0907蓮如上人塵拾鈔

実悟

 

信証院殿大谷殿砌事
 加賀国諸末寺事
 越中国寺事
 本泉寺事
 安芸法眼事加賀国錯乱事
 応仁乱事願成就院殿事
 本泉寺与和田蓮恵申事
          八ヶ条記

 

  信証院殿大谷殿砌事

蓮如上人は御若年のおりは 御方様と申、 御継母の義によりて、 事の外に御めいわくの御事にて侍り。 存如上人は、 御内衆もたゞ五人めしつかわれ候。 蓮如上人、 御方様と申たる時は、 壹人もめしつかわるべき様もなくて、 存如上人の御小者に竹若と申者を、 壹年に五十疋とらすべし、 つかはれよと御約速にて、 時々めしつかひ候つるが、 三十疋共くだされ候事成かね申、 やうやく十疋廿疋つかわされけると申候。 竹若、 心得の者に候き。

一 めし物もしかじかと侍らで、 御ぬのこ、 又は紙こをめされ候き。 こぶくめをめされ候て、 白き物の分に候し。 白御小袖に此をめされ候。 又其後は、 白き御小袖壹つさた候つれども、 しけぎぬにて候き。 紙にてうら0908をさせられ、 御袖口ばかりを絹にてすこしさせられて、 めされ候き。 此比は、 たれか加様に候べきや。 我人過分のしたてに成申候事、 御用の程ありがたき事にて候は、 いかんいかん。

一 きこしめし物も、 さんざんの御したてにて侍しとなり。 供御の御汁は、 御壹人の分、 御方のあなたよりまいらせられ候を、 水を入てのべさせられ、 御三人みなみなきこしめしたると申候。

一 御子たちはみなみな里やしないに、 あなたこなたにありつけまひらせられ候。 順如ば願成就院殿 かり御そばにおきまいらせ候はれ侍る。 蓮乗本泉寺 は南禅寺にてかつじき、 蓮綱松岡寺 けいかい( 華 開 )院にて御出家まします。 蓮誓光教寺 も同寺に喝食御成候。 蓮悟本泉寺 西向中山殿 とは、 丹波へ人のやしないまいらせ候。 其外を吉田の摂受庵に、 女房衆は比丘尼になし被申候事に候。

一 近江の金が森の道西と申せし人は、 後には従善と申候。 此人細々大谷殿へ参られ、 仏法者にて候つるが、 或時、 存如上人の御まへに此善伺公せられ侍る時、 蓮如上人御まねき候てめしよせられ、 御物語共候つる。 善ありがたく存知せられ、 常に金森へ御方様を申入られ聴聞候つるに、 在所の人々もおどろかれ、 仏法も此時よりいよいよひろまり申候き。 其時おさなき人々多くあつまりゐられ候中に壹人、 蓮如上人あれはたれぞと御たづね候つるに、 善被申候は、 私が甥にて候と被申上候へば、 利根さうのものぞ、 あれをわれにくれよかしと、 御意に候間、 やがて進上被申候まゝめしつれられ、 大谷殿へ御帰寺被成候て、 めしつかわれ候つるが、 慶聞坊龍玄にて候。 龍玄、 物語候つるは、 其比御膳などは、 一日に壹度まひらせ候時も候。 又一向きこしめすべき様もなくて、 まいらぬ事も候つる。 龍玄、 京へ出て、 油などは料簡候。 又なき時は、 くろ木を御焼候て、 正教などを御覧ぜられ候。 又は月夜の比は、 月0909の光にて御覧ぜられけると候つる。 ¬教行信証¼ 又は ¬六要抄¼ 等、 常に御覧ぜられ、 又 ¬安心決定鈔¼ は、 三部まで御覧じやぶらせられたる事に候。 左様に正教等御覧ぜられ、 存如上人へも法流の壹義、 慇にたづね参られけるとみへ申ける。 御相承之義あきらかに御座候つると見申候き。 存如上人御往生以後、 いよいよ御勧化ひろまり申候。 蓮如上人は十五の御年より、 是非共に聖人の法流は仰立られ候べきと思召候つると、 常に御意候へし御念力通申候て、 御繁昌候。 其後、 遠国へ御修行なされ、 越前の吉崎の御坊にて、 弥仏法ひろまり申候て、 「御文」 を御作させられ候事は、 安芸法眼被申候て御作候て、 各ありがたく存候。 かるがると愚痴のものゝ、 はやく心得まいらせ候様に、 千のものを百にゑらび、 百のものを十にえらばれ、 十のものを一に、 はやく聞分け申様にと被思召、 「御文」 にあそばし顕されて、 凡夫のすみやかに仏道なる事を、 仰せ立られたる御事に候。 開山聖人の御勧化、 いま一天四海にひろまり申事は、 蓮如上人の御念力によりたる御事候。

