1397◎常楽台主老衲一期記 於御前口筆畢

 

◎*正しょう応おう三年さんねん六月ろくがつ四よっ日かに 誕たん生じょうしたまふ。

◎正応三年六月四日ニ 誕生タマフ。

*永仁えいにん三年さんねんに*慈じ俊しゅん生うまれたまふ。

永仁三年ニ慈俊生タマフ。

*同どう五ご年ねん八歳はっさいの時とき、 従じゅ五位ごい下げ親綱ちかつな。 この時とき前さきの伯耆ほうきの守かみ親顕ちかあきに子ことなり、 親顕ちかあき卒おわりたまひて後のち、 親業ちかなり卿きょうにまた子ことなる。 よりて出しゅっ家けの時とき、 実じつ名みょう親恵ちかやす。 また親顕ちかあきは親業ちかなり卿きょうの子こ、 顕盛あきもり朝臣あそんの弟おとうとなり。

同五年八歳之時、従五位下親綱。此ノ時前ノ伯耆ノ守親顕為↠子ト、親顕卒タマヒテ後、親業卿又為タマフ↠子ト。仍出家之時、実名親恵。又親顕者親業卿ノ子、顕盛朝臣之弟也。

*正しょう安あん元年がんねん、 大谷おおたにの南みなみの敷しき地ちを買かい副そへられおはりぬ。 かの地ちの主あるじは、 長ちょう楽らく寺じ*隆りゅう寛かん律りっ師しの弟子でし慈じ信しん房ぼう澄ちょう海かい 能説のうせつの学がく生しょう の旧きゅう跡せきなり。 かの真弟しんてい禅日ぜんにち房ぼう良りょう海かい、 相伝そうでんして居きょ住じゅうし、 沽こ却きゃくの志こころざしなしといへども、 ことに買得ばいとくすべき由よし懇望こんもうのあひだ、 直あたいの法ほう万疋まんぴきをもつて買得ばいとくしおはりぬ。 根本こんぽんの*覚信かくしんの御房おんぼう御ご寄き進しんの地ちは、 口くちは五ご丈じょう奥おくは十じゅう丈じょう、 これ一いっ戸この主あるじなり。 後のちに買かい副そへられたまふ地ちの丈じょう数すう、 もつて同おなじ。

正安元年、大谷南ノ敷地被↢買副↡畢。彼ノ地主者、長楽寺隆寛律師ノ弟子慈信房澄海 能説学生 旧跡也。彼真弟禅日房良海相伝テ居住シ、雖↠無↢沽却之志↡、特ニ可↢買得↡之由 シ懇望之間、以↢直ヒノ法万疋↡買得畢。根本覚信ノ御房御寄進地者ハ、口ハ五丈奥ハ十丈、是一戸ノ主也。後ニ被買副タマフ地ノ丈数、以同ジ。

*唯善ゆいぜん房ぼうは、 本もとは山臥やまぶしなり。 仁にん和な寺じ相応そうおう坊ぼうの守かみ助すけの僧そう正じょうの 弟子でしなり。 大だい納な言ごん阿あ闍じゃ1398梨り弘雅ひろまさと号ごうす。 しかるに落らく堕だの後のち、 奥郡おうぐんの河和かわ田だに居きょして嫁めとる 或仁あるひと、 子し息そく等ら出しゅつ来らいすれども、 無む足そく窮きゅう困こんのあひだ、 *大々だいだい上じょう喚よび上あげられ同どう宿しゅくせしめたまふ、 北きたの敷しき地ち 闕けっ少しょうせり、 南みなみの敷しき地ちを加くわへらるればよろしかるべき由よし、 唯公ゆいこう、 門弟もんていの中うちにおいて連々れんれんあひ語かたらるるあひだ、 夏なつのころ、 奥おくの郡こおりの人々ひとびと上じょう洛らくありて沙汰さたに及およべり。 しかるに禅日ぜんにち房ぼう、 買券ばいけんを書かかんと欲ほっする時とき、 「沽こ却きゃくは誰人たれびとの由よし書かくべきや」 と 云々。 唯公ゆいこうに宛あてて書かくべき由よし申もうす人ひと、 少々しょうしょうこれあり。

唯善房者、本ハ山臥也。仁和寺相応坊守助僧正ノ 弟子也。号↢大納言阿闍梨弘雅↡。而落堕之後、居シテ↢奥郡ノ河和田ニ↡嫁 或仁、子息等出来スレドモ、無足窮困之間、大々上被↢喚上↡令↢同宿↡給フ、北ノ敷地 闕少セリ、被↠加↢南敷地↡者可↠宜之由、唯公於↢門弟ノ中↡連々被↢相語↡之間、夏比、奥ノ郡ノ人々有テ↢上洛↡及リ↢沙汰ニ↡。而禅日房欲↠書ント↢買券ヲ↡之時、沽却ハ誰人之由可キヤト↠書哉 云々。宛アテヽ↢唯公ニ↡可↠書之由申人、少々在↠之。

その時とき大々だいだい上じょう仰おおせられていはく、 「上しょう人にんの御おん敷しき地ちを広ひろげられたらば、 門弟もんてい中ちゅうに沽こ却きゃくせらる由よし載のせらるる条じょう、 覚信かくしんの御坊おんぼうの御おん素意そいに叶かなふべきか。 一人いちにんに宛あてらるれば、 未み来らいの*牢寵ろうろう勿論もちろんなり」 と。 衆しゅ中ちゅうの管かん領りょうとなして、 唯公ゆいこうの居きょ住じゅう子し細さいあるべからざる由よしこれ仰おおせらる。 その時とき唯公ゆいこう座ざにありて顔色かおいろを変へんじて、 立腹りっぷくきはまりなし。 しかれども大々だいだい上じょうの仰おおせのごとく 「門弟もんてい中ちゅう」 と宛あて載のせおはりぬ。 その後のち坊ぼうを造つくり、 唯公ゆいこう居きょ住じゅうせり。 同どう行ぎょう御み堂どうに参まいりて後のち、 かならずまづ北殿きたどのに参まいり、 南みなみ殿どのに参まいりたり。

-其時大々上被テ↠仰云、為タラバ↠被↠広ゲ↢上人ノ御敷地↡者、被↣沽↢却門弟中↡之由被↠載之条、可↠叶↢覚信御坊ノ御素意ニ↡歟。被↠宛↢一人↡者、未来之牢寵勿論ナリ。為シテ↢衆中之管領ト↡、唯公ノ居住不↠可↠有↢子細↡之由被↠仰↠之。其時唯公在テ↠座変ジテ↢顔色↡、立腹無↠極。然ドモ而如↢大々上ノ仰↡宛↢載「門弟中ト」↡畢。其後造↠坊、唯公居住セリ。同行参テ↢御堂↡之後、必先参↢北殿↡、参↢南殿↡。

十じゅう二に歳さい *正しょう安あん三さん、

十二歳 正安三、

*冬ふゆのころ、 永なが井いの道信どうしん 鹿か嶋しま門もん徒と ¬黒谷くろだに伝でん¼ (九巻) 新草しんそうの所望しょもうによりて在ざい京きょうせり。 よりて*大だい上じょうこれを草そうせしめたまふ。

-冬比、永井ノ道信 鹿嶋門徒 依テ↢¬黒谷伝¼ 九巻 新草ノ所望ニ↡在京セリ。仍大上令↠草↠之給フ。

その次ついでに道信どうしん申もうしていはく、 「唯公ゆいこう、 禅念ぜんねん坊ぼうの譲ゆずり状じょうありと称しょうして、 唯公ゆいこうの身みに宛あてて院宣いんぜんを掠りゃく賜しせらるる由よしその聞きこえあり。 随したがひて管かん領りょうを捽とらるる所存しょぞんか。 この事ことしかるべからず。 その故ゆえは、 当とう敷しき地ちは上しょう人にんの御ご影堂えいどうを建こん立りゅうせんがために、 覚信かくしんの比丘びく尼に門弟もんてい中ちゅうにおいて管かん領りょうすべき由よし1399、 寄き進しん状じょう顕然けんねんなり。 しかるを謀書ぼうしょを構かまへて禅念ぜんねん坊ぼうの譲じょう与よしたまふ状じょうと称しょうせらるる条じょう、 母子もしの敵対てきたい、 未み来らいの牢寵ろうろうなり。 この事こといかでか申もうし披ひらかれざるや」 と 云々。

-其次ニ道信申テ云、唯公称シテ↠有↢禅念坊ノ譲状↡、宛テ↢唯公ノ身ニ↡被↣掠↢賜セ院宣↡之由有↢其ノ聞↡。随テ而被↠捽↢管領↡之所存歟。此事不↠可↠然。其故ハ者、当敷地ハ為↣建↢立上人ノ御影堂↡、覚信比丘尼於↢門弟中↡可↢管領↡之由、寄進状顕然也。而ヲ構↢謀書↡被↠称↢禅念坊ノ譲与シタマフ状ト↡之条、母子敵対、未来之牢寵也。此事争カ不↠被↢申披↡哉 云々。

よりて大々だいだい上じょう左さ大辨だいべんの宰さい相しょう 有房ありふさ卿きょう の亭ていに入にゅう御ぎょしたまふ、 これは千ち草ぐさの先せん祖ぞなり、 宗しゅう真しん法印ほういんの引導いんどうなり。 上かみの件けんの子し細さいを申もうし述のべらるるところに、 かの卿きょうのいはく、 「禅念ぜんねんの譲ゆずり書しょに任まかせおはりぬ」 と 云々。

-仍テ大々上入↢御タマフ左大辨宰相 有房卿ノ 亭ニ↡、是ハ千草ノ先祖也、宗真法印ノ引導也。被↣申↢述上件ノ子細↡之処ニ、彼ノ卿ノ云、任↢禅念ノ譲書ニ↡畢 云々。

申もうせられていはく、 「譲ゆずり状じょうの事こと不ふ実じつなり、 もし備そなへ進すすめしめばこれ謀書ぼうしょなり、 門弟もんていの中うちに出いでたる覚信かくしんの寄き進しんの状じょう顕然けんねんなり、 もしかの状じょう御ご覧らんぜらるるか」 との由よし仰おおせらるるところに、 その儀ぎなし。 禅林ぜんりん寺じの長ちょう老ろう規き庵あん沙汰さた申もうせらるるによりて左右さうなく勅ちょっ許きょありて、 符ふ案あんを出いだされ院宣いんぜんを書かき進すすむべき由よし仰おおせ下くださるるあひだ、 案あんに任まかせてはからふるなり。 重かさねて申もうし披ひらかるれば、 定さだめて正しょう理りに帰きすべきかの由よし返答へんとうなり。 よりて帰き坊ぼうせしめおはりぬ。

-被↠申云、譲状ノ事不実也、若令メバ↢備ヘ進↡者是謀書也、出↢門弟ノ中ニ↡覚信寄進ノ状顕然也、若彼ノ状被↢御覧↡歟之由被↠仰之処ニ、無↢其儀↡。禅林寺ノ長老規庵依↠被↠申↢沙汰↡無↢左右↡勅許アリテ、被↠出↢符案↡可↣書キ↢進院宣↡之由被↢仰下↡之間、任↠案計也。重テ被↢申披↡者、定可↠帰↢正理↡歟之由返答也。仍テ令↢帰坊↡畢。

十じゅう三歳さんさい *乾元けんげん々がん、

十三歳 乾元々、

大々だいだい上じょうの御ご使し節せつとして、 大だい上じょう、 勧進かんじんして申もうし披ひらくべき料りょう足そくのために東国とうごくに御ご下げ向こうあり。 いくばくもなくしてすなはち御ご帰き洛らくなり。

-為↢大々上ノ御使節↡、大上為ニ↧勧進シテ可キ↢申披↡之料足↥御↢下向アリ東国↡。無シテ↠幾則御帰洛ナリ。

よりて院宣いんぜんを当方とうほうに申もうし下くだされ了りょうして、 その詞ことばにいはく、 「親鸞しんらん上しょう人にん影堂えいどうの敷しき地ちの事こと。 山僧さんぞうの濫妨らんぼうによりて、 唯善ゆいぜんが申もうしに欲ほっするあひだ、 院宣いんぜんを下くださるるといへども、 所詮しょせんは尼あま覚信かくしんが置文おきぶみ門弟もんてい等らの沙汰さたに任まかせ相そう違いあるべからざるものなり、 院宣いんぜんによりて仰おおせのところ、 件くだんのごとし。 *正しょう安あん四し年ねん 月がつ 日じつ、 参さん議ぎ 有房ありふさ卿きょう 判はん、 親鸞しんらん上しょう人にん門弟もんてい等ら中ちゅう」と、 この宛あて所どころの事ことに付つきてかの卿きょう申もうせられていはく、 「貴き辺へんに進すすむべし、 いかん」 と 云々。 ここに大々だいだい上じょう仰おおせられていはく、 当方とうほう唯公ゆいこう共とも自じ1400専せんすべきにあらざるをもつて、 覚信かくしんの置文おきぶみ顕然けんねんなるうへは、 門弟もんてい中ちゅうに宛あつるべし」 と 云々。

-仍被↣申↢下院宣於当方ニ↡了シテ、其詞ニ云、「親鸞上人影堂ノ敷地事。依↢山僧濫妨↡、唯善ガ欲↠申ニ之間、雖↠被↠下↢院宣↡、所詮任↢尼覚信ガ置文門弟等ノ沙汰ニ↡不↠可↠有↢相違↡者也、依テ↢院宣↡所↠仰、如↠件。 正安四年 月 日、参議 有房卿 判、親鸞上人門弟等中ト、」付↢此宛所ノ事↡彼ノ卿被↠申云、可↠進↢貴辺ニ↡如何ント 云々。

ここにかの卿きょうのいはく、 「申もうさるるところ廉れん直ちょくの至いたり、 もともしかるべし。 ただしかの上しょう人にんの門もん徒と一向いっこうに在ざい家け下げ劣れつの輩やからなり。 しかれば 「門もん徒と中ちゅう」 と書かく条じょう叶かなふべからず」 と 云々。

-爰ニ大々上被↠仰云、当方唯公共以↠非↠可↢自専↡、覚信ノ置文顕然之上者、可↠宛↢門弟中ニ↡ 云々 爰ニ彼ノ卿ノ云、所↠被↠申廉直之至、尤可↠然。但シ彼上人門徒一向ニ在家下劣輩也。然バ者書↢「門徒中ト」↡之条不↠可↠叶 云々。

その時とき申もうされていはく、 「以い前ぜん下くださるるところの唯善ゆいぜんの院宣いんぜん、 もつて同前どうぜんなるべし。 強しいてかの門もん徒と一向いっこうに下げ劣れつとすべきにあらず、 いはんや唯公ゆいこうまた門もん徒との随一ずいいちなり」 と。 しかればかの時とき載のせらるるところの唯公ゆいこうとこの門弟もんていと、 さらに勝しょう劣れつあるべからざる由よし詳つまびらかに申もうさるるあひだ、 理りに伏ふし望のぞみに任まかせて 「門弟もんてい等ら中ちゅう」 と書かき下くだされおはりぬ。

其ノ時被↠申云、以前所↠被↠下唯善之院宣、以可↠為↢同前↡。強テ彼門徒一向ニ非↠可↢下劣↡、況唯公又門徒之随一也。然者彼時所 ロ↠被↠載唯公与↢此門弟↡、更不↠可↠有↢勝劣↡之由詳ニ被↠申之間、伏↠理ニ任テ↠望被↣書↢下「門弟等中ト」↡畢ヌ。

十じゅう月がつ 日じつ、 和わ州しゅう中河なかがわの成じょう身院しんいん 実範じつはん寺てらに住じゅう持じす 東北とうほく院いん円月えんがつ上しょう人にん 慶海けいかい に同どう宿しゅくしたまふ。

-十月 日、和州中河ノ成身院 実範住↢持ス寺ニ↡ 同宿シタマフ↢東北院円月上人 慶海ニ↡。

十じゅう四し歳さい *嘉か元げん々がん、

十四歳 嘉元々、

童体どうたいの時とき、 発心ほっしん院いん殿どのの禅ぜん師じ覚かく意いの御坊おんぼうにおいて、 毎月まいつき講筵こうえんあり、 毎まい度ど問者もんじゃ勤ごん仕じす。 慶海けいかい上しょう人にんこれを諷ふ諫かんの上うえ、 伯はく法印ほういん実伊じついんの扶持ふじなり。 また三さん位みの法印ほういん良りょう寛かん 時ときに已い講こう 西南さいなん院いん同どう宿しゅくの時とき、 連々れんれん入にゅう寺じのあひだ、 かの仁じん、 論ろん義ぎ等とうの事こと扶持ふじを加くわへられおはりぬ。 かの良りょう寛かんは、 慶海けいかい上しょう人にんの祖師そし兼宝けんぽう律りっ師しの弟子でしなり、 その時とき経きょう宝ほうと号ごうし顕けん宗しゅうを好このみ、 興福こうぶく寺じの交きょう衆しゅを致いたしおはりぬ。

童体之時、於↢発心院殿禅師覚意ノ御坊ニ↡、毎月有↢講筵↡、毎度問者勤仕ス。慶海上人諷↢諫之↡上、伯法印実伊扶持也。又三位法印良寛 于時已講 西南院同宿之時、連々入寺之間、彼ノ仁論義等ノ事被↠加↢扶持↡了ヌ。彼良寛ハ者、慶海上人之祖師兼宝律師之弟子也、其時号↢経宝ト↡而好ミ↢顕宗ヲ↡、致シ↢興福寺ノ交衆↡了ヌ。

十じゅう月がつ十日とおか、 出しゅっ家けす、 同どう十日とおか、 東大とうだい寺じにおいて遂ついに受戒じゅかいしおはりぬ。 実じつ名みょう興親こうしん、 仮かりに中ちゅう納な言ごんと名なのる。

-十月十日、出家ス、同十日、於↢東大寺ニ↡遂ニ受戒シ了。実名興親、仮ニ名↢中納言↡。

十じゅう一月いちがつ二に十じゅう八日はちにち、 十じゅう八はち道どう行ぎょう、 金剛こんごう界かい伝受でんじゅに至いたる。

-十一月廿八日、十八道行、至↢金剛界伝受ニ↡。

関東かんとうにおいて専修せんじゅ念仏ねんぶつ停ちょう廃はいの事ことあり。 その時とき唯公ゆいこうひそかに馳はせ下くだり、 巨こ1401多たの料りょう足そくをもつて、 安あん堵どの御おん下知げちを申もうし成なられおはりぬ。 横よこ曾弥そねの門もん徒と木こ針ばり智ち信しん三さん百びゃっ貫かんを出いだす。 その外ほか所々しょしょを勧進かんじんし、 数すう百ひゃっ貫かんをもつて申もうせらるるあひだ相そう違いなし。 その文もん章じょうは、 「たとひ親鸞しんらん上しょう人にん門もん流りゅうにおいては、 諸国しょこく横行おうこうの類たぐいにあらず。 在ざい家け止し住じゅうの土ど民みん等ら懃ごん行ぎょうする条じょう、 国くにのために費ついえなく、 人ひとのために煩わずらいなし、 彼かれ等らに混こんずるべからざる由よし、 唯善ゆいぜんかの遺ゆい跡しゃくのために申もうすところその謂いいなきにあらざるあひだ、 免許めんきょせらるところ件くだんのごとし。 嘉か元げん々年がんねん 月がつ 日じつ、 加賀かがの守かみ三み善よし判はん。」 この下知げち両りょう所しょの判はん形ぎょうなし。 政まん所どころの下もとと号ごうすと 云々。

