一(617)、 登山状

▲登山とうざん状じょう 第一だいいち  源空げんくう

それ流る浪ろう三界さんがいのうち、 いづれの界かいにおもむきてか、 釈しゃく尊そんの出しゅっ世せにあはざりし。 輪りん廻ね四し生しょうのあひだ、 いづれの生しょうをうけてか、 如来にょらいの説法せっぽうをきかざりし。 花け厳ごん開講かいこうのむしろにもまじはらず、 般若はんにゃ演説えんぜつの座ざにもつらならず、 鷲峯じゅほう説法せっぽうのにわにものぞまず、 鶴林こうりん涅ね槃はんのみぎりにもいたらず。

われ舎しゃ衛えの三億さんおくの家いえにややどりけん、 しら0618ず地じ獄ごく八熱はちねつのそこにやすみけん。 はづべしはづべし、 かなしむべしかなしむべし。

まさにいま多た生しょう曠劫こうごうをへて、 むまれがたき人界にんがいにむまれて、 無む量りょう劫こうをおくりて、 あひがたき仏ぶっ教きょうにあへり。 釈しゃく尊そんの在ざい世せにあはざる事ことは、 かなしみなりといへども、 教きょう法ぼう流布るふの世よにあふ事ことをえたるは、 これよろこび也なり。 たとへば目めしゐたるかめの、 うき木ぎのあなにあへるがごとし。

わが朝ちょうに仏法ぶっぽう流布るふせし事ことも、 欽明きんめい天皇てんのうあめのしたをしろしめして、 十じゅう三年さんねんみづのえさるのとし、 ふゆ十じゅう月がつ一日ついたち、 はじめて仏法ぶっぽうわたり給たまひし。 それよりさきには如来にょらいの教きょう法ぼうも流布るふせざりしかば、 菩ぼ提だいの覚かく路ろいまだきかず。

こゝにわれら、 いかなる宿しゅく縁えんにこたへ、 いかなる善業ぜんごうによりてか、 仏法ぶっぽう流布るふの時ときにむまれて、 生しょう死じ解げ脱だつのみちをきく事ことをえたる。 しかるをいまあひがたくしてあふ事ことをえたり。 いたづらにあかしくらして、 やみなんこそかなしけれ。

あるいは金谷きんこくの花はなをもてあそびて、 遅々ちちたる春はるをむなしくくらし、 あるいは南楼なんろうに月つきをあざけりて、 縵々まんまんたる秋あきの夜よをいたづらにあかす。 あるいは千せん里りの雲くもにはせて、 山やまのかせぎをとりてとしをおくり、 あるいは万ばん里りのなみにうかびて、 うみのいろくづをとりて日ひをかさね、 あるいは極寒ごくかんにこほりをしのぎて、 世路せろをわたり、 あるいは炎天えんてんにあせをのごひて、 利り養ようをもとめ、 あるいは妻さい子し眷属けんぞく0619に纏まとはれて、 恩愛おんないのきづなきりがたし。 あるいは執しゅう敵てき怨類おんるいにあひて、 瞋しん恚にのほむらやむ事ことなし。

総そうじてかくのごとくして、 昼ちゅう夜や朝ちょう暮ぼ・行住ぎょうじゅう坐臥ざが、 時ときとしてやむ事ことなし。 たゞほしきまゝに、 あくまで三さん途ず八難はちなんの業ごうをかさぬ。 しかれば、 ある文もんには 「一人いちにん一日いちにち中ちゅう、 八億はちおく四し千せん念ねん、 念念ねんねん中ちゅう所しょ作さ、 皆かい是ぜ三さん途ず業ごう」 といへり。 かくのごとくして、 昨日きのうもいたづらにくれぬ、 今日きょうも又またむなしくあけぬ。 いまいくたびかくらし、 いくたびかあかさんとする。

それあしたにひらくる栄えい花がは、 ゆふべの風かぜにちりやすく、 ゆふべにむすぶ命みょう露ろは、 あしたの日ひにきへやすし。 これをしらずしてつねにさかへん事ことをおもひ、 これをさとらずしてつねにあらん事ことをおもふ。

しかるあひだ、 无む常じょうの風かぜひとたびふけば、 有為ういのつゆながくきへぬれば、 これを曠こう野やにすて、 これをとをき山やまにおくる。 かばねはつゐにこけのしたにうづもれ、 たましゐはひとりたびのそらにまよふ。 妻さい子し眷属けんぞくは家いえにあれどもともなはず、 七珍しっちん万宝まんぽうはくらにみてれども益やくなし。 たゞ身みにしたがふものは後悔こうかいのなみだ也なり。

つゐに閻えん魔まの庁ちょうにいたりぬれば、 つみの浅深せんじんをさだめ、 業ごうの軽重きょうじゅうをかんがへらる。 法王ほうおう罪人ざいにんにとひていはく、 なんぢ仏法ぶっぽう流布るふの世よにむまれて、 なんぞ修しゅ行ぎょうせずして、 いたづらに返かえりきたるや。

その時ときには、 われらいかゞこたへんとする。 すみやかに0620出しゅつ要ようをもとめて、 むなしく返かえる事ことなかれ。

そもそも一代いちだい諸しょ教きょうのうち、 顕けん宗しゅう・密みっ宗しゅう、 大だい乗じょう・小乗しょうじょう、 権ごん教きょう・実じっ教きょう、 部ぶ八はっ宗しゅうにわかれ、 義ぎ万差まんじゃにつらなりて、 あるいは万法ばんぽう皆空かいくうの宗しゅうをとき、 あるいは諸法しょほう実相じっそうの心しんをあかし、 あるいは五ご性しょう各別かくべつの義ぎをたて、 あるいは悉しつ有う仏ぶっ性しょうの理りを談だんじ、 宗々しゅうしゅうに究く竟きょう至し極ごくの義ぎをあらそひ、 各々かくかくに甚深じんじん正しょう義ぎに宗しゅうを論ろんず。