一 仏法ひろまり候に付て、 山門より一乱出来て、 大谷殿はやぶれ、 江州金森へ御下向の事候。 其後、 山門衆、 又聞分られ、 十六谷衆、 連判以被申事候て、 則大谷殿へ御還住候し。 其時大津に御座候て、 山科へ御うつり候時、 本寺山科へ御うつり候はゞ、 大津の在所もおとろふべきとて、 山科へはやり申さるまじきとて、 三井寺大津寺家の衆被申候によりて、 大津も本寺と等事たるべきよしにて、 開山聖人の等身の御影かゝせられ、 すゑ被申候て、 山科へ移り候。

一 蓮如上人は十五歳より、 是非共に開山聖人の御法流0910の義、 可被仰立と思召し立れ、 すでに御存分のごとく、 六十余州に御門流ひろまりたる事を御満足のよし、 蓮如上人御自証ありての御言に、 今各々心易仏法を聴聞する事も、 此法師がわざよと被仰し事に候。 我壹人冥加に叶ふに依て、 皆々安穏にあるぞと被仰候。 如何程の御苦労ありて、 か様に一宗繁昌し、 兄弟中心安くある事ぞよ、 末々の弟共にも、 此趣よくよく可申聞事肝要也。 少も冥加をわすれては、 たちまちに御罰をかうむるべき事也。

一 蓮如上人、 山科にて南殿へ御隠居の時、 御内仁五人也。 是存如上人の御時の例也。 昔の御迷惑に御座ありつる事を、 御忘れ有まじきとの被仰事にて候。 然ば円如も山科の新造にも五人被召仕候。 其例にて候。

一 蓮如上人、 古関東御執行の時のわらんづくいの御足の跡お、 おりおり取出させ給ひ、 各兄弟中へみせられ、 我はかやうに辛労して、 仏法に身命おすて、 苦労をしたる事也。 よくよく心得て冥加お存ずべきぞと被仰侍候也。

一 蓮如上人御病中に、 御口のうちを御わづらひ候つる事候て、 あらあらと被仰事候つる程に、 御口の中のわづらい、 加様に御座候歟と存候得ば、 被仰候へしは、 各信のなき事お思へば、 身をきりさく様にかなしきよと、 被仰御事にて候き。 哀々、 壹人成共、 信を取たると聞たらば、 老のしわをのべんとぞ被仰侍し事也。 有がたき仰共候。 各おどろき被申候事にて候き。

右此壹巻は、 山科殿にてうつし申たる書にて候也。 但誰人の書共覚不申候。 光応寺蓮淳公に候歟と存候。 慥には覚不申候。 努不可有外見者也。

此壹巻は如此調て、 大坂殿の大蔵御局へ進たる事也。 乍憚古事おきかせ申度候而如此しるしまいらせ侍り。 当時は憚入たる事、 止外見べき者也。

*天正三年八月四日

実悟(花押)

0911此壹巻計、 蓮淳の尋、 龍玄御かき候書也。

 

  加賀国寺々事

若松本泉寺と申は、 開山は如乗 巧如御子、 第三男号宣祐法印。 如乗むかしは、 青蓮院門跡にして青光院と申、 えい山にしては二尊院と号す。 将軍普広院贈相国義教、 元は青蓮院にて義円僧正と申せし時、 毎時深甚にして、 宣祐は公私の意見者たりしが、 還俗ありて将軍の後は為門跡たり。 我無器用の子細も、 此宣祐ことにしるべきとて、 色々むつかしき条々被仰懸て、 都になき様にとの御たくみにて、 無堪忍やうに被仰候程に、 京都に堪忍ならで大谷殿に在寺ありしかども、 越中国へ下給て、 瑞泉寺住持と成り給ひしが、 彼寺も心にあわざる事有て、 又上洛すべきよしにて瑞泉寺お出て、 上洛有るべきとて通り給ひしお、 加州加北郡の門徒衆留奉て、 同郡内井家庄内二俣村の道場の侍しに留て置中、 いまに其所坊とし居住の間坊也。 然ば蓮如上人御在国の折節、 切々二俣へも御越候へき。 其まゝ坊と成候間、 蓮如前住本泉寺と寺号付させ給也。 瑞泉寺には名水ありて名らるゝ号なれば、 彼瑞泉の流れの心にて、 本泉寺と付させ給いし号也。 此寺にて宣祐法印もはて給と也所ながら、 階道ちかく、 いかゞの在所なれど、 暫時の居住の所に侍れば如此也。 其後は又蓮乗附弟として、 又は親子の好身ありて相続し給ふ。 蓮乗 号兼鎮 住し給ふといへども、 此所思しからねば、 同郡田嶋と云ふ所へ住給ひし。 壹両年ありて、 此所も又人の往来等に付ても如何とて、 又同郡平尾という山上へ居住ありて、 三、 四0912年すみ給ひしが、 遠景殊勝所たるといへども、 山上たるまゝ風はげしく、 門徒中の経徊も坂きびしく煩して、 又同郡の内、 若松の郷といへる所に居住なり。 此比は蓮乗は、 二又に住し給ふ比よりも所労にて、 蓮悟居住の義も調にて侍りき。 平尾の坊へは願成就院殿御下向ありて、 蓮悟も此坊にて出家ありし所也。 願成就院光助法印御下向の砌の事也。 若松は長享の比よりの坊也。

