【1】 これより下は、つぎに三輩について明かす散善一門の義を解釈する。この義の中について二つある。一つには序分にでている三福は業因のものがらとなることを明かす。二つには今九品は機類について行ずることを明かす。今三福というのは、第一福は、世間の善根であり、いまだかって仏法を聞かない人が、その性質が善であるので、自然に孝養・仁・義・礼・智・信を行ずるから世間の善と名づける。第二福は、これを戒善と名づける。この戒の中について人間・天上に生まれる戒、声聞の戒、菩薩の戒などがある。その中で、あるいは五戒全部受けるのと、一部分を受けるものとがあり、あるいは全部たもつものと一部分持つものとがあるが、ただ往生の因として回向するならば、すべて往生を得る。第三福は名づけて行善とする。これは大乗の心をおこした凡夫であり、自らよく行を修め、かねて縁ある人を勧めて、悪を捨て善心をたもたせ、それを因として浄土に生まれるのである。またこの三福の中について、あるいは、ただ世福だけを行じて、それを因にふりむけて往生をうる者がある。あるいは、ただ戒福だけを行じて、それを因にふりむけて往生をうる者がある。あるいは、ただ行福だけを行じて、それを因にふりむけて往生をうる者がある。あるいは、上の世福・戒福を行じて、それを因にふりむけて往生をうる者がある。あるいは下の戒福・行福を行じて、それを因にふりむけて往生をうる者がある。あるいは、すべて三福を行じて、それを因にふりむけて往生をうるものがある。あるいは三福をすべて行じない人々があるが、これらを十悪・邪見・闡提の人と名づける。九品というのは文に至って述べよう。今略して三福の差別の義を解釈し終わる。

【2】 十四に、上輩観の善を行ずる文の前において、総じて分別して十一門とする。一つには、総じて告げたもうことを明かす。二つには、その位を定める。三つには、総じて縁ある機類をあげる。四つには、三心をもって正因とすることを定める。五つには、まさしく機類の堪えるものと堪えないものとの区別を明かす。六つには、受ける法が同じでないことを明かす。七つには、まさしく修行の時節に長短の差別があることを明かす。八つには、修めた行を往生の因にふりむけて弥陀の浄土に生まれようと願うことを明かす。九つには、臨終の時に聖衆が来て迎えられるのに不同があり、行者の往生に要する時に遅いはやいがあることを明かす。十には、浄土に至って蓮華が開くのに遅いはやいの違いがあることを明かす。十一には、華が開いてから、利益をうるのに違いがあることを明かす。

 今、この十一の門の義は九品の文にあてはめてみると、一々の品にみなこの十一義がある。そこで一百番の義となる。またこの十一門の義は、上輩の文の前において、総じて分けてもよい。あるいは中輩・下輩の文の前において分けてもよい。またこの義は、経文をもってきて対照して考えると、そろっているものと、そろっていないものとがあり、隠れているものと顕れているものとがあるけれども、もし道理によるならば、ことごとくみなあるべきである。こういうわけだから、広く開き顕わし出して、すべての行者に解り易く、知り易くしようと思うのである。以上、十一門の別があるけれども、広く上輩三品の義を説明し終わる。

【3】 これからつぎに、まず上品上生の位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に十二ある。

 一つに、「仏阿難に告げたまわく」より以下は、二つの意味を並べてあらわす。一つには、告げたもうことを明かす。二つには、上上品の人の階位を定めることを明かす。これはすなわち、大乗の上善根を修める凡夫である。

 三つに、「若し衆生有りて」より「即便すなわち往生す」までは、まさしく総じて往生をうる機類を挙げることを明かす。その中に四つある。一つには、信ずる人を明かす。二つには、往生を願うことを明かす。三つには、おこす信心の数を明かす。四つには、往生をうる利益を明かす。

 四つに、「何等をか三と為す」より「必ず彼の国に生ず」までは、まさしく三心をもって正因とすることを定めることを明かす。その中が二つに分かれる。一つには、世尊は衆生の根機に応じて利益を与えられるのであるが、仏意は奥深くてたやすくうかがいがたい。そこで仏みずから問いをおこしてあらわしてくださらなかったならば、他の者には理解することができないということを明かす。二つには、世尊がかえってみずから前の三心の数を挙げて答えられることを明かすのである。

【4】 《観経》に説かれている。「一つには至誠心」。「至」とは真であり、「誠」とは実である。すべての人たちが身口意の三業に修めるところの行業は、かならず如来が真実心のうちに成就せられたものをもちいることを明かしたいという思召しである。外に賢者や善人らしく励むすがたをあらわしてはならぬ。心の内にいつわりをいだいているからである。むさぼり・いかり・よこしま・いつわり・わるだくみなど数かぎりなく起こり、悪性の変わりがたいことは、あたかも蛇や蠍のようである。三業に行を修めても、それは毒のまじった善と名づけ、また、いつわりの行と名づけるもので、決して真実の行業とは名づけられないのである。もし、このような自力の心をもって行業を起こす者は、たとい身心を苦しめ励まして、昼夜を問わず懸命に努め、あたかも頭上の火を払い消すようにしても、それはすべて毒のまじった善と名づける。この毒のまじった行をたねとして、かの仏の浄土に生まれようと求めても、それは必ず不可である。なぜかというと、まさしく、かの阿弥陀仏が因位のとき、菩薩の行を修められた際には、わずか一念一刹那の間も、その身口意の三業に行ぜられたことが、みな真実心の中でなされたことに由るからである。そこで、如来の施されるところを衆生がいただくのであるから、いずれもともに真実である。

 また、真実に二種ある。一つには自力の真実、二つには他力の真実である。自力に真実というのに、また二種ある。一つには、真実の心をもって、自分およい他人の悪をとどめ、また穢れた世を嫌って、歩むもとどまるも坐るも臥すも、常に、すべての菩薩たちが一切の悪を捨てられるのと同じように、自分もまたこの通りにしようと思うのである。二つには、真実の心をもって、自分が凡夫や聖者の善を修め、また他人にも勧める。

 真実の心をもって、口に、かの阿弥陀仏およびその浄土や聖者たちをめたたえる。また真実の心をもって、口に三界・六道などの自分や他人の住む世界、およびその衆生の苦悪のことを嫌う。またすべての衆生の身口意の三業でするところの善業を讃めたたえる。もし善業でないものには気をつけてこれに近づかず、また喜ばないのである。また真実の心から、身に、合掌し礼拝して、衣服・飲食・臥具・湯薬の四つのものなどをもって、阿弥陀仏およびその浄土や聖衆たちを供養する。また真実の心をもって、身に、この迷いの三界などの自分や他人の国土、および衆生の果報を嫌い捨てる。また真実心で、こころに、かの阿弥陀仏およびその浄土や聖衆たちを思いうかべ、よく観察し、つねにおもって、目の前に現れているようにする。また真実心で、意に、この迷いの三界などの自分や他人の国土、および衆生の果報を嫌い捨てる。

 衆生がなすところの不善の三業すなわち自力の善は、必ず如来が因位のとき廃捨せられたとおりに、自分も捨てる。また善の三業を起こすならば、かならず如来が真実心の中で成就なされたものをいただくのである。内外明暗の人の別をいわず、みな如来の真実をいただくから、これを至誠心と名づける。

【5】 「二つには深心」。深心というのは、これはすなわち深く信ずるの心である。これにまた二種ある。一つには、自身は現在罪深い迷いの凡夫であり、はかり知られぬ昔からいつも迷いにさまよって、これからのちも生死を出る手がかりがない、と決定して深く信ずる。二つには、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂めとってお救いくださる。疑いなくためらうことなく、かの願力にうちまかせて、まちがいなく往生する、と決定して深く信ずる。

【6】 また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

 また、《阿弥陀経》の中に、十方にまします恒河の砂の数ほどの諸仏が、すべての凡夫はまちがいなく往生できる、と証明して勧めてくださることを、決定して深く信ずる。

 また、深く信ずる者、仰ぎ願わくは、すべての行者たちよ、一心にただ仏語を信じて身命をかえりみず、決定して、仏の説かれた行をよりどころとして、仏の捨てよと仰せられる自力の行を捨て、仏の行ぜよと仰せられる念仏を行じ、仏の近づいてはならぬと仰せられる雑縁に近づかない。これを、釈迦の教えにしたがい、諸仏の意にしたがうと名づける。これを弥陀の願にしたがうと名づける。これを真の仏弟子と名づけるのである。

 また、すべての行者たちが、ただよくこの《観経》によって念仏を深く信ずれば、決して人々を誤らせない。なぜかといえば、仏はこれ大悲を円満せられたお方だからであり、その説かれたおことばがまことだからである。仏を除いて以下の者は、智慧も行もまだ十分でなく、なお、それを学ぶ地位にあり、煩悩およびその余習がいまだ除かれず、願う仏果がまだ円満しない。したがって、これらの人たちは、たとい仏の教意をおしはかっても、まだ決了することはできぬ。仏意を正しく解釈したとしても、かならず仏の証明を請うて定むべきである。もし、仏の思召しにかなえば、仏はこれを認められて「正しい」と仰せられる。もし、仏の思召しにかなわなければ、「そなたたちのいう義は正しくない」と仰せられるのである。仏の認められない説は、無意味な利益のないことばにひとしい。仏の認められた説は、仏の正しい教えにかなうものである。仏のすべてのおことばは、正しい教、正しい義理、正しい行、正しい解釈、正しい業、正しい智慧である。多くても少なくても、菩薩・人・天などを問わず、その説のよしあしを仏説によらずに定めることはできぬ。もし仏の説かれた教であれば、決了の教であり、菩薩などの説であれば、ことごとく義理の決了でない教と名づける。よく知るべきである。こういうわけであるから、いまのとき、往生を願うすべての有縁の人たちに仰いで勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、専心に行ずべきである。菩薩などの仏意にかなわない教を信じて、疑いをおこし、惑いをいだいて、みずから迷い、往生の大利益を失ってはならない。

