【1】 この安楽集一部の中をすべて十二の大門とする。みな経や論を引いて証明し、信じて往生を求めることを勧める。

【2】 今まず第一の大門の中で、文の義理は多いけれども、略して九つの門を作って解釈し、そののち文について述べよう。

 第一には、教の興る理由を明らかにし、時節と根機について浄土の教に帰せねばならぬことを勧める。

 第二には、いろいろの大乗の経論によって、説く人と聞く人との心得をあらわす。

 第三には、大乗の聖教によって、衆生が菩提心を起こしたことの久しい近い、また仏を供養したことの多い少ないを明らかにして、ここに集まっている聴衆を励まして発心させたいと思う。

 第四には、それぞれの経のあらわすところのかなめが同じくないことを説く。

 第五には、それぞれの経の名前のつくことがそれぞれ別々であることを明らかにする。《涅槃経》や《般若経》などは、その説かれてある法について名を立てる。また喩えにつくものもあり、あるいは事物につくこともあり、あるいは時につき、場所につくこともある。この例は一つではない。今この《観経》は、人と法について名を立てるのである。「仏」の一字は人につく名であり、「説観無量寿」とは法につく名である。

 第六には、説かれた人の差別を論ずる。諸経の説の起こりは五種にすぎない。一には仏の自説、二には仏弟子の説、三には梵天・帝釈などの説、四には仙人の説、五には仏・菩薩の変化身の説。今この《観経》は五種の説の中では仏の自説である。

 第七には、略して真身と応身とを明かし、また真土と応土とを述べる。

 第八には、弥陀の浄土は、位の上下を問わず、凡夫も聖者も通じて往生できることをあらわす。

 第九には、弥陀の浄土は三界の中におさまるか、おさまらないかを明かす。

【3】 第一大門のうち、初めに浄土教の興る理由を明らかにして、時節により根機に応じて浄土教に帰することを勧めるならば、もし教が時節と根機にあえば、修行しやすく、さとりやすい。もし根機と教と時節とがそむけば、修行しがたく、さとりには入りがたい。それゆえ《正法念経》に説かれてある。

行者が一心に修行の道を求める時には いつも時節と方法とを考えよ

もし時をえず方法がなかったならば これを失として利とは名づけぬ

どういうわけかといえば

湿った木をすり合わせて火を求めても 火を出すことができない それは時節でないからである

もし乾いた薪を折って水を求めても 水は得られない それは智慧がないからである

 それゆえ《大集経》の月蔵分に説かれてある。

釈迦如来が入滅された後の第一の五百年間には、わが多くの弟子は智慧を学ぶことがたしかであろう。第二の五百年間には禅定を学ぶことがたしかであろう。第三の五百年間には多く教を聞いて経を読むことがたしかであろう。第四の五百年間には塔や寺を建て功徳を修め罪を懺悔することがたしかであろう。第五の五百年間には聖道の法はかくれて諍いは多くなり、わずかに善法があってたもたれるであろう。

 またかの経に説かれてある。

諸仏が世に出られると四種の方法をもって衆生を済度せられる。その四種とは何かというと、一つには口に経を説かれる。これは法をもって衆生を済度されるのである。二つには、仏には多くの光明や相好がある。すべての衆生は、ただよく心をかけてこれを観察すれば、利益を獲ぬことはない。これは、仏が身をもって衆生を済度されるのである。三つには、はかり知れない功徳、神通力、いろいろな姿をあらわすことがある。これは神通力で衆生を済度されるのである。四つには、仏たちには多くの名号がある。通号または別号である。衆生が心をかけてみ名を称えるならば、障りを除き利益を獲て、みな仏前に生まれないことはない。これは名号をもって衆生を済度されるのである。

 今の時の衆生を考えるのに、ちょうど、仏が世を去られてから後の第四の五百年に当たっている。これはまさしく懺悔し功徳を修めて仏の名号を称えるべきときである。一声阿弥陀仏の名号を称えるところに、よく八十億劫の迷いの罪が除かれる。一声がすでにそうであるから、ましていつも念仏するものはつねに懺悔する人である。また、もし世尊の時代を去ること近ければ、前の禅定や智慧を修めることがまさしい学となり、後のものは兼ねることとなる。もし世尊の時代を去ること遠ければ、後の称名の方が正しい学となり、前の禅定や智慧は兼ねてすることとなる。どういうわけでそうなるかというと、まことに今の時代の衆生は、世尊の時代を去ること遥かに遠く、根機が劣って、深いことを理解できず暗鈍であるからである。こういうわけで韋提大士は、自分や末世の五濁の衆生が多劫のあいだ生死に輪廻して、いたずらに苦しみを受けるのをあわれんで、仮に苦しい因縁にあって出離の道の明らかなるをお尋ねしたので、大聖世尊は慈悲をもって、極楽に帰すべきことを勧められた。もしこの世界において修行して進もうとすれば、さとりの果報はなかなか得がたい。ただ箕田如来の浄土の一門のみは、凡夫のこころをもって願って往生することができる。もし多くの経典をひらいてみるならば、これを勧められるところが甚だ多い。そこで今、真実のことばをとり集めて、往生の行を修め益をうる助けとしよう。なぜかというと、前に生まれる人は後のものを導き、後に生まれるものは前の人をたずね、このように前後続いて止まることのないようにしよう。これは数かぎりない迷いの人々をことごとく救うためである。

【4】 第二に、いろいろの大乗の経論によって、説く人と聞く人との心得をあらわすならば、その中が六つに分かれる。

 第一に《大集経》にいわれてある。

法を説く人は医者の想いをせよ。また苦しみを抜く想いをせよ。説き与える法ををば、甘露の想いをせよ。醍醐の想いをせよ。法を聞く人は、信を深めてゆく想いをせよ。また病のなおる想いをせよ。このような説く人、聞く人などは、よく法を盛んにすることができ、いつも仏のおられるところに生まれるであろう。

 第二に《大智度論》にいわれてある。

法を聞く者はひたすら渇して水を飲むがごとく そのことばの意味に心をかたむけて

法を聞いて踊躍し喜ぶ こういう人のために法を説くべきである

 第三にかの論の中にまたいわれてある。

二種類の人があって、福徳を得ることは、はかることができない。その二種類とは何であるかというと、一つにはこのんで法を説く人、二つにはこのんで法を聞く人である。こういうわけで、阿難が仏に申しあげるには、「舎利弗や目連は、どういうわけで智慧や神通が仏の弟子の中で最もすぐれているのでしょうか」と。仏が阿難に告げて仰せられるには、「この二人は、かって道を求める時において、法のためには千里の道も難しとしなかった。そこで今日最もすぐれているのである。」

 第四に《大無量寿経》に説かれてある。

もし人善根がなかったならば この経を聞くことはできない

清浄に戒をたもったものは この正法を聞くことができる

 第五にまた説かれてある。

かって仏を見たてまつったものは このことを信ずることができる

また多くの如来に仕えたものは このんでこのような教をきくのである

 第六に《無量清浄平等覚経》に説かれてある。

仏法を求める男女があって、浄土の法門を説かれるのを聞いて、心に喜びを生じ、そのために身の毛がよだって抜けるように思う人は、まことに、この人は過去世に仏道を修行したのである。もしまた人があって浄土の法門を説かれるのを聞いて、一向に信を起こさないものは、こういう人は始めて三悪道から逃れて来て、その咎がまだ尽きないものである。そういうわけで、その法を心に信ずることができないとしるべきである。わたしはいう。「こういう人は、なおまだ、さとりをうることができないのである」と。

 こういうわけで《大無量寿経》に説かれてある。

憍慢と邪見と懈怠のものは この法を信ずることがむずかしい

【5】 第三に、大乗の聖教によって、衆生が菩提心をおこしたことの久しい近い、また仏を供養したことの多い少ないを明らかにするならば、

《涅槃経》に説かれてあるとおりである。

仏が迦葉菩薩に告げられるには、「もし、衆生があって、熙連河すなわち半恒河沙ほどの諸仏の前で菩提心をおこしたものは、その後悪世の中において大乗経典を聞いても謗る心をおこさない。もし一恒河沙ほどの諸仏の所において菩提心をおこしたものは、その後悪世において、経を聞いて謗りをおこさないで深く喜びを生ずる。もし二恒河沙ほどの諸仏の所で菩提心をおこしたものは、その後悪世においてこの法を謗らず、正しく領解して喜んでこの経をたもち読むであろう。もし三恒河沙ほどの諸仏の所で菩提心をおこしたものは、その後悪世においてこの法を謗らないで経巻を写し、人のために説くけれども、なおその深い義理を知らない」と。

 どういうわけで、このような聖教の量りを用いるかというと、今日ここで経を聞く人は、かって菩提心をおこして多くの仏を供養したことをあらわすためである。また大乗の経典の威神力のはかることのできないことをあらわす。それゆえ、経に説かれてある。「もし衆生がこの経典を聞くならば億百千劫の間、悪道には堕ちない。」なぜかというと、「この尊い経典のひろまる処は、その地面は金剛地であり、その中に住む人も、また金剛のようであると知るべきである。」ゆえに経を聞いて信をおこす人は、はかることのできない利益を獲ることが知られるのである。

【6】 第四に、つぎに、いろいろの経についてそのあらわすところのかなめが同じくないことをいうならば、

 もし《涅槃経》によれば、仏性を説くことを宗とし、もし《維摩経》によれば、不可思議解脱を説くことを宗とし、もし《般若経》によれば、空慧を説くことを宗とし、もし《大集経》によれば、陀羅尼を説くことを宗としている。今この《観経》は観仏三昧を説くことを宗とするのである。その観仏三昧について、観ずるところをいうならば、浄土および仏・菩薩の二つの荘厳のほかはない。下に諸観によって説くがごとくである。《観仏三昧経》によると、

仏が父王に告げられる。「諸仏が世に出られると、三種の利益があります。一つには、口に経を説いて法を施す利益であって、よく衆生の煩悩の障りを除いて、智慧の眼を開き、諸仏の前に生まれて、はやく無上菩提を得させられます。二つには、諸仏如来には、いろいろな相好光明があって、もし衆生が称念して、現在仏であろうと過去仏であろうと、その全体の相、あるいは個々の相について観察すれば、衆生の四重罪や五逆の罪を除き、とこしえに三途の苦しみを離れ、心の望みに従って常に浄土に生まれ、ついに成仏できます。三つには、父王に念仏三昧を行ずるように勧めます。」

父王が世尊に尋ねられる。「仏のさとられた徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行をどうしてわたしに教えてくださらないのですか。」

世尊が父王に仰せられる。「仏たちのさとられた徳は量りがたい深い境地であり、不思議なはたらきや智慧を持っていられる。これは到底凡夫の行じうるような境地ではありません。それゆえ、父王に念仏三昧を行ずることをお勧めしたのであります。」

