【1】 ●そもそも、極楽に往生するための教行は、濁りはてたこの末の世の目とも足ともなるものである。僧も俗も、身分の高いものも低いものも、誰かこれに従わぬものがあろうか。しかし、顕教や密教のみ
●この書は総じて十門から成り、三巻に分けてある。第一には厭離穢土、第二には欣求浄土、第三には極楽証拠、第四には正修念仏、第五には助念方法、第六には別時念仏、第七には念仏利益、第八には念仏証拠、第九には往生諸業、第十には問答料簡である。これを手元に置いて忘れないように備えよう。
【2】 ●大文第一に、厭離穢土というのは、ぜんたい迷いの三界は安らかなことがなく、最も厭い離れるべきである。今、その有様を明かすと、総じて七種がある。一つには地獄、二つには餓鬼、三つには畜生、四つには阿修羅、五つには人、六つのは天、七つには総結である。
【3】 ●第一には地獄、これがまた八種に分かれる。一つには等活、二つには黒縄、三つには衆合、四つには叫喚、五つには大叫喚、六つには焦熱、七つには大焦熱、八つには無間である。
【4】 ●はじめに等活地獄というのは、この世界の下、一千由旬の所にあって、広さは一万由旬である。ここにいる罪人は、互いに絶えず相手を傷つけようとする心をいだいている。もしふと相手に出会うと、ちょうど猟師が鹿を見つけたようなもので、それぞれ鉄の爪で、互いに掴み裂いて、血も肉もすっかり無くなってしまい、ただ骨だけが残っているという有様である。あるいは地獄の鬼が手に手に鉄の杖や鉄の棒を取って、頭から足まで、くまなく皆打ち突くと、罪人の
●人間世界の五十年を四天王天の一昼夜として、四天王天の寿命は五百年であるが、その四天王天の寿命を、この等活地獄の一昼夜として、この地獄の罪人の寿命は五百年である。殺生した者がこの地獄に堕ちる。《優婆塞戒経》には、初天の一年を初地獄の一昼夜としている。以下もこれに準ずる。
●この地獄の四門の外に、また十六の付属した別処の地獄がある。●一つには屎泥処。ここには非常に熱い泥のように溶けた糞便があって、その味は最も苦い。金剛のように堅い嘴のある虫が、その中に
●二つには刀輪処。ここには鉄壁が周囲を取り巻いて、その高さは十由旬である。猛火が盛んに燃えて、絶えずこの中に満ちている。人間世界の火は、これに比べると、まるで雪のようなものである。この猛火が、ほんの僅かでも罪人の身体に触れると、芥子のようにこまかく身体が砕けてしまう。また熱鉄が豪雨のように降ってくる。また刀林があって、その刃は非常に鋭い。また両刃の剣があって、雨のように降ってくる。このように多くの苦しみがかわるがわる来て、とても辛抱することができない。むかし物を貪って生物を殺した者が、この中に堕ちる。
●三つには瓮熱処。ここでは、罪人を捕えて、鉄の
●四つには多苦処。この地獄には万億種の無量の苦しみがあって詳しく説くことができない。むかし縄で人を縛り、杖で人を打ち、人を遠い旅路に追い立て、嶮しいところから人を突き落とし、煙をくすべて人を悩まし、子供をおどしたりする、このような種々に人を悩ました者が、皆この中に堕ちる。
●五つには闇冥処。罪人は暗黒の所にいて、絶えず闇火に焼かれる。烈しい猛風が、金剛山を吹いて、ちょうど砂を散らすように磨り合わせ砕く。罪人は鋭い刀で切り
●六つには不喜処。ここには大火炎が昼夜に燃えている。熱い炎を吐く嘴をもつ鳥や犬・狐がいて、その声は非常に気味悪く、はなはだ恐ろしい。絶えずこれらの動物が来て罪人を噛み
●七つには極苦処。ここの罪人は、嶮しい崖の下にいて、絶えず鉄火に焼かれる。むかし、ほしいままに生物を殺した者が、この中に堕ちるのである。
【5】 ●二つに、黒縄地獄は等活地獄の下にあって、広さは前と同じである。地獄の鬼が罪人を捕えて熱鉄の地に臥せさせ、熱鉄の縄で縦横に身体に墨縄を引き、熱鉄の斧で、この墨縄の通りに身体を切り割る。あるいは鋸で引き切り、あるいは刀で切り刻み、幾百千の肉片として処々に散らしておく。また、熱鉄の縄を懸けて、無数に交錯させ横たわらせてある。罪人を追い立てて、その中に入らせると、悪風が激しく吹いて、罪人の身に絡まりあい、肉を焼き骨を焦して、その苦しみは極まりがない。
●また左右に大きな鉄山がある。山の上には、それぞれ鉄の幢を建て、その先に鉄縄を張り、縄の下には熱い釜が沢山ある。罪人を追い立てて、この鉄山を背負わせ、縄の上を綱渡りさせ、はるか下にある鉄の釜に落して、罪人を砕き煮ること極まりがない。
●等活地獄と十六の付属した別の地獄のあらゆる苦しみを十倍して重く受けるのである。地獄の鬼が罪人を責めていう。
「心は第一の
この怨がよく人を縛って 閻魔王の所に送りとどける
汝だけが ひとり地獄の火に焼かれ 悪業のために食われる
妻子兄弟などの親族も救うことができない」
と。●後の五つの地獄が、それぞれその前のすべての地獄のあらゆる苦しみを十倍して重く受けることは、これを例として知るべきである。
●人間世界の百年を忉利天の一昼夜として、忉利天の寿命は千年である。その忉利天の寿命を黒縄地獄の一昼夜として、この地獄の寿命は千年である。生物を殺し、盗みをした者が、この地獄に堕ちる。
●この地獄にも付属の別処がある。等喚受苦処と名づける。ここでは高さ無量由旬の嶮しい崖に罪人を挙げておき、熱い炎に包まれた黒い縄で縛り、繋ぎ終わって、その後、罪人を推しやって、鋭い鉄の刀が立っている熱地の上に突き落とす。罪人は、鉄炎の牙のある犬に噛み殺されて食べられ、身体のすべてはばらばらに分離してしまう。大声を上げて吼えるように叫んでも、誰も救ってくれる者はない。むかし法を説くとき、まりがった見解の論によって、すべてが真実でなく、あらゆる事をかえりみないで、崖から身を投げて自殺した者が、この中に堕ちるのである。
●また別処がある。畏鷲処と名づける。ここでは、地獄の鬼が、怒りに任せて激しく杖で罪人を打ち、昼も夜も、絶えず走りつづけ、手には火炎に包まれた鉄刀を持ち、弓を引き矢をつがえ、罪人の後につきしたがって走り追い、切ったり打ったり射たりする。むかし物を貪るために、人を殺したり人を縛ったりして食物を奪った者が、この中に堕ちるのである。
【6】 ●三つに衆合地獄は黒縄地獄の下にあって、広さは同じである。この地獄には、鉄山が多くあって、それぞれ二つずつ向かいあっている。牛や馬の頭をした多くの地獄の鬼が、手に手に責め道具を持って、罪人を追いたてて山の間に入らせる。この時、両方の山が罪人に迫ってきて押し合わせると、罪人の身体は砕け折れ、血は流れて地面に満ちる。あるいは鉄山があって空から落ちて罪人を打つと、砕けてちょうど沙のような有様となる。あるいは罪人を石の上に置き、岩で罪人を押しつぶし、あるいは鉄の臼に入れ、鉄の杵で
●また、鉄炎の嘴のある鷲が、罪人の
●また、地獄の鬼が罪人を捕えて刀葉の林に置く。かの木の頂上を見ると、みめ麗しく、きらびやかに装った女がいる。罪人は、この女のいる事に気がついて、すぐさま木に上ると、木の葉は刀のように罪人の身体の肉を
他人の作った悪事のために お前が苦しみを受けるのではない
自分の作った業のために自分が受ける報いなのだ 世の人々はすべてこの通りである
●人間世界の二百年を夜摩天の一昼夜として、夜摩天の寿命は二千年である。その夜摩天の寿命を、この衆合地獄の一昼夜として、この地獄の寿命は二千年である。生物を殺し、盗みをし、邪な淫欲を犯した者が、この地獄に堕ちる。