みなこれ経きょう論ろんの実じつ語ご也なり。 そもそも又また如来にょらいの金言きんげん也なり。 あるいは機きをとゝのへてこれをとき、 あるいは時ときをかゞみてこれをおしへ給たまへり。 いづれかあさく、 いづれかふかき、 ともに是非ぜひをわきまへがたし。 かれも教きょうこれも教きょう、 たがひに偏へん執しゅうをいだく事ことなかれ。

説せつのごとく修しゅ行ぎょうせば、 みなことごとく生しょう死じを過度かどすべし。 法ほうのごとく修しゅ行ぎょうせば、 ともにおなじく菩ぼ提だいを証しょう得とくすべし。 修しゅせずしていたづらに是非ぜひを論ろんず、 たとへば目めしゐたる人ひとのいろの浅深せんじんを論ろんじ、 みゝしゐたる人ひとのこゑの好こう悪おをいはんがごとし。 たゞすべからく修しゅ行ぎょうすべし、 いづれも生しょう死じ解げ脱だつのみち也なり。

しかるにいま、 かれを学がくする人ひとはこれをそねみ、 これを誦じゅする人ひとはかれをそしる。 愚ぐ鈍どんのもの、 これがためにまどひやすく、 浅才せんさいの身み、 これがためにわきまへがたし。 たまたま一法いっぽうにおもむきて功こうをつまんとすれば、 すなはち諸しょ宗しゅうのあらそひたがひにきたる。 ひろく0621諸しょ教きょうにわたりて義ぎを談だんぜんとおもへば、 一いち期ごのいのちくれやすし。

かの蓬莱ほうらい・方ほう丈じょう・瀛えい州しゅうといふなる三みつの山やまにこそ、 不死ふしの薬くすりはありときけ。 かれを服ぶくしてまれ、 いのちをのべて漸々ぜんぜんに習ならはゞやと思おもへども、 たづぬべきかたもおぼへず。 もろこしに、 秦皇しんこう・漢かん武ぶときこへし御ご門もん、 これをきゝてたづねにつかはしたりしかども、 童男どうなん・丱女かんじょ、 ふねのうちにして、 とし月つきをおくりき。 彭ほう祖そが七しち百ひゃく歳さいの法ほう、 むかしがたりにて、 いまの時ときにつたへがたし。

曇鸞どんらん法ほっ師しと申もうせし人ひとこそ、 仏法ぶっぽうのそこをきわめたりし。 人ひとのいのちはあしたを期ごしがたしとて、 仏法ぶっぽうをならはんがために、 長ちょう生せいの仙せんの法ほうをばつたへ候そうらひけれ。

時ときに菩ぼ提だい流支るしと申もうす三蔵さんぞうましましき。 曇鸞どんらんかの三蔵さんぞうの御おんまへにまうでゝ申もうし給たまふやうは、 仏法ぶっぽうのなかに長ちょう生せい不死ふしの法ほう、 この土どの仙せん経ぎょうにすぎたるありやとゝひ給たまひければ、 三蔵さんぞう、 地ちにつわきをはきての給たまはく、 この方ほうにはいづくんぞところに長ちょう生せいの法ほうあらん。 たとひ長ちょう年ねんをえてしばらくしなずとも、 つゐに三さん有ぬに輪りん廻ねすとの給たまひて、 すなはち ¬観かん无む量りょう寿じゅ経きょう¼ をさづけて、 大仙だいせんの法ほう也なり、 これによりて修しゅ行ぎょうすれば、 さらに生しょう死じを解げ脱だつすべしとの給たまひき。

曇鸞どんらんこれをつたへて、 仙法せんぽうをたちまちに火ひにやきて、 これをすつ。 ¬観かん无む量りょう寿じゅ経きょう¼ によりて、 浄じょう土どの行ぎょうをしるし給たまひき。 そのゝち曇鸞どんらん・道どう綽しゃく・善導ぜんどう・懐え感かん・少しょう康こう等とうにい0622たるまで、 このながれをつたへ給たまへり。

そのみちをおもひて、 いのちをのべて大仙だいせんの法ほうをとらんとおもふに、 又また道どう綽しゃく禅ぜん師じの ¬安楽あんらく集しゅう¼ にも聖しょう道どう・浄じょう土どの二に門もんをたて給たまふは、 この心こころなり。 その聖しょう道どう門もんといふは、 穢土えどにして煩悩ぼんのうを断だんじて菩ぼ提だいにいたる也なり。 浄じょう土ど門もんといふは、 浄じょう土どにむまれて、 かしこにして煩悩ぼんのうを断だんじて菩ぼ提だいにいたる也なり。

いまこの浄じょう土ど宗しゅうについてこれをいへば、 又また ¬観かん経ぎょう¼ にあかすところの業因ごういん一ひとつにあらず、 三福さんぷく九く品ぼん・十じゅう三さん定じょう善ぜん、 その行ぎょうしなじなにわかれて、 その業ごうまちまちにつらなれり。

まづ定じょう善ぜん十じゅう三観さんがんといふは、 日想にっそう・水想すいそう・地じ想そう・宝樹ほうじゅ・宝ほう池ち・宝楼ほうろう・花座けざ・仏想ぶっそう・真身しんしん・観音かんのん・勢せい至し・普ふ観かん・雑観ぞうかん、 これ也なり。

つぎに散善さんぜん九く品ぼんといふは、 一いちには孝きょう養よう父母ぶも、 奉事ぶじ師し長ちょう、 慈じ心しん不ふ殺せつ、 修しゅ十じゅう善業ぜんごう、 二にには受じゅ持じ三さん帰き、 具ぐ足そく衆戒しゅかい、 不ふ犯ぼん威儀いぎ、 三さんには発ほつ菩ぼ提だい心しん、 深信じんしん因いん果が、 読誦どくじゅ大だい乗じょう、 勧進かんじん行ぎょう者じゃ也なり。

