993◎▲上宮太子御記

◎釈しゃ迦かの正しょう覚がく成なりたまひ​し日ひより、 涅ね槃はんに​いり​たまふ​よ​に​いたる​まで、 とき​たまへる​ところ​の​もろもろ​の​みのり、 ひとつ​も​まこと​に​あらざる​こと​なし。 始はじめには華け厳ごんを説ときて菩ぼ薩さつに解さとら​しめ​たまふ。 日ひの​いで​て、 まづ高こう峰ぶを​てらす​が​ごとし。 つぎに​阿あ含ごんを​のべ​て声しょう聞もんに​しら​しむ、 日ひの高たかく​して漸ようやく深谷じんこくを​てらす​が​ごとし。 また所所しょしょに​して方等ほうどうの種種しゅじゅの経きょうを​あらわす​なり。 仏ぶつは一音いっとんに説ときたまふ​と​いへども、 衆しゅ生じょうは​しなじな​に隋したがひて解さとりを​うる​こと、 一いち味みの雨あめの平びょう等どうに​そゝぐ​と​いへども、 草木そうもくの大だい小しょうに​したがふ​て、 うくる​ところ​おなじから​ざる​が​ごとく​なり。 一いち十じゅう六ろく会えの中なかに般若はんにゃの空くうの​さとり​を教おしうを、 四し十じゅう余よ年ねんの​のち​に法ほっ華けの妙みょう道どうを​ひらき​たまへ​り。 鷲わしの峰みねに​して​また​おもひ​あらわれ、 鶴つるの林はやしに​して声こえたゑ​たまひ​し​より、 迦か葉しょうは詞ことばを鐘かねの音ねに伝つたえ、 阿あ難なんは身みを鎰かぎの​あな​より​い[れ]て、 つゐに​えらび千人せんにんの羅ら漢かんを​とゞめ​て、 みな​しるし​をけ​る一代いちだいの教おしえなり。

-それ​より​のち、 二に十じゅう余よ人にんの聖ひじりうけ伝つたえ、 十じゅう六ろくの大国たいこく之の皇おうひろめ守まもり​たまへ​り​き。 釈しゃく尊そんは滅めっし​たまへ​ども教きょう法ぼうは​すでに​とまり、 薬くすりを0994とゞめ​て医くす師しに​わかれ​たる​に​おなじ。 誰たれか煩悩ぼんのうの病やまいを​のぞか​ざら​む。 玉たまを​かけ​て親しん友ぬの​さる​に​に​たり。 つぎ​に无む明みょうの酔よいを​さます​べし。

-そもそも天竺てんじくは仏ぶつの​あらわれ​て法ほうを説ときたまふ境さかい、 震旦しんたんは法ほう伝つたわり​て​ひろまる国くになり。 ふたところ​を​きく​に、 仏法ぶっぽう漸ようやく澆あわて​たる​ところ​なり。 震旦しんたんの貞じょう元げん三年さんねんに玄げん奘じょう三蔵さんぞう天竺てんじくに行ぎょう輪りんせし時とき、 鶏足けいそく山さんの​ふるき​みち、 竹たけしげり​て人ひとも​かよわ​ず、 孤こ独どく園おんの昔むかしの庭にわには、 室むろうせ​て僧そうも​すま​ざり​けり。 摩訶まか陀だ国こくに​ゆき​て菩ぼ提だい樹じゅ院いんを​みれ​ば、 昔むかし国王こくおうの観音かんのんの像ぞうを造つくれ​る​あり。 身みは​みな地じの底そこに入いりて、 肩かたより上うえわづかに出いでたる​なり。 仏法ぶっぽう滅めっし​をわら​む​とき​に、 此この像ぞういり​はつ​べし​と​のたまひ​けり。 また震旦しんたんにも聖しょう人にんおほく道みちさかり​なれども、 屢しばしばみだるゝ時ときあり。 後こう周しゅうの​すゑ​の代だいに、 大おおいに魔まの風かぜを​あふぎ、 将まさに法ほうの灯ともしびを滅めっせ​しか​ば、 霞か禅ぜん師じの世よを悲かなしみしか​ば、 身みを恨うらみて​もて、 命いのちを​すつ。 遠おん法ほっ師しの道みちを​おしみ​し​は、 王おうに対たいし​て罪つみを論ろんぜ​し​なり。 開皇かいおうのころに重かさねて​もて弘ひろめき、 大たい業ぎょうの代だいに​また​もて衰おとろへ​しか​ば、 鬼おに泣なき、 神かみ歎なげく、 山やま鳴なり、 海うみ騒さわぐ。 また会かい昌しょうの太たい子しおほく経きょう論ろんを​やき​しか​ば、 宮みやの内うちの公く卿ぎょう、 かうべ​を低たれて​もて​なげき、 門もんの前まえの代官だいかんは、 なみだ​を流ながし​て​もて悲かなしみし​なり。 彼かの貞じょう観がんより已来このかた三さん百びゃく六ろく十じゅう余よ年ねんを​へだて​つれ​ば、 天竺てんじくを想おもい像かたどるに観音かんのんの像ぞういま​は​いり​をわり​ぬ​らむ。 会かい昌しょうより以後いご一いっ百ぴゃく四し十じゅう余よ年ねんに​をよび​ぬれ​ば、 大唐だいとうを推おし0995量はかるに法門ほうもんの数かず少すくなく成なりぬ​らむ​と。云々

