【28】第四大門の中、三つの解釈をする。第一に、印度の三蔵法師ならびにこの国の大徳たちが、みなともに聖教をくわしく調べて、浄土を嘆じ帰依しておられるのによって、今、人々に帰依を勧める。第二に、この《観経》の宗要、および他の諸大乗経に、凡夫・聖者が修行しさとるには、多く念仏三昧が肝要の道であることをあかしてあるのによる。第三には、問答して解釈し、念仏の人は種々の功徳利益を得ることが不可思議であることをあらわす。

【29】第一に、印度ならびにこの国に出られた大徳の行ぜられたところによるとは、

 日月が五翳のために見られないような、またかおを牆に向けているようなわたしには、どうしてたやすく言うことができようか。ただ大徳の跡をまわり、残された書物を開いて、つつしんで師匠の相承をたもつ。それはどなたかというと、大乗を勧められた印度の菩提流支三蔵がある。つぎに、名利を斥けられた大徳の恵寵法師がある。つぎに、つねの説法の時に、いつも尊い僧が来聴せられた大徳の道場法師がある。つぎに、徳をあらわさずに独り住んでおられて、二国の人が敬慕した大徳の曇鸞法師がある。つぎに、座禅観法がとくにひいでた大徳の大海禅師がある。つぎに、智慧が明らかで、戒律を守られ、北斉の大統となられた方上法師がある。

 しかるに、これらの六人の大徳は、みな仏教の真俗二諦の道理を明らかにきわめた方であり、すなわち仏法をたもつ綱維おおづなともいうべき方である。その志と行いは、ともに人にすぐれて古今に実にまれである。そういう方々がみなともに、大乗の聖教をくわしく調べて、浄土の法を嘆じ帰依された。すなわちこれは出離のために無常の肝要な門だからである。

 問うていう。すでに浄土の法を嘆じて帰依された。すなわち念仏が肝要な門であるというならば、これらの諸大徳の臨終の時には、みな霊験があったかどうか。

 答えていう。みな霊験があって空しくない。曇鸞法師のごときは、平生のとき浄土の法を修められた。また、時の天子が来て法師に問うていわれる。「十方仏国は、みな浄土であるのに、法師はなぜ、ただ西方の浄土に心を注いで往生を願うのか。それは偏見の生ではないか。」

 法師が答えて申しあげる。「わたしは現に凡夫であって、智慧が浅く、また菩薩の高い位に入っておりませんので、十方をどれでもひとしく念ずることができません。草を置いて牛を引くのにつねに心を飼桶にかけるようなものであります。どうしてほしいままに、全然帰する所がないように放っておくことができましょうか。」

 また、難ずるものが、いろいろあったが、法師は独り西方往生の道をみずから信じ、人にも勧められた。こういうわけで、一切の僧俗を問わず、一たび法師と遇うものは、もしまだ仏法を信じない者には、勧めて仏法を信じさせ、もしすでに仏法を信じている者には、みな勧めて浄土に帰せしめられた。それゆえ、法師の命終のときに臨んでは、寺のそばの左右の僧俗がみな、はたや花がてらに映るのを見、すべてのものが妙なる香を感じ、法師は音楽に迎えられて往生を遂げられた。ほかの大徳も命終のときに臨んでは、奇端があった。もし一々、往生の相を述べようとすれば、いずれも不思議である。

【30】第二に、この《観経》および他の諸大乗経に、多く念仏三昧を宗要とすることを明かすとは、この中に八つの解釈をする。初めの二つは、一相三昧を明かし、後の六つは、それぞれの縁により相によって念仏三昧を明かす。

 第一に、《華首経》によれば、

仏が堅意菩薩に告げられる。「三昧には二種類がある。一つには一相三昧であり、二つには衆相三昧である。一相三昧とは、菩薩が、或る世界に或る如来がましまして現に説法していられると聞いて、この仏の相を思いうかべる。すなわち、現に自分の前にましまして、もしは道場に坐っておられ、もしは法を説いて大衆にとりかこまれておられる。これらの相を想いうかべて、六根の乱れを摂めて心を散乱させず、もっぱらい一仏を念じて、この所縁を捨てない。このように、菩薩は如来の相、および世界の相において無相に体達しながら、つねにこのように観じ、このように行じて、この所縁を離れないならば、このとき仏のかたちが眼の前にあらわれて、法を説かれる。菩薩はそのとき深く恭敬の思いを生じてこの法を聞き、領解の浅深を問わず、一層尊重そんじゅうの思いを加える。菩薩はこの一相三昧に住して、すべてのものはみな変化するものであると説くのを聞く。聞き終わってこれをよくたもち、三昧から出てよく仏法を信ずる僧俗男女のためにこの法を説き述べる。」

仏が堅意に告げられる。「これを菩薩が一相三昧の門に入ると名づける。」

 第二に、《文殊般若経》によって一行三昧を明かすならば、

その時、文殊師利が仏に申しあげる。「何を名づけて一行三昧とするのでありますか。」

仏が仰せられる。「一行三昧とは、もし善男・善女が静かな処にいて、すべての乱れごころをしずめ、仏のおられる方角に身をただしくして真直ぐに向かい、すがたを観ずるのでなしに、心を一仏にかけて専らみ名を称え、その念がやまないならば、この念の中によく過去・現在・未来の三世の諸仏を見たてまつるであろう。なぜかというと、この一仏を念ずる功徳は、無量無辺であって、すなわち無量の諸仏の功徳と同じだからである。これを菩薩の一行三昧と名づける。」

 第三に、《涅槃経》によると、仏は「もし人が、ただよく心から常に念仏三昧を修めるならば、十方の諸仏がいつもこの人をごらんになることは、ちょうど目の前におられるようである」と仰せられてある。それゆえ《涅槃経》に説かれてある。

仏が迦葉菩薩に仰せられる。「もし善男・善女で、つねによく心からひとすじに念仏する者は、山の中にいても村の中にいても、昼でも夜でも、坐っていても臥してしても、諸仏がつねにこの人をごらんになることは、ちょうど目の前に顕われておられるようである。つねにこの人とともにおられて、その供養をお受けになる。」

 第四に、『観経』及びそのほかの経によれば、万行を修めて、これを回向して浄土を願えば、みな往生せぬことはない。しかし、念仏一行をもって最もかなめな路とする。なんとなれば、聖教を調べてみると、始終の両益があるからである。もし善を生じ行を起こそうと思うならば、念仏はあまねく万行を摂めており、もし悪を滅し災を消そうとするならば、念仏は総じて一切の障りをなおす。それゆえ、下の経文に仰せられる。

念仏の衆生を摂めとって捨てず、命終われば必ず浄土に生まれる。

と。これを始益と名づける。終益というのは、《觀音授記経》に説かれてあるのによれば、

阿弥陀仏が浄土にましますことは、非常に長いけれども、また入滅されることがある。その入滅された時には、ただ觀音・勢至の二菩薩だけがあって、浄土を住持して十方の衆生を導かれる。その仏の入滅後も方のとどまることは在世の時節とひとしい。ところで、浄土の衆生は、すべて仏を見たてまつるものはないが、ただひたすらに阿弥陀仏を念じて往生したものだけが、つねに阿弥陀仏が現にましまして入滅なさらないすがたを見たてまつる。

と。これがすなわち終時の益である。ほかの行を修めて回向しても、みな往生するのであるが、仏の入滅を見ると見ないとの別がある。後代の人に勧め聖教をしらべて、遠く利益をうるおさしめるのである。

 第五に、《般舟経》に説かれてあるのによれば、

その時、跋陀和菩薩があって、この国において、阿弥陀仏のましますのを聞いて、たびたびおもいをかけ、この念仏によって阿弥陀仏を見たてまつった。すでに仏を見たてまつってから、お尋ねするには、「どういう法を行じて、かの浄土に往生することができましょうか」と。

その時、阿弥陀仏が、この菩薩に仰せられる。「わが国に来生しようと思うものは、つねにわが名号を念じて休まないようにせよ。そうすれば、わが国に生まれることができる。」