九く品ぼんは、 かの三福さんぷくの業ごうを開かいしてその業因ごういんにあつ。 つぶさには ¬観かん経ぎょう¼ に見みえたり。

総そうじてこれをいへば、 定じょう散さん二に善ぜんのなかにもれたる往おう生じょうの行ぎょうはあるべからず。 これによりて、 あるいはいづれにもあれ、 たゞ有う縁えんの行ぎょうにおもむきて功こうをかさねて、 心こころにひかん法ほうによりて行ぎょうをはげまば、 みなことごとく往おう生じょうをとぐべし。 さらにうたばひをなす事ことなか0623れ。

いましばらく自じ法ほうにつきてこれをいはゞ、 まさにいま定じょう善ぜんの観門かんもんは、 かすかにつらなりて十じゅう三さんあり。 散善さんぜんの業因ごういんは、 まちまちにわかれて九く品ぼんあり。 その定じょう善ぜんの門もんにいらんとすれば、 すなはち意馬いめあれて六塵ろくじんの境きょうにはす。 かの散善さんぜんの門もんにのぞまんとすれば、 又また心猿しんえんあそんで十じゅう悪あくのえだにうつる。 かれをしづめんとすれどもえず、 これをとゞめんとすれどもあたはず。

いま下げ三品さんぼんの業因ごういんを見みれば、 十じゅう悪あく・五ご逆ぎゃくの衆しゅ生じょう、 臨りん終じゅうに善ぜん知ぢ識しきにあひて、 一いっ声しょう・十じっ声しょう阿あ弥陀みだ仏ぶつの名みょう号ごうをとなへて往おう生じょうすとゝかれたり。 これなんぞわれらが分ぶんにあらざらんや。

かの釈しゃくの雄ゆう俊しゅんといひし人ひとは、 七度ななたび還俗げんぞくの悪人あくにん也なり。 いのちおはりてのち、 獄率ごくそつ、 閻えん魔まの庁ちょう庭ていにゐてゆきて、 南なん閻えん浮ぶ提だい第一だいいちの悪人あくにん、 七度ななたび還俗げんぞくの雄ゆう俊しゅんゐてまいりてはんべりと申もうしければ、 雄ゆう俊しゅん申もうしていはく、 われ在ざい生しょうの時とき、 ¬観かん无む量りょう寿じゅ経きょう¼ を見みしかば、 五ご逆ぎゃくの罪人ざいにん、 阿あ弥陀みだほとけの名みょう号ごうをとなへて極楽ごくらくに往おう生じょうすと、 まさしくとかれたり。 われ七度ななたび還俗げんぞくすといへども、 いまだ五ご逆ぎゃくをばつくらず、 善根ぜんごんすくなしといへども、 念仏ねんぶつ十じっ声しょうにすぎたり。 雄ゆう俊しゅんもし地じ獄ごくにおちば、 三さん世ぜ諸仏しょぶつ、 妄もう語ごのつみにおち給たまふべしと高こう声しょうにさけびしかば、 法王ほうおうは理りにおそれて、 たまのかぶりをかたぶけてこれをおがみ、 弥陀みだはちかひによりて金蓮こんれんにのせてむかへ給たまひき。

いはんや、 七度ななたび還俗げんぞくにおよばざら0624んをや、 いはんや、 一いち形ぎょう念仏ねんぶつせんをや。 「男女なんにょ・貴き賎せん、 行住ぎょうじゅう坐臥ざがをえらばず、 時じ処しょ諸縁しょえんを論ろんぜず、 これを修しゅするにかたからず、 乃ない至し、 臨りん終じゅうに往おう生じょうを願がん求ぐするに、 そのたよりをえたり」 (要集巻下) と、 楞りょう厳ごんの先徳せんどくのかきおき給たまへる、 ま事ことなるかなや。

又また善導ぜんどう和か尚しょう、 この ¬観かん経ぎょう¼ を釈しゃくしての給たまはく、 「娑しゃ婆ばの化け主しゅ、 その請しょうによるがゆへにひろく浄じょう土どの要門ようもんをひらき、 安楽あんらくの能人のうにん、 別べっ意ちの弘ぐ願がんをあらはす。 その要門ようもんといはすなはちこの ¬観かん経ぎょう¼ の定じょう散さん二に門もんこれ也なり。 定じょうはすなはちおもひをやめてもて心こころをこらし、 散さんはすなはち悪あくを廃はいして善ぜんを修しゅす。 この二に行ぎょうをめぐらして往おう生じょうをもとめねがふ也なり。

弘ぐ願がんといは ¬大だい経きょう¼ にとくがごとし。 一切いっさい善悪ぜんあくの凡ぼん夫ぶのむまるゝ事ことをうるもの、 みな阿あ弥陀みだ仏ぶつの大願だいがん業力ごうりきに乗じょうじて増じょう上じょう縁えんとせずといふ事ことなし。 又またほとけの密みっ意ち弘ぐ深じんにして、 教きょう文もんさとりがたし。 三賢さんげん・十じっ聖しょうもはかりてうかゞふところにあらず。 いはんやわれ信しん外げの軽きょう毛もう也なり、 さらに旨趣しいしゅをしらんや。 あふいでおもんみれば、 釈しゃ迦かはこの方ほうにして発遣はっけんし、 弥陀みだはかのくにより来迎らいこうし給たまふ。 こゝにやりかしこによばふ。 あにさらざるべけんや」 (玄義分) といへり。 しかれば、 定じょう善ぜん・散善さんぜん・弘ぐ願がんの三門さんもんをたて給たまへり。

その弘ぐ願がんといは、 ¬大だい経きょう¼ (巻上) に云いはく、 「設せつ我が得仏とくぶつ、 十方じっぽう衆しゅ生じょう、 至し心しん信しん楽ぎょう、 欲よく生しょう我が国こく、 乃ない至し十じゅう念ねん、 若にゃく不ふ生しょう者じゃ、 不ふ取しゅ正しょう覚がく、 唯ゆい除じょ五ご逆ぎゃく、 誹ひ謗ほう0625正しょう法ぼう」 といへり。