-於↢関東↡有リ↢専修念仏停廃ノ事↡。其ノ時唯公窃ニ馳下、以↢巨多之料足↡、被↣申↢成安堵之御下知ヲ↡了ヌ。横曾弥ノ門徒木針智信出ス↢三百貫↡。其ノ外勧↢進所々ヲ↡、以↢数百貫ヲ↡被↠申之間無↢相違↡。其文章ハ、「仮令於テ↢親鸞上人門流ニ↡者、非ズ↢諸国横行之類ニ↡。在家止住之土民等懃行スル之条、為ニ↠国無↠費、為ニ↠人無↠煩、不↠可↠混↢彼等ニ↡之由、唯善為↢彼遺跡↡所↠申非↠無↢其ノ謂↡之間、所↠被↢免許↡如↠件。 嘉元々年 月 日、加賀ノ守三善判。」此ノ下知無↢両所ノ判形↡。号↢政所ノ下ト↡ 云々。

文もん章じょうまた遺ゆい跡しゃくの成敗せいばいにあらず。 しかれども事ことを遺ゆい跡しゃくに混こんぜんがためにこれを申もうし成なるか。

-文章又非↢遺跡ノ成敗ニ↡。然ドモ而為↠混↢事於遺跡↡申↢成之↡歟。

十じゅう五ご歳さい *嘉か元げん二に、

十五歳 嘉元二、

四し月がつのころ、 父祖ふそ等らを拝おがみたてまつるために上じょう洛らくせしめおはりぬ。 幼よう少しょうの時ときより連々れんれん邪じゃ気きを煩わずらひし刻きざみに、 心しん性しょう院いんの僧そう正じょう経きょう恵けい 時ときに法印ほういん 慈じ恵けい大だい師しの御ご影えいを渡どしたてまつりて、 時々じじ加持かじせらる。 よりて平びょう復ふくのあひだ、 師し弟ていの約やくを成なし、 同どう宿しゅくすべきの由よし往日おうじつの契約けいやくなり。

-四月之比、為↠奉↠拝↢父祖等↡令↢上洛↡了。幼少之時ヨリ連々煩↢邪気ヲ↡之刻ニ、心性院ノ僧正経恵 于時法印 奉テ↠渡シ↢慈恵大師ノ御影ヲ↡、時々被↢加持↡。仍テ平復之間、成↢師弟之約↡、可ノ↢同宿↡之由往日ノ契約ナリ。

しかるに中河なかがわの東北とうほく院いんの附ふ弟てい相続そうぞくの儀ぎは大切たいせつたるによる。 父祖ふその御おん計はからいは下げ向こうせしむといへども、 往日おうじつの旧きゅう好こう忘わすれがたく、 山門さんもんの交きょう衆しゅなほ本望ほんもうの由よしあひ存ぞんずによりて子し細さいを申もうす刻きざみ、 意こころに任まかすべき由よし面々めんめんに仰おおせらるるあひだ、 五ご月がつ五いつ日か、 かの法印ほういんの坊ぼう磯嶋いそじまの引いん接じょう坊ぼうに入いりおはりぬ。 その時とき親恵しんけいと改あらたむ。

-然而中河ノ東北院ノ附弟相続之儀ハ依↠為タルニ↢大切↡。父祖ノ之御計雖↠令↢下向↡、往日之旧好難↠忘、山門之交衆猶本望之由依↢相存↡申↢子細↡之刻、可↠任↠意ニ之由面々被↠仰之間、五月五日、入↢彼ノ法印之坊磯嶋ノ引接坊ニ↡了ヌ。其ノ時改ム↢親恵ト↡。

五いつ日か、 もしは憚はばかりあるかの由よしその沙汰さたありといへども、 日ひ吉よし小こ五ご月がつの会日かいじつなり、 ことに1402よろしかるべき由よし法印ほういん申もうせらるるによりて、 その節せつを遂とぐ。 故ゆえに引ひき出で物ものとして弘法こうぼう大だい師しの御筆おんふでの 「如にょ意い輪りん大呪だいじゅ」 をこれ与あたへらる。

-五日、若有↠憚歟之由雖↠有ト↢其ノ沙汰↡、日吉小五月ノ会日也、殊可↠宜之由法印依↠被↠申、遂グ↢其ノ節ヲ。故ニ為シテ↢引出物ト↡弘法大師ノ御筆「如意輪大呪ヲ」被↠与↠之。

それよりこのかた同どう宿しゅくの後のち、 ¬法花ほけ経きょう¼ 一いち部ぶ八巻はっかん一日いちにちにこれを伝受でんじゅしたまふ、 また十じゅう八道はちどうの加け行ぎょう同おなじくこれを伝受でんじゅしたまふ。 また懇望こんもうによりて、 心しん性しょう院いん吹すい挙ことして、 尊そん勝しょう院いんの僧そう正じょう 玄げん智ち、 時ときに大だい僧そう都ず の室しつに入いりおはりぬ。

-自↠其以来同宿之後、¬法花経¼一部八巻一日ニ伝↢受タマフ之↡、又十八道加行同伝↢受タマフ之↡。又依↢懇望ニ↡、為シテ↢心性院吹挙ト↡、入↢尊勝院ノ僧正 玄智、于時大僧都 室ニ↡了ヌ。

八月はちがつ十じゅう五ごの夜よる、 まづ面謁めんえつして、 同どう宿しゅくに及およばず、 密みっ宗しゅうの受法じゅほう等とう日ひを追おひてこれを励はげむ。

-八月十五ノ夜、先ヅ面謁シテ、不↠及↢同宿↡、密宗之受法等追↠日励↠之。

十じゅう一月いちがつ、 山門さんもんにおいて受戒じゅかいの牒ふだを清しょう書しょしたまふ大だい納な言ごんの法印ほういん浄じょう実じつの師し主しゅ、 青竜しょうりゅう院いんの二に品ぼん親王しんのう 慈じ道どう、 時ときに法ほっ性しょう寺じ座主ざす、 無む品ぼん親王しんのう、 僧そう正じょう参さん仕じの上うえ奉公ほうこうの号ごうのあひだ、 かくのごとく僧そう正じょうあひ計はからひたまふものなり。

-十一月、於↢山門ニ↡受戒之牒ヲ清書シタマフ大納言法印浄実ノ師主、青竜院二品親王 慈道、于時法性寺座主、無品親王、僧正参仕之上奉公之号間、如ク↠此僧正相計タマフ者也。

よりて当年とうねん十じゅう一月いちがつ十じゅう三日さんにち、 十じゅう楽院らくいんの准じゅん后こう大だい僧そう正じょう 道玄どうげん 御ご入にゅう滅めつ、 青龍しょうりゅう院いん御ご相続そうぞくなり。

-仍当年十一月十三日、十楽院ノ准后大僧正 道玄 御入滅、青龍院御相続ナリ。

十じゅう六歳ろくさい *同どう三さん、

十六歳 同三、

正しょう月がつ二十はつ日か、 尊そん勝しょう院いんに同どう宿しゅくす。 光恵こうけい僧そう正じょう 時ときに阿あ闍じゃ梨り 兄きょう弟だいの約やく大切たいせつたるべき由よしあひ勧すすむるあひだ、 二に月がつ六日むいか、 同車どうしゃせしめて日野ひのの大だい納な言ごん 時ときに中ちゅう納な言ごん の亭ていに向むかひて、 すなはち猶ゆう子しの約やくを成なりおはりぬ。 その席せきにおいて右衛うえ門もん権ごんの佐すけ資冬もとふゆ 光恵こうけいの舎兄しゃけい に謁えっす。 その後のち光玄こうげんと改あらたむ。 養よう父ふの名みょう字じ、 顕けん宗しゅうの師し匠しょうの名みょう字じ、 よろしかるべきの由よし、 僧そう正じょうあひ計はからはるるなり。

-正月廿日、同↢宿尊勝院↡。光恵僧正 于時阿闍梨 兄弟之約可↠為↢大切↡之由相勧之間、二月六日、令↢同車↡向テ↢日野大納言ノ 于時ニ中納言 亭ニ↡、則成↢猶子之約↡了ヌ。於↢其席↡謁↢右衛門権佐資冬↡ 光恵舎兄。其ノ後改↢光玄ト↡。養父之名字、顕宗師匠之名字、可キノ↠宜之由、僧正被↢相計↡也。

今月こんがつ十じゅう楽院らくいんに参さん仕じしたまふ。 三月さんがつ二十はつ日か、 有う職しきに補ほせらる 中ちゅう納な言ごんの新しん阿あ闍じゃ梨りと号ごうす。

-今月参↢仕タマフ十楽院↡。三月廿日、被↠補↢有職ニ↡ 号ス↢中納言新阿闍梨ト↡。

十じゅう七歳しちさい *徳とく治じ元がん、

十七歳 徳治元、

今年こんねん唯善ゆいぜん房ぼうの騒乱そうらんやうやくさらに発ほっす。 *霜月しもつきのころ、 大々だいだい上じょう重病じゅうびょうを受うけ御おん1403平びょう臥がの最さい中ちゅうなり、 御ご影堂えいどうの鎰かぎを乞こひたてまつりて嗷々ごうごうたるあひだ、 ひそかに逃のがれ出いでて衣え服ぶく寺じに移い住じゅうせしめたまひおはりぬ。

-今年唯善房騒乱漸更ニ発ス。霜月之比、大々上受↢重病↡御平臥ノ之最中ナリ、奉↠乞↢御影堂ノ鎰ヲ↡嗷々タル之間、窃ニ逃レ出テ令↣移↢住セ衣服寺ニ↡給了ヌ。

十じゅう八歳はっさい *同どう二に、

十八歳 同二、

四季しきの講こうに入いりたまふ。 夏季かきは衆しゅに入いり、 秋しゅう季きは講こう師しを懃つとむべきところに、 *四し月がつ十じゅう二に日にち、 大々だいだい上じょう御ご入にゅう滅めつのあひだ、 世せ諍じょうの治じしがたきによりてこれを勤つとめず。 よりて離り坊ぼうせしめおはりぬ。

-入タマフ↢四季ノ講ニ↡。夏季ハ入↠衆、秋季ハ可↠懃↢講師↡之処ニ、四月十二日、大々上御入滅之間、依↢世諍之難ニ↟治不↠勤↠之。仍令↢離坊↡了ヌ。

*四し月がつ十じゅう一日いちにちの夜よる、 大々だいだい上じょう仰おおせられていはく、 「たとひ隠遁いんとんの門もんに入いらずといへども当所とうしょの管かん領りょうとなるべき上うえは、 ことさらに房号ぼうごうあるべき」 由よし命めいぜられて、 すなはちこれを尊覚そんかくと授さずけらると 云々。 ただ中山なかやまの宮みやの御名みなとなすによりて、 尊そんを改あらため存ぞんとす。 これ先考せんこうの御おん計はからいなり。

-四月十一日ノ夜、大々上被↠仰云、縦雖↠不↠入↢隠遁之門↡可↠為↢当所ノ管領↡之上ハ者、故サラニ可↠有↢房号↡之由被テ↠命、則被↠授↢之ヲ尊覚ト↡ 云々。但依↠為↢中山ノ宮ノ御名↡、改↠尊為↠存。是先考之御計也。

大々だいだい上じょう御ご入にゅう滅めつの地ちは、 二に条じょう朱す雀ざくの衣え服ぶく寺じなり。 かの所ところは僧そう教きょう仏ぶつの宿しゅく所しょなり。 これまた先せん妣ぴの父ちちなり。 先せん妣ぴは大々だいだい上じょうに宮みや仕づかへたてまつりて、 初はじめは播はり磨まの局つぼね、 後のちは大だい夫ぶといふ。 予よ・兄きょう弟だい誕たん生じょうの後のち、 御上おんうえと号ごうしこれ、 四し十じゅう六才ろくさいにして入にゅう滅めつす。

-大々上御入滅之地者、二条朱雀ノ衣服寺也。彼ノ所者僧教仏ノ宿所也。是又先妣父也。先妣者奉↣宮↢仕大々上ニ↡、初ハ播磨ノ局、後ハ大夫ト云。豫・兄弟誕生之後、号シ↢御上↡之、四十六才ニシテ入滅ス。

十じゅう月がつより十じゅう二に月がつに至いたるまで、 樋ひ口ぐちの安あん養にょう寺じに経回けいかいす。 時ときに長ちょう老ろう阿あ日にち上しょう人にん彰しょう空くう、 聞法もんぼうのためなり。 「玄げん義ぎ」 より 「定じょう善ぜん義ぎ」 に至いたるまでこれを聴ちょう聞もんしおはりぬ。

-自↢十月↡至↢十二月↡、経↢廻ス樋口ノ安養寺ニ↡。于時長老阿日上人彰空為↢聞法ノ↡也。自↢「玄義」↡至↢「定善義」↡聴↢聞之↡了ヌ。

十じゅう一月いちがつ、 伊達だての郡こおり野辺のべの了りょう専せん ならびに 子し息そく了りょう意い 時ときに九く良りょう 両りょう人にん上じょう洛らく 衣え服ぶく寺じ、 世せ諦たいの御おん無む力りきなるを見みたてまつりて大だい上じょうに同道どうどうしたてまつり奥おう州しゅうに下げ向こうす。 予よは御お留守るすなり。

-十一月、伊達ノ郡野辺了専 并 子息了意 于時九良 両人上洛 衣服寺、 奉テ↠見↢世諦ノ御無力ナルヲ↡奉↣同↢道大上↡下↢向ス奥州ニ↡。豫ハ御留主。

十じゅう九く歳さい *同どう三さん、 延えん慶きょう元がん、

十九歳 同三、延慶元、

四し月がつに御ご上じょう洛らく以後いご、 法興ほうこう院いんの辻つじ子こに御ご居きょ住じゅうなり。 これにおいて今いま出で川がわ1404の上じょう臘ろう 二に十じゅう七歳しちさい、 延明えんめい門院もんいん按察あさ 小お野のの宮みやの中将ちゅうじょうの入にゅう道女どうにょ 両りょう人にん連々れんれん通信つうしんせしむ。 入にゅう道女どうにょはすなはち御ご同どう宿しゅく、 三み室むろの戸とに御ご篭居ろうきょ、 御ご離り別べつ已後いご、 翌年よくねん十じゅう二に月がつに他た界かいなりと 云々。

-四月ニ御上洛以後、御↢居住也法興院ノ辻子ニ↡。於↠是今出川上臘 廿七歳、延明門院按察 小野宮中将入道女 両人連々令↢通信↡。入道女ハ即御同宿、依テ御↢篭居三室ノ戸ニ↡、御離別已後、翌年十二月ニ他界也ト 云々。

即そく生しょう房ぼうの息女そくにょは、 中ちゅう納な言ごんの阿あ闍じゃ梨り光助こうじょ 光円こうえん卿きょう猶ゆう子し に嫁かす。 後のち大原おおはらの青しょう蓮院れんいんの二に品ぼん親王しんのう 尊助そんじょ に祇し候こうして坊官ぼうかんと成なり、 中ちゅう納な言ごんの上じょう座ざと号ごうす。 子し息そく中ちゅう納な言ごんの律りっ師し源伊げんいんは、 山門さんもんの堂僧どうそうなり。 上しょう人にんの御ご舎弟しゃてい*尋じん有う僧そう都ずは、 東塔とうとう善法ぜんぽう院いんの坊ぼう主ずなり。 由ゆ縁えんによりて源伊げんいんにこの坊ぼうを相伝そうでんしおはりぬ。 舎弟しゃてい中ちゅう納な言ごんの上じょう座ざ光こう昌しょうは、 竹内たけうちの僧そう正じょう 慈じ順じゅん 坊人ぼうにんなり。 常じょう寿じゅ院いんの宮みや御治ごち山さんの時とき、 上しょう人にんの遺ゆい跡せきにおいては、 源伊げんいん卿きょう管かん領りょうを致いたすべき由よし沙汰さたを出いだす。 よりて執しゅう事じす、 兵ひょう衛えの督かみの法印ほういん公尋こうじん 後のち僧そう正じょうに至いたる 奉ぶ行ぎょうとして問もん状じょうの令りょう旨じを成じょうぜらる。 しかるを申もうし披ひらかるるに別べつ事じなし。 来善らいぜんは、 即そく生しょう坊ぼうの下げ人にんなり。 よりて子し孫そん等ら源伊げんいん相伝そうでんのあひだ、 大々だいだい上じょうに譲ゆずりたてまつり買得ばいとくせらると 云々。

-即生房之息女ハ者、嫁↢中納言阿闍梨光助ニ↡ 光円卿猶子。後祇↢候シテ大原ノ青蓮院二品親王 尊助↡ 成↢坊官↡、号↢中納言上座ト↡。子息中納言ノ律師源伊者、山門ノ堂僧也。上人御舎弟尋有僧都ハ者、東塔善法院坊主也。依↢由縁↡源伊ニ相↢伝シ此坊↡了ヌ。舎弟中納言上座光昌ハ、竹内ノ僧正 慈順 坊人也。常寿院ノ宮御治山之時、於↢上人之遺跡ニ↡者、源伊卿可↠致↢管領↡之由出↢沙汰ヲ↡。仍テ執事ス兵衛ノ督法印公尋 後至↢僧正↡ 為↢奉行ト↡被↠成↢問状之令旨ヲ↡。然ヲ而被ルニ↢申披↡無↢別事↡。来善ハ者、即生坊ノ下人也。仍テ子孫等源伊相伝之間、奉↠譲↢大々上↡被↢買得↡ 云々。

かの調ちょう度どの文書もんじょにあひ副そへ、 大々だいだい上じょうより予よに譲じょう与よせられおはりぬ。

-相↢副彼ノ調度ノ文書↡、自↢大々上↡被↣譲↢与于豫ニ↡了ヌ。

御ご門弟もんてい三方さんぽうの使し者しゃ上じょう洛らくす 法興ほうこう寺じ辻つじ子この御宿おんやど。 鹿か嶋しまの順性じゅんしょう 順慶じゅんきょうの父ちち が使つかいは浄じょう信しんなり、 高たか田だの*顕けん智ち 常じょう専せんの曾そう祖父そふ が使つかいは善ぜん智ちなり、 和田わだの信しん寂じゃくが使つかいは寂静じゃくじょう 子し息そくなり。 おのおの申もうしていはく、 巨多こたの料りょう足そくをもつて院宣いんぜんを改あらたむ、 門弟もんてい多た年ねん管かん領りょうを致いたすところに、 唯公ゆいこう一向いっこうに押おう領りょうして、 山僧さんぞう等らを北殿ほくでんに置おかるるあひだ、 門弟もんてい等ら参さん入にゅうするにかつ憚はばかりあり、 また本ほん意いに背はいして、 はやく申もうし披ひらかれ、 安あん堵どせしむ様よう御おん沙汰さたあるべしと 云々。