【7】 また、深心は深く信ずる心であるというのは、決定して自己の心をうち立て、釈迦如来の教にしたがって修行し、とこしえに疑いの心を離れて、すべての別解・別行・異学・異見・異執などのために、退失したり動かされたりすることがないのである。

 問うていう。凡夫は智慧が浅く、煩悩の障りが深い。もし、解釈や修行の違った人が、多くの経や論を引いて、あい妨げ難じて、一切の罪障の凡夫は往生できないというのにあえば、どのようにして、かの難を対治し、信心をうち立て、決定して真直ぐに進んで、おそれ退くことのないようにすればよかろうか。

 答えていう。もし、人が多くの経論を引いて、往生できないというならば、行者は答えていえ。「そなたは、経論をもって証明して、往生できないというけれども、わたしの心においては、決してそなたの非難を受けない。なぜかといえば、そのように、わたしもまた、かのもろもろの経論を信じないのではない。ことごとく仰いで信ずる。しかし仏がかの経を説かれた時は、今の経を説かれたのと処が別であり、時が別であり、対する機類が別であり、その利益も別である。また、かの経を説かれた時は、《観経》《弥陀経》などを説かれた時ではない。そのように仏が教を説かれることは、それぞれの機類に応じ、時もまた同じでない。かの経典には、通じて人天・菩薩の解行を説いている。今、《観経》に定散二善の法を説かれたのは、ただ韋提および仏の入滅の後に、五濁の世、五苦などになやむ一切凡夫のために証明して往生ができると仰せられる。こういうわけで、わたしは今、一心にこの仏の教に依って決定して行ずるのである。たとい、そなたたちが百千万億も集まって往生できないといっても、ただわたしの往生の信心をいよいよ増長し、成就するばかりである」と。

 また、行者はさらに説いていうがよい。「そなたはよく聞け。わたしは今、そなたのために、さらに決定の信相を説こう。たとい、初地以前の菩薩・羅漢・縁覚などが、あるいは一人、あるいはたくさん十方に満ちるほどのかたがたが、みんな経論を引いて証明し、往生できないといったとしても、わたしは、またいささかの疑う心をおこさずに、ただわたしの清浄な信心をいよいよ増長し成就するだけである。なぜかというと、仏のおことばは確実で完成された明らかな義であり、すべてのものに破壊されないからである」と。

 「また、そなたよよく聞け。たとい初地以上十地までの菩薩たちが、あるいは一人、あるいはたくさん、さらに十方に満ちるほどのかたがたが異口同音に、『釈迦仏が阿弥陀仏を讃嘆して、〈三界六道をけなして、衆生を勧めて、専心に念仏し、または余善を修めるものは、この一身を終わってのち必ず浄土に生まれる〉といわれるのは、これは必ずみないつわりであって信じてはならない』といったとする。わたしは、この説を聞いても、またいささかの疑いもおこさずに、ただ決定した上々の信心をいよいよ増長し成就するばかりである。なぜかというと、仏のおことばは真実で間違いのない明らかな義であるからである。仏はまことに知り、まことし、まことに見、まことさとっておられ、疑惑の心をもって仰せられたものではないからである。また、すべての菩薩の異見・異解によって破壊されない。もし実に菩薩であるならば、すべて仏の教にそむかないのである」と。

 「また、それはそうとして行者は知るべきである。たとい化仏・報仏が、あるいは一人、あるいはたくさん、さらに十方に満ちるほどのかたがたが、おのおの光を輝かし、み舌を出して、あまねく十方世界を覆うて一々の仏が、『釈迦仏の説法の中に、〈諸仏と釈迦仏とが互いに讃嘆し、すべての凡夫を勧めて、専心に念仏し、また余善を修めて、浄土に回向して願えば、かの浄土に生まれる〉といわれたのは、これはいつわりであって決してそんなことはない』といわれたとする。わたしは、これらの諸仏の説くところを聞いても、ついにいささかもあやぶみ退く心をおこして、かの仏の浄土に生まれることができないと畏れることはない。なぜかというと一仏と一切仏とのもっておられる知見・解行・証悟・果位・大悲などはひとしくて少しも差別がない。こういうわけで一仏がととめられるところは一切仏も同様にとどめられる。前の仏が殺生などの十悪の罪をとどめて、ついに犯さず行じないならば、十善十行と名づけて、六度の義に随順するというようなことを、もし後の仏があって、前の十善を改めて、十悪を行ぜしめるようなことがあろうか、ありはしない。この道理をもっておしはかると、明らかに知られる。諸仏の言行は互いにたがうようなことはない。かりに釈迦仏が一切凡夫に教えて、この身のあるかぎり専ら念仏して命終われば、まちがいなくかの国に生まれると勧められるならば、十方の諸仏もみなこれと同じように讃嘆し、同じように勧め、同じように証明されるのである。なぜかというと、同じさとりから起こる大悲だからである。釈迦一仏の教化せられるところの法は、そのまま一切の仏が教化せられるところであり、一切の仏が教化せられるところの法は、そのまま釈迦仏の教化せられるところである。すなわち《阿弥陀経》の中には、釈迦仏が極楽の種々の荘厳を讃嘆せられ、また、すべての凡夫に、一日あるいは七日でも一心に弥陀の名号を称える者はまちがいなく往生させてくださる、と勧められ、その次の文には、十方におのおの恒河の砂の数ほどの諸仏がおられて同じように釈迦仏を讃嘆なされる。すなわち釈迦仏が、この五濁の悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛んなときに出られて、よく弥陀の名号を讃嘆せられ、衆生に、念仏すればかならず往生を得ると勧め励まされるのをたたえていられる。これがその証拠である。また、十方の諸仏は、等しく衆生が釈迦一仏の説かれたところを、信じないであろうことをおそれて、共に心を同じくし、同時におのおのが、あまねく三千世界をおおうような広長の舌相を示して、まことの言葉をもって、『そなたたち衆生はみな、釈迦仏が説かれ、讃嘆せられ、証明せられるところの法を信ずべきである。すべての凡夫は罪福の多少や時間の長短を問うことなく、ただよく上は一生涯から下は一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を称えれば、かならず往生を得ること決して疑いない』と仰せられている。こういうわけで、釈迦一仏の説かれるところはすなわち一切の仏たちが同じく証明せられるのである。」これを〈勧める人について信を立てる〉というのである。

【8】 つぎに、〈行について信を立てる〉というのは、ところで、行に二種ある。一つには正行、二つには雑行である。正行とは、専ら往生経に説かれてある弥陀行によって行ずることをいうのである。何がこれであるかというと、一心に専らこの《観経》《弥陀経》《無量寿経》などを読誦すること。一心に専らかの浄土や仏および聖衆たちを心にかけ、よく観察し、つねにおもうこと。もし礼拝するならば、すなわち一心に専ら阿弥陀仏を礼拝する。もし口に称えるならば、すなわち一心に専ら弥陀の名号を称える。もし讃嘆供養するならば、すなわち一心に専ら讃嘆供養する。これを正行と名づけるのである。

 また、この正行の中について、また二種ある。一つには、一心に弥陀の名号を称え、行住坐臥に時間の長短をいわず相続してすてないのを正定の業という。かの阿弥陀仏の本願にしたがうからである。もし礼拝や読誦などによれば、これを助業という。この正助の二行を除いてほかのいろいろな善根は、ことごとく雑行と名づける。もし前の正助二行を修めるのは、心がいつも阿弥陀仏に親近し、憶念して断えないから、名づけて無間とする。もし後の雑行を行ずるのは、心がつねに間断するから、これを浄土のたねに回向して往生を得るといっても、すべてぞうの行というのである。こういうわけで「深心」と名づける。

【9】 三つには「回向発願心」。回向発願心というのは、過去と今生とにおいて、身口意の三業に修めたところの世間の善根や出世間の善根と、および他のすべての凡夫や聖者たちが身口意の三業に修めたところの世間・出世間の善根を随喜して、この自分の善根と、他の善根を随喜したのとを、ことごとくまことの心をもって往生のたねにふり向け、浄土に生まれようと願うから、「回向発願心」というのである。また信心をおこし浄土の往生を願う者は、かならず阿弥陀如来のまちがいのない真実の心をもってご回向くださるお慈悲をいただいて、往生安堵の想いをせよ。この心のかたく信ずることは、金剛のようであるから、すべて仏教と異なる教の人や、浄土門以外の人や、浄土門の中でも考えの違う人たちによって、乱されたり、やぶりくだかれたりすることがない。ただ決定して、一心に願力を信じて、疑うことなく進み、かれらのことば、すなわち、「心が定まらず、おそれをいだいてためらうから、願力の道より落ちて往生の大利益を失うであろう」というのを聞いてはならぬ。