父王が世尊に尋ねられる。「念仏の功徳はどのようでありましょうか。」

世尊が父王に仰せられる。「たとえば、四十由旬四方の伊蘭林の中に一本の牛頭栴檀がある場合、その根芽があっても、まだ地上に出ないうちは、伊蘭林の臭気だけがあって、栴檀の芳香は少しもありません。もし伊蘭林の華やこのみを食したならば、その毒のために発狂して死ぬほどであります。ところが、その後栴檀の根芽が次第に成長して、すこしばかり樹のかたちをあらわそうとするときには、芳しい香気を放って遂には伊蘭林の臭気を馥郁たる香気に変えてしまいます。そこで、これを見る人々が、みな不思議なおもいを生ずるようなものであります。」

世尊が父王に仰せられる。「あらゆる人々が迷いの境界にあって念仏する心も、またこれと同様であります。ただよく念仏してやまなければ、必ず阿弥陀仏のみもとに生まれることができます。一たび往生をうれば、よくすべての悪を変えて大慈悲にしてくださることは、かの栴檀が伊蘭林の臭気を改めるのと同様であります。」

と説かれてある。ここにいわれる「伊蘭林」とは、衆生の貪欲・瞋恚・愚痴の三毒や、惑・業・苦の三障など限りない重罪にたとえたものであり、「栴檀」とは、衆生の念仏の心にたとえたものである。「栴檀がすこしばかり樹のかたちをあらわそうとする」とは、一切衆生がひたすら念仏してやまなかったならば、往生の業因が成就することである。

 問うていう。一人の念仏の功徳をおしはかれば、一切衆生についても知ることができよう。どうして一念の功徳の力が、ちょうど一本の栴檀樹が四十由旬の伊蘭林を芳香に変えるように、よくすべての罪障を断つことができるのであろうか。

 答えていう。いろいろの大乗の経典によって、念仏三昧の功徳の不思議なことをあらわそう。それは何かというと、《華厳経》に説かれているとおりである。

たとえば、人が獅子の筋で琴の糸を作り、これを一たびかなでるならば、その他のもので作った絃はみな断ち切られる。それと同じように、もし、人が菩提心をもって念仏三昧を行じたならば、すべての煩悩罪障はことごとく断滅するのである。また、人が牛・羊・驢馬などの乳をしぼって器の中に入れ、そこへ獅子の乳を一滴入れたならば、何のさまたげもなく通って、それらの父がことごとく破壊され、清水に変わってしまう。それと同じように、もし人がただよく菩提心をもって念仏三昧を行じたならば、すべての悪魔や障りに妨げられずに過ぎるのである。

 また同じ経に説かれてある。

たとえば、人が身をかくす薬を用いて処々を歩くのに、他の人たちは、この人を見ることができない。それと同じように、もしよく菩提心をもって念仏三昧を行じたならば、すべての悪神や障りをするものも、この人を見ることができず、どこへ行っても妨げられることはない。なぜかというと、この念仏三昧はすべての三昧中の王だからである。

【7】 第七に、略して三身三土のいわれについて明かすならば、

 問うていう。今現にまします阿弥陀仏は、法・報・応の三身の中のどの身であろうか。極楽国は三土の中ではいずれの土であろうか。

 答えていう。現にまします阿弥陀仏は報仏であり、極楽国は報土である。しかるに、昔から伝えて、みな阿弥陀仏は化身であり、極楽国土は化土であるというが、これは大きな誤りである。もしそういうならば、穢土も化身のおられる所、浄土も化身のおられる所となり、阿弥陀如来の報身はどの土によっておられるのかわかなぬではないか。いま《大乗同性経》によって、報身・化身、浄土・穢土ということを定めるならば、かの経には、

浄土にで成仏される仏は、すべて報身であり、穢土で成仏される仏は、すべて化身である。

とある。かの経に説かれてある。

阿弥陀如来・蓮華開敷星王如来・竜主王如来・宝徳如来などの、もろもろの仏たちの清浄なる仏国において、現にさとりをえられている方や、またまさにさとりをうべき方、このようなすべての仏は報身仏である。どういうのが化身仏であるかというと、あたかも今日の踊歩健如来・魔恐怖如来など、このようなすべての如来の、濁世において現にさとりをえられている方、またまさにさとりをうべき方である。すなわち兜率天よりこの世に出て成仏せられ、滅後にも正法・像法・末法の三時にわたって仏法を持たれる。このように化益されるのは、みな化身の仏である。どういうのが如来の法身であるかというと、如来の真法身とは、色もなく形もない、現われることもなく思うこともできない、見ることもできず、言葉であらわすこともできない、とどまる処もなく、生じたり滅したりすることもない。これを真法身のいわれというのである。

 問うていう。阿弥陀如来の報身が常住であるというならば、《觀音授記経》の中に、「阿弥陀如来が入滅されて後に、観世音菩薩がつぎに仏の位を補う」と説かれてあるのはどういうわけか。

 答えていう。これは如来の報身が、おかくれなさる相をあらわされるのであって、真の入滅ではない。かの経に、

阿弥陀仏が入滅せられて後も、善根の厚い衆生が、また、阿弥陀を見たてまつることはもとのとおりである。

と説かれてあるのがその証拠である。

 また《法性論》に、

報身仏に五つの相がまします。法を説かれること およびおすがたの見られること 衆生済度のはたらきが休まれることのないこと おかくれになること 応身を現わされることである

とあるのがその証拠である。

 問うていう。釈迦如来の報身報土はどちらにあるのか。

 答えていう。《涅槃経》に、

西方ここから四十二恒河沙の仏国を過ぎた所に世界があって、名を無勝という。かの国土にある荘厳も西方極楽世界と同様であって異なるところがない。わたしは、かの土にあらわれておるけれども、衆生済度のために、来ってこの娑婆世界におるのである。ただわたしがこの土に現われたばかりでなく、一切の如来もまたこのようである。

とあるのが、その証拠である。

 問うていう。《鼓音声経》によると、「阿弥陀如来には父母がまします」と説いてある。明らかにこれは報仏報土でないことが知られるではないか。

 答えていう。そなたは、ただ名前を聞くだけで、経の深い意味をきわめないから、この疑いを致すのである。これはわずかの誤りから大きな誤りを招くというべきである。そういうわけは、阿弥陀仏もまた三身を具えておられる。極楽に出現せられた仏は報身如来であって、いま父母があるというのは穢土の中に出現せられた化身仏の父母である。また釈迦如来のごときも、浄土中に成仏せられたのは報身であって、この世界に現われて父母ある相を示されるのは化身である。阿弥陀仏もまたこのとおりである。また《鼓音声経》に説かれてあるとおりである。

その時、阿弥陀仏は声聞たちと一緒におられた。その国を清泰国という。その王のおられる城は縦横が十千由旬である。阿弥陀仏の父が転輪聖王で、その王を月上と申しあげる。母を殊勝妙顔と申しあげる。魔王を無勝といい、仏の子を月明という。提婆達多を寂意といい、お仕えする弟子を無垢称という。

 上来引く所は、みな化身の相である。もしこれが浄土であるならば、転輪王や城や女人などのあるはずがない。これは文義が明らかで論議する余地がない。みなよくわきまえないで、その名に迷うてあやまった考えを生ずるのである。

 問うていう。もし仏の報身に、おかくれになる相があるとするならば、また浄土もできたり、壊れたりすることがあるのか。

 答えていう。このような疑難は、昔から今に至るまで甚だ通じがたい。しかしながら、わたしは今あえて経を引いて証拠とするからその義も知るがよい。たとえば、仏の報身は常住で変らないけれども、一類の衆生には、仏身に入滅なさることを見るようなものである。浄土もまたその通りであって、そのものがらは変わることがないのであるが、衆生の見る所によって、成壊があると見るのである。『華厳経』に説かれてあるとおりである。

あたかも如来の身に いろいろの相を見るように

衆生の心のはたらきに随って 浄土を見ることもまたそのとおりである

《浄土論》の中には、

浄土と穢土とは同一ということが成立しないから 浄穢には満ちると欠けるとの別がある

体が異なるということが成立しないから その本源をたずぬれば一つに冥合する

体がないということも成立しないから 因縁によっていろいろの形になってあらわれる

とある。そうであるから、法性浄土の方面からいうならば清濁はいわない。そうであるから、法性浄土の方面からいうならば清濁はいわない。もし報化とあらわれる大悲の上からいえば、あるいは浄土、あるいは穢土ということがないのではない。またすべて仏土を明かせば、根機の不同によって三種の別がある。一つには、真身から報をあらわすのを名づけて報土とする。あたかも日光があらゆる天下を照らすようである。法身は日輪のごとく、報化は光のようである。二つには、無であって忽ちあらわれる。これを化とする。《四分律》にいわれているとおりである。

錠光如来は提婆城を現わされた。この城は抜提城の近くで、親しく婚姻を交じえ往来した。その後、仏は忽ち火を現わして焼き、すべての衆生に無常を見せしめ、厭い心をおこさせて、仏道に向かわせられた。

 それゆえ経には、

あるいは恐ろしい火で焼いて 天地がみな炎となる相を見せて

常住の考えをもった者に 明らかに無常を知らせ

あるいは貧困を救うために 無尽の蔵を現わし

縁に従って広く化導して 菩提心をおこさしめられた

とある。三つには、穢土を隠して浄土を現わされる。《維摩経》に説かれているとおりである。

仏が足の指をもって地面をおさえると、三千世界がすべて浄土となった。

 今この阿弥陀仏の無量寿国は、法身の浄土から現われた報土である。なぜこれが知られるかといえば、《觀音授記経》によると、

未来に観世音菩薩が仏と成って、阿弥陀仏に替る。

とある。ゆえに報土であることが知られる。

【8】 第八に、弥陀の浄土は、位の上下を問わず、凡夫も聖者も通じて往生できることを明かすとならば、

 今この弥陀の浄土は報土であって、弥陀の願力によるから機類の上下を摂めて、凡夫の善でみな往生することができる。上の機を摂めるから、天親菩薩・龍樹菩薩やそれより上位の菩薩もまた往生するのである。こういうわけで、《大経》に、

弥勒が仏にお尋ねする。「この世界からどれほど不退の菩薩が浄土に生れることができるのでしょうか。」

仏が答えられる。「この娑婆世界には六十七億の不退の菩薩があって、みな往生するであろう。」

と説かれてある。もし広くいうならば他方の世界もみなそのようである。

 問うていう。弥陀の浄土は、すでにその位が上下をかねて、凡夫・聖者を問うことなく、みな通じて往生するというならば、どうであろうか。ただ無相の善を修めて往生するというのであるか、あるいはまた、凡夫の有相の善でも往生できるというのか。

 答えていう。凡夫は智慧が浅いから、多くは相の側によって求め、まちがいなく往生を得る。しかし有相の善根は、その力がかすかであるから、ただ有相の浄土に生まれて報化の仏を見るだけである。それゆえ、《観仏三昧経》の菩薩本行品に説かれてある。