-御門弟三方ノ使者上洛ス 法興寺辻子ノ御宿。鹿嶋ノ順性ガ 順慶父 使ハ浄信也、高田ノ顕智ガ 常専曾祖父 使ハ善智也、和田ノ信寂ガ使ハ寂静 子息也。各申テ云、以↢巨多之料足ヲ↡改↢院宣↡、門弟多年致↢管領↡之処ニ、唯公一向ニ押領シテ、被↠置ヲカ↢山僧等於北殿ニ↡之間、門弟等参入スルニ且 ツ有↠憚ハヾカリ、又背テ↢本意ニ↡、早ク被↢申披↡、令↢安堵↡之様可↠有↢御沙汰↡ 云々。

し1405かるにその時とき洛らく中ちゅうの雑ざっ訴そ等ら勅ちょく裁さいに及およばず。 ひとへに使し庁ちょうの沙汰さたとすべき由よし定さだめらるるあひだ、 法ほうに任まかせてその沙汰さたを経へおはりぬ。

-而其ノ時洛中ノ雑訴等不↠及↢勅裁ニ↡。偏可↠為↢使庁ノ沙汰↡之由被↠定之間、任↠法ニ経↢其沙汰↡了ヌ。

時ときに*大だい理り三さん条じょうの坊門ぼうもん宰さい相しょうの中将ちゅうじょう通顕みちあき 後のち内ない大臣だいじんに至いたる時ときに十じゅう九く才さい、 刑けい部ぶ卿きょうの入にゅう道どう顕盛あきもり朝臣あそん 時ときに前さきの宮く内ない大たい輔ふ 納々のうのう読書どくしょの師し範はんなり。 大だい理りの父ちちの内ない大臣だいじん通重みちしげ 時ときに大だい納な言ごん は、 右う少しょう辨べん有正ありまさ 時ときに前さきの甲斐かいの司つかさ 無む双そうの文友ぶんゆう・知己ちきなり。 よりて叔しゅく姪めい・父子ふし所縁しょえん他たに異ことなるあひだ、 安あん堵どの庁ちょう裁さいを申もうし下くだされおはりぬ。 かくのごとく当方とうほう安あん堵どせしむといへども、 敵方てきがたの山さん徒と退たい出しゅつに及およばず。 しかれども使し庁ちょうの下部かぶ等ら嗷ごう義ぎを致いたすべきにあらざるあひだ停滞ていたいす。 この人々ひとびと申もうしていはく、 かさねてまた 伏ふし見みの 院宣いんぜんを申もうし賜たまはずは、 この事こと道断どうだんしがたきかと 云々。

-于↠時大理三条ノ坊門宰相ノ中将通顕 後至↢内大臣↡于時十九才、刑部卿入道顕盛朝臣 于時前宮内大輔 納々読書之師範也。大理父内大臣通重 于時大納言 者、右少辨有正 于時前甲斐司 無双之文友・知己也。仍叔姪・父子所縁異↠他ニ之間、被↣申↢下安堵之庁裁↡了ヌ。如↠此当方雖↠令↢安堵↡、敵方之山徒不↠及↢退出ニ↡。然ドモ而使庁ノ下部等非↠可↠致↢嗷義↡之間停滞ス。此人々申云、重テ又不↣申↢賜 伏見 院宣↡者、此事難↢道断↡歟 云々。

よりて故こ日野ひのの大だい納な言ごん俊光としみつ卿きょう 時ときに中ちゅう納な言ごん に属つきてこの子し細さいを述のべらるるところに、 伺うかがひ試ためすべき由よし領状りょうじょうす。 よりて七しち、 八はち箇か日にちを経へて後のち、 催促さいそくのために小すこしき酒肴しゅこうを随身ずいしんしてかの亭ていに渡と御ぎょしたまふ時とき、 かの卿きょうのいはく、 奏聞そうもんを経ふるところに、 使し庁ちょうの成敗せいばいの由よし聞きこしめさるる旨むね仰おおせ下くださる条じょう、 子し細さいあるべからざる由よし勅ちょく答とうなり。 よりて畏い悦えつきはまりなし。 しかればすなはち拝はい領りょう何様なにさまにすべきかの由よし仰おおせらるるあひだ、 当とう座ざにおいて記き書しょ渡わたされおはりぬ。

-仍属↢故日野大納言俊光卿↡ 于時中納言 被↠述↢此子細↡之処ニ、可↢伺ヒ試↡之由領状ス。仍経↢七、八箇日↡之後、為↢催促ノ↡随↢身シテ小酒肴ヲ↡渡↢御シタマフ彼ノ亭ニ↡之時、彼ノ卿ノ云、経↢奏聞↡之処ニ、使庁成敗之由被↢聞召↡之旨仰下之条、不↠可↠有↢子細↡之由勅答也。仍畏悦無↠極。然者則拝領可↠為↢何 ニ様↡哉之由被↠仰之間、於↢当座↡記書渡サレ了ヌ。

その詞ことばにいはく、 「親鸞しんらん上しょう人にんの影堂えいどう ならびに 敷しき地ちの事こと、 正しょう安あんの院宣いんぜんに任まかせ使し庁ちょう成敗せいばいの由よし聞きこしめらるれば、 院宣いんぜんかくのごとし。 よりて執達しったつ件くだんのごとし。 延えん慶きょう元年がんねん 月がつ 日じつ判はん、」 表おもて書がきは、 「親鸞しんらん上しょう人にん門弟もんてい等ら中ちゅうへ、 俊光としみつ」と 云々。

-其ノ詞ニ云ク、「親鸞上人ノ影堂 并ニ 敷地ノ事、任↢正安ノ院宣ニ↡使庁成敗之由被↢聞召↡者、院宣如↠此。仍執達如↠件。 延慶元年 月 日判、」表書、「親鸞上人門弟等中ヘ、俊光ト。」云々

かくのごとく沙汰さた致いたすところに、 唯公ゆいこうまた異ことなる方便ほうべん1406を廻めぐらして、 青しょう蓮院れんいんに申もうして、 院宣いんぜんを門跡もんぜきに申もうし成ならさしむ。 大たい旨しにいはく、 「妙みょう香院こういん、 法楽ほうらく寺じの敷しき地ちを領りょうする事こと、 先せん規きに任まかせ一同いちどう計はからいの御おん沙汰さたあるべき由よし、 院宣いんぜんの候そうろふところなり。 よりて言上ごんじょう件くだんのごとし。 俊光としみつ恐きょう惶こう頓首とんしゅ謹言きんげん。 延えん慶きょう元年がんねん 月がつ 日じつ判はんじたてまつる」、 表おもて書がきにいはく、 「進しん上じょう青しょう蓮院れんいんの法印ほういんの御房おんぼうに、 俊光としみつ」 と 云々。

-如↠此致↢沙汰↡之処ニ、唯公又廻ラシテ↢異ナル方便ヲ↡、申↢青蓮院ニ↡、令↣申↢成サ院宣ヲ於門跡ニ↡。大旨云、「妙香院領スル↢法楽寺ノ敷地↡事、任↢先規ニ↡一同可↠有↢計ヒノ御沙汰↡之由、院宣所↠候也。仍言上如↠件。俊光恐惶頓首謹言。 延慶元年 月 日判奉ル、」表書ニ云、「進上青蓮院法印ノ御房ニ、俊光ト。」云々

この青しょう蓮院れんいん 慈じ深しん は、 後のちの光こう明みょう峰寺ぶじの摂せっ政しょう 家経いえつね の御息おんそくなり、 僧そう正じょうの後のち御ご遁世とんせいにて海津かいしん僧そう正じょうの御房おんぼう 大だい乗じょう院いんの御おん師し と号ごうす。

-此ノ青蓮院者 慈深、後ノ光明峰寺摂政 家経ノ 御息ナリ、僧正之後御遁世ニテ号ス↢海津僧正御房ト↡ 大乗院ノ御師。

この院宣いんぜん以後いご、 門跡もんぜきより当方とうほうに仰おおせらるる様よう、 もとより門跡もんぜきにおいて成敗せいばいあるべきところに、 院宣いんぜん使し庁ちょうの沙汰さたに及およぶ条じょう、 存外ぞんがいの次し第だいなり。 本所ほんじょにおいて訴そ諌かんを究きわむるべき由よし仰おおえらるるあひだ、 仰ぎょう天てんきはまりなし。 よりて三方さんぽうの使し節せつ大たい略りゃく退屈たいくつす。 その上うえ無む足そくの在ざい京きょう治じしがたきあひだ、 まづ帰き国こくしおはりぬ。 この沙汰さた不ふ慮りょに延引えんいんす。

-此ノ院宣以後、自↢門跡↡被↠仰↢当方↡之様、自↠元於↢門跡↡可↠有↢成敗↡之処ニ、及↢院宣使庁之沙汰ニ↡之条、存外之次第也。於↢本所↡可↠究↢訴諌↡之由被↠仰之間、仰天無↠極。仍テ三方ノ使節大略退屈ス。其上無足之在京難↠治之間、先帰国シ了ヌ。此ノ沙汰不慮延引ス。

九く月がつのころ、 老ろう母も処々しょしょを経歴きょうりゃくして、 器き量りょう聡敏そうびんの僧そう、 もし要ようするところの事ことあらば、 挙あぐべき由よし示しめさるるところに、 毘び沙しゃ門もん谷だにの寺務じむ証しょう聞院もんいんの僧そう正じょう観高かんこうの坊ぼうに至いたりて、 上かみの件けんの子し細さいを述のべらるるあひだ、 大切たいせつの由よし返答へんとうなり。 もとより日野ひのの中ちゅう納な言ごん殿どのの御ご猶ゆう子しなれば、 かの卿きょうの状じょうを付ふさるる寺務じむ僧そう正じょうにおいては、 子し細さいあるべからざる由よし、 弟子でしの俊しゅん覚かく僧そう正じょう 時ときに少しょう僧そう都ず あひ計はからふあひだ、 悦えっ喜きせしむ。

-九月之比、老母経↢歴シテ処々↡、器量聡敏ノ僧、若有ラバ↢所↠要事↡者、可↠挙之由被↠示之処ニ、至↢毘沙門谷ノ寺務証聞院僧正観高ノ坊↡、被↠述↢上件ノ之子細ヲ↡間、大切之由返答也。自リ↠元為↢日野中納言殿ノ御猶子↡者、被↠付↢彼ノ卿ノ状ヲ↡於↢寺務僧正↡者、不↠可↠有↢子細↡之由、弟子俊覚僧正 于時少僧都 相計之間、令↢悦喜セ↡。

よりて九く月がつ九ここの日か、 大だい上じょう御ご同道どうどうありて、 家か督とく卿きょうに仰おおせらるるあひだ、 左右さうなく領状りょうじょうしたまふ。 翌日よくじつ遣つかはし取とらるる時とき、 相そう違いなく書かき与あたへられおはりぬ。 その状じょうにいはく、 「光玄こうげん阿あ闍じゃ1407梨り一門いちもんとしての上うえ、 猶ゆう子しにて候そうろふ。 御ご同どう宿しゅく候そうろふは、 本望ほんもうとすべきに候そうろふ。 しばらく内々ないないに九く条じょう殿どのに申もうすべく候そうろふ。 恐々きょうきょう謹々きんきん。 九く月がつ十とお日か、 俊光としみつ」 と、 表おもて書がきにいはく、 「中ちゅう納な言ごんの法印ほういん御房おんぼう」 と。 よりてこの状じょうを帯たいし、 証しょう聞院もんいん坊ぼうの法印ほういんならびに僧そう都ずに向むかひて対面たいめんす。 いくばくもなくして、 尊そん勝しょうの供く僧そう朝ちょう遍へん阿あ闍じゃ梨りの遁世とんせいの闕かけたるを補ほせらるるなり。 しかれども年内ねんないは入にゅう寺じ移い住じゅうに及およばず。

-仍九月九日、大上有テ↢御同道↡、被↠仰↢家督卿ニ↡之間、無↢左右↡領状シタマフ。翌日被↢遣シ取↡之時、無↢相違↡被↢書与↡了ヌ。其状云、「光玄阿闍梨為↢一門↡之上、猶子ニテ候。御同宿候ハ者、可↠為↢本望↡候。且内々可↠申↢九条殿↡候。恐々謹々。 九月十日、俊光ト、」表書ニ云、「中納言法印御房ト。」仍テ帯↢此ノ状↡、向↢証聞院坊ノ法印并ニ僧都↡対面ス。無シテ↠幾、被↠補セ↢尊勝ノ供僧朝遍阿闍梨ノ遁世ノ闕タルヲ↡也。然ドモ而年内ハ不↠及↢入寺移住ニ↡。

二に十歳じっさい *延えん慶きょう二に、

廿歳 延慶二、

正しょう月がつより証しょう聞院もんいんに居きょ住じゅうして、 次し第だいに受法じゅほう等らこれを遂とげおはりぬ。

自↢正月↡居↢住シテ証聞院↡、次第ニ受法等遂↠之了ヌ。

去年きょねんの三方さんぽうの使し節せつ、 夏なつのころ上じょう洛らくす、 執とりてこの事ことを沙汰さたせんとするなり。 よりて門跡もんぜきの奉ぶ行ぎょう伊与いよの法眼ほうげん承じょう任にんが宿しゅく所しょに罷まかり向むかひ、 連々れんれん問答もんどうす。 所詮しょせん訴そ諫かんに及およばず、 両りょう方ほう門跡もんぜきに参候さんこうす。 雑ざっ掌しょうをもつて対決たいけつを遂とぐべき由よし治じ定じょうせり。

-去年ノ三方ノ使節、夏比上洛ス、為↣執テ沙↢汰セント此ノ事↡也。仍罷リ↢向ヒ門跡ノ奉行伊与ノ法眼承任ガ宿所ニ↡、連々問答ス。所詮不↠可↠及↢訴諫↡、両方参↢候ス門跡ニ↡。以↢雑掌↡可↠遂↢対決↡之由治定セリ。

よりて大だい上じょう三み室むろ戸どより御ご出京しゅっきょうにて、 *七月しちがつ上旬じょうじゅんのころ、 出いでて対たいす。 青しょう蓮院れんいん両りょう方ほうの正しょう員いんを別所べっしょに置おかれて、 雑ざっ掌しょうをもつて重かさね々がさね対決たいけつす。 不ふ審しんの事こと等らおのおの正しょう員いんに尋たずねられ、 両りょう方ほうの申状もうしじょうことごとく記しるし置おかれ退散たいさんす。 この時とき是非ぜひに及およばざるなり。 評ひょう判ばんに、 その後のち当方とうほう本所ほんじょの御おん下知げちに顕あらわれおはりぬ。 その詞ことばの大たい途とは、 正しょう安あんの院宣いんぜんに任まかせ庁ちょう宣せんにまた院宣いんぜんを重かさぬれば領掌りょうしょうす。 子し細さいあるべからざる由よし御おん下知げちなり。

-仍テ大上自↢三室戸↡御出京ニテ、七月上旬之比、出テ対ス。青蓮院被テ↠置↢両方之正員ヲ於別所ニ↡、以↢雑掌ヲ↡重 ネ々ガサネ対決ス。不審事等各被↠尋↢正員↡、両方ノ申状悉ク被↢記置↡退散ス。此時不↠及↢是非↡也。評判ニ、其後当方顕↢本所ノ御下知ニ↡了ヌ。其ノ詞ノ大途者、任↢正安ノ院宣↡庁宣ニ又重ヌレバ↢院宣ヲ↡領掌。不↠可↠有↢子細↡由御下知也。

かくのごとく厳密げんみつの御おん沙汰さたに及およぶあひだ、 唯公ゆいこう関東かんとうに没落もつらくの刻きざみ、 御ご影えい・御ご骨こつを取とりたてまつりて、 鎌倉かまくらの常じょう葉ように安あん置ちしたてまつる。 田舎いなかの人々ひとびとかの所ところに群ぐん集じゅうすと 云々。

如↠此及↢厳密之御沙汰ニ↡之間、唯公没↢落関東↡之刻、奉↠取↢御影・御骨↡、奉↣安↢置鎌倉ノ常葉ニ↡。田舎ノ人々群↢集スト彼所ニ↡ 云々。

御おん留守るす識しきの事こと、 何様いかようにすべきか、 かくのごとく落居らっきょの上うえは、 移い住じゅうすべきか1408、 いかがの由よし使し節せつに尋たずねられしところ、 吾われ等ら左右さうなく計はかり申もうしがたきあひだ、 門もん徒と一同いちどうの衆しゅう儀ぎをもつて沙汰さたあるべき由よし返答へんとうなり。 よりて御ご影堂えいどうの御おん留守るすは性しょう善ぜんなり。

-御留守識之事、可↠為↢何様↡哉、如↠此落居之上ハ者、可↢移住↡歟、如何之由被↠尋↢使節ニ↡之処、吾等無↢左右↡難↢計申↡之間、以↢門徒一同之衆儀↡可↠有↢沙汰↡之由返答。仍テ御影堂ノ御留主ハ性善也。

二に十じゅう一歳いっさい *同三どうさん、

廿一歳 同三、

*正しょう月がつ、 大だい上じょう東国とうごくに御ご下げ向こう。 その故ゆえは御おん留守るす識しきの事こともし叶かなはずは、 志こころざしある人ひとと談だんじて、 別べつに一所いっしょを建こん立りゅうし生しょう涯がいを終おふる由よし内々ないないの御ご所存しょぞんなり。 勧進かんじん帳ちょうを草そうし試ためすかの由よし仰おおせ含ふくみのあひだ、 毘び沙しゃ門もん谷だにより草そうし進しんしおはりぬ。 たとひ四し、 五ご日にちの間あいだの思し案あんなり。 これ予よが筆削ひっさくの最初さいしょなり。 殊しゅ勝しょうの由よし感仰かんごうせられおはりぬ。 この時とき御ご影堂えいどう相続そうぞくの事ことならびに若州じゃくしゅう・伊賀いがの国くに久多くたの庄しょう等らの事こと、 条々じょうじょうことごとく御おん譲状ゆずりじょうに載のせこれを賜たてまつりおはりぬ。

-正月、大上御↢下向東国↡。其故者御留守識事若シ不↠叶者、談↢有↠志之人↡、別ニ建↢立一所ヲ↡終↢生涯↡之由内々ノ御所存也。勧進帳草シ試哉之由含↠仰之間、自↢毘沙門谷↡草シ進シ了ヌ。仮令四、五日ノ間ノ思案也。是豫ガ筆削之最初也。殊勝之由被↢感仰↡了ヌ。此時御影堂相続之事并ニ若州・伊賀ノ国久多庄等事、条々悉ク載↢御譲状↡賜↠之了ヌ。

*秋あきのころ、 御ご帰き洛らくなり。 安あ積づみ・鹿か嶋しまことに共ともにこれを許ゆるすあひだ、 御ご入にゅう洛らく已後いごすなはち御ご影堂えいどうに御おん居きょ住じゅうなり。 ただ文書もんじょを帯たいせらるに就つきて連々れんれんかくのごときの煩わずらい出しゅつ来らいす。 ことごとく門弟もんてい中ちゅうに出いださるるべき由よし、 面々めんめん申もうさしむるあひだ、 御ご斟しん酌しゃくありといへども、 出いだされずは御ご居きょ住じゅう治じしがたきあひだ、 留守るす識しき相そう承じょう券契けんけい・覚信かくしん御坊おんぼうの御ご状じょう出いだされおはりぬ。 その上うえ条々じょうじょう懇望こんもうの状じょうの事こと等ら寂静じゃくじょう申もうさしむるあひだ、 書かき出いだされおはりぬ。