【10】問うていう。もし、学解や修行の異なる自力の人たちが来て、かわるがわる惑わし、あるいはいろいろの疑難を説いて、「往生できぬ」といったり、あるいはまた、「あなたたちは、はかり知られぬ昔より今生にいたるまで、身口意の三業にわたり、あらゆる凡夫や聖者がたに対して、つぶさに十悪・五逆・謗法・闡提・破戒・破見などの罪を造り、まだそれらの罪を除きつくすことができない。かくして、これらの罪は衆生を三界の悪道につなぐものである。どうして、わずか一生のあいだ、善根を修め、念仏したからといって、すぐさまかの無漏・無生の浄土に生まれて、とこしえに不退の位をさとるというようなことがあり得ようか」というであろう。これに対してどうするか。

 答えていう。諸仏の教や修行の道は、その数が非常に多く、衆生の機縁もその根機にしたがってそれぞれ異なっている。たとえば、世間の人の眼に見て、すぐわかるようなものでいえば、明りはよく闇を破り、虚空はよくものをおさめ、地はよくものを載せ育て、水はよくものをうるおし成長させ、火はよくものを成熟させたり破壊したりするようなものである。これらのものごとをことごとく〈い対するもの〉と名づける。かようなものは、現に見られるとおりで千差万別である。まして仏法不思議の力が、どうして、さまざまの利益のないはずがあろうか。自分の機縁にしたがって、どれか一つの法門によって出ることは、それが迷いを出る一つの門であり、どれか一つの法門によって入ることは、それが一つのさとりの門に入ることである。これがために、機縁にしたがって行を修め、おのおのさとりを求めるべきである。そなたは、なぜ、わたしの根機に合う行でない法をもって、わたしを妨げ惑わそうとするのか。ところで、わたしの好むところは、わたしの根機に合う行であって、そなたの求めるものではなく、そなたの好むところは、そなたの根機に合う行であって、わたしの求めるものではない。こういうわけであるから、それぞれの好むところにしたがって行を修めるならば、かならず早くさとりをうるのである。

 行者よ、よく知るべきである。もし学解をまなぼうと想うなら、凡夫から聖者、さらに仏果にいたるまで、すべての法をどれでも自由にまなぶことができる。しかし、実際に行を修めようと思うならば、かならず自分の根機に合う法によるべきである。根機に合う法によれば、わずかな苦労はげみで多大な功徳をうるからである。

【11】また、すべての往生をねがう人たちに告げる。いま重ねて、念仏を行ずる人のために、一つの喩えを説いて、信心をまもり、もって、外からの考えの異なる人たちの非難を防ごう。それは何か。

 たとえば、ここにひとりの人があって、西に向かって百千里の遠い路を行こうとするのに、その中間に、たちまち二つの河があるのが見える。一つには火の河は南にあり、二つには水の河は北にある。二つの河は、それぞれひろさが百歩で、いずれも深くて底がなく、南北はほとりがない。まさしく水火の二河の中間に一つの白道があって、そのひろさは四五寸ばかりなりとする。この道は東の岸から西の岸に至るまでの長さも、また百歩である。その水の波浪がこもごもすぎて道をうるおし、その火炎はまた来たって道を焼き、水と火とが、たがいにまじわって、いつもやむときがない。この人が、すでに広々とした場所に来たところ、そこには人がひとりもおらず、多くの群賊・悪獣がいて、この人がただひとりであるのを見て、われがちにせまってきて殺そうとする。そこで、この人は死をおそれて、ただちに走って西に向かったが、たちまちこの大河を見てみずから思うていうには、〈この河は南北にほとりを見ず、まん中に一つの白道が見えるが、それはきわめて狭い。東西二つの岸のへだたりは近いけれども、どうして行くことができよう。今日はかならず死ぬにちがいない。まさしくかえろうとすれば、群賊・悪獣が次第に来たりせまってくる。まさしく南か北に避けて走ろうとすれば、悪獣・毒虫がわれがちに自分に向かってくる。まさしく西に向かって道をたずねて行こうとすれば、また、おそらくはこの水火の二河に落ちるであろう〉と。このときにあたり、おそれおののくことは、とても言葉にいいあらわすことができない。そこで、みずから思うには、〈わたしは今、かえっても死ぬだろう、とどまっても死ぬだろう、進んでも死ぬだろう。どうしても死を免れないとすれば、むしろこの道をたずねて前に向かって行こう。すでに、この道があるのだから、かならず渡れるだろう〉と。

 こういう思いになったとき、東の岸に人の勧める声が、たちまち聞こえた。「そなたは、まどうことなく、ただこの道をたずねて行け、かならず死の難はないであろう。もし、とどまっていたならばすなわち死ぬであろう」と。また、西の岸に人がいてんでいうには、「そなたは一心正念にして、まっすぐに来たれよ。わたしはよくそなたを護るであろう。すべて水火の難に落ちることをおそれるな」と。この人は、すでにこちらから勧められ、かしこから喚ばれるのを聞いて、みずからその通りに受け、まどうことなく道をたずねてただちに進み、すこしも疑いおそれしりぞく心をおこさない。そして、一歩二歩行ったとき、東の岸の群賊らが喚んでいうには、「きみよ、もどりなさい。その道はけわしくて、とても通り過ぎることはできないで、かならず死ぬにちがいない。われわれは、すべて悪い心で向かっているのではない」と。この人は、その喚びもどることばを聞いたけれども、かえりみることなく、一心にまっすぐに進んで行くならば、しばらくにして西の岸に到着して、とこしえにいろいろのわざわいを離れ、善き友とあい会うて、喜びたのしむことが尽きないようなものである。

 これはたとえである。つぎにこのたとえを法義に合わしていうならば、「東の岸」というのは、この娑婆の火宅にたとえるのである。「西の岸」というのは、極楽浄土にたとえるのである。「群賊・悪獣がいつわり親しむ」というのは、衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大にたとえるのである。「人のいない広々とした野原」というのは、いつも悪い友にしたがって、道を教える真の知識にあわないことをたとえるのである。「水火の二河」というのは、衆生の貪愛は水のようであり、瞋憎は火のようであるのにたとえるのである。「中間の白道四五寸」というのは、衆生の貪瞋煩悩の中に、よく浄らかな信心をおこすのにたとえるのである。そこで、貪瞋煩悩は強く盛んであるからこれを水火のようであるとたとえ、信心のありさまは微かであるから、これを白道のようであるとたとえる。また、「波がつねに道をうるおす」というのは、貪愛の心がいつも起こって信心をけがそうとするのにたとえ、また、「炎がつねに道を焼く」とは、瞋嫌の心が功徳の法財を焼くのにたとえるのである。「人が道の上を行って、ただちに西に向かう」というのは、すべて自力の行業をふりすてて、ただちに他力の道に向かうのにたとえるのである。「東の岸に人の勧める声を聞いて、道をたずねてただちに進む」というのは、釈迦如来はすでに入滅せられて、後の人は仏身を見たてまつることができないけれども、のこされた教法があって、これを聞くことができるのにたとえて、すなわち、これを声のようであるというのである。「一歩二歩行ったとき群賊らが喚びもどす」というのは、学解・修行の異なる人や、まちがった考えの人たちが、みだりにかれらの見解をもって、かわるがわる行者を惑わし、「行者みずから罪を造って往生の大利益を失うであろう」と説くのにたとえるのである。「西の岸の上に人があって喚ぶ」というのは、弥陀の本願の意にたとえるのである。「しばらくにして西の岸に到着し、善き友とあい会うて喜ぶ」というのは、衆生は久しく生死まよいに沈んで、はかり知られぬ昔より自分の業にしばられて迷いつづけ、これをのがれる道がない。仰いで釈迦如来が勧めて西方の弥陀に帰せよと教えたもうのを蒙り、また阿弥陀如来が大悲心をもって招き喚びたもうのにより、今この二尊のおぼしめしにしたごうて、貪瞋水火の二つの河を心にかけず、念々に相続するならば、かの願力の道に乗じて、この世の命終わって浄土に往生し、仏を見たてまつって喜びがきわまりないことをたとえるのである。

【12】また、すべての行者は、行住坐臥に、身口意の三業にわたって修するところが、昼夜の時を問わず、いつもこの領解をもって往生安堵の想いをするから、回向発願心と名づける。

 また回向というのは、浄土に往生してからのち、さらに大悲心をおこして迷いの世界にかえって衆生を済度する。これもまた回向と名づけるのである。

【13】以上の三心がすでにととのえば、すべての行が成就しないことはない。願・行がすでに成就して、もし往生しないというならば、そういう道理のあるはずはない。また、この三心は通じて定善をも定めるのである。よく知るべきである。

【14】五つに、「また三種の衆生有り」より以下は、まさしく法を受け、教に従って修行するに、よく堪える機類を選ぶことをあらわす。

 六つに、「何等をか三とる」より「六念」までは、まさしく法を受けることの不同を明かす。その中に三つある。一つには、慈悲の心をもって殺さないことを明かす。その殺生業にはいろいろ種類がある。あるいは口殺があり、あるいは身殺があり、あるいは心殺がある。口殺とは、殺すことを許可するのを口殺と名づける。身殺とは、からだや手などを動かして指図するのを身殺と名づける。心殺とは、方法を考え、計画するなどを心殺と名づける。もし殺生業のことをいうならば、胎・卵・湿・化の四生のいずれを問わず、どれを殺しても、みな罪を招いて、浄土に生まれることを妨げる。ただ、すべての生命いのちあるものにおいて、いつくしみの心をおこすことは、すべての衆生に寿命の安楽を施すのであるから、またこれは最上のすぐれた戒である。これは上の序分の最初、世福の第三句「慈心にして殺さず」というのに合うのである。すなわち、これに止と行との二善がある。自分で殺さないから止善と名づける。他を教えて殺させないから行善と名づける。また自分でも他のものでも、初めて殺生を断つのを止善と名づける。ついにながく殺生業を除くのを行善と名づける。止善と持善との二つがあるが、総じて慈心に属する行を結ぶのである。