一 北隣坊蓮綱は、 山科坊近所音羽村に草坊を、 信証院殿建ましましけるは、 蓮綱の居住あるべき用意成けるを、 此所は如何有べきとて、 蓮乗よび下し給ひて、 賀州能美郡内山内に池の城という所に草坊を立られ、 蓮綱をば蓮乗の居おかせ給ひたりしか共、 山中にて冷気ふき山居とて、 同じ近所にふるやと在所に坊を引、 蓮綱の立給居住也。 然るに此ふるやという名きゝにくしとて、 松原の在所なれば、 松岡と新作に名づけられしお、 あたらしく左様に名はかへぬ物をと、 蓮如上人被仰候て、 寺号に此を被成候也。 仍号松岡寺給なり。 又此所も山いまだふかくて、 往来の諸人に如何とて、 波左谷といへる所の郷里ちかければ、 此所に居住有し也。 享禄の乱回禄し侍りき。

一 光闡坊蓮誓は、 若松尼公勝善尼、 越中利波郡内山中に土山という所に坊を立、 門徒中参会しける所有りけるに、 公羨望を勝如よび下て、 此所にすませしめ給ふを、 加賀国江沼郡の門徒中、 土山は山中きり深き所なればとて、 蓮如上人に申のぼせ、 山田と云ふ所浦山かけたる所候間、 光闡坊を置申度など申候しかば、 とも角もとの仰ありしまゝ、 山田に坊を立て居申侍る事也。 此も享禄の乱に焼にけり。

又同郡内菅生という所に、 蓮誓の遊山所と号して一坊たてたり。 此在所の入道に願正といへる名誉の入道あり。 此れ壹人の興行によりて立たる処也。 此も同年に焼0913にけり。 此は結構成坊成りき。

又同郡内山中に九谷という所に坊あり。 近き山々にも面白深山也。 高田水精の山あり。 享禄の乱の年、 貳拾ヶ年ばかりありしと覚ゆ。 此も蓮誓の坊なり。

又同郡内滝野という所、 里ちかき山家なり。 近所山々菊多生す仙郷あり。 是も蓮誓坊也。

一 山内に鮎滝という所あり。 此に蓮綱坊有り。 此は蓮綱の休息の坊なり。 是も貳拾余年ばかりの坊也。 享禄の乱焼畢。

一 清沢は加州石川郡内庄釰村内也。 永正五年より催して建立の坊、 本泉寺蓮悟開山坊也。 実悟拾九年居住す。 享禄の乱焼失す。

清沢という名は、 白山妙理大明神、 此辺順見の事のありけるに、 門前の清水の滝の如にて沢の有しお見給、 あつぱれ、 清き滝かなとの給ひしより、 清沢と名づく。 昔は権現という。 今は大明神の付給ふ号なり。

一 粟津能美郡内という所に坊あり。 古大谷殿よりも応玄下給ひて居住の所也。 舎弟大貳殿も居住の所也。 同姉俊如禅尼・同息女如宗尼もすめる、 あまたの人々集給へる坊なり。 文明の比よりの所なれど寺号もなし。 俊如・大貳公、 此所にて遠行の所也。

昔は鸞芸・とん円などの居住のところなりと云ふ。

一 加卜郡内細田という所に坊あり。 蓮悟開山也。 各志にて建立、 長享・延徳の比よりの坊なり。 享禄の乱焼失す。 此在所、 明善という者馳走坊也。

一 同石川郡内山中に中戸という山家に坊あり。 明応の比よりの所也。 蓮悟開山なり。 彼在所、 番頭と云者馳走して建立の坊也。 同乱焼失す。

 