-秋ノ比、御帰洛也。安積・鹿嶋殊共許↠之間、御入洛已後即御↢居住也御影堂ニ↡。但就↠被↠帯↢文書↡連々如ノ↠此煩出来ス。悉ク可↠被↠出↢門弟中↡之由、面々令↠申之間、雖↠有↢御斟酌↡、不↠被↠出者御居住難↠治之間、留守識相承券契・覚信御坊ノ御状被↠出了ヌ。其上条々懇望ノ状ノ事等寂静令↠申之間、被↢書出↡了ヌ。

十じゅう月がつのころ、 予よ、 証しょう聞院もんいん供く僧そうを辞じ退たいし離寺りじしおはりぬ。 所労しょろうの上うえ、 当所とうしょ安あん堵どの初はじめなれば、 相続そうぞく付ふ弟ていのための上うえは、 同どう宿しゅくすべき由よし大だい上じょう仰おおせらるるあひだ、 *厳命げんめいに応おうずる故ゆえなり。 離寺りじせしむといへども、 かの僧そう正じょう ならびに 弟子でし俊しゅん覚かく僧そう正じょうと、 生しょう涯がいの和わ睦ぼく相そう違いなし。

-十月ノ比、豫、証聞院辞↢退供僧↡離寺了ヌ。所労之上、当所安堵之初ナレバ、為↢相続付弟↡之上者、可↢同宿ス↡之由大上被↠仰之間、応ル↢厳命ニ↡之故也。雖↠令↢離寺↡、与↢彼ノ僧正 并 弟子俊覚僧正↡、生涯和睦無↢相違↡。

二に1409十じゅう二に歳さい *応おう長ちょう元がん、

廿二歳 応長元、

*五ご月がつのころ、 大だい上じょう越前えちぜんの国くにに御ご下げ向こう、 すなはち扈こ従しょうしたてまつりおはりぬ。 二に十じゅう余よ日にち大町おおまちの*如道にょどうの許もとに御ご居きょ住じゅう、 ¬教行きょうぎょう証しょう¼ を伝受でんじゅしたてまつるあひだ、 御おん与よ奪だつによりて、 予よ大たい略りゃくこれを授さずけおはりぬ。

-五月之比、大上御↢下向越前国ニ↡、則奉↢扈従↡畢ヌ。廿余日御↢居住大町ノ如道許↡、奉↣伝↢受¬教行証ヲ¼↡之間、依↢御与奪ニ↡、豫大略授ケ↠之了。

閏うるう六月ろくがつ二に十じゅう三日さんにち、 慈じ俊しゅん法印ほういん 十じゅう七歳しちさい、 童どう名みょう光珠こうしゅ 毘び沙門しゃもん谷だにの殿でん法印ぽういん 九く条じょう禅閤ぜんこうの御ご息そく、 忠恵ただやす の坊ぼうに向むかふ。 引導いんどうすべき由よししきりに仰おおせらるるあひだ、 予よひそかに計はからふなり。 しかるに先せん妣ぴ二に十じゅう五ご日にち、 逝去せいきょしたまふ。 よりて告ごう示じの間あいだ、 帰き房ぼうせしむ。 冬ふゆのころ、 帰き参さんして、 遂ついに出しゅっ家けしおはりぬ。 実じつ名みょうは光真こうしん、 仮け名みょうは右衛うえ門もんの督かみなり。 名なを改あらたむること度々たびたびなれども、 所詮しょせんは、 光真こうしん・光こう楯じゅん・光尋こうじん・光禅こうぜん・慈じ俊しゅんなり。

-閏六月廿三日、慈俊法印 十七歳、童名光珠 向↢毘沙門谷ノ殿法印ノ 九条禅閤御息、忠恵 坊ニ↡。可↢引導↡之由頻ニ被↠仰之間、豫秘ニ計也。而ニ先妣廿五日、逝去シタマフ。仍テ告示之間、令↢帰房↡。冬ノ比、帰参シテ、遂出家了ヌ。実名ハ光真、仮名ハ右衛門督也。改↠名度々ナレドモ、所詮ハ、光真・光楯・光尋・光禅・慈俊也。

秋あきのころ、 大だい上じょう勢せい州しゅうに御ご下げ向こう。 十じゅう月がつ、 今いま出で川がわの上じょう臘ろうと大だい上じょう御ご同どう宿しゅくなり。 同おなじき下げ旬じゅん離り別べつせられて、 御ご領りょう殿どの 従三じゅさん位み為信ためのぶ卿きょうの女むすめ、 法ほう名みょう相如そうにょ、 十じゅう九く歳さい を迎むかへらる。

-秋ノ比、大上御↢下向勢州ニ↡。十月、与↢今出川ノ上臘↡大上御同宿也。同キ下旬被テ↢離別↡、被↠迎↢御領殿ヲ↡ 従三位為信卿ノ女、法名相如、十九歳。

二に十じゅう三歳さんさい *正しょう和わ元がん、

廿三歳 正和元、

青しょう蓮院れんいんの宮みや門跡もんぜき三方さんかた 良りょう助じょ親王しんのう・尊円そんえん親王しんのう・慈じ道どう親王しんのう 御ご相論そうろんなり。 大だい上じょうもともよろしかるべき由よし仰おおせられ、 訴そ諫かんの事ことに労ろう功く他たに異ことなるなり。 この時とき光玄こうげんを光顕こうけんとす。

-青蓮院ノ宮門跡三方 良助親王・尊円親王・慈道親王 御相論也。大上尤可↠宜之由被↠仰、訴諫ノ事ニ労功異也↠他ニ。此ノ時光玄為↢光顕↡。

*夏なつのころ、 法ほう智ち発ほっ起きのために、 額がくを打うたれ寺てらを専修せんじゅ寺じと号ごうす。 同人どうにんこれを計はかり申もうす。 勘解かげ由ゆの小こう路じ二位にいの入にゅう道どう経けい伊いん卿きょう 法ほう名みょう寂じゃく伊いん これを書かく。 予よ、 錦にしきの小こう路じの僧そう正じょうに申もうしてこれを誂あつらふ。

-夏比、為ニ↢法智発起↡、被↠打↠額ヲ寺ヲ号↢専修寺ト↡。同人計リ↢申之↡。勘解由ノ小路二位ノ入道経伊卿 法名寂伊 書↠之。豫申↢錦小路僧正ニ↡誂↠之。

*秋あきのころ、 山門さんもんの事書ことがき到来とうらいす。 その旨趣しいしゅ、 一向いっこう専修せんじゅは往おう古こに停ちょう廃はいするところなり。 しかるに今いま専修せんじゅの号ごうしかるべからず。 早はやく破は却きゃくすべしと 云々。 座主ざすは裏うらの築つい地じの僧そう正じょう公こう什じゅうなり。 附ふ弟てい慈じ什じゅう僧そう正じょうは鷹たか司つかさの禅ぜん尼に 冬雅ふゆまさ卿きょうの伯はく母ぼ 曾孫そうそんのあひだ、 かの1410縁えんをもつて座主ざすと談だんぜしむ、 よりて無為ぶいなり。 しかれどもなほ定さだめて休やすまざるか、 卿きょうを枉まげて寺じ号ごうを改あらたむ。 しかればまづ額がくを撤てっすべきあひだ、 座主ざすならびに玄げん智ち僧そう正じょうあひ計はかるのあひだ、 その額がくを撤てっせらる。 後ご日じつ法ほう智ちわが寺てらに申もうし下くだして、 かの寺じ号ごうを用もちゐてこれを打うつと 云々。 この折節おりふし仙芸せんげい、 光玄こうげんに随したがふ。

-秋ノ比、山門ノ事書到来ス。其旨趣、一向専修ハ者往古ニ所↢停廃スル↡也。而今専修ノ号不↠可↠然。早可↢破却↡ 云々。座主ハ裏築地ノ僧正公什也。附弟慈什僧正者鷹司ノ禅尼 冬雅卿伯母 曾孫之間、以↢彼ノ縁↡令↠談↢座主↡、仍無為也。然モ而猶定テ不↠休歟、枉テ↠卿改↢寺号ヲ↡。然者先可↠撤↠額之間、座主并ニ玄智僧正相計ルノ之間、被↠撤↢其額↡。後日法智申↢下シテ吾寺ニ↡、用テ↢彼寺号ヲ↡打之 云々。此ノ折節仙芸随↢光玄ニ↡。

二に十じゅう四し歳さい *正しょう和わ二に。

廿四歳 正和二。

二に十じゅう五ご歳さい *正しょう和わ三さん、

廿五歳 正和三、

春はるのころ、 大だい上じょう尾び州しゅうに御ご下げ向こう、 扈こ従しょうしたてまつりおはりぬ。 二に十じゅう余よ日にち御ご逗とう留りゅう。

-春ノ比、大上御↢下向尾州↡、奉↢扈従↡了ヌ。廿余日御逗留。

大だい上じょう連々れんれん御ご所労しょろうのあひだ、 当とう寺じ管かん領りょうの事こと、 御ご存日ぞんじつより譲ゆずり与あたへらるべき由よし、 秋あきごろより連々れんれん仰おおせ下くださる。 固辞こじしたてまつりしところ、 身みにおいては当とう寺じを退しりぞくべくも、 管かん領りょうの事ことにおいては命めいに随したがはずんば、 聖跡せいせきをもつて牛ぎゅう馬ばの蹄ひずめに懸かくるか、 意こころにあるべしの由よし仰おおせらるるあひだ、 この上うえ固辞こじするに拠よりどころなきかのあひだ、 承しょう諾だくしたてまつる。

-大上連々御所労之間、当寺管領ノ事、自↢御存日↡可↠被↢譲与↡之由、自↢秋比↡連々被↢仰下↡。奉↢固辞↡之処、於↠身者可↠退↢当寺↡、於↢管領事↡不ンバ↠随↠命者、以↢聖跡↡可↠懸↢牛馬之蹄ニ↡歟、可↠在↠意ニ之由被↠仰之間、此上固辞スルニ無↠拠歟之間、奉↢承諾シ↡。

よりて*十じゅう二に月がつ二に十じゅう五ご日にち、 これを請こひ取とる。 その時とき絹きぬ一疋いっぴき・*用よう途と百ひゃっ疋ぴきこれを賜たてまつる。

-仍十二月廿五日、請↢取之↡。其時絹一疋・用途百疋賜↠之。

年内ねんない上じょう洛らくすべき人ひとなく、 越年えつねん已下いげ周章しゅうしょうせしむるところに、 法ほう智ち当年とうねん灯とう明みょう遅ち引いんす、 よりて二に十じゅう八日はちにち、 五ご百ひゃっ疋ぴき到来とうらいのあひだ、 冥慮めいりょに叶かなふ由よし御ご感かんなり。 これをもつて形かたちのごとく越年えつねん等らの沙汰さたを致いたしおはりぬ。 御ご渡と世せいの料りょう足そく上下かみしも四し人にんの衣え食じき員数いんずうを定さだめおはりぬ。

-年内無↧可↢上洛↡之人↥、越年已下令↢周章↡之処ニ、法智当年灯明遅引ス、仍廿八日、五百疋到来之間、叶↢冥慮↡之由御感也。以↠之如↠形致↢越年等之沙汰ヲ↡了。御渡世之料足上下四人之衣食被↠定↢員数↡了。

二に十じゅう六歳ろくさい *正しょう和わ四し、

廿六歳 正和四、

春はるごろ、 大だい上じょう借かりて窪くぼの坊ぼうに住じゅうせしめたまひおはりぬ。

-春比、大上令↣借住↢窪坊ニ↡給了ヌ。

二に1411十じゅう七歳しちさい *同どう五ご、

廿七歳 同五、

十じゅう二に月がつ、 奈な有うこれを迎むかふ。 大だい上じょうの御おん計はからいなり。

-十二月、奈有迎↠之。大上ノ御計也。

二に十じゅう八歳はっさい *文保ぶんぽう元がん、

廿八歳 文保元、

八月はちがつ下げ旬じゅんのころ、 大だい上じょう御ご夫ふう婦ふと予よと奈な有うと密々みつみつに天王てんのう寺じ・住吉すみよし等らに参詣さんけい。 今年こんねん御ご領りょう殿どの御ご離り別べつなり。

八月下旬之比、大上御夫婦ト豫ト奈有ト密々ニ参↢詣天王寺・住吉等ニ↡。今年御領殿御離別也。

二に十じゅう九く歳さい *同どう二に、

廿九歳 同二、

二に月がつのころ、 善ぜん照しょう房ぼうを迎むかへらる、 十じゅう九く才さい。

-二月之比、被↠迎↢善照房ヲ↡、十九才。

三さん十歳じっさい *元応げんおう元がん、

歳 元応元、

二に月がつ二に十じゅう八日はちにち、 光女こうにょ誕たん生じょうす 円興えんこう寺じの長ちょう老ろうなり。

-二月廿八日、光女誕生ス 円興寺ノ長老也。

五ご月がつのころ、 大だい上じょう参さん州しゅうに御ご下げ向こう、 伴ともしたてまつりおはりぬ。 参さん州しゅうより信しん州しゅうへ越こえしめたまひ、 飯いい田だの寂じゃく円えんが許もとに入にゅう御ぎょしたまふ。 御ご帰洛きろの時とき、 予よ瘧おこり病やまい、 横吹よこぶきの険けん路ろ馬うまに乗のりながら打だ在ざいしおはりぬ。 善ぜん教きょう扈こ従しょうしたてまつりて後のち、 師し匠しょうを捨すてて寂じゃく円えん直参じきさん。 寂じゃく円えん御ご勘かん気きに預あずかりおはりぬ。

-五月之比、大上御↢下向参州↡、奉↠伴シ了。自↢参州↡令↠越↢信州↡給、入↢御タマフ飯田ノ寂円ガ許ニ↡。御帰洛之時、豫瘧病、横吹之険路乍↠乗↠馬打在シ了ヌ。善教奉↢扈従↡之後、捨↢師匠↡寂円直参。寂円預↢御勘気↡了。

三さん十じゅう一才いっさい *同どう二に、

一才 同二、

仏光ぶっこう寺じの空くう性しょうはじめて参まいる 俗体ぞくたい弥や三郎さぶろう。 六ろっ波羅ぱら南みなみ方がた 越後えちごの守かみ維貞つねさだ の家け人にん比留ひるの左衛ざえ門もん大た郎ろう維広つねひろが中ちゅう間げんなり。 初参しょざんの時とき申もうしていはく、 関東かんとうにおいてこの御ご流りゅうを承うく。 念仏ねんぶつの知ち識しきは甘縄あまなわの了りょう円えん、 これ阿あ佐布ざぶの門人もんにんなり。 しかるに門もん徒との名みょう字じを懸かくるといへども、 法門ほうもん已下いげ御ご門流もんりゅうの事こと、 さらに存ぞん知ちせず。 たまたま在洛ざいらくせしむるあひだ、 参詣さんけいするところなり、 毎事ことごと御ご諷ふ誦じゅに預あずかるべしと 云々。

-仏光寺ノ空性初テ参ル 俗体弥三郎。六波羅南方 越後守維貞ノ 家人比留ノ左衛門大郎維広ガ之中間也。初参ノ之時申云、於↢関東↡承↢此御流↡。念仏ノ知識者甘縄ノ了円、是阿佐布ノ門人也。而雖↠懸↢門徒之名字↡、法門已下御門流ノ事、更不↢存知↡。適令↢在洛↡之間、所↢参詣↡也、毎事可↠預↢御諷誦↡ 云々。

その時とき大だい上じょう窪くぼに御ご対向たいこう、 この由よしを申もうし入いるるによりて、 御ご対面たいめんありといへども、 しかるごとき扶持ふじにおいては、 一向いっこうに予よが沙汰さたすべき由よし仰おおせ付つけられし上うえ、 ぢかにこの旨むねをかの男おとこに仰おおせ含ふくめらるるあ1412ひだ、 その後のち連々れんれん入にゅう来らいす。 所望しょもうによりて、 数すう十じっ帖ちょうの聖教しょうぎょうあるいは新草しんそうしあるいは書写しょしゃして、 その功こうを入いれおはりぬ。

-其時大上御↢対向窪ニ↡、依↣申↢入此由ヲ↡、雖↠有↢御対面↡、於↢如然之扶持ニ↡者、一向ニ可↠為↢豫ガ沙汰↡之由被↢仰付↡之上、直ニ此旨ヲ被↣仰↢含彼男ニ↡之間、其ノ後連々入来ス。依↢所望↡、数十帖聖教或ハ新草或書写シテ、入↢其ノ功↡了ヌ。

九く月がつのころ、 光星みつぼし丸まる生しょうず、 柏かしわの庭にわなり。

-九月之比 ロ、光星丸生ズ、柏庭也。

三さん十じゅう三才さんさい *元亨げんこう二に、

三才 元亨二、

五ご月がつ、 最さい勝しょう講こう行おこなはる。 先皇せんのう御治ごじ天てんの始はじめなり。 よりてことに清撰せいせんの御ご沙汰さたあり。 錦にしきの小こう路じの僧そう正じょうはじめて*証しょう義ぎに召めさる 講こう師しを兼かぬ。 よりて初しょ座ざの表白ひょうびゃくの事こと、 相続そうぞくのために招しょう引いんせらるるあひだ、 かの坊ぼうに罷まかり向むかひ、 終しゅう夜やこれを草そうす。 翌日よくじつ光こう勝しょう法印ほういん同車どうしゃせしめて帰き坊ぼうしおはりぬ。

-五月、最勝講被↠行ハ。先皇御治天之始也。仍テ殊有リ↢清撰之御沙汰↡。錦ノ小路僧正始テ被↠召↢証義ニ↡ 兼↢講師ヲ↡。仍初座表白ノ事、為↢相続↡被↢招引↡之間、罷リ↢向彼ノ坊↡、終夜草ス↠之。翌日光勝法印令↢同車↡帰坊シ了。

この両りょう年ねん、 口く舌ぜつの事こと相続そうぞくして、 つひに御ご勘かん気きに預あずかるあひだ、 *六月ろくがつ二に十じゅう五ご日にち、 退たい出しゅつせしむ。 牛王うしおう子じが辻つじ子こに寄き宿しゅくす。 七月しちがつ二十日はつか、 出京しゅっきょう、 江ごう州しゅう瓜う生りゅう津ずに著つく。 この年とし奥おう州しゅうにおいて越年えつねんす。 これは東国とうごくの同どう行ぎょう等ら和わ睦ぼくの口入くちいれのためなり。 来らい秋しゅうかならず申もうすべしと 云々。

-此ノ両年、口舌ノ事相続シテ、遂ニ預↢御勘気↡之間、六月廿五日、令↢退出↡、寄↢宿ス牛王子ガ辻子ニ↡。七月廿日、出京、著ク↢江州瓜生津ニ↡。是ノ年於↢奥州ニ↡越年ス。是者東国ノ同行等和睦口入之為 メ也。来秋必可↠申 云々。