 もろもろの戒行を具す」というのは、もし人・天・声聞・縁覚などについていえば、小乗戒と名づけ、もし大乗の心を起こして、大乗の行を修めるものについていえば、菩薩戒と名づける。この戒は、もし位についていえば、上輩の三位のものにあたり、すなわち菩薩戒と名づける。まさしく人の位が定まることによって自然に転成する。すなわち、序分の第二の戒福の善根に合うのである。

 二つには、「読誦大乗」を明かすならば、これは、衆生の習性が違い、法をたもつことがそれぞれ異なる。前の第一の人は、ただ慈悲を修め、戒を持つことをよしとし、いまの第二の人は、大乗経典を読誦することをよしすることを明かす。しかるに戒は、よく人々をして、人・天・声聞・縁覚・菩薩の五乗や、法・報・応の三仏の果をえしめる。法は、三賢・十地の万行を修める智慧を育てる。もしその徳用を比べると、おのおの一つの能とするところがある。すなわち序分の第三、行福の第三句「読誦大乗」に合うのである。

 三つには、「六念を修行する」ことを明かすならば、すなわち仏・法・僧を念じ、戒・捨・天を念ずることで、これもまた、序分の第三、行福の大乗の意義に合うのである。念仏とは、もっぱら阿弥陀仏の口業すなわち名号の功徳、身業すなわち光明の功徳、意業の功徳を念ずるのであって、一切の諸仏を念ずるにも、またこのとおりにする。また念法・念僧とは一心にもっぱら諸仏のさとられた法、ならびにもろもろの眷属の菩薩僧を念ずる。また、念戒・念捨とは諸仏のきめられた戒を念じ、また過去の諸仏や、現在の菩薩たちがしがたいことをよくなし、捨てがたいことをよく捨てられたこと、すなわち内、自分の身命を捨て、外、自分に所属するものを捨て、身命も所属のものも捨てられたことを念ずる。これらの菩薩は、ただ法を念じようと思って身も財宝も惜しまない。行者たちは、このことを思い知ったならば、常に仰いで前後の尊い聖者がたが、身命を捨てられた意を学ぶべきである。また、念天とは、菩薩の最後身である第十地の菩薩を念ずることである。これらの菩薩は難行をすでに終え、三僧祇の時をすでに超え、万徳の行をすでに成就し、つぎに仏となるべき位をすでにさとっておられる。

 行者たちは、すでにこれを念知し終わったならば、みずから考えよ。わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

 七つに、「回向発願して」より以下は、まさしくおのおの前に修めた行業を回向して、浄土に向かうことを明かす。

 八つに、「此の功徳を具すること」より以下は、まさしく修行の時節の長短を明かす。上は一生涯を終わるまで、下は、わずか一日・一時・一念などにいたり、あるいは一念・十念より一時・一日・一生涯に至る。大体の意味は、一たび発心して以後、誓ってこの一生を終わるまで退転することなく、ただ浄土を願うのである。

 また、「此の功徳を具する」というのは、あるいは一人で上の二つを具えるものがある。あるいは一人で下の二つを具える。あるいは一人で三種をすべて具える。あるいは三種をすべてもっておらぬものは、人皮をつけている畜生とするのであって、人間とは名づけることができない。また、三を具えるものと、一・二を具するものとを問わず、回向すればすべて往生できると知るべきである。

 九つに、「彼の国に生ずる時」より「彼の国に往生す」までは、まさしく臨終の時に、聖衆の来迎の不同と、往生する時の遅速を明かす。その中に十一ある。一つには、帰する浄土を定めることを明かす。二つには、かさねて、その行を一心に勤めるものを指し、また功徳の強弱をくらべることを明かす。三つには、阿弥陀如来が、みずから来たりたもうことを明かす。四つには、「観音」以下は、さらに無数の大衆らがみな弥陀如来に従って行者を迎えることをあらわすことを明かす。五つには、七宝の宮殿が聖衆についてくることを明かす。六つには、かさねて観音・勢至がともに金台をもって行者の前に来られることを明かす。七つには、阿弥陀仏が、光明を放って行者の身を照らされることを明かす。八つには、阿弥陀仏がすでに光を放って照らし、および化仏たちと共に同時におん手を授けたもうことを明かす。九つには、すでに手を取って蓮台に昇らせ、観音菩薩たちが声を同じうして、行者の心を讃嘆し勧めることを明かす。十には、みずから見れば、金台に乗って仏に従っていることを明かす。十一には、まさしく往生するに要する時の遅速を明かす。

 十に、「彼の国に生じおわって」とは、まさしく金台が浄土に至り、さらに華に包まれる障りがないことを明かす。

 十一に、「仏の色身を見る」より「陀羅尼門」までは、まさしく金台に乗って浄土に至った後に得るところの利益の違いを明かす。その中に三つある。一つには、初めに、妙なる法をきいて無生法忍をさとり、二つには、しばらくにして、十方を経歴して諸仏に仕え、つぎつぎに成仏の記別を授かる。三つには、本国と他方でさらに教法をきき、陀羅尼を得る二つの益を証するのである。

 十二に、「是名」より以下は、総じて結ぶ。

 以上十二句の不同があるけれども、広く上品上生のいわれを解釈し終わる。

【15】つぎに、上品中生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に八つある。

 一つに、「上品中生者」より以下は、総じて位の名をあげる。すなわち大乗の中善を修する凡夫である。

 二つに、「必ずしも受持せざれども」より「彼の国に生ぜんとす」までは、まさしく十一門科の中、第六・第七・大八門にあたり、その修めたところの行善を回向して、西方浄土に向かうことを明かす。その中に四つある。一つには法の受けとり方が一定でない。すなわち、あるいは大乗経典を読むことができ、読むことができないことを明かす。二つには、よく大乗空のいわれを理解することを明かす。すなわち諸法はすべて空であって、迷いもさとりもまた空である。凡夫も聖者も、智者も愚者もまた空である。迷いの六道の境界、さとりの三賢・十聖なども、もしその本体についていえば、つまり不二であると聞く。こういう説を聞いても、その心が動かず、疑いをおこさない。三つには、深く迷いとさとりとの苦楽二種の因果を信じて、これらの因果およびそのほか仏法のいろいろの道理を疑いそしらないことを明かす。もし疑いそしる心をおこすならば、世間の善根を成就しない。世間の果報すらうることができない。まして、浄土に生まれることができようか。これは、第三行福の第二句「深心因果」、第三句「読誦大乗」に合うのである。四つには、前にあげた行業を回向して、浄土に向かうことを明かす。

 三つに、「此の行を行ずる者」より「汝を迎接す」までは、まさしく、弥陀如来が多くの聖衆たちとともに、蓮台を持って、来たり応ぜられることを明かす。その中に五つある。一つには、行者の寿命が、あと長くないことを明かす。二つには、弥陀仏が大衆と共にみずから迎えられることを明かす。三つには、侍者が蓮台をささげて行者の前に来ることを明かす。四つには、阿弥陀仏が聖衆たちと共に、声を同じうして行者がもとに修めた行業を讃嘆されることを明かす。五つには、仏は、行者が疑いをいだくことを恐れられるから、ことに「我は来たって汝を迎える」と仰せられることを明かす。

 四つに、「千の化仏とともに」より「七宝池中に」までは、まさしく十一門科の中の第九門にあたり、多くの聖衆たちが手を授けられることと、往生に要する時の遅速とを明かす。その中に五つある。一つには、弥陀仏が千の化仏と共に、同時におん手を授けたもうことを明かす。二つには、行者は、仏に手を取られ、みずから身をみれば、すでにその身は紫金のうてなに坐っていることを明かす。三つには、すでにみずから台に坐しているのを見て、合掌して仰いで弥陀如来およびその他の聖衆たちを讃嘆することを明かす。四つには、まさしく往生に要する時の遅速を明かす。五つには、浄土に至って、宝池の中にとどまることを明かす。

 五つに、「此の紫金台」より以下は、まさしく第十門の、浄土に至って、花の開く時節の同じでないことを明かす。行がすぐれているから上品上生は金剛台を得る。行が劣っているから上品中生は紫金台を得て、浄土に生れ宝池にあって一夜を経て蓮華が開く。

 六つに、「仏及び菩薩倶時ぐじに光を放ち」より「不退転を得」までは、まさしく第十一門の華開いた後にうるところの利益の違いを明かす。その中に五つある。一つには、仏の光明が身を照らすことを明かす。二つには、行者は、すでに自分の身を照らされ、心眼が開かれて明らかになることを明かす。三つには、人間の世界で修行した功徳によって、浄土に至って、いろいろの超えのあらわす所が、またその法を説いているのを聞くことを明かす。四つには、すでに心眼が開け、法を聞くことができ、金台から下りて、親しく仏のおそばに至り、歌をもってその徳を讃嘆することを明かす。五つには、時を経ること七日にして無生法忍をさとることを明かす。七日というのは、恐らくこの世界の七日であって、かの浄土の七日を指すのではないであろう。この世界で七日をへるのは、浄土では、ごくしばらくの間である。よく知るべきである。