また仏が仰せられる。「仏身の三十二相が、ことごとくそなわって、光明が照りわたり、端正無比なのを念ぜよ。」

 第六に、《大智度論》によれば、三つの解釈がある。その第一には、仏は無常の法王であって、菩薩のその臣下である。したがって、尊ぶべく重んずべきは仏である。それゆえ、常に仏を念ぜねばならぬ。第二には、多くの菩薩たちが自分でいわれるには、「わたしたちは、はるかの大昔から、世尊によってわたしたちの法身・智身・大慈悲身をお育ていただいた。そこで、禅定・智慧や無量の願行が、この仏によって成就することができたのである。その恩を報ずるため、つねに仏に近づいてお仕えすることを願っている。ちょうど大臣が国王の恩寵を願って、つねにその主を念うようなものである」と。第三には、多くの菩薩は、またこのようにいわれる。「わたしたちは因位の時、悪知識に遇うて仏法をそしり悪道におちた。そこで無量劫のあいだ、他の行を修めたけれども、よく生死を出ることができなかった。後の時、善知識に近づいて、念仏三昧を行ずることを教えられた。その時によくもろもろの障りを除いて、まさしく生死まよいを出ることができた。こういう大利益があるから仏のそばを離れまいと願うのである。」

 第七に、《華厳経》に説かれてあるのによれば、

むしろ無量劫のあいだ つぶさに一切の苦しみを受けても

ついに如来に遠ざかって その自在力を見ないようなことのないように

とある。また、説かれてある。

念仏三昧を修すれば必ず仏を見たてまつり 命終の後は仏前に生まれる

そこで人の臨終を見ては念仏を勧め また尊いすがたを示して見て敬わせる

 また、

善財童子が、善知識を求めて功徳雲比丘の所に至っていう。「大師、どのようにすれば、菩薩道を修めて、自利利他の行に帰せられましょうか。」

この時、比丘が善財に告げていわれる。「わたしは仏の智慧海の中でただ一つの法を知っている。すなわち、念仏三昧の門である。なぜかというと、この三昧門の中においては、ことごとくよく一切諸仏およびその眷属や立派な浄土を見て、よく衆生をして迷いを離れさせる。念仏三昧門は、微細な境界の中において一切仏の自在な境界を見たてまつり、諸劫の不顛倒を体得する。念仏三昧門は、よく一切の仏国を現わして、よく壊すものがなく、あまねく諸仏を見たてまつって、三世の不顛倒を体得する。」

その時、功徳雲比丘が善財に告げていう。「仏法の深い海は、広大無辺であって、わたしの知っているのは、ただこの一つの念仏三昧門を得たことだけである。ほかの不思議な境界は数量にこえて、わたしの未だ知らないところである。」

 第八に、《海竜王経》によれば、

その時、海竜王が仏に申しあげる。「世尊、わたしは阿弥陀仏の国に往生することを求めます。どういう行を修めたならば、浄土に生まれることができましょうか。」

仏が竜王に仰せられる。「もし、かの浄土に生まれようと思うならば、八つの法を行うべきである。その八つとは何々かといえば、一つには常に諸仏を念ずる。二つには如来を供養する。三つには世尊を讃嘆する。四つには仏のお形像すがたを作り、いろいろの功徳を修める。五つには往生を願う。六つには心がひるまない。七つには一心につとめはげむ。八つには仏の正しい智慧を求めることである。」

仏が竜王に仰せられる。「すべての衆生は、この八つの法をそなえたならば、つねに仏のそばを離れないのである。」

 問うていう。八つの法をそなえなくとも、仏の前に生まれることができて、仏のそばを離れないか、どうか。

 答えていう。往生をうることは疑いない。どうして知ることができるかといえば、仏が《宝雲経》を説かれた時のようである。また十行を具足して浄土に生まれることができて、つねに仏のそばを離れないことを明かしておられる。その時、除葢障菩薩があって仏に、「十行をそなえたくとも往生ができるでしょうか」と申しあげると、仏は、「往生することができる。ただよく十行の中、一行をそなえて完全であるならば、余の九行は、ことごとく清浄と名づけられる。疑ってはならない」と仰せられた。

 また、《大樹緊那羅王経》に説かれてある。

菩薩が四種の法を行ずるならば、つねに仏の前を離れない。その四つとは何かといえば、一つはみずから善法を修め、かねて衆生を勧めて、みな往生して如来を見たてまつるおもいをさせる。二つにはみずからはげまし、また他を勧めて、正法を聞こうと願わせる。三つにはみずからはげまし、他を勧めて、菩提心をおこさせる。四つには一向に志を専らにして念仏三昧を行ずる。この四行をそなえるならば、生まれる所はどこでもつねに仏の前であって、諸仏を離れない。

 また、この経に説かれてある。

仏が菩薩の行法を説かれるのに、三十二の器がある。それは何かというと、布施は大きな富を得る器であり、忍辱は身の端正を得る器であり、戒をたもつことは清浄な身を得る器であり、五逆不孝は刀の山・剣の山・熱鉄の湯の器であり、菩提心をおこすことは成仏の器であり、常によく念仏して浄土に往生するのは見仏の器である。

 略して六つだけをあげて、そのほかは述べない。聖教がすでにこのとおりである。行者がもし往生を願うならば、どうしていつも念仏しないでおられようか。また、《月灯三昧経》に説かれてあるのによれば、

仏の相好や徳行を念じて よく六根を乱れさせず

心が惑わずによく法と合するならば 聞くことを得て智慧を得ること大海のようである

智者はこの念仏三昧に住し 心を摂めて行ずれば

その行く処においてよく千億の諸仏を見 また無量恒沙の仏にいたてまつる

【31】第三に、問答して解釈し、念仏三昧に種々の利益があることをあらわすのに、五つある。

 第一に問うていう。今、つねに念仏三昧を修めるというならば、ほかの三昧は行じないのか。

 答えていう。今、つねに念ずるといっても、またほかの三昧を行じないというのではない。ただ念仏三昧を行ずることが多いゆえ、つねに念ずるというのである。全くほかの三昧を行じないというのではない。

 第二に問うていう。もしつねに念仏三昧を修めよと勧めるならば、ほかの三昧と優劣があるのか、どうか。

 答えていう。念仏三昧のすぐれた相は不可思議である。これはどうして知られるかというと、大乗の論の中に説かれているとおりである。

他のもろもろの三昧も、三昧でないわけではない。なぜかというと、三昧の中には、ただよく貪欲を除いても、瞋恚や愚痴を除くことのできない三昧がある。また、ただよく瞋恚を除いても、愚痴や貪欲を除くことのできない三昧もある。また、ただよく愚痴を除いても、貪欲や瞋恚を除くことのできない三昧もある。あるいはまた、ただよく現在の罪障を除いても、過去と未来の一切の罪障を除くことのできない三昧もある。ところが、もしよくつねに念仏三昧を修めるならば、現在・過去・未来の一切の罪障が除かれるのである。

 第三に問うていう。念仏三昧は、すでによく障りを除き福を得る功徳利益が大であるならば、いったい、よく行者を利益して、寿命をのばさせるか、どうか。

 答えていう。必ずできる。なぜならば、《惟無三昧経》に説かれているとおりである。

兄弟二人があって、兄は因果を信じた。弟は信心がなかったけれども、よく人の相を見ることを心得ていた。この弟がことのついでに、鏡に映った自分の顔を見ると、死相がすでに現われていて、七日を過ぎないうちに死のうとしていることがわかった。その時、智者が教えて仏の所へ行って尋ねさせた。仏がそのとき答えて仰せられる。「七日のうちに死ぬということはまちがいない。けれども、もしよく一心に仏を念じて戒を修めるならば、或は難をのがれることができるであろう。」そこで、教に従って仏を念じた。すると六日目に二人の鬼が来たが、耳に念仏の声を聞いて、ついに前に進むことができず、帰って閻魔王にこれを告げた。閻魔王はふだもとめてみると、すでに、〈持戒念仏の功徳によって第三炎天に生まれる〉としるしてあった。

 また、《譬喩経》の中に説かれてある。

一人の長者があって、罪福を信ぜず、年がすでに五十になった。たちまち夜、夢に羅刹が符を索めて来て、十日たたぬうちに命を取ろうとしているのを見た。その人は眠りからさめて非常に恐れ、夜が明けて相師うらないしを求めて夢を占わせた。師は卦をたてていう。「羅刹があって、必ず殺そうとしており、十日を過ぎまい」と。その人は、おそれおののくことがつねに倍し、仏の所に行って救いを求めた。その時、仏は答えて仰せられる。「もし、これをはらおうと思うならば、今から後、心を専らにして仏を念じ、戒をたもち、香をたき、灯をつけ、いろぎぬの幡蓋をかけて、三宝に帰依したならば、この死をのがれることができるであろう」と。そこで、この方法によって、心を専らにして三宝に帰依すると、羅刹は門まで来たが、功徳の法を修めているのを見て、ついに害することができずに走り去った。その人は、この功徳によって寿命百才をまっとうじ、死後天上界に生まれることができた。