文殊師利が世尊に申しあげる。「わたしが、過去はかりしれない昔に、凡夫であった時のことを思いますと、その頃、宝威徳上王如来という仏がおられました。その仏が世に出られた時代は今と変わらないような世でございました。その仏のお身丈は一丈六尺で紫金色に輝き、釈迦世尊と同じように、三乗の法を説いておられました。その頃、かの国に一切施という大長者がおり、その長者に戒護という子どもがありました。その子がまだ母の胎内にいた時、母は仏の教を敬い信じて、あらかじめその子のために三帰依を受けました。やがて、その子が生まれて八才になった時、父母が仏を家に招待して、お供養申しあげました。その時、子供は仏を見て礼拝し、仏を敬う心厚く、またたきもせずに見つめておりました。その子は一度仏を見たてまつった功徳によって、百万億那由他劫という長い間の生死の罪が除かれて、その後、いつも浄土に生まれて百億那由他恒河沙の仏とうことができました。これらの多くの仏たちもまた、いろいろの相好をもって人々を救われたのであります。そのとき童子は一々の仏に親しく仕えて、残るところなく礼拝供養し、合掌して仏を見たてまつり、その因縁によって、また百万阿僧祇の仏に値うことができました。これらの多くの仏がたも、また、いろいろの相好によって人々を済度されたのであります。これより以後、数限りない念仏三昧の益を得て、また量りない智慧を体得しました。すでにこれを得おわると、諸仏が前に現われて、この者のために無相の法を説かれました。それを聞いて、わずかの間に、首楞厳三昧を得ました。ときに、この童子は胎内において三帰依を受け、一度仏を礼拝した功徳によって、あきらかに仏身を観て心にあくことがなく、この因縁によって無数の仏に値うことができたのであります。まして、たえず心を灌いで思いをめぐらし、仏身を観ずる者の利益はなおさらであります。ところでこの童子こそは別人ではありません。わたし自身の前身でございます。」

その時、世尊は文殊をたたえて仰せられる。「よろしい、よろしい。そなたは一度仏を礼拝した功徳によって、無数の仏に会うことができた。まして将来のわたしの弟子の中で、ねんごろに仏を観じ、ねんごろに仏のみ名を称えるものは、なおさらである。」

また、仏が阿難に仰せられる。「そなたは、文殊師利のいったことをよくたもって、今の大衆や後の世の人々にあまねく伝えるがよい。もしよく仏を礼拝するものや、仏のみ名を称えるもの、あるいは仏を観ずるもの、まことにこの人は、文殊師利とひとしい利益を受けるであろう。そして命終わって浄土に生まれると、文殊師利などの多くの菩薩が、その先達となって導くであろう。」

 この経の文を見ると、弥陀の浄土は有相の浄土にも通じ、凡夫の善でも間違いなく往生することが知られる。もし無相離念を知るということを土台として、その上に因縁生の立場から浄土の往生を求めるものは、すべて上輩生である。こういうわけであるから、天親菩薩の《浄土論》にいわれる。

もしよく浄土の二十九種の清浄を観ずるならば、すなわち略して一法句に摂まる。一法句は、すなわち清浄功徳であり、清浄功徳は、すなわち真実智慧無為法身である。どういうわけで広略が互いにおさまることを説くのかというと、諸仏菩薩がたには、二種の法身がある。一つには法性法身であり、二つには方便法身である。法性法身をよりどころとして方便法身が現われ、方便法身によって法性法身の徳を顕わすのである。この二種法身は、異なっていて、しかも分けることができない。一であって、しかもその義は同じではない。こういうわけで浄土の荘厳は広略相入するのである。もし菩薩が浄土の広略相入の義に体達しなかったならば、自利利他することはできない。無為法身とはすなわち法性身のことである。法性は空寂であるから、法身には相がない。法身に一定の相がないから、またいかなる相にも現われてくる。こういうわけで、浄土の相好荘厳のままが法身である。法身が無分別の智慧であるから、いかなることも知らないことはない。そこですべてを知りつくす智慧がすなわち真実の智慧である。所縁について、一法句の無相と、二十九種の差別の相を観察するけれども、総別ともに実相でないものはない。実相に達する智慧であるから、三界の衆生の実相にそむく相を知る。三界の衆生の実相にそむく相を知るから、真実の慈悲を起こすのである。真実の法を知るから、それをさとろうとする真実の帰依を起こすのである。

 いま浄土を願生するものは、僧俗を問わず、ただよく、浄土の往生がそのまま無生の道理にたがわぬことを知って、相無相の真俗二諦の道理に相違せぬものは、すべて上輩の生をうるのである。

【9】 第九に、弥陀の浄土は、三界の中におさまるか、おさまらないかを明かす。

 問うていう。安楽浄土は、三界の中ではどの界におさまるのか。

 答えていう。浄土はすぐれて妙なるものであって、この迷いの世界と異なっている。この三界は、生死の凡夫の境界であって、その中では、苦楽が多少異なり、寿命に長短の違いはあるが、総じていえば有漏の長い渡し場でないものはない。禍と福とが互いに相依って起こり、それが循環してはてしがない。雑多の生を受けて、いろいろな悲しみに触れ、これを受ける。誤った常楽我浄というものに長くかかわり、因も果も虚偽が相つぐ。深く厭うべきである。こういうわけであるから浄土は三界の中におさまらない。また《智度論》によっていえば、

浄土の果報は、欲がないから欲界ではない。地上にあるから色界ではない。形があるから無色界ではない。地上にあるというても、有漏を離れて、すぐれて妙なるものである。

と。それゆえ天親菩薩の《浄土論》にいわれる。

かの世界のありさまを観ずるのに この三界の因果に超えすぐれている

何ものにもさえぎられないことは虚空のごとく 広大であってきわほとりがない

 ゆえに《大経》の讃にいわれる。

不思議の浄土は広大であって数量を超え 自然の七宝からできている

それは弥陀の本願力によって荘厳されたのである 清浄で一切の衆生を摂めとる如来を礼拝したてまつる

世界の光のかがやきは妙にしてすぐれ 心身快く安らかで四季の別がない

自利利他のはたらきが円満している 慈悲のはたらきを成就せる荘厳に帰命したてまつる

【10】第二大門の中を三つに分けて解釈する。第一には、発菩提心を明かし、第二には、他の異見邪執を破り、第三には、広く問答を設けて疑問を解く。

【11】初めに発菩提心を明かす中をまた四つに分ける。一つには、菩提心のはたらきを示し、二つには、菩提の名体を出し、三つには、菩提心に種類のあることをあらわし、四つには、問答して解釈する。

 第一に、菩提心のはたらきを示すというのは、«大経》に説かれてある。

すべて、弥陀の浄土の往生を願うものは、必ず菩提心を起こすことを根源とする。

 菩提とはどういうことかというと、これは無上仏果の名である。もし菩提心をおこして成仏しようと思うならば、この心は広大であって十方法界にあまねくゆきわたり、この心は何物にもさまたげられないこと虚空のようである。この心は未来とこしえに通じて滅びず、この心はあまねくつぶさに声聞・縁覚のような二乗に堕する障りを離れる。もしよく一度この心を起こすならば、みなよく仏果をさとって菩提心が滅びることはない。たとえば、花を色界十八天の上の五浄居天におけば風にも日にもしぼまず、水を竜の住む霊河に注いでおけば世のひでりにもかわくことがないようなものである。

 第二に、菩提の名体を出すならば、菩提には三種がある。一つには、法身菩提、二つには、報身菩提、三つには、化身菩提である。法身菩提というのは、真如実相第一義空であって、その本来の性が清浄でものがらにけがれはなく、その法理は本来真実のものであって、修行によってできるものでない。それを名づけて法身といい、それが仏果の根本となるものであるから、名づけて菩提という。報身菩提というのは、つぶさにあらゆる行を修めて、それによって報仏の結果をうるのである。その果が因位の行に報うてできたものであるから、名づけて報身といい、その智慧が円満融通して何ものにもさまたげられないのを名づけて菩提という。化身菩提というのは、報身より利他のはたらきを起こして、よくあらゆる根機に応ずるのを名づけて化身といい、衆生を利益することが自在であるのを名づけて菩提という。

 第三に、発菩提心に種類のあることをあらわすならば、今いう、行者が因行を修め菩提心をおこすのに、その三種を具える。一つには、必ず有無の諸法は本来自性清浄であることを知らねばならぬ。二つには、万行すなわち八万四千のいろいろの行を修めることである。三つには、大慈悲を本としていつも衆生済度をしようとするおもいをいだく。この三つの因がよく大菩提に相応するから発菩提心と名づける。また、《浄土論》によると次のようにいわれてある。

いま、発菩提心というのは、これは自分の成仏を願う心である。自分の成仏を願う心は、そのままが、衆生を済度する心である。衆生を済度する心は、そのままが衆生を摂めて仏のまします浄土に往生させる心である。今すでに弥陀の浄土に往生しようと願うのであるから、まず菩提心をおこさねばならぬ。

 第四に、問答して解釈するとは、

 問うていう。もし、つぶさにあらゆる行を摂めて、よくさとりを開き、成仏するというならば、なぜ《諸法無行経》に

もし人が菩提を求めても 菩提はあることがない

この人は菩提を遠ざかること あたかも天と地のようである

と説かれてあるのか。

 答えていう。菩提というものがらは、道理として求めても、無相である。今、相をもって求めても、それは道理に合わぬ。ゆえに「この人は菩提を遠ざかる」といったのである。こういうわけであるから、経の中に、

菩提というものは、心をもっても得られない、身をもっても得られない。

と説かれている。今いう、行者が修行して菩提を求めると知っても、真如の理体は無相であるから求むべきものではないと明らかに知り、しかもなお、因縁差別の相を破らない。こいうわけで、つぶさにあらゆる行を修めるから、よく仏果をうることができる。それゆえ《大智度論》にいうてある。

もし人が有にとらわれて般若を見るならば これは迷いである

もし空にとらわれて般若を見ないならば これもまた迷いである

もし人が有にとらわれないで般若を見るならば これはさとりである

もし空にとらわれないで般若を見ないならば これもまたさとりである

 龍樹菩薩は釈していわれる。

この中で、四句にこだわるものを迷いとし、四句にこだわらないのをさとりとする。

 今、菩提を願って、ただよくこのように修行すれば、行相を見ないで行ずるのである。行相を見ないで行じたならば、仏教でいう真俗二諦の大道理にたがわない。また天親菩薩の《浄土論》によると次のようにいわれてある。