  0914越中州坊事

瑞泉寺と云ふ、 綽如上人開基、  後百七代 小松院後円融御子 勅願所、 堂前名水清水あるに依て、 瑞泉と名らる。

応安・永和の比、 漢土皇帝より てう状あるを、 内裏各よみわづらひ給しに、 青蓮院宮も折節参内の有しに、 よみときかねさせ給しかば、 門主奏覧ありしは、 此比、 本願寺文字才覚あり、 めしてよませらるべしと、 誉候申させ給しかば、 依勅本願寺峻玄めしにより参内あり。 よませらるゝに、 速によみとかせ給しかば、 叡感のあまり所領を被下けるに、 従古門下の一紙半銭の志に依り堪忍の身也、 所領の望なしと返じやう申されければ、 何ぞのぞみのまかすべしとの勅定なり。 然ば越中州壹所寺を可建立、 以勅定可立之由、 被申上たりしかば、 依勅将軍家え被仰付、 勅許旨承て武家へ下知有り。 北陸道七ヶ国に下知せられて、 普請以下武家の輩、 坊外に幕お打て馳走しければ、 彼坊は建立の所也。 勅により建立なれば、 坊中歴々たり。 具勧進帳有之。 此文、 綽如上人御作の事也。 近代無住持、 宣祐法印の以後は兼鎮法印住持たり。 其後、 依所労無住持、 本泉寺より悉皆下知はからふべき由、 蓮如上人被仰付、 蓮悟諸事はからいとして、 造作以下、 時々に若松より有下向被申付侍し也。 中比、 蓮欽に契約ありて留守の分たりといへども、 早世せし間、 息賢心に契約住持分也。 其子息相続、 元来如此也。 此間在之。

一 同郡内安養寺と有之所の坊は、 元来土山の坊を引、 高くぼという所へ引、 此所も不宜なりとて、 又安養寺へ引て立也。 然に土山は勝如禅尼の寺也。 蓮誓住持に居おかるゝといへども、 きり深き所とて高くぼへ引。 仍住持には蓮誓の息治部卿実玄というをおかるゝ間、 彼寺勝如禅尼の相続なれば、 蓮誓は加州山田に住のまゝ、 実玄おば本泉寺如秀尼公の猶子として住持になし給い侍る事也。 仍如秀尼公の砌も、 別而実玄は中陰中0915つめられ、 斎以下一日は調られて侍る事也。 然者、 安養寺も彼尼公ゆい跡也。 後胤、 其心得得るべきや。

一 同国所々有坊、 皆近代明応以来事也。 不及注候也。

 

  本泉寺事

自余末寺なども相替べき由、 実如上人永正十七年十月晦日夜、 能之有けるに、 於御亭被仰侍し事、 各も承られ候へき。 本泉寺は田舎の本寺に候。 如乗、 奇特名誉の人にておわしける。 前住蓮如も常に仰事有て、 彼大恩かうぶりたる事なりとぞ被仰しとて、 実如も御物語事。 其子細は存如上人御往生ありては、 すでに蓮如上人へ御ゆづり状さい前に有つる事なれど、 御住持職は御受取あるべきと諸人も存じ、 各一家中其心得にて有つるに、 御継母如円と申せしが御はからいとして、 青蓮院にまします円光院応玄をおとし参らせられ、 御相続の分にて、 則存如の御葬礼以下、 蓮如はわきへ御成候て、 応玄御住持分に侍し。 御継母の沙汰成ける程に、 たれも兎角申人もなく、 坊主衆も、 御門徒の方々も、 御内仁も、 一家中も皆々同心あり。 応玄の御住持分にて定り侍りお、 宣祐法印、 応玄の義は何としる事ぞ、 既に舎兄と申、 御譲状歴然の事に候にとて、 一家中をも、 御内仁おも、 御門徒衆中・坊主衆中へも披露有りて、 宣祐法印馳走ありてこそ、 御住持の事は蓮如上人へまいり侍しに、 種々奇特是あり。 中にも開山聖人の御道具、 御住持の御方に侍らでは叶はぬ、 御継母の御とり候て、 大杉殿 円光院応玄 の御方へ渡しまいらさせ給しなれども、 皆三色ながら蓮如上人の御方へ何となく渡0916りまいりける事の不思議と申なり。 其御道具というは、 御絹袈裟・水精の御珠数・助老此三開山聖人の御道具なり。 其外又有之 云云。 御中いんのうちに、 皆蓮如上人の御方へまいる。 又存如上人御往生ありたる夜、 東山大谷殿の御土蔵にありたる物を、 ことごとく御継母の御方へ取せ給ひ、 大さ貳尺ばかり味噌桶一と、 代物壹貫文ばかりを桶のきわにおかれて、 倉のうちは打あけられたる事候き。 然ども不思議事どもありて、 蓮如上人へ皆々一味申され、 御住持とならせ給事、 宣祐法印一人の御申披ありて、 存如上人より御譲状の上に御舎兄と申、 旁以て一方ならぬ事と、 宣祐法印御馳走に依て、 御住持には定たる事に侍也。 仍宣祐 如乗 法印の事は、 一段蓮如上人御入魂の子細により、 本泉寺の事は他に順ずべからずの蓮如上人の仰とも侍りき。 寛正二 十月四日御往生 如円不思議事有之 如此御継母あたり御申の事にありしかども、 越前の吉崎殿の御坊にて御往生ありしを、 蓮如上人御肩にかけ御申候て、 御中陰以下、 結構に御沙汰ありける事、 まことにありがたき御事也。 御継母御存生の時も、 毎日に蓮如上人御まいりありて、 なぐさめ御申、 色々に朝夕の御まかない・御衣装等まで、 こまかに御沙汰ありける事、 世にはありつべくもなきやうに、 人々の申沙汰し侍る事也。