また、一人の長者があって、その名を執持という。戒を守らないで仏に返したところ、その場で悪鬼に打たれて死んだ。

 第四に、問うていう。この念仏三昧は、ただよくいろいろの障りを退治し、ただ世間の果報を招くだけであるのか。またよく出世の無上菩提を得ることができるのか、どうか。

 答えていう。得ることができる。なぜならば、《華厳経》の十地品に説かれてあるように、初地より十地まで一々の位の中において、みなその位に入るための行と、その位を満足した時の功徳利益と、次の位に進むありさまを説き終わって、それを結んで仰せられる。

このもろもろの菩薩は、ほかのいろいろの行を修めるけれども、みな念仏・念法・念僧を離れないので、すぐれて妙なる品々をもって三宝を供養する。

 この文証によって知ることができる。もろもろの菩薩たちは、上地に至るまで、つねに念仏・念法・念僧を学んで、始めて無量の行願を成就し、功徳を満足するのである。まして、声聞・縁覚の二乗や凡夫が、浄土に生まれようと求めるのに、念仏をしないでよかろうか。なぜならば、この念仏三昧は、一切の四摂・六度をそなえて、通じて諸行を具する行であり、諸行は通じて念仏を伴うからである。

 第五に問うていう。初地以上の菩薩は、仏と同じように、真如の理をさとるから、仏の家に生まれると名づけ、自分でよく仏となって衆生を済度することができる。どうして、さらに念仏三昧を学んで仏を見ようと願う必要があろうか。

 答えていう。その真如を論ずれば、広大無辺で虚空にひとしく、その量は知りがたい。たとえば、一つの大暗室に一灯・二灯をつける程度では、その明かりは、あまねく行きわたるとしても、なお暗いようなものである。次第に多くの灯がついて、やっと大きな明かりとなったといっても、どうして日光に及ぼうか。菩薩の証った智慧は、それぞれの位を対照とすると、おのずから優劣があるけれども、仏の智慧が日光のようであるのと比べることができようか。

【32】第五大門の中に四つの解釈をする。第一に、汎く修道の遅速を明かして、速やかに不退の位を得させたいと思う。第二に、この世界の禅定と、かの浄土についての座禅観法とを比べて往生を勧める。第三に、この穢土と、かの浄土との二つの世界を、また有漏・無漏と名づけて比較する。第五に、聖教を引いて証明し、後の代の人々に信をおこして往生を求めるよう勧める。

【33】第一に、汎く修道の遅速を明かすとは、この中に二つある。一つには修道の遅速を明かし、二つには問答して解釈する。

 一つに、遅速を明かすとは、すべて衆生は苦を厭うて楽を求め、迷いをおそれてさとりを求めないものはない。みな早く無上仏果を証ろうと思うならば、まず菩提心をおこすことを第一とせねばならぬ。ところが、この心は識りがたく、起こしがたい。たとい、これを起こしても、経に依れば、ついに信・進・念・戒・定・慧・捨・護法・発願・迴向という十種の行を修めて、仏果まで進まねばならぬ。ところで修道する者は、絶えず相続して一万劫を経てはじめて不退の位を証るのである。今頃の凡夫は、現に信想の軽毛と名づけ、また仮名の菩薩ともいわれ、また不定聚とも名づけ、また外の凡夫ともいい、まだ迷いの火宅を出ておらない。どうして知られるかというと、《菩薩瓔珞経》に道を修める行位をくわしく述べられてあるのによれば、必ず次第階級を経ねばならぬ道理であるから、難行道という。また、ただ一劫の中に受ける生死さえ、なお数え知ることができないのに、まして一万劫の間いたずらに苦しみを受けるのである。もしよく明らかに仏経を信じて浄土に生まれることを願えば、寿命の長短に随って一生が終われば浄土に生まれて、ただちに不退の位に登り、この娑婆世界で一万劫のあいだ修行するのと功徳が等しいのである。仏道を学ぶ人たちは、どうしてよく考えないで、難行を捨てて易行を求めないのか。«倶舎論》の中にも、また難行と易行との二種の道を明かしてある。何行とは、論に説いていう通りである。三大阿僧祇劫の間、一々の劫に、みな福徳・智慧の資量たる六度などのすべての行をそなえ、その一々の行業に、みな百万の修行の難があって、これをつとめて始めて一つの階位を充たすのが、これが難行道である。易行道とはすなわち、かの論に「もし別の方法によってさとりを求めるのを易行道と名づける」というてある。今すでに極楽を願うことを勧める。すべての行業をみな浄土往生の因として回向し、ただよく専心であれば、寿いのち終わって必ず往生する。かの国に往生することができれば、すなわちついにはさとりを得る。どうして易行の道と名づけないでよかろうか。よろしくこの意味を知るべきである。

 二つに、問うていう。すでに浄土に往生しようと願えば、この寿が尽き次第ただちに往生を得るというのは、聖教の証拠があるのか、どうか。

 答えていう。七つある。みな経論を引いて証明しよう。

 一つには、《大経》によると、

仏が阿難に告げられる。「衆生があって、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思う者は、よろしく無上菩提心をおこし善根功徳を修めて浄土往生を願うとよい。そうすれば仏を見たてまつって、ただちに往生を得る。」

と説かれてある。ゆえに《大経》の讃にいう。

もし阿弥陀仏の功徳のみ名を聞いて 歓喜し讃仰するならば

わずか一念する者まで大きな利益を得て 功徳の宝を身につけさせていただく

たとい大千世界に満ちみちる火の中をも ひるまず進んで阿弥陀仏のみ名を聞けよ

仏のみ名を聞けばふたたび退転しない位に入る それゆえ心をこめて礼拝したてまつる

 二つには、《観経》によれば、九品の文の内にみな、「臨終正念にしてすなわち往生を得る」と説かれてある。

 三つには、《起信論》によれば、すべての衆生に教えて、真如平等一実を観ぜよと勧めてあるが、また初発心の菩薩があって、その心が弱く、みずから、いつも諸仏にうて親しく法を承け供養したてまつることができないと思って、心に退こうとする者には、如来にすぐれた方法があって信心を護ってくださる。すなわち、専心に仏を念ずる因縁をもって、願いに随って往生し、いつも仏をみたてまつることによって、とこしえに悪道を離れると知るべきである。

 四つには、《鼓音陀羅尼経》によると、

その時、世尊が比丘たちに告げたもう。「わたしはそなたたちのために説こう。西方の安楽世界に今現に仏がおられて、阿弥陀仏と申しあげる。もし僧俗男女があって、よくまさしくかの仏の名号をたもち、その心を堅固にたもって憶念して忘れず、十日十夜のあいだ心を散乱させずに勤めはげんで念仏三昧を修め、もしよく念々に相続したなら、十日の内に必ずかの阿弥陀仏を見たてまつることができて、皆往生を得るであろう。」

 五つには、《法句経》によれば、

もし、人が臨終のとき念仏することができなければ、ただ西方に仏がおられると知って往生の意をなしても、また往生を得る。

と説かれてある。

 六つには、《十方随願往生経》の第十一巻に説かれている通りである。

もし命終わる時に臨み、遂に死んで地獄に堕ちた者があれば、一家の親族の者がその亡者のために念仏し、および経を読み、僧にときを供養すれば、亡者はすなわち地獄より出て浄土に往生するであろう。

と。ましてその人が生きているうちに、みずからよく念仏を修めるならば、どうして往生を得ないことがあろうか。こういうわけで、かの経に、

現に、この世にいる親族が亡者のために追善供養すれば、あたかも、遠くにいる人に食物を送ればまちがいなく食を得るようなものである。

と説かれてある。

 第七に、広くいろいろの経を引いて証明すると、《大法鼓経》に説かれている通りである。

もし、善男・善女で、つねに意をかけて諸仏の名号を称念する者は、十方の諸仏やすべての賢聖たちが、つねにこの人を見たもうことは目の前に現われているようである。それゆえこの経を大法鼓と名づける。この人は十方浄土へ願いのままに往生できると知るべきである。

 また、《大悲経》の中に説かれてある。

どういうのを大悲と名ずけるのであるかというと、もし、一すじに念仏相続して絶えぬならば、その人は命終わってまちがいなく安楽浄土に往生するであろう。もしよくこの通りに次々に人を勧めて念仏を行じさせるならば、こういう人をすべて大悲を行ずる人と名づける。

 そこで《涅槃経》に説かれてある。

仏が大王に告げたもう。「たとい、大きな蔵を開いて一月の間すべての人々に施しても、その得る所の功徳は、人が一声仏名を称える功徳に及ばない。称名の功徳のほうが前の功徳よりも超えていることは比べることができないほどである。」

