【1】 ●これより下、つぎに正宗分を解釈する。それに十六ある。また一々の観については、その経文にあたって説明するから、前にわずらわしく述べない。●今、正宗分を定めるのについては、他師と同じでない。●今、ただちに法について定めるならば、日想観の初めの句より下品下生に至るまでが正宗分である。日想観の文より前の文については、いろいろの義の別があろうけれども、この文勢よりみると、ただ序であると知るべきである。
【2】 ●初めの日想観の中について、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に五つある。
●一つに、「仏韋提に告げたまわく」より「西方を想すべし」までは、まさしく総じて告げ、総じて勧められることを明かす。●これは韋提が前に阿弥陀仏の浄土を願い、また観察の行をお願いしたところ、その時に如来は韋提の願いを許して説かれる。●ただ、しかし定善だけではすべての機類をおさめることができず、行をあらわすことが十分でないから、さらに散善三福の因行を仏みずから開いて、いまだかって聞いたことのない尊いご利益を施され、また如来は重ねて告げ、後の世にひろめることを勧められ、この法は聞きがたい尊い教であるから広く未来世のものを悟らせようとされることを明かす。
●「仏韋提に告げたまわく、汝及び衆生」というのは、これは告げ勧められることを明かす。もし、ひとしく迷いを出でて浄土に生まれようと思うものは、よろしく心をはげますべきである。
●「
●二つに「
●「
●「一切衆生」というのは、総じて往生をうる機類をあげる。
●「生盲に
●問うていう。韋提は、さきに請うて極楽の境界を見ようと願ったのに、今、如来が請いをいれてお説きになる時になって、まず心をとどめて日輪を観ずることを教えられるのはどういうわけがあるのか。
●答えていう。これには三つの意味がある。●一つには、衆生に、浄土の境を知って、そこに心をとどめさせようとなさるので、西方を指されたのである。冬夏の両時をとらず、ただ春秋の両時を取ったのは、日輪が真東に出て、真西に没するからである。弥陀の仏国は日の没する処にあたり、真西の十万億の世界をこえた所がこれである。
●二つには、衆生に自分の業障の軽重がある事を知らしめたいためである。どうして知ることができるかといえば、心をとどめて日を観察することを教えるのによる。●初めに心をとどめようとする時には、脚を組んで正座させる。右の脚を左の
●あるいは一たびの懺悔で、ただ黒障だけを除き、あるいは一たびの懺悔で黄・白などの障りを除くことができる。あるいは一たびの懺悔で白障だけを除く。●これを漸次に除くと名づけて、
●三つには、衆生に弥陀の依正二報の種々の荘厳、光明などの相が内も外も照り輝いて、この世界の日輪よりもすぐれていることが百千万倍であることを知らせようとされる。●行者たちで、もしかの浄土の相を識らないならば、この日輪の光明の相を見て、行住坐臥に礼拝し、念じ、憶想するにも、常にこの想いをなせ。久しくたたないうちに観が成就し、浄土のありさま、快楽の荘厳を見るであろう。●こういうわけで、世尊はまず日想観を教えられたのである。
●三つに「
●四つに「既に日を見
●五つに「是為」より下は総じて結ぶ。
以上五句の不同があるけれども、広く日想観を明かし終わった。
【3】 ●二つに、水想観の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に六つある。
●一つに「次に水想をなせ」より「内外映徹せるを」までは、総じて地の体をあらわす。
●問うていう。前に教えて日を観じさせるのは、業の相などを知らせるために日を観じさせたのであるが、今、この観の中で、また水を観ずることを教えられるのは、どういうわけであるのか。
●答えていう。日輪が常に照らしているのをもって、極楽がとこしえに輝いていることをあらわすのであるが、また、浄土の地面が平らかでなくて、この世界に高い低いがあるのに類すると思うことを恐れる。●およそ娑婆の境界では、ただ日だけが明らかであり、この世界は丘坑があって高低のない処はない。それで極楽の平らかな相を観じようとするならば、水にすぎたものはない。この水が平らかになる相をもって、かの浄土の瑠璃の地面を比較してあらわすのである。
●また問うていう。この世界の水はうるおうてやわらかである。かの浄土の地面もまたこの水と同じであるのかどうか。
●答えていう。この世界の平らかな水をもって、かの地面が平等で高い低いのないことに比べるのである。
●また、水を観ずることを転じて氷を観ずるのは、かの浄土の瑠璃地が内外にすみとおるのに比べる。これは、阿弥陀如来が、曠劫の昔に、法性平等にかなって修行せられて、かたよったところがなく、根本煩悩も余残の気もともに滅して、すきとおった浄土の地面を成就されたことを明かす。
●また問うていう。すでに教えて、水を観じて心をとどめ、水を感ずることを転じて氷を観じ、氷を観ずることを転じて瑠璃地を観ぜしめるのは、どういう作法をしたならば、その境界が現われるのか。
●答えていう。身の作法などは、すべて前の日想観の中の作法と同じである。また水を観じて定心を得ようとするならば、またよく似たものに対して観ずれば、定心をうることがたやすい。●行者たちは静かな処において、一椀の水をとり、床の前の地面において、水を一杯いれて自分は床の上に坐る。自分の眉間に一つの白い物で豆ほどの大きさのものをつけ、頭を低くして
