【1】 ●これより下は、つぎに三輩について明かす散善一門の義を解釈する。この義の中について二つある。●一つには序分にでている三福は業因の
【2】 ●十四に、上輩観の善を行ずる文の前において、総じて分別して十一門とする。●一つには、総じて告げたもうことを明かす。●二つには、その位を定める。●三つには、総じて縁ある機類をあげる。●四つには、三心をもって正因とすることを定める。●五つには、まさしく機類の堪えるものと堪えないものとの区別を明かす。●六つには、受ける法が同じでないことを明かす。●七つには、まさしく修行の時節に長短の差別があることを明かす。●八つには、修めた行を往生の因にふりむけて弥陀の浄土に生まれようと願うことを明かす。●九つには、臨終の時に聖衆が来て迎えられるのに不同があり、行者の往生に要する時に遅い
●今、この十一の門の義は九品の文にあてはめてみると、一々の品にみなこの十一義がある。そこで一百番の義となる。またこの十一門の義は、上輩の文の前において、総じて分けてもよい。あるいは中輩・下輩の文の前において分けてもよい。またこの義は、経文をもってきて対照して考えると、そろっているものと、そろっていないものとがあり、隠れているものと顕れているものとがあるけれども、もし道理によるならば、ことごとくみなあるべきである。こういうわけだから、広く開き顕わし出して、すべての行者に解り易く、知り易くしようと思うのである。●以上、十一門の別があるけれども、広く上輩三品の義を説明し終わる。
【3】 ●これからつぎに、まず上品上生の位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に十二ある。
●一つに、「仏阿難に告げたまわく」より以下は、二つの意味を並べてあらわす。●一つには、告げたもうことを明かす。●二つには、上上品の人の階位を定めることを明かす。これはすなわち、大乗の上善根を修める凡夫である。
●三つに、「若し衆生有りて」より「
●四つに、「何等をか三と為す」より「必ず彼の国に生ず」までは、まさしく三心をもって正因とすることを定めることを明かす。その中が二つに分かれる。●一つには、世尊は衆生の根機に応じて利益を与えられるのであるが、仏意は奥深くてたやすくうかがいがたい。そこで仏みずから問いをおこしてあらわしてくださらなかったならば、他の者には理解することができないということを明かす。●二つには、世尊がかえってみずから前の三心の数を挙げて答えられることを明かすのである。
【4】 ●《観経》に説かれている。「一つには至誠心」。●「至」とは真であり、「誠」とは実である。すべての人たちが身口意の三業に修めるところの行業は、かならず如来が真実心のうちに成就せられたものをもちいることを明かしたいという思召しである。●外に賢者や善人らしく励むすがたをあらわしてはならぬ。心の内にいつわりをいだいているからである。むさぼり・いかり・よこしま・いつわり・わるだくみなど数かぎりなく起こり、悪性の変わりがたいことは、あたかも蛇や蠍のようである。三業に行を修めても、それは毒のまじった善と名づけ、また、いつわりの行と名づけるもので、決して真実の行業とは名づけられないのである。●もし、このような自力の心をもって行業を起こす者は、たとい身心を苦しめ励まして、昼夜を問わず懸命に努め、あたかも頭上の火を払い消すようにしても、それはすべて毒のまじった善と名づける。この毒のまじった行を
●また、真実に二種ある。一つには自力の真実、二つには他力の真実である。●自力に真実というのに、また二種ある。●一つには、真実の心をもって、自分およい他人の悪をとどめ、また穢れた世を嫌って、歩むも
●真実の心をもって、口に、かの阿弥陀仏およびその浄土や聖者たちを
衆生がなすところの不善の三業すなわち自力の善は、必ず如来が因位のとき廃捨せられたとおりに、自分も捨てる。また善の三業を起こすならば、かならず如来が真実心の中で成就なされたものをいただくのである。内外明暗の人の別をいわず、みな如来の真実をいただくから、これを至誠心と名づける。
【5】 ●「二つには深心」。●深心というのは、これはすなわち深く信ずるの心である。これにまた二種ある。●一つには、自身は現在罪深い迷いの凡夫であり、はかり知られぬ昔からいつも迷いにさまよって、これからのちも生死を出る手がかりがない、と決定して深く信ずる。●二つには、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂めとってお救いくださる。疑いなくためらうことなく、かの願力にうちまかせて、まちがいなく往生する、と決定して深く信ずる。
【6】 ●また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。
●また、《阿弥陀経》の中に、十方にまします恒河の砂の数ほどの諸仏が、すべての凡夫はまちがいなく往生できる、と証明して勧めてくださることを、決定して深く信ずる。
●また、深く信ずる者、仰ぎ願わくは、すべての行者たちよ、一心にただ仏語を信じて身命をかえりみず、決定して、仏の説かれた行をよりどころとして、仏の捨てよと仰せられる自力の行を捨て、仏の行ぜよと仰せられる念仏を行じ、仏の近づいてはならぬと仰せられる雑縁に近づかない。これを、釈迦の教えにしたがい、諸仏の意にしたがうと名づける。これを弥陀の願にしたがうと名づける。これを真の仏弟子と名づけるのである。