●この大地獄には、また十六の付属した別の地獄がある。●そこに悪見処と名づける一地獄がある。他人の子供を奪って、強迫し暴行して、泣き叫ばせた者が、ここに堕ちて苦しみを受ける。その有様をいえば、罪人は自分の子供が、地獄の中にいるのを見る。地獄の鬼は、鉄の杖や鉄の錐で、その子供の陰部を突き刺し、あるいは鉄の鉤で、その子供の陰部に釘うつ。罪人は、わが子の、このような悲惨な有様を見た時、子供
●また、別の地獄がある。多苦悩処と名づける。男色を犯した者が、この地獄に堕ちて苦しみを受けるのである。その苦しみの有様をいうと、前世に愛した男を見ると、身体のすべての個所に、皆ことごとく熱炎がある。この炎の男が来て罪人の身を抱くと、身体のすべての部分が皆ことごとく分解し散乱してしまう。死んでしまって、また
●また別の地獄がある。忍苦処と名づける。他人の妻を犯した者が、この地獄に堕ちて苦しみを受ける。その苦しみの有様をいうと、地獄の鬼が罪人を樹の頂上に吊す時、頭を下にし、足を上にする。下には激しい炎を燃やして、身体のすべての部分を焼く。焼き尽くすと、また生きかえる。苦しさのあまり、大声で叫ぼうとして口を開くと、火が口から入って、心臓・肺臓などの五臓六腑を焼く。その他の別の地獄については経に説いてある通りである。
【7】 ●四つに叫喚地獄は衆合地獄の下にあり、広さは前の地獄と同じである。地獄の鬼の頭は、金のように黄色で、目の中から火が燃え出て、赤色の衣を着ている。手足は長く大きくて、風のように早く走る。口から恐ろしい声を出して、罪人を射る。罪人は怖れのあまり、頭を叩いて、哀れみを求め、「どうぞお慈悲を掛けて、すこしはお許し下さい」という。この言葉をいっても、ますます地獄の鬼は怒りを増す。
●あるいは鉄棒で頭を打ち、熱鉄の地を走らせ、あるいは熱い鍋に入れ、繰り返して
●罪人は偈を唱え、閻魔王に仕える鬼を怨み悲しんでいう。
あなたは何という慈悲の心がないことよ また何と
わたくしは慈悲の心の持ち主であるのに わたくしにどうして慈悲を掛けぬのか
●すると、閻魔王に仕える鬼は、罪人に答えていう。
みずから愛欲の
いま悪業の報いを受けたのに どうして我を怒り恨むのか
●また、いう。
汝はもと悪業を作り 愚かな欲に欺かれた
そのとき何故悔いなかったのか 今になって後悔してもどうしてまにあおうか
●人間の四百年を兜率天の一昼夜として、兜率天の寿命は四千年である。その兜率天の寿命を、この地獄の一昼夜として、この地獄の罪人の寿命は四千年である。殺生し、盗み、
●また十六の付属した別の地獄がある。●その中に火末虫処と名づける一地獄がある。むかし酒を売る時に水を加え増した者が、この中に堕ちて、四百四病というあらゆる病気に罹る。その一つの病の力は、一昼夜のうちに、四大洲の若干の人を皆殺すことができる。また、罪人の身から虫が出て、その皮肉骨髄を破って飲み
●また別の地獄があって、雲火霧処と名づける。むかし酒を人に飲まし、酔わせてしまってから、その人を
仏のみもとで愚痴を起こし 世間や仏法の事を破壊し
解脱の智慧を焼くこと火のようなもの それが酒というものである
【8】 ●五つに大叫喚地獄は叫喚地獄の下にあって、広さは前の地獄と同じであり、罪人の受ける苦しみの有様も同じである。前に挙げた四つの地獄とそれらの十六の別な地獄におけるすべてのあらゆる苦しみを十倍して重く受ける。
●人間の八百年を化楽天の一昼夜として、化楽天の寿命は八千年である。その化楽天の寿命をこの地獄の一昼夜として、この地獄の罪人の寿命は八千年である。殺生し、盗み、邪な淫欲を犯し、酒を飲み、嘘をつく者がこの地獄に堕ちる。●地獄の鬼は罪人の前で、責め立てて次のような偈を説く。
嘘偽りは一番おそろしい火で 大海をすら焼き尽くす
まして嘘つきの人を焼くのは 草木の薪を焼くようである
●また、十六の付属した別の地獄がある。●その中に受鋒苦処と名づける一地獄がある。罪人は、熱鉄の鋭い針で、口も下も共に刺され、泣き叫ぶこともできない。
●また別の地獄がある。受無辺苦処と名づける。地獄の鬼は、熱鉄の
【9】 ●六つに焦熱地獄は大叫喚地獄の下にあって、広さは前の地獄と同じである。地獄の鬼は罪人を捕えて、熱鉄の地の上に臥せさせ、仰むけたり
●もし、この地獄の豆ほどの火を、この世界に置くならば、瞬間にこの世を焼き尽くすであろう。まして、罪人の身の軟らかいことは、今萌え出た草のようである。それを長らく焼くのであるから、どうして堪えることができようか。この地獄の人は、前の五つの地獄の火を見て、まるで霜か雪のように冷たいと思う。
●人間の千六百年を他化天の一昼夜として、他化天の寿命は一万六千年である。その他化天の寿命を一昼夜として、この地獄の寿命も同様である。殺生したり、盗み、
●この地獄の四門の外に、また十六の付属した別な地獄がある。●その中に、分荼離迦処と名づける一地獄がある。その有様をいうと、かの地獄の罪人の身体中、芥子つぶほども火炎の無いところはない。ほかの地獄の人は、次のように話しかける。
「君よ、早くおいで、早くおいで。ここに分荼離迦の池がある。飲める水があるよ。しっとりとした林の木影があるよ。」
罪人が、その言葉につれて走って、その場に行くとき、道のほとりに坹があって、その中に燃え上がる炎が充満している。罪人は、この坹に落ち込むと、身体のすべてが、ことごとく焼け尽きてしまう。焼けてしまうと、また、もとどおりになり、もとどおりになると、また焼かれる。それでも分荼離迦池に行こうと欲望に駈られて、前に進んで池に入る。さて、かの池に入ると、分荼離迦の火炎が、五百由旬の高さに燃え上がる。罪人は、かの炎に焼き炙られ、死ぬるとまた活きかえる。もし人が、みずからが死して天上界に生まれたいと願い、また他人に教えて間違った考えを持たせた者は、この地獄に堕ちる。
●また付属した別の地獄がある。闇火風処と名づける。その有様をいうと、この地獄の罪人は、恐ろしい風に吹かれて、空中に巻き上げられ、頼る所もない。車の輪のように早く回転するので、罪人を見ることができぬ。このように回転したあと、別に剣のような風が起こり、罪人の身体を砕いて砂のようにして、十方に散らす。散ってしまうと、また身体がもとどおりになり、もとどおりになるとまた散る。いつもこのようで、きりがない。もし人が〈あらゆる物がらには常と無常とがある。無常というのは身体であり、常というのは四大である〉というようなまちがった考えを起こすならば、その人はこのような苦しみを受けるのである。そのほかは、経に説く通りである。
【10】●七つに大焦熱地獄は焦熱地獄の下にあって、広さは前の地獄と同じであり、苦しみの有様も同じである。
●けれども、前の六つの根本の地獄とこれに付属する別の地獄とにおけるあらゆるすべての苦しみを十倍して重く受ける。詳しく説くことはできない。罪人の寿命は一中劫の半分である。殺生し、盗み、邪な淫欲を犯し、酒を飲み、嘘をつき、間違った考えを起こしたもの、ならびに浄戒を保っている尼をけがした者が、この地獄に堕ちる。●この悪業の人は、まず死んでから、まだ地獄に至らぬ中有の間に、大地獄の有様を見る。そこには閻魔王に仕える鬼がいて、恐ろしい顔をし、手も足もきわめて熱く、身体をよじて肱を怒らせる。罪人は、これを見て非常に恐れる。その鬼の声はまるで雷がとどろくようで、これを聞いて、罪人は更に恐れを増すのである。その手には鋭い刀を持ち、腹は非常に大きくて黒雲の色のようである。炎と燃える眼の色は灯火のようで、曲った牙は鉾のように鋭い。臂も手も皆長く、振り動かして勢いをつけると、身体のすべての部分が、皆ことごとく荒々しい姿になる。そして、かようないろいろと恐ろしい形相をして、罪人の