すべて、菩提心をおこして、無上菩提をさとろうと思うならば、それに二つの意義がある。一つには、まず菩提と相違する三種の法を離れるべきである。二つには、菩提に順ずる三種の法を知らねばならぬ。三種とは何々かというと、一つには智慧門によって、自分の楽しみを求めず、わが心が自分に執着することを離れるのである。二つには慈悲門によって、一切衆生の苦しみを抜いて、人を安らかにすることのない心を遠く離れるのである。三つには方便門によって、一切衆生をあわれむ心で、自分だけを利養・愛重する心を遠く離れるのである。これを菩提をさまたげる三種の法を遠く離れるという。順菩提門とは、菩薩はこのような菩提をさまたげる三種の法を離れると、すなわち菩提に順ずる三種の法を得るのである。三種とは何々かというと、一つにはけがれない清浄心である。これは自分のためにいろいろの楽しみを求めないからである。菩提は染れない浄らかな境地である。もし自分のために楽しみを求めるならば、それは菩提にそむくであろう。こういうわけであるから、染れない清浄心は菩提に順ずるのである。二つには人を安らかにする清浄心である。一切衆生の苦しみを抜くからである。菩提は一切衆生を安穏にする清浄な境地である。もし心を用いて一切衆生を救うて、生死の苦しみを離れさせなかったならば、すなわち菩提にそむくであろう。こういうわけで、一切衆生の苦しみを除くのは菩提に順ずるのである。三つには人にさとりの楽しみを与える清浄心である。一切衆生に大乗の菩提を得させようとするからである。また衆生を摂めて阿弥陀仏の浄土に往生させるからである。菩提はこの上なき常住安楽の境地である。もしすべての衆生に最上の常住安楽を得させなかったならば、菩提にそむくであろう。この最上の常住安楽は何によってうるのかといえば、大乗に至る門によるのである。その大乗に至る門とは、すなわち、かの安楽浄土がこれである。それゆえ、二心なくもっぱら弥陀の浄土に生まれることを願わせるのは、はやく無常菩提をさとらせたいと思うからである。

【12】第二に、異見邪執を破ることを明かすとは、この中に九つある。第一には、みだりに大乗無相の理にかかわる異なった見解、偏った考えを破る。第二には、菩薩の愛見の大悲であると考えることを会通する。第三には、心の外に法なしということにかかわる考えを破る。第四には、穢国に生まれることを願って、弥陀の浄土に生まれることを願わないという考えを破る。第五には、もし弥陀の浄土に生まれたならば、多く喜んで楽しみに執着するという考えを破る。第六には、浄土に往生することを求めるのは小乗ではないかという考えを破る。第七には、兜率天の往生を求めて、弥陀の浄土を願わないことを勧めるのを破る。第蜂には、もし十方浄土に生まれることを求めるのは、西方浄土に帰するにしくはないことを会通する。第九には、別時意を解釈する。

【13】第一に、大乗無相の理にかかわるまちがった考えを破るというのは、その中に二つある。一つには、総じて九つの解釈を設けたわけは、後の世の仏法者が明らかによしあしを知って、邪を去り正に向かうようにしたいと望むからである。二つには、広く間違った考えについて、正しい義をあらわして、この誤りを破る。一つに、総じて九つの解釈の起こりをいうとは、ところで大乘教の深いみ法は、その名もいわれも非常に多い。こういうわけで《涅槃経》に、

一つの名に無量の義があり、一つの義に無量の名がある。

といわれてある。必ず、ひろく多くの典籍を見て、そのいわれを明らかにすべきであって、小乗教や世間の書物がその文をおさえて、すぐに義を解釈するようなのではない。どういうわけでそうせねばならないのかというと、浄土教の法は奥深くて広く、経論の意味が文に顕われたり隠れたりしているので、凡夫の考えでいろいろに計らうならば、恐らくは道理の通らぬたわごとになり、あるいは、多くの盲人がそれぞれかたよった考えを持つように、乱れて正しく知ることがなく、往生をさまたげるであろう。今はしばらく少しばかりをあげて、一々これを破ろう。

 第一に、みだりに大乗無相の理にこだわるのを破るならば、

 問うていう。あるいは、人があって、「大乗は無相であって、彼と此との差別を考えてはならない。もし西方弥陀の浄土を願うならば、これは差別の相にこだわるのであって、いよいよ煩悩の束縛を増すことになる。どうしてこれを求めるのか」というであろう。

 答えていう。このような考えは正しくないといわねばならぬ。なぜかというと、すべて諸仏の説法には、必ず二つの理由がそなわっている。一つには法性の実理によることであり、二つには真俗二諦の道理にかなうべきことである。かの大乗は彼此の差別を念ずるのではなく、ただ法性だけによると考えて、因縁生差別の立場で往生を求めることをそしるのは、真俗二諦の道理にかなわないのである。こういう見解は、かたよった空の一辺に落ち込んでいる。こういうわけであるから《無上依経》の中に説かれてある。

仏が阿難に告げられる。「すべての衆生が、もし実我の見解を起こすこと須弥山のように大きくあろうとも、自分はこれを恐れない。なぜかというと、この人はすぐ迷いを離れることはできないが、いつも、因果の道理を破らず果報を失わないからである。もしかたよった空の考えが芥子のように小さくとも、自分はそれを許さない。なぜかといえば、こういう考えは、因果の道理を破り失って、多く悪道に落ち、未来生まれる処で必ずわが教化に背くからである。」

 今、すべての行者に勧める。法性の道理からいえば、無生というけれども、真俗二諦の道理によれば、因縁生の上に立って往生を求めることを否定するのではなく、すべてのものが往生できるのである。こういうわけで《維摩経》の中には、

諸仏の国土およびその衆生は みな空であると観じながらも

しかも常に浄土をつくって 多くの衆生を済度する

とある。また、かの経の中に説かれてある。

現わすべき果はないと観じながら、しかもいろいろの身を現わす。これが菩薩の行である。起こすべき行はないと観じながら、しかも一切の善行を起こす。これが菩薩行である。

 これらの文がまことの証拠である。

 問うていう。今ごろ世間では、一類の人があって、大乗無相を行ずるといって、彼此の差別を見ず、全く戒相を守らないのがあるが、このことはどうであろうか。

 答えていう。このような考えは害をなすことがいよいよ甚だしい。なぜならば《大方等経》に説かれてあるようである。

仏は在家の男子のために戒を設けられて、「寡婦・処女の家に行ってはならない。酒を売る家、染物屋、油をしぼる家、皮をなめす家に往来してはならない」と仰せられた。

そこで阿難が仏に申しあげていう。「世尊は、どういう人のために、このような戒を設けたもうのですか。」

仏が阿難に答えられる。「行に二種類がある。一つには在家の人の行、二つには出家の人の行である。出家の人には、わたしは上のような戒は設けない。在家の人に、わたしは今この戒を設ける。なぜかといえば、一切衆生はすべてこれわが子であり、仏は一切衆生の父母である。よくないことをさえぎりとどめるならば、早く迷いを出て、さとりを得るからである。」

【14】第二に、菩薩の愛見の大悲であると考えることを会通するとは、

 問うていう。大乗の聖教によると、「菩薩が衆生に対して、もし愛見の大悲を起こすならば、それはすなわち、捨てねばならない」という。今、衆生を勧めて、共に浄土に生まれさせようとするのは、分別にとらわれた愛着の心ではないか。どうして迷いの苦しみを免れることができようか。

 答えていう。菩薩の行法のはたらきに二つある。何かというと、一つには空をさとる般若の智慧を得ること、二つには大悲をそなえることである。一つに、空をさとる般若の智慧を得るから、迷いの六道に入っても、その汚れた境界につながれない。二つに、大悲の心をもって衆生を思うから涅槃にとどまらない。菩薩は真俗二諦の有無の理によりながら、しかも常に有無にとらわれず、取捨よく中道を得て仏法の大道理にそむかないのである。それゆえ《維摩経》に説かれてある。

たとえば、人が空地において家を建てようとすれば、意のままに自在であるが、虚空においては、ついにこれを建てることができないようなものである。菩薩もまたこのとおりである。衆生を救うために仏国をつくることを願うが、仏国をつくることを願うのは、虚空に家をたてるごとくではない。

【15】第三に、心の外に法なしとかかわる考えを破るとは、その中を二つに分ける。一つにはその考えを破り、二つには問答してこれを解釈する。

 問うていう。あるいは、人があっていう。

観るところの清浄な境界は、心についたものである。浄土は心と融通して、心が浄ければ見るところが浄土である。すなわち心の外に法はないのである。どうして西方に入る必要があろうか。

 答えていう。ただ法性の浄土というのは、道理として虚空のごとく無碍であって、その体がかたよらない。これが真如をさとる無生の生であって、聖者が入ることができる。それゆえ《無字宝篋経》に説かれてある。

「善男子よ、また一法がある。これは仏のさとられるところである。いわゆる諸法は去らず来らず、因なく縁なく、生なく滅なく、思なく不思なく、増もなく減もない。」

仏が羅睺羅に仰せられる。「そなたは、わが説くところのこの正法の義をたもつかどうか。」

その時、十方に九億の菩薩があって、仏に申しあげる。「わたしたちは、この法門を持って、衆生のためにひろめて絶えないように致しましょう。」

仏が答えて仰せられる。「この善男子らは、両肩に菩提をになうものとする。かの人は、他によって断ち切られることのない弁才を得て、清浄な諸仏の世界に入ることができる。命が終わる時、阿弥陀仏が多くの聖者と共にその人の前に立たれるのをまのあたり見たてまつって往生を得るのである。」

 おのずから、中輩・下輩の人があって、まだ有相の考えを破ることのできないものは、仏を信ずる因縁によって、浄土に生まれることを求めねばならない。こういうものは浄土に往生しても、なお有相の土に居るのである。

 またいう。もし俗諦差別の法を摂めて根本の真諦についていえば、心の外に法はないけれども、もし真諦と俗諦とを分けて義を明かすならば、浄土は心外の法といって差支えないのである。

 二つに問答して解釈するとは、

 問うていう。さきに無生の生は、ただ聖者のみが入ることができ、中下の輩はそれに堪えられないといったが、これは、上中下の人を法にあてはめて、こういう判断をするのか。それとも聖教があって証明するのか。

 答えていう。《智度論》によると次のようにいわれてある。

初発心の菩薩は、根機が低く、智慧が浅いから菩提心を起こすといっても、多くは浄土に往生しようと願う。なぜそうかというと、たとえばみどり児は、もし父母の養育に近づかなかったならば、穴や井戸に落ちたり火傷や毒蛇などの難があり、あるいは乳が乏しくて死ぬことがあるから、必ず父母のお育てによって成長して、その家業をつぐことができるようなものである。菩薩もまたそのとおりである。もし、よく菩提心をおこして多くは浄土に生まれて諸仏に親しみ近づき、智慧を増進しようと願うならば、菩薩の家業をつぎ、十方の衆生を済度することができる。このような利益があるから多くは浄土に生れようと願うのである。

 また、かの論にいわれてある。

たとえば、ひなどりの翼がまだ成長しない間は、これを強いて高く飛ばすことはできない。まず林により樹をつたわすべきで、羽が成長して力があるようになって、はじめて林を捨てて空に遊ぶことができるようなものである。初発心の菩薩もまたそのとおりである。まず願いをおこして仏前に生まれることを求め、智慧が成長してから、機感に応じて衆生利益をなすべきである。

 また、

阿難が仏に申しあげていう。「この無相行は、どういう処で説くのでありますか。」

仏が仰せられる。「このような法門は不退の位に入ったものに説くのである。なぜならば、初発心の菩薩が、この無相の行を聞いたならば、その持っている清浄な善根がすべてなくなるからである。」