観を続けておれば、次第に面が現われる。初めの時、面相が動く時は、長くなったり、短くなったり、広くなったり、狭くなったり、見えたり見えなかったりする。●この相が現われる時には、さらに極めて細かに心を用うべきである。すると久しくたたないうちに、水波が細かになって、動くようで動かぬようになり、面相が次第に明らかに現われる。面の上に眼耳鼻口などを見るけれども、また、それを見ようともせず見るのを妨げようともせず、ただ身心をゆるやかにし、有ることを知ってそれにとらわれてはならない。ただ白い処だけを心にかけて、明らかにこれを観じて、その心を守り、うっかりしてほかに心を移してはならない。これを見る時には、心がようやく安らかにとどまり、水も湛然と静まっている。●また行者たちは、自分の心中に波がとまらないのを知ろうと思うならば、ただこの水の動・不動の相を観じて、自分の心にうつる境が現われたり現われなかったり、明るくなったり闇くなったりするのを知るがよい。また、水が静かな時をまって、一粒の米ほどのものをとり、水の上にあたって手をもってこれを水中に投げると、水波が動いて椀内にひろがる。自分の面をその上に向かわして、これを見ればその白いものが動いてくる。
さらに、豆ほどのものをとり、これを投げると水波は更に大きくなって、面上の白いものは見えたり見えなかったりする。またさらに、棗ほどのものを水に投げると、水の波はいよいよ大きくなって、面上の白いものも、自分の
●また天親菩薩の讃にいわれる。
かの世界のありさまを観ずるに この三界の因果に超えすぐれている
なにものにもさえぎられないことは虚空のごとく 広大であってきわほとりがない
これは総じてかの国の地面の分量を明かす。
●二つに「下に金剛七宝の」より「
讃嘆していう。
地下荘厳の七宝の幢は 無量無辺無数億である
八方八角で百宝よりできている かれを見れば
無生なる宝国はとこしえに常住である 一一の宝より無数の光が出る
この土の行者は心を傾けて常に観じ 神をおどらして喜んで西方に生まれよ
また讃嘆していう。
西方寂静無為のみやこは 最上のさとりで有無のまよいを離れている
大悲の心を起こして十方世界に遊び からだを分けて衆生を済度することは等しくて区別がない
あるいは神通を現わして法を説き あるいは仏のすがたを現わして無余に入る
いろいろの荘厳が意のままに現われ出る これを見るすべての人々は罪がみな除かれる
また讃嘆していう。
いざ帰ろう 迷いの郷にとどまるべきではない
はかり知れぬ昔よりこのかた流転して 六道の境界をみな経めぐってきた
どこへ行っても楽しみはない ただ愁え嘆きの声を聞くばかりである
この一生をおえてのちに かの涅槃のみやこに入ろう
●三つに「瑠璃地の上には」より「分斉分明なり」までは、まさしく荘厳のあらわれていることのすぐれたことを明かす。●これは依持の円浄をあかす。七宝の池や林などはそれに依るもので、瑠璃宝地がそのよりどころである。地はよく
讃嘆していう。
宝地の荘厳は量り比べるものがない 処々に光明があって十方を照らす
宝閣華台があらゆる処に満ちている いろいろの色が美しく輝いて量りがたい
立派な雲立派な宝蓋が空から覆っている 聖衆は神通をもって互いにゆききし
立派な幢や幡蓋が風邪のまにまにひるがえり 立派な楽器は輝きを含んで思いのままに従って鳴る
疑いをもって往生するものは蓮華が開けず 掌を合わしたように華に包まれてあたかも胎内におけるようであるが
華の内で法楽を受けていささかの苦しみもない 障りつきればたちまちに華がおのずから開いて
耳も目も清く明らかで、身は金色である 菩薩はしずかに立派な衣を授け
光明が体にふれると三忍を成就する そこで阿弥陀仏を拝もうと思って金台をおりると
多くの聖者たちが迎えて説法の大会に入る 仏の尊いみ顔を仰いでよいかなとほめたてまつる
●「金縄」というより以下は、まさしく黄金をもって道となし、その形が
●四つに「一々の宝の中に五百色の光有り」より「楽器を以て荘厳と為す」までは、まさしく空の荘厳を明かす。それに六つある。●一つには、宝が多くの光を出すことを明かす。●二つには、その相をたとえてあらわすことを明かす。●三つには、光が変じて
●「華の如く又星月の如し」というのは、仏が慈悲をもって、人の知らないことを怖れられて、喩えをもってあらわされるのである。
●「台の両辺に於いて
●五つに「八種の清風」より「無我の
讃にいわれる。
安楽国は浄らかで いつも尊い説法をしている
一念同事に十方に あらゆる衆生を利益し
仏のいろいろの徳を讃嘆して わけへだての心がない
それをきくものに功徳の宝を すみやかに満足させる
●六つに「是為」よし下は、総じて結ぶ。
以上六句の不同があるけれども、広く水想観を明かし終わった。
【4】 ●三つに、地想観の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に六つある。
●一つに「此の想成ずる時」というのは、まさしく前を結んで後を起こすことを明かす。
●二つに「一々に之を観じて」より「
●三つに「是為」より下は総じて結ぶ。
●四つに「仏阿難に告げたまわく」より「是の観地の法を説け」までは、まさしく後の世に進めひろめて、機縁に従い広く説くべきことを明かす。その中に四つある。
●一つには、仏が阿難に告げられることを明かす。
●二つには、仏の語をうけて、広く未来の人々のために、前の地想観の利益を説くことを勧められることを明かす。
●三つには、機がこれを受けて信ずるのに、堪えるものと堪えないもののあることを明かす。この娑婆の迷いの身の八苦五苦、三悪道の苦などを捨てようと願って、聞いて信じ行ずるものには、身命を惜まず、急いでこれを説け。●もし一人でも苦をすて迷いを出させたならば、これをまことに仏恩を報ずると名づける。なぜかといえば、諸仏が世に出られて種々方便して、衆生を勧化せられることは、ただ悪をおさえて善根を修め、人間・天上の楽しみを受けさせるためではない。人・天の楽しみはなお電光のようで、しばしのうちになくなり、また三悪道に入って長い苦しみを受ける。こういうわけであるから、ただ浄土の往生を求め無上の仏果に向かわせることを勧めるのである。それゆえ今の時の有縁のもので、相勧めて浄土に生まれようと願うものは、諸仏の思召しにかなうものである。●もし、信じ行ずることを願わないものは、《無量清浄平等覚経》にいわれてあるとおりである。
もし人があって、浄土の法門が説かれるのを聞き、聞いても聞かないような、見ても見ないような、こういう人は、はじめて三悪道から出て来たので、その罪障がまだつきない。こういうわけで、浄土に心を向け信ずることができないと知るべきである。