●また、すべての行者たちが、ただよくこの《観経》によって念仏を深く信ずれば、決して人々を誤らせない。なぜかといえば、仏はこれ大悲を円満せられたお方だからであり、その説かれたおことばがまことだからである。仏を除いて以下の者は、智慧も行もまだ十分でなく、なお、それを学ぶ地位にあり、煩悩およびその余習がいまだ除かれず、願う仏果がまだ円満しない。したがって、これらの人たちは、たとい仏の教意をおしはかっても、まだ決了することはできぬ。仏意を正しく解釈したとしても、かならず仏の証明を請うて定むべきである。●もし、仏の思召しにかなえば、仏はこれを認められて「正しい」と仰せられる。もし、仏の思召しにかなわなければ、「そなたたちのいう義は正しくない」と仰せられるのである。仏の認められない説は、無意味な利益のないことばにひとしい。仏の認められた説は、仏の正しい教えにかなうものである。仏のすべてのおことばは、正しい教、正しい義理、正しい行、正しい解釈、正しい業、正しい智慧である。●多くても少なくても、菩薩・人・天などを問わず、その説のよしあしを仏説によらずに定めることはできぬ。もし仏の説かれた教であれば、決了の教であり、菩薩などの説であれば、ことごとく義理の決了でない教と名づける。よく知るべきである。●こういうわけであるから、いまのとき、往生を願うすべての有縁の人たちに仰いで勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、専心に行ずべきである。菩薩などの仏意にかなわない教を信じて、疑いをおこし、惑いをいだいて、みずから迷い、往生の大利益を失ってはならない。
【7】 ●また、深心は深く信ずる心であるというのは、決定して自己の心をうち立て、釈迦如来の教に
●問うていう。凡夫は智慧が浅く、煩悩の障りが深い。もし、解釈や修行の違った人が、多くの経や論を引いて、あい妨げ難じて、一切の罪障の凡夫は往生できないというのにあえば、どのようにして、かの難を対治し、信心をうち立て、決定して真直ぐに進んで、
●答えていう。もし、人が多くの経論を引いて、往生できないというならば、行者は答えていえ。「そなたは、経論をもって証明して、往生できないというけれども、わたしの心においては、決してそなたの非難を受けない。なぜかといえば、そのように、わたしもまた、かのもろもろの経論を信じないのではない。ことごとく仰いで信ずる。しかし仏がかの経を説かれた時は、今の経を説かれたのと処が別であり、時が別であり、対する機類が別であり、その利益も別である。また、かの経を説かれた時は、《観経》《弥陀経》などを説かれた時ではない。そのように仏が教を説かれることは、それぞれの機類に応じ、時もまた同じでない。かの経典には、通じて人天・菩薩の解行を説いている。今、《観経》に定散二善の法を説かれたのは、ただ韋提および仏の入滅の後に、五濁の世、五苦などになやむ一切凡夫のために証明して往生ができると仰せられる。こういうわけで、わたしは今、一心にこの仏の教に依って決定して行ずるのである。たとい、そなたたちが百千万億も集まって往生できないといっても、ただわたしの往生の信心をいよいよ増長し、成就するばかりである」と。
●また、行者はさらに説いていうがよい。「そなたはよく聞け。わたしは今、そなたのために、さらに決定の信相を説こう。たとい、初地以前の菩薩・羅漢・縁覚などが、あるいは一人、あるいはたくさん十方に満ちるほどのかたがたが、みんな経論を引いて証明し、往生できないといったとしても、わたしは、またいささかの疑う心をおこさずに、ただわたしの清浄な信心をいよいよ増長し成就するだけである。なぜかというと、仏のおことばは確実で完成された明らかな義であり、すべてのものに破壊されないからである」と。
●「また、そなたよよく聞け。たとい初地以上十地までの菩薩たちが、あるいは一人、あるいはたくさん、さらに十方に満ちるほどのかたがたが異口同音に、『釈迦仏が阿弥陀仏を讃嘆して、〈三界六道をけなして、衆生を勧めて、専心に念仏し、または余善を修めるものは、この一身を終わってのち必ず浄土に生まれる〉といわれるのは、これは必ずみないつわりであって信じてはならない』といったとする。わたしは、この説を聞いても、またいささかの疑いもおこさずに、ただ決定した上々の信心をいよいよ増長し成就するばかりである。なぜかというと、仏のおことばは真実で間違いのない明らかな義であるからである。仏は
●「また、それはそうとして行者は知るべきである。たとい化仏・報仏が、あるいは一人、あるいはたくさん、さらに十方に満ちるほどのかたがたが、おのおの光を輝かし、み舌を出して、あまねく十方世界を覆うて一々の仏が、『釈迦仏の説法の中に、〈諸仏と釈迦仏とが互いに讃嘆し、すべての凡夫を勧めて、専心に念仏し、また余善を修めて、浄土に回向して願えば、かの浄土に生まれる〉といわれたのは、これはいつわりであって決してそんなことはない』といわれたとする。わたしは、これらの諸仏の説くところを聞いても、ついにいささかもあやぶみ退く心をおこして、かの仏の浄土に生まれることができないと畏れることはない。なぜかというと一仏と一切仏とのもっておられる知見・解行・証悟・果位・大悲などはひとしくて少しも差別がない。こういうわけで一仏がととめられるところは一切仏も同様にとどめられる。前の仏が殺生などの十悪の罪をとどめて、ついに犯さず行じないならば、十善十行と名づけて、六度の義に随順するというようなことを、もし後の仏があって、前の十善を改めて、十悪を行ぜしめるようなことがあろうか、ありはしない。●この道理をもっておしはかると、明らかに知られる。諸仏の言行は互いに
【8】 ●つぎに、〈行について信を立てる〉というのは、ところで、行に二種ある。一つには正行、二つには雑行である。●正行とは、専ら往生経に説かれてある弥陀行によって行ずることをいうのである。何がこれであるかというと、一心に専らこの《観経》《弥陀経》《無量寿経》などを読誦すること。一心に専らかの浄土や仏および聖衆たちを心にかけ、よく観察し、つねに
●また、この正行の中について、また二種ある。●一つには、一心に弥陀の名号を称え、行住坐臥に時間の長短をいわず相続してすてないのを正定の業という。かの阿弥陀仏の本願に