 またかの国に往生すれば、一切の事はみな終わってしまう。どうして、深い浅いの道理を争う必要があろうか。

【16】第四に、穢土に生まれることを願って、浄土に生まれることを願わない考えを破るならば、

 問うていう。あるいは人があって、「迷いの穢土に生まれて衆生を済度することを願い、浄土に往生することを願わない」というであろう。このことはどうであろうか。

 答えていう。こういう人には、またその一類の人がある。なぜなら、もし不退転以上の人ならば、雑悪の衆生を教化するために、よくけがれた処にあってもけがされず、悪に逢っても変わらない。ちょうど鶩鴨あひるが水に入っても、水がぬらすことはできないようである。こういう人は、よく穢土にあって、人々の苦しみを除くことができる。もし実の凡夫ならば、恐らくは自分の行もできていないので、苦しみに逢えば変わるであろう。人を救おうとして、かえって一緒におぼれてしまうことは、ちょうど鶏を追うて水に入れるのと同じである。どうしてよくぬれないということがあろうか。それゆえ《智度論》にいわれる。

もし凡夫が迷いの世界にあって衆生を救おうと思っても、仏の思召おぼしめしはこれをお許しにならない。

 どういうわけでそうかというと、竜樹菩薩が釈していわれる。

たとえば、四十里の氷に、もし一人の人があって、一升の熱湯を投じたならば、その時は少し氷が減ずるようであるけれども、夜をへて明け方になると、他の所よりも高くなっているようなものである。凡夫がこの土で発心して迷いの苦しみを救おうと思うのも、またこのとおりである。貪欲・瞋恚の境界は心にかなったりかなわなかったりすることが多いから、みずから煩悩をおこして、かえって悪道に堕ちるからである。

【17】第五に、もし浄土に生まれたならば、多く喜んで楽しみに執着するという考えを破るならば、

 問うていう。もし人があっていう。「弥陀の浄土の中には、ただ楽しいことのみがあって、多くは喜んでその楽しみに執着し、修行の道を妨げられて、やめてしまうであろう。どうして往生を願うべきであろうか」と。

 答えていう。すでに浄土というのであるから、いろいろなけがれのあることはない。もし楽しみに執着するというならば、これは貪愛の煩悩である。どうして浄土と名づけられようか。こういうわけであるから《代無量寿経》に、

かの国の人天は、往くも来るも、進むも止まるも、心にかかわるところがない。

と説かれ、また四十八願の中には、

十方の人天が、わが国に生まれて、もし煩悩をおこして、自分に愛着の心をおこすならば、正覚をとるまい。

とあり、«大経》にまた、

かの国の人天は、好き嫌いの思いをおこさない。

と説かれてある。どうして楽しみに執着するという道理があろうか。

【18】第六に、浄土の往生を求めるのは、小乗ではないかという考えを破るとは、

 問うていう。あるいは人があって、「浄土往生を求めるのは、これは小乗である。どうしてこれを求むべきであろうか」というであろう。

 答えていう。これもまたそうではない。なぜならば、すべて小乗の教は一向に浄土往生を明かしていないからである。

【19】第七に、兜率天の往生を願うのと、勧めて浄土に帰せしめるのを会通するとは、

 問うていう。あるいは人があって、「兜率の往生を願って、西方の弥陀の浄土に帰することを願わない」というであろう。このことはどうであろうか。

 答えていう。このいわれは同一ではない。少しは同じようであるが、ものがらについては大いに別であって、四種ある。それは何であるかというと、一つには、弥勒仏はその国におるもののために不退の法を説かれるのであるが、この法を聞いて信ずるものは利益を受けるので、信が同じといえるけれども、楽しみに執着して信のないものはその数が多い。また兜率天に生まれるとはいっても、そこは退転する処である。こういうわけで経に、「三界には安らかな処なく、火宅のようである」と説かれている。二つには、兜率天に往生すれば、寿命を得ることが四千才であるが、その命が終わった後、悪道に退落することを免れない。三つには、兜率天には、水・鳥・樹林の音が調和して、哀れにみやびやかなものがあるといっても、ただ天人たちの有為の楽しみのための縁となって五欲に順ずるので、仏道のたすけとはならない。もし弥陀の浄土に向かうならば、一たび往生を得た者は、すべて不退の位であって、さらに迷いに退堕する人と雑居することはない。またその処は、無漏の世界であって、迷いの三界とは異なり再び輪廻することがない。その寿命をいえば、阿弥陀仏とひとしく、計算によって知るところではない。水・鳥・樹林があって皆よく法を説き、人をさとらせて、無生のさとりに入らしめる。四つには、《大経》によって、しばらく一種の音楽をもって比べるならば、《讃阿弥陀仏偈》にいわれる。

この世の帝王から第六天に至るまで 音楽は次第にすぐれて八重である

順次に前よりすぐれること億万倍であり 宝樹の音がさらにうるわしいこともまたそのとおりである

また自然の妙なる音楽があって その説法の音声は浄く和やかで心を悦ばせる

哀れにやさしくみやびやかですきとおり十方にすぐれている ゆえにわたしは清浄勲の仏に稽首したてまつる

【20】第八に、十方浄土に生まれることを願うのは、西方浄土に帰するに、しくはないということを比べるならば、

 問うていう。あるいは人あって、「十方浄土に生まれることを願って、西方浄土に帰することを願わない」というであろう。このことはどうであろうか。

 答えていう。この義は同一ではない。その中に三つのことがある。何かといえば、一つには、十方諸仏の浄土が清浄でないというのではない。しかるに向かうところの境界がひろければその心が昧くなり、境界が狭ければ心が専一になる。こういうわけで《十方随願往生経》に説いてある。

普広菩薩が仏に向かって申しあげる。「世尊、十方の諸仏の世界はみな浄土でありますのに、なにゆえ諸経の中にひとえに西方阿弥陀仏国を讃嘆して、その往生を勧めてあるのでありますか。」世尊が普広菩薩に告げていわれる。「一切衆生は、心乱れるものが多く、正念のものは少ない。そこで衆生の心を専らにさせようと思うから、弥陀の浄土を讃嘆するのを違いとするだけである。もしよく弥陀の浄土を願って修行するならば、利益を獲ぬものはない。」

 二つに、十方の諸仏の世界が、みな浄土であるといっても、その深浅が知りがたい。阿弥陀仏の国は、浄土の中の初めての処である。なぜ知ることができるかといえば、《華厳経》によると、

娑婆世界の一劫は極楽世界の一日一夜にあたり、極楽世界の一劫は袈裟幢世界の一日一夜にあたる。このように優劣を望めてみると、順次に十阿僧祇の段階がある。

とある。ゆえに阿弥陀仏の国は、浄土の最初の処であることが知られる。こういうわけで、諸仏がひとえに弥陀の浄土を勧められる。他方の仏国はこのように丁寧ではない。それゆえ、仏法を信ずるほどの人は、多く弥陀の浄土に生まれることを願うのである。

 三つに、弥陀の浄国はすでに浄土の最初の処であって、車馬世界が穢土の中の最後の処である。どうして知ることができるかといえば、《正法念経》にいわれてあるとおりである。

これより東北方に一つの世界があって、名づけて斯訶という。その土地には、ただ三角の沙石だけがあり、一年に三べん雨がふり、一回の雨が地下をうるおすことが五寸をこさない。その国の衆生は、ただ果実を食い木の皮をきて、生を求めてもえられず、死を求めてもえられない。また一つの世界がある。すべての虎狼禽獣から蛇蝎に至るまでみんな翼があって飛んでいる。それらのものに出会えば、よしあしをいわず互いに食い合う。

 このような世界は、穢土の最初の処といわねばなるまい。しかるに、娑婆の国土には、凡夫が賢聖方と同じようにいるから、これはすなわち、穢土の最後の処である。安楽世界はすでに浄土の最初の処であるから、娑婆世界とその境界が相接して、往生するのに甚だ便利である。どうして往生を願わずにおられようか。

【21】第九に、《摂大乗論》とこの《観経》との相違によって、別時意の語ということについて論ずるとは、いま《観経》の中に、仏は、

下品下生の人は、現に重い罪を造り、命が終わろうとする時に、善知識に会うて、十念を成就して、そこで往生を得る。

と説いてあるが、《摂大乗論》の説によると、これは仏の別時意の語であるというてある。また昔から、痛論家の人は、多くこの《観経》の文を解釈して、「下品の臨終の十念念仏はただ往生する因とはなるけれども、いまだ、すぐに往生の果をうるのではない。どうして知ることができるかといえば、《摂大乗論》には、

一金銭の因をもって千金銭の果をうることは、一日ですぐに得るのではないのと同じである。

といわれてある。ゆえに知られる。十念を成就することは、往生の因とはなるけれども、すぐ往生の果をうるのではないから、別時意の語と名づける」というてある。このように解釈することは、そのとおりということはできない。なぜかというと、すべて菩薩が論を造って仏の経を解釈する場合は、皆、はるかに仏の思召しをあらわして、仏の思召しにかないたいと思うのであるから、もし菩薩の論文ろんもんが仏の経の意味とたがうことがあるようなら、こういう道理がある筈がないからである。

 いま別時意の語ということを解釈するならば、仏の常の説法では、みな因を先にして果を後に示されるということは、道理の上から明らかである。しかしながら、今この《観経》の中では、ただ一生のあいだ罪を造って、命が終わろうとするとき、十念を成就して往生をうるという果だけを説いて、過去の因のあるやなしやを説かれていない。ただこれは、世尊が後の世の罪を造るともがらを誘引し、その臨終の時に悪をすてて念仏に帰依し、十念することによって往生させようとされる。それゆえ過去世の因を隠してと枯れないのである。これは、世尊が始めを隠して終りだけを顕わし、因を語らずに果だけをいわれるので、これを別時意の語というのである。どうして臨終の十念が成就するのは、みな過去の因があるのだということを知ることができるかといえば、《涅槃経》に説かれているとおりである。

もし、人が過去に、かって半恒河沙の諸仏を供養し、また菩提心をおこしたならば、悪世の中において大乘経を説くのを聞いて、これを誹謗しないが、なおそのほかの功徳はない。もし一恒河沙の諸仏を供養し、また菩提心をおこしたならば、後に大乗経を聞いて、ただ仏法をそしらぬばかりでなく、またよくこれを喜ぶ。

 こういう経を持って来て証明すると、明らかに、十念が成就するのは過去の因があってそれがむなしくないことが知られる。もし、過去の因がなかったならば、善知識にさえ、なお逢うことができない。ましていわんや十念が成就するはずがあろうか。《摂大乗論》に、

一金銭の因をもって、千金銭の果をうることは、一日ですぐに得るのではない。

というてあるのは、もし仏の思召しによれば、衆生に多く善因を積ませ、すなわち念仏させて、それによって往生させようとされるのである。もし論主についていうと、経文に過去の因を説かれていないのによって、別時意といわれるのであるから、道理もまたたがうことはない。もしこのように解釈するならば、上は仏の経にもかない、下は論の意にもあう。すなわち経と論と互いに相依って、往生の道が明らかとなり、また疑う余地はない。