三さん十じゅう四し才さい *元亨げんこう三さん、

四才 元亨三、

三月さんがつ晦日みそか、 奥おう州しゅうより江ごう州しゅう瓜う生りゅう津ずに著つく。

-三月晦日、自↢奥州↡著↢江州瓜生津ニ↡。

*五ご月がつ、 帰路きろに赴おもむく。 *了りょう源げんが建こん立りゅうするところの寺てらは山科やましななり。

-五月、赴↢帰路↡。了源ガ所ノ↢建立↡寺ハ山科也。

奥おう州しゅうの人々ひとびと上じょう洛らくし、 連署れんしょをもつて申もうせらる。 長なが井いの明みょう源げん 道信どうしん・鹿か嶋しまの順じゅん慶けい・成なり田たの信しん性しょう以下いげなり。 この後のち数年すうねん信海しんかいの門もん流りゅう参詣さんけいに及およばず、 近年きんねん上じょう洛らくす。 この後のち来こらるるところの同どう行ぎょう達たちに対たいして、 かくのごとく連署れんしょあり、 後のちの証しょうのために署しょを載のせらるるかの由よし申もうせしめ候そうろふあひだ、 四し十じゅう余よ輩はいの上じょう足そく加か判はんす。 しかして進覧しんらんに及およばず、 世せ上じょうの擾じょう乱らんの時とき焼しょう失しつしおはりぬ。 無む念ねんにおはりぬ。

-奥州ノ人々上洛シ、以↢連署ヲ↡被↠申。長井ノ明源 道信・鹿嶋ノ順慶・成田ノ信性以下也。此後数年信海ノ門流不↠及↢参詣↡、近年上洛ス。此後対シテ↢所↠被↠来之同行達↡、如↠此有↢連署↡、為↢後ノ証↡被↠載↠署哉之由令↠申候間、四十余輩ノ上足加判ス。然シテ者不↠及↢進覧↡、世上擾乱之時焼失シ了。無念了。

三さん1413十じゅう五ご才さい *正中しょうちゅう元がん、

五才 正中元、

七月しちがつ二に十じゅう四日よっか、 愛光あいこう誕たん生じょうす 在所ざいしょは仏光ぶっこう寺じなり。

-七月廿四日、愛光誕生ス 在所ハ仏光寺也。

八月はちがつ時じ正しょうの中ちゅう日にち、 山科やましなの興こう正しょう寺じ 空くう性しょう建こん立りゅうの寺てら 寺じ号ごうは大だい上じょう付つけらるるなり にて、 予よ供く養ようを致いたしおはりぬ。 装しょう束ぞくは鈍色どんじき、 甲こうの袈裟けさなり。

-八月時正ノ中日、山科ノ興正寺 空性建立ノ之寺寺号大上被↠付也、豫致↢供養↡了。装束ハ鈍色、甲ノ袈裟也。

三さん十じゅう六才ろくさい *同どう二に、

六才 同二、

八月はちがつ晦日みそか、 光徳こうとく丸まる誕たん生じょうす。

-八月晦日、光徳丸誕生ス。

三さん十じゅう七才しちさい *嘉か暦りゃく元がん。

七才 嘉暦元。

三さん十じゅう八才はっさい *嘉か暦りゃく二に、

八才 嘉暦二、

秋あきのころ、 立住りゅうじゅう坊ぼうを取とる、 空くう性しょうが沙汰さたなり。 この時とき今いま出で川がわの上じょう臘ろう随分ずいぶんの助じょ成じょうを致いたし菩ぼ提だいを訪たずねらるるための由よし示しめさるるなり。

-秋ノ比、取↢立住坊ヲ↡、為リ↢空性ガ沙汰↡。此ノ時今出川ノ上臘被↠致↢随分助成↡為↠被↠訪↢菩提↡之由被↠示也。

四し十じゅう一才いっさい *元徳げんとく二に、

四十一才 元徳二、

二に月がつ時じ正しょうの中ちゅう日にち、 仏光ぶっこう寺じを供く養ようす 本ほん寺じは興こう正しょう寺じと号ごうす、 一いち両りょう年ねん以い前ぜん、 山科やましなよりこれを移うつす、 予仏光ぶっこう寺じと改あらたむ、 導どう師しは予よなり。 聖しょう道どう出しゅっ仕しの儀ぎ式しきなり。

-二月時正ノ中日、供↢養ス仏光寺ヲ↡ 本寺ハ号興正寺、一両年以前、自↢山科↡移↠之、豫改↢仏光寺ト↡、導師ハ豫也。聖道出仕ノ儀式也。

夏なつのころ、 武む蔵さしの守かみ貞将さだゆき管かん領りょうを辞じす。

-夏ノ比、武蔵守貞将ユキ辞ス↢管領ヲ↡。

四し十じゅう二に才さい *元弘げんこう元がん、

四十二才 元弘元、

正しょう月がつ二に十じゅう二に日にち、 関東かんとうに進発しんぽつす 汁谷しるたに炎もえて以後いご窮きゅう困こんの故ゆえなり。 まづ瓜う生りゅう津ずに著つき、 奈な有う・光ひかり御ご前ぜん・光徳こうとく同道どうどうせしめ、 かの所ところに預あずけ置おきおはりぬ。 柏かしわの庭にわは無む住じゅう和か尚しょう同どう宿しゅくのところ、 塔たっ主す仁にん和寺なじを辞じして篭居ろうきょの刻きざみ、 東福とうふく寺じの普ふ門院もんいんに住じゅうす。

-正月廿二日、進↢発関東↡ 汁谷炎テ以後窮困之故也。先著↢瓜生津ニ↡、奈有・光御前・光徳令↢同道↡、預↢置キ彼ノ所ニ↡了ヌ。柏庭ハ者無住和尚同宿之処、塔主辞シテ↢仁和寺↡篭居之刻、住ス↢東福寺ノ普門院↡。

二に月がつ十じゅう一日いちにち、 甘縄あまなわの願念がんねん 誓海せいかい の宿しゅく所しょに著ちゃくす。

-二月十一日、著ス↢甘縄ノ願念 誓海 宿所ニ↡。

三月さんがつ八日ようか、 江ごう州しゅうにおいて瑠璃るり光女こうにょ生しょうず。

-三月八日、於↢江州↡瑠璃光女生ズ。

十じゅう二に月がつのころ、 倉柄くらがえが沙汰さたのため江ごう州しゅうに留とどめ置おき、 大おお晦日みそか、 倉柄くらがえが宿しゅく所しょに著ちゃくす。

-十二月ノ比、為↢倉柄ガ沙汰↡留↢置江州ニ↡、大晦日、著↢倉柄ガ宿所ニ↡。

伝つたえ聞きくに、 *今年こんねん大だい上じょう東国とうかんに御ご下げ向こう。 *如信にょしん上しょう人にんの三さん十じゅう三年さんねんの御おん忌きたるのあひだ、 かの御ご遺跡ゆいせきに詣もうでらるるためと 云々。

-伝聞、今年大上御↢下向東国ニ↡。為ルノ↢如信上人ノ三年ノ御忌↡之間、為↠被↠詣↢彼ノ御遺跡↡ 云々。

その御お留主るすの時とき、 慈じ法ほう1414梅うめ之のに嫁かせらると 云々 十じゅう三才さんさい。

-其ノ御留主之時、慈法被↠嫁セ↢梅之ニ↡ 云々 十三才。

四し十じゅう三歳さんさい *正しょう慶けい元がん、

四十三歳 正慶元、

今こん春しゅん真俗しんぞくに付つきて御ご用ようあり、 大だい上じょう関東かんとうを御ご経回けいかいの由よしこれを伝つたえ聞きく。大仏おさらぎ陸奥むつの守かみ貞有さだありの亭ていにおいて、 禅ぜん尼に 長ちょう楽らく寺じ殿どの これかの息女そくにょの介戚かいせきなり、 父ちちは花山はなやま院いん師藤もろふじ卿きょうなり。 仁にん和寺なじ妙みょう光こう寺じの塔たっ主す無む住じゅう禅ぜん師じ関東かんとうに下げ向こうのあひだ、 予よに就つきて申もうし承うく。 かの禅ぜん尼にと坊ぼう主ずと親服しんぷくのあひだ、 その引導いんどうによりて、 光女こうにょ長ちょう楽らく寺じの禅ぜん尼にの養よう子しとして同どう宿しゅくす。

-今春付↢真俗↡有↢御用↡、大上御↢経廻ノ関東↡之由 シ伝↢聞ヲ之。於↢大仏陸奥ノ守貞有ノ亭ニ↡、禅尼 長楽寺殿 是彼ノ息女ノ介戚也、父者花山院師藤卿也。仁和寺妙光寺ノ塔主無住禅師下↢向関東↡之間、就↠豫申承。彼ノ禅尼ト与↢坊主↡親服之間、依↢其ノ引導ニ↡、光女為↢長楽寺禅尼ノ養子↡同宿ス。

四し十じゅう四し歳さい *同どう二に、

四十四歳 同二、

関東かんとう没落もつらくの後のち、 予よが党やから大倉おおくら谷だにに住じゅうす。 これ静昭じゃくしょう法印ほういん関東かんとうに下げ向こうのあひだ、 申もうし通つうずによりてなり。 光徳こうとく丸まるにおいてはかの法印ほういん預あずかりて、 予よ両りょう人にん京きょうに上のぼる時とき、 念ねん性しょう一人ひとり召めし具ぐしおはりぬ。 これ空くう性しょうが同朋どうぼうなり、 後ご日じつにこれを聞ききて、 念ねん性しょう阿護あごを沼ぬま戸どに預あずかり置おく。 上じょう洛らくして長ちょう途と痢り病びょうのあひだ、 遠江とおとうみの国くに麻あさ田だにおいて逝せいす 仏光ぶっこう寺じの下もと。 また定じょう専せん奈な有うをかの所ところに預あずかり置おきて一身いっしん上じょう洛らくす。

-関東没落後、豫ガ党 ラ住↢大倉谷↡。是静昭法印下↢向関東↡之間、依↢申通↡也。於↢光徳丸↡者預テ↢彼ノ法印↡、豫両人京上之時、念性一人召具シ了ヌ。是空性ガ同朋也、後日ニ聞テ↠之、念性預↢置ク阿護ヲ於沼戸ニ。上洛シテ而長途痢病之間、於↢遠江ノ国麻田ニ↡逝ス 仏光寺下。又定専預↢置テ奈有ヲ於彼ノ所ニ↡一身上洛ス。

六月ろくがつ九日ここのか、 鎌倉かまくらを立たちて、 四し十じゅう九く院いんに至いたる、 四し十じゅう余よ日にちなり。 瓜う生りゅう津ずより仏光ぶっこう寺じに著つく。

-六月九日、立テ↢鎌倉↡、至↢四十九院ニ↡四十余日也。自↢瓜生津↡著↢仏光寺↡。

愛光あいこう女にょ、 去年きょねん十じゅう一月いちがつ十じゅう五ご日にち他た界かいの由よし始はじめてこれを聞きく、 九く才さい。

-愛光女、去年十一月十五日他界之由始テ聞↠之、九才。

霜月しもつきのころ、 刑けい部ぶの禅門ぜんもん 時ときに右う京きょう大だい夫ぶ予よと同道どうどうせしむ 万里まり小こう路じの一品いちぼん 宣坊せんぼう の亭ていに向むかふ、 光徳こうとく丸まるに恩おん賞しょうを申もうすためなり、 右う少しょう辨べん有正ありまさの子し息そくと称しょうす、 建こん立りゅうの子し細さいあり。 二に条じょうの大閤たいこう 南みなみ方がた前殿まえどの師基もろもと の御ご書しょ1415を帯たいしおはりぬ。

-霜月之比、刑部禅門 于時右京大夫与↠豫令↢同道↡ 向↢万里小路一品 宣坊ノ 亭ニ↡、光徳丸ニ為也↠申↢恩賞↡、称ス↢右少辨有正子息ト↡、有↢建立之子細↡。帯↢二条ノ大閤ノ 南方前殿師基 御書ヲ↡了ヌ。

四し十じゅう五ご歳さい *建けん武む元がん、

四十五歳 建武元、

仏光ぶっこう寺じの本尊ほんぞん開眼かいげんす、 夜や陰いんに内々ないないの儀ぎなり。

-仏光寺ノ本尊開眼ス、夜陰ニ内々ノ之儀也。

春はるのころ、 光女こうにょ上じょう洛らくす。 *同どう七日なのか、 かの寺てらにおいて光こう威い丸まる生しょうず。

-春比、光女上洛ス。同七日、於↢彼寺↡光威丸生ズ。

四し十じゅう六歳ろくさい *建けん武む二に、

四十六歳 建武二、

光徳こうとく丸まる上じょう洛らくす。 二に月がつ時じ正しょう、 光女こうにょみづから髪かみを切きる 永禅ようぜん坊ぼうと号ごうす。

-光徳丸上洛ス。二月時正、光女自切ル↠髪 号永禅坊。

四し十じゅう七歳しちさい *同三どうさん、

四十七歳 同三、

夏なつのころ、 大だい上じょう溝杭みぞくい辺あたりに御ご下げ向こうと 云々。 坂本さかもとへの行ぎょう幸こう、 大谷おおたに殿どの上下かみしも数すう十じゅう人にんをあひ具ぐして、 瓜う生りゅう津ずに御ご没落もつらくありて、 御ご越年えつねんと 云々。

-夏ノ比、大上御↢下向溝杭辺↡ 云々。行幸坂本、大谷殿上下相↢具シテ数十人↡、御↢没落アリテ瓜生津↡、御越年ト 云々。

この御お留主るすに大谷おおたにの御み堂どうかくのごとく、 留主るすの御ご影堂えいどう ならびに御ご影えい 等とう回録かいろくしおはりぬ。 予よ・光徳こうとく丸まる塩しおの小こう路じ烏からす丸まの興国こうこく寺じに住じゅうす。

-此ノ御留主ニ大谷ノ御堂如之、留主ノ御影堂 并御影 等回録シ了ヌ。豫・光徳丸住↢塩ノ小路烏丸ノ興国寺ニ↡。

四し十じゅう八歳はっさい *同どう四し、

四十八歳 同四、

春はるのころ、 大だい上じょう御ご帰き洛らくにて西山にしやま 久く遠おん寺じ に御ご居きょ住じゅう。 上じょう臘ろう 十じゅう六歳ろくさい 前さきの源げん中ちゅう納な言ごん同どう宿しゅくのあひだ、 大だい上じょう等らかの亭ていに御ご同どう宿しゅくしおはりぬ。

-春ノ比、大上御帰洛ニテ御↢居住西山ニ↡ 久遠寺。上臘 十六歳 前ノ源中納言同宿之間、大上等御↢同宿彼ノ亭ニ↡了。

四し十じゅう九く歳さい *暦りゃく応おう元がん、

四十九歳 暦応元、

*三月さんがつ、 備びん後ごの国こく府ふ守しゅ護ごの前まえにおいて、 法ほっ花け宗しゅうと対決たいけつしおはりぬ。 御ご門弟もんてい望のぞみ申もうすによりて、 その憚はばかりを忘わすれ、 名みょう字じを改あらため悟ご一いちと号ごうして出いでて対こたへおはりぬ。 法ほっ花け宗しゅう屈くっす、 よりて当方とうほういよいよ繁はん昌じょうす。

-三月、於↢備後ノ国府守護ノ前↡、与↢法花宗↡対決了ヌ。御門弟依↢望申↡、忘↢其ノ憚ヲ↡、改↢名字ヲ↡号↢悟一ト↡出テ対ヘ了ヌ。法花宗屈ス、仍当方弥繁昌ス。

*その次ついでに ¬決けっ智ち抄しょう¼ を作つくりおはりぬ、 ¬仮名かな報恩ほうおん記き¼・¬至し道どう抄しょう¼ 各かく一いち帖じょう、 ¬選せん択じゃく註ちゅう解げ抄しょう¼ 五ご帖じょう 等とうなり。 ¬願がん名みょう抄しょう¼ は、 明みょう光こう京きょう都とにおいて所望しょもうのあひだ、 かの境さかいにおいて草そうし遣つかはしおはりぬ。

-其次ニ作↢¬決智抄ヲ¼↡了ヌ、¬仮名報恩記¼・¬至道抄¼ 各一帖、¬選択註解抄¼ 五帖 等也。¬願名抄¼者、明光於↢京都↡所望之間、於↢彼ノ境↡草シ遣了ヌ。

*閏うるう七月しちがつ、 帰き京きょうす。

-閏七月、帰京ス。

九く月がつ、 *愚ぐ咄とつ坊ぼうの口入くちいれによりて、 大だい上じょうの御ご免めんに預あずかる。 *同どう十じゅう八日はちにち、 愚ぐ咄とつ坊ぼうに相伴そうはんして参さんじお1416はりぬ。 その時とき八はち条じょうの源げん中ちゅう納な言ごん雅康まさやす卿きょうの亭ていに御ご在ざい京きょうなり。 同どう宿しゅくすべき由よし仰おおせらるるあひだ、 参さん住じゅうしおはりぬ。

-九月、依↢愚咄坊口入↡、預↢大上ノ御免ニ↡。同十八日、相↢伴愚咄トツ坊ニ↡参ジ了。其時御↢在京八条源中納言雅康卿ノ亭ニ↡也。可↢同宿↡之由被↠仰之間、参住了。

十じゅう月がつのころ、 御ご影えい反はん座ざの事こと、 唯善ゆいぜん房ぼうの遺ゆい跡せき承しょう諾だくせしむる由よしその説せつあるによりて、 高たか田だの*専空せんくう等ら御おん迎むかえのためにかの境さかいへ下げ向こう。 この上うえはいかでか動どう坐ざせざらん由よし仰おおせられ、 すなはち御ご下げ向こうなり。 予よ扈こ従しょうしたてまつりおはりぬ。 しかるにその実じつなきによりて、 専公せんこうむなしく帰き洛らくす、 尾び州しゅうにおいて参さん会えのあひだ、 御ご上じょう洛らくなり。 予よまた同前どうぜんなり。 御ご下げ向こうの時ときは、 まづ瓜う生りゅう津ずに著つく。 かの房ぼう主ず伴ともしたてまつり、 大和やまとの性しょう空くう同道どうどう。

-十月之比、御影反座之事、唯善房ノ遺跡令↢承諾↡之由依↠有ニ↢其説↡、高田ノ専空等為↢御迎↡下↢向彼境↡。此上ハ者争不↢動坐↡之由被↠仰、則御下向也。豫奉↢扈従↡了。而依↠無↢其ノ実↡、専公空帰洛、於↢尾州↡参会之間、御上洛也。豫又同前也。御下向之時者、先著ク↢瓜生津↡。彼房主奉↠伴シ、大和ノ性空同道。

十じゅう一月いちがつ 日じつ、 専空せんくうの沙汰さたにして、 今いまの御み堂どうを買得ばいとくして 本願ほんがん寺じ三さん十じゅう六貫ろっかん 建こん立りゅうしおはりぬ。 その時とき和田わだの寂静じゃくじょう上じょう洛らくせしめて、 同おなじくその沙汰さたを致いたしおはりぬ。