【9】 ●三つには「回向発願心」。●回向発願心というのは、過去と今生とにおいて、身口意の三業に修めたところの世間の善根や出世間の善根と、および他のすべての凡夫や聖者たちが身口意の三業に修めたところの世間・出世間の善根を随喜して、この自分の善根と、他の善根を随喜したのとを、ことごとくまことの心をもって往生の
【10】●問うていう。もし、学解や修行の異なる自力の人たちが来て、かわるがわる惑わし、あるいはいろいろの疑難を説いて、「往生できぬ」といったり、あるいはまた、「あなたたちは、はかり知られぬ昔より今生にいたるまで、身口意の三業にわたり、あらゆる凡夫や聖者がたに対して、つぶさに十悪・五逆・謗法・闡提・破戒・破見などの罪を造り、まだそれらの罪を除きつくすことができない。かくして、これらの罪は衆生を三界の悪道につなぐものである。どうして、わずか一生のあいだ、善根を修め、念仏したからといって、すぐさまかの無漏・無生の浄土に生まれて、とこしえに不退の位をさとるというようなことがあり得ようか」というであろう。これに対してどうするか。
●答えていう。諸仏の教や修行の道は、その数が非常に多く、衆生の機縁もその根機にしたがってそれぞれ異なっている。たとえば、世間の人の眼に見て、すぐわかるようなものでいえば、明りはよく闇を破り、虚空はよくものをおさめ、地はよくものを載せ育て、水はよくものをうるおし成長させ、火はよくものを成熟させたり破壊したりするようなものである。これらのものごとをことごとく〈
●行者よ、よく知るべきである。もし学解をまなぼうと想うなら、凡夫から聖者、さらに仏果にいたるまで、すべての法をどれでも自由にまなぶことができる。しかし、実際に行を修めようと思うならば、かならず自分の根機に合う法によるべきである。根機に合う法によれば、わずかな
【11】●また、すべての往生をねがう人たちに告げる。いま重ねて、念仏を行ずる人のために、一つの喩えを説いて、信心をまもり、もって、外からの考えの異なる人たちの非難を防ごう。それは何か。
●たとえば、ここにひとりの人があって、西に向かって百千里の遠い路を行こうとするのに、その中間に、たちまち二つの河があるのが見える。一つには火の河は南にあり、二つには水の河は北にある。二つの河は、それぞれひろさが百歩で、いずれも深くて底がなく、南北はほとりがない。まさしく水火の二河の中間に一つの白道があって、そのひろさは四五寸ばかりなりとする。この道は東の岸から西の岸に至るまでの長さも、また百歩である。その水の波浪がこもごもすぎて道をうるおし、その火炎はまた来たって道を焼き、水と火とが、たがいにまじわって、いつもやむときがない。この人が、すでに広々とした場所に来たところ、そこには人がひとりもおらず、多くの群賊・悪獣がいて、この人がただひとりであるのを見て、われがちにせまってきて殺そうとする。●そこで、この人は死をおそれて、ただちに走って西に向かったが、たちまちこの大河を見てみずから思うていうには、〈この河は南北にほとりを見ず、まん中に一つの白道が見えるが、それはきわめて狭い。東西二つの岸のへだたりは近いけれども、どうして行くことができよう。今日はかならず死ぬにちがいない。まさしくかえろうとすれば、群賊・悪獣が次第に来たりせまってくる。まさしく南か北に避けて走ろうとすれば、悪獣・毒虫がわれがちに自分に向かってくる。まさしく西に向かって道をたずねて行こうとすれば、また、おそらくはこの水火の二河に落ちるであろう〉と。●このときにあたり、おそれおののくことは、とても言葉にいいあらわすことができない。そこで、みずから思うには、〈わたしは今、かえっても死ぬだろう、とどまっても死ぬだろう、進んでも死ぬだろう。どうしても死を免れないとすれば、むしろこの道をたずねて前に向かって行こう。すでに、この道があるのだから、かならず渡れるだろう〉と。
●こういう思いになったとき、東の岸に人の勧める声が、たちまち聞こえた。「そなたは、まどうことなく、ただこの道をたずねて行け、かならず死の難はないであろう。もし、とどまっていたならばすなわち死ぬであろう」と。また、西の岸に人がいて
これはたとえである。
つぎにこのたとえを法義に合わしていうならば、「東の岸」というのは、この娑婆の火宅にたとえるのである。
「西の岸」というのは、極楽浄土にたとえるのである。
「群賊・悪獣がいつわり親しむ」というのは、衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大にたとえるのである。
「人のいない広々とした野原」というのは、いつも悪い友にしたがって、道を教える真の知識にあわないことをたとえるのである。
「水火の二河」というのは、衆生の貪愛は水のようであり、瞋憎は火のようであるのにたとえるのである。
「中間の白道四五寸」というのは、衆生の貪瞋煩悩の中に、よく浄らかな信心をおこすのにたとえるのである。そこで、貪瞋煩悩は強く盛んであるからこれを水火のようであるとたとえ、信心のありさまは微かであるから、これを白道のようであるとたとえる。
また、「波がつねに道をうるおす」というのは、貪愛の心がいつも起こって信心をけがそうとするのにたとえ、
また、「炎がつねに道を焼く」とは、瞋嫌の心が功徳の法財を焼くのにたとえるのである。
「人が道の上を行って、ただちに西に向かう」というのは、すべて自力の行業をふりすてて、ただちに他力の道に向かうのにたとえるのである。
「東の岸に人の勧める声を聞いて、道をたずねてただちに進む」というのは、釈迦如来はすでに入滅せられて、後の人は仏身を見たてまつることができないけれども、のこされた教法があって、これを聞くことができるのにたとえて、すなわち、これを声のようであるというのである。
「一歩二歩行ったとき群賊らが喚びもどす」というのは、学解・修行の異なる人や、まちがった考えの人たちが、みだりにかれらの見解をもって、かわるがわる行者を惑わし、「行者みずから罪を造って往生の大利益を失うであろう」と説くのにたとえるのである。