【22】第三に、広く問答を設けて疑問を解くとは、以下《大智度論》について広く問答を設ける。

 問うていう。およそ、すべての衆生は、はかりしれぬ昔よりこのかた、有漏の業を多く造ってこの三界に繋がれているのに、どうして、三界につながれる業を断たないで、ただしばらくのあいだ、阿弥陀仏を念ずることによって浄土に往生して三界を出るというならば、三界につながれる業の義をどうするのか。

 答えていう。二つの解釈がある。一つには、法について破る。二つには、たとえを借りてもってあらわす。初めに法についてというのは、諸仏如来には、不思議智・大乗広智・無等無倫最上勝智がある。その不思議智というのは、よく少ないものを多いものとし、多いものを少ないものとし、近いものを遠いものとし、遠いものを近いものとし、軽いものを重いものとし、重いものを軽いものとされる。このような無量無辺不可思議の智慧がある。

 これより以下、第二に、七つに分けていずれもたとえを借りてもってあらわす。第一に、たとえば、百人のものが百年間薪を集めて、積んだ高さが千刃であっても、豆ほどの火で焼けば半日で焼きつくしてしまうようなものである。どうして百年間積んだ薪であるから、半日で焼きつくされぬということができようか。第二に、たとえば、いざりでも船に乗れば、風に帆かけて走る勢いによって、一日で千里の遠きに至るようなものである。どうして、いざりは一日で千里の遠きに至ることはできぬといえようか。第三に、また賎しく貧しい人が、ある珍しい宝物を得て、それを王に献上したところ、王がその得たことを喜ばれて重い賞を与えられたので、しばらくの間に富貴が望みどおりになるようなものである。どうして、数十年仕えていろいろ辛苦をつくしても、なお重いを達しないで帰るものがあるからといって、貧しい人がしばらくの間に、富貴になることがないといえようか。第四に、あたかも劣夫が自分の力では驢馬に乗って空へ上ることができなくても、転輪王の行幸に従えば、虚空にのぼって飛ぶことが自在であるようなものである。どうして劣夫は、必ず虚空に上ることができぬといえようか。第五には、また十かかえの綱は、千人の男がかかっても自在にすることができないが、子供でも剣をふるえば、たちまちに両断することができるようなものである。どうして子供の力では、綱を切ることができぬといえようか。第六には、また鴆鳥が水の中に入ると、魚や貝はそこでたおれてみな死ぬが、犀の角をもって泥にふれると死んだ魚や貝がまた生きかえるようなものである。どうして、一たび命を断ったならば、生きかえることはできないといえようか。第七には、また鶴が死んだ子安を喚ぶと子安が甦ったようである。どうして、墓の下の死者は決して甦ることがないということができようか。

 すべての法には、みな自力・他力、自摂・他摂があって種々無量である。そなたは、どうして凡夫の有碍の考えで、仏の無碍の法を疑うことができようか。また、経論に説いてある五つの不思議の中で、仏法が最も不可思議である。そなたは、三界につながれる業は重く、しばらくの念仏を軽いものとして、安楽国に生まれて正定聚に入ることはできないというが、このことはそうではない。

 問うていう。大乗の経典の中には、「業の道は秤のようなもので、重い方が先に引く」というてある。どうして、衆生は一生涯、長くて百年のもの、少なくて十年のものもあろうが、それが今日に至るまで、悪として造らぬということはないのに、臨終に善知識に遇うて、十念相続してすなわち往生を得るというのか。もしそうであれば重い方が先に引くという道理は、どう信じたらよいのか。

 答えていう。そなたは、一生涯の悪業を重いとし、下品の人の臨終の十念の善をもって軽いとするならば、いま、義理の上から軽い重いの義をくらべよう。それはまさしく心にあり、所縁にあり、またその時の決定か不決定かにあるのであって、時間の長い短い、多い少ないになるのではない。

 心にあるとはどういうことかというと、かの下品の人の罪を造る時は、みずからいつわりの間違った心より生ずるが、この十念は、善知識が教え慰めて、実相にかなった名号法を説くのを聞かせることによって生ずる。一は真実であり、一は虚仮である。どうして比べることができようか。なぜなら、たとえていえば、千年の暗室に、もし、光がしばらくでも入れば、ただちに明るくなるようなものである。どうして、闇は千年のあいだ室にあったのだから光が入っても去らないということができようか。それゆえ《遺日摩尼宝経》に説かれてある。

仏が迦葉菩薩に仰せられる。「衆生は、数千巨億万劫の間、愛欲の中にあって罪に覆われていても、もし仏教を聞いて、一たびでも善を念ずるならば、罪がすなわち消えつくす。」

これを心にあるというのである。

 二つに、所縁にあるとはどういうことかというと、かの人が罪を造る時は、みずから間違った考えにより、煩悩の果報である衆生を相手として起こすが、今、この十念は、無常の信心によって、阿弥陀如来の真実清浄で無量の功徳を摂めてある名号によって生ずる。たとえば、人が毒の矢にあたり、それが筋をとおし、骨を破ったとしても、もし滅除薬をぬった鼓の音を聞くならば、たちまち矢が抜け出て、毒が除かれるようなものである。どうして、矢が深く入って毒がはげしいから鼓の音声を聞いても、矢を抜き毒を除くことができぬということができようか。これを所縁にあるというのである。

 三つに、決定にあるとは、どういうことかというと、かの人が罪を造る時は、平生であるから、まだ後があるというゆっくりした考え、したがっていろいろの間雑する心によって生ずるが、この十念は臨終であるから、もはや後がないという考え、したがって専念の心によって起こす。これを決定にあるというのである。また《智度論》にいわれてある。

すべて、衆生は、臨終の時には、刀で身をさかれるような死の苦しみが迫って来て、大きな恐れを生ずる。それゆえ、善知識に遇うて大勇猛心をおこし、心々相続して十念するならば、すなわち、これは強い善根であって、そこで往生を得る。

 また、

人が敵に対して陣を破ろうとする場合には、一生涯の力を一字にことごとく使うようなもので、その臨終十念の善もまたこのとおりである。

 また、

もし、人が臨終の時に、一念の邪見を起こすならば、その強い悪心は三界の善根を滅して悪道に入る。

とある。

 問うていう。すでに臨終の十念の善が、よく一生の悪業を滅して浄土に生まれることができるというならば、どれほどの時間を十念とするのであるか。

 答えていう。経に説かれてあるとおりである。百一の消滅が一刹那となり、六十刹那をもって一念という。これは、経論をよりどころとして一般に念を解釈するのである。いまの念の解釈はこの時節の義をとらない。ただ阿弥陀仏を憶念して、仏の全体のおすがたや、あるいは一部分のおすがたを、その所縁にしたがって観じ、十念をへるのに、他の想いがまじわらないのを十念という。また、十念相続というのは、釈尊が説き示された一つの数の名にすぎない。そこでよく、憶念を積み、思いをこらして、そのほかのことを考えなければ往生の業は成就するのである。わずらわしく、念仏の数を知る必要はない。またいう。もし久しく相続している人なら、数を知る必要はないが、もし始めて念仏する人なら、その数をかぞえてもよい。これもまた聖教に依りどころがある。

 また問うていう。今、勧めによって、念仏三昧を行じようと思うが、その念仏の相状はどのようであるか。

 答えていう。たとえば、人が広々とした所において、恐ろしい賊が刀を抜き、勇をふるってまっすぐに襲い来り殺そうとするのにうとする。この人はただちに走って、渡らねばならぬ一つの河があるのを見た。まだ河に至らぬうちに、こういう思いをした。〈わたしは、河の岸についたならば、衣を脱いでわたろうか、衣をきて泳ごうか。もし衣を脱いで渡ろうとすれば、恐らく暇がないであろう。もし衣をつけたままで泳ごうとすれば、またおそらく溺れるであろう〉と。その時にはただ一心に河を渡る方法を考えるばかりで、ほかの思いのまじわることがないようなものである。

 行者もまたそのとおりである。阿弥陀仏を念ずる時も、かの人が河を渡ることを思って念々に相続し、ほかの思いをまじえないように、あるいは仏の発心を念じ、あるいは仏の威神力を念じ、あるいは仏の智慧を念じ、あるいは仏の白毫相を念じ、あるいは仏の相好を念じ、あるいは仏の本願を念じて称名する場合もそのとおりである。ただよくもっぱら相続して絶えなかったならば、まちがいなく仏の前に生まれる。

 今、後の代の仏法を学ぶものに勧める。もし真俗二諦の道理にかなおうと思うならば、ただ念々、空無相の不可得であると知るのは智慧門であり、よく念をかけて断えぬのは功徳門である。それゆえ、経に、「菩薩大士は、いつも功徳と智慧をもって、その心を修める」と説かれてある。もし始めて学ぶものは、まだ相を離れることができないから、ただよく相によって専ら行ずるならば往生することは疑いをまたない。

 また問うていう。《大無量寿経》に、「十方の衆生が、心から信じて、往生を願い、乃至十念して、もし生まれなければ正覚をとるまい」と説かれてある。今、世間の人があって、この教を聞いて現在の一生涯、平生に全く心を用いないで、臨終の時をまって念仏を修めようとするものがある。このことはどうであろうか。

 答えていう。そういうことは、聖教の意味とは違う。どうしてかといえば、経に十念相続と説かれてあるのは、難しくないようであるが、しかしすべて凡夫の心は、野馬のごとく、また猿の動くよりもはげしく、色・声・香・味・触・法などの外のことにかかわって、いまだかってとどまらない。それで、おのおのがよろしく信心をおこして、あらかじめ、みずから念をはげまして行を積み、習性をつくって善根を堅固にさせねばならない。釋迦仏が大王に告げられるようである。

人が平生に善行を積めば、臨終の時に悪念がないことは、あたかも、樹が傾き倒れる場合には、必ず曲っている方に従うようなものである。

 もし、身をさく臨終の刀風が一たび至れば、あらゆる苦しみが身に集まる。もし、習性が前からなかったならば、念仏がどうしてできようか。おのおの同志の人が三人でも五人でも、あらかじめ約束しておいて、命終の時に臨んでは、お互いにさとしあって、弥陀の名号を称えて浄土の往生を願い、その声を続けて十念をなさしめるべきである。たとえば、蠟で造った印をもって泥におし、金の湯を流すと印がくだけて、形ができるように、この命の終わる時が、すなわち安楽国に生まれる時である。一たび正定聚に入れば、もはや何のうれうるところがあろうか。おのおのこの大利益を思いはかって、あらかじめ心をはげまさないでよかろうか。

 また問うていう。大乗の諸経論には、みな「衆生は、畢竟無生で虚空のようである」と説かれているのに、どうして天親菩薩や竜樹菩薩は西方往生を願われるのであるか。

 答えていう。「衆生は、畢竟無生で虚空のようである」ということには、二つの義がある。一つには、凡夫の考えているような、固定した衆生があって、それが生まれたり死んだりするというようなのは、もし菩薩の往生によるならば、虚空のようであり、兎の角のようであって、そのようなものはない。二つには、いま生というのは因縁の上でいう生である。因縁の上でいうから仮に生と名づける。仮に生と名づけるのであるから、そのままが無生の生であって、仏法の大道理にそむかない。凡夫の考えているような固定した衆生があって、それが生まれたり死んだりすると考えるようなのとは違うのである。