 七つに、「時に応じて、即ち能く飛びて十方に至り」より「現前に授記せらる」までは、まさしく他方世界で利益をうることを明かす。その中に五つある。一つには、身が十方に至ることを明かす。二つには、一々めぐって諸仏を供養することを明かす。三つには、多くの三昧を修めることを明かす。四つには、後の時に無生法忍を得ることを明かす。五つには、一々の仏のそばにおいて、その前で成仏の記別を授けられることを明かす。

 八つに、「是名」より以下は総じて結ぶ。

 以上八句の不同があるけれども、広く上品中生を解釈し終わる。

【16】つぎに、上品下生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に八つある。

 一つに、「上品下生者」より以下は、総じて位の名をあげる。すなわち、大乗の下善を修める凡夫である。

 二つに、「亦因果を信じ」より「無上道心」までは、まさしく十一門科の中、第六門にあたり、法を受けることの不同を明かす。その中に三つある。一つには、因果を信ずることが定まらないことを明かす。すなわち、あるいは信じたり、あるいは信じないから、「また」というのである。あるいは、亦た、上品中生に出る「深く因果を信ず」に同じといってもよい。亦た、信ずるといっても深くなくて、善心がしばしば退いて、悪い行いがしばしば起こる。これは、深く苦楽の因果を信じないからである。もし深く迷いの苦を信ずるならば、罪業を、ついに重ねては犯さない。もし深く浄土のさとりの楽しみを信ずるならば、善心一たび起こって、長く退失することがない。二つには、信が間断するといっても、すべての大乗を疑いそしらないことを明かす。もし疑いそしるならば、たとい千仏が身をとりまいても、救う方法がない。三つには、上にあげた「亦因果を信ず」「大乗を謗ぜず」などの善は、また往生の因とはならないようであるから、ただ一念の菩提心をおこして迷いの苦を厭い、仏の世界に生まれて、すみやかに菩薩の大悲の願行を成就し、迷いの世界に帰って、あまねく衆生を済度しようと願うことを明かす。ゆえに「菩提心をおこす」と名づける。この義は、第三の行福の中にすでに明らかにした。

 三つに、「此の功徳を以て」より以下は、まさしく第八門の、前の正行である菩提心を回向して浄土に向かうことを明かす。

 四つに、「行者命終わらんと欲する時」より「七宝池中」までは、まさしく第九門の臨終に聖衆たちが来たり迎えられることと、往生に要する時の遅速とを明かす。その中に九つある。一つには、寿命があと長くないことを明かす。二つには、弥陀仏が多くの聖衆と共に今蓮華をもって来たり迎えられることを明かす。三つには、化仏が同時におん手を授けられることを明かす。四つには、聖衆が同じく声を出して讃嘆されることを明かす。五つには、行者の罪が滅するから、「清浄」といい、先に修めるところを述べるから「無上道心をおこせり」といわれることを明かす。六つには、行者は、尊いありさまをみたけれども、疑い心があって往生できないと恐れる。そこで、聖衆たちは、声をそろえて、「われは来たって汝を迎える」と告げることを明かす。七つには、すでに聖衆のお告げを蒙って、みずから身を見れば、すでに金蓮華の上に坐し、花に包まれることを明かす。八つには、仏に従って、一念にしてすなわち往生することを明かす。九つには、浄土に至って宝池の中にあることを明かす。

 五つに、「一日一夜に」より以下は、まさしく第十門の浄土に至って華が開く時節の違いを明かす。

 六つに、「七日の中に」より「皆妙法をぶ」までは、まさしく第十一門の華が開いて後、利益をうけることを明かす。

 七つに、「十方に遊歴して」より「歓喜地に住す」までは、まさしく他方世界でうる利益を明かす。また、これを後の益と名づける。

 八つに、「是名」より以下は、総じて結ぶ。

 以上、八句の不同があるけれども、広く上品下生を解釈し終わる。

【17】讃嘆していう。

上輩は上行を修める上根の人である 浄土に生まれることを願うて貪瞋の煩悩を断つ

行の差別によって三品に分ける 五念門を相続して三心を助ける

一日あるいは七日もっぱら精進し 命終わるや蓮台に乗り六塵の世界を出る

よろこばしいことではないか あいがたくして今あうことをえて とこしえにさとりの身をうることは

 以上、三位の不同があるけれども、総じて上輩一門の義を解釈し終わる。

【18】十五に、中輩観の善を行ずる文の前において、総じて分けて十一門とする。一つには、総じて告げたもうことを明かす。二つには、まさしくその位を定めることを明かす。三つには、まさしく総じて縁のある機類をあげることを明かす。四つには、まさしく三心をもって正因と定めることを明かす。五つには、まさしく機類の堪えるものと堪えないものとの区別を明かす。六つには、まさしく受ける法が同じでないことを明かす。七つには、まさしく修行の時節に長短の別があることを明かす。八つには、まさしく修めた行を往生の因にふりむけて、弥陀の浄土に生まれようと願うことを明かす。九つには、まさしく臨終の時に聖衆が来て迎えるのに不同があり、往生に要する時に速い遅いがあることを明かす。十には、まさしく浄土に至って、蓮華が開くのに速い遅いの違いがあることを明かす。十一には、まさしく華が開いてから、利益を得るのに違いがあることを明かす。以上、十一門の別があるけれども、広く中輩三品を説明し終わる。

【19】つぎに、中品上生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に八つある。

 一つに、「仏阿難に告げたまわく」より以下は、総じて告げられることを明かす。

 二つに、「中品上生者」というのは、まさしくその位を定めることを明かす。すなわちこれは小乗の根性で上善を修める凡夫である。

 三つに、「若し衆生有りて」より「もろもろの過患からん」までは、まさしく十一門科の中、第五・第六にあたり、法を受ける不同を明かす。その中に四つある。一つには、機類の堪えるものと堪えないものとを区別することを明かす。二つには、小乗の斎戒などをたもつことを明かす。三つには、小乗戒の力が弱くて五逆の罪を消すことができないことを明かす。四つには、小乗戒などをたもって犯すようなことはなくても、もし、ほかの罪があれば、つねに懺悔して必ず清浄にならしめねばならないことを明かす。これは序分の第二、戒善の福に合するのである。ところで、戒を修める時節には、あるいは一生、あるいは一年・一月・一日・一夜などがあって、その時が一定しない。大体の意味は、命終わるまで犯してはならないのである。

 四つに、「此の善根を以って回向して」より以下は、まさしく第八門の修めた行業を往生の因位ふりむけて浄土に向かうことを明かす。

 五つに、「命終の時に臨んで」より「極楽世界」までは、まさしく第九門の、臨終の時に、聖衆の来迎する不同と、往生に要する時の遅速とを明かす。その中に、六つある。一つには、寿命があと長くないことを明かす。二つには、弥陀仏は声聞衆と共に来られて、菩薩がいないことを明かす。三つには、仏が金色の光明を放って行者の身を照らされることを明かす。四つには、仏は行者のために法を説かれ、また出家のものが、多くの苦しみである世間のいろいろなかかわり、家業・仕官、長途の戦い、遠国の防衛などを離れたのをほめられ、「そなたは、今、出家して多くのものに仰がれ、万事にうれいなく、まったく自在であって、ゆくもとどまるも障りがない。そこで仏道を修めることができる」と明かされる。このゆえに、ほめて「衆苦を離る」と仰せられるのである。五つには、行者は、すでに見聞し終わって、喜びにたえず、すなわちわが身を見れば、すでに蓮台に坐って、こうべをさげて仏を礼拝することを明かす。六つには、行者が頭をたれているときは此の世界にあり、頭をあげ終われば浄土にあることを明かす。

 六つに、「蓮華いで開く」というのは、まさしく第十門の、浄土に至って、蓮華が開くに遅速の違いがあることを明かす。

 七つに、「華のひらく時に当たって」より「八解脱」までは、まさしく第十一門の、花が開いて後に、利益をうる不同を明かす。その中に三つある。一つには、宝蓮華がまもなく開くことを明かす。これは戒行がすぐれているによるからである。二つには、法を説く声が、みな同じく四諦の徳を讃嘆することを明かす。三つには、浄土に至って、四諦を説くのを聞いて、羅漢果をさとることを明かす。「羅漢」というのは、此の国では、無生といい、また無着ともいう。迷いの因を滅するから無生である。迷いの果を滅するから無着である。「三明」というのは、宿命明・天眼明・漏尽明である。「八解脱」というのは、自己の色身も、所観の境も不浄と観じ、その色を貪る心を離れるのが第一の解脱である。自己の色身は滅してなく、所観の境の不浄を観じ、色を貪る心をすてるのが第二の解脱である。その不浄を観ずることをもすてるのが第三の解脱である。これに四空および滅尽定とを合わせて、総じて八解脱となる。

 八つに、「是名」より以下は、総じて結ぶ。

 以上、八句の不同があるけれども、広く中品上生を解釈し終わる。

【20】つぎに、中品中生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に七つある。

 一つに、「中品中生者」より以下は、総じて行の名をあげて、その位を定める。すなわち、小乗の下善を修める凡夫である。

 二つに、「若し衆生有りて」より「威儀欠くること無し」までは、まさしく第五・六・七門の機類の区別と、時節を分かつことと、法を受ける不同とを明かす。その中に三つある。一つには、八戒斎をたもつことを明かし、二つには、沙弥戒を持つことを明かし、三つには、具足戒を持つことを明かす。この三種の戒を皆同じように一日一夜の間、清浄にして犯すことなく、たといわずかな罪でも、極重のとがを犯すように思って、三業のふるまいに過失のないようにする。これは、序分の第二、戒福に合する。よく知るべきである。