汝、地獄の苦しみの声を聞いただけで このように恐れおののく
まして地獄の火に焼かれることは 乾いた柴を焼くようである
火で焼くといっても実の火が焼くのではなく 悪業が焼くのである
火の焼くのは消すこともできるが 業の焼くのは消すことができない
●このように十分に責め苦しめたのち、地獄に連れて行くと、大きな炎の集まりがある。その炎は五百由旬の高さに燃え上がり、その炎の広さは二百由旬である。この炎が盛んに燃え上がるのは、罪人が作った悪業の勢力に依るのである。地獄の鬼が、俄かに罪人をかの炎の集まりに投げ下ろすのは、ちょうど大きな山の崖から押して嶮しい岸につきおとすようなものである。
●この大焦熱地獄の四門の外に十六の付属した別の地獄がある。●その中の一地獄は、少しのすき間もなく、大空までも、皆すべて炎が燃えている。針の穴ほども、炎が燃えぬ所とてはない。罪人は、炎の中で声を出して叫び呼んでも、無量億年の間、常に焼かれ続ける。清浄な信女を犯した者が、この中に堕ちる。
●また別の地獄がある。普受一切苦悩と名づける。その有様は、まず炎の刀ですべての身体の皮を剥ぎ割きながら、その肉を傷つけないでおく。さて、その皮を剥いでしまうと、身体と列ねて熱地に敷いておき、火でこれを焼き、沸き上る熱鉄を罪人の身体に注ぐ。このように無量億千年の間、大きな苦しみを受けるのである。比丘が、酒を持戒の婦女に飲ませて誘惑し、その心を迷わしてしまってから、邪な行いをし、あるいは金品を与えたりしたような者が、この地獄に堕ちる。その他は経の中に説いてある通りである。
【11】●八つに阿鼻地獄は、大焦熱地獄の下、欲界の最も底の所にある。●罪人が、この地獄に落ちて行く時、まず、中有の際に、泣き叫び、次のような偈をいう。
あらゆるものはただ炎ばかり 大空あまねく隙間もない
四方もまた四維にも 地上にもあいた所がない
地上のあらゆる場所には 悪人がみな遍く満ちている
わたしはいま落着くべき所もなく ただ独りで
厭わしい暗黒の中にあって 大きな炎のかたまりの中に入る
わたしは虚空の中にあっても 日も月も星も見えぬ
●そのとき閻魔王の手下は、怒りの心で罪人に答えていう。
増劫の時も減劫の時も 大火が汝の身を焼くのだ
愚かな人よ悪事を作った後に 今になってどうして後悔の心を起こすのか
天や阿修羅や健達婆や 龍や鬼のしわざではない
自分の作った業の網に縛られるのだ 汝を救うことのできる者はない
たとえば大海の中にして ただ一掬の水を取るとすれば
汝の今の苦しみは一掬の水であり これから受ける苦しみは大海のようだ
●さて、罪人を責めたててしまうと、地獄に連れて行くのであるが、この地獄から二万五千由旬はなれた所で、かの地獄で泣き叫ぶ罪人の声を聞いて、苦しみは十倍し、悶絶する。頭は下にあり、足は上にあって、二千年を経る間、すべて下に向かって落ちて行く。
●かの阿鼻城は、広さ八万由旬である。七重の鉄城、七重の鉄網があり、下に十八の
●《瑜伽論》の第四にいう。
東方、数百由旬の三熱の大鉄地の上から、猛く盛んな火があって炎を挙げて来て、地獄の人々を刺す。河を貫いて肉に入り、筋を断って骨を破り、また、その髄に通り、蝋燭のように焼く。このようにして、体中が皆猛火となる。東方からの炎のように、南方・西方・北方からも、また、このように炎が迫って来る。こういうわけで、かの地獄の人々は、猛火と混りあって、ただ炎の塊が四方から来るのを見るだけである。火炎は混りあって隙間もなく、受ける苦痛も隙がない。ただ、苦しみに迫られて罪人が泣き叫ぶ声を聞いて、はじめて火炎の中に人のいる事が分るだけである。また鉄の箕で三熱の鉄の炭を盛りあげ、これを焙り揃え、また、熱鉄の地の上に置いて、大熱鉄の山に登らせる。上ってはまた下り、下ってはまた上る。罪人の口から、その舌を抜き出し、多くの鉄の釘でうちつけ、舌を拡げて、皺のないようにするのはちょうど牛の皮を張るような有様である。また、更に熱鉄の地の上に仰むきに寝かせ、熱鉄の
●前の七つの大地獄とならびにそれに付属した別の地獄のあらゆる苦しみを一分とすると、阿鼻地獄の苦しみは、これらに勝ること一千倍である。こういう次第であるから、阿鼻地獄の罪人は、大焦熱地獄の罪人を、ちょうど他化自在天の楽しい所にいる人のようにおもう。四天下の所、欲界の六天も、阿鼻地獄の臭気を嗅ぐと、すぐに、全部気を失ってしまうであろう。なぜかというと、阿鼻地獄の人はきわめて臭いからである。すれに、この地獄の臭気が、どうしてやって来ないかというと、大きな山が二つあって、その一つを出山と名づけ、その二を没山と名づけるが、この山が、かの臭気をさえぎっているからである。もし、人が、阿鼻地獄にある苦しみのすべてを聞くと、皆ことごとく堪えられないであろう。もし、これを聞くならば、死ぬであろう。このようであるから、阿鼻地獄については、その千分の一も説かぬのである。なぜかというと、説き尽くすこともできぬし、聞くこともできぬし、喩えることもできないからである。もし、この地獄を説いたり聞いたりする人があるならば、このような人は血を吐いて死ぬであろう。
●この無間地獄の罪人の寿命は一中劫である。五逆罪を作り、因果の道理を否定し、大乗をそしり、四重禁を犯し、いたずらに信者の施し物を受けた者が、この地獄に堕ちる。
●この無間地獄の四門の外にも、また十六の付属した別な地獄がある。●その中の一処を鉄野干食処と名づける。その有様は罪人の身体の上に大きさ十由旬の火が燃えており、いろいろの地獄の中でも、この苦しみが一番まさっている。また、鉄の瓦を激しい夏の雨のように降らし、罪人の身体は、ちょうど乾肉のように破れ砕ける。炎の牙のある狐が、常に来て罪人を噛み
●また別の地獄があって、黒肚処と名づける。その有様は、罪人は飢えと乾きに身を焼いてみずから自分の肉を食う。食い終わるとまた肉がもと通りになり、もと通りになるとまた食う。黒い肚をした蛇が、かの罪人に絡みつき、足の甲から始めて、次第次第に噛み
●また別の地獄があって、雨山聚処と名づける。その有様は、大きさ一由旬の鉄山が上から落ちて、かの罪人を打つと、砕けて一握りの砂のようになる。砕けてしまうと、またもとどおりになり、もとどおりになると、また砕かれる。また、十一の炎があり、罪人の周囲を包んで、その身を焼く。また、地獄の鬼は、刀で身体の各部分を残り泣く割き、非常に熱い鉛の汁をその裂け目に入れる。四百四病のすべてが、いつも起こり、家急に苦しみを受けて、何年という期限がない。むかし縁覚の食事を奪って自分が食べ、縁覚に与えなかった者が、この中に堕ちる。
●また別の地獄があって、閻婆度処と名づける。像のように身体の大きい猛鳥がいて、その名を閻婆という。嘴は鋭くて炎を吐いている。この鳥が罪人を捕えて、遥かに空中に上り、あちこと飛び回り、そののち罪人を放すと、ちょうど石が地上に堕ちたように、罪人の身体は粉々に砕ける。砕けてしまうと、またもとの身体になり、もとのようになってしまうと、この鳥がまた罪人を捕えるのである。また鋭い刃が道に満ちて、罪人の足を切り割く。あるいは、ほのおの歯のある犬がやって来て、罪人の身体を噛む。かくて、長い間、大きな苦しみを受ける。むかし人々が用いている川の流れを断って、人を渇き死にさせた者が、ここに堕ちる。その他は経に説いてあるとおりである。
●《瑜伽論》の第四には、八大地獄の近辺にある別の地獄を総括して、次のようにいってある。
かのいろいろのすべての大地獄には、皆、四方に四岸・四門があって、鉄の垣が周囲を取巻いている。その四方の四門から出ると、その一々の門の外には、四つの外園がある。