仏が仰せられる。「わたしは、こういう人は、まださとりをうることができないと説くのである。」
●この経にまた仰せられる。
もし人が、浄土の法門を説かれるのを聞いて、悲喜の心がこもごも流れ、身の毛がためにいよだつような人は、まことにこの人は過去世において、かってこの法を修めたものである。いま重ねて聞くことを得て歓喜を生じ、正念に修行して、必ず往生することができると知るべきである。
●四つには、まさしく浄土の宝の地面を観じて、心をとどめるよう教えられることを明かす。
●五つに「若し是の地を観ずる者は」より「心に疑いなきを得よ」までは、まさしく地想観の利益をあらわされることを明かす。その中に四つある。●一つには、観ずるところのものがらを指して、ただ宝地を観じてほかの境をいわないことを明かす。●二つには、浄土の無漏の宝地を観ずることに
●また、大悲観世音菩薩が開華三昧に入られることによって、衆生の疑いが除かれ、その華が開いて、身相があらわれ、聖衆が手をたずさえて、仏の説法の会座に行く。こうしてすなわち、心を注いで、浄土の地面を観ずれば、宿世の障りや罪とがをなくして、願行が円満し、命が終わって往生することは疑いないのである。
今すでに、このようなすぐれた利益をみて、さらに観の邪正を知るべきことを勧められる。
●六つに「是の観を
以上六句の不同があるけれども、広く地想観を明かし終わった。
【5】 ●四つに、宝樹観の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に十ある。
●一つに「仏阿難に告げたまわく」より「次に宝樹を観ぜよ」までは、まさしく阿難および韋提希に告げて、総じて観の名をあげ、前を結び次をおこすことを明かす。
●二つに「宝樹を観ず」というのは、重ねて観の名を出す。
●「一々之を観じ」より以下は、後の観の相をおこしてまさしく観法の方法を教えられる。これは、弥陀の浄土は、広大無辺で、宝樹宝林はただ七重の行列のみをもって分量するものでないことを明かす。●今「七重」というのは、あるいは一樹があって、黄金を根となし、紫金を茎となし、白銀を枝となし、瑪瑙を
●三つに「一々に」より「由旬なり」までは、まさしく樹の体量を明かす。●これは、いろいろな宝林樹はみな阿弥陀仏の無漏心の中から出る。仏心が無漏であるから、その樹もまた無漏であることを明かす。
讃にいわれる。
法性に
浄らかな光明をそなえていることは 鏡や日輪やまた月のようである
●「量」というのは、一々の樹の高さは三十二万里である。また枯死するものなく、また小さなものなく、また初め生じてよりだんだん大きくなるものもなく、できる時には、同事にすみやかにできて、その分量はひとしい。どうしてそうなるかといえば、かの浄土は無漏であり生滅のない世界であるから、どうして、できたり枯れたりだんだん大きくなることがあろうか。
●四つに「其の
また讃にいわれる。
法性に
煩悩の
また讃嘆していう。
弥陀の浄土は宝樹が多い 四面に
清浄な衣がかかりめぐっている 宝の雲が上からかぶさって
化現の鳥が声をつらね 空に飛びかい
説法の声を出して会座に入ってくる 他方の聖衆は
その響きを聞いて心が開け 本国の人々は
その形を見て悟りをひらく
●五つに「妙真珠網」より「色中の上なる者なり」までは、まさしく樹上の空中の飾りを明かす。その中に七つある。●一つには、妙なる真珠の網が空から樹を覆うことを明かす。●二つには、網が多く重なっていることを明かす。●三つには、宮殿の数を明かす。●四つには、一々の宮内に多くの童子がいることを明かす。●五つには、童子の身に珠の瓔珞をつけていることを明かす。●六つには、瓔珞の光が遠近を照らすことを明かす。●七つには、その光が超えすぐれた色であることを明かす。
●六つに「此の諸宝林」より「七宝の菓有り」までは、その林樹が多いけれども、乱れることなく、華と実が現われる時は同事であることを明かす。これは、法蔵菩薩の尊い因位の誓願から自然に華菓をあらわすのである。
●七つに「一々の樹葉」より「葉間に婉転せり」までは、まさしく華と葉の色相が不同であることを明かす。その中に五つある。●一つには、葉の分量は等しくて大小の差別がないことを明かす。●二つには、葉より光色を出す数を明かす。●三つには、疑ってわからないことを恐れて喩えをもってあらわし、天の瓔珞のようであることを明かす。●四つには、葉の間に妙なる華があり、その色は閻浮檀金のごとく、
●八つに「湧生せる諸菓」より「亦中に於いて現ず」までは、まさしく
●九つに「この樹を見
●十に「是為」より下は、総じて結ぶ。
これはすなわち、宝樹はいろいろの輝きをつらね、宝珠の網が空中の宮殿の上にすだれのようにかかり、華はいろいろの色に分かれ、菓は他方世界を現わす。
以上十句の不同があるけれども、広く宝樹観を明かし終わった。
【6】 ●五つに、宝池観の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に七つある。
●一つに「次に
●二つに「極楽国土に」より「如意珠王より生じ」までは、まさしく池の数を明かし、ならびにその出る所を示す。その中に五つある。●一つには、帰する所の浄土をかかげ示すことを明かす。●二つには、池に八つあることを明かす。●三つには、一々の池の岸が七宝よりできていることを明かす。●四つには、この多くの宝の体性は柔軟であることを明かす。●五つには、八池の水はみな如意宝より出るから如意水と名づけることを明かす。●一つには臭みがない。これは嗅覚に摂まる。二つには清浄で光っている。これは視覚に摂まる。三つには軽い。四つには冷たい。五つにはやわらかい。六つには甘美である。これは味覚に摂まる。七つには飲むときに心地がよい。八つには飲んで
また讃嘆していう。
極楽荘厳の安養浄土は 八功徳水の池が浄土に満ち
四方の岸は美しく輝いて七宝をまじえ 水の色は明らかで宝光に映じている
水の体性は柔らかで堅い触りがない 菩薩は静かに歩いて宝香を散らし
宝香・宝雲は宝蓋となり 宝蓋は空から宝幢を覆い