 三つに、「此の功徳を以て」より以下は、まさしく修めた行を因として求めるところの浄土に向かうことを明かす。

 四つに、「戒香薫習せる」より「七宝池中」までは、まさしく第九門の、行者の臨終の時に聖衆が来迎されることと、往生に要する時の遅速とを明かす。その中に八つある。一つには、寿命があと長くないことを明かす。二つには、弥陀仏が多くの声聞衆と共に来迎されることを明かす。三つには、弥陀仏が金色の光明を放って行者の身を照らされることを明かす。四つには、声聞たちが華をささげて来たり現われることを明かす。五つには、行者がみずから空中の讃嘆の声を聞くことを明かす。六つには、仏が讃嘆して、「そなたは、深く仏語を信じ随順して疑いがないゆえ、来たってそなたを迎える」と仰せられることを明かす。七つには、すでに仏の讃嘆を受けて、わが身を見ると蓮台に坐し、坐り終わって華に包まれることを明かす。八つには、華がすでにとじ終わって、西方の宝池の内に入ることを明かす。

 五つに、「七日を経て」より以下は、まさしく第十門の、浄土に至って華が開く時節の同じくないことを明かす。

 六つに、「華既にひらおわって」より「羅漢を成ず」までは、まさしく第十一門の、華が開いて後に得る利益の不同を明かす。その中に四つある。一つには、華が開けて、仏を見たてまつることを明かす。二つには、合掌して仏を讃嘆したてまつることを明かす。三つには、法を聞いて初果すなわち預流果をうることを明かす。四つには、半劫を経て初めて羅漢果を成就することを明かす。

 七つに「是名」より以下は、総じて結ぶ。

 以上七句の不同があるけれども、広く中品中生を解釈し終わる。

【21】つぎに、中品下生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に七つある。

 一つに、「中品下生者」より以下は、まさしく総じて行の名をあげて、その位を定めることを明かす。すなわち、世善の上福を修める凡夫である。

 二つに、「若し善男子有りて」より「世の仁慈を行ぜん」までは、まさしく第五・第六門の機類を区別することと、法を受ける不同とを明かす。その中に四つある。一つには、機類を区別することを明かす。二つには、父母に孝養をつくし、六親に親しむことを明かす。すなわち、序分の世福の第一・第二にあたる。三つには、この人は、性質がおだやかで善良であり、自他の区別を見ず、人の苦しみに逢うのを見れば、いつくしみの心を起こすことを明かす。四つには、まさしく中品下生の人は、いまだかって仏法をきかず、また浄土を願うことを知らない。ただ自然と孝養を行なうことを明かす。よく知るべきである。

 三つに、「此の人命終わらんと欲する時」より「四十八願」までは、まさしく第八門の、臨終に仏法に逢う時節のありさまを明かす。

 四つに、「此の事を聞きおわって」より「極楽世界」までは、まさしく第九門の、往生の益と往生に要する時の遅速とを明かす。

 五つに、「生じて七日を経るに」とは、まさしく第十門の、浄土に至って華が開くと開かないとの区別を明かす。

 六つに、「観世音に遇い」より「羅漢を成ず」までは、まさしく第十一門の、華が開いて後に得る利益の不同を明かす。その中に三つある。一つには、時を経て後、観音・勢至に会うことを明かす。二つには、すでに観音・勢至に会って尊い法を聞くことを明かす。三つには、一小劫を経てのち、始めて羅漢果をさとることを明かす。

 七つに「是名」より以下は、総じて結ぶ。

 以上、七句の不同があるけれども、広く中品下生を解釈し終わる。

【22】讃嘆していう。

中輩は中行を修める中根の人である 一日の斎戒をもって金蓮華に乗る

父母に孝養する善を教えて回向させ 西方に往生する因と説く

仏が声聞衆とともに来たり迎え ただちに弥陀の蓮華座のほとりにいたる

百宝の華に包まれて七日を経る 三品ともに華が開けて小乗のさとりをひらく

 以上、三位の不同があるけれども、総じて中輩一門の義を解釈し終わる。

【23】十六に、下輩観の善と悪との二行を明かす文の前において、分けて十一門とする。一つには、総じて告げたもうことを明かす。二つには、その位を定める。三つには、総じて縁ある機類をあげる。四つには、三心をもって正因と定めることを明かす。五つには、機類の堪えるものと堪えないものとを区別する。六つには、苦楽の二法を受ける相違を明かす。七つには、修行の時節に長短の別があることを明かす。八つには、修めた行を因として、弥陀の浄土に生まれようと願うことを明かす。九つには、臨終の時に聖衆が来て迎えるのに不同があり、往生に要する時に速い遅いがあることを明かす。十には、浄土に至って蓮華が開くのに、速い遅いの違いがあることを明かす。十一には、華が開いて以後、利益をうるのに違いがあることを明かす。以上十一門の別があるけれども、総じて下輩の三位を明かし終わる。

【24】つぎに、下品上生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に九つある。

 一つに、「仏阿難に告げたまわく」より以下は、まさしく告げたもうことを明かす。

 二つに、「下品下生者」というのは、まさしくその位を定めることを明かす。すなわち、十悪を造る軽い罪の凡夫である。

 三つに、「あるいは衆生有りて」より「慚愧有ること無けん」までは、まさしく第五門の根機を区別するのに一生涯に悪を造る軽重の相をあげることを明かす。その中に五つある。一つには、総じて悪を造る機類を明かす。二つには、いろいろの悪を造ることを明かす。三つには、多くの罪を造るけれども、大乗の経典をそしらないことを明かす。四つには、重ねて、悪を造る人を出して、智者の類でないことを明かす。五つには、これらの愚人は、多くの罪を造っても、総じてじる心のおこらないことを明かす。

 四つに、「命終わらんと欲する時」より「生死の罪」までは、まさしく悪を造る人々が、臨終に善知識に遇って、法を聞くことを明かす。その中に六つある。一つには、寿命が、あと長くないことを明かす。二つには、たちまち往生の善知識に会うことを明かす。三つには、善知識が、その人のために大乗経典のいわれを讃嘆することを明かす。四つには、すでに経典のいわれを聞いた功徳が、千劫の罪を除くことを明かす。五つには、善知識が教を転じて、阿弥陀仏の名号を称えさせることを明かす。六つには、阿弥陀仏の名号を称えたことによって、五百万劫の罪を除くことを明かす。

【25】問うていう。大乗十二部経の題号のいわれを聞けば、ただ千劫の罪を除き、弥陀仏の名号を称えること、わずか一声であるのに、五百万劫の罪を除くのは、どういうわけであるか。

 答えていう。罪を造る人は、障りが重く、それに加えて、死苦がまだ迫っておるから、善知識が多くの経典のいわれを説いても、それを受けいれる心が浮散している。心が散るから罪を除くことがやや軽い。それに対して弥陀の仏名は、境が一つであるから、よく散ることを摂めて、心を一つにとどめさせる。また、教えて心乱れず名号を称えさせるならば、その心が落ち着いているから、よく多劫の罪を除くことができるのである。

【26】五つに、「の時彼の仏」より「宝池の中に生ず」までは、まさしく第九門の、臨終の時、化仏・化菩薩が来迎されることと、往生に要する時の遅速とを明かす。その中に六つある。一つには、行者がまさしく名号を称えるとき、かの阿弥陀仏が、化仏・化菩薩をつかわし、称名の声に応じて、来現させることを明かす。二つには、化仏・化菩薩がすでに身を現わし、同じように行者を讃嘆されることを明かす。三つには、行者の聞いたところの化仏の讃嘆は、「ただ称名の功によって、われは来たって汝を迎える」と述べられて、経を聞いた善根のことはいわれないことを明かす。ところで、阿弥陀仏の本願の意に望めれば、ただ自力を離れて正しい信をもって名号を称えることを勧められる。速やかに往生のできることは、自力の雑善の行と同じでない。この《観経》およびほかの経典の処々に広く讃嘆せられてあるのは、勧めて称名させることを要とされるのである。これをよく知るべきである。四つには、すでに化仏・化菩薩の告げを蒙り、光明が室にあまねく満ちるのを見たてまつることを明かす。五つには、すでに光明のおてらしを受けて、命がついで終わることを明かす。六つには、蓮華に乗って、仏に従い、宝池の中に生まれることを明かす。

 六つに、「七七日を経て」より以下は、まさしく第十門の、浄土に至って華が開くのに速い遅いの違いを明かす。

 七つに、「華ひらく時に当たって」より「初地に入ることを得」までは、まさしく第十一門の、華が開いて後にうるところの利益に違いのあることを明かす。その中に五つある。一つには、観世音などが、まず不思議な光明を放つことを明かす。二つには、その菩薩が行者の宝華のそばに赴かれることを明かす。三つには、そのために、前生で聞いた教を説かれることを明かす。四つには、行者が聞き終わって領解し、菩提心を起こすことを明かす。五つには、多劫をへて百法明門をさとる初地の位にいることを明かす。

 八つに、「是名」より以下は、総じて結ぶ。

 九つに、「仏名を聞くことを得る」より以下は、重ねて行者の利益をあげる。ただ仏を念ずるだけが往生をうるばかりでなく、法を念じ、僧を念ずることもまた往生をうるのである。