善導ぜんどう釈しゃくしていはく、 「若にゃく我が成じょう仏ぶつ、 十方じっぽう衆しゅ生じょう、 称しょう我が名みょう号ごう下至げし十じっ声しょう、 若にゃく不ふ生しょう者じゃ不ふ取しゅ正しょう覚がく。 彼ひ仏ぶつ今こん現在げんざい世せ成じょう仏ぶつ。 当とう知ち、 本誓ほんぜい重じゅう願がん不虚ふこ、 衆しゅ生じょう称しょう念ねん必得ひっとく往おう生じょう。」 (礼讃) 云云 ¬観かん経ぎょう¼ の定じょう散さん両りょう門もんをときおはりて、 「仏告ぶつごう阿あ難なん、 汝にょ、 好こう持じ是語ぜご。 持じ是語ぜご者しゃ、 即そく是ぜ持じ无む量りょう寿仏じゅぶつ名みょう。」云云 これすなはちさきの弘ぐ願がんの心こころ也なり。

又またおなじき ¬経きょう¼ (礼讃) の真身しんしん観かんには、 「弥陀みだ身色しんじき如にょ金山こんぜん、 相好そうごう光こう明みょう照しょう十方じっぽう、 唯ゆい有う念仏ねんぶつ蒙もう光こう摂しょう、 当とう知ち本願ほんがん最さい為い強ごう。」云云 又またこれさきの弘ぐ願がんのゆへなり。

¬阿あ弥陀みだ経きょう¼ にいはく、 「不可ふか以い少しょう善根ぜんごん福徳ふくとく因縁いんねん得とく生しょう彼ひ国こく。 若にゃく善ぜん男なん子し・善ぜん女人にょにん、 聞説もんせつ阿あ弥陀みだ仏ぶつ、 執しゅう持じ名みょう号ごう、 若にゃく一日いちにち、 若にゃく二に日にち乃ない至し七日しちにち、 一心いっしん不ふ乱らん、 其ご人にん命終みょうじゅう時じ、 心しん不ふ顛倒てんどう、 即得そくとく往おう生じょう。」云云 つぎの文もんに、 「六方ろっぽうにおのおの恒ごう河が沙しゃの仏ぶつましまして、 広こう長じょう舌相ぜっそうを出いだして、 あまねく三千さんぜん大千だいせん世せ界かいにおほひて、 誠じょう実じつの事こと也なり、 信しんぜよ」 (意) と証誠しょうじょうし給たまへり。 これ又またさきの弘ぐ願がんのゆへ也なり。

又また ¬般舟はんじゅ三昧ざんまい経きょう¼ (一巻本聞事品意) にいはく、 「跋ばつ陀和だわ菩ぼ薩さつ、 阿あ弥陀みだにとひていはく、 いかなる法ほうを行ぎょうじてか、 かのくにゝむまるべきと。 阿あ弥陀みだほとけの給たまはく、 わがくにゝ来らい生しょうせんとおもはんものは、 つねに御名みなを念ねんじてやすむ事ことなかれ。 かくのごとくして、 わがくにゝ来らい生しょうする事ことをう」 との給たまへり。 これ又また弘ぐ願がんのむねを、 かのほとけみづからの給たまへり。

又また五ご台たい山ざんの ¬大だい聖しょう竹林ちくりん寺じの記き¼ にいはく、 「法ほっ照しょう禅ぜん師じ、 清しょう0626涼りょう山ざんにのぼりて大だい聖しょう竹林ちくりん寺じにいたる。 こゝに二人ふたりの童どう子じあり、 一人ひとりをば善財ぜんざいといひ、 一人ひとりをば難なん陀だといふ。 この二人ふたりの童どう子じ、 法ほっ照しょう禅ぜん師じをみちびきて、 寺てらのうちにいれて、 漸々ぜんぜんに講堂こうどうにいたりて見みれば、 普ふ賢げん菩ぼ薩さつ、 无む数しゅの眷属けんぞくに囲い繞にょうせられて坐ざし給たまへり。 文もん殊じゅ師利しりは、 一万いちまんの菩ぼ薩さつに囲い繞にょうせられて坐ざし給たまへり。

法ほっ照しょう礼らいしてとひたてまつりていはく、 末法まっぽうの凡ぼん夫ぶはいづれの法ほうをか修しゅすべき。 文もん殊じゅ師利しりこたへての給たまはく、 なんぢすでに念仏ねんぶつせよ、 いままさしくこれ時とき也なりと。

法ほっ照しょう又またとひていはく、 まさにいづれをか念ねんずべきと。 文もん殊じゅ又またの給たまはく、 この世せ界かいをすぎて西方さいほうに阿あ弥陀みだ仏ぶつまします。 かのほとけに願がんふかくまします、 なんぢまさに念ねんずべし」 と。

大だい聖しょう文もん殊じゅ、 法ほっ照しょう禅ぜん師じにまのあたりの給たまひし事こと也なり。 すべてひろくこれをいへば、 諸しょ教きょうにあまねく修しゅせしめたる法門ほうもん也なり。 つぶさにあぐるにいとまあらず。

しかるをこのごろ、 念仏ねんぶつのよにひろまりたるによりて仏法ぶっぽううせなんとすと、 諸しょ宗しゅうの学者がくしゃ難なん破ぱをいたすによりて、 人ひとおほく念仏ねんぶつの行ぎょうを廃はいすときこゆ、 いまだ心こころえずはんべり。

仏法ぶっぽうはこれ万年まんねん也なり、 うしなはんとおもふとも、 仏法ぶっぽう擁よう護ごの諸天しょてん善神ぜんじんまぼり給たまふゆへに、 人ひとのちからにてはかなふべからず。 かの守もり谷やの大臣おおおみが、 仏法ぶっぽうを破は滅めつせんとせしかども、 法ほう命みょういまだつきずして、 いまにつたはるがごとし。 いはん0627や、 无智むちの道俗どうぞく・在ざい家けの男女なんにょのちからにて念仏ねんぶつを行ぎょうずるによりて、 法相ほっそう・三論さんろんも隠没おんもつし、 天臺てんだい・華け厳ごんも廃はいする事こと、 なじかはあるべき。