-あな​たうと仏法ぶっぽう東ひがしに流ながれて​さかりに我国わがくにに止とどまれ​り。 跡あとを​たれ​たる聖ひじり、 昔むかし大おほく​あらわれ​て、 道みちを弘ひろめたまふ君きみ、 今こん朝ちょうに​あひ​つぎ​たまへ​る​なり。 十方じっぽう界かいに​あひ​がたく、 无む量りょう劫こうに​きゝ​がたき大だい乗じょう経きょう典てんを、 こゝに​して​大おおくきゝみる​こと、 これ​おぼろげの縁えんに​あらず。 後のちの御音ぎょいんは​どく毒の​つゞみ​の​ごとし、 一度ひとたびきく​に无む明みょうの​あだ​を​ころす​が​ごとし。 経きょうの​みな​は薬くすりの木きに​おなじ、 わずかに​あたる​に輪りん廻ねの病やまいを​たすく。 此この​ゆへに​すゝむる​に​ねむごろなる志こころざしは、 身みの皮かわを​はぎ​て大だい乗じょうの文典もんでんを​うつす​べし​と。 これ​を敬うやまうこゝろ​は、 くち口の​いき​をもて経きょう巻かんの塵ちりを​のか​ざれ​と​しめさ​しめ​たまへ​る​なり。 夫それ雪山せっせん童どう子じは半はん偈げを求もとめて命いのちを​すて、 最さい勝しょう仙人せんにんは一いち偈げを​ねがひ​て身みを破はしし​なり。 常じょう啼たいは東ひがしを​こひ、 善財ぜんざいは南みなみを求もとめ、 薬王やくおうは臂ひじを​ともし、 普ふ明みょうは首こうべを​すて​む​と​しき。 設たとい一日いちにちに三み度たび恒沙ごうじゃの​かず​の身みを​すつ​とも、 尚なお仏法ぶっぽうの一いっ句くの恩おんをも報ほうずる​こと​あたは​ず。 昔むかし床ゆかの下したに​して法ほうを聞ききし犬いぬは、 舎しゃ衛え国こくに​むまれ​て聖ひじりと​なり、 林はやしの中なかに​して経きょうを​きゝし鳥とりは、 とう利り天てんに​むまれ​て​たのしみ​を​うけ​き。 鳥ちょう獣じゅう如↠是かくのごとし、 いわむや人ひとの慎つつしみて​もて聞きかんをや。 嗟呼ああ滅めつ度どの後のち、 像法ぞうぼうの​ころ​に​いたり​て、 震旦しんたんに​はじめて漢かんの世よ明帝めいていの時とき始はじめて天竺てんじくより伝つたえ、 我国わがくにには​おそく欽明きんめい天皇てんのうの代よに百済くだらより来きたれり​し​なり。 我われいま​たなごゝろ​を​あはせ​て法ほうの妙たえな0996ること​を​あらはす​なり。

昔むかし上じょう宮ぐう太たい子しと言いう聖ひじり御坐ましましき。 ▲用明ようめい天皇てんのうの​はじめて親王しんのうと成なりし時ときに、 穴あな太部たべの間はし人ひと◗の皇女ひめみこの御みはら​より誕たん生じょうし​たまへ​る王おう子じなり。 ▲始はじめて母ははの夫ぶ人にんの夢ゆめに、 金色こんじきなる僧そうあり​て云のたまはく、 我われ世よを助たすくる​ねがひ​あり、 しばらく御みはら​に宿やどら​む​と。 ▲我われは救世くせ菩ぼ薩さつなり、 家いえ西方さいほうに​あり​と​いひ​て、 口くちの中なかに​おどり​いる​と​み​て、 懐妊かいにんし​たまへる太たい子しなり。 ▲太たい子しの御おん伯父おじ敏び達だつ天皇てんのうの、 天てん下げを治じし​たまふ始はじめの​とし​の正しょう月がつ一日ついたちに、 夫ぶ人にん宮みやの内うちを​めぐり​て、 ▲むまや​の​もと​に​いたる​ほど​に、 覚おぼえず​して生うまれたまへ​る​なり