 以上、九句の不同があるけれども、広く下品上生を解釈し終わる。

【27】つぎに、下品中生位の中につき、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に七つある。

 一つに、「仏阿難に告げたまわく」より以下は、総じて告げられることを明かす。

 二つに、「下品中生者」というのは、まさしくその位を定めることを明かす。すなわち、破戒のもので、前の十悪についで重罪を犯す凡夫である。

 三つに、「あるいは衆生有りて」より「まさに地獄に堕すべし」までは、まさしく第五・第六門の機類をえらぶことと、悪業を造ることとを明かす。その中に七つある。一つには、総じて悪を造る機類をあげることを明かす。二つには、多くいろいろの戒を破ることを明かす。三つには、僧物を盗むことを明かす。四つには、利養のために説法することを明かす。五つには、すべて慚愧の心のないことを明かす。六つには、多くの罪を造って、内には悪心をおこし、外には身と口とに悪をなすことを明かす。すでに自身が不善であるから、またこれを見るものがみな憎む。だから、「いろいろの悪心で自身を荘厳する」というのである。七つには、これらの罪状を調べると、必ず地獄におちることを明かす。

 四つに、「命終わらんと欲する時」より「即ち往生することを得」までは、まさしく第九門の、臨終に善悪の迎えが現われることを明かす。その中に九つある。一つには、罪人の命があと長くないことを明かす。二つには、地獄の火が来たり現われることを明かす。三つには、まさしく地獄の火が現われた時、善知識に遇うことを明かす。四つには、善知識がその人のために阿弥陀仏の功徳を説くことを明かす。五つには、罪人は、すでに弥陀仏のいわれを効くところに、たちまち多劫の罪を除くことを明かす。六つには、すでに罪を滅するから、地獄の火が変わって、涼しい風となることを明かす。七つには、清浄な華が風に従って来たり、行者の目の前にならぶことを明かす。八つには、化仏がたの来迎を明かす。九つには、往生に要する時の遅速を明かす。

 五つに、「七宝池中」より「六劫」までは、まさしく第十門の浄土に至って華が開く時節の不同を明かす。

 六つに、「蓮華すなわひらく」より「無上道心をおこさん」までは、まさしく第十一門の華開いた後に得る利益の相違を明かす。その中に三つある。一つには、華がすでに開き終わって、観音・勢至の二菩薩が清浄なお声で慰められることを明かす。二つには、そのために、深い大乗のみのりを説かれることを明かす。三つには、行者が領解して、菩提心をおこすことを明かす。

 七つに「是名」より以下は総じて結ぶ。

 以上、七句の不同があるけれども、広く下品中生を解釈し終わる。

【28】つぎに、下品下生位の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に七つある。

 一つに、「仏阿難に告げたまわく」より以下は、総じて告げられることを明かす。

 二つに、「下品下生者」というのは、まさしくその位を定められることを明かす。すなわち、つぶさに五逆などを造る重罪の凡夫である。

 三つに、「あるいは衆生有りて」より「苦を受くること窮まりなからん」までは、まさしく第五・第六門の機類を区別することと、悪を造る軽重の相とを明かす。その中に七つある。一つには、悪を造る機であることを明かす。二つには、総じて不善の名をあげることを明かす。三つには、罪の軽重を区別することを明かす。四つには、多くの悪を総じて結び、善人のしわざでないことを明かす。五つには、悪を造ることがすでに多いから罪もまた軽くないことを明かす。六つには、業としてその報いを受けないものはなく、因としてその果を受けないものはない。因業がすでに悪であるから、その果報がどうして苦でないといえようかということを明かす。七つには、造悪の因果すでに組なわって、その報いを受ける時がきわまりないことを明かす。

【29】問うていう。四十八願の文の中では、五逆罪の者と正法を誹謗する者とを除いて、往生を許さないが、今この《観経》の下品下生の経文の中には、謗法だけを区別して、五逆の罪の者を往生させるというのは、どういう思召しがあるのであろうか。

 答えていう。このいわれをうかがうに、如来が罪を造らせまいとして抑えとどめられる意味と解釈する。四十八願の文の中に、謗法と五逆とを除くとあるのは、思うに、この二つの悪業は、その障りが極めて重い。衆生が、もしこれを造るならば、ただちに無間地獄におち、長いあいだ苦しんで出ることができない。そこで如来は、この二つの罪過つみとがを犯すことをおそれて、お慈悲をもって抑えて、それを犯すならば往生ができぬと仰せられたのであって、これを全然修め取らぬということではない。また、下品下生の文の中に、五逆罪の者は修め取って謗法の者を除くというのは、その五逆はすでに造っているので、このうえ、迷いに流転させてはならないから、かえって大慈悲を起こして、これを修めとって往生させてくださるのである。しかしながら、謗法の罪はまだ造っておらないから、もし謗法罪を犯すならば、往生はできぬととどめられるのである。これはまだ造らない業について解釈するのである。もし造れば、かえってこれを摂めとって往生を得させる。しかし、たとい浄土に往生することを得たとしても、多劫のあいだ蓮華が開かない。これらの罪人は、華の内にいるとき、三種の障りがある。一つには、如来および多くの菩薩たちを拝することができない。二つには、尊い法を聴聞することができない。三つには、他の世界の仏・菩薩たちを供養することができない。この三種の障りを除いたほかには、さらにいろいろの苦しみはないのである。これを経典の中に、「ちょうど、比丘が三禅天の楽しみに入るようである」と説かれている。だから華の中にあって長いあいだ開かないといっても、無間地獄の中で、長くいろいろの苦しみを受けるのに比べたならば、すぐれないということはなかろう。この義は、まだ造らない罪を抑え止める意味によって解釈したのである。

【30】四つに、「かくの如き愚人」より「生死の罪」までは、まさしく法を聞き仏を念じて、現に利益を蒙ることを得ることを明かす。その中に十ある。一つには、重ねて造悪の人であることを明かす。二つには、寿命があと長くないことを明かす。三つには、臨終に善知識にあうことを明かす。四つには、善知識が慰め教えて、仏の徳を念ぜさせることを明かす。五つには、罪人は死の苦がせまって、仏の名号のいわれを心に念ずることができないことを明かす。六つには、善知識は、行者が苦のために念ずることができないのを死って、教を転じて、口に弥陀の名号を称えさせることを明かす。七つには、称名の数の多少と、その声がたえまのないことを明かす。八つには、多劫の罪を除くことを明かす。九つには、臨終に心乱れず、そこで金蓮華が来たり迎えることを明かす。十には、往生に要する時の遅速を明かす。

 五つに、「蓮華の中に於いて十二劫を満ち」より以下は、まさしく第十門の、浄土に至って華が開くことの遅速の相違を明かす。

 六つに、「観音・大勢至」より「菩提の心をおこさん」に至るまでは、まさしく第十一門の、華が開いた後に得るところの利益の相違を明かす。その中に三つある。一つには観音・勢至の二菩薩がその人のために尊い法を説くことを明かす。二つには、罪が除かれて歓喜することを明かす。三つには、後に菩提心をおこすことを明かす。

 七つに、「是名」より以下は、総じて結ぶ。

 以上七句の不同があるけれども、広く下品下生を解釈し終わる。

【31】讃嘆していう。

下輩は悪を行なう下根のものである 十悪・五逆など貪欲・瞋恚

四重禁の罪を犯し僧物を盗み仏法をそしる いまだかって慚愧して前の罪を後悔することがない

臨終には苦しいありさまが雲のように集まって 地獄の猛火が罪人の前にあらわれる

そのとき往生の善知識が 急いで勧められるのにあい専ら弥陀の名号を称えれば

化仏・化菩薩が称名の声をたずねて来たり 一念に心を傾ければ浄土の宝蓮華に入る

下輩の三品は障りが重くして多劫を経て花が開く その時にあたってはじめて菩提心をおこす

 以上、三位の不同があるけれども、総じて下輩一門の義を解釈し終わる。

【32】前に明かした十三観をもって定善とする。すなわちこれは、韋提の請いにより、如来が答えられたのである。後に明かした三福九品をなづけて散善とする。これは、仏みずから説きたもうたのである。定善と散善の両門の区別があるが、総じて正宗分を解釈し終わる。

【33】三つに、得益分の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈する。その中に七つある。

 初めに、「此の語を説きたもう」というのは、まさしくすべて前の文のことをあげて、後の得益の相をおこすことを明かす。

 二つに、「韋提」より以下は、まさしくよく法を聞く人を明かす。

 三つに、「時に応じて即ち極楽を見たてまつる」より以下は、まさしく韋提夫人などが、前の光台の中に極楽の相を見たてまつることを明かす。

 四つに、「仏身及び二菩薩を見たてまつることを得て」より以下は、まさしく夫人が第七観の初めにおいて、無量寿仏を見たてまつった時に、たちまち無生法忍の約を得たことを明かす。

 五つに、「侍女」より以下は、まさしくこのすぐれたありさまを見て、おのおの無上の菩提心をおこし、浄土に生まれようと求めることを明かす。

 六つに、「世尊悉く記したまわく」より以下は、まさしく侍女が、「みな浄土に生まれ、そこで現前三昧をうる」という仏の記別を受けたことを明かす。

 七つに、「無量の諸天」より以下は、まさしく前の厭苦縁の中で、帝釈・梵天・四天王などが、世尊に従って王宮で空から法を聞き、あるいは世尊の眉間の白毫がいろいろの相をあらわすのを見、あるいは弥陀仏の金色の尊い姿を見、あるいは九品の往生の差別を聞き、あるいは定善・散善ともに化益を受けることを聞き、あるいは三輩の善悪の機がひとしく帰することを聞き、あるいは定と境とが相応すれば、西方浄土が目の前に現われて、遠くないことを聞き、あるいは一生心を決めてもっぱらつとめるならば、ながく迷いと部類を分かつことを聞く。これらの諸天は、如来が広くまれにすぐれた利益を説かれるのを聞いて、おのおのが無上菩提の心をおこしたことを明かす。これは、すなわち仏は聖者中の最上の方であり、そのいだされる言葉は、おのずから経となる。凡夫は、その法味を蒙るや、これを聞いて利益をうるのである。