一 宣祐法印作文に 「御文」 の如成物ありしを、 各存知せずして、 「御文」 の中へまじへ書入たりし物の侍を、 或時蓮如上人御覧ぜられ、 是は二又本泉寺の作なりとばかり被仰候て、 とりのけよ共、 且以不被仰侍し事、 併如乗を御執筆のしるしと、 各御物語侍りき。 彼御作文、 初は 「夫曠劫多生をふるとも」 と有之、 ¬語灯録¼ (和語灯巻二) 抜書とも候

一 常楽台 光崇 法名空覚 は宣祐法印兄也。 存如上人御往生の砌も見舒たり。 依之、 蓮如上人御往生の事も、 強ちに被取持事なし。 御住持に定給とも、 敬の義も且以是なし。 宣祐法印は各別に侍りて、 崇敬し在りけり。 依0917、 蓮も御執事の義ふかくましましきと也。

一 条々如此、 宣祐法印は一段御入魂、 他にことなる儀、 子細共侍りき。 実如上人御物語旨は、 依之、 兼鎮蓮乗猶子と被仰合、 又蓮悟・実悟まで三人兄弟本泉寺へよせられける事なりとぞ御物語候き。 左候間、 代々本泉寺の得度の時、 御太刀を目出度よし被仰、 本寺より被下たる事と申て御物語候つるを、 承たる事なり。 蓮悟上洛の時は、 自余にかわりて、 条々実如上人御執事の事ども忝事候つる也。 又実如上人、 御物語云く、 本泉寺尼公勝如というは、 北陸道の仏法再興人なり。 只人に非と被仰、 其息如秀禅尼、 是又仏法者、 奇特不思議の尼公なり。 其姫如了、 又不思議の人なりとぞ御感なりし事なり。

存如上人 円兼法印 長禄元年六月十八日御往生の時は、 蓮如上人は三歳之事也。 如乗は四拾六歳、 蓮乗は十二歳 云云。 如乗御往生の年は、 兼鎮蓮乗は十五歳也。 然に其砌より猶子の事と 云云。 其後文明七年の比、 兼鎮は落場候てより所労候し事也。 文明の初めの比より、 蓮悟嫌縁は蓮乗兼鎮猶子分なり。 実悟は明応元 十月廿八日誕生して四十日ありて、 霜月に若松へ下されけると候。 嫌縁は其年二十五歳也。 兼鎮は其比以外所労 云云。 兼鎮往生は永正元年二月廿一日、 嫌縁は三拾七歳 云云。 実悟兼俊は十三歳之也。 如此次第、 雖不入事候、 注付畢。 蓮乗往生の時も、 実如上人より為御使浄頓下向、 御香典 五百疋 下さる。 同如秀禅尼往生 大永元 二月五日、 実如上人より御弔勝尊、 御香典 五百疋 被下ける事也。 勝如禅尼の時は、 蓮如上人より御弔ありと 云云。 不覚申候間、 不及注六事也。

 