 また問うていう。生を見るということは、迷いの根本となり、多くの苦しみのもとである。もしこの過ちを死って、生を捨てて無生を求めるならば、迷いをのがれる時があるであろう。今すでに浄土に生まれることを勧めている。これは、生を捨てて、生を求めるのであって、迷いの生がいつまでたっても尽きないであろう。

 答えていう。ところがかの浄土は、これ阿弥陀如来の真如法性にかなった本願力によって受けるところの生死相対をこえた生であって、三界の衆生のいつわりで煩悩の執着より考えるような生でない。なぜかというと、真如は清浄であって畢竟無生のものである。今、浄土に生まれるというのは、往生を得るものの情についていうのみである。

 また問うていう。上にいうところの無生の生であると知るのは、上品の往生者にあたる。もしそうであれば、下品生の人が十念の念仏によって往生するようなものは、生死相対の実の生を考えているのではないか。もし実の生ならば、二つの疑問に堕ちる。一つには、恐らく往生ができないだろう。二つには、この有相の善は無生の生のためには因となることはできないであろう。

 答えていう。これを解釈するに三つある。一つには、たとえば、清浄な摩尼宝珠を濁った水の中に置けば、珠の力によって濁った水が清く澄むようなものである。もし人が無量劫のあいだ迷わねばならぬ罪があるとしても、阿弥陀如来のこの上なき無生清浄の徳にかなった名号を聞いて、これを煩悩の心に入れるならば、念々の中に罪が滅び清浄の徳にかなってそこで往生をうる。二つには、清浄な摩尼宝珠をくろや黄のきぬで包んで、これを往生したものの心に入れるならば、どうして実生実滅の生を転じて無生の智となすことができないはずがあろうか。三つには、また、氷の上で火を燃やすと、火が強ければ氷がとける。氷がとければ火も消えるようなものである。かの下品の往生人は、なお法性無生のことを知らないけれども、ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、すでに無生の浄土に至る時は、実生実滅を見る見性の火は自然に消えるのである。

 また問うていう。いずれの身によって往生というのか。

 答えていう。この世界の人であるあいだにいて、いろいろ行を修める場合、前の念は後の念のために因となる。この穢土における人と、浄土に生まれた人とは、きまって一ともいわれず、きまって異ともいわれない。前心と後心とも、またこのとおりである。なぜならば、もしきまって一ならば因果の別がなく、もしきまって異ならば同一人の相続ではない。こういうわけで、横にいえば迷悟の別があるけれども、竪に因果をいえば始終同一の行者である。

 また問うていう。もし人が、ただよく仏の名号を称えて、それで、もろもろの障りを除くというならば、もしそうであれば、たとえば人が指をもって月を指すような場合に、この指が闇を破らねばならぬではないか。

 答えていう。すべてのものは、千差万別で一概にはいわれない。なんとなれば、その名がものと異ならないものもあり、名が法と異なるものもある。名が法と異ならないというのは、諸仏菩薩の名号や、禁呪まじないのことば、お経の文句などがこれである。その禁呪のことばに「日出東方乍赤乍黄」というようなのは、たとい酉・亥の時刻に禁呪を行っても患者が癒える。また人が犬にかまれた時、虎の骨をあぶって患部をすと患者がなおる。あるいは、骨がない時には、よく手のひらをひろげてその患部をなで、口の中に「虎来虎来」といったならば、患者がまたなおるようなものである。あるいは人が足の転筋こむらがえりを患うた時は、木瓜の枝をあぶっておさえると患者がなおる。もし木瓜がない時は、手をあぶってこれをなで、口に「木瓜木瓜」と呼べば患者がまたなおる。自分もそのしるしをえた。どういうわけでかといえば、名が法と異ならないからである。名が法と異なるものがあるとは、指をもって月をさすようなのがこれである。

 また問うていう。もし人が、ただ弥陀の名号を称えるならば、よく十方衆生だれでもが無明の黒闇を除いて往生を得るという。しかしながら、衆生があって、仏の名号を称え憶念して、なお無明があって往生の志願を満足せぬのはどういうわけか。

 答えていう。法体の実義にかなわず、名号のいわれに相応しないからである。そのわけはどうかというと、阿弥陀如来は実相をさとられた自利成就の仏であり、そのままが衆生を救いたもう利他成就の仏であることを知らないからである。

 また、三種の不相応がある。一つには、信心が不淳である。或時は存し、或時はないからである。二つには、信心が一つでない。それは信が決定でないからである。三つには、信心が相続しない。それは自力の心がまじわるからである。この三句は、たがいに摂まる。もしよく相続心であれば、それは一心であり、ただよく一心であれば、それは淳心である。この淳心・一心・相続心の三心をそなえて、もし往生しないというならば、そういう道理のあるはずがない。

【23】第三大門の中に四つの解釈をする。第一には、難行道と易行道とを述べる。第二には、時劫の大小の違いを明らかにする。第三には、無始曠劫よりこのかた、この三界五道において、善悪二つの業によって苦楽二つの果報を受け、輪廻きわまりなく、迷いの生を受けることが無数であることを明らかにする。第四には、聖教をもって証明し、後の代の人に信を生じ往生を求めるよう勧める。

【24】第一に、難行道と易行道とを述べるならば、この中を二つとする。一つには難行道と易行道とを出し、二つには問答してこれを解釈する。

 わたしは、すでにみずから三界の迷いの境界にいて、想うに、実に恐れをいだいている。うやうやしく、大聖世尊が羊・鹿・牛の三車、すなわち声聞・縁覚・菩薩の三乗の法を説いて、迷いを出るように導かれたのを考えるに、まず羊・鹿すなわち声聞・縁覚の法は、仮りのいこいであって本当のさとりに達しない。それで、仏は声聞・縁覚のかたよった考えは、菩提を求めることを妨げるといましめられる。たとい後に心を大乗に向けても、なおこれは遠まわりと名づける。もしすぐに大車すなわち大乗の法によるのも、また一つの方法であるが、ただ恐れることは、自分は現在不退の位に至らぬところにおり、修行の道はけわしくて遠く、自分の徳行はいまだできていないから、到底菩提の道に進むことはむずかしい。それゆえ、竜樹菩薩が仰せられる。

不退の位を求めるのに、二種の道がある。一つには難行道、二つには易行道である。難行道というのは、五濁の汚れた世、仏のましまさぬ時に、不退の位を求めることを難とする。この難は多いが略して五つを述べる。一つには、仏教にまぎらわしい外道の善が菩薩の修行の法を乱す。二つには、自己のさとりのみを求めるところの声聞の法が菩薩の大慈悲を行うことをさまたげる。三つには、人のことをかえりみない悪人が他人の修行を破る。四つには、すべて人間・天上の果報は、迷いであるが善果であるために執着して、菩薩の行を破る。五つには、ただ自力だけであって他力の支持がない。かようなことは目に見るところ皆これである。たとえば、陸路を歩いて行くのはすなわち苦しいようなものである。ゆえに難行道という。易行道というのは、ただ仏を信じて浄土の往生を願い、菩提心をおこして功徳を積み、いろいろな行業を修めるならば、仏の願力によってすなわち往生し、仏力の支えによって、浄土に生まれ、そこで大乗正定聚の位に入る。正定聚とは不退の位である。たとえば、水路を船で行けば楽しいようなものである。ゆえに、易行道と名づける。

 問うていう。さとりの果は一つであるから、その因を修めることも、また二つないはずである。それにどうして、この土で行を修めて、仏果に向かうのを名づけて難行道とし、浄土に往生して大菩提をさとろうとするのを易行道と名づけるのか。

 答えていう。いろいろの大乘経の中に説いてあるすべての行法には、みな自力・他力、自摂・他摂がある。どういうのが自力であるかというと、たとえば、人が迷いを離れ、菩提心をおこして出家し、禅定を修めて神通力をおこし、あらゆる世界へ自由自在に行くようなのを、名づけて自力とする。どういうのが他力であるかというと、たとえば、劣夫は自分の力では驢馬に乗って空にのぼることができなくても、もし転輪王の行幸に従えば空に上ってあらゆる世界に行くことができるようなものである。すなわち転輪王の威力によるから、これを他力と名づける。衆生もまたそのとおりである。この世で菩提心をおこして、修行するのを自力とする。浄土の往生を願って、臨終の時に阿弥陀如来の光台に迎えられ、往生をうるのを他力とする。それゆえ《大経》に、

十方の人天で、わが国に往生しようと思うものは、みな阿弥陀如来の大願業力をもって最上の力とせぬものはない。

と説かれている。もしそうでなかったならば、四十八願は、いたずらに設けたことになる。後の世の仏法を学ぶ者に告げる。すでに、乗ずべき他力の法があるから、みずから、自力にかかわって、いたずらに迷いの世界におってはならない。

【25】第二に、劫の大小を明らかにするとは、

 《智度論》にいわれているとおり、劫に三種がある。一つには小劫、二つには中劫、三つには大劫である。四十里四方の城があって、高さもまたそうである。その中に芥子が満ちていて、長寿の天人が三年に一度来て、一粒ずつ持ち去り、ついに芥子が尽きてしまうまでを一小劫となづける。あるいは八十里四方の城があって、高さもまたそうである。芥子がその中に満ちていて、前のように取り尽くす間を一中劫と名づける。あるいは百二十里四方の城があって、高さもまたそうである。芥子がその中に満ちていて、取り尽くすことが前のとおりであるのを一大劫と名づける。あるいは、八十里の石があって高さもまたそうである。一人の長寿の天人が、三年に一度、天衣で一払いする。天衣の重さは三銖である。このように払い続けてやまず、この石が尽きるのを一中劫と名づける。その小石・大石についても前の中劫にならって知ることができる。わずらわしく一々述べない。

【26】第三門の中に五つある。第一に、無始曠劫よりこのかた、三界にあって輪廻きわまりなく、身を受けることが、無数であることを明かすならば、《智度論》にいわれているとおりである。

人間界の中にあって、あるいは張姓の家に死んで、王姓の家に生まれ、王姓の家に死んで、李姓の家に生まれる。このように閻浮提の世界をことごとくつくして、あるいは同じ家に生まれ、あるいは異なった家に生まれる。あるいは南閻浮提に死んで西拘耶尼に生まれる。閻浮提におけるように、他の西拘耶尼・北鬱単越・東弗婆提の三天下もまたこのとおりである。四天下に死んで四天王天にうまれるようなものもまた同様である。あるいは四天王天に死んで忉利天に生まれ、忉利天に死んでその上の夜摩天・兜率天・変化天・他化自在天に生まれるのも、また同様である。色界に十八重の天があり、無色界に四重の天がある。ここに死んでかしこに生まれ、一々みなあまねくめぐることもかたこのとおりである。あるいは色界に死んで阿鼻地獄に生まれ、阿鼻地獄の中に死んでそのほかの軽繋地獄に生まれ、軽繋地獄の中に死んで畜生の中に生まれ、畜生の中に死んで餓鬼道の中に生まれ、餓鬼道の中に死んであるいは人天の中に生まれる。このように六道をめぐって苦楽の二報を受け、生死がきわまりない。胎生がすでにこのとおりであって、そのほかの卵生・湿生・化生もまた同様である。