宝蓋の美しい飾りが宝殿をかこんでいる 宝殿の宝鈴が珠網に垂れて
宝網の宝楽がいろいろにかなで 機類に従って宝の宮殿楼閣を讃嘆する
一々の宮殿楼閣に仏の会座があり 数しれない聖衆が坐して思量する
願わくは、この有縁の人々はつねに憶念して 命終わってもろともに
●三つには「分かれて十四支と為る」より「以て底沙と為す」までは、まさしく池が分かれて支流となり、めぐり帰って乱れないことを明かす。その中に三つある。●一つには、
●四つに「一々の水中に」より「樹を尋ねて上下す」までは、まさしく水に不思議のはたらきがあることを明かす。その中に五つある。●一つには、別して
●五つに「其の声微妙にして」より「諸仏相好者」までは、まさしく水に不思議な徳があることを明かす。それに二つある。●一つには、宝水が華の間を流れ
●六つに「如意珠王」より「仏法僧を念ず」までは、まさしく摩尼宝珠に多くの不思議な徳のあることを明かす。それに四つある。●一つには、珠王の内より金色の光を出すことを明かす。●二つには、光が変化して百宝の鳥となることを明かす。●三つには、鳥の声はやさしくみやびやかで天の音楽も比べものにならぬことを明かす。●四つには、宝鳥が声をつらねて同じく仏法僧を念ぜよと讃嘆することを明かす。
●ところで、「仏」は衆生の無上の大師であり、邪を除いて正法に向かわせてくださる。●「法」は衆生の無上の良薬であって、よく煩悩の毒病を除いて清浄な智慧とならしめる。●「僧」は衆生の無上の福田である。ただ飲食・衣服・臥具・湯薬の四事を以って供養することに心を傾けて、たゆまなかったならば、五乗の果が自然に求めに応じて成就する。●摩尼宝珠は、前には八徳の水を生じ、後には種々の金色の光を出す。ただ煩悩の闇を破り、迷いの
●七つに「是為」より下は、総じて結ぶ。
以上七句の不同があるけれども、広く宝池観を明かし終わった。
【7】 ●六つに、宝楼観の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に十一ある。
●初めに「衆宝国土の」というのは、総じて観の名をあげる。前をうけて後をおこす。●これは、浄土には宝流があって注いでいても、もし宝楼・宮殿がなかったならば、まだ精妙とはいわれないことを明かす。これによって、国土の荘厳がいろいろまどかにそなわるのである。
●二つに「一々の界上に」というのは、まさしく宝楼の立っている場所が国中にあまねく行き渡っているので、宝楼もまた数えることのできないことを明かす。
●三つに「五百億有り」というのは、まさしくその数をあらわす。一区域の上がすでにそうである。国中に満ちていることもまたこのとおりであると知るべきである。
●四つに「其の楼閣の中に」より「天の伎楽を
●五つに「又楽器有って」より「鼓せざるに
●六つに「此の衆音の中に」より「念比丘僧」までは、まさしく楽器には
●七つに「此の想成じ
これは、専ら心を境にとどめ、宝楼を見ようと願い、
●八つに「是為」より下は、総じて結ぶ。
●九つに「若し此れを見る者は」よりは、前の観成就の相をうけて、後の利益をおこす。
●十に「除無量」より「彼の国に生ず」までは、まさしく作法によって観察すれば多劫の障りを除き、身が清浄となり、仏の本心にかない、命終わって次の世には必ず往生するに間違いないことを明かす。
●十一に「是の観を作すをば」より「邪観」までは、観の邪正の相を区別する。
以上十一句の不同があるけれども、広く宝楼観を明かし終わった。
【8】 ●七つに華座観の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に十九ある。
●一つに「仏阿難に告げたまわく」より「苦悩を除く法」までは、まさしく聴くことを命じ、許して説かれることを明かす。その中に三つある。●一つには阿難および韋提に告げられることを明かす。●二つには、聴くことを命じて、これをあきらかに受け、正念に修行させることを明かす。●三つには、仏は二人のために、華座の観法は、ただよく心をとどめて念ずれば罪苦を除くことができると説かれることを明かす。
●二つに「汝等憶持して」より「解説せよ」までは、まさしく後の世にひろめるように勧められることを明かす。●これは、この観法は、深く大切なものであり、常に迷いに沈む衆生が愛欲におぼれて六道に漂い流されるのを急いで救うものであるから、汝らはこの観法を
●三つに「是の語を説きたもう時」より「
●これは、釈迦仏が許されたおことばと、阿弥陀仏がそれに応じて現われたもうたこととが同じ思召しであることをあらわす。ただ二尊が互いに隠顕の相を示される違いがあるのは、まさしく衆生の根機がいろいろ異なるので、互いに左官・大工の名匠といわれた郢・匠のように一致して化益されることを明かす。
●「是の語を説きたもう時」等というのは、まさしくこの文の意について七つあることを明かす。
●一つには、阿難と韋提に告げられる時を明かす。
●二つには、阿弥陀仏が釈迦仏のお声に応じてただちに現われて、往生できることを証明されることを明かす。
●三つには、阿弥陀仏が空中にあって立ちたもうのは、心を向けて信じ、わが国生まれようと願うならば、すみやかに往生できることを明かす。
●問うていう。仏徳は尊高であるので、たやすく軽々しい振舞はなさらぬはずである。すでによく因位の本願にたがわず、ここに来たって、大悲を現わされるならば、どうして端坐せられて根機に向かいなさらないのか。
●答えていう。これは、如来には別して奥深い思召しがあることを明かす。●思うに娑婆は苦しい世界であって、いろいろの悪人が同居し、八苦に苦しめられ、ともすれば互いに背き、心をいつわり親しんで
●四つには、観音・勢至の二菩薩が侍者となって、そのほかのものがないことをあらわすことを明かす。
●五つには、阿弥陀仏と観音・勢至の三尊が身心ともに円満清浄で光明がいよいよ盛んであることを明かす。
●六つには、仏身の光明は明らかに十方を照らされ、煩悩の障りをもっている凡夫は、どうしてつぶさに見ることができようかということを明かす。