  0918安芸法眼事  法名蓮崇

一 文明の初めの比、 越前国吉崎の御坊御建立也。 其同国あそう津の村仁に候き。 心さかしき人にて侍し間、 安芸州へも往返之事侍しにより、 安芸と人云付て侍しが、 吉崎殿へ望申、 茶所に侍て物をよみ手習をし、 一文字をも不知仁にして侍しが、 よるひる学問を心にかけ手習をして、 四十の年より物を書、 真物を書習、 正教等まで令書写候て、 浄土法門心にかけ、 才学の身と成りて、 吉崎殿御内へ望申、 奉公を一段心に入られしまゝ、 蓮如上人御意にも叶、 丹後玄永はそばへと成て、 安芸安芸とめされ、 一段秀たる事に侍り。 法門御意をも得られける程に、 人々も近付聴聞し侍り、 門徒も出来侍り。 去程に、 賀州の守護の富樫介と百姓との取合に成ける。 百姓衆と申は御門徒衆・坊主衆等也。 仕損じて越中国へ退き候て、 吉崎殿へ忍而惣中より使上申候。 此度軍の様、 百姓中難叶候間、 調和与無事可還住扱候間、 其趣吉崎殿へ両使 洲崎藤右衛門入道慶覚 湯湧次良右衛門入道行法 上、 以安芸申入候之処、 両使申入候段をば、 一向各別に安芸奏者被申入、 涯分致調法、 賀州へ可切入候之間、 各へ力を被付候様に以御調可仕間、 可致合戦之由被申入。 蓮如上人、 誠と思食、 無用とは被思食候得共、 左様に調法を可成者、 更に不及御意見、 如何様とも可然様申候共被仰出と、 別条に御意の旨、 両使へ被申付、 両使はれう分は難成之由申候へども、 両使申入候処は、 一向不被立御耳、 各別被申出、 堅御意の旨、 富樫此度は対治候様にとの御意と計被申。 両使同は直に掛御目、 可得御意候由申候へば、 それは此段にかぎり無用と、 安芸さゝへられ候。 しかれば蓮如上人も直に懇に可被仰付候由被仰出、 両使に可有御見参候由被仰候処、 それは巨細の御意も無用候。 委細安芸可申付御意候て可然候与被申候間、 蓮如上人も安芸被申候まゝに、 何事も被仰候間、 安芸意見被申上候ごとく、 御見参ありても安芸委細0919可申とばかりの御意候。 御座を御立候事に候。 両使も聊も心元なくは存候共、 色々と存候て、 安芸被申候旨を御意と心得て、 越中へかへり各内談申、 各同心に難成事とは心得候へ共、 其中に是は面白事也と、 存衆も侍りきとなり。

一 去ぬる文明の比、 富樫次郎 政親、 弟の幸千代と取合て、 次郎は越前に牢入し侍し比、 吉崎に御座候比なれば、 色々御扶持候き。 然者国へかへり候ば、 御門徒中の義、 不可有粗略の由申候間、 次郎を越前御門徒中に被仰候て、 賀州山田へ入られ候てより、 幸千代を追払、 次郎、 国を手に入、 安堵の処、 御恩を忘れ当流を嫌ひ候事、 槻橋と申者所行に候間、 国中の御門徒槻橋をきらひ候。 国々乱は又出来、 百姓等仕損、 越中迄退候時事也。

一 其後、 賀州に富樫次郎いとこの富樫安高を取立、 百姓中合戦、 利運にして次郎政親を打取、 富樫安高と申を守護としてより、 百姓中取立候富樫に候間、 百姓中のうでつよく成て、 近年、 百姓の持たる国の様に成行候にて候き。

然処、 安芸法眼、 いよいよ威勢・分限出来、 吉崎殿寺内安芸居住の処には土蔵十三立、 一門繁昌の事にて、 則越前の朝倉弾正左衛門 法名英林 と申者聞及、 名字の庶子になし、 阿 まうと名乗。 令上洛、 将軍慈照院殿御被官分に成候て、 奉公は壹分とさだめられ、 数度御内書等被成候。 則法眼とは将軍より被成候。 法橋とは於吉崎殿御成候。 ぬり輿の御免も将軍家より被仰付、 従善は鞍、 其後唐笠袋まで、 武家御所より御免候き。 左候間、 於吉崎威勢かぎりなく、 玄永丹後はかげもなく、 蓮如上人被0920申義御成候由と聞召候て、 願成就院殿おふ津より御下候て、 吉崎へ御下向候て、 蓮如上人をつれまいらせられ、 舟にて御上洛の時、 安芸よろづ曲言の由を仰候。 船に暁めされ候に、 安芸も御船に乗られ候を、 願成就院殿、 こゝ成ものは何ものぞと仰られ、 引たてさせ給ひ、 船にかゞみ居候を取て、 陸へなげ出され候得者、 磯ぎわに伏しづみ、 御船かげのみゆるまでひれふし、 なき居られ候つるが、 御船もみへず成候へば、 おきあがり御坊にかへり、 其儀越前・加賀の御門徒中へ勧化せられ、 人の尊敬かぎりなく候。 総而安芸、 門徒過分に候き。 夜は朽木を衣の下に付、 光にみせつゝ種々の事候つる由候。 蓮如上人此奉公の折は、 申入たる名号、 安芸へ申入れば、 早く出来申候とて、 多く出され候つるは、 法眼私にかきて被出候由候。 其名号、 近比までも賀州に候つる事候。 其まゝ種々おごりたる事ども候つる間、 被仰付、 国中の衆責伏、 湯沸村と申山家の城をこしらへこもり候得共、 たまらず夜中に越前へ父子とも落行、 かくれ居られたる事に候。 かくて数ヶ年越前にかゞみ居られ、 蓮如上人御往生ちかく、 明応八年二月の比より、 賀州一家中へ、 安芸連々縁を以て、 侘言の儀候得共、 誰にても取上べきと思ふ人もなく、 御往生の砌は、 山科のちかくに上洛し、 あれこれに付て、 色々御侘言申入度の由候得共、 誰にても取つぐべきと申人もなくて侍る所に、 蓮如上人三月の初比に、 北隣坊・光闡坊へ被仰事は、 安芸はいづくにあるとか聞たるぞと被仰。 両所御申されには、 何にありとも更に聞不申。 何とある事候哉、 不聞候と御申候へば、 三月の中旬比には、 あらあら不便や、 越前の方にゐるべし、 尋ねたづね させよと被仰出、 両寺其外同心に談合候て、 可召出被思召候事無勿体。 外聞といひ、 曲働の仁に候間、 中々いづくにあるとも存じたるものなし、 無生所候と申入候へば、 廿日比には、 不便なり、 たづねさせよたづ0921ねさせよと、 しきりに仰事あり。 既に御往生もちかづき候よと、 各存知候処、 如此被仰候を埋をくべきも如何とて、 越前辺にありけると御申候へば、 遣人よべよと被仰候て、 可召出の由御意候上はとて、 山科八町に居られ候を、 其旨被申上候へば、 可召出と被仰間、 徒に候を被召出候て、 御外聞旁如何候と、 実如上人と北隣坊さゝへ被申候様に候へば、 それは不可然候。 弥陀の本願には悪人を本と御たすけ可有との御本意なり、 徒者をゆるすが当流の規模なり、 よび出すべしと被仰間、 *廿日比に召出候間、 安芸法眼忝由被申上、 御目にかゝり、 五体を地になげ、 泣声を上てなかれ候て、 難有存られ候つるが、 廿五日御往生有て、 廿六日の御葬礼の御供を申、 たゞ泣より外のことなく候つるが、 やがて廿八日に安芸も往生候。 不思議の宿縁、 希代なる前代未聞の儀と各被申候き。