「西の岸の上に人があって喚ぶ」というのは、弥陀の本願の意にたとえるのである。
「しばらくにして西の岸に到着し、善き友とあい会うて喜ぶ」というのは、衆生は久しく
【12】●また、すべての行者は、行住坐臥に、身口意の三業にわたって修するところが、昼夜の時を問わず、いつもこの領解をもって往生安堵の想いをするから、回向発願心と名づける。
●また回向というのは、浄土に往生してからのち、さらに大悲心をおこして迷いの世界にかえって衆生を済度する。これもまた回向と名づけるのである。
【13】●以上の三心がすでにととのえば、すべての行が成就しないことはない。願・行がすでに成就して、もし往生しないというならば、そういう道理のあるはずはない。また、この三心は通じて定善をも定めるのである。よく知るべきである。
【14】●五つに、「
●六つに、「何等をか三と
●「
●二つには、「読誦大乗」を明かすならば、●これは、衆生の習性が違い、法を
●三つには、「六念を修行する」ことを明かすならば、●すなわち仏・法・僧を念じ、戒・捨・天を念ずることで、これもまた、序分の第三、行福の大乗の意義に合うのである。●念仏とは、もっぱら阿弥陀仏の口業すなわち名号の功徳、身業すなわち光明の功徳、意業の功徳を念ずるのであって、一切の諸仏を念ずるにも、またこのとおりにする。●また念法・念僧とは一心にもっぱら諸仏の
●行者たちは、すでにこれを念知し終わったならば、みずから考えよ。わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、
●七つに、「回向発願して」より以下は、まさしくおのおの前に修めた行業を回向して、浄土に向かうことを明かす。
●八つに、「此の功徳を具すること」より以下は、まさしく修行の時節の長短を明かす。●上は一生涯を終わるまで、下は、わずか一日・一時・一念などにいたり、あるいは一念・十念より一時・一日・一生涯に至る。大体の意味は、一たび発心して以後、誓ってこの一生を終わるまで退転することなく、ただ浄土を願うのである。
●また、「此の功徳を具する」というのは、あるいは一人で上の二つを具えるものがある。あるいは一人で下の二つを具える。あるいは一人で三種をすべて具える。あるいは三種をすべてもっておらぬものは、人皮をつけている畜生とするのであって、人間とは名づけることができない。●また、三を具えるものと、一・二を具するものとを問わず、回向すればすべて往生できると知るべきである。
●九つに、「彼の国に生ずる時」より「彼の国に往生す」までは、まさしく臨終の時に、聖衆の来迎の不同と、往生する時の遅速を明かす。その中に十一ある。●一つには、帰する浄土を定めることを明かす。●二つには、かさねて、その行を一心に勤めるものを指し、また功徳の強弱をくらべることを明かす。●三つには、阿弥陀如来が、みずから来たりたもうことを明かす。●四つには、「観音」以下は、さらに無数の大衆らがみな弥陀如来に従って行者を迎えることをあらわすことを明かす。●五つには、七宝の宮殿が聖衆についてくることを明かす。●六つには、かさねて観音・勢至がともに金台をもって行者の前に来られることを明かす。●七つには、阿弥陀仏が、光明を放って行者の身を照らされることを明かす。●八つには、阿弥陀仏がすでに光を放って照らし、および化仏たちと共に同時におん手を授けたもうことを明かす。●九つには、すでに手を取って蓮台に昇らせ、観音菩薩たちが声を同じうして、行者の心を讃嘆し勧めることを明かす。●十には、みずから見れば、金台に乗って仏に従っていることを明かす。●十一には、まさしく往生するに要する時の遅速を明かす。
●十に、「彼の国に生じ
●十一に、「仏の色身を見る」より「陀羅尼門」までは、まさしく金台に乗って浄土に至った後に得るところの利益の違いを明かす。その中に三つある。●一つには、初めに、妙なる法をきいて無生法忍をさとり、●二つには、しばらくにして、十方を経歴して諸仏に仕え、つぎつぎに成仏の記別を授かる。●三つには、本国と他方でさらに教法をきき、陀羅尼を得る二つの益を証するのである。
●十二に、「是名」より以下は、総じて結ぶ。
以上十二句の不同があるけれども、広く上品上生の
【15】●つぎに、上品中生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に八つある。
●一つに、「上品中生者」より以下は、総じて位の名をあげる。すなわち大乗の中善を修する凡夫である。
●二つに、「必ずしも受持せざれども」より「彼の国に生ぜんとす」までは、まさしく十一門科の中、第六・第七・大八門にあたり、その修めたところの行善を回向して、西方浄土に向かうことを明かす。その中に四つある。●一つには法の受けとり方が一定でない。すなわち、あるいは大乗経典を読むことができ、読むことができないことを明かす。●二つには、よく大乗空のいわれを理解することを明かす。●すなわち諸法はすべて空であって、迷いもさとりもまた空である。凡夫も聖者も、智者も愚者もまた空である。迷いの六道の境界、さとりの三賢・十聖なども、もしその本体についていえば、つまり不二であると聞く。こういう説を聞いても、その心が動かず、疑いをおこさない。●三つには、深く迷いとさとりとの苦楽二種の因果を信じて、これらの因果およびそのほか仏法のいろいろの道理を疑いそしらないことを明かす。●もし疑いそしる心をおこすならば、世間の善根を成就しない。世間の果報すらうることができない。まして、浄土に生まれることができようか。これは、第三行福の第二句「深心因果」、第三句「読誦大乗」に合うのである。●四つには、前にあげた行業を回向して、浄土に向かうことを明かす。