まず、焼けた灰が膝まで積もっている。地獄の罪人たちが出て、家を求めて、あちこち歩き、ここに至る。足を
次に、この焼けた灰の続きに屍糞の泥沼がある。この地獄の罪人たちは、家を求めるために焼けた灰から出てしまうと、次第次第にあちこちと歩き、この中に落ち込んで、首も足も共に沈んでしまう。また、屍糞の泥沼の内には、いろいろな虫が沢山いて、嬢矩と名づける。罪人の皮を貫き肉に食い込み、筋を切って骨を破り、髄を取って食べる。●次に屍糞の泥沼の続きに、鋭い刀の刃を仰むけて道としている所がある。かの地獄の罪人たちは、家を求めるために、屍糞の泥沼から出てしまうと、あちこち歩き回ってここに至り、足を下す時に、皮も肉も筋も血も、すべて皆、粉々になって爛れる。足を挙げる時、またもとどおりになる。●次に、刀の刃の道に続いて、刃の葉の林がある。かの地獄の罪人たちは、家を求めて、刃の道から出てしまうと、かの林の木陰に行き、ちょっとでも木の下に坐ると、微風がすぐ吹き起こって、刃の葉が落ち、罪人の身体の節々のすべてを切り裂くので、罪人は、たちまちの間に地上に倒れる。真っ黒な犬がいて、背中や腹をつかみ裂いて、罪人を噛み
この刃の葉の林に続いて、鉄の設柆末梨の林がある。かの地獄の多くの罪人たちは、家を求めて、さっそく、ここにやって来て、とうとうこの林の木の上に登る。登る際には、あらゆる刺が、すべて下に向き、降りようとする時には、あらゆる刺が、また上に向く。こういうわけで、罪人の身体を貫き刺しその節々まで行きわたる。その時、鉄の嘴のある大きな烏がやって来て、罪人の頭の上に止まったり、肩に止まったりして、目の球を探して
また、広大な熱鉄の地上に罪人を置いて仰むけ、これに向かって、「お前達は、今、どんな望みがあるか」と問う。罪人は「私たちは、今はどんなことも感ぜられませんが、いろいろの
●また、頞部陀などの八寒地獄がある。詳しくは、経・論に説いてある通りである。今、これを述べるいとまがない。
【12】●第二に餓鬼道を明かすと、その住む場所が二つある。一つには地の下五百由旬の所にあって、閻魔王の世界である。二つには、人間界と天上界との間にある。餓鬼の
●あるいは、鑊身と名づける餓鬼がいる。その身は高く大きくて、人間の二倍ある。顔も目もなく、手足はちょうど
●あるいは、食吐と名づける餓鬼がいる。その身は広大で、身の長は半由旬である。いつも、吐き出した汚物を求めているが、手に入らぬので困っている。むかし夫が自分は御馳走を食べながら妻子には与えなかったり、また、妻が自分は食べて、夫と子には与えなかったりした者が、この報いを受ける。
●あるいは、食気と名づける餓鬼がある。世間の人が病気のために、水辺や林の中で祭を行なう時、この香気を嗅いで、それで自分の命を保つのである。むかし妻子らの前で、自分ひとり御馳走を食べた者が、この報いを受ける。
●あるいは、食法と名づける餓鬼がある。嶮しい難所で、走り回って食物を求める。色は黒雲のようで、涙の流れることは雨のようである。僧侶のいる寺に行って、人が祈願したり説法したりするような時に、その力を受けて命を保つのである。むかし名誉や利欲を得ようとして、不浄説法をした者が、この報いを受ける。
●あるいは、食水と名づける餓鬼がいる。飢えと渇きに身を焼き、あわてて水を求めるが、得ることができないで困っている。髪は長く垂れて顔を覆い、目も見えぬまま、川の方に走って行き、もし、人が川を渡る際、足の下から落ちる余り水があると、すばやく手に受けて、それで命をつなぐのである。あるいは、人が水を掬って、亡くなった父母に施すことがあれば、その際、すこしの水を手に入れて、生き長らえることができる。もし、自分で水を取ろうとすると、水を守る多くの鬼が、杖で殴り打つ。むかし酒を売るのに水増ししたり、
●あるいは悕望と名づける餓鬼がある。世にいる人が、亡くなった父母のために法事を設ける時だけ、その施物を食べることができる。その他は、すべて食事をする事ができぬ。むかし他の人が苦労して僅かばかりの物を手に入れたのに、それをだまし取って使ったような者が、この報いを受ける。
●あるいは、海中の小島に生まれる餓鬼がある。林の木も川の水もなく、その居る場所は、非常に熱い。そこの冬の日を人間世界の夏の日と比べると、千倍も勝って熱い。ただ、朝の露を飲んで、やっと命を保っている。海中の小島に住んではいるが、海は乾ききっていると感ずるのである。むかし病の苦しみに疲れきっている旅人の商品をだまし取って、わずかばかりしか代金を払わなかった者が、この報いを受ける。
●あるいは、このような餓鬼がいる。いつも墓場に行き、火に焼かれた死骸を食べるが、それでも、なお満足することができないのである。むかし牢獄を取締る役をして人の飲食を取った者が、この報いを受ける。
●あるいは、木の中に生まれている餓鬼がいる。ちょうど木賊虫のように、その身体を押し付けられて窮屈なため、大きな苦しみを受ける。むかし日陰となる涼しい木を切り倒し、さては、僧侶たちの庭園の林を切り倒した者が、この報いを受ける。
●あるいは、また、このような餓鬼がいる。髪の毛が垂れ下がって、身体全体にまつわっている。その髪は刀のようで、その身を刺し切り、あるいは火に変わって、身体をとりまいて焼く。
●あるいは、このような餓鬼がいる。昼夜に、それぞれ悟忍の子を生む。生むにつれて、その子を食べるが、それでも、いつも飢えている。
●また、餓鬼がいる。食物という食物は、すべて食べることができない。ただ、自分でわが頭を破り、脳を取り出して食べるのである。●あるいは、こんな餓鬼がある。火を口から出し、飛んでいる蛾が火の中に落ちるのを飲食とする。●あるいは、こんな餓鬼がいる。糞・涙・膿血や、食器を洗った残り汁を食べる。
●また、外の障りのために食べることのできない餓鬼がいる。その有様は、いつも飢え渇きに迫られて、身体はすっかり枯れかわいている。たまたま、浄らかな流れを遥かに眺め、走ってその場所に行くと、力の強い鬼がいて、杖で打つ。あるいは、水が火と変わり、あるいは、すべてが
●この餓鬼道は、人間の一月を一昼夜として年月ができており、その寿命は五百歳である。《正法念経》に「ものを惜しみ貪り、人を嫉む者が餓鬼道に落ちる」と説かれている。
【13】●第三に畜生道を明かすと、その住む場所が二つある。本来は大海に住み、その分かれは人間界や天上界に
●このような畜生の各種類は、強いものと弱いものと、それぞれ傷つけある。飲むときも食べるときも、しばらくの間も安らかな時はない。昼も夜も、絶えず怖れをいだいている。まして、また水に住むいろいろの畜生たちは、漁師のために殺され、陸を歩むいろいろの畜生たちは、狩人のために殺される。●象・馬・牛・驢馬・駱駝・騾馬などのような畜生は、あるいは鉄の曲った鉤で、その
●このようなさまざまの畜生は、ほんの僅かな間か、あるいは七時を経たり、あるいあ一劫、さては百万千万億劫にわたって限りない苦しみを受ける。あるいは、いろいろと思いそめぬ事柄にあって、しばしば殺されるのである。これらのいろいろの苦しみは数え尽すことができない。●愚痴無慚で、信の上の施物をいたずらに受け、ほかの物で償わなかった者が、この報いを受けるのである。