●七つには、仏身が無漏であるから、光もまた同様に無漏である。三界有漏の閻浮檀金色をもってどうして比べることができようかということを明かす。
●四つに「時に韋提希、見無量」より「作礼し」までは、まさしく韋提は
●これはすなわち序分においては、浄土を眺めて、喜び嘆じて自らたえることができなかった。いま、まさしく阿弥陀仏を見立てまつって、さらにいよいよ心が開けて無生法忍をさとったのである。
●五つに「仏に
●六つに「未来の衆生」より「及び二菩薩を」までは、夫人が未来の衆生のためにお願いをもうけて、自分と同じように仏を見たてまつらせようとすることを明かす。
【9】 ●七つに「仏韋提に告げたまわく」より「
●問うていう。夫人が自分と同じように、未来の衆生のためにとお願いをしたのに、世尊がそれに答えられるにいたっては、ただ韋提だけを指して、未来の衆生に通ぜしめられないのはどうしたわけか。
●答えていう。仏身が教化に臨んで法を説いて機に応じられるには、お願いしなくても、なおみずからあまねく
●八つに「七宝の地上に」より「華想」までは、まさしく観に入る方法を教えられることを明かす。
●問うていう。衆生は煩悩をもっている
●答えていう。もし、衆生の障りがあり心が動くことについていうならば、
●もし心に定をえたときは、あるいは、まず光明の相が現われることがある。あるいは、まず浄土の宝地などの種々の相が明らかで不思議なものを見る。それに二種の見がある。一つには、想見で、なお心が動いているから清浄な境を見てもあまり明らかでない。二つには、もし内外の覚相がすべてなくなって、まさしく観想に入れば、その清浄な境を見ることが想見の時と比べものにならない。
●九つに「令其蓮華」より「八万四千の光」までは、まさしく宝華に種々の荘厳があることを明かす。その中に三つある。●一つには、一々の華びらに、多くの宝の色をそなえていることを明かす。●二つには、一々の華びらに多くの
●このように、次第に一々心をとどめて、止めないならば、久しからぬうちに定心をうる。すでに定心をうれば、かの浄土のいろいろの荘厳がすべて明らかに現われると知るべきである。
●十に「了々」より下は、観が成就した相を述べる。
●十一に「華葉の小なる者」より「徧く地上に覆えり」までは、まさしく華びらに種々の荘厳があることを明かす。その中に六つある。●一つには、華びらの大きさを明かす。●二つには、華びらの数を明かす。●三つには、華びらの間の珠の飾りの数を明かす。●四つには、珠に千の光明があることを明かす。●五つには、一々の珠光が変じて宝蓋となることを明かす。●六つには、宝蓋が、上、虚空を照らし、下、地上を覆うことを明かす。
●十二に「釈迦楞伽」より「以て交飾と為す」までは、まさしく台上の荘厳相を明かす。
●十三に「其の台上に於いて」より「妙宝珠以て映飾と為す」までは、まさしく幢上の荘厳相を明かす。その中に四つある。●一つには、台上におのずから四柱の宝幢があることを明かす。●二つには、
●十四に「一々の宝珠に」より「仏事を施作す」までは、まさしく宝珠の光に不思議な徳用の相があることを明かす。その中に五つある。●一つには、一々の珠に多くの光があることを明かす。●二つには、一々の光がおのおの異なった色をなしていることを明かす。●三つには、一々の光の色が浄土の地面にあまねく輝いていることを明かす。●四つには、光のいたる処はおのおのさまざまの荘厳をなしていることを明かす。●五つには、あるいは金剛台・真珠網・華雲・宝楽となって十方にあまねく満ちわたっていることを明かす。
●十五に「是為」より下は総じて観の名を結ぶ。
●十六に「仏阿難に告げたまわく」より「願力の所成なり」までは、まさしく華座が成就せられたわけを明かす。
●十七に「若し
●十八に「此の想成ぜば」より「極楽世界に生ず」までは、まさしく観成就の相を結ぶことを明かす。すなわち二つの益がある。●一つには、罪を除く利益を明かし、●二つには、往生をうる利益を明かす。
●十九に「是の観を作すをば」より「名づけて邪観と為す」までは、まさしく観の邪正の相を区別することを明かす。
●これは、蓮華は宝地をよりどころとし、華びらの間に珍しい宝をまじえ、
以上十九句の不同があるけれども、広く華座観を明かし終わった。
【10】●八つに、像想観の中について、また、まず挙げ、つぎに解釈し後に結ぶ。その中に十三ある。
●一つに「仏阿難に告げたまわく」より「次に
●二つに「諸仏如来は」より「心想中に」までは、まさしく、仏の大慈悲心は衆生の観ずる心に応じて現われる。こういうすぐれた利益があるから、そなたはこれを想えと勧められることを明かすのである。
●問うていう。韋提が、さきにお願いしたのは、ただ弥陀如来だけをさしているのに、釈迦如来が今すべて諸仏を挙げられるのは、どういう思召しがあるのか。
●答えていう。諸仏は、同じく法報応の三身をさとられ、慈悲と智慧との果は円満で、ひとしくて差別がない。一処に端坐しながら姿を現わされるのが自在である。そこで仏の思召しで有縁の機に応じられる時には、あらゆる法界に現われたもうことを示そうとされるのである。
●「法界」というのは、三義がある。一つには、仏心があまねく行き渡るから法界という。二つには、仏身があまねく行き渡るから法界という。三つには、何者にもさまたげられないから法界という。まさしくお心が行き渡るから、お
●「衆生の心想中に入りたもう」というのは、衆生が観察の
●三つに「是の故に汝等」より「心想
●「八十随形好」というのは、仏の相がすでに現われると、好がみな随うのである。これはまさしく如来が観察するものに具足観を教えられることを明かす。
●「是の心作仏す」というのは、自分の信心によって仏の相好をそこにあらわすことが、あたかも作るようなものである。
●「是の心是れ仏なり」というのは、心でよく仏の相好を観ずると、その観想によって仏の相好が現われる。すなわちこの心が仏である。この観察の心を離れて