 また、《増一阿含経》に説かれてある。

仏が阿難に告げたもう。「それ衆生があって、一つの閻浮提の人々全部に、衣服・飲食・臥具・湯薬を供養したならば、その得るところのくどくは多いであろうか、どうか。」

阿難が仏に申し上げていう。「世尊、甚だ功徳は多くて、到底量り知ることができないほどであります。」

仏が阿難に告げたもう。「もし衆生があって善心相続して仏の名号を称えることが、一たび牛乳をしぼるほどの間であっても、その得るところの功徳は、前の功徳よりも超えていることが量り知れず、到底よくこれを量る者はない。

 《大品経》に説かれてある。

もし人が散心で念仏すれば、それより以後、生死の苦しみがおわるまでその福徳が尽きない。もし人が散華して念仏すれば、それより以後、生死の苦しみがおわるまでその福徳が尽きない。

 こういうわけで念仏の利益が広大ではかり知られないことを知った。《十往生経》その他いろいろの大乘経などに、いずれも文の証拠があるが、一々引くことはできぬ。

【34】第二に、この世界の禅定と、かの浄土についての座禅観法とを比べて、往生を勧めることを明かすとは、

 すべてこの世界は穢れた境界であり、想いが乱れるので禅定には入りがたい。たとい修め得たとしても事定を得て、多くは好んでその禅定の味に執着する。また、まだ欲界の業報があらわれないようにおさえているだけで、色界・無色界という上の世界の寿命が尽きると多くは退転する。こういうわけであるから、《智度論》にいわれてある。

多く法を聞き戒律をたもち禅定を修めても まだ無漏の法を得ないうちは

この功徳があるといっても このことはまだたのみにすることができぬ

と。もし西方浄土に向かってこれを修めようとするならば、かの国の荘厳は光明清浄であって、定善観法が成就しやすく、多劫の罪が除かれ、かの国に生まれてとこしえに退転しない地位に定まり、速やかに進んでついに無上のさとりを得る。《大経》に広く説かれている通りである。

 問うていう。もし西方の境界はすぐれているから、定善観を修して往生することができるというならば、この世界の色界の天は劣っていて、禅定を修して生まれることができないのであろうか。

 答えていう。もし禅定の修めた因のはたらきをいえば、浄土もこの世界の諸天も通じて生まれることができる。ところが、かの浄土は不退の処であり、また他力の支持があるから、すぐれていると説くのである。この世界の諸天へも、また禅定を修めて生まれることができるけれども、ただ自力の因だけがあって他力の支持がないから、その業が尽きたならば、退転することを免れない。こういうわけで西方浄土を観ずるにしくはないと説くのである。

【35】第三に、この穢土と、かの浄土との二つの世界をまた有漏・無漏と名づけるに拠るとは、

 この娑婆世界をいえば、ただ地獄・餓鬼・畜生の三途や、丘坑おかあな山澗やまたに・砂地・蕀刺いばらとげ・水害・旱魃・暴風・悪触・雷電・礰・虎狼・毒獣・悪賊・悪子があり、不作や戦乱などで世が荒廃し、三災で壊れるというようなありさまである。この世界にいる衆生についていえば、三毒・八倒・憂悲・嫉妒・多病・短命・飢渇・寒熱があり、つねに命を司る害鬼のために追われている。まことに厭わしいことであって、一々説くことはできぬ。こういうわけであるから有漏と名づける。深く厭うべきである。

 かの国に往生するのがすぐれていることは、《大経》に説かれてあるところによると、十方の人々が、ただかの国に生まれるならば、皆さまざまの利益を獲ないということはない。なんとなれば、一たびかの国に生まれた者は、歩めば金の蓮華が足を捧げ、坐れば宝の座が身をける。出れば帝釈天が前におり、入ればすなわち梵天王が後につきしたがう。一切の聖衆が自分の親友であり、阿弥陀仏が自分の大師となってくださる。宝樹・宝林の下にあっては意のままに飛びまわり、八功徳水の池の中では心をたのしませ足をすすぐ。形をいえば身は同じく金色であり、寿命はすなわち仏と等しい。あらゆる行門を進め、真俗二諦の道理を観じ、十方の衆生を済度するためには神通に乗じ、安らかにしばしば坐しては空・無相・無願の三空門に入り、八正道を修めて大涅槃に到る。一切衆生、ただかの国に到る者はみなこの利益を証り得る。どうしてこれを考えず、速やかに往生を願わないでおられようか。

【36】第四に、聖教を引いて証明し、後の世の人々に信をおこして往生を求めるよう勧めるとは、《観仏三昧経》によれば、

そのとき会座の中に、十方の諸仏が、おのおの華台の中に結跏趺坐して空中に現われたもうた。東方の善徳如来がかしらとなって大衆に告げて仰せられるには、「そなたたちは知るがよい。わたしが過去無量世の時を思うのに、宝威徳上王という仏がおられた。かの仏が出たもうた時も、また今日と同じように三乗の法をお説きになった。かの仏が入滅せられて後、末世の中に一人の比丘があって、弟子九人をつれて仏塔にまいり、仏像を礼拝するうちに一体の尊いおすがたを見たてまつった。これを観おわってうやうやしく礼拝し、あきらかにこれを観たてまつって、おのおの一偈を説いて讃嘆した。そして寿命の長短にしたがって各自の命が終わった。命がおわると、すぐに仏のみ前に生まれ、それより以後、つねに無量の諸仏に遇いたてまつることができ、諸仏のみもとで広く仏道の行を修めて念仏三昧を得た。すでにこれを得おわって、諸仏がまのあたりに成仏の記別を授けられ、十方において意に随って仏となった。東方の善徳仏とは、その時の比丘で、わが身がこれである。そのほかの九方の諸仏とは、むかしの弟子九人がこれである。十方の仏たちは塔を礼拝し、一偈をもって讃嘆したてまつったことによって仏となることができた。それはほかの人ではない。われら十方仏である」と。

このとき十方の諸仏が空から下りてきて千の光明を放ち、おん身の白毫相の光を現わして、おのおの皆、釈迦仏の床に坐り、阿難に告げていわれる。「そなたは知っているか、どうか。釈迦文仏は限りなく精進せられ、百千の苦行をなさって仏のさとりを求め、今の身を報い得たもうて、今そなたのために説かれるのである。そなたは仏のおことばをたもって、未来世の天・竜・大衆・僧俗男女のために、仏のおすがたを観ずること、および念仏三昧の法を説くがよい」と。

この言葉を説きおわられて後、釈迦文仏にうかがい訊ね、訊ねおわって、おのおの本国にかえりたもうた。

と。

【37】第六大門の中に三つの解釈をする。第一に十方の浄土とならべて比較し、第二に義を推しはかり、第三に教法のとどまるのと滅するのとを区別する。

【38】第一に十方の浄土とならべて比較するとは、この中に三つある。

 一つには、《随願往生経》に説かれている通りである。

十方仏国は皆ことごとく厳浄であって、願いに随っていずれも往生できる。しかしながら、そのすべてが西方の無量寿仏の国には及ばない。

と。どういうわけでこのようであるかというと、ただ阿弥陀仏が観音・勢至と共にかつて菩提心をおこされたとき、この娑婆世界から行かれたのであるから、この世界の衆生に特に縁がある。こういうわけで釈迦仏は処々に西方浄土を讃嘆して帰せしめられるのである。

 二つに《大経》に拠ると、法蔵菩薩が因位のとき、世自在王仏のみもとで、つぶさに誓いをおこして、多くの浄土から選び取られた。そのとき仏が法蔵菩薩のために二百一十億の諸仏国土の人天の善し悪しと、国土の優劣を説き、ことごとくこれを現わして見せたもうた。そこで法蔵菩薩は願いをおこして西方の浄土を選び取り、成仏なさって今現にかしこにおられる。これが第二の証拠である。

 三つには、この《観経》の中に説かれているのによると、韋提希夫人がまた浄土を請うたとき、如来は光明の台の中に韋提希のために十方のすべての浄土を現わしたもうた。韋提希夫人が仏に申しあげて「この諸仏の浄土はまた清浄で、みな光明がかがやいておりますけれども、わたしはいま極楽世界の阿弥陀仏のみもとに生まれたいと願います」といった。これがその第三の証拠である。

 このようなわけで、いろいろの浄土の中で安楽世界が最もすぐれていることが知られる。

【39】第二に義をもって推しはかるとは、

 問うていう。どういうわけで、かならず顔を西に向けて坐り、礼拝し、念仏し、観察かんざつせねばならないのか。

 答えていう。閻浮提では、日の出る処を生と名づけ、その没する処を死と名づけるというから、日の没する地すなわち西方によれば、心識こころが趣き入るのに便宜である。こういうわけで、法蔵菩薩は願いをおこして成仏せられるには、西方にあって衆生を摂められる。坐り、観念し、礼拝し、念仏するなどの場合、顔を仏のおられる方に向けるのは、これは世間の礼儀にしたがうのである。もしこれが聖者であれば、自由自在に飛ぶことができて、方角をかまわないけれども、ただ凡夫人は身と心とが離れないから、もしほかの方を向いておれば、西方に往生することは必ずむづかしいであろう。こういうわけで《智度論》にいわれてある。