【14】●第四に阿修羅道を明かすと、二つがある。本来の勝れたものは、須弥山の北、大海の底に住み、その分かれの劣ったものは、四大州の間の山や岩の中に住んでいる。雲間で雷が鳴るような時には、天の鼓だと思って恐れ慌てて、心は甚だしくおののき悩むのである。また、常にいろいろの天人から侵され傷つけられる。あるいは身体を害し、あるいはその命を失う。また、毎日三度、苦しみの責め道具が、自然にやって来て
【15】●第五に人道を明かすと、略して三つの
【16】●一つに不浄というのは、だいたい、人間の身体の中には、三百六十の骨があって、節と節とたがいに支えている。その有様をいうと、足指の骨は足の骨を支え、足の骨は踝の骨を支え、踝の骨は
●これらは、三百六十の骨が集まって成り立ったもので、ちょうど、朽ち破れた家のようなものである。多くの節で支え保ち、四つの細い脈で、身体中をぐるぐると回って、残るところなく分布している。五百に分かれている肉はちょうど泥のようで、六つの脈が互いにつながり、五百の筋がからみついている。七百の細い脈は、それで連絡をして、十六の太い脈は、ぐるぐる回って互いに連なっている。二個の肉の縄がある。長さ三尋半で、その内部で巻きつき絡んでいる。十六の腸胃は生熟蔵をめぐっている。二十五の気脈は、ちょうど窓穴のようで、百七の節はちょうど破れ砕けた器のようである。八万の毛孔は、乱れた草が覆うようで、五根と七つの穴は、不浄で満ちみちている。七重の皮で包み、六味で養うことは、ちょうど、祭の火が、すべてを呑み受けて、飽き足ることがないようなものである。このような身体は、すべてが臭く穢れて、元来、くずれ爛れている。このような身体を、誰が愛したり誇ったりするだろうか。
●あるいはいう。九百の肉片がその上を覆い、九百の筋が、その間を連らねる。三万六千の脈があり、三升の血が、その中にあって流れ注ぐ。九十九万の毛孔があって、さまざまの汗が、いつも出る。九十九重の皮が、さらに、その上を包んでいる。
●また、腹の中には五臓があって、葉のように幾重にも覆い、重なりあって下に向かうのは、ちょうど、破すの花のような
●また、頭の先から足の裏まで、骨の髄から皮膚まで、八万匹の虫がいる。四つの頭、四つの口、九十九の尾があって、その形は一様ではない。その一々の虫に、また九万の細い虫がいて、極めて細い毛の先よりも、まだ小さい。
●《宝積経》に説かれている。「初めて母胎から出る時、七日を過ぎると、八万匹の虫が、身体から生じて、自由自在にその身体を食う。二匹の虫がいて舐髪と名づける。髪の根に住み、いつもその髪を食う。繞眼という二匹の虫がいる。眼に住み、いつもその眼を食う。四匹の虫は脳に住んで、その脳を食う。一匹を稲葉と名づける。耳に住んで、耳を食う。一匹を蔵口と名づける。鼻に住んで鼻を食う。二匹の虫がいて、その一を遥擲と名づけ、その二を遍擲と名づける。唇に住んで唇を食う。一匹を針口と名づける、舌に住んで下を食う。また五百匹の虫がいる。身体の左側に住んで左側の肉体を食う。右側も同様である。四匹の虫は生臓を食い、二匹は熟臓を食う。四匹は小便道に居て尿を飲んで住み、四匹は大便道に住んで糞を食うて住む。その他いろいろな虫がいるが、一匹を黒頭と名づける。脚に住んで脚を食う。このような八万匹の虫は、この身体を依り所として、昼も夜も食い、ひどく身体を悩ませる。また、心に心配があって、いろいろの病気が起こる。名医も、これを治療することはできぬ。」
●《僧伽経》に説かれている。「人が死にかけている時、多くの虫たちは恐れて、互いに
●また、たとい、どのような上等のいろいろな食事をしても、一晩過ぎる間には、みな不浄なものになる。ちょうど、糞便が大小便ともに臭いようなものである。この身体も、またそのようである。幼い時から年老いるまで、不浄というより外はない。たとい、海水をことごとく注いで洗っても、浄らかにすることはできない。外に、どのような美しい姿を装ってみても、身体の内には、いろいろな不浄を包んでいる。ちょうど、きれいに画いてある瓶に糞便を詰め込んであるようなものである。
●それゆえ、《禅経》の偈に、
この身は臭く不浄とわかっても 愚かな者はとりわけ惜しむ
外のきれいな顔に迷い 内の不浄には気もつかぬ
と説かれている。
●まして、命が尽きた後は、この身体は捨てられる。一日二日、さては七日を経ると、死体は腫れふくれて、色は青黒く変わって行く。臭く爛れて、皮は破れ、膿血が流れ出てくる。熊鷹・鷲・鵄・梟・狐・犬などのいろいろの鳥や獣が、死体を噛み裂いて
●これで知るべきである。この身体は、初めから終わりまで不浄である。自分が合いして居る男も女も、すえてがこのようである。智慧のあるものなら、誰が、この肉体に執着を起こそうぞ。●それゆえ《止観》にいってある。
この不浄の姿を見ない間は、愛着が甚だ激しいけれども、もし、この不浄の姿を見てしまうと、愛欲の心はすっかり消え失せ、とても辛抱することができない。ちょうど、糞便を見ない間は、食事をすることができても、急にその臭気を嗅ぐと、すぐさま吐くようなものである。
●またいってある。
もし、この不浄の相を悟ると、もう、高い眉、青い眼、白い歯、赤い唇の美人でも、ちょうど一かたまりの糞便の上を、
【17】●二つに苦というのは、この身体が初めて生れた時から、いつも苦しみを受けている。《宝積経》に説かれているとおりである。
男であれ女であれ、たまたま生を受けて、大地に落ちる時、手でだきあげられ、
●さて成長してからも、苦しみが多い。《宝積経》に説いている。
この身に受ける二種類の苦しみがある。すなわち、眼・耳・鼻・舌・咽喉・歯・胸・腹・手・足などに、いろいろの病気が生ずる。このような四百四病が、その身を
●その他のいろいろな苦しみの有様は、目の前に見られることであるから、説明するまでもないであろう。
【18】●三つに無常というのは、《涅槃経》に説かれている。
人の命が
●《出曜経》に説かれている。
この日がもはや過ぎると 寿命はさらに減ってゆく
わずかな水に住む魚のようで ここに何の楽しみがあろうか
●《摩耶経》の偈に説かれている。
喩えてみると旃陀羅が 牛を追いたてて屠殺所へ行くのに
牛の歩みは一歩一歩死地に近づくように 人の命もまたこのとおりである
●たとい長生きの業をもっていても、最後には無常を免れることはない。たとい富貴の
すべてもろもろの世の中では 生きているものはみな死んでいく
たとい長い命をうけていても きっと尽きはてる時がある
思えば盛んな者は必ず衰え 会う者はまた別れ離れる
年の若さも久しくは
命は死のために呑まれ 常にあるものとては更にない
●また《罪業応報経》の偈に説かれている。
水の流れはいつも満ちてはいず 燃えさかる炎も久しくはない
さし昇る日はすぐに沈んで行き 月は満つればまた欠けて行く
位高く世の栄えを受ける者も 無常の訪れはさらに早く至る
これを思うて勤め励み 無上の仏を礼しまつるがよい
●この無常は、ただ、一般の愚かな人たちだけに、このような恐れがあるのではない。仙人となって神通力を得たものも、またこのとおりである。●《法句譬喩経》の偈にいうとおりである。
空にいても膿の中にいても 巌の間にかくれていても
この浮世はどこにいても 死から
●これで知るべきである。いろいろの他の苦しみは、免れることがあっても、無常というこの一事は、到底、逃げ場がないのである。ぜひとも、仏の説きたもうとおりに修行して、永遠の楽しみという果報を願い求めるべきである。●《止観》にいうとおりである。
無常という殺鬼は、強いものも賢いものも、区別することはない。この身は脆くて堅固でなく頼りにし難い。それなのに、どうして安閑として、百年も生きながらえるように思って、あちこちと走り回って、財産を積み貯え集め収めるのだろうか。集め収めることが、まだ充分でないうちに、急に