●「諸仏正遍知」というのは、これ諸仏は円満で、無礙自在の智慧をえて、意を用いると用いないとにかかわらず、常によくあまねく法界衆生の心を知りたもう。ただよく観想をなせば、すなわち汝の心に従って仏の相好が現われることが、あたかも心より生ずるようである。●あるいは、一類の行者があって、この一段の経文の意を、聖道でいうような唯識法身の観となし、あるいは自性清浄の仏性観となすようなのは、その意が甚だ誤っている。いささかも似たところがない。すでに像を想えというて、三十二相のすがたを立てるのは、もし真如法界身ならば、どうして相があって観ずることや、身があって取ることができようか。●ところで、法身は色がなく見ることができない。さらに、比べるべき同類のものがないから、虚空をもって法身の
【11】●四つに「
●五つに「彼の仏を想せん者」よりは、前をうけて後をおこす。「先ず当に像を想すべし」というのは、観ずるところの境を定める。
●六つに「閉目開目に」より「掌中を観るが如く」までは、まさしく観成就の相を明かす。その中に四つある。●一つには、行住坐臥に眼をあけても閉じても一つの金像を見ることが目の前に現われるようで、常にこの想いをすることを明かす。●二つには、すでによく像を感じたならば、雑煮は必ず坐所があるべきである。そこで前の華座を観じて像がその上に坐せられると想うことを明かす。●三つには、像の坐せられるのを観じ終われば、心眼が開けることを明かす。●四つには、心眼がすでに開けば、金像やかの極楽のいろいろの荘厳のものがらを見るのに、地上・虚空のありさまが明らかに見られ、さえぎられることがないことを明かす。●また、像を観じて心をとどめる作法はもっぱら前に説いた三十二相の観法のとおりである。頂より一々これを想うて、
●七つに「此の事を見
●八つに「
●九つに「此の相成ずる時」より「彼の国に徧満す」までは、まさしく、上の多身観を結んで後の説法の相を生ずることを明かす。●これは、すべての行者たちは、行住坐臥、常にかの浄土の一切の宝樹、宝楼・蓮華・池などを観ずることを明かす。もしくは、礼拝・念仏、もしくは観想するに、常にこの
●十に「此の想成ずる時」より「憶持して捨てざれば」までは、まさしく、定によって極楽の荘厳を見ることができ、また一切の荘厳がみな妙法を説くことを聞く。●すでにこれを見聞し終わって、つねに心を
●十一に「修多羅と合せ
●十二に「是為」より下は総じて結ぶ。
●十三に「是の観を作す者は」より「念仏三昧を得ん」までは、まさしく、心をこめて観を修すれば、現に利益をこうむることを明かす。●これは、多くの衆生は障りが重くして真仏の観をなすことができない。こういうわけで、大聖釈尊が哀れみをたれて、しばらく心を形像に注がしめたもうのである。
以上十三句の不同があるけれども広く像観を明かし終わった。
【12】●九つに、真身観の中について、またまず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に十二ある。
●一つに「仏阿難に告げたまわく」より「身相光明を」までは、まさしく、二人に告げて、前の像観を結び、後の真身の観をおこすことを明かす。
●二つに「阿難
●三つに「仏身の高さ六十」より「由旬なり」までは、まさしく
●四つに「眉間の」より「菩薩以て侍者と為す」までは、まさしく総じて仏の身相を観ずることを明かす。その中に六つある。●一つには、白毫相の大きさを明かす。●二つには、眼相の大きさを明かす。●三つには、毛孔の大きさを明かす。●四つには、円光の大きさを明かす。●五つには、化仏の数を明かす。●六つには、侍者の数を明かす。
●五つに「無量寿仏に」より「摂取して捨てたまわず」までは、まさしく、仏身の別相を観じ、その光が有縁の衆生を利益することを明かす。その中に五つある。●一つには、相の数を明かす。●二つには、好の数を明かす。●三つには、光の数を明かす。●四つには、遠く光の照らすことを明かす。●五つには、光の至るところ、ひとえに摂取の利益を蒙ることを明かす。
●問うていう。いろいろの行をよく修めて、それを往生の因に向けるならば、みな往生できる。どうして阿弥陀仏の光はあまねく照らされるのに、ただ念仏のもののみを摂められるのは、どういう意味があるのか。
●答えていう。これに三つのわけがある。●一つには、親縁を明かす。衆生が行をおこして、口に常に名号を称えるならば、仏はすなわちこれを聞きたもう。身に常に仏を礼敬すれば仏はすなわちこれを見たもう。心に常に仏を念ずれば仏はすなわちこれを知りたもう。衆生が仏を憶念相続するならば、仏もまた衆生を憶念せられる。かの阿弥陀如来の三業とこの衆生の三業とがたがいに離れないから親縁と名づける。●二つには近縁を明かす。衆生が仏を見たてまつろうと願えば、仏はすなわち念に応じて目の前に現われられるから近縁と名づける。●三つには増上縁を明かす。衆生が仏名を称えるならば、すなわち多劫の罪が除かれて、命が終わろうとする時、阿弥陀仏が聖衆と共に自ら来たって迎えられ、いろいろのよこしまな業の障りにさまたげられないから増上縁と名づける。●ほかのいろいろな行は、これを善根といわれるけれども、もし念仏に比べたならば全く比べものにならない。こういうわけであるから、諸経の中に処々に広く念仏の
【13】●六つに「其の光明」より下は、少を結んで多をあらわす。たやすく観じようと思っても、なかなかつくすことはむずかしい。
●七つに「
●八つに「此の事を見る者は」より「
●九つに「此の観を作す者は」より「無生忍を得ん」までは、まさしく、命終わって次の世に浄土に往生をうる益を明かす。
●十に「是の故に智者」より「現前に授記す」までは、重ねて観察を修する利益を結び勧められることを明かす。その中に五つある。●一つには、観察のできる人を出すことを明かす。●二つには、専心に無量寿仏を観ずることを明かす。●三つには、相好が多いのでそれらを一緒に
●十一に「是為徧観」より下は、総じて結ぶ。
●十二に「此の観を作すをば」より下は、まさしく観の邪正の相を区別することを明かす。●これはすなわち、弥陀仏の真身の量は甚だ大きく、白毫は五つの須弥山のようであり、説法の響きは衆生の根機に応じ、光明は衆生をうるおされる。そこで世尊は衆生をして、如来に帰命し、専ら心を注いで皆のこりなく、弥陀の本弘誓願に乗じて、みなともに浄土に入らしめたいと思召されるのである。