●三つに、「此の行を行ずる者」より「汝を迎接す」までは、まさしく、弥陀如来が多くの聖衆たちとともに、蓮台を持って、来たり応ぜられることを明かす。その中に五つある。●一つには、行者の寿命が、あと長くないことを明かす。●二つには、弥陀仏が大衆と共にみずから迎えられることを明かす。●三つには、侍者が蓮台をささげて行者の前に来ることを明かす。●四つには、阿弥陀仏が聖衆たちと共に、声を同じうして行者がもとに修めた行業を讃嘆されることを明かす。●五つには、仏は、行者が疑いをいだくことを恐れられるから、ことに「我は来たって汝を迎える」と仰せられることを明かす。
●四つに、「千の化仏と
●五つに、「此の紫金台」より以下は、まさしく第十門の、浄土に至って、花の開く時節の同じでないことを明かす。●行がすぐれているから上品上生は金剛台を得る。行が劣っているから上品中生は紫金台を得て、浄土に生れ宝池にあって一夜を経て蓮華が開く。
●六つに、「仏及び菩薩
●七つに、「時に応じて、即ち能く飛びて十方に至り」より「現前に授記せらる」までは、まさしく他方世界で利益をうることを明かす。その中に五つある。●一つには、身が十方に至ることを明かす。●二つには、一々めぐって諸仏を供養することを明かす。●三つには、多くの三昧を修めることを明かす。●四つには、後の時に無生法忍を得ることを明かす。●五つには、一々の仏のそばにおいて、その前で成仏の記別を授けられることを明かす。
●八つに、「是名」より以下は総じて結ぶ。
以上八句の不同があるけれども、広く上品中生を解釈し終わる。
【16】●つぎに、上品下生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に八つある。
●一つに、「上品下生者」より以下は、総じて位の名をあげる。すなわち、大乗の下善を修める凡夫である。
●二つに、「亦因果を信じ」より「無上道心」までは、まさしく十一門科の中、第六門にあたり、法を受けることの不同を明かす。その中に三つある。●一つには、因果を信ずることが定まらないことを明かす。●すなわち、あるいは信じたり、あるいは信じないから、「
●三つに、「此の功徳を以て」より以下は、まさしく第八門の、前の正行である菩提心を回向して浄土に向かうことを明かす。
●四つに、「行者命終わらんと欲する時」より「七宝池中」までは、まさしく第九門の臨終に聖衆たちが来たり迎えられることと、往生に要する時の遅速とを明かす。その中に九つある。●一つには、寿命があと長くないことを明かす。●二つには、弥陀仏が多くの聖衆と共に今蓮華をもって来たり迎えられることを明かす。●三つには、化仏が同時におん手を授けられることを明かす。●四つには、聖衆が同じく声を出して讃嘆されることを明かす。●五つには、行者の罪が滅するから、「清浄」といい、先に修めるところを述べるから「無上道心を
●五つに、「一日一夜に」より以下は、まさしく第十門の浄土に至って華が開く時節の違いを明かす。
●六つに、「七日の中に」より「皆妙法を
●七つに、「十方に遊歴して」より「歓喜地に住す」までは、まさしく他方世界でうる利益を明かす。また、これを後の益と名づける。
●八つに、「是名」より以下は、総じて結ぶ。
以上、八句の不同があるけれども、広く上品下生を解釈し終わる。
【17】●讃嘆していう。
上輩は上行を修める上根の人である 浄土に生まれることを願うて貪瞋の煩悩を断つ
行の差別によって三品に分ける 五念門を相続して三心を助ける
一日あるいは七日もっぱら精進し 命終わるや蓮台に乗り六塵の世界を出る
以上、三位の不同があるけれども、総じて上輩一門の義を解釈し終わる。
【18】●十五に、中輩観の善を行ずる文の前において、総じて分けて十一門とする。●一つには、総じて告げたもうことを明かす。●二つには、まさしくその位を定めることを明かす。●三つには、まさしく総じて縁のある機類をあげることを明かす。●四つには、まさしく三心をもって正因と定めることを明かす。●五つには、まさしく機類の堪えるものと堪えないものとの区別を明かす。●六つには、まさしく受ける法が同じでないことを明かす。●七つには、まさしく修行の時節に長短の別があることを明かす。●八つには、まさしく修めた行を往生の因にふりむけて、弥陀の浄土に生まれようと願うことを明かす。●九つには、まさしく臨終の時に聖衆が来て迎えるのに不同があり、往生に要する時に速い遅いがあることを明かす。●十には、まさしく浄土に至って、蓮華が開くのに速い遅いの違いがあることを明かす。●十一には、まさしく華が開いてから、利益を得るのに違いがあることを明かす。●以上、十一門の別があるけれども、広く中輩三品を説明し終わる。
【19】●つぎに、中品上生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に八つある。
●一つに、「仏阿難に告げたまわく」より以下は、総じて告げられることを明かす。
●二つに、「中品上生者」というのは、まさしくその位を定めることを明かす。すなわちこれは小乗の根性で上善を修める凡夫である。
●三つに、「若し衆生有りて」より「
●四つに、「此の善根を以って回向して」より以下は、まさしく第八門の修めた行業を往生の因位ふりむけて浄土に向かうことを明かす。
●五つに、「命終の時に臨んで」より「極楽世界」までは、まさしく第九門の、臨終の時に、聖衆の来迎する不同と、往生に要する時の遅速とを明かす。その中に、六つある。●一つには、寿命があと長くないことを明かす。●二つには、弥陀仏は声聞衆と共に来られて、菩薩がいないことを明かす。●三つには、仏が金色の光明を放って行者の身を照らされることを明かす。●四つには、仏は行者のために法を説かれ、また出家のものが、多くの苦しみである世間のいろいろなかかわり、家業・仕官、長途の戦い、遠国の防衛などを離れたのをほめられ、「そなたは、今、出家して多くのものに仰がれ、万事にうれいなく、まったく自在であって、ゆくもとどまるも障りがない。そこで仏道を修めることができる」と明かされる。このゆえに、ほめて「衆苦を離る」と仰せられるのである。●五つには、行者は、すでに見聞し終わって、喜びにたえず、すなわちわが身を見れば、すでに蓮台に坐って、