念仏ねんぶつを行ぎょうぜずしてゐたらば、 このともがらは一いっ宗しゅうをも興こう隆りゅうすべきかは。 たゞいたづらに念仏ねんぶつの業ごうを廃はいしたるばかりにて、 またくそれ諸しょ宗しゅうのおぎろをもさぐるべからず。 しかれば、 これおほきなる損そんにあらずや。

諸しょ宗しゅうのふかきながれをくむ南なん都と・北ほっ京きょうの学者がくしゃ、 両りょう部ぶの大法だいほうをつたへたる本ほん寺じ・本山ほんざんの禅ぜん徒と、 百ひゃく千万せんまんの念仏ねんぶつ世よにひろまりたりとも、 本ほん宗しゅうをあらたむべきにあらず、 又また仏法ぶっぽううせなんとすとて仏法ぶっぽうを廃はいせば、 念仏ねんぶつはこれ仏法ぶっぽうにあらずや。

たとへば虎こ狼ろうの害がいをにげて、 師子ししにむかひてはしらんがごとし。 余よ行ぎょうを謗ほうじ念仏ねんぶつを謗ほうぜん、 おなじくこれ逆ぎゃく罪ざい也なり。 とら・おほかみに害がいせられん、 師子ししに害がいせられん、 ともにかならず死しすべし。 これをも謗ほうずべからず、 かれをもそねむべからず。 ともにみな仏法ぶっぽう也なり、 たがひに偏へん執しゅうする事ことなかれ。

¬像法ぞうぼう決けつ疑ぎ経きょう¼ にいはく、 「三学さんがくの行ぎょう人にんたがひに毀き謗ほうして地じ獄ごくにいる事こと、 ときやのごとし」 といへり。 又また ¬大だい経きょう¼ (大智度論巻一初品) にいはく、 「自じ法ほうを愛染あいぜんするゆへに、 他た人にんを毀呰きしすれば、 持じ戒かいの行ぎょう人にんも、 地じ獄ごくの苦くをまぬかれず」 といへり。

又また善導ぜんどう和か尚しょうのの給たまはく、

「世せ尊そん説法せっぽう時じ将了しょうりょう慇懃おんごん付ふ属ぞく弥陀みだ名みょう
0628五ご濁じょく増ぞう時じ多た疑ぎ謗ほう道俗どうぞく相簡そうけん不ふ用聞ようもん
見けん有う修しゅ行ぎょう起き瞋毒しんどく方便ほうべん破壊はえ競生きょうしょう怨おん
如にょ此し生しょう盲もう闡提せんだい輩はい毀き滅めつ頓とん教ぎょう永よう沈淪ちんりん
超ちょう過か大だい地じ微み塵じん劫ごう未可みか得とく離り三さん塗ず身しん」 (法事讃巻下)

といへり。

念仏ねんぶつを修しゅせんものは、 余よ行ぎょうをそしるべからず。 そしらばすなはち、 弥陀みだの悲ひ願がんにそむくべきゆへなり。 余よ行ぎょうを修しゅせん物ものも、 念仏ねんぶつをそしるべからず。 又また諸仏しょぶつの本誓ほんぜいにたがふがゆへなり。

しかるをいま、 真言しんごん・止し観かんの窓まどのまへには念仏ねんぶつの行ぎょうをそしる、 一向いっこう専念せんねんの床ゆかのうゑには諸しょ余よの行ぎょうをそしる、 ともに我々がが偏へん執しゅうの心こころをもて義理ぎりをたて、 たがひにおのおの是非ぜひのおもひに住じゅうして会え釈しゃくをなす。 あにこれ正しょう義ぎにかなはんや、 みなともに仏ぶつ意いにそむけり。

つぎに又また難者なんじゃのいはく、 今来このごろの念仏ねんぶつ者しゃ、 わたくしの義ぎをたてゝ悪業あくごうをおそるゝは、 弥陀みだの本願ほんがんを信しんぜざる也なり、 数遍しゅへんをかさぬるは、 一念いちねんの往おう生じょうをうたがふ也なり。 行ぎょう業ごうをいへば、 一念いちねん・十じゅう念ねんにたりぬべし。 かるがゆへに数遍しゅへんをつむべからず。 悪業あくごうをいへば、 四し重じゅう・五ご逆ぎゃくなをむまるゝゆへに、 諸悪しょあくをはゞかるべからずといへり。

この義ぎまたくしかるべからず、 釈しゃく尊そんの説法せっぽうにも見みへず、 善導ぜんどうの釈しゃくにもあらず。 もしかく0629のごとく存ぞんぜんものは、 総そうじては諸仏しょぶつの御おん心こころにたがふべし、 別べっしては弥陀みだの本願ほんがんにかなふべからず。

その五ご逆ぎゃく・十じゅう悪あくの衆しゅ生じょうの、 一念いちねん・十じゅう念ねんによりて、 かのくにに往おう生じょうすといふは、 これ ¬観かん経ぎょう¼ のあきらかなる文もん也なり。 たゞし五ご逆ぎゃくをつくりて十じゅう念ねんをとなへよ、 十じゅう悪あくをおかして一念いちねんを申もうせとすゝむるにはあらず。 それ十重じゅうじゅうをたもちて十じゅう念ねんをとなへよ、 四し十じゅう八はち軽きょうをまぼりて四し十じゅう八願はちがんをたのむは、 心こころにふかくこひねがふところ也なり。

およそいづれの行ぎょうをもはらにすとも、 心こころに戒かい行ぎょうをたもちて浮ふ囊のうをまぼるがごとくにし、 身みの威儀いぎに油ゆ鉢はつをかたぶけずは、 行ぎょうとして成じょう就じゅせずといふ事ことなし、 願がんとして円満えんまんせずといふ事ことなし。 しかるをわれら、 あるいは四し重じゅうをおかし、 あるいは十じゅう悪あくを行ぎょうず。 かれもおかしこれも行ぎょうず、 一人いちにんとしてま事ことの戒かい行ぎょうを具ぐしたる物ものはなし。