●またいう。
譬えてみると、狐が、耳や尾、牙を取られるまでは、眠ったふりをして
●人間世界は、このようなものである。本当に厭い離れるべきである。
【19】●第六に、天上界を明かすと、三つがある。一つには欲界、二つには色界、三つには無色界である。その有様は、非常に広いものであるから、詳しく述べることは難しい。今はしばらく一処を挙げて、その他の類例としよう。
●かの忉利天の場合、快楽は極まりないが、命の尽きる時になると、五種の衰えの相が現われる。一つには、頭の上の花の髪飾りが急に萎む。二つには、天の羽衣も塵や垢に汚される。三つには、腋の下から汗が出るようになる。四つには、両方の目が
「この多くの天女たちを、自分はいつも可愛がってやったのに、どうして、こうも急に自分を雑草のように棄てるのか。自分は、今や依りどころもなく、たのむところもない。誰が自分を救ってくれようか、帝釈天の善見宮城の参内は、今、もうできなくなろうとしている。帝釈の宝座は拝謁しようにも、もう手だてがない。殊勝殿の中は、もう永遠にこれを仰ぎみることができなくなり、帝釈天の宝象には、いつの日か、共に乗ることがあろう。衆車苑の中も、ふたたび見ることができず、麁渋苑のうちで
こういう言葉を述べても、決して救うものはないのである。
●これで知られるであろう。この苦しみは地獄の苦しみよりも甚だしいのである。それゆえ《正法念経》の偈に説かれている。
天上界から落ちようとする時 心に大きな苦しみが湧く
地獄の多くの苦しみは 十六分の一にもおよばない
●また、非常に威徳のある天人が、この天上界に生まれてくると、もとの天人の眷属たちは、皆もとの主を棄てて新しい天人に従う。また威徳の或天人があって、その心に従わぬ時は宮殿から追い出されて、住むことができないようにされる。
●他の五つの欲界の天にも、すべてこの苦しみがある。上の三界、すなわち色界と無色界の中には、このような事はないけれども、結局、下界に落ちてしまう苦しみがある。さては非想非非想天でさえも、無間地獄に落ちることは避けられぬのである。これで知られるであろう、天上界も楽しむべき所ではないのである。
【20】●第七に、総じてこの三界六道の厭うべき有様を結んで述べると、すなわちこの身体は苦しみばかりをおさめた箱であって、すべて、執着し楽しむようなものではない。生・老・病・死という四つの山は押し合って迫り、避け逃げる場所はない。それなのに、多くの人々はものを貪り愛する心で、われとわが身を包み、深く五欲に執着して、常ではないものを常だと思い、楽ではないものを楽だと思う。ちょうど、
智慧ある人はたえず憂いをいだいて さながら牢屋に囚われているようである
愚かな人はたえず楽しみに耽って あたかも光音天の楽しみのように思っている
●《宝積経》の偈に説かれている。
いろいろの悪い行いで財宝を集め 妻子を養って楽しみと思うが
命の終わる時になると苦しみは身にせまり 妻子もこれを救うことはできぬ
かの三悪道の恐ろしい中では 妻も子も知り合いのものも見えぬ
車も馬も財宝もすべて他人のものとなり この苦しみを共に分かちあうものは誰もない
父母も兄弟も妻も子も 友も
死んでしまえばひとりとして来り親しむものはない ただ悪業だけが常につきまとう 中略
閻魔王はいつもかの罪人に告げる 「僅かの罪でもわれは汝につけ加えはしない
汝自身が罪を作って今みずから来たのだ 業報は自分で招いたので誰も代る者はない
父母も妻子も救うことのできる者はない ひたすら
この故にぜひとも悪道に縛られる行いを棄てて よく娑婆を厭うて安楽の世界を願うべきである
●また《大集経》の偈に説かれている。
妻子も珍宝もまた王の位も 命の終わる時には随う者はさらにない
ただ持戒と布施と不放逸とは 今の世も後の世も
●このように、めぐり転って、悪を造っては苦しみを受け、空しく生死を繰返し、車輪の回るように極まりがない。経の偈に説くとおりである。
ただ一人が一劫のあいだに 受ける多くの身の骨が
たえず積もって腐らないなら 毘布羅山のようになろう
●一劫でさえもそのとおりである。まして、無量劫においては、なおさらである。私たちは、これまでにまだ、仏道を修行しなかったから、空しく限りない長い劫を経たのである。今、もし仏道を勤め修めないならば、未来もまた同じことになるだろう。このように限りなく続く生死の中で、人間の身を得ることは非常に難しい。たとい、人間に生まれることができても、不具者でない完全な身体を保つこともまた難しい。たとい、完全な身体を具えても、仏のみ教に遇うことはまた難しい。たとい仏のみ教に遇うことができても、信心を起こすことはまた難しい。●それ故、《涅槃経》に説かれている。
人間界に生まれる者は爪の上の土ほどだが、三悪道に落ちる者は十方世界の土のように多い。
●《法華経》の偈に説かれている。
はかりない無数の劫を経ても このみ
よくみ法を聞く者は この人もまたまたむずかしいことである
●ところが、今、たまたまこれらの
●問う。どういうあり方で、この世を厭う心を起こすべきであろうか。
●答える。もし、広く観じようとおもえば、前に説いたように、地獄から天道までの六道の因果、不浄・苦などがある。●あるいはまた、龍樹菩薩が、禅陀迦王を勧められた偈にいわれている。
この身は不浄なものが九つの穴から流れ 川や海のように果もなく続いている
薄い皮が覆い隠しうわべは浄らかそうでも 瓔珞をつけてわれと飾っているようなもの
多くの智慧ある人ははっきりと見定め その偽りの姿を知って棄てる
譬えば
このみのまことの
もしこの観を修めることができる者は 利益の中でも最もすぐれている
容貌がよく家柄も高く博識であっても 戒と智の無いものはさながら鳥獣のようである
顔醜く家柄低く学問は浅くても よく戒と智を修める者を勝れた人と名づける
利衰などの八法は免れうる者はない もし除き断つことがあればまことに
すべての出家や修道者 父母・妻子また親族などの
気持ちを迎えてその言葉を受け入れ 広く不善・非法の行いをしてはならぬ
もしこれらのために多くの
多くの悪事を犯してもすぐには報いず 刀で傷つけ割かれるようなことではないが
命の終わる時に罪のすがたが始めてみな現われ 後地獄に堕ちていろいろの苦しみを受ける
信と戒と施と聞と慧と慚と愧と このような七つのものを聖なる
真実で比べものはないと仏が説きたもう この世のいろいろの珍しい宝に超えすぐれている
足ることを知るならば貧しくても富むと言える 財産はあっても欲望が多ければこれを貧しいと名づける
もし財産が豊かであればいろいろの苦を増す 龍は首が多ければ苦しみを増すようなものである
美味は毒薬のようだと観じ 智慧の水を注いで浄らかにさせるべきである
この身を保つためには食べねばならぬが むやみに美食を求めて憍慢の心を増してはならぬ
いろいろの欲望に対しては厭う心を起こし 勤めて無常涅槃の道を求むべきである
この身を整えて安らかにさせ その後に斎戒を修めるがよい
一夜を分けて五つの時とする そのうちの二時の中に眠り休むべきである
初夜・昼夜・後夜の三時には生死を観じ 勤めてさとりを求め空しく過ごしてはならぬ
譬えば僅かの塩を恒河に入れても 水に塩辛い味をつけることができぬように
わずかの悪は多くの善に遇うと 消え去ってしまうことまたこのようである
たとい梵天の欲を離れた楽しみを受けても また炎の燃えさかる無間地獄の苦しみに堕ちる
