思いのままである。多くの宝の床には、すぐれたきぬをその上に敷き、七宝の欄楯てすり、百億の花のはたぼこがあり、玉の瓔珞を垂らし、宝のはたかさを懸けてある。宮殿の内、たかどのの上には、多くの天人がいて、いつも音楽を奏で、如来のお徳を歌いたたえている。

 講堂・精舎・宮殿・楼閣の内外左右には、多くの水浴する池がある。黄金の池の底には白銀の砂があり、白銀の池の底には黄金の砂がある。水精の池の底には瑠璃の砂があり、瑠璃の池の底には水精の砂がある。珊瑚・琥珀・硨磲・白玉・紫金などの池や砂も、このようである。八功徳水がその中に充ちみち、宝の砂が映り通って、どれほど深くても照らさないところはない。八功徳というのは、一つには浄らかに澄んでいる。二つには清く冷ややかである。三つには甘くおいしい。四つには軽く柔らかい。五つにはしっとりと潤いがある。六つには穏かで安らかである。七つには呑むと飢えや渇きなどの量りない思いを除く。八つには飲みおわるとかならず身体を養い、いろいろのすぐれた善根を増す。

 四方の階段の道は、多くの宝を合わせてできており、さまざまの宝の花は、池の中をあまねく覆っている。青い蓮には青い光があり、黄色い蓮には黄色い光がある。赤い蓮や白い蓮も、それぞれその光があって、微風そよかぜが吹いて来ると、花の光が揺れ動く。一々の花の中には、それぞれ菩薩がられ、一々の光の中には多くの化仏がまします。微瀾さざなみは回り流れてやがて注ぎあう。ゆるやかに流れ、おもむろに去り、遅くもなく早くもない。その流れの声は、いとすぐれ、仏のみ法でないものはない。あるいは苦・空・無我やいろいろの波羅蜜を説き述べたり、あるいは十力・四無畏・十八不具法を説く声を流し出す。さては大慈悲の声、さては無生忍の声である。その聞くところにしたがって喜びは無量である。清浄な寂滅、真実の義にかない、菩薩や声聞の修める道にしたがっている。またかも・雁・鴛鴦おしどり・鷺・がちょう・鶴・孔雀・鸚鵡・伽陵頻迦など多くの宝の色ある鳥は、昼夜に六たび優しい声を出して、仏・法・僧を念ずることを讃め嘆え、五根・五力・七菩提分の法を説き述べる。三途・苦難の名さえもなく、ただ自然の快楽の声だけがある。

 極楽の菩薩や声聞たちが、宝の池に入って、水浴する時は、その深さは思いのままで、その心に違わず、心の垢を洗い去って、清らかに澄みきっている。この水浴が終わってしまうと、おのおの去り、あるいは空中にあり、あるいは木の下にあって、経を説き経を読む者もあれば、経を受け経を聞く者もある。坐禅する者もあれば、経行する者もある。その中で、まだ須陀洹を得ない者は、すぐに須陀洹を得、さては、まだ阿羅漢を得ない者は阿羅漢を得、まだ阿惟越致を得ない者は阿惟越致を得る。このように皆すべてさとりを得て歓喜しないものはない。また清い河があり、その底には金の砂を敷き、深さ冷たさは、人の好みによくかなっている。人々は遊覧して、ともに河の水際に集まる。

 池のほとり、河の岸には栴檀の木があって、列と列とあい対し、葉と葉と互いにつらなる。紫金の葉、白銀の枝、珊瑚の花、硨磲の実というように、一宝から七宝までの、あるいは純一、あるいは混合した枝・葉・花・このみで飾りたて、映りあっている。そよ風が、時あって来り、多くの宝樹を吹くと、玉の網は微かに動いて、美しい花がゆるやかに落ちる。風のまにまに香りを散らし、水に混って匂いを流す。まして、いとも妙なる音を出し、いろいろの音色が調和すること、たとえば百千種の音楽を、同時に共に奏するようなものである。聞く者は、自然に仏・法・僧を念ずる。かの第六天の万種の音楽も、この木から出る一つの音声には及ばぬのである。葉の間には花を生じ、花の上には果実があって、みな光明を放ち、変じて宝蓋となり、すべての仏のはたらきはこの蓋の中に映り現われる。さては、十方の清らかな仏土を見ようと思うと、宝樹の間にすべて悉く照らされて現われる。木の上には七重の宝網があり、宝網の間には五百億の勝れた花の宮殿がある。宮殿の中には、多くの天童子がいて、瓔珞は光り輝き、自由自在に遊び楽しんでいる。このような七宝の多くの木々は、その世界中にゆきわたる。名高い花や柔らかい草も至る所にあって、やわらかく、香りは清らかで、これに触れる者は楽しみを起こす。

 多くの宝の網は虚空に一面に覆い、さまざまの宝の鈴を懸けて、妙なるみ法の声を宣べる。天花は美しい色を具えて、しきりに乱れ落ち、宝衣や身を飾る品々は、回りながら下りて来る。ちょうど鳥が飛んで空から下りるような具合で、これを諸仏に供養するのである。また限りない楽器があって、遥かに大空に懸かり、奏でもしないのに自然と鳴り、みな勝れたみ法を説く。

 またこころにかなう勝れた香・塗香・抹香など、無量の香が芳しく、世界中に満ちわたる。もし、この香をぐものは、煩悩の心が自然と起こらない。すべて地上から空中に至るまで、宮殿も花樹も、すべてのものはみな限りないいろいろの宝と百千種の香りとでできている。その香りは、あまねく十方の世界にかおり、その香りをぐ菩薩はみな仏道を行ずる。また、彼の国の菩薩・羅漢、多くの衆生たちが、もし食事したい時には、七宝の机が自然に現われ、七宝の鉢には、おいしい品が満ちている。世間の味とは比較にならず、また天上界の食物の味でもない