「諸悪しょあく莫まく作さ諸善しょぜん奉ぶ行ぎょう」 は、 三さん世ぜの諸仏しょぶつの通戒つうかい也なり。 善ぜんを修しゅするものは善趣ぜんしゅの報ほうをえ、 悪あくを行ぎょうずる物ものは悪道あくどうの果かを感かんずといふ。 この因いん果がの道どう理りをきけども、 きかざるがごとし。 はじめていふにあたはず。

しかれども、 分ぶんにしたがひて悪業あくごうをとゞめよ。 縁えんにふれて念仏ねんぶつを行ぎょうじ、 往おう生じょうを期ごすべし。 悪人あくにんをすてられずは、 善人ぜんにんなんぞきらはん。 つみをおそるゝは本願ほんがんをうたがふと、 この宗しゅうにまたく存ぞんぜざるところ也なり。

つ0630ぎに一念いちねん・十じゅう念ねんによりてかのくにゝ往おう生じょうすといふは、 釈しゃく尊そんの金言きんげん也なり、 ¬観かん経ぎょう¼ のあきらかなる文もん也なり。

善導ぜんどう和か尚しょうのいはく、 「下至げし十じっ声しょう等とう、 定じょう得とく往おう生じょう、 乃ない至し一念いちねん无有むう疑ぎ心しん。 故こ名みょう深心じんしん」 (礼讃) といへり。 又またいはく、 「行住ぎょうじゅう坐臥ざが不ふ問もん時じ節せつ久く近ごん念々ねんねん不ふ捨しゃ者しゃ、 是ぜ名みょう正定しょうじょう之し業ごう、 順じゅん彼ぴ仏願ぶつがん故こ」 (散善義) といへり。

しかれば、 信しんを一念いちねんにむまるとゝりて、 行ぎょうをば一いち形ぎょうはげむべしとすゝむる也なり。 弥陀みだの本願ほんがんを信しんじて、 念仏ねんぶつの功こうをつもり、 運心うんしんとしひさしくは、 なんぞ願力がんりきを信しんぜずといふべきや。 すべて博はく地じの凡ぼん夫ぶ、 弥陀みだの浄じょう土どにむまれん事こと、 他た力りきにあらずはみな道みちたえたるべき事こと也なり。

およそ十方じっぽう世せ界かいの諸仏しょぶつ善逝ぜんぜい、 穢土えどの衆しゅ生じょうを引導いんどうせんがために、 穢土えどにして正しょう覚がくをとなへ、 浄じょう土どにして正しょう覚がくをなりて、 しかも穢土えどの衆しゅ生じょうを引導いんどうせんといふ願がんをたて給たまへり。

その穢土えどにして正しょう覚がくをとなふれば、 随類ずいるい応同おうどうの相そうをしめすがゆへに、 いのちながゝらずして、 とく涅ね槃はんにいりぬれば、 報仏ほうぶつ・報ほう土どにして地じ上じょうの大だい菩ぼ薩さつの所しょ居ご也なり。 未み断惑だんわくの凡ぼん夫ぶは、 たゞちにむまるゝ事ことあたはず。 しかるをいま浄じょう土どを荘しょう厳ごんし、 仏道ぶつどうを修しゅ行ぎょうするは、 凡ぼん位いはもと造悪ぞうあく不ふ善ぜんのともがら也なり。 輪転りんでんきはまりなからんを引導いんどうし、 破は戒かい浅せん智ちのやからの出しゅつ離りの期ごなからんをあはれまんがため也なり。

もしその三賢さんげんを証しょうし、 十じゅう地じをきわめたる久く行ぎょうの聖しょう人にん、 深じん位いの菩ぼ薩さつの六ろく度ど万まん行ぎょうを具ぐ足そくし、 諸しょ0631波羅はら蜜みつを修しゅ行ぎょうしてむまるゝといはば、 これ大だい悲ひの本ほん意いにあらず。 この修因しゅいん感かん果かのことわりを、 大だい慈じ大だい悲ひの御おん心こころのうちに思し惟ゆいして、 年序ねんじょをそらにつもりて、 星霜せいそう五ご劫こうにおよべり。

しかるを善ぜん巧ぎょう方便ほうべんをめぐらして、 思し惟ゆいし給たまへり。 しかもわれ別願べつがんをもて浄じょう土どに居こして、 博はく地じ底てい下げの衆しゅ生じょうを引導いんどうすべし。 その衆しゅ生じょうの業力ごうりきによりて、 むまるゝといはゞかたかるべし。 我われ、 須すべからくは衆しゅ生じょうのために永劫ようごうの修しゅ行ぎょうをゝくり、 僧そう祗ぎの苦く行ぎょうをめぐらして万まん行ぎょう万善まんぜんの果か徳とく円満えんまんし、 自じ覚かく覚かく他たの覚かく行ぎょう窮満ぐうまんして、 その成じょう就じゅせんところの万徳まんどく无漏むろの一切いっさいの功く徳どくをもてわが名みょう号ごうとして、 衆しゅ生じょうにとなへしめん。

衆しゅ生じょうもしこれにおいて信しんをいたして称しょう念ねんせば、 わが願がんにこたへてむまるゝ事ことをうべし。 名みょう号ごうをとなへばむまるべき別願べつがんをおこして、 その願がん成じょう就じゅせば、 仏ぶつになるべきがゆへ也なり。 この願がんもし満足まんぞくせずは、 永劫ようごうをふともわれ正しょう覚がくをとらじ。 たゞし未み来らい悪あく世せの衆しゅ生じょう、 憍きょう慢まん懈け怠だいにして、 これにおいて信しんをおこす事ことかたかるべし。 一仏いちぶつ二に仏ぶつのとき給たまはんに、 おそらくはうたがふ心こころをなさん事ことを。