天の宮に住み光明を具えていても 後には地獄の暗闇の中に入る
いわゆる黒縄や等活地獄の 焼き割き剥ぎ刺す苦さては無間地獄
これら八地獄がたえず盛んに燃えるのは すべて衆生の悪行の報いである
地獄絵を見たり人の話を聞いたり さては経文を見て自分で思い浮かべ
こうして地獄の苦を知っただけでも忍びがたい まして自ら地獄を経
もしまた人あって一日の内に 三百の矛でその身を刺しても
阿鼻地獄での一瞬の苦しみに比べると 百千万分の一にも及ばない
畜生道に落ちても苦しみは限りない 繋ぎ縛られるものもあれば鞭うたれるものもある
さては明珠や羽・角・牙 骨や毛皮や肉を取るために殺されるものもある
餓鬼道の中の苦しみもまた同じことである 欲しいものは思うように手に入らず
飢渇に迫られ寒熱に苦しみ 身心疲れ物に乏しいなど苦しみは限りがない
糞尿などの穢物その他の不浄さえ 百千万劫にも手に入れることができぬ
たといまた尋ね求めて僅かばかりを得ても 更にまた奪い取られて失ってしまう
涼しい秋の月にも暑さを患え 暖かい春の日にも甚だ寒さに苦しむ
園や林に行けば食べようとする果実は皆なくなり 清い
罪業の
多くの苦しみを受けて欠けることのないのは すべて餓鬼の
煩悩の急流は衆生を漂わし 深い恐れの燃え上る苦しみとなる
このような多くの煩悩を滅しようと思うなら ぜひとも真実の解脱の道を修めよ
この世の多くの仮のすがたを離れるならば 清浄不動の処を得る
●もし簡略に示すなら、馬鳴菩薩の作った頼和羅という伎楽に唱われているとおりである
迷いのすべてのものは、幻のごとく仮のものである 三界の牢獄に縛られ楽しむべきものは一つもない
王位は高く際立って精力は自在であっても 無常の風が訪れると保ち得る者は誰もない
あたかも空中の雲のごとくたちまちに散り果てる この身の虚しいことはさながら芭蕉のようである
それ故諸仏は常にこの身を責めたもう
この中に、詳しく無常・空・無我の
生死の迷いを断ち得ぬのは
この身の臭いことは死骸のようであり 九つの穴から不浄を流す
厠の虫が糞を喜ぶように 愚かな者はこの身を貪る
思い乱れるいろいろの考えが 五欲の源となる
智慧のある人は執らわれることなく 五欲はすぐに断ち切える
邪な思いから
正しい思いで貪欲がなければ 他の煩悩もまた尽きる
昔、弥楼犍駄仏の滅後、正法が滅んだ時、陀摩尸利菩薩が、この偈を求め得て仏法をひろめ、無量の衆生を利益したという。●さらにまた、《仁王経》に、無常・苦・空・無我の四非常を述べた偈があるから見るがよい。●もし、極めて簡略なことを願うなら《金剛経》に説かれているとおりである。
すべてうつりゆくものは 夢や幻泡や影のようであり
また露や
●あるいはまた、《涅槃経》の偈に説かれている。
あらゆるものは無常であり これが消滅の法である
消滅の相がなくなれば これが
祇園寺の無常堂の四隅に、頗梨の鐘があって、その鐘の
●問う。不浄・苦・無常の三つは、その訳がよくわかる。ところで、現に、ものは存在しているのに、どうして「空」と説くのか。
●答える。経に「夢・幻・化のようだ」と説かれてあるではないか。それ故、夢の世界に例を求めて、空の意義を考えて見よう。●《西域記》にいうとおりである。
婆羅痆斯国の施鹿林の東、二三里ばかり行くと干上った池がある。むかし、一人の世捨人がいた。この池のほとりに庵を結んで身を隠し、いろいろと技術を習って奥深い道理を究め、瓦や
●そこで修行の道場を設け、仙法を受け、やり方どおりに行事を取り行った。そして、日暮を待ち、日が暮れると、それぞれ自分の任務についた。世捨人は不思議な呪文を唱え、勇士は鋭い刀を手にした。ところが、もう夜明けになろうとする時、俄かに声を出して叫んだ。その時、世捨人は問うていうよう、「君によく注意して、声を立てないようにといったのに、どうして驚いて叫んだのか。」勇士がいうよう、「仰せを受けてから、夜中になると、ぼんやりとしてしまい、夢のように、いろいろと不思議なことが起こりました。むかし、仕えた主人が、わざわざ来て慰めてくださるのを見ましたが、あなたの手厚い御恩を受けている事を感じて、辛抱して返事をしませんでした。すると、その主人は激怒し、とうとう私は殺されて中陰の身を受けました。自分の死骸を眺めて、歎き惜しみはしましたが、それでも世々を経ても、無言を続け、それであなたの手厚い御恩に報いたいと願いました。ついに私は南印度の大婆羅門の家に生まれかわったのです。母胎に宿り、誕生後、いろいろと苦しみを受けてきましたが、あなたの恩徳を受けている事を思って、一度も声を出しませんでした。さて、加行をうけつぎ、結婚し、親をうしない子供のできた後にも、たえず前生の御恩を思い、辛抱して無言を続けたので、親戚中の人が、みな不思議がっていました。六十五才を過ぎた時、私の妻が『あなた、お話をしてください。もし、そうでなければ、あなたの子供を殺しますよ』といいました。私はその時に思いました。〈もう今では、前生と違っている。自分のありさまを考えると、年老い衰えて、ただ、このおさな児だけしかない。それゆえ、妻が子供を殺すのを止めさせよう〉と。それで、とうとう、こういう声を出したのでございます。」世捨人がいった。「自分の過ちであった。これは悪魔が邪魔をしたのだ。」かの勇士は、世捨人の恩を感じ、仙術が失敗したことを悲しみ、憤りのあまり死んでしまった。
●夢の世界は、このようなものである。あらゆるものも、やはり同様である。妄想の夢がまだ覚めないので、空なるものを実の有であると考えている。●それゆえ《唯識論》にいわれている。
まだ真の
●問う。もし、無常・苦・空などの観をするならば、小乗の人が、自分ひとりの道を修め、ひとり解脱することと々ことではないか。
●答える。この観は、小乗だけに限らないので、大乗にも通じて存在するのである。●《法華経》に説かれているとおりである。
大慈悲を
あらゆるものの空を座とし ここに坐って法をとこう
●すべてのものが空であることでさえ、大慈悲心を邪魔するものではない。まして、苦・無常などの観は、菩薩の願を促すのである。それゆえ、《大般若》などの経には、不浄観などをも、菩薩の法としている。もし知ろうと思う者は、さらに経文を読むがよい。
●問う。このように観ずると、どんな利益があるのか。
●答える。もし、たえずこのように心を
年若く憂いもない時は 怠って道に努めず
世の中の努めにあくせくし 施と戒と禅とを修めなかった者は
死のために呑まれようとする時 はじめて後悔して善を修めようと望む
智慧ある者は観察し 五欲の思いを断ち除くがよい
努めて道に励むものは 命の終わる時悔いる思いはない
心が道にひたすらであれば 乱れ誤る思いはない
智慧ある者は務めて心を保てば 臨終には心乱れず
心を励むこと専らでないならば 臨終には必ず心が散り乱れる
●また《宝積経》の第五十七巻の偈に説かれている。
この身を観ずることをせよ 筋と脈とはたがいにまつわり
潤う皮は包み覆う 九つの所に出口があって
糞尿その他不浄のものが 遍く常に流れ出る
さながら倉と笊の中に 多くの米や麦を盛るがようである
この身もちょうどそのように いろいろの
骨の
愚かな者はたえず愛し好むけれども 智慧ある者は執着することがない
黄色い脂は乳と混ざり 脳は髑髏の中に満ちる
胸には
このように臭く爛れた 多くの不浄と共に住む
この罪多い身は深く恐れるがよい これこそ
それをも知らずに耽り貪る人は 愚かにもこの身をたえず護るが
このように臭く穢れた身は さながら朽ちはてた城のようである
昼も夜も煩悩に