 それゆえ《正法念経》に説かれてある。

菩薩が天上界に化生して、天人たちに告げていわれる。

およそ人は天上界に百千たび生を受けて 楽しみに執着して放逸で菩薩の道を修めない

過去の善根がだんだんにつきて またもとの三途におちていろんな苦しみを受けることをさとらない

 こういうわけで《涅槃経》に説かれてある。

この身は苦の集まるところで すべてみな不浄である

煩悩のおこるもととなり 何の利益もない

上は諸天の身に至るまで みなまたこのとおりである

 それゆえ、またかの経に仰せられる。

不放逸を修めることを勧める。なぜならば、そもそも放逸はあらゆる悪の本であり、不放逸はすべての善の源である。ちょうど日月の光が、すべての明かりの中で一番すぐれているように、不放逸の法もまたこのとおりである。もろもろの善法の中で最もすぐれたものとする。また、須弥山がすべての山の中で最上のものとするように、不放逸の方もまたこのとおりである。もろもろの善法の中で最もすぐれたものとする。なぜならば、一切の悪法は放逸から生まれ、一切の善法は不放逸を本とするからである。

 第二に、問うていう。無数劫よりこのかた六道をさまよって、はてがないというが、一劫の間にどれほどの身の数を受けて流転しているというのか。

 答えていう。《涅槃経》に説かれているとおりである。

 三千大千世界の草や木を切って、四寸のかずとりの木とし、それをもって一劫の中に受けたところの身について、両親の数をかぞえてもまだ尽きない。

 また、

一劫の中に飲むところの母乳は四大海水よりも多い。

とある。

 また、

一劫の中に積み重ねた身の骨は、毘富羅山のようである。

と説かれてある。

 このように久遠劫よりこのかた、いたずらに生死まよいの身を受けて、今日に至るまで、なお凡夫の身となっている。どうして歎かずにいられようか。

 第三に、また問うていう。すでに久遠劫よりこのかた、身を受けることが無数であるというのは、ただ一般に説いて、人をして生死を厭わしめるためであるのか。また、経文をもって証明すべきものがあるのか。

 答えていう。みな経典に明文がある。それは何かというと、《法華経》に説かれている通りである。

過去、説くことのできない久遠劫に仏が出られて、大通智勝如来と申しあげた。この如来に十六人の王子があって、おのおの法を説く座に上って衆生を教化され、一々の王子がいずれも六百万億那由他恒河沙の衆生を教化された。

 その仏が入滅されてからこのかた、極めて遠く、数を知ることができない。なんとなれば、この経に説かれてある。

「すべて三千大千世界の大地をすって墨とする。」仏が仰せられる。「この人は、千の国土を過ぎては墨を一点おろす。その大きさが微塵のようである。このようにつぎつぎにおろして、大地で造った墨がなくなってしまう。」仏が仰せられる。「この人が経てきた国土で、点をおろした所も、おろさない所も、すべてくだいて塵となし、一つの塵を一劫として数えても、かの仏が入滅せられてからこのかたの劫は、この数よりも過ぎている。」

と。今日の衆生は、かの十六王子の下で、曽て教法を受けたものである。ゆえに、この経に説かれてある。

この過去の因縁によって、《法華経》を説くのである。

 《涅槃経》にまた説かれてある。

一人は王子、一人は貧しい人で、こういう二人がたがいに往来した。

 王子というのは、今日、法を説く釋迦如来であり、すなわち、かの時の第十六番目の王子である。貧しい人とは今日の衆生などがこれである。

 第四に、問うていう。これらの衆生は、すでに多劫のあいだ流転しているという。しかしながら、三界の中では、どの生に身を受けることが多いとするのか。

 答えていう。流転しているというが、しかも三悪道の中で身をうけることが殊に多い。経に説かれているとおりである。

虚空の中において、八肘四方を量り取り、地面より色究竟天に至るまで、この中にいる衆生は、三千大千世界の人天の身の数よりも多い。

と。ゆえに悪道の身が多いことが知られる。なぜこのようであるかというと、すべて悪法は起こしやすく、善心は生じがたいからである。いま現にいる衆生を見ると、もし富貴を得ればただ放逸破戒を事としており、天上界にあっては、また楽しみに執着する者が多い。こういうわけで、経に説かれてある。

衆生はひとしく流転して、つねに三悪道を住家としている。人天の境界にしばらく来ても、すぐ去ってしまう。人天の境界を名づけて客舎とするからである。

 《大荘厳論》によって、一切の衆生がいつも念を現在にかけねばならぬことを勧める。偈にいわれてある。

元気盛んで患いのない時は なまけて精進しない

世間のいろいろな俗事をいとなんで 布施・持戒・禅定を修めない

まさに死に臨む時に 始めて公開して善根を修めることを求める

智者はよく考えて 五欲の想いを断ち切るがよい

平生からつとめるものは 臨終に悔恨がない

心がすでに専一であれば 心の乱れることがない

智者はつとめて心を向けておれば 臨終にこころが乱れない

平生の時に心が専一でなかったならば 臨終のときに必ず散乱する

心がもし散乱する時には 馬を訓練するのにいしうすを用いるごとくせよ

もし戦闘の時には 回旋して直行しないからである

 第五に、また問うていう。すべての衆生にはみな仏性がある。久遠劫よりこのかた多くの仏にうているはずである。それに、どうして今日まで、なお生死まよいに輪廻して、この火宅を出られないのか。

 答えていう。大乗の教によれば、まことに、二種のすぐれた法によって生死をはらわないからである。こういうわけで、迷いを出ることができぬ。その二種とは何かというと、一つには聖道門、二つには往生浄土門である。その聖道門の一種は、今の時は仏果をさとりがたい。一つには大聖世尊を去ることが遥かであるからであり、二つには教理が深く衆生の解釈が浅いからである。こういうわけで《大集月蔵経》に、

わが末法の世には、多くの衆生が行を起こし道を修めても、一人としてさとりを得るものはない。

と説かれてある。今は末法の時であり、現に五濁悪世である。ただ往生浄土の一門だけが、われらの通入すべき道である。こういうわけで《大経》に説かれてある。

もし衆生があって、たとい一生のあいだ、悪を造っても、臨終において、わが名を称えて十念相続するものが、もし往生しなければ、正覚をとるまい。

 またすべての衆生は、みな自分の力をはからない。もし大乗の法によれば、真如実相第一義空のごときは、いまだかって心に考えたことがない。小乗の法をいえば、見道・修道に入って、ついには不還果・阿羅漢果に至るまで、それには欲界につなぐ煩悩である五下を断ち、色界・無色界につなぐ煩悩である五上を除かねばならぬが、僧俗を問わずに、それができるものはない。たとい人天の果報をたもつのにも、みな五戒・十善をつとめて、よくこの果報を得るのである。しかるに、その五戒・十善をたもちうるものは甚だ稀である。もし悪をおこし罪を造ることをいうならば、どうして暴風駛雨と異なることがあろうか。こういうわけで諸仏は大慈悲をもって弥陀の浄土に帰することを勧められる。たとい、一生悪を造っても、ただよく専ら心をかけてつねに念仏するならば、すべての障りが自然に消されて、必ず往生を得る。どうして往生することを考えないのであろうか。

【27】これより第四に、聖教を引いて証明し、信じて往生を求めることを勧めるとは、

《観仏三昧経》によれば、次のように説かれてある。

そのとき、集まっている人の中に財首菩薩という方がいて、仏に申しあげていう。「世尊、わたしが過去無量劫の昔を思いますのに、仏がおでましになって、また釋迦牟尼仏と申しあげました。かの仏の滅後に一人の王子があって、金幢と名づけ、憍慢・邪見で仏法を信じませんでした。ところが、善知識の比丘がいて定自在と名づけますのが、王子に継げていうには〈世に仏像があって、まことにこのましいおすがたです。しばらく塔に入って、仏のおすがたを観られるがよい〉と。そこで王子は、この善知識の言葉に随って塔に入り仏像を観ました。おすがたを観た後、比丘に向かっていうには、〈仏像でさえ、立派なことはこのとおりであるから、まして仏のほんとうのおすがたはどんなに立派なことだろう〉と。比丘が告げていう。〈王子よ、いま仏像を見ても礼拝することができないなら、南無仏と称えなさい。〉王子は宮殿に帰って、念をかけて塔中の仏像を念じました。すると夜半において、夢に仏像を見たてまつって、心大いに喜んで邪見を離れ、三宝に帰依しました。命が終わると、さきの塔に入って仏のみ名を称えた功徳によって、九百億那由他の仏に遇うことができ、諸仏のみもとでつねに精進して甚深の念仏三昧を体得しました。この念仏三昧の力によって、諸仏がまのあたりに、みな成仏の記別を授けられました。これより以後、百万阿僧祇劫のあいだ悪道に堕ちることなく、今日に至って、首楞厳三昧を得たのであります。その時の王子とは、今のわたし、財首であります。」

その時の会座に、十方の諸大菩薩があって、まことにその数は無量であった。おのおの自分の昔の因縁を語ったが、みな念仏によってさとりを得たのである。

仏が阿難に告げられる。「かの観仏三昧は、すべての罪を犯す者の薬である。破戒の者の護りである。道を失える者の導きである。盲者の眼である。愚かな者の智慧である。くらき者の燈である。煩悩の賊を滅ぼす大勇将である。諸仏世尊の衆生を済度したもうよりどころである。首楞厳等の諸大三昧の始めて出生する処である。」

さらに仏が阿難に告げられる。「そなたは、今よくこれをたもって、つつしんで忘れてはならぬ。過去・未来・現在の三世の諸仏がたは、皆このように念仏三昧を説かれる。わたしと十方諸仏及び賢劫の千仏とは、共に初発心よりみな念仏三昧の力によって一切種智を得るのである。」

 また《目連所問経》に説かれているとおりである。

世尊が目連に仰せられる。「たとえば、よろずの長い川の流れに漂う草木が、前のものは後のものを顧みず、後のものは前のものを顧みず、すべて大海に流れ込むようなものである。世間のありさまもまたそのとおりで、威勢や地位や財産や、また歓楽の自由自在なものでも、ことごとく生老病死を免れることはできない。どのようなものでも、仏のみのりを信じなかったならば、後の世に人間に生まれても、困苦の身となり、千仏の出られる国土に生まれることはできぬ。それゆえ、わたしは、〈無量寿仏の国は往きやすくさとりやすいのに、人々はこれを行じないから、往生することができず、反対に九十五種の外道につかえている〉と説くのである。わたしは、こういう人を〈眼のない人º ª耳のない人〉と名づける。」

 経典には、すでにかように説かれている。どうして難行道を捨てて易行道に依らないのであろうか。