-十一月 日、為↢専空ノ沙汰↡、買↢得テ今御堂↡ 本願寺六貫 建立シ了。其ノ時和田ノ寂静令テ↢上洛↡、同ク致↢其沙汰↡了ヌ。

五ご十歳じっさい *暦りゃく応おう二に、

五十歳 暦応二、

三月さんがつのころ、 光徳こうとく丸まる新しん熊くま野の滝尻たきじりの智ち蓮光れんこう院いん 教きょう空くう に入にゅう室しつす。

-三月之比、光徳丸入↢室ス新熊野滝尻ノ智蓮光院 教空ニ↡。

*四し月がつ十じゅう二に日にち、 大々だいだい上じょう三さん十じゅう三回さんかい忌きの辰ときなり。 よりて一いち条じょうの亭ていにおいて法ほう事じ讃さんを行ぎょうぜらる。 無む足そくのあひだ、 名僧めいそう等らはこれなし。 慈じ法ほう・光徳こうとく 十じゅう五ご才さい 共ともに行ぎょうず。 予よは病びょう悩のうのあひだ、 出しゅつ現げんに及およばず。

-四月十二日、大々上三廻忌ノ辰トキ也。仍於↢一条ノ亭ニ↡被↠行↢法事讃ヲ↡。無足之間、名僧等ハ無↠之。慈法・光徳 十五才 共行ズ。豫ハ病悩之間、不↠及↢出現↡。

その後のち奈な有う病びょう悩のうするを、 亭主ていしゅ 中ちゅう納な言ごん 恐怖くふせしむるかの由よし推すい量りょうのあひだ、 大谷おおたにに移い住じゅうす。 その時ときいまだ房舎ぼうしゃ造ぞう立りゅうの沙汰さたに及およばず、 よりて御み堂どうの北きたの局つぼねに寄き宿しゅく。

-其後奈有病悩スルヲ、而亭主 中納言 令↢恐怖↡歟ノ之由推量之間、移↢住大谷ニ↡。其ノ時未↠及↢房舎造立之沙汰↡、仍寄↢宿御堂ノ北ノ局ニ↡。

秋あきのころ、 大だい上じょう南みなみの局つぼねに御ご入にゅう寺じ、 慈じ法ほう後うしろ戸どの挻えんに居きょ住じゅうす。

-秋ノ比、大上御↢入寺南ノ局ニ↡、慈法居↢住ス後戸挻ニ↡了。

五ご十じゅう二に歳さい *同どう四し、

五十二歳 同四、

正しょう月がつ 日じつ、 光こう威い丸まる粟あわ津つより上じょう洛らくす。 八月はちがつ二に十じゅう八日はちにち、 温泉おんせん1417に下げ向こう。 手て療りょう治じのためなり。 九く月がつ三日みっか、 帰き京きょうして大谷おおたにに住じゅうす。

-正月 日、光威丸自↢粟津↡上洛ス。八月廿八日、下↢向温泉ニ↡。為↢手療治↡也。九月三日、帰京シテ住↢大谷ニ↡。

五ご十じゅう三歳さんさい *康永こうえい元がん、

五十三歳 康永元、

湯とう治じのために五ご条じょう坊門ぼうもん室町むろまちの旅所たびしょに宿しゅくす。 その最さい中ちゅう御ご義ぎ絶ぜつの由よし仰おおせらるるあひだ、 大谷おおたにに帰き参さんするに及およばず、 塩しおの小こう路じ油あぶら小こう路じの顕けん性しょうが宿しゅく所しょに宿しゅくして越年えつねんしおはりぬ。

-為↢湯治ノ↡宿↢五条坊門室町ノ旅所↡。其最中御義絶之由被↠仰之間、不↠及↠帰↢参スルニ大谷ニ↡、宿↢塩ノ小路油小路顕性ガ宿所ニ↡越年了。

五ご十じゅう四し歳さい *同どう二に、

五十四歳 同二、

五ご月がつ 日じつ、 光こう威い丸まる毘び沙門しゃもん堂どうに向むかひ、 証しょう門院もんいんに住じゅうす。

-五月 日、光威丸向↢毘沙門堂↡、住↢証門院↡。

九く月がつのころ、 随心ずいしん院いんの前さきの大だい僧そう正じょうの坊ぼうの命めいによりて、 かの門跡もんぜきに参さん住じゅうす。 その時とき俊しゅん覚かく僧そう正じょうに遣つかはせらるる御ご書しょにいはく、 「光玄こうげん法印ほういん真弟しんていの小しょう童どう御ご同どう宿しゅくの由よし承うけたまわり及および候そうろふ。 召めし給たまひて候そうろひて出しゅっ家け羯かつ磨ま沙しゃ弥みを遂とぐは、 随したがはしむべき由よしに候そうろふなり」 と。 僧そう正じょうこの御ご書しょを賜たまひて左右さうなく領状りょうじょうす。 その時ときは予よ和わ州しゅうに居きょ住じゅう、 よりて談合だんごうに及およばず。 その子し細さいをかつ中ちゅう納な言ごんの公きみ 房宋ふさおり に談だんじて遣つかはせり。 その時とき勘解かげ由ゆの小こう路じの大だい納な言ごん 兼綱かねつな卿きょう、 時ときに蔵人くろうど学がく士し 猶ゆう子しの約やくを成なる。 よりて綱つなの字じはかの卿きょうの字じなり、 厳ごんは門主もんしゅ経きょう厳ごんの厳ごんの字じなり。 かの卿きょう猶ゆう子しの儀ぎは、 俊しゅん覚かく僧そう正じょうの媒介ばいかいなり。

-九月ノ比、依↢随心院前ノ大僧正ノ坊ノ命ニ↡、参↢住ス彼ノ門跡ニ↡。其ノ時被↠遣↢俊覚僧正ニ↡御書云、「光玄法印真弟ノ小童御同宿之由承及候。召シ給テ候而遂ハ↢出家羯磨沙弥↡、可↠令↠随之由ニ候也。」僧正賜テ↢此御書↡無↢左右↡領状ス。其ノ時ハ豫居↢住和州↡、仍不↠及↢談合↡。其ノ子細ヲ且 ツ談ジテ↢遣セリ中納言公 房宋↡。其ノ時勘解由ノ小路大納言 兼綱卿、于時蔵人学士 成↢猶子之約↡。仍綱ノ字ハ彼ノ卿ノ字也、厳ハ者門主経厳之厳ノ字也。彼ノ卿猶子儀ハ、俊覚僧正ノ媒介也。

十じゅう月がつ十じゅう七日しちにち、 出しゅっ家けす、 戒かい師しは門主もんしゅ僧そう正じょうの房ぼうなり。

-十月十七日、出家ス、戒師ハ門主僧正ノ房也。

十じゅう月がつ二十日はつか、 禅ぜん師じの御房おんぼう通厳つうごんに付ふ弟ていす、 *南なん都と東大とうだい寺じにおいて受戒じゅかいの時とき、 羯かつ磨ま沙しゃ弥みとして同おなじく登壇とうだんして受戒じゅかいし、 度ど縁えんを取とりおはりぬ。

-十月廿日、付弟ス禅師御房通厳、於↢南都東大寺ニ↡受戒之時、為↢羯磨沙弥↡同ク登壇シテ受戒シ、取↢度縁↡了。

五ご十じゅう五ご歳さい *同三どうさん、

五十五歳 同三、

二に月がつ 日じつ、 和わ州しゅうに下げ向こうして居きょ住じゅうす。

-二月 日、下↢向シテ和州↡居住ス。

十じゅう二に月がつのころ、 上じょう洛らくして大宮だいぐう寺じに居きょ住じゅうす。 上じょう洛らくの後のちいくばくせずして、 鹿か嶋しまの順じゅん慶けい・長なが井いの道空どうくう・飯いい田だの頓とん妙みょう寺じ上じょう洛らくす。

-十二月ノ比、上洛シテ居↢住ス大宮寺ニ↡。上洛之後不シテ↠幾、鹿嶋ノ順慶・長井ノ道空・飯田ノ頓妙寺上洛ス。

五ご1418十じゅう七歳しちさい *貞じょう和わ二に、

五十七歳 貞和二、

六月ろくがつ二に十じゅう七日しちにち、 ひそかに六ろく条じょうを退たいして、 綾あやの小こう路じ町まち 道どう性しょうが宿しゅく所しょ に寄き宿しゅくす。 その時ときの目めの所労しょろうもってのほかなるあひだ、 数日すうじつ休く息そくして柏かしわ木ぎの願西がんせい等ら種々しゅじゅに申もうす旨むねあるによりて、 七月しちがつ二に十じゅう五ご日にちに、 帰き住じゅうす。 その後のち和わ談だんの事こと面々めんめんこれを申もうすといへども、 つひに許容きょようせず。

-六月廿七日、窃ニ退テ↢六条↡、寄↢宿ス綾ノ小路町 道性ガ宿所ニ↡。其ノ時ノ目ノ所労以外ナル之間、数日休息シテ而柏木ノ願西等種々ニ依↠有↢申旨↡、七月廿五日ニ、帰住ス。其後和談ノ事面々雖↠申↠之、遂ニ不↢許容セ↡。

*九く月がつのころ、 済々さいさい上じょう洛らくせしめ、 和わ睦ぼくの事ことしきりにこれを申もうすといへども許ゆるされず。

-九月之比、済々令メ↢上洛↡、和睦之事頻ニ雖↠申↠之不↠許サレ。

同どう十じゅう一月いちがつ、 御ご報恩ほうおん別べつ時じの時とき、 またかさねて願西がんせい等らなほこれを申もうすといへども、 不ふ忠ちゅうの子し細さいを再往さいおう宣説せんぜつの時とき、 理りを伏ふして承しょう諾だくす。 すなはち面々めんめん下げ国こくの刻きざみ、 磯嶋いそじまにおいて別べつ時じを修しゅすべき由よし、 教きょう願がん申もうせしめ候そうろふあひだ、 ことごとくもつて下げ向こうす。

-同十一月、御報恩別時之時、又重願西等尚雖↠申↠之、不忠之子細ヲ再往宣説之時、伏シテ↠理承諾ス。則面々下国之刻、於↢磯嶋ニ↡可↠修↢別時↡之由、教願令↠申候間、悉以下向ス。

五ご十じゅう八歳はっさい *貞じょう和わ三さん、

五十八歳 貞和三、

二に月がつ上旬じょうじゅんのころ、 *綱厳こうごん随心ずいしん院いんを退たい出しゅつし帰き参さんすべき由よし仰おおせらるるといへども、 固辞こじし申もうす、 今いまに同どう宿しゅく。 和わ州しゅう・摂せっ州しゅうの輩やから、 柏かしわ木ぎに来きたるに至いたりて、 当方とうほうの族やから今年こんねん治じ定じょうしおはりぬ。 錦きん織しょく寺じの慈じ空房くうぼう、 当とう宗しゅうにおいて学問がくもんの懇こん志しある由よし示しめされしあひだ、 安あん養にょう寺じに遣けん挙こす。 かの引導いんどうのために、 円福えんぷく寺じに寄き宿しゅくす。

-二月上旬之比、綱厳退↢出随心院↡可↢帰参↡之由雖↠被↠仰、固辞シ申ス、于↠今ニ同宿。和州・摂州之輩、至↢柏木ニ来ルニ、当方之族今年治定シ了ヌ。錦織寺慈空房、於↢当宗↡有↢学問之懇志↡之由令↠示之間、遣↢挙ス於安養寺ニ↡。為↢彼ノ引導ノ↡、寄↢宿ス円福寺ニ↡。

十じゅう二に月がつのころ、 皆みなことごとく和わ州しゅうに下げ向こうして越年えつねんしおはりぬ。

-十二月之比、皆悉下↢向シテ和州ニ↡越年シ了ヌ。

五ご十じゅう九く歳さい *同どう四し、

五十九歳 同四、

*夏なつのころ、 慈じ空房くうぼう口入くちいれ、 宝塔ほうとう院いんの叡憲えいけん律りっ師し ¬信しん貴き鎮守ちんじゅの講式こうしき¼ を誂あつらへたるあひだ、 草そうし遣つかはしおはりぬ。

-夏ノ比、慈空房口入、宝塔院ノ叡憲律師誂ヘタル¬信貴鎮守ノ講式¼↡之間、草シ遣了ヌ。

六十ろくじっ歳さい *同どう五ご、

六十歳 同五、

*五ご月がつ二に十じゅう一日いちにち、 善ぜん照しょうの御房おんぼう御ご往おう生じょう、 御ご悲ひ歎たんの最さい中ちゅうなり、 御ご免めんの事こと種しゅ1419々じゅにこれを申もうすといへども叶かなはず。 同おなじきころ、 善ぜん照しょうの御房おんぼうを訪たずねたてまつるために、 慈じ公こう・寂じゃっ公こう上じょう洛らくす。 この由よし申もうし入いるるところに、 慈じ公こうは大宮おおみや方がたの縁者えんじゃなり、 叶かなふべからず。 寂じゃっ公こうは参さん入にゅうするに子し細さいあるべからずと 云々。 よりて慈じ公こう面目めんぼくを失うしなひてむなしく下げ向こうす、 寂じゃっ公こうは入いりて見参けんざんしおはりぬ。

-五月廿一日、善照御房御往生、御悲歎之最中也、御免事種々雖↠申↠之不↠叶。同キ比、為↠奉↠訪↢善照御房↡、慈公・寂公上洛ス。此由申入之処ニ、慈ジ公者大宮方ノ縁者也、不↠可↠叶。寂公者参入不↠可↠有↢子細↡ 云々。仍慈公失↢面目↡空ク下向ス、寂公者入テ見参シ了。

九く月がつ七日なのか、 和わ州しゅうより上じょう洛らくして、 六ろく条じょう大宮おおみやに著つく。 大和やまとの御ご免めんの事こと秘ひ計けいのためなり。 よりてあひ大だい理り 時光ときみつ、 時ときに蔵人くろうどの佐すけ のあひだ、 晦日みそかにかの卿きょうを召請しょうしょうしたてまつり、 この事ことを申もうすところ、 治じしがたき由よし御ご返答へんとうなり。 無む念ねんのあひだ、 十じゅう月がつ二日ふつかにこれを示しめす。

-九月七日、自↢和州↡上洛シテ、著↢六条大宮ニ↡。大和御免之事為↢秘計ノ↡也。仍テ相大理 時光、于時蔵人佐 之間、晦日ニ彼ノ卿ヲ奉↢召請↡、申↢此事↡之処ニ、難↠治之由御返答也。無念之間、十月二日ニ示↠之。

また*十じゅう月がつのころ、 学円がくえんを三み川かわ和田わだの道どう場じょうに遣つかはして門もん徒と口入くちいれの事ことこれを談だんず。 領状りょうじょうして、 便びん宜ぎを伺うかがふべしと 云々。

-又十月比、遣シテ↢学円ヲ三川和田ノ道場ニ↡門徒口入事談↠之。領状シテ、可↠伺↢便宜↡ 云々。

*同どう十じゅう一日いちにち、 蔵人くろうどの佐すけの西にし大おお路じの亭ていに向むかひて、 終しゅう日じつこの事ことを談だんず、 なほ便びん宜ぎをもつて意こころ得えらるべき由よしこれを懇望こんもうす。

-同十一日、向テ↢蔵人佐西大路ノ亭ニ↡、終日談↢此ノ事↡、猶以↢便宜↡可↠被↠得↠意之由懇↢望ス之ヲ↡。

六ろく十じゅう一歳いっさい *観応かんおう元がん、

六十一歳 観応元、

*五ご月がつのころ、 一いち行ぎょうを書写しょしゃして教きょう願がんを使し者しゃとなして西にし大おお路じに遣つかはす。 大谷おおたに御ご義ぎ絶ぜつの事こと、 なほ口入くちいれあるべき由よしを申もうしてこれを驚おどろかす。 申もうし試ためすべき由よし領状りょうじょうす。 よりて教きょう願がん六ろく条じょう大宮おおみやより連日れんじつ催促さいそくに往反おうはんす。

-五月之比、書↢写シテ一行ヲ↡於↢教願↡為シテ↢使者ト↡遣↢西大路ニ↡。大谷御義絶ノ事、猶可↠有↢口入↡之由ヲ申シテ驚ス↠之。可↢申試↡之由領状ス。仍教願自↢六条大宮↡連日催促往反ス。

今月こんがつ二日ふつか、 先親せんしん*亜あ相しょう 資名すけもり卿きょう の十じゅう三回さんかい忌きなり。 同どう十じゅう三日さんにちは、 亡ぼう祖そ亜あ相しょう 俊光としみつ の忌き日にちなり。 かたはら人ひとの憂うれいを休やすめらるるは、 追善ついぜんの潤色じゅんしょくなるべきか。 大谷おおたにまた故もとの禅ぜん尼に 善ぜん照しょう房ぼう の一回いっかいなり。 この時ときに当あたりて赦免しゃめんせば、 慈悲じひの最詮さいせんたるべき由よし、 口入くちいれもとも便びん宜ぎを得えられ候そうろふ由よし、 詞ことばを尽つくし種々しゅじゅの述じゅっ懐かいに及およぶ、 慇懃おんごんの贔ひい屓きあるに就つきて、 よ1420りて本人ほんにんにおいてはあながちに子し細さいなし。 これ天性てんせいの理りなるか。 しかれども*讒口ざんこう絶たえざるあひだ、 左右さうなく許諾きょだくに及およばず日月にちげつを送おくる。

-今月二日、先親亜相 資名卿ノ 十三廻忌也。同十三日ハ、亡祖亜相 俊光ノ 忌日也。旁被↠休↢人ノ憂ヲ↡者、可↠為↢追善之潤色↡歟。大谷又故モトノ禅尼 善照房 一廻也。当↢此時↡赦免セバ、可↠為↢慈悲之最詮↡之由、口入尤被↠得↢便宜↡候由、就テ↧尽↠詞及↢種々ノ之述懐↡、有ニ↦慇懃之贔屓↥、仍於↢本人↡者強ニ無↢子細↡。是天性之理ナル歟。然ドモ而讒口不↠絶之間、無↢左右↡不↠及↢許諾ニ↡送↢日月ヲ↡。

まさにまた旧きゅう冬とう、 示しめし遣やる趣おもむき、 和田わだ忘ぼう却きゃくせず、 専せん使しを差つかはし連署れんしょを勤ごんしてこれを申もうす、 三人さんにん加か署しょしてこれを送おくる。

-将亦旧冬、示シ遣之趣、和田不↢忘却↡、差シ↢専使↡勤シテ↢連署↡申↠之、三人加署シテ送↠之。

真俗しんぞくかくのごとく扶ふ助じょの上うえ、 性しょう円えん禅ぜん尼に内々ないないに随逐ずいちくして和わ談だんのあひだ、 機き感かん純熟じゅんじゅくして、 時じ節せつ到来とうらいなり。 つひに御ご許諾きょだくにて、 *七月しちがつ五日いつか、 免許めんきょの御ご状じょうを出いださる。 蔵人くろうどの佐すけの*廷てい尉い自じ筆ひつをもつて銘めいを書かき、 喜き悦えつきはまりなき由よし予よに状じょうを送おくらる。