 

  応仁乱事願成就院殿事

応仁の乱と申は、 将軍慈照院殿 号東山殿義政 と今出川殿との御取合、 諸大名ことごとく二にわかれて、 天下の大乱なり。 京中まん中、 敵御方の間唯二町ばかりを、 双方堀をほり、 さかもぎをゆいて、 陣取候へる事に候とて候。 其時、 願成就院殿 順如光助法印依勅成上人 東山殿へ細々御参の事候つるとて、 或時、 慈照院殿、 御内衆被仰事は、 今の本願寺は身つきがうつくしき仁也と人々申、 見たき事なりと被仰を、 大館を始として二、 三人被申事は、 参上の時御酒の上へに、 はだかになして、 御覧さすべき由を被申候に、 はやばや何かと被仰侍と也。 然0922者御陣中を見舞可被申とて、 願成就院殿、 十合・拾荷被持参候し時、 将軍東山殿御対面ありて、 則御酒宴に成たるとき、 連々奉公衆被申候やうに、 大館伊与守を始として貳、 三人、 御そばいよりて、 はだか舞が可然候とて、 はだかに成被申候。 願成就院殿、 御迷惑候しか共、 無是非はだかに成被申て、 春日龍神のきりをうたい出して、 まわせ被申候。 其時の事、 伊勢下総入道五、 物語候しは、 此事、 将軍の御前にて各被申候事を、 其時は 未伊勢次郎と云 聞申候間、 親顕という智院の間に候条、 加様の段、 願成就院殿へ告知せ参度所存候つれども、 次もなく候間、 不申候所に、 御前にて如此の各働候間、 もしもしはだの帯などみぐるしき事候つ存候つれば、 いかにも新敷はだの帯御沙汰候つれば、 安堵したると、 下総入道、 愚老にかたられけり。 願成就院殿、 器用の御きづかいのよしは、 はだの帯ばかりにて、 扇御持候て御立候ては、 如何候べきに、 只かた膝ばかり立て、 帯を扇にてかくす様に御舞候て、 やがて御立候。 一段の見事にて、 奇特の御しやわせどもに候と被物語候。 其まゝ各どつと御わらひにて、 前の貳、 三人衆より、 物をきせ被申て、 如元お立になされ候き。 其後、 東山殿仰候、 きゝ及たるよりも、 うつくしき身つきぞと被仰けるとなり。 まづ遍身にくろき所、 針のさき程もなく、 うつくしき身にてわたらせ給ふと、 各とりどりに沙汰候つると、 姉にて候人、 其時喝食にて春日局にて聞たるに、 皆々女房衆まできゝ及取候に沙汰候て、 ほめられ候へば、 うつくしく候つると御語候事。 其後、 願成就院殿、 東山殿よりも御いとま御申御かへり候て、 同日、 又た今出川殿へも十合・十荷進上候つるに、 これもまた御見参候。 同日の事に候に、 御酒宴候つれば、 しちふくの次に候つれば、 御申候者、 東山殿にもはだかにて舞申候間、 これにても又舞申べきなりとて、 双方の御中、 小路中に畳をしき、 又御酒候0923つるに、 奉公衆双方衆十人計出合れ候に、 我等ある所にては、 敵味方あるべからずと仰候て、 御酒候つると承候。 昔は加様に、 本願寺殿御所様へ御まいりと申候得者、 双方衆、 矢をとめ鑓をふせて、 通し被申候きと也。 其後、 願成就院殿、 山科殿へ御帰寺候て、 蓮如上人に此事御申候。 東山殿にて慇に当宗の事など御尋候つる間、 条如此申入候と御申候。 初は蓮如上人、 御かおを脇へむかせられ、 あら酒くさや酒くさやと、 被仰候つれども、 条々御申入候由、 御申候得ば、 それはよいよよいよと被仰、 御譏嫌よく成て、 御むかひまいらせられ候つると、 御座敷之体を、 兄弟衆御物語候をきゝ申候。