以上十二句の不同があるけれども、広く真身観を明かし終わった。
【14】●十に観音観の中について、またまず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に十五ある。
●一つに「仏阿難に告げたまわく」より「菩薩」までは、まさしく、前の真身観を結んで後の菩薩観をおこすことを明かす。
●二つに「此の菩薩は身の
●三つに「頂上には楞伽」より「二十五由旬なり」までは、まさしく、天冠の中の化仏がすぐれていることを明かす。
●四つに「観音」より下は、まさしくお顔の色とお
●五つに「眉間の」より「蓮華色の」までは、まさしく、白毫相の光が化仏・化菩薩を現わして十方に満ち、化仏・化菩薩がいよいよ多く、また紅蓮華の色のようであることを明かす。その中に五つある。●一つには、白毫相が七宝の色をなしていることを明かす。●二つには、白毫の光の数を明かす。●三つには、光の中におられる化仏の数を明かす。●四つには、その侍者の数を明かす。●五つには、化仏やその侍者が変現して十方にあまねく満ちることを明かす。
●六つに「八十億の光明有りて」より「荘厳の事」までは、まさしく、お
●七つに「手掌に五百億の」より「衆生を接引す」までは、まさしく手に慈悲のはたらきがあることを明かす。その中に六つある。●一つには、
●八つに「足を挙げる時」より「弥満せ
●九つに「其の余の身相」より下は、仏の相と同じであることを明かす。
●十に「唯頂上の」より「世尊に及ばず」までは、まさしく、本師と弟子との位が別であり、従って果をさとることが未だまどかでない。頂上の肉髻と無見頂相の二相が世尊に及ばず、なお仏果に至っていないことをあらわしている。
●十一に「是為」より下は、総じて結ぶ。
●十二に「仏阿難に告げたまわく」より「当に是の観を
●十三に「是の観を作す者は」より「
●十四に「若し観音を観ぜんと欲すること有らん」より「掌中を観るが如く」までは、まさしく重ねて観の作法をあらわして衆生を勧め、心を傾けて現当の両益にうるおさしめられることを明かす。
●十五に「是の観を作す」より下は、まさしく、観の邪正の相を区別することを明かす。●これは、すなわち、観音の衆生済度の願いが重くして、身を十方に現わされ、その尊い手に輝きをもって、根機に従ってこれを済度されるのである。
以上十五句の不同があるけれども、広く観音観を明かし終わった。
【15】●十一に、勢至観の中について、またまず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に十三ある。
●一つに「次に大勢至を観ず」より下は、総じて観の名をあげる。
●二つに「此の菩薩の身量大小」より下は、つぎに観の相をのべる。その中に五つある。●一つには、お
●三つに「円光の
●四つには「挙身の光明」より「大勢至と名づく」までは、まさしく、身光が遠く照らして、有縁の衆生を利益し、ひとしく他方に及び、みな紫金色をなしていることを明かす。その中に八つある。●一つには、身光の総相・別相の違いを明かす。●二つには、光の照らす遠近を明かす。●三つには、光の触れる処は、みな紫金の色をなしていることを明かす。●四つには、ただ勢至菩薩と宿世から因縁のあるものが、この光を見、お身にふれることができることを明かす。●五つには、ただ一毛孔の光をみれば、すなわち多くの諸仏の清浄微妙な身光を見ることを明かす。●これは、少をあげて多くの益をあらわし、この観を行ずる者に、こい願わせ、渇仰して、観に入り、これを成就させようとされるのである。●六つには、光によって名を立てることを明かす。●七つには、光の
●五つに「此の菩薩の天冠に」より「皆中に於いて現ず」までは、まさしく天冠の荘厳相が観音と同じでないことを明かす。その中に四つある。●一つには冠上の宝蓮華の数を明かす。●二つには一々の蓮華の上の宝台の数を明かす。●三つには一々の
●六つに「頂上の肉髻は」より「普く仏事を現ず」までは、まさしく肉髻と宝瓶の相を明かす。
●七つに「余の
●八つに「此の菩薩行きたもう時は」より「極楽世界の如し」までは、まさしく、歩まれる時、観音と同じでない相を明かす。その中に四つある。●一つには、歩まれることの同じでない相を明かす。●二つには、遠近を震動させる相を明かす。●三つには、震動する所に華が多く現われることを明かす。●四つには、現われた華は高く、また秀でており、いろいろの宝珠の飾りがあって、極楽の荘厳のようであることを明かす。
●九つに「此の菩薩坐する時は」より「苦の衆生を度す」までは、まさしく坐る時の相が観音と同じでないことを明かす。その中に七つある。●一つには、坐る相を明かす。●二つには、まず本国を動かす相を明かす。●三つには、つぎに他方を動かす遠近の相を明かす。●四つには、上下の仏国を動かすことの多い相を明かす。●五つには、弥陀・観音などの分身が雲のように集まる相を明かす。●六つには、空に満ち塞って、みな宝蓮華に坐ることを明かす。●七つには、分身の仏・菩薩の説法がおのおの根機に応じて済度することを明かす。
●問うていう。《阿弥陀経》には、「かの浄土の衆生は、いろいろの苦しみあることなく、たださまざまの楽しみを受けるから極楽と名づける」と説かれてある。どうして、この経では、分身の仏・菩薩が法を説いて、苦の衆生を済度するとあるのか。何かわけがあるのか。
●答えていう。いま苦楽というのに、二種がある。一つには、三界の中の苦楽である。二つには、浄土の中の苦楽である。●三界の苦楽というのは、苦とは、三塗の苦、八苦などであり、楽とは、人天が五欲放逸で繋縛されているなどの楽である。これは楽といっても実は大の苦であって、ついに少しも
●いま「苦の衆生を度す」というのは、ただ、下の位を進めて上の位にのぼらせ、下の
●十に「此の観を作すをば」より「十一観」までは、まさしく、観の邪正を区別し、総じてこの観の分斉を結ぶことを明かす。