-真俗如↠此扶助之上、性円禅尼内々随逐シテ和談之間、機感純熟シテ、時節到来也。遂ニ御許諾ニテ、七月五日、被↠出↢免許ノ御状↡。蔵人佐廷尉以↢自筆ヲ↡書↠銘、喜悦無↠極之由送ラル↢豫ニ之状ヲ↡。

六日むいかに、 教きょう願がんまた催促さいそくのために参向さんこうの時ときこれを与あたへらる。 よりてこれを請こひ取とり、 時じ刻こくを廻めぐらさずすなはち摂せっ州しゅう磯嶋いそじまに下くだり、 その夜よる一いっ宿しゅくす。

-六日ニ、教願又為ニ↢催促↡参向之時与ラル↠之ヲ。仍請↢取之↡、不↠廻↢時刻↡即下↢摂州磯嶋ニ↡、其夜一宿ス。

*同どう七日なのか、 かの所ところより使し者しゃを発おこして、 大和やまとこれにあひ触ふるる。 同日どうじつ、 自じ身しんはかの状じょうを帯たいして、 午うまの刻ときばかりに豊島とよしまに来らい著ちゃくす。 披ひ閲えつするところ、 喜き悦えつ千回せんかいなり。 乃至

-同七日、自↢彼ノ所↡発シテ↢使者ヲ↡、大和相ヒ触ル之。同日、自身ハ者帯↢彼ノ状ヲ、午ノ刻許バカリニ来↢著ス豊島↡。披閲スル之処、喜悦千廻也。 乃至

八日ようかに、 上じょう洛らくす。 予われ、 奈な有うと綱厳こうごん僧そう都ずと、 酉とりの刻ときに大宮おおみやに著つく。

-八日ニ、上洛ス。豫 レ、奈有ト綱厳僧都ト、酉刻ニ大宮著ク。

同どう九日ここのかの早旦そうたんに、 まづ西にし大おお路じに向むかひて、 かつ入にゅう眼げんを賀がし、 かつ相伴そうはんして大谷おおたにに向むかふべき由よしこれを示しめす、 同道どうどう領状りょうじょうのあひだ、 乗のるところの輿こしをば大宮おおみやに返かえす。 奈な有うをこれに駕のせしめ、 まづ僧そう都ずに向むかへられて同道どうどうす。 一献いっこんのために二に百ひゃっ疋ぴきこれを用よう意いす。 両りょう国こくの同朋どうぼうおのおの含がん笑しょう歓かん呼このあまり、 この所ところに参さん集しゅうしおはりぬ。

-同九日ノ早旦ニ、先向テ↢西大路↡、且 ツ賀シ↢入眼ヲ↡、且 ツ相伴テ可↠向↢大谷↡之由示↠之、同道領状之間、所↠乗之輿ヲバ返↢大宮ニ↡。奈有ヲ駕シメ↠之、先被テ↠向ヘ↢僧都↡同道ス。為ニ↢一献ノ↡二百疋用↢意ス之↡。両国ノ同朋各含笑歓呼之余、参↢集シ此所↡了ヌ。

同どう十日とおか、 樋ひ口ぐちの大宮おおみやの法ほう事じ讃さんの時とき、 予よならびに僧そう都ず参向さんこうし、 *慈じ俊しゅん法印ほういん・*俊しゅん玄げん律りっ師し供奉ぐぶせり。

-同十日、樋口ノ大宮ノ法事讃之時、豫并僧都参向、慈俊法印・俊玄律師供奉セリ。

十じゅう一日いちにち、 参さん入にゅうして伴ともなひたてまつり、 かの宿しゅく所しょに向むかひて詠吟えいぎんす、 人々ひとびとは亭主ていしゅの先人せんじん信光のぶみつ朝臣あそん・予よ・慈じ法ほう・光養こうようなり。 また明みょう日にちは恒例こうれいの御ご報恩ほうおんの行ぎょう法ほうなり。 もとも法延ほうえんに接せっ1421すべき由よし厳命げんめいのあひだ、 件くだんの日ひ参さん行ぎょうす。

-十一日、参入シテ奉↠伴ヒ、向↢彼ノ宿所ニ↡詠吟ス、人々ハ亭主ノ先人信光朝臣・豫・慈法・光養。又明日ハ恒例ノ御報恩ノ行法也。尤可↠接↢法延↡之由厳命之間、件日参行ス。

九く月がつ十じゅう四日よっかは、 故こ光長みつなが丸まる往おう事じ等らをこれ仰おおせられ、 御ご詠えい等ら取とり出いださるるあひだこれに和わして、 一献いっこんの後のち帰き京きょうす。

-九月十四日ハ、故光長丸往事等ヲ被↠仰↠之、御詠等被↢取出↡之間和シテ↠之、一献ノ後帰京ス。

以下いげ十じゅう一月いちがつ、 恒例こうれいの七しち箇か日にち御ご報恩ほうおんに参篭さんろうす。 二に十じゅう八日はちにち、 結願けつがんしおはりぬ。 後のちの晩ばんに及およびて大宮おおみやに帰かえる。 しかるに世せ上じょうの動乱どうらん興こう盛じょうのあひだ、 河か州しゅうより大枝おおえだの妙みょう光こう以下いげ参洛さんらくす。 招しょう引いんの刻きざみ、 子し細さいを申もうししところ、 かくのごときの時とき、 一所いっしょに居きょ住じゅうせばもとも本ほん意いとすべし。 しかれども自他じた階かなはざるによりて、 互たがいにあひ扶たすけざること、 本ほん意いに背そむきおはりぬ。 しかればおのおの身しん命みょうを全まっとうせば、 これに過すぐべからず。 ただし老齢ろうれいの今いまにおいては*後会こうかいを期ごすべからず。 今こん生じょうの今いまを限かぎしかの由よしこれ仰おおせられ、 すなはち御ご落涙らくるい千せん行ぎょうなり。 愚ぐ朦もうまた離り憂ゆうに堪たへず、 すこぶる双そう袖しゅうを湿うるおせり。 翌年よくねん御ご入にゅう滅めつの後のち、 この事ことを思おもひ出いだし、 まことにもつて最さい後ごなり。 もともこれを悲かなしむべし。

-以下十一月、恒例ノ七箇日御報恩ニ参篭ス。廿八日、結願シ了。後ノ及↠晩帰テ↢大宮↡。而世上動乱興盛之間、自↢河州↡大枝ノ妙光以下参洛ス。招引刻、申↢子細↡之処、如↠此之時、一所ニ居住セバ尤可↠為↢本意↡。然モ而自他依テ↠不↠階、互ニ不↢相扶ルコト↡、背↢本意↡了ヌ。然者各全バ↢身命↡者、不↠可↠過↠之。但シ老齢於↠今者不↠可↠期↢後会↡。今生ノ限↠今歟之由被↠仰↠之、則御落涙千行ナリ。愚朦又不↠堪↢離憂↡、頗ル湿セリ↢双袖ヲ↡。翌年御入滅之後、思↢出此事ヲ↡、誠以最後也。尤モ可↠悲↠之。

二に十じゅう九く日にち、 すなはち下げ国こくして、 まづ妙性みょうしょうが宿しゅく所しょに著つきてしばらく逗とう留りゅうす、 後のち妙みょう光こうが宿しゅく所しょに移うつりおはりぬ。

-廿九日、則下国シテ、先著↢妙性ガ宿所ニ↡暫ク逗留ス、後移↢妙光ガ宿所ニ↡了。

六ろく十じゅう二に歳さい *観応かんおう二に、

六十二歳 観応二、

妙みょう光こうが宿しゅく所しょにおいて越年えつねんす。 都鄙とひ動乱どうらんして耳じ目もくを驚おどろかすといへども、 郷きょう内ないの近辺きんぺんの輩やから参さん集しゅうして、 時々じじの念仏ねんぶつ懈おこたらず、 連々れんれんの法談ほうだん廃すたることなし。

-於↢妙光ガ宿所ニ↡越年ス。都鄙動乱雖↠驚↢耳目↡、郷内ノ近辺ノ輩参集シテ、時々ノ念仏不↠懈、連々ノ法談無↠廃。

正しょう月がつ八日ようか、 尊老そんろうの御お札ふだを法心ほっしんこれを持もち下くだる。 あらたに祝しゅう言げんを拝はいしことに喜き悦えつを含ふくむ。 ただし天てん下か騒動そうどうして河か西さい・河か北ほく静しずかならず。 よりて御房おんぼう中ちゅう、 窮きゅう困こん至し極ごくの由よしこれ仰おおせらる。 まことに察さっし申もうすあひだ、 志こころざしを表あらわす条じょうにおいてはその力ちからなしといへども、 動静どうせいの式しき朝夕あさゆう重かさならざるあひだ、 愚ぐ報ほうを申もうさんと欲ほっするところに、 路次ろじことごとく塞ふさがるあひだ、 行人こうじんの往反おうはん1422叶かなはざる由よし、 謳おう歌かせしむるによりて日ひ数かずを送おくる。 しかれども愁しゅう吟ぎんのあまり、 ただ天運てんうんに任まかせ、 冥助めいじょを憑たのみて、 帰洛きろすべき由よし法心ほっしんに勧すすむる刻きざみ、 同どう十じゅう三日さんにち、 帰き京きょうす。 法心ほっしんがその体たいとする、 帷かたびら一ひとつの下したに*紙衣かみぎぬを著ちゃくす。 予よひそかに思し案あんを廻めぐらして、 *鵝が眼がん十疋じっぴきあまりを紙衣かみぎぬの中なかに入いれ、 予われみづから*続そく飯いをもつて一々いちいちにこれを押おし付つけてこれを進しん入にゅうす、 一提いちだいを召めし寄よせられて、 一旦いったん御ご心労しんろうを慰なぐさめらるべき由よしを申もうすなり。

-正月八日、尊老ノ御札ヲ法心持↢下ル之。新ニ拝↢祝言↡殊含↢喜悦↡。但シ天下騒動シテ河西・河北不↠静。仍御房中、窮困至極之由被↠仰↠之。誠ニ察シ申之間、於↢表↠志之条↡者雖↠無↢其力↡、動静之式朝夕不↠重之間、欲↠申ント↢愚報↡之処ニ、路次悉塞ル之間、行人ノ往反不↠叶之由、依↠令↢謳歌↡送↢日数↡。然ドモ而愁吟之余、只任↢天運↡、憑↢冥助↡、可↢帰洛↡之由勧↢法心↡之刻、同十三日、帰京ス。法心ガ其ノ為↠体、帷カタビラ一ツ之下ニ著↢紙衣↡。豫偸ニ廻シテ↢思案↡、入レ↢鵝眼十疋余 於 紙衣ノ中ニ↡、豫 レ自以↢続飯↡一々ニ押↢付テ之↡進↢入ス之↡、被テ↣召↢寄一提↡、一旦可↠被↠慰↢御心労ヲ↡之由ヲ申也。

また来きたる二に十じゅう一日いちにち、 光こう長ちょう丸まるが一回いっかいたるあひだ、 追修ついしゅの刻きざみかくのごとくして一灯いっとうを加くわへんがために、 五ご十疋じっぴきを母も堂どうに送おくる、 同おなじくこれを押おせり。 そのほか袈裟けさ綃うすぎぬのために粥かゆ*麞しょう牙がをもつとも少しょう分ぶん尼に衆しゅうに送おくる。 しかるに山崎やまざきにおいて軍勢ぐんぜいかの小こ米ごめを奪うばふ。 また著きたるところの帷かたびらを剥はぐといへども、 紙衣かみぎぬにおいては手てを懸かけず、 存内ぞんないなり。 よりて無為ぶいに京きょうに著ちゃくす。 しかりといへども京きょう都との路次ろじなほたやすからざるあひだ、 法心ほっしん六ろく条じょう大宮おおみやにおいてしばらく休く息そくすと 云々。

-又来廿一日、為↢光長丸ガ一廻↡之間、追修之刻如シテ↠此為ニ↠加ガ↢一灯↡、五十疋ヲ送↢母堂↡、同押セリ之。其外為↢袈裟綃↡粥麞牙ヲ最モ少分送↢尼衆↡。而ニ於↢山崎↡軍勢奪↢彼小米↡。又雖↠剥↢所↠著之帷↡、於↢紙衣↡者不↠懸↠手、存内也。仍無為ニ京著ス。雖↠然京都ノ路次猶不↠輒之間、法心於↢六条大宮↡暫ク休息ス 云々。

日ひを移うつりて後のち、 十じゅう七日しちにちに持じ参さんするところに仰おおせられていはく、 この芳ほう志しもとももつて有ありがたし。 すなはち御ご房ぼうの人ひとを召めされ、 事ことの由よしを述のべられて一滴いってきを省かえりみらると 云々。 しかるにその*晩頭ばんとうより御ご違い例れいの気けあり。 後ご日じつこれを聞きく、 かの一渧いったい最さい後ごの御ご受用じゅゆうなりと 云々。

-移↠日之後、十七日ニ持参スル之処ニ被↠仰云、此ノ芳志尤以難↠有。即被↠召↢御房ノ人↡、被↠述↢事ノ由ヲ↡被↠省↢一滴↡ 云々。而ニ自↢其ノ晩頭↡有↢御違例之気↡。後日ニ聞↠之、彼ノ一渧為↢最後之御受用↡ 云々。

同どう十じゅう九く日にちの夕ゆうべ、 大谷おおたにより専せん使し 宝寿ほうじゅ丸まる 下げ著ちゃく。 照しょう心房しんぼう状じょうを送おくり、 その趣おもむきは、 大だい上じょう一いっ昨日さくじつより御ご不予ふよなり、 *白はく地ちの御お風かぜの気けかの由よしに思おもひ給たまふといへども、 御ご老体ろうたいたるあひだ、 用よう意いのため告こく示じの旨むねなり。

-同十九日ノ夕、自↢大谷↡専使 宝寿丸 下著。照心房送リ↠状ヲ、其趣ハ、大上自↢一昨日↡御不予也、白地ノ御風気歟之由ニ雖↢思給ト↡、為ル↢御老体↡之間、為↢用意↡告示之旨也。

よりて翌日よくじつ *二十日はつか に上じょう洛らくす。 当とう時じ将しょう軍ぐん方がた陣じんを山崎やまざきに卜しむ、 錦にしきの小こう路じの禅門ぜんもん八幡はちまんをもつて城しろとするあひだ、 上下かみしも往反おうはんの路みち難なん義ぎ1423にしてたやすく通つうじがたき由よし面々めんめん申もうえしむといへども、 大千だいせんの火ひを凌しのぐ思おもひを成なし、 身しん命みょうを忘わすれ進発しんぽつして、 河内かわちの地ちを経へて鞭むちを揚あぐ。 近日きんじつの余よ寒かんもつてのほかの上うえ、 今こん朝ちょうの烈風れっぷう袖そでを払はらひ、 すこぶる面おもてを向むけがたく、 馬ば蹄てい河かわを渡わたる処ところに、 湿しっ尾ぽの滴しただり、 すなはち氷こおりを結けっす*式しきなり。 人じん馬ば共とももつて疲ひ極ごくし、 上下かみしも退屈たいくつに及およぶといへども、 処々しょしょに馬ば足そくを休やすめ、 時々じじ人ひとの息いきを続つづけて、 西斜せいしゃして希有けうに六ろく条じょう大宮おおみやに著つく。 休く息そくするに及およばず、 すなはち馳はせ参まいるところに、 *去さる夕ゆうべ御ご往おう生じょうと。 縡ことの*楚そ忽こつ、 すこぶるもつて*迷惑めいわくす。 ただ平日へいじつの恩顔おんがんを拝おがまず最さい後ごの刹せつ那な逢あはざることを恨うらむ。

-仍テ翌日 廿日ニ 上洛ス。当時将軍方卜シム↢陣ヲ山崎ニ↡、錦ノ小路禅門以↢八幡↡為ル↠城之間、上下往反之路難義ニシテ難↢輒ク通↡之由面々雖↠令↠申、成↧凌グ↢大千ノ火↡之思↥、忘レ↢身命↡進発シテ、経テ↢河内地↡揚グ↠鞭。近日ノ余寒以外之上、今朝ノ烈風払↠袖、頗難↠向ケ↠面ヲ、馬蹄渡↠河之処ニ、湿尾之滴リ、即結↠氷之式也。人馬共以疲極シ、上下雖↠及↢退屈ニ↡、処々ニ休↢馬足↡、時々続テ↢人ノ息↡、西斜シテ希有ニ著↢六条大宮↡。不↠及↢休息スルニ↡、即馳参ル之処ニ、去夕御往生ト。縡コトノ之楚忽、頗ル以迷惑ス。唯恨↧不↠拝↢平日ノ恩顔↡不↞逢↢最後ノ刹那ニ↡。

*二に十じゅう三日さんにちに葬礼そうれいし、 *二に十じゅう四日よっかに骨ほねを収おさむ。 予よ・慈じ俊しゅん法印ほういん・光養こうよう丸まるおのおの供奉ぐぶせり。 二に十じゅう五ご日にちは初しょ七日なのかなれば、 御ご修善しゅぜんに遇あひて後のち、 二に十じゅう六日ろくにち、 また大枝おおえだに下くだる。

-廿三日ニ葬礼シ、廿四日ニ収ム↠骨。豫・慈俊法印・光養丸各供奉リ。廿五日ハ初七日ナレバ、遇↢御修善↡後、廿六日、又下↢大枝↡。

*二に月がつ二に十じゅう二に日にち、 五ご七日しちにちに当あたらしめ給たまふあひだ、 二に十じゅう一日いちにちより上じょう洛らくして、 法ほう事じ讃さん、 予よが沙汰さたにいして勤修ごんしゅしおはりぬ。 予われ・奈な有う已下いげなり。

-二月廿二日、令↠当↢五七日↡給之間、自↢廿一日↡上洛シテ、法事讃、為↢豫ガ沙汰↡勤修シ了。豫 レ・奈有已下也。

*四し月がつ七日なのか、 円えん寂じゃくを仰あおぎて父祖ふそ両りょう所しょの御ご影えいを図ずしおのおの賛さんを作つくる。

-四月七日、仰↢円寂↡図シ↢父祖両所之御影↡各作↠賛。

六月ろくがつ二に十じゅう三日さんにち、 香園こうえん院いんの姫宮ひめみやの御文おんふみを帯たいし、 浄じょう花け院いんの長ちょう老ろうに謁えっし向むかはる。 これ綱厳こうごん僧そう都ずの住じゅう寺じ聞法もんぼうを望のぞむためなり。 すなはち領状りょうじょうす。 よりて七月しちがつ七日なのか、 本人ほんにんかの寺てらに向むかひて向顔こうがんす、 後のち門弟もんていに列れっして指し授じゅを得えおはりぬ。

-六月廿三日、帯↢香園院ノ姫宮ノ御文↡、向ハル↣浄花院ノ謁↢長老ニ↡。是為↠望↢綱厳僧都ノ住寺聞法↡也。即領状ス。仍七月七日、本人向テ↢彼寺↡向顔ス、後列テ↢門弟ニ↡得↢指授↡了。

七月しちがつ七日なのか、 江ごう州しゅうの錦きん織しょく寺じの主席しゅせき慈じ空くう大徳だいとく入にゅう滅めつす。 同どう十じゅう三日さんにち、 奈な有う訪ほうのために先さきに下げ向こうせらる。 同どう十じゅう五ご日にち、 帰路きろす。