●六つに、「蓮華
●七つに、「華の
●八つに、「是名」より以下は、総じて結ぶ。
以上、八句の不同があるけれども、広く中品上生を解釈し終わる。
【20】●つぎに、中品中生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に七つある。
●一つに、「中品中生者」より以下は、総じて行の名をあげて、その位を定める。すなわち、小乗の下善を修める凡夫である。
●二つに、「若し衆生有りて」より「威儀欠くること無し」までは、まさしく第五・六・七門の機類の区別と、時節を分かつことと、法を受ける不同とを明かす。その中に三つある。●一つには、八戒斎を
●三つに、「此の功徳を以て」より以下は、まさしく修めた行を因として求めるところの浄土に向かうことを明かす。
●四つに、「戒香薫習せる」より「七宝池中」までは、まさしく第九門の、行者の臨終の時に聖衆が来迎されることと、往生に要する時の遅速とを明かす。その中に八つある。●一つには、寿命があと長くないことを明かす。●二つには、弥陀仏が多くの声聞衆と共に来迎されることを明かす。●三つには、弥陀仏が金色の光明を放って行者の身を照らされることを明かす。●四つには、声聞たちが華をささげて来たり現われることを明かす。●五つには、行者がみずから空中の讃嘆の声を聞くことを明かす。●六つには、仏が讃嘆して、「そなたは、深く仏語を信じ随順して疑いがないゆえ、来たってそなたを迎える」と仰せられることを明かす。●七つには、すでに仏の讃嘆を受けて、わが身を見ると蓮台に坐し、坐り終わって華に包まれることを明かす。●八つには、華がすでにとじ終わって、西方の宝池の内に入ることを明かす。
●五つに、「七日を経て」より以下は、まさしく第十門の、浄土に至って華が開く時節の同じくないことを明かす。
●六つに、「華既に
●七つに「是名」より以下は、総じて結ぶ。
以上七句の不同があるけれども、広く中品中生を解釈し終わる。
【21】●つぎに、中品下生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に七つある。
●一つに、「中品下生者」より以下は、まさしく総じて行の名をあげて、その位を定めることを明かす。すなわち、世善の上福を修める凡夫である。
●二つに、「若し善男子有りて」より「世の仁慈を行ぜん」までは、まさしく第五・第六門の機類を区別することと、法を受ける不同とを明かす。その中に四つある。●一つには、機類を区別することを明かす。●二つには、父母に孝養をつくし、六親に親しむことを明かす。すなわち、序分の世福の第一・第二にあたる。●三つには、この人は、性質がおだやかで善良であり、自他の区別を見ず、人の苦しみに逢うのを見れば、いつくしみの心を起こすことを明かす。●四つには、まさしく中品下生の人は、いまだかって仏法をきかず、また浄土を願うことを知らない。ただ自然と孝養を行なうことを明かす。よく知るべきである。
●三つに、「此の人命終わらんと欲する時」より「四十八願」までは、まさしく第八門の、臨終に仏法に逢う時節のありさまを明かす。
●四つに、「此の事を聞き
●五つに、「生じて七日を経るに」とは、まさしく第十門の、浄土に至って華が開くと開かないとの区別を明かす。
●六つに、「観世音に遇い」より「羅漢を成ず」までは、まさしく第十一門の、華が開いて後に得る利益の不同を明かす。その中に三つある。●一つには、時を経て後、観音・勢至に会うことを明かす。●二つには、すでに観音・勢至に会って尊い法を聞くことを明かす。●三つには、一小劫を経てのち、始めて羅漢果をさとることを明かす。
●七つに「是名」より以下は、総じて結ぶ。
以上、七句の不同があるけれども、広く中品下生を解釈し終わる。
【22】●讃嘆していう。
中輩は中行を修める中根の人である 一日の斎戒をもって金蓮華に乗る
父母に孝養する善を教えて回向させ 西方に往生する因と説く
仏が声聞衆とともに来たり迎え ただちに弥陀の蓮華座のほとりにいたる
百宝の華に包まれて七日を経る 三品ともに華が開けて小乗のさとりをひらく
以上、三位の不同があるけれども、総じて中輩一門の義を解釈し終わる。
【23】●十六に、下輩観の善と悪との二行を明かす文の前において、分けて十一門とする。●一つには、総じて告げたもうことを明かす。●二つには、その位を定める。●三つには、総じて縁ある機類をあげる。●四つには、三心をもって正因と定めることを明かす。●五つには、機類の堪えるものと堪えないものとを区別する。●六つには、苦楽の二法を受ける相違を明かす。●七つには、修行の時節に長短の別があることを明かす。●八つには、修めた行を因として、弥陀の浄土に生まれようと願うことを明かす。●九つには、臨終の時に聖衆が来て迎えるのに不同があり、往生に要する時に速い遅いがあることを明かす。●十には、浄土に至って蓮華が開くのに、速い遅いの違いがあることを明かす。●十一には、華が開いて以後、利益をうるのに違いがあることを明かす。●以上十一門の別があるけれども、総じて下輩の三位を明かし終わる。
【24】●つぎに、下品上生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に九つある。
●一つに、「仏阿難に告げたまわく」より以下は、まさしく告げたもうことを明かす。
●二つに、「下品下生者」というのは、まさしくその位を定めることを明かす。すなわち、十悪を造る軽い罪の凡夫である。
●三つに、「