一 其後、 吉崎殿へ願成就院殿御下候とて、 若狭の小浜へ御下候て、 武田太膳太夫館へも礼とて御出候時、 若狭まで伊勢下総守、 同道にて御下向候て、 武田殿へも御同道候而参候と、 下総物語候。 其時も大酒に成候へば、 両御所にてはだかにて舞申間、 これにてもはだかにて可舞と被仰、 又はだかまい候つると、 下総守物語候き。 小浜より下総は上洛す。 院主は吉崎へ舟にて御下候つると物語候き。

 

  本泉寺蓮悟与蓮恵 本覚寺 和田坊主 申事

永正十五年歟、 本泉寺蓮悟与和田之坊主 越前坊主衆也 加賀牢之時 申事出来し侍し間、 則山科殿へ注進申させ給ひたりけるに、 やがて言語道断の曲言んりとて、 和田の坊主蓮恵を御勘気かうぶられけり。 下間丹後蓮応と舎弟左衛門太夫賴慶両人の書状にて、 則御門流を被放と、 か0924たく御折檻侍しかば、 坊主も蓮如上人の御時より聴聞せし功者にて侍るゆへ、 御勘気をおどろき、 其比は賀州能美郡はにふ田と申所に、 越前を牢人せられてより居住の所也けるが、 則つき鐘のありけるをもつかず取おろしておき、 朝暮の勤行にも子の新発意のありけるを出し、 賀は勤めをもせず出もせで、 人の来るにも不見参、 無等閑仁にはかたわきへよび入て、 令見参侍て堪忍し、 しばらくありて先本寺へも不申入、 門徒中に若松本泉寺の前へも出て仏法の物語の時、 あい手にも成候坊主衆の越後牢人の西光寺という坊主を以、 若松殿へ蓮恵被申様、 此度申事義、 近比あやまり申候。 年まかりより候而越度をつかまつり存、 あやまり申候。 併冥加につき申、 口惜存候とて、 此西光寺をもて連々若松殿へ被申候間、 本泉寺にも是はちか比あやまりたると存知つけられ候は、 殊勝にも宿老といひ、 蓮如上人の御時より聴聞申され候仁候か、 主一段情こわくして、 ぎごはなの仁体に候間、 如此候。 左様に思ひとられ候は難有事に候なり。 其旨を再公示彼在所へ行てかたる。 やがて有がたき仰とて、 彼在所より忍て若松の町内宿にありて、 言語道断のあやまり申事とて、 宿に忍て西光寺を以て連々侘言候間、 此度左様に思ひとられ候事難有候間、 しからば本寺へ侘言を若松殿より可被申由、 蓮悟合点候て、 本寺は実如上人の御時なれば、 山科殿へ本泉寺原を上、 以書状如此本覚寺あやまりたると被申候間、 殊勝に存じ候間、 御覧候て畏入存ずべき旨注進あり。 則和田本覚寺も上洛し、 山科殿御門外に堪忍ある。 若松殿よりは具に注進候といへども、 又或人、 実如上人へ被申事候者、 是は一段の曲言の仁に候に、 あまりにはやく御免候て以と申人侍しに、 実如書云仰事には、 いやいや是は若松へこへて侘言候時の次第、 近比可然候。 既先年前住の御時も、 安芸法眼を各はさゝへられ候得共、 前住よりめし出候例あ0925り。 是は、 弥陀の本願には悪人成仏の御意趣也。 わろき物をゆるすが弥陀如来の御本意なりとて、 安芸もめし出されたり。 此蓮恵もあやまりたると申が尤可然とて、 則御免ありけり。 是まことに候。 末代までも御勘気かうむりての覚悟、 あやまりたると存知せられ候。 人の御侘言の手本たるべしとぞ、 各々被申事也。 仍おなおな書注つけ侍る者也。

 

底本は新潟県浄興寺蔵室町時代書写本。