-七月七日、江州ノ錦織寺ノ主席慈空大徳入滅ス。同十三日、奈有為ニ↠訪ノ先被↠下向セ。同十五日、帰路ス。

八月はちがつ十じゅう八日はちにち、 予よ、 澄ちょう禅ぜん尼にの元もとに下げ向こう、 みづから居きょ住じゅうす。 愚ぐ咄とつ大徳だいとく、 二十日はつかに来臨らいりんして同どう宿しゅくす。 *この時ときかつは亡者もうじゃの素意そいのため、 かつは自じ身しんの1424安あん立りゅうのため、 この遺跡ゆいせき一向いっこうに管かん領りょう致いたし、 法命ほうめいを継つぐべき由よし両りょう人にんこれを命めいぜらる。 ここに予よが余よ命めいいくばくもあるべからず、 綱厳こうごん僧そう都ずの相続そうぞくよろしかるべき由よしこれを示しめすに就つきて、 慇懃おんごんの約諾やくだくあり。 その儀ぎ今いまに相そう違いなし。 宿しゅく縁えんの追おふところか。 大谷おおたにに参篭さんろうし、 七しち箇か日にちの御ご報恩ほうおんに逢あふ。 かの報恩ほうおんの結願けつがんより、 上じょう臘ろう病びょう臥がして、 十じゅう二に日にちに早世そうせいしたまふ。 また二十日はつか、 かの境さかいに下げ向こうす。

-八月十八日、豫下↢向澄禅尼ノ元ニ↡、自居住ス。愚咄大徳、廿日ニ来臨シテ同宿ス。此時且ハ為↢亡者之素意ノ、且ハ為↢自身之安立ノ↡、此ノ遺跡一向ニ致↢管領↡、可↠継↢法命↡之由両人命ラル↠之。爰ニ豫ガ余命不↠可↠有↠幾、綱厳僧都ノ相続可↠宜之由就↠示↠之、有↢慇懃之約諾↡。其儀今無↢相違↡。宿縁之所↠追歟。参↢篭大谷↡、逢↢七箇日ノ御報恩↡。自↢彼ノ報恩ノ結願↡、上臘病臥シテ、十二日ニ早世シタマフ。又廿日、下↢向ス彼ノ境↡。

六ろく十じゅう三歳さんさい *文ぶん和わ元がん正しょう月がつか、

六十三歳 文和元正月歟、

*十じゅう八日はちにちに上じょう洛らくして、 一回いっかいの御ご仏ぶつ事じに逢あひて後のち、 また下げ国こくす。

-十八日ニ上洛シテ、逢↢一廻ノ御仏事↡之後、又下国ス。

十じゅう月がつのころ、 性しょう覚かく・明みょう光こう等ら、 御ご廟びょう参詣さんけいのところにおいて申もうしていはく、 大宮おおみやは経回けいかい遼りょう遠おんにして甘心かんしんせず。 枉まげてただ大谷おおたにの四し壁へきの内うちに住じゅうすべしと 云々。 固辞こじすといへども面々めんめん異い見けんのあひだ約諾やくだくしおはりぬ。

-十月之比、性覚・明光等、於↢御廟参詣之所↡申云、大宮ハ経廻遼遠ニシテ不↢甘心↡。枉テ只可↠住↢大谷四壁ノ内↡ 云々。雖↢固辞↡面々異見之間約諾シ了。

十じゅう一月いちがつは大谷おおたに恒例こうれいの御ご報恩ほうおん念仏ねんぶつあり、 予よまた参篭さんろうす。

-十一月ハ大谷恒例ノ御報恩念仏アリ、豫又参篭ス。

十じゅう二に月がつ一日ついたち、 また木部きべに下げ向こうす。

-十二月一日、又下↢向ス木部↡。

六ろく十じゅう四し歳さい *文ぶん和わ二に、

六十四歳 文和二、

年ねん始しの勤ごん行ぎょう等ら例れいのごとし。

-年始ノ勤行等如↠例。

*正しょう月がつ十じゅう七日しちにちに上じょう洛らくして、 第三だいさん回かいの御ご追修ついしゅに逢あふ。

-正月十七日ニ上洛シテ、逢フ↢第三廻ノ御追修↡。

廿にじゅう三日さんにち、 六ろく条じょうより和わ州しゅうに下げ向こう、 奈于なう同道どうどうせり。 木部きべの開山かいさんの大徳だいとく第三だいさん回かいのあひだ招しょう引いんせり。

-廿三日、自↢六条↡下↢向和州↡、奈于同道セリ。木部ノ開山大徳第三廻之間招引セリ。

六月ろくがつ二に十じゅう七日しちにち、 柳やなぎ原はらの前さきの大だい納な言ごん資明すけあき卿きょう逝去せいきょす。 今いま小こう路じの地ちの事こと、 孟もう夏かのころより問答もんどうして、 大たい略りゃく承しょう諾だくの後のち、 この事こと治じ定じょうのため、

-六月廿七日、柳原ノ前ノ大納言資明卿逝去ス。今小路ノ地ノ之事、自↢孟夏之比↡問答シテ、大略承諾之後、為↢此事治定ノ↡。

八月はちがつ十じゅう八日はちにちに上じょう洛らくして、 これを買得ばいとく、 大宮おおみやの半作はんさくの堂どうこれを沽こ却きゃく、 運はこんで樋ひ口ぐち油あぶらの小こう路じの道どう場じょうの焼跡やけあとに渡わたすと 云々。 房ぼう ならびに 北きたの房ぼう等とうこれを渡わたしてこれを造つくる。 運送うんそうの車くるま等とうは大たい略りゃく出雲いずも路じの*乗じょう専せんの助じょ成じょうなり。 地ち1425を引ひき壁かべを塗ぬる以下いげの事こと、 教きょう願がん奉ぶ行ぎょうのあひだ、 桂かつらの里さとの輩やからことに力ちからを尽つくして懃厚ごんこうをいたしおはりぬ。

-八月十八日ニ上洛シテ、買↢得之↡、於↢大宮ノ半作ノ堂↡沽↢却之↡、運渡↢樋口油ノ小路ノ道場ノ焼跡↡ 云々。房 并 北ノ房等渡シテ之造↠之。運送ノ車等ハ大略出雲路ノ乗専助成也。引↠地塗ル↠壁以下ノ事、教願奉行之間、桂ノ里ノ輩殊尽シテ↠力致↢懃厚↡了。

十じゅう一月いちがつ二に十じゅう七日しちにちの御ご報恩ほうおんに参篭さんろうすること、 前々ぜんぜんのごとし。

-十一月廿七日ノ御報恩ニ参篭スルコト、如↢前々ノ。

六ろく十じゅう五ご歳さい *同三どうさん、

六十五歳 同三、

新しん居きょにおいて春はるを迎むかふ、 毎事ことごと*祝著しゅうちゃくせり。 朔ついたちに御ご廟びょうへ参まりる。 二日ふつかに坊ぼう主ずを召請しょうしょうす。

-於↢新居↡迎↠春、毎事祝著セリ。朔ニ参↢御廟↡。二日ニ坊主ヲ召請ス。

六ろく十じゅう六歳ろくさい 同四どうよん、 十じゅう一月いちがつ、 御ご報恩ほうおん中ちゅう参篭さんろう又また前々ぜんぜんのごとし。

六十六歳 同四、十一月、御報恩中参篭又如↢前々↡。

六ろく十じゅう七歳しちさい *延文えんぶん元がん、

六十七歳 延文元、

正しょう月がつ一日ついたち、 御ご廟びょうに詣もうず。

-正月一日、詣↢御廟↡。

十じゅう四日よっか、 綱厳こうごん阿あ闍じゃ梨り権ごん律りっ師しに任にんぜらる。

-十四日、綱厳阿闍梨任ラル↢権律師↡。

三月さんがつ十じゅう八日はちにち、 宮みや参さん仕じの事こと、 御ご本ほん意いの由よし御ご返へん事じ。

-三月十八日、宮参仕之事、御本意之由御返事。

八月はちがつ十じゅう七日しちにち、 光誦こうじゅ丸まる生しょうず。

-八月十七日、光誦丸生ズ。

十じゅう二に月がつ二に十じゅう五ご日にち、 *光助こうじょ権ごん律りっ師しに任にんぜらる。

-十二月廿五日、光助任ル↢権律師ニ↡。

六ろく十じゅう八歳はっさい *同どう二に、

六十八歳 同二、

三月さんがつ七日なのか、 空暹くうせん上じょう洛らくす。 源海げんかいが一いち期ごの行状ぎょうじょう ¬講式こうしき¼ を記しるすべき由よし、 望のぞみ致いたすあひだ在ざい京きょう、 四し、 五ご日にちのあひだ草書そうしょしおはりぬ。 清書せいしょは綱厳こうごん僧そう都ずなり。

-三月七日、空暹上洛ス。源海ガ一期ノ行状可↠記↢¬講式¼↡之由、致↠望之間在京。四、五日之間草書シ了ヌ。清書ハ綱厳僧都也。

四し月がつ十じゅう四日よっかより柏かしわの庭にわ違い例れいす。

-自↢四月十四日↡柏庭違例ス。

十じゅう六日ろくにち、 当台とうだいへ招しょう引いんす。

-十六日、招↢引ス当台↡。

同どう二に十じゅう二に日にち、 亥いの刻こくに円えん寂じゃくす。

-同廿二日、亥ノ刻ニ円寂ス。

六月ろくがつ九日ここのか、 光助こうじょ律りっ師し峰みねに来らい入にゅう 第だい二度にど す、 下げ向こうの次ついでなり。

-六月九日、光助律師来↢入ス峰ニ 第二度、下向之次也。

同どう二に十じゅう二に日にち、 帰き国こくす。 大谷おおたにの念仏ねんぶつに参篭さんろう往反おうはんせず。

-同廿二日、帰国ス。大谷ノ念仏ニ不↢参篭往反↡。

六ろく十じゅう九く歳さい *同三どうさん、

六十九歳 同三、

大谷おおたにの念仏ねんぶつに参篭さんろう往反おうはんせず。 十じゅう二に月がつ十じゅう八日はちにち、 綱厳こうごん 権ごんの少しょう僧そう都ずに任にんぜらる。

大谷ノ念仏ニ不↢参篭往反↡。十二月十八日、綱厳 任ラル↢権少僧都ニ↡。

七しち十歳じっさい *同どう四し、

七十歳 同四、

正しょう月がつ十じゅう四日よっか、 光助こうじょ権ごんの少しょう僧そう都ずに転任てんにん。

-正月十四日、光助転↢任権少僧都ニ↡。

青しょう蓮院れんいんの大王だいおう、 四し月がつ十じゅう九く1426日にちに御ご入にゅう滅めつ 五ご十じゅう八はち。

-青蓮院大王、四月十九日ニ御入滅 五十八。

二十日はつかの夜よる、 御ご葬送そうそうあり。 予よ・綱厳こうごん共とも御お輿こしに随したがふといへども、 後のちに御ぎょして荒垣あらがきの内うちに入いらず。

-廿日ノ夜、御葬送アリ。豫・綱厳共雖↠随↢御輿ニ↡、御シテ↠後ニ不↠入↢荒垣ノ内ニ↡。

二に十じゅう二に日にち、 御ご収しゅう骨こつ、 老骨ろうこつ退屈たいくつのあひだ、 綱厳こうごん参さんじおはりぬ。 霜月しもつきの御ご報恩ほうおんに今年こんねんまた旧きゅうに復ふくして参篭さんろう。

-廿二日、御収骨、老骨退屈之間、綱厳参ジ了。霜月ノ御報恩ニ今年又復テ↠旧参篭。

七しち十じゅう一歳いっさい *同どう五ご、

七十一歳 同五、

*六月ろくがつ二十日はつか、 慈じ俊しゅん法印ほういん入にゅう滅めつ。 百ひゃっ箇か日にち以後いご、 真影しんねいの賛さんを俊しゅん玄げん律りっ師しこれを誂あつらへしむるあひだ、 草書そうしょしおはりぬ。 門主もんしゅ御お筆ふでを染そむると 云々。

-六月廿日、慈俊法印入滅。百箇日以後、真影ノ賛ヲ俊玄律師令↠誂↠之間、草書シ了。門主被↠染↢御筆↡ 云々。

七しち十じゅう二に歳さい *同六どうろく、

七十二歳 同六、

元日がんじつ、 廟びょうへ参まいる。 近年きんねん夜や陰いんの儀ぎを用もちふるといへども、 新しん房ぼう主ずの律りっ師ししきりに申もうし候そうろふあひだ、 朝喰ちょうしょく已後いご両りょう人にん参詣さんけいす。 その次ついでに祝著しゅうちゃく例れいのごとし。 二日ふつか、 両りょう人にん招しょう引いんす、 これまた前々ぜんぜんのごとし。

-元日、参↠廟。近年雖↠用↢夜陰之儀↡、新房主律師頻ニ申候之間、朝喰已後両人参詣ス。其次ニ祝著如↠例。二日、両人招引ス、是又如↢前々↡。

*四し月がつのころ、 空暹くうせん上じょう洛らくの次ついでに、 予よ先年せんねん草そうするところの ¬報恩ほうおん講式こうしき¼、 いささか*存分ぞんぶんの旨むねありて、 条々じょうじょうこれを書かき改あらたむべき旨趣しいしゅ申もうさしむるあひだ、 楚そ忽こつに添削てんさくを加くわへおはりぬ。 前ぜん後ご両りょう本ほん時ときによりてこれを用もちふべし。 清書せいしょは俊しゅん玄げん律りっ師し筆ふでを染そむるものなり。

-四月ノ比、空暹上洛之次ニ、豫先年所↠草之¬報恩講式¼、些カ有テ↢存分旨↡、条々可↢書改↡之旨趣令↠申之間、楚忽ニ加↢添削↡了。前後両本依↠時可ト↠用之。清書ハ俊玄律師染↠筆者也。

八はち十じゅう二に歳さい *応安おうあん四し、

八十二歳 応安四、

十じゅう二に月がつ、 錦きん織しょく寺じに御ご下げ向こう。

-十二月、御↢下向錦織寺ニ↡。

八はち十じゅう三歳さんさい *同どう五ご、

八十三歳 同五、

*六月ろくがつ、 御ご影えいこれを図ずしたてまつる。 良りょう円えん法印ほういんの筆ふで。

-六月、御影奉↠図↠之。良円法印ノ筆。

八はち十じゅう四し歳さい *同六どうろく、

八十四歳 同六、

*二に月がつ二に十じゅう八日はちにち、 御ご往おう生じょう。

-二月廿八日、御往生。

右みぎこの一いち期記ごきは、 存覚ぞんかく上しょう人にん御ご在ざい世せの時とき、 綱厳こうごん僧そう都ず御前おんまえにおいて口く筆ひつの旨むね、 端書はしがきを載のせられおはりぬ。 ただし七しち十じゅう二に歳さい已後いごは、 綱厳こうごん書かき加くわへ給たまふところか。 ここに去さる大永だいえいのころ、 予よ参洛さんらくの砌みぎり、 懃ごん忠ちゅう法印ほういんに謁えっしてこの旨むねを聞きき、 すなはちかの一巻いっかんここに与あたへ給たまふ。 暫ぜん時じ利りを須もとむるあひだ、 要ようを取とりてこれを抄出しょうしゅつし、 つとに貴き辺へんに返かえしたてまつる。 しかるところ享きょう禄ろく 晩年ばんねん 世せ上じょうの擾じょう乱らんによりて、 常じょう楽らく寺じ炎えん上じょうの後のち、 かの上しょう人にんの御ご作文さくもん御ご真筆しんぴつ等とう若干そこばくの篋はこ焼しょう失しつせしむと 云々。 しかるに旧きゅう冬とう参さん会えの刻きざみ、 随身ずいしんの条じょう、 御ご懇望こんもうの旨むねに応おうじて、 疎そ墨ぼくの草本そうほん清書せいしょしたてまつるところなり。 辞ことばもつてこれ楚そ忽こつ、 不ふ審しんの事こと等らこれありといへども、 既すでに正しょう本ほん紛失ふんしつの上うえは重かさねて校合こうごうに及およばず。 そもそも御ご在ざい世せ円えん城じょう寺じ御ご経略きょうりゃく、 諸しょ徒との談法だんほう、 東関とうかん御ご行ぎょう化け、 万民ばんみんの懇こん志し肝要かんようとすべしの文段もんだん除のぞくところこれ多おおきか。 しかれども今いま現げん形ぎょうの本書ほんしょに任まかせてこれを写うつす。 ただこの一冊いっさつことごとくはその書しょの功こうを終おへず、 これによりて千万せんまんの言ことばの中うち、 わずかにその一いち二にを呈ていするを恨うらむ 矣。 けだしかの中ちゅう庸ようを聞きくに、 秦皇しんこうの焚書ふんしょに遇あひて、 ただ残のこれる十じゅう余よ章しょうもって世よに行ぎょうずる。 これしかしながら達たっ子しが思おもいの本心ほんしんなるものか。 いはんや明めい師しの金言きんげん、 あに一いっ句くを廃はいすべきや。 よりて斟しん酌しゃくを顧かえりみず早跡そうせきを忘わすれて愚ぐ筆ひつを染そめおはりぬ。 かたがた深窓じんそうに秘ひして外見がいけんに及およぶべからざるのみ。

右此一期記者、存覚上人御在世之時、綱厳僧都於御前口筆之旨、被載端書畢。但七十二歳已後者、綱厳所書加給歟。爰去大永之比、豫参洛之砌、謁懃忠法印聞此旨、則彼一巻与于給。暫時須利之間、取要抄出之、早奉返貴辺。然処享禄 晩年 依世上擾乱、常楽寺炎上之後、彼上人之御作文御真筆等若干篋令焼失 云々。然旧冬参会之刻、随身之条、応御懇望之旨、疎墨之草本奉清書処也。辞以楚忽之、不審之事等雖有之、既正本紛失之上者重而不及校合。抑御在世円城寺御経略、諸徒之談法、東関御行化、万民之懇志可為肝要之文段所除是多歟。然而今任現形本書写之。唯恨此一冊悉不終其書功、因茲千万言中、纔呈其一二 矣。蓋聞彼中庸、遇秦皇焚書、只残十余章以行于世。是併達子思之本心者乎。況明師金言、豈廃一句乎。仍不顧斟酌忘早跡染愚筆訖。旁秘深窓不可及外見而已。

 時ときに天文てんもん二に十じゅう年ねん睦月むつき五日いつかこれを記しるす

 于時天文廿年睦月五日記之

青蓮院三方御相論公事訴諫之事、於園城寺諍論事、

於青蓮院御譲状草書之事、慈恩講式草書之事、写本在之。荒木道空、上野岡野円実、荒木下覚意 一乗院前門主九条禅閤息、堯海 西塔一方学頭、成慶 下野法印始*竪者成澄。

 

延書は底本の訓点に従って有国が行った(固有名詞の訓は保証できない)。
底本は龍谷大学蔵室町時代末期書写本。
大々上 存覚上人の祖父、 覚恵上人のこと。
大上 存覚上人の父、 覚如上人のこと。