●四つに、「命終わらんと欲する時」より「生死の罪」までは、まさしく悪を造る人々が、臨終に善知識に遇って、法を聞くことを明かす。その中に六つある。●一つには、寿命が、あと長くないことを明かす。●二つには、たちまち往生の善知識に会うことを明かす。●三つには、善知識が、その人のために大乗経典のいわれを讃嘆することを明かす。●四つには、すでに経典のいわれを聞いた功徳が、千劫の罪を除くことを明かす。●五つには、善知識が教を転じて、阿弥陀仏の名号を称えさせることを明かす。●六つには、阿弥陀仏の名号を称えたことによって、五百万劫の罪を除くことを明かす。
【25】●問うていう。大乗十二部経の題号のいわれを聞けば、ただ千劫の罪を除き、弥陀仏の名号を称えること、わずか一声であるのに、五百万劫の罪を除くのは、どういうわけであるか。
●答えていう。罪を造る人は、障りが重く、それに加えて、死苦がまだ迫っておるから、善知識が多くの経典のいわれを説いても、それを受けいれる心が浮散している。心が散るから罪を除くことがやや軽い。それに対して弥陀の仏名は、境が一つであるから、よく散ることを摂めて、心を一つにとどめさせる。また、教えて心乱れず名号を称えさせるならば、その心が落ち着いているから、よく多劫の罪を除くことができるのである。
【26】●五つに、「
●六つに、「七七日を経て」より以下は、まさしく第十門の、浄土に至って華が開くのに速い遅いの違いを明かす。
●七つに、「華
●八つに、「是名」より以下は、総じて結ぶ。
●九つに、「仏名を聞くことを得る」より以下は、重ねて行者の利益をあげる。ただ仏を念ずるだけが往生をうるばかりでなく、法を念じ、僧を念ずることもまた往生をうるのである。
以上、九句の不同があるけれども、広く下品上生を解釈し終わる。
【27】●つぎに、下品中生位の中につき、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に七つある。
●一つに、「仏阿難に告げたまわく」より以下は、総じて告げられることを明かす。
●二つに、「下品中生者」というのは、まさしくその位を定めることを明かす。すなわち、破戒のもので、前の十悪についで重罪を犯す凡夫である。
●三つに、「
●四つに、「命終わらんと欲する時」より「即ち往生することを得」までは、まさしく第九門の、臨終に善悪の迎えが現われることを明かす。その中に九つある。●一つには、罪人の命があと長くないことを明かす。●二つには、地獄の火が来たり現われることを明かす。●三つには、まさしく地獄の火が現われた時、善知識に遇うことを明かす。●四つには、善知識がその人のために阿弥陀仏の功徳を説くことを明かす。●五つには、罪人は、すでに弥陀仏のいわれを効くところに、たちまち多劫の罪を除くことを明かす。●六つには、すでに罪を滅するから、地獄の火が変わって、涼しい風となることを明かす。●七つには、清浄な華が風に従って来たり、行者の目の前にならぶことを明かす。●八つには、化仏がたの来迎を明かす。●九つには、往生に要する時の遅速を明かす。
●五つに、「七宝池中」より「六劫」までは、まさしく第十門の浄土に至って華が開く時節の不同を明かす。
●六つに、「蓮華
●七つに「是名」より以下は総じて結ぶ。
以上、七句の不同があるけれども、広く下品中生を解釈し終わる。
【28】●つぎに、下品下生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に七つある。
●一つに、「仏阿難に告げたまわく」より以下は、総じて告げられることを明かす。
●二つに、「下品下生者」というのは、まさしくその位を定められることを明かす。すなわち、つぶさに五逆などを造る重罪の凡夫である。
●三つに、「
【29】●問うていう。四十八願の文の中では、五逆罪の者と正法を誹謗する者とを除いて、往生を許さないが、今この《観経》の下品下生の経文の中には、謗法だけを区別して、五逆の罪の者を往生させるというのは、どういう思召しがあるのであろうか。
●答えていう。このいわれをうかがうに、如来が罪を造らせまいとして抑え
【30】●四つに、「
●五つに、「蓮華の中に於いて十二劫を満ち」より以下は、まさしく第十門の、浄土に至って華が開くことの遅速の相違を明かす。
●六つに、「観音・大勢至」より「菩提の心を
●七つに、「是名」より以下は、総じて結ぶ。
以上七句の不同があるけれども、広く下品下生を解釈し終わる。
【31】●讃嘆していう。
下輩は悪を行なう下根のものである 十悪・五逆など貪欲・瞋恚
四重禁の罪を犯し僧物を盗み仏法をそしる いまだかって慚愧して前の罪を後悔することがない
臨終には苦しいありさまが雲のように集まって 地獄の猛火が罪人の前にあらわれる
そのとき往生の善知識が 急いで勧められるのにあい専ら弥陀の名号を称えれば
化仏・化菩薩が称名の声をたずねて来たり 一念に心を傾ければ浄土の宝蓮華に入る
下輩の三品は障りが重くして多劫を経て花が開く その時にあたってはじめて菩提心をおこす
以上、三位の不同があるけれども、総じて下輩一門の義を解釈し終わる。
【32】●前に明かした十三観をもって定善とする。すなわちこれは、韋提の請いにより、如来が答えられたのである。後に明かした三福九品をなづけて散善とする。これは、仏みずから説きたもうたのである。定善と散善の両門の区別があるが、総じて正宗分を解釈し終わる。
【33】●三つに、得益分の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈する。その中に七つある。
●初めに、「此の語を説きたもう」というのは、まさしくすべて前の文のことをあげて、後の得益の相をおこすことを明かす。
●二つに、「韋提」より以下は、まさしくよく法を聞く人を明かす。
●三つに、「時に応じて即ち極楽を見たてまつる」より以下は、まさしく韋提夫人などが、前の光台の中に極楽の相を見たてまつることを明かす。