●十一に「此の菩薩を観ずる者は」より下は、まさしく、観を修める利益が、罪を除くこと多劫であることを明かす。
●十二に「此の観を作す者は」より「浄妙の国土」までは、まさしく、総じて前の文を結び、重ねて浄土の益を得ることを明かす。
●十三に「此の観成ず」より下は、まさしく、総じて二菩薩を挙げて観成就の相をのべることを明かす。●これは、勢至の威力は高く、坐れば他の国をゆるがし、よく弥陀・観音・勢至の分身は雲のごとく集まり、法をのべて衆生を利益する。ながく迷いを離れて法界に行き衆生利益をさせる。
以上、十三句の不同があるけれども、広く勢至観を解釈し終わった。
【16】●十二に普観の中について、またまず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に六つある。
●一つに「此の事を見る時」というのは、まさしく、前をうけて後をおこすことを明かす。
●二つに「当に自心を起こすべし」より「皆妙法を
●三つに「十二部経と合せしめ」より「失せ
●四つには「此の事を見る」より下は、観が成就した益を明かす。
●五つには「是為」より下は、総じて結ぶ。
●六つには「無量寿」より「常に此の行人の所に来至したもう」までは、まさしく重ねて観ずる人を挙げて弥陀・観音・勢至の三身に護念せられる利益を蒙ることを明かす。●これは、衆生が
以上六句の不同があるけれども、広く普観を解釈し終わった。
【17】●十三に、雑想観の中について、またまず挙げ、つぎに解釈し、後に結ぶ。その中に十一ある。
●一つに「仏阿難に告げたまわく」より下は、まさしく、二人に告命され、上の諸観を結び、勧めて後の観想をおこすことを明かす。
●二つに「先ず当に一の丈六の像を観ずべし」より下は、まさしく、像身を観じて、真身を表わし、宝池水を観じて浄土の大地を表わすことを明かす。●これは、世尊が
●三つに「先の所説の如き」より「心力の及ぶ所に
●四つに「然るに彼の如来」より「必ず成就することを得しむ」までは、まさしく、凡夫の心は狭小で、仏身の量はいよいよひろいから、そこに心を注ぐことができなくて、恐らく観が成就しがたいことであろう、●けれどもこれは、心が小さいから成就することがむずかしいのではない、所観の境が大であるから現われないのではない、ただ弥陀の深重なる願力によって観察するものをして、ことごとく成就させてくださるのであることを明かす。
●五つに「但だ仏像を想うすら」より「具足の身想」までは、まさしく、比べてみてすぐれているとあらわすことを明かす。●像を観じてさえも、なお、自分に福をうることは無量である。まして真仏を観ずるならば、利益をうる功はさらに多い。
●六つに「阿弥陀仏」より「丈六八尺なり」までは、まさしく、所観の仏像をよく観ずると、その仏身に大小があるけれども、明らかにみなこれ真金色であることを明かす。その中に三つある。●一つには、弥陀の仏身の神通は無碍自在で、意のままにあまねく現われることを明かす。●「意の如し」というについて、二種の意味がある。一つには衆生の意の如しという意味で、衆生の心に従ってこれを済度される。二つには阿弥陀仏の意の如しという意味で、五眼まどかに照らし、六通自在で、機の済度すべきものをみそなわして、一念のうちに前後なく衆生のところにおもむき、身口意の三業をもって、衆生を悟らせ、機類によってそれぞれ利益を与えられる。●二つには、あるいは大身を表し、あるいは小身を現わされることを明かす。●三つには、仏身の量に大小あるけれども、みな真金色であることを明かす。これは観の邪正を定めるのである。
●七つに「所現の形」より下は、まさしく、現われた身には大小の別があるけれども、光明の相は真身と異ならないことを明かす。
●八つに「観世音菩薩」より下は、まさしく、前の二菩薩観に同じであることを明かす。仏が大であれば侍者も大であり、仏が小であれば、侍者も小である。
●九つに「衆生但だ首相を観じて」より下は、まさしく、二菩薩の別なることを観ずるよう勧めることを明かす。どのように二菩薩が別なのか。観音菩薩の
●十に「此の二菩薩」より下は、まさしく、弥陀・観音・勢至はひとしく因位における発願の因縁が深く、同じように誓いを立てて、悪を捨ててひとしく菩提に至らせるまで、影や響きのごとく、あい離れずに十方の世界を化益されることを明かす。
●十一に「是為」より下は、総じて結ぶ。
以上十一句の不同があるけれども、広く雑想観を解釈し終わった。
上日想観より下雑想観までは、総じて世尊が前の韋提の第四のお願いに「我に思惟を教えたまえ、我に正受を教えたまえ」と申しあげた両句に答えられたことを明かす。
【18】●総じて讃嘆していう。
初めに日想観を教えてくらき心の闇を除き 水を観じ氷想を成じて内心をきよめる
地面の下の金幢はたがいにうつりあい 地上の
宝雲・宝蓋が空中に現われ 人天の音楽が互いにあいつづく
宝樹は
宝楼・宝閣はみな相つづき 光と光とは互いに照らしていずこにも影がない
阿弥陀三尊の華座はひとりはるかにほかの座にすぐれ 四方の
衆生の心は迷っていまだ明らかでないから 心をとどめて像が静かにかの華座に坐せられるのを観ずる
一念に心が開けて真仏を見れば この身光相好はいよいよ多い
苦しみを救いたもう観世音は十方世界をながめて いつでも形を現わして娑婆に入られないことはない
勢至の威光はよく法界を動かし 機縁に従ってこれを摂めて弥陀の世界に入らせる
いざ帰ろう 極楽は身を安らかにすることまことにすぐれている
正念に住して西方に帰し華につつまれた
また衆生あって心に惑いをもつものは 真仏の境を観じても恐らく成就しがたい
そこで如来は次第に観ずる方法を開かれ 華や池や一丈六尺などの真金色のおすがたを観じさせる
現われた尊いお
あまねくすべての人々に勧める もっぱら念仏して西方に向かって心を傾けることを
【19】●また前の請いに答えられる中、初め日想観より華座観までは、総じて依報の荘厳を明かす。二つに、像観より雑想観までは、総じて浄土の正報を明かす。
●以上依報・正報の不同があるけれども、広く定善一門の義を明かし終わった。