 以上、七句の不同があるけれども、広く得益分を解釈し終わる。

【34】四つに、つぎに流通分を明かす。その中に二つある。一つには、王舎城の宮殿での流通を明かす。二つには、耆闍崛山での流通を明かす。今は、まず、王宮での流通の文の中について七つある。

 一つに、「の時阿難」より以下は、まさしく阿難が問いを起こした理由を明かす。

 二つに、「仏阿難に告げたまわく」より以下は、まさしく如来が依報と正報とを並べあげて、もってこの経の名を立てられ、またよく経によって修行すれば、惑業苦の障りの雲がおのずがら除かれることを明かし、前にあげた初めの問いの「云何いかんが此の経を名づくき」とある一句に答えられるのである。

 三つに、「汝まさに受持すべし」より以下は、前にあげた二つの問いの中、後の「云何いかんが受持す」とある一句に答えられるのである。

 四つに、「此の三昧を行ずる者は」より「いかいわんや憶念せんをや」までは、まさしく比べてすぐれたことをあらわし、人に行ずることを勧められることを明かす。その中に四つある。一つには、総じて定善観をかかげて三昧の名を立てることを明かす。二つには、その観によって修行すれば、阿弥陀仏および観音・勢至の二菩薩をみたてまつる利益のあることを明かす。三つには、重ねてよく教を行ずる人をあげることを明かす。四つには、まさしく比べてすぐれていることをあらわす。ただ阿弥陀仏および観音・勢至の二菩薩の名を聞いてさえ、多劫の罪を除く。まして、心乱れずに行ずれば、利益を得ないはずはない。

 五つに、「若し念仏する者は」より「諸仏の家に生ず」までは、まさしく念仏三昧の功能が超えすぐれて、実に雑行と比べることができないことをあらわすのである。その中に五つある。一つには、もっぱら弥陀の名号を称えることを明かす。二つには、そのよく念仏する人をたたえることを明かす。三つには、もし、よく相続して念仏する人は、はなはだたぐい稀であって、ほかにこれと比べられるものがないから、分陀利華をもってたとえとすることを明かす。分陀利華というのは、人間の世界での好華と名づけ、また稀有の華とも名づけ、また上々の華とも名づけ、また妙好華とも名づける。この華は、この国では古来伝えて蔡華と名づけているのがそれである。もし念仏する者なら、その人は、人々の中での好人であり、妙好人であり、上々人であり、稀有人であり、最勝人である。四つには、もっぱら阿弥陀仏の名号を称える人を、すなわち観音・勢至の二菩薩はいつも影のかたちにしたがうように護ってくださる。また、親しい友達となってくださるということを明かす。五つには、この世ですでにこのような利益を受けており、命終わって仏の家に生まれるであろう。すなわちそれは浄土のことである。かの浄土に往生し、とこしえに尊い法を聞き、また他方の世界に至って諸仏を供養するであろう。そこで成仏の因が満足する。さとりの座にのぼることが遠いことではない、ということを明かす。

 六つに、「仏阿難に告げたまわく。汝く是の語をたもて」より以下は、まさしく弥陀の名号を阿難に授けて、末の世までひろめることを明かされたのである。上来これまで《観経》の始めから定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思召しは、人々をしてひとすじに阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。

 七つに、「仏此の語を説きたもう時」より以下は、まさしく法を請うものと、法を伝えるものなどが、いまだかって聞かないことを聞き、いまだかって見ないことを見、たまたま尊い法を受けて、喜びにたえないことを明かす。

 以上七句の不同があるけれども、広く王宮の流通分を解釈し終わる。

【35】五つに、耆闍会の中について、また三つある。

 一つに、「の時世尊」より以下は、耆闍会の序分を明かす。

 二つに、「の時阿難より以下は、耆闍会の正宗分を明かす。

 三つに、「無量の諸天」より以下は、耆闍会の流通分を明かす。

 以上、三義の不同があるけれども、総じて耆闍分を明かし終わる。

【36】初めに、「かくの如く我聞く」より「云何いかにしてか五句楽世界を見たてまつる」までは、序分を明かす。

 二つに、「日想観」より「下品下生」までは、正宗分を明かす。

 三つに、「是の語を説きたもう時」より「諸天、心をおこせり」までは、得益分を明かす。

 四つに、「の時阿難」より「韋提等歓喜す」までは、王宮での流通分を明かす。

 五つに、「の時世尊」より「礼をして退きぬ」までは、総じて耆闍分を明かす。

 以上、五分の不同があるけれども、総じて《観経》一部の文義を解釈し終わる。

【37】ひそかに考えてみると、真宗の教にはあいがたく、浄土の法門にはあいがたい。釈迦如来は五道に迷えるものを、みな同じく生まれさせようと思し召される。こういうわけで末代のものによく聞くことをお勧めになる。しかしながら、如来の不思議なはたらきは自在で定まりがない。根機に応じて、あるいは隠れ、あるいは現われ、王宮においてひそかに化導なされる。こういうわけで、耆闍の聖者たちは智慧が浅いために疑いをいだき、仏が後に耆闍崛山にお帰りになっても、くわしいことを知らなかった。その時、阿難は、それらの大衆のために、王宮での教化であった定善・散善両門を説いた。すべてのものは、これによって同じように尊い法をきき、敬い、いただかないものはなかった。

【38】敬って、一切の同行たちに告げる。わたしは、ながく生死まよいの凡夫であって、智慧は浅い。しかるに、仏の教は奥深いので、あえて軽々しく異なった解釈をしてはならない。そこですなわち、心を専ら注いで願を立て、その霊験を請い求める。心をこめて、虚空に満ち、法界にあまねき一切の三宝、釈迦牟尼仏・阿弥陀仏・観音・勢至、浄土の諸菩薩がた、および一切の荘厳相などに帰依したてまつる。わたしは今、この《観経》の肝要な義理をあらわして昔からの誤りを正しく定めようと思う。もし三世の諸仏、釈迦仏、阿弥陀仏などの大悲の思し召しにかなうならば、願わくは夢の中において前に願ったすべての境界のいろいろのありさまを見せていただきたいと。このように仏像の前で願を立てて、毎日、《阿弥陀経》を読むこと三べん、阿弥陀仏のみ名を称えること三万べん、心をこめて願をおこしたところ、その夜にあたって、西方の空中に、上のようないろいろの境界の相がみな現われ、いろいろな色の宝の山が百重千重し、さまざまの光明が、下、地面を照らせば、地は金色のようである。その中に諸仏・菩薩がおられ、あるいは坐り、あるいは立ち、あるいは語り、あるいは黙し、あるいは身や手を動かし、あるいはとどまって動かないかたを見る。すでに、この相を見て、合掌し、立って観ずることややしばらくして目がさめた。さめて後、喜びにたえず、そこで《観経》の義門を一々しるした。それから後、毎夜、夢の中にいつも一人の僧が現われて、玄義の科文を授けられた。すでにそれが終わると、ふたたび現われなかった。後に、この本書を書き終わった。また更に心をこめて七日をかぎって毎日《阿弥陀経》を読むこと十ぺん、阿弥陀仏のみ名を称えること三万べん、初夜・後夜にかの浄土の荘厳などの相を観想し、まことをこめて帰命すること、もっぱら前の方法のとおりにした。その夜にあたって、三つの石臼が道のほとりで独り回っていて、そこに忽ち一人の人が白いらくだに乗って現われ勧められるのを見た。「師よ、つとめて往生を決定して決して退転してはいけない。この世界はけがれていて、苦しみが多いから、わずらわしく此の土の楽を貪ってはならない。」答えていう。「大いに賢者の好意ある教をうけました。わたしは、命のあらん限り、決して懈怠憍慢の心をおこさないでありましょう」と 云々。

 第二夜には、阿弥陀如来が真金色の御身で、七宝の樹の下において、金蓮華に坐しておられるのを見た。十人の僧が、とりまいてまたおのおの一の宝樹の下に坐しておられる。仏の坐したまえる樹上には、清浄な衣がかかりまといめぐっている。ただしく顔を西に向けて、合掌して坐り観じた。

 第三夜には、非常に大きな二つの幢杆はたざおが高くあらわれて、五色の旗がかかっているのを見た。道路は縦横に開いて、それをみるのに妨げがない。すでに、この相を見終わって、七日に至らないでとどめた。

 上来これまでのあらゆる霊相は、その本心は人々を利益するためであって、自身のためではない。すでに、この霊相を受けて、あえてかくさず、謹んで《観経》の解釈の後に述べあらわして、末代のものに聞かせるのである。願わくは、人々に、これを聞かせて信をおこさせ、この書を見る人を、浄土に帰せしめようと思う。この功徳をあまねく衆生に施す。ことごとく菩提心をおこし、いつくしみの心をもってあい向かい、やさしいまなざしをもってあい眺め、さとりに至るまで同胞はらからとして、互いに真の善知識となって、同じく浄土に生まれ、共にさとりを成就しよう。この義は、すでに仏の証明を受けて定め終わった。一句一字も加減してはならない。この書を写そうと思うものは、もっぱら経典を写すようにせよ。よく知るべきである。