一人の比丘が、平生のとき《阿弥陀経》を読み、および《般若波羅蜜経》を読んでいたところ、命終わるときに臨んで、その弟子たちに告げて「阿弥陀仏が多くの聖者がたとともに、今、わたしの前に来ておられる」といい、合掌帰依して、しばらくにして命が尽きた。そこで、弟子が火葬の法によって火をもって屍を焼いたところ、すべてが焼き尽くしたのに、ただ舌だけが残ってもとのままである。ついにこれを収め取って塔を立てて供養した。

と。竜樹菩薩がこれを解釈して「«阿弥陀経》を読んだから命終に臨んで仏がみずから迎えにこられたのであり、《般若波羅蜜経》を読んだから舌が尽きなかったのである」というていられる。この文をもって証拠とする。ゆえにすべての修行は、ただよく回向して願えば、往生できぬということはないと知られる。こういうわけで《須弥四域経》に説かれてある。

天地が初めてできた時、まだ日月や星がなかった。たとい天人が下ってくることがあっても、ただうなじの光を用いて照らしていた。その頃の人々は多く苦しみ悩んだ。そこで阿弥陀仏が二菩薩をおつかわしになった。その一人は宝応声といい、他の一人は宝吉祥という。すなわち支那の伏犧と女媧とがこれである。この二菩薩は共に相談して第七の梵天に行き、その七宝を取って此の世界に持ってきて、日・月・星辰・二十八宿を造って、天下を照らし、春秋冬夏の四季を定めた。ときに二菩薩が共にいうには「日・月・星辰・二十八宿がみな西へ行くわけは、すべての諸天人民にんみんことごとく共に阿弥陀仏を礼拝させるためである」と。こういうわけであるから、日・月・星辰はみな悉く心を傾けて西に向かう。ゆえに西に運行するのである。

【40】第三に、教法のとどまるのと滅するのとを区別するとは、

釋迦牟尼仏一代の教法は、正法が五百年、像法が一千年、末法が一万年で、その後には、修行する根機がなくなって聖道の諸教はなくなるであろうが、釋迦如来はその痛ましい衆生を哀れんで、ことにこの浄土の教法をとこしえにとどめられるであろう。

と。この文をもって証拠とする。ゆえにかの安楽国は浄土であるけれども、しかも往生人の上下をかねおさめる。相即無相を知る者はまさに上位の往生であり、凡夫は迷いの中にあってひとえに有相の善によって往生するのである。

【41】第七大門の中に二つの解釈をする。第一門では、この土の相を取るのと浄土の相を取るのとについて繋縛と解脱とを区別する。第二に、次に、この土とかの浄土とで、菩提の道を修めるについて、修行の功を用いるのに軽重があって、下方を得るのに真偽の別があることを明らかにし、ことさらかの浄土に往生することを勧める。

【42】第一に、この土の相を取るのと浄土の相を取るのとについて繋縛と解脱とを区別するとは、

 もし西方浄土の相を取るならば、はやく解脱さとりを得て、もっぱら真実の楽しみを受け、智慧が明らかとなるが、もしこの世界の穢れた相を取るならば、ただまちがった楽しみ・愚痴・無明の煩悩に縛られ、憂い怖れがあるだけである。

 問うていう。大乗の多くの経によれば、みな「無相はすなわちこれ迷いを出る大切な道であって、相に執着してそれにかかわるのは迷いを免れない」という。しかるにいま衆生に穢土を捨てて浄土をねがうことを勧める。これはどういうわけであるか。

 答えていう。この意味は同類ではない。なんとなれば、およそ相には二種がある。一つには五欲の汚れた境界においてみだりに愛し、貪ってその境について執着する。これらの相を名づけて繋縛とする。二つには仏の功徳をこのんで浄土の往生を願うのは、これは相というけれども名づけて解脱とする。なぜそう知られるのかというと、《十地経》に説かれている通りである。

初地の菩薩は、なおまだ真諦と俗諦とを別々に観て心を励まし努めて、まず相によって求め、尾張にはすなわち無相によることが漸く進んで、ついに大菩提をさとる。七地の最後心に相で求める心がみ、その八地に入って、相で求めることが全く絶えてしまう。そこで無功用というのである。

 こういうわけで論にいうてある。

七地までの菩薩は、悪い貪愛を障りとし、仏果を愛楽するような善き貪愛をもってこれを対治する。八地以上の菩薩は善き貪愛を障りとし、貪愛を離れることをもってこれを対治する。

と。まして今浄土に生まれることを願うのは、現に外の凡夫であるから、修めるところの善根はみな仏の功徳を愛楽することから生ずる。どうしてこれが繋縛であろうか。ゆえに《涅槃経》に説かれてある。

一切衆生に二種の愛がある。一つには善き愛、二つには善からぬ愛である。善からぬ愛というのは、ただ愚かな者がこれを求める。善法愛というのは、菩薩たちが求めるものである。

と。こういうわけで《浄土論》に、

浄土の法性にかなった清浄なる徳を観ずる法味、衆生をおさめて大乗のさとりを開かせる徳を観ずる法味、衆生の類に応じてこれを化益し、仏土をそこにあらわして衆生を済度する徳を観ずる法味、いつまでも変わらずに衆生に利益を与える徳を観ずる法味、このようないろいろの仏法の楽しみがある。

というてある。ゆえに、これは相を取るとはいっても執着の繋縛に当たるものではない。また、かの浄土にいうところの相とは、すなわち無漏の相であり、実相の相である。

【43】第二段の中に、この土と、かの浄土とで、菩提の道を修めるについて、修行の功を用いるのに軽重があって、果報を得るのに真偽の別があることを明らかにするとは、

 もし発心して西方に往生しようと願う者は、ただ、しばらくの時節、礼拝・観察・念仏などを寿命の長短にしたがって修めるならば、臨終には光明かがやく蓮台に迎えとられ、速やかにかの国に至って不退の位にかなう。こういうわけで《大経》に、

十方の人天で、わが国に生まれた者が、もし、ついに滅度に至らず、ふたたび退転するようなことがあるなら、正覚を取るまい。

と説かれてある。この娑婆世界で久しい間、つぶさに布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度の行を修めても、まだ一万劫に満たないうちは、いつも迷いの火宅を出ることはできないで退転する。ゆえに各寺が修行の功を用いることは至って重くて獲る果報は偽りであるというのである。

 《大経》にまた、

我が国に生まれる者はよこさまに五悪趣をつ。

と説かれてある。今これは弥陀の浄土に対して、娑婆の五道をひとしく悪趣と名づける。地獄・餓鬼・畜生は純粋の悪業の者が入る所であるから、名づけて悪趣とし、娑婆の人天もいろいろな業で向かう所であるから、また悪趣と名づける。もしこの世界で修行をして煩悩を対治し断除することによれば、まず見惑を断じて三途の因を離れて三途の果を滅し、その後、修惑を断じて人天の因を離れ人天の果を断つのであるが、これは皆、漸次に断除するのであるから「横に截つ」とはいえない。もし弥陀の浄土に往生することを得れば、娑婆の五道を一時にたちまち捨てる。ゆえに「横に五悪趣を截つ」というのは、迷いの果を截ちきることである。「悪趣自然に閉ず」というのは、その因を閉じることである。これは離れる所を示す。「道に昇るに窮極無し」というのは、その得る所をあらわすのである。もしよく発心して西方の往生を願えば、かみは一生涯相続する者から、しもは十念する者に至るまで皆往生できぬということはなく、一たびかの国に至ればただちに正定聚に入って、この娑婆世界で一万劫のあいだ仏道の修行をする功とひとしいのである。

【44】第八大門の中に三つの解釈をする。第一に略していろいろの経を挙げて証拠とし、この娑婆世界を捨てて、かの浄土を願うことを勧める。第二に弥陀・釈迦二仏を比較する。第三に往生する意義を解釈する。