この身は城 骨は壁 地や肉を泥とする
骨身の城を憎むがよい 血と肉は互いに連らなり
いつも悪い
難陀よ汝はよく心得るがよい わたしが説き聞かせたように
昼夜にたえず思いをかけ 欲望の世界を思ってはならぬ
もし遠ざけ離れようと思う者は 常にこのような観を修め
●その他の利益は《大論》・《止観》などを見るがよい。
【21】●大文第二に欣求浄土というのは、極楽の国土と衆生とは、その功徳が無量で、百劫・千劫という長い間かかっても、説き尽すことはできない。数でも喩えでも、また知りわけられることではない。けれども、《群疑論》には極楽浄土の三十種の徳益を明かし、《安国鈔》には二十四種の楽を挙げている。そこで、極楽を
●今、私は十種の楽を挙げて、極楽浄土を
【22】●第一の聖衆来迎の楽とは、およそ悪い行いをした人の命が尽きる時には、身体の中の風の要素と日の要素が、まず無くなるから、その人は動乱し発熱して苦しみが多い。善い行いをした人の命が尽きる時には、身体の中の地の要素と水の要素とが、まず無くなるから、その人の臨終はおだやかで、苦しみがない。
●まして、念仏の功徳を積み、極楽に心を寄せることに長い年月を重ねた者は、臨終の時になると、大きな喜びが自然と湧いて来る。その訳は、阿弥陀如来が、その本願の通りに、多くの菩薩や百千の比丘たちと共に、大きな光明を放ち、はっきりと目の前に現われたもう。その時、大悲の観世音菩薩は、多くの福業を積んで成就せられた御手を差し伸ばし、宝の蓮台を捧げて、念仏行者の前に来られ、大勢至菩薩は、無量の聖衆とともに、同時に讃めたたえ、手を差しのべて引接せられるのである。この時、念仏行者は、まのあたり自らこれを見て、心の中で歓喜し、身も心も、禅定に入るように安楽だからである。知るがよい、草の庵で目を閉じる時が、すなわち
●かの忉利天上の億千年もの楽しみや大梵王宮の深い禅定の楽しみ、これらの多くの楽しみは、まだ本当の楽しみとするには足らぬ。それらは、車の輪のように転じ変わることが際限もなく、ついには三途を免れないのである。ところが、今、観音の
●龍樹菩薩の偈にいわれている。
もし人が命終わって 彼の国に生まれることを得たならば
すなわち量りない徳をそなえる それゆえわたしは帰命したてまつる
【23】●第二の蓮華初開の楽とは、行者がかの極楽に生れてから蓮華が初めて開く時、その受ける
●仏の光明を見て、清浄の眼を得、前世の因縁に依って、多くの説法の声を聞く。眼に触れ、耳に聞こえるもののすべてが、勝れて妙でないものはない。虚空のはてまで満ちる荘厳は、雲路を見やる眼もとまどい、勝れたみ法を説きたもう声は、国中に満ちわたる。
●また、次第に眼を転じて、遥かに見たてまつると、弥陀如来は、黄金の山のように宝の蓮華の上に坐り、宝池の中央にまします。観音と勢至の二菩薩は、御姿尊く、これまた宝の蓮華に坐って、仏の左右に侍りたまい、無量の聖衆は敬って、み仏を囲み
●このように、仏の世界に入って、はじめて、今までになかった喜びを得る。昔、行者は、かつてこの世にいるときわずかに経文を読んではいたが、今まさしくこの事を見て、その喜びの心は、どれほどであろうか。
●龍樹菩薩の偈にいわれている。
もし善根を積んで生まれようとする 疑心の行者であれば華は開けず
信ずる心の清浄な者は 花が開けて仏を見たてまつる
【24】●第三に身相神通の楽とは、極楽の人々は、その身体真金色で、内も外も、ともに清浄である。いつも光明があって、互いに照らしあっている。三十二のすぐれた
●また、極楽の人々は、皆、五つの神通力を具え、その不思議なはたらきは測り難く、思いのままに自由自在である。もし、十方世界のありさまを見ようと思えば、足を運ばずにすぐさま見え、十方世界の声を聞こうと思えば、その座を立たずに、すぐさま聞こえる。限りない前世の事も、今日聞くようにわかり、六道の衆生の心は明らかな鏡に映る
●今、この娑婆世界の人々は、三十二相の中で、誰が一相でも得ているか。五神通の中で、誰が一つの通力でも得ている者があろうか。灯火か太陽の光でもなければ照らすこともなく、足で歩いて行かなければ、どこにも至ることはできぬ。紙一重でも、その外は見えず、一念でも、その後はわからぬ。鳥篭のような迷いの世界をまだでないから、事々に妨げがあるのだが、極楽の人々には、ひとりとしてこれらの功徳を具えていないものはない。百大劫の間に相好を得る行業を植えたのでもなく、四禅定の中に、神通を得る因を修めたのでもなくて、ただこれは極楽で生まれながらに得た
●龍樹菩薩の偈にいわれている。
人々の身相は同じくて あたかも金山の頂のようである
いろいろのすぐれた所を集めている それゆえぬかずき礼したてまつる
かの国に生まれたならば 天眼通や天耳通をそなえて
十方にあまねくさえぎられる所がない 聖中の尊である如来にぬかずきたてまつる
その国のすべての人々は 神足通および他心通
また宿命通をそなえている それゆえ帰命し礼したてまつる
【25】●第四に五妙境界の楽とは、阿弥陀仏は四十八願で浄土を荘厳せられてから、あらゆるすべてのものは、美しく妙なる極みである。見るものはすべて浄らかな色、聞くものはすべてが解脱の声でないものはない。香・味・触の境界もやはりこのようである。
●さて、かの世界は、瑠璃を大地とし、金の縄でその道を区切り、平らかで
●多くの宝からできている国土の一々の地域の上には、五百億の七宝からできている宮殿楼閣があり、その高さは心のまま、広さも思いのままである。多くの宝の床には、すぐれた
●講堂・精舎・宮殿・楼閣の内外左右には、多くの水浴する池がある。黄金の池の底には白銀の砂があり、白銀の池の底には黄金の砂がある。水精の池の底には瑠璃の砂があり、瑠璃の池の底には水精の砂がある。珊瑚・琥珀・硨磲・白玉・紫金などの池や砂も、このようである。八功徳水がその中に充ちみち、宝の砂が映り通って、どれほど深くても照らさないところはない。八功徳というのは、一つには浄らかに澄んでいる。二つには清く冷ややかである。三つには甘くおいしい。四つには軽く柔らかい。五つにはしっとりと潤いがある。六つには穏かで安らかである。七つには呑むと飢えや渇きなどの量りない思いを除く。八つには飲みおわるとかならず身体を養い、いろいろのすぐれた善根を増す。
●四方の階段の道は、多くの宝を合わせてできており、さまざまの宝の花は、池の中をあまねく覆っている。青い蓮には青い光があり、黄色い蓮には黄色い光がある。赤い蓮や白い蓮も、それぞれその光があって、
●極楽の菩薩や声聞たちが、宝の池に入って、水浴する時は、その深さは思いのままで、その心に違わず、心の垢を洗い去って、清らかに澄みきっている。この水浴が終わってしまうと、おのおの去り、あるいは空中にあり、あるいは木の下にあって、経を説き経を読む者もあれば、経を受け経を聞く者もある。坐禅する者もあれば、経行する者もある。その中で、まだ須陀洹を得ない者は、すぐに須陀洹を得、さては、まだ阿羅漢を得ない者は阿羅漢を得、まだ阿惟越致を得ない者は阿惟越致を得る。このように皆すべて
●池のほとり、河の岸には栴檀の木があって、列と列と
●多くの宝の網は虚空に一面に覆い、さまざまの宝の鈴を懸けて、妙なるみ法の声を宣べる。天花は美しい色を具えて、しきりに乱れ落ち、宝衣や身を飾る品々は、回りながら下りて来る。ちょうど鳥が飛んで空から下りるような具合で、これを諸仏に供養するのである。また限りない楽器があって、遥かに大空に懸かり、奏でもしないのに自然と鳴り、みな勝れたみ法を説く。
●また