ねがはくは、 われ十方じっぽう諸仏しょぶつにことごとくこの願がんを称しょう揚ようせられたてまつらんとちかひて、 第だい十じゅう七しちの願がんに、 「設せつ我が得仏とくぶつ、 十方じっぽう无む量りょう諸仏しょぶつ、 不ふ悉しつ咨し嗟しゃ、 称しょう我が名みょう者しゃ、 不ふ取しゅ正しょう覚がく」 (大経巻上) とたて給たまひて、 つぎに第だい十じゅう八はち願がんの 「乃ない至し十じゅう念ねん、 若にゃく不ふ生しょう者じゃ、 不ふ取しゅ正しょう覚がく」 (大経巻上) とたて給たまへり。

そ0632のむね、 无む量りょうの諸仏しょぶつに称しょう揚ようせられたてまつらんとたて給たまへり。 願がん成じょう就じゅするゆへに、 六方ろっぽうにおのおの恒ごう河が沙しゃのほとけましまして、 広こう長じょう舌相ぜっそうを出いだして、 あまねく三千さんぜん大千だいせん世せ界かいにおほひて、 みなおなじくこの事ことをま事ことなりと証誠しょうじょうし給たまへり。

善導ぜんどうこれを釈しゃくしての給たまはく、 「もしこの証しょうによりてむまるゝ事ことをえずは、 六方ろっぽうの諸仏しょぶつののべ給たまへるした、 口くちよりいでおはりてのち、 つゐに口くちに返かえりいらずして、 自じ然ねんにやぶれみだれん」 (観念法門) との給たまへり。

これを信しんぜざらん物ものは、 すなはち十方じっぽう恒沙ごうじゃの諸仏しょぶつの御みしたをやぶる也なり。 よくよく信しんずべし。 一仏いちぶつ二に仏ぶつの御みしたをやぶらんだにもあり、 いかにいはんや、 十方じっぽう恒沙ごうじゃの諸仏しょぶつをや。

「大だい地じ微み塵じん劫ごうを超ちょう過かすとも、 いまだ三さん途ずの身みをはなるべからず」 (法事讃巻下) との給たまへり。

弥陀みだの四し十じゅう八願はちがんといは、 无む三さん悪趣まくしゅ、 不ふ更きょう悪趣あくしゅ、 乃ない至し念仏ねんぶつ往おう生じょう等とうの願がん、 これ也なり。 すべて四し十じゅう八願はちがんのなかに、 いづれの願がんか一ひとつとして成じょう就じゅし給たまはぬ願がんあるべき、 願がんごとに 「不ふ取しゅ正しょう覚がく」 とちかひて、 いますでに正しょう覚がくをなり給たまへる故ゆえ也なり。

然しかるを无む三さん悪趣まくしゅの願がんを信しんぜずして、 かの国くにに三さん悪道まくどうありと云いう物ものはなし。 不ふ更きょう悪趣あくしゅの願がんを信しんぜずして、 かのくにゝ衆しゅ生じょういのちおはりてのち、 又また悪道あくどうに返かえるといふ物ものはなし。

悉皆しっかい金色こんじきの願がんを信しんぜずして、 かのくにの衆しゅ生じょうは金色こんじきなるもあり、 白びゃく色しきなるもありといふ物ものはなし。 无有むう好醜こうしゅの願がんを信しんぜず0633して、 かのくにの衆しゅ生じょうは、 かたちよきもあり、 わろきもありといふ物ものはなし。

乃ない至し天眼てんげん・天てん耳に、 光こう明みょう・寿じゅ命みょうおよび得とく三さん法忍ぼうにんの願がんにいたるまで、 これにおいてうたがひをなす物ものはいまだはんべらず。 たゞ第だい十じゅう八はち願がんにおいて、 念仏ねんぶつ往おう生じょうの願がん一ひとつを信しんぜざる也なり。

この願がんをうたがはゞ、 余よの願がんをも信しんずべからず。 余よの願がんを信しんぜ[ば、] この一願いちがんをうたがふべけんや。 法蔵ほうぞう比丘びくいまだほとけになり給たまはずといはゞ、 これ謗法ほうぼうになりなんかし。 もし又またなり給たまへりといはゞ、 いかゞこの願がんをうたがふべきや。

四し十じゅう八願はちがんの弥陀みだ善逝ぜんぜいは、 正しょう覚がくを十劫じっこうにとなへ給たまへり。 六方ろっぽう恒沙ごうじゃの諸仏しょぶつ如来にょらいは、 舌相ぜっそうを三千さんぜん世せ界かいにのべ給たまへり。 たれかこれを信しんぜざるべきや。

善導ぜんどうこの信しんを釈しゃくしての給たまはく、 「化け仏ぶつ・報仏ほうぶつ、 若にゃく一いち、 若にゃく多た、 乃ない至し、 十方じっぽうに遍へんして、 ひかりをかゞやかし、 したをはきてあまねく十方じっぽうにおほひて、 この事こと虚こ妄もうなりとの給たまはんにも、 畢ひっ竟きょうじて、 一念いちねん疑ぎ退たいの心こころをおこさじ」 (散善義意) との給たまへり。

しかるをいま行ぎょう者じゃたち、 異い学がく・異い見けんのために、 たやすくこれをやぶらる、 いかにいはんや、 報仏ほうぶつ・化け仏ぶつのゝ給たまはんをや。

そもそもこの行ぎょうをすてば、 いづれのおこなひにかおもむき候そうろうべき。 智慧ちえなければ、 聖教しょうぎょうをひらくにまなこくらし。 財宝ざいほうなければ、 布施ふせを行ぎょうずるにちからなし。

むかし波羅はら奈な国こくに太たい子しありき、 大だい施せ太たい子しと申もうしき。 貧人ひんにん0634をあはれみて、 くらをひらきてもろもろのたからを出いだしてあたへ給たまふに、 たからはつくれども、 まづしき物ものはつくべからず。