【45】第一に略していろいろの大乗の経を挙げて証拠と師、皆この娑婆世界を捨てて、かの浄土を願うことを勧めてあるというのは、

 一つには、耆闍崛山で説かれた《大経》二巻。

 二つには、《観経》一部、王宮と耆闍崛山との二つの会座でまさしく説かれたものである。

 三つには、《小巻無量寿経»、舎衛国の一座の説法である。

 四つには、また《十方随願往生経》の明らかな証拠がある。

 五つには、また《無量清浄覚経》二巻、一会座でまさしく説かれたのである。

 六つには、さらに《十往生経》一巻がある。

 そのほか、大乗の経論には西方浄土を讃嘆される処が多い。《請観音経»・«大品経》などのようである。また竜樹菩薩・天親菩薩などの論のようである。西方浄土をたたえて勧められるものは少なくない。そのほかの浄土については皆このように丁寧ではない。

【46】第二に、弥陀・釈迦二仏を比較するとは、この娑婆の仏である釈迦如来は八十年のあいだこの世にしばらく出現して去られ、去られてからふたたびこの世にかえりたまわぬ。忉利天に比べると、この八十年は一日にも及ばないのである。また、釈迦仏が世におられた時の救いたもう縁もまた弱い。毘舎離国で人々の現在の患いを救われた場合などのようである。それは何かというと、その頃、毘舎離国の人々が五種の悪病に遭うた。一つには眼が血のように赤くなり、二つには両耳より膿を出し、三つには鼻の中から血を流し、四つには舌がつぐんで声が出ず、五つには食物の味がまずくなる。そして意識は暗く塞がって酔うた人のようである。これは五夜叉というものがあって、あるいは一名を訖拏迦羅きぬからというが、その顔は黒くて墨のようであり、五つの眼を持ち、牙が上に出ていて人の精気を吸うのである。良医の耆婆がその医術を尽しても救うことのできないものである。ときに月蓋長者があって、これが首となって病人をしたがえ、皆仏のみもとに来て仏に帰依し、頭を叩いて哀れみを求めた。そのとき世尊は量りなきあわれみの心を起こされて、病人たちに告げて、「西方に阿弥陀仏と観世音・大勢至の二菩薩がおられる。そなたたちは一心に合掌して見たてまつろうと願うがよい」と仰せられた。そこで、大衆がみな仏のお勧めにしたがい、合掌して哀れみを求めた。その時、阿弥陀仏は大光明を放ち、觀音・勢至と同時に共に来られて、不思議な咒文を説かれると、一切の病苦が皆ことごとく除かれ、もとの通り回復した。

 ところで釈迦・弥陀二仏の不思議なはたらきは、また同じであろう。ただ釈迦如来が御自身のはたらきをお述べなさらず、ことさらに阿弥陀仏のすぐれていることを顕わして、すべての人をことごとく阿弥陀仏に帰依させたいと思召されるのである。こういうわけで、釈迦如来はお経の処々に阿弥陀如来を讃嘆して帰依せしめられるのである。よろしくこの思召しを知らねばならぬ。

 そこで、曇鸞大師は心から西方浄土に帰依されるのであるから、《大無量寿経》の思召しを受けて弥陀を讃じたてまつっていわれる。

安楽浄土の声聞菩薩や人天たちは 心はすべて真如をさとり

すがたのかぎりも変わりがない ただ他の世界にならうから名前を列ねたのである

顔かたちはたぐいなく端正で 有漏のけがれを離れたからだは人天とはちがい

はかり知られぬさとりのからだである それゆえ平等力の如来を礼拝したてまつる

【47】第三に往生する意義を釈するとは、この中に二つある。一つには往生する意義を解釈し、二つには問答で解釈する。

 第一に問うていう。いま浄土に生まれようと願うのは、どういう心持ちであろうか。

 答えていう。ただすみやかに自利利他を成就して、衆生を深く広く利益したいと思うのである。十信・三賢の位においては、正法を受けて不二の理にかない、仏性をさとって実相をあきらめ、智慧の光をかがやかして有無の二諦を観じ、前の位を因とし後の位を果とする。十地の位には優劣があって、三忍を経て、大涅槃をさとる。そして救いの法をもってひろく運び、無限の時節にわたって、きわもない迷いの衆生を済度するためである。

 第二に問答で解釈する中に三つある。

 問うていう。浄土に生まれようと願うのは衆生利益のためであるとするならば、その救われるところの衆生は今現にこの世界にいるのであるから、すでによくこの心をおこしたならば、ただこの世界にあって苦しみの衆生を救うべきであろう。どういうわけでこの心を得おわって、まず浄土に生まれようと願うのか。他の衆生を捨てて、みずから菩提の楽しみを求めるに似ているではないか。

 答えていう。この義は同類ではない。なんとなれば《智度論》にいう通りである。

たとえば、二人の者が共に、その父母・親族の者が深い淵に沈むのを見て、一人は、ただちに淵に入って力を尽してこれを助けようとしたが、力が及ばないで共々に淵に沈んだ。他の一人は、はるかに走って一そうの舟に趣き、これに乗って来て救うたところ、皆の者が難をのがれることができたようなものである。菩薩もまたその通りである。もしまだ菩提心をおこさない時は、生死に流転することが他の衆生と区別がない。ただ、すでに菩提心をおこした時には、まず浄土に往生し、大悲の船を用い無碍の弁才をもって生死の膿に入り、衆生を済度しようと願うのである。

 二つには、《大智度論》にまたいう。

菩薩は浄土に生まれて大神通をそなえ、無碍の弁才をもって衆生を教化する時でさえ、なお衆生をして善を生じて悪を滅し仏道を増し位を進ませて、菩薩の意にかなうようにすることができない。もしただちに穢土にあって衆生を済度しようとする場合には、この利益が欠けて無いことは、恰も鶏を追うて水に入れるようである。どうしてよく濡れないということがあろうか。

 三つには、《大経》の讃にいう。

安楽仏国の菩薩たちは その説くところが仏の智慧にかない

すべての物に対して我執の思いがなく 浄らかなことは蓮華が塵を受けぬようである

往くも来るも進むも止まるもかべる舟のようであり 衆生を利益し安らかにさせることを努めとして親疎の別を見ない

彼と我とが虚空のようであるとさとって差別の想いをたち 智慧のともし火を燃やしてとこしえの闇を照らす

三明六通みなすでに満足し 菩薩のよろずの行によって心の眼を開く

このような功徳は限りがない それゆえ心からかしこに生まれることを願う

【48】第九大門の中に二つの解釈をする。第一に苦楽善悪を相対し、第二にかの浄土とこの娑婆との寿命の長短を比べる。

【49】初めの段の中に二つある。一つには苦楽善悪を相対し、二つには《大経》を引いて証拠とする。初めに苦楽善悪を相対するというのは、この娑婆世界にあって苦楽二つの果報があるけれども、つねに楽は少なく苦は多い。重いものは三途で苦しみ、軽いものは人天において兵乱や疾病があいついでおこり、遠劫よりこのかた断えたときがない。たとい人天にわずかな楽しみがあるといっても、あたかも水の泡や電光いなずまのように、起こったと思えばすぐに消える。それゆえ、ただ苦しみと悪ばかりであるというのである。弥陀の浄土は水の音・鳥の声・樹林の響きが常に説法の声を出して明らかに仏道の教をのべ、無漏の善をまどかに具えてよく衆生をさとりに入らせる。

 二つに聖教を引いて証拠とするとは、«浄土論》にいう。

十方の人天で、かの国に生まれた者は、すなわち浄心の菩薩と別がなく、浄心の菩薩は、すなわち上地の菩薩と同じく寂滅忍を得る。ゆえに、ふたたび退転しない。

と。また《大経》の四十八願をひくと、この中に五つの大利益がある。第一には《大経》に、

十方の人天で、わが国に来生した者が、ことごとく真金色の身となることができぬようなら、正覚を取るまい。

と説かれてある。二つに、

十方の人天が、わが国に来生して、もし姿かたちがまちまちで美醜のちがいがあるようなら、正覚を取るまい。

と説かれてある。三つに、

十方の人天が、わが国に来生して、宿命智を得ず、かぎりない過去世のことまで自在に知りつくすことができぬようなら、正覚を取るまい。

と説かれてある。四つに、

十方の人天が、わが国に来生して、天耳通を得ず、数かぎりない諸仏がたの説法を自在に聞くことができず、ことごとくこれを記憶することができぬようなら、正覚を取るまい。

と説かれてある。五つに、

十方の人天が、わが国に来生して、他心智を得ず、数かぎりない国々の人の心を自在に見ぬくことができぬようなら、正覚を取るまい。

と説かれてある。かの国の利益のことをいおうとすれば、到底つぶさに述べることができぬ。ただ往生を願うべきである。思いはかってはならぬ。こういうわけで、かの浄土はただ善と楽しみばかりであって、苦しみと悪がないのである。