●四つに、「仏身及び二菩薩を見たてまつることを得て」より以下は、まさしく夫人が第七観の初めにおいて、無量寿仏を見たてまつった時に、たちまち無生法忍の約を得たことを明かす。
●五つに、「侍女」より以下は、まさしくこの
●六つに、「世尊悉く記したまわく」より以下は、まさしく侍女が、「みな浄土に生まれ、そこで現前三昧をうる」という仏の記別を受けたことを明かす。
●七つに、「無量の諸天」より以下は、まさしく前の厭苦縁の中で、帝釈・梵天・四天王などが、世尊に従って王宮で空から法を聞き、●あるいは世尊の眉間の白毫がいろいろの相をあらわすのを見、あるいは弥陀仏の金色の尊い姿を見、あるいは九品の往生の差別を聞き、あるいは定善・散善ともに化益を受けることを聞き、あるいは三輩の善悪の機がひとしく帰することを聞き、あるいは定と境とが相応すれば、西方浄土が目の前に現われて、遠くないことを聞き、あるいは一生心を決めてもっぱらつとめるならば、ながく迷いと部類を分かつことを聞く。●これらの諸天は、如来が広くまれにすぐれた利益を説かれるのを聞いて、おのおのが無上菩提の心をおこしたことを明かす。これは、すなわち仏は聖者中の最上の方であり、その
以上、七句の不同があるけれども、広く得益分を解釈し終わる。
【34】●四つに、つぎに流通分を明かす。その中に二つある。一つには、王舎城の宮殿での流通を明かす。二つには、耆闍崛山での流通を明かす。
今は、まず、王宮での流通の文の中について七つある。
一つに、「
二つに、「仏阿難に告げたまわく」より以下は、まさしく如来が依報と正報とを並べあげて、もってこの経の名を立てられ、またよく経によって修行すれば、惑業苦の障りの雲がおのずがら除かれることを明かし、前にあげた初めの問いの「
三つに、「汝
四つに、「此の三昧を行ずる者は」より「
一つには、総じて定善観をかかげて三昧の名を立てることを明かす。
二つには、その観によって修行すれば、阿弥陀仏および観音・勢至の二菩薩をみたてまつる利益のあることを明かす。
三つには、重ねてよく教を行ずる人をあげることを明かす。
四つには、まさしく比べてすぐれていることをあらわす。ただ阿弥陀仏および観音・勢至の二菩薩の名を聞いてさえ、多劫の罪を除く。まして、心乱れずに行ずれば、利益を得ないはずはない。
五つに、「若し念仏する者は」より「諸仏の家に生ず」までは、まさしく念仏三昧の功能が超えすぐれて、実に雑行と比べることができないことをあらわすのである。その中に五つある。
一つには、もっぱら弥陀の名号を称えることを明かす。
二つには、そのよく念仏する人をたたえることを明かす。
三つには、もし、よく相続して念仏する人は、はなはだたぐい稀であって、ほかにこれと比べられるものがないから、分陀利華をもってたとえとすることを明かす。
分陀利華というのは、人間の世界での好華と名づけ、また稀有の華とも名づけ、また上々の華とも名づけ、また妙好華とも名づける。この華は、この国では古来伝えて蔡華と名づけているのがそれである。もし念仏する者なら、その人は、人々の中での好人であり、妙好人であり、上々人であり、稀有人であり、最勝人である。
四つには、もっぱら阿弥陀仏の名号を称える人を、すなわち観音・勢至の二菩薩はいつも影のかたちにしたがうように護ってくださる。また、親しい友達となってくださるということを明かす。
五つには、この世ですでにこのような利益を受けており、命終わって仏の家に生まれるであろう。すなわちそれは浄土のことである。かの浄土に往生し、とこしえに尊い法を聞き、また他方の世界に至って諸仏を供養するであろう。そこで成仏の因が満足する。さとりの座にのぼることが遠いことではない、ということを明かす。
六つに、「仏阿難に告げたまわく。汝
七つに、「仏此の語を説きたもう時」より以下は、まさしく法を請うものと、法を伝えるものなどが、いまだかって聞かないことを聞き、いまだかって見ないことを見、たまたま尊い法を受けて、喜びにたえないことを明かす。
以上七句の不同があるけれども、広く王宮の流通分を解釈し終わる。
【35】●五つに、耆闍会の中について、また三つある。
●一つに、「
●二つに、「
●三つに、「無量の諸天」より以下は、耆闍会の流通分を明かす。
以上、三義の不同があるけれども、総じて耆闍分を明かし終わる。
【36】●初めに、「
●二つに、「日想観」より「下品下生」までは、正宗分を明かす。
●三つに、「是の語を説きたもう時」より「諸天、心を
●四つに、「
●五つに、「
以上、五分の不同があるけれども、総じて《観経》一部の文義を解釈し終わる。
【37】●ひそかに考えてみると、真宗の教にはあいがたく、浄土の法門にはあいがたい。釈迦如来は五道に迷えるものを、みな同じく生まれさせようと思し召される。こういうわけで末代のものによく聞くことをお勧めになる。しかしながら、如来の不思議なはたらきは自在で定まりがない。根機に応じて、あるいは隠れ、あるいは現われ、王宮においてひそかに化導なされる。こういうわけで、耆闍の聖者たちは智慧が浅いために疑いをいだき、仏が後に耆闍崛山にお帰りになっても、くわしいことを知らなかった。その時、阿難は、それらの大衆のために、王宮での教化であった定善・散善両門を説いた。すべてのものは、これによって同じように尊い法をきき、敬い、いただかないものはなかった。
【38】●敬って、一切の同行たちに告げる。わたしは、ながく
●第二夜には、阿弥陀如来が真金色の御身で、七宝の樹の下において、金蓮華に坐しておられるのを見た。十人の僧が、とりまいてまたおのおの一の宝樹の下に坐しておられる。仏の坐したまえる樹上には、清浄な衣がかかりまといめぐっている。ただしく顔を西に向けて、合掌して坐り観じた。
●第三夜には、非常に大きな二つの
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