こゝに太たい子し、 うみのなかに如にょ意い宝珠ほうしゅありときく。 海うみにゆきてもとめて、 まづしきたみにたからをあたへんとちかひて、 竜りゅう宮ぐにゆき給たまふに、 龍りゅう王おうおどろきあやしみて、 おぼろげの人ひとにはあらずといひて、 みづからむかひて、 たからのゆかにすえたてまつり、 はるかにきたり給たまへる心こころざし、 何事なにごとをもとめ給たまふぞとゝへば、

太たい子しの給たまはく、 閻えん浮ぶ提だいの人ひと、 まづしくてくるしむ事ことおほし、 王おうのもとゞりのなかの宝珠ほうしゅをこはんがためにきたる也なりとの給たまへば、 王おうのいはく、 しからば、 七日しちにちこゝにとゞまりて、 わが供く養ようをうけ給たまへ、 そのゝちたからをたてまつらんといふ。

太たい子し、 七日しちにちをへてたまをえ給たまひぬ。 竜りゅう神じんそこよりおくりたてまつる、 すなはち本国ほんごくのきしにいたりぬ。

こゝにもろもろの竜りゅう神じんなげきていはく、 このたまは海かい中ちゅうのたから也なり、 なをとり返かえしてぞよかるべきとさだむ。 海神かいじん、 人ひとになりて太たい子しの御おんまへにきたりていはく、 君きみよにまれなるたまをえ給たまへり。 とくわれに見みせ給たまへといふ。 太たい子しこれを見みせ給たまふに、 うばひとりてうみへいりぬ。

太たい子しなげきてちかひていはく、 なんぢもしたまを返かえさずんば、 うみをくみほさんといふ。 海神かいじんいでゝわらひていはく、 なんぢはもともおろかなる0635人ひとかな。 そらの日ひをばおとしもしてん、 はやきせをばとゞめもしてん、 うみのみづをばつくすべからずといふ。

太たい子しの給たまはく、 恩愛おんないのたへがたきをもなをとゞめんとおもふ、 生しょう死じのつくしがたきをもなをつくさんとおもふ。 いはんや、 うみのみづおほしといふともかぎりあり。 もしこのよにくみつくさずは、 世々せせをへてもかならずくみつくさんとちかひて、 かいのからをとりてうみのみづをくむ。

ちかひの心こころまことなるがゆへに、 もろもろの天人てんにんことごとくきたりて、 あまのはごろものそでにつゝみて、 鉄てっ囲ち山せんのほかにくみをく。 太たい子し、 一度ひとたび二度ふたたびかいのからをもてくみ給たまふに、 海水かいすい十じゅう分ぶんが八分はちぶんはうせぬ。

竜りゅう王おう、 さわぎあはてゝ、 わがすみかむなしくなりなんとすとわびて、 たまを返かえしたてまつる。

太たい子し、 これをとりてみやこに返かえりて、 もろもろのたからをふらして、 閻えん浮ぶ提だいのうちにたからをふらさゞるところなし。

くるしきをしのぎて退たいせざりしかば、 これを精しょう進じん波羅はら蜜みつといふ。

むかしの太たい子しは、 万ばん里りのなみをしのぎて、 竜りゅう王おうの如にょ意い宝珠ほうしゅをえ給たまへり。 いまのわれらは、 二河にがの水すい火かをわけて、 弥陀みだ本願ほんがんの宝珠ほうしゅをえたり。

かれは竜りゅう神じんのくゐしがためにうばゝれ、 これは異い学がく・異い見けんのためにうばゝる。

かれはかいのからをもて大海たいかいをくみしかば、 六欲ろくよく四し禅ぜんの諸天しょてんきたりておなじくくみき、 これは信しんの手てをもて0636疑ぎ謗ほうの難なんをくまば、 六方ろっぽう恒沙ごうじゃの諸仏しょぶつきたりてくみし給たまふべし。

かれは大海たいかいのみづやうやくつきしかば、 竜りゅう宮ぐのいらかあらはれて如にょ意い宝珠ほうしゅを返かえしとりき、 これは疑ぎ難なんのなみことごとくつきなば、 謗ほう家けのいらかあらはれて本願ほんがんの宝珠ほうしゅを返かえしとるべし。

かれは返かえしとりて閻えん浮ぶ提だいにして貧びん窮ぐのたみをあはれみき、 これは返かえしとりて極楽ごくらくにむまれて博はく地じのともがらをみちびくべし。

ねがはくは、 もろもろの行ぎょう者じゃ、 弥陀みだ本願ほんがんの宝珠ほうしゅをいまだうばひとられざらん物ものは、 ふかく信心しんじんのそこにおさめよ。 もしすなはちとられたらんものは、 すみやかに深信じんしんの手てをもて疑ぎ謗ほうのなみをくめ。 たからをすてゝ手てをむなしくして返かえる事ことなかれ。

いかなる弥陀みだか、 十じゅう念ねんの悲ひ願がんをおこして十方じっぽうの衆しゅ生じょうを摂取せっしゅし給たまふ。 いかなるわれらか、 六ろく字じの名みょう号ごうをとなへて三輩さんぱいの往おう生じょうをとげざらん。 永劫ようごうの修しゅ行ぎょうはこれたれがためぞ、 功こうを未み来らいの衆しゅ生じょうにゆずり給たまふ。 超ちょう世せの悲ひ願がんは又またなんの料りょうぞ、 心こころざしを末法まっぽうのわれらにおくり給たまふ。

われらもし往おう生じょうをとぐべからずは、 ほとけあに正しょう覚がくをなり給たまふべしや、 われら又また往おう生じょうをとげましや。 われらが往おう生じょうはほとけの正しょう覚がくにより、 ほとけの正しょう覚がくはわれらが往おう生じょうによる。 「若にゃく不ふ生しょう者じゃ」 のちかひこれをもてしり、 「不ふ取しゅ正しょう覚がく」 のことばかぎりあるをや 云云。