【50】第二に、寿命の長短を明かすとは、この娑婆での寿命は、長く生きても百年に過ぎない。百年を越す者は少なく、それ以下の者は多い。あるいは天寿を全うせずに若死したり、あるいは童子こどもの時に死んだり、あるいはまた胎内で死ぬ者がある。なぜ、そのようであるのかというと、まことに衆生が因を作るとき雑多であるから果報を受けることがまたひとしくないのである。こういうわけで《涅槃経》に説かれてある。

業因を作るとき悪であれば果報もまた悪い。業因を作るとき善であれば果報もまた善である。無漏清浄の業も善悪まじわる業もまたその通りである。

と。また《浄度菩薩経》に説かれてあるのによると、

人寿百年として、夜がその半分を消して五十年を減ずる。残りの五十年のうちについて、十五才まではまだ善悪を知らず、八十才以後は老耄して弱るから老いの苦しみを受ける。これを除けば、ただ十五年あるだけである。その中において、外には、王官の公務に追いまわされ、遠く征伐や防備のために行き、あるいは牢獄につながれたりする。また内には、一家の吉凶など多くの事にまつわられ、憂いに沈み心せわしく常に求めて満足することがない。このように推し計ってみると、どれほどの時があって、仏道の行業を修めることができようか。こう考えると、何と哀れなことではないか。どうしてこの世を厭わないでおられようか。

 また、かの経に説かれてある。

人が世に生まれて、およそ一日一夜を経るのに八億四千万のおもいがある。一念悪心を起こせば一つの悪身を受け、十念悪を念えば十生の悪身を受け、百念悪を念えば一百の悪身を受ける。一衆生の一生の中を計るのに、百年のあいだ悪を念えば、すなわち三千世界に遍満してその悪身を受ける。悪法がすでにこの通りである。善法もまたそのようであって、一念善心を起こせば一つの善身を受け、百念善を念えば一百の善身を受け、一衆生の一生の中を計るのに、百年のあいだ善を念えば三千世界に善身もまた満ちる。もし十年・五年のあいだ阿弥陀仏を念ずることができ、あるいはそれより長いあいだ念ずるならば、後に無量寿仏の国に生まれて、すなわち浄土のさとりの身を受けること恒沙無尽であって思いはかることができぬ。

 今すでに穢土の寿命は短くて、この世の果報は遠からぬうちに尽きる。もし阿弥陀仏の浄土に生まれたならば、寿命は長くて思いはかることができぬ。こういうわけであるから《無量寿経》(阿弥陀経の意)に説かれてある。

仏が舎利弗に告げたもう。「かの仏を、なにゆえ阿弥陀と申しあげるのか。舎利弗よ、十方の人天でかの国に往生した者は寿命が長く億百千劫であって仏と等しい。それゆえ阿弥陀と申しあげる。」

と。おのおのよろしくこの利益の大きいことを思いはかって、みな往生を願うべきである。また、《善王皇帝尊経》に説かれてある。

それ、人があって仏道を学んで、西方の阿弥陀仏の国に往生しようと願う者は、憶念することが昼夜一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日から六日、七日に至るべきである。もし、また中途で悔いてやめようと思う者は、わたしがこの善王の功徳を説くのを聞くならば、命終わろうとする時に八人の菩薩があって皆ことごとく飛び来り、この人を迎えとって西方の阿弥陀仏の国に至らせ、ついにこの世に止まることを得ないであろう。

 これより以下、また《大経》の偈を引いて証拠とする。讃じていう。

それ人々が安楽国に生まれたならば ことごとく三十二相をそなえる

智慧満足して法性にかない さとりの道を究めてさまたげがない

人それぞれの根機に随って成就した智慧は 音響忍・柔順忍や計り知られぬ無生法忍などである

宿命通やその他の五神通がいつも自在で 仏になるまで雑悪の処にはかえらぬ

ただし他方の五濁の世に生まれて 釈迦仏のように現われる場合を除く

安楽国に往生すればこういう大利益を成就する それゆえ心からかの国に生まれようと願う

【51】第十大門の中に二つの解釈をする。第一に《大経》によって類例を引いて証明し、第二に回向のいわれを解釈する。

【52】第一に《大経》によって類例を引いて証明するとは、十方の諸仏で西方に帰することを勧めない仏はなく、十方の菩薩で同じく西方に往生しない者はなく、十方の人天で意ある者は斉しく帰するのである。ゆえに、弥陀の浄土は不可思議であることが知られる。こういうわけで《大経》の讃にいう。

不思議のはたらき極まりない阿弥陀仏は 十方の多くの仏に讃嘆せられる

東方の数かぎりない諸仏の国から 無数の菩薩が阿弥陀仏のもとに往き

また安楽国の菩薩や声聞や 多くの大衆を供養し

阿弥陀仏の経法を聴いて仏道の化益を説く その他の九方の仏国もまたこの通りである

【53】第二に回向のいわれを解釈するとは、およそ一切衆生は既に仏性があるから、人々はみな成仏を願う心がある。しかるに修めるところの行業がまだ一万劫に満たないうちは、なお迷いの境界を出ることができないから、輪回を免れない。こういうわけで、聖者がこの長い迷いの苦しみを哀れんで西方に回向するように進め、大利益を成就させようとしてくださるのである。ところで回向のはたらきは六つを越えない。その六つとは何かというと、

 一つには、修めるところのいろいろな行業をもって、これを弥陀の浄土往生にふり向けるならば、すでにかの国に往生して、また六神通を得て衆生を済度する。これすなわち涅槃にとどまらないのである。

 二つには、修めた因行をふり向けて果に向かう。

 三つには、下劣のものをふりすてて上勝のものに向かう。

 四つには、遅い法をふりすてて速い法に向かう。これすなわち迷いの世間に住むまらないのである。

 五つには、自分の行徳を衆生に施して、あわれんで善に向かわせる。

 六つには、迷いの世界にかえり来て、分けへだての心を去る。

 回向の働きは、ただこの六つである。こういうわけであるから《大経》に説かれてある。

それ衆生あって、わが国に来生する者は自然に勝進して、菩薩の通常の諸地の行にこえて、仏果を成就するまでふたたび退転するという難がない。

 ゆえに《大経》の讃にいう。

安楽国土の菩薩や声聞たちは この世界においては比べるものがない

釈迦仏の自在の弁才をもって いろいろなたとえを設けてその少分を示された

最も賎しい乞食を帝王と比べ 帝王をまた転輪聖王と比べる

このように次々に比べて第六天に至る 次第に形のすぐれていることは乞食と帝王のようである

第六天のすがたをかの浄土の聖衆にくらべると 聖衆の方が千万億倍もすぐれて到底そのたぐいではない

これはみな法蔵菩薩の願力の成就するところである 大心力の如来を礼拝したてまつる

【54】第十一大門の中に略して二つの解釈をする。第一に一切衆生をして善知識の教にしたがって西方を願う意をおこすよう勧める。第二に死後に生まれる縁に勝劣の別があることを述べる。

【55】第一に善知識の教にしたがうように勧めるとは、«法句経》に依ると、衆生のために善知識となることについて説かれてある。

宝明菩薩がいて、仏にお尋ね申しあげる。「世尊、どのようなのを名づけて善知識とするのでありますか。」

仏が仰せられる。「善知識とは、よく深法を説く。すなわち空・無相・無願であり、諸法は平等であって業もなく報もなく、因もなく果もなく、究竟の一如であって真如に住する。しかも畢竟空の中において、さかんに一切諸法の現象差別の法を建てる。これを善知識とする。善知識はそなたの父母である、そなたの菩提の身をそだてるからである。善知識はそなたの眼である、一切の善悪の道を見させるからである。善知識はそなたの大船である、そなたたちを運んで生死の海を出させるからである。善知識は、そなたの大索おおづなである、よくそなたたちを引きぬいて生死を出させるからである。」

 また、衆生のために善知識となるといっても、必ず西方に帰すべきことを勧める。どういうわけでかというと、この迷いの世界にとどまると、自分の心にかなえば貪り、心に違えば怒るというようなことがたくさんあって、多くは退没して迷いを出がたいからである。

 こういうわけであるから、舎利弗はこの世で発心して菩薩行を修めることが、すでに六十劫を経たけれども、悪知識に眼玉を乞われるという因縁に逢うて、ついに退転した。ゆえにこの迷いの世界では、さとりへの道を修めることが甚だ困難であるということが知られる。そこで西方に帰するよう勧める。一たび往生を得れば、戒・定・慧の山学がねんに増進してよろずの行があまねく備わる。ゆえに《大経》に

弥陀の浄土は髪の毛ほども造悪の処がない。

と説かれてある。

【56】第二に次に衆生の死後、生を受ける縁に勝劣の別があることを述べるとは、この世界の衆生は寿命が尽きたならば、みな善悪二つの業によらないものはなく、いつも命を司る極卒や妄愛の煩悩によって生を受け、無数劫よりこのかたこれを離れることができない。然るに、もしよく信心をおこし浄土を願って意をはげまし専らつとめるならば、命の終わろうとするとき、阿弥陀仏が観音などの聖衆と共に光かがやく蓮台をもって行者を迎えてくださる。行者は喜んでこれに従い、合掌して蓮台に乗り、ただちに浄土にいたってすべて快楽でないことがなく、ついに仏となる。

 また、一切衆生が造る業の不同に上・中・下の三種がある。みな閻魔王のもとに行って判決を受けぬものはない。もしよく仏を信ずる因縁をもって浄土に生まれることを願い、修めたところの行業をすべてみな往生のためにふりむけるならば、命の終わろうとするとき、仏がみずから迎えにきてくだされ、死王たる閻魔王におかされることはないのである。

【57】第十二大門の中に一つの解釈をし、《十往生経》を証拠として往生を勧める。

 釈迦仏が阿弥陀仏の国に生まれることを説かれる通りである。多くの大衆のために観身の法によって正念に解脱を得ることを説かれた《十往生経》に仰せられる。

阿難が仏に申しあげていう。「世尊、一切衆生の観身の法は、そのことはどのようでありましょうか。どうぞ、これをお説きください。」

仏が阿難に告げたもう。「そもそも観身の法というのは、東西を観ぜず、南北を観ぜず、四維を観ぜず、上下を観ぜず、虚空を観ぜず、外縁を観ぜず、内縁を観ぜず、身色からだを観ぜず、色声こえを観ぜず、色像すがたを観ぜず、ただ無縁すなわち空無相を観ずる。これを正真の観身の法とする。この観身の法を除いては十方法界を諦らかに求めても、いずこにも解脱を得る別の法はない。」

仏が、また阿難につげたもう。「ただ、みずから観身の法を修するならば、善根力が自然であり、正念が自然であり、解脱が自然である。なぜかというと、たとえば人があって精進して正直の心であれば正しい解脱を得るようなものである。このような人は解脱を求めないのに解脱がおのずから至る。」

阿難がまた仏に申しあげていう。「世尊、世間の衆生に、もし、このような正念解脱があれば一切の地獄・餓鬼・畜生の三悪道はないはずでありましょう。」

仏が阿難に告げたもう。「世間の衆生は解脱を得ない。なぜかというと、一切衆生は、みな虚妄が多くて真実が少ないから、一つの正念もない。こういうわけで地獄の者は多く解脱の者は少ないのである。たとえば人が、自分の父母および師僧に対して、外には孝順のすがたを現わすけれども、内には孝順でない思いを懐き、外には精進のすがたを現わしていても、内には不実を懐くようなものである。このような悪人は報いはいまだ来ないけれども三途は遠くない。少年がなく解脱を得ないからである。」

阿難がまた仏に申しあげていう。「もし、そのようであれば、さらに何の善根を修めて正しい解脱を得ましょうか。」

仏が阿難に告げたもう。「そなたはよく聴け。わたしは今、そなたのために説こう。十種の往生の法があって解脱を得ることができる。その十種とは何であるかというと、

一つには、身を観じ正念にして、いつも歓喜の心をいだいて、飲食・衣服を仏および僧に供養するならば、阿弥陀仏の国に往生する。

二つには、正念にして、すぐれた良い薬をもって、一人の病気の比丘およびすべての衆生に施すならば、阿弥陀仏の国に往生する。

三つには、少年にして、生物いきものの命を一つもそこなわず、すべてのものをあわれむならば、阿弥陀仏の国に往生する。

四つには、正念にして、師匠のもとに従って戒を受け、清らかな心で仏道の行を修め、心にいつも歓喜をいだくならば、阿弥陀仏の国に往生する。

五つには、正念にして、父母に孝行し、師長に敬いつかえて、憍慢の心をおこさないならば、阿弥陀仏の国に往生する。

六つには、正念にして、僧房に参詣して塔寺を敬い、法を聞いて一義を領解するならば、阿弥陀仏の国に往生する。

七つには、正念にして、一日一夜のあいだ八斎戒をたもって一つも破らないならば、阿弥陀仏の国に往生する。

八つには、正念にして、もし、よく斎月や斎日の間は、自分の住家を離れて常に善師のもとに往くならば、阿弥陀仏の国に往生する。

九つには、正念にして、いつもよく浄らかな戒をたもって禅定を修め、仏法を守護して悪い言葉をいわない。もし、よくこのように行ずるならば、阿弥陀仏の国に往生する。

十には、正念にして、もし、無常のさとりに対して誹謗の心を起こさず、精進して浄らかな戒律をたもち、また無智のものに教えてこの経法をひろめ、多くの衆生を教化すれば、このような人たちは、ことごとくみな往生することができる。」

そのとき、会座の中に山海慧と名づける一人の菩薩がいて、仏に申しあげていう。「世尊、かの阿弥陀仏の国には、どのようなすぐれた楽事があってか、一切衆生が皆かしこに往生することを願うのでしょうか。」

仏が山海慧菩薩に告げたもう。「そなたはって合掌し、身を正して西方に向かい、正念に阿弥陀仏の国を感じて、阿弥陀仏を見たてまつりたいと願うがよい。」

と。そこで、すべての大衆も、またみな起って合掌し共に阿弥陀仏を観じたてまつった。そのとき阿弥陀仏は大神通を現わして大光明を放ち、山海慧菩薩の身を照らしたもうた。そこで山海慧菩薩などは阿弥陀仏の国土のあらゆる荘厳のすぐれたありさまを見たてまつった。すなわちすべてのものがみな七宝でできており、七宝の山があり、七宝の国土があって、水の音、鳥の声、樹林の響きがいつも説法の声を出している。かの国には日々つねに阿弥陀仏の御説法があり、かの国の人々は外のことを習わず、まさしく大乗法を習い、口には大乗の言葉を説き、耳には大乗の声を聞き、心には大乗のいわれをさとっているのである。

そのとき、山海慧菩薩が仏に申しあげていうには、「世尊、わたしたちは今、かの国を見たてまつりましたのに、すぐれた利益は思いはかることができません。わたしはいま一切衆生がことごとくみな往生するであろうことを願い、そうして後、わたしたちもまたかの国に生まれることを願います。」

と。仏はこれに記別を与えて仰せられる。「正観・正念にして正しい解脱を得、皆ことごとくかの国に往生するであろう。もし善男・善女があってこの経を正しく信じ、この経を愛楽して、衆生を勧め導くならば、説く人も聴く人も、ことごとくみな阿弥陀仏の国に往生するであろう。もしこのような人があれば、私は今日より二十五菩薩にこの人を護らせて、つねにこの人を病がなく悩みがないようにし、もしは人であれ、もしは非人(悪鬼・夜叉など)であれ、この人を害する手がかりを得させず、往くもとどまるも坐るも臥すも、昼夜を問うことなく、いつも安穏ならしめよう。」

山海慧菩薩が仏に申しあげていう。「世尊、わたしは、いま尊いみ教をいただいて決して疑いません。しかし世に衆生があって、多く謗ってこの経を信じない者がありましょう。このような人は未来どうなるでしょうか。

仏が山海慧菩薩に告げたもう。「わたしが入滅して後に閻浮提において、あるいは僧や尼がこの経を読むのを見て、あるいは共に怒って心に誹謗の思いをいだくであろう。この正法を謗ったことによって、此の人は、この世にいる内からいろいろの悪い重病にかかり、不具者・聾盲・瘖瘂となり、水腫はれやまいをわずらい、鬼魅につかれるというような報いを招き、坐るも臥すも安らかでなく、生きることを求めて得られず、死ぬことを求めても得られぬ。また、遂に死んだならば地獄に堕ちて八万劫のあいだ大苦悩を受け、百千万の世にわたって餓鬼道にあって、水や食物の名さえも聞かない。久しい後にこれを出ることができても、牛・馬・猪・羊などになって人のために殺され、大きな苦しみを受ける。その後、人間に生まれることができても、いつも劣った処に生まれて、百千万世のあいだ不自由な身となり、ながく三宝の名さえ聞くことができぬ。こういうわけであるから、無智・無信の人の中でこの経を説いてはならないのである。」

【58】この安楽集をつくって世にひろめ 仏法の功徳をあまねくすべての者に施し

まず 菩提心をおこさせて 同じく浄土の往生をねがい

皆共に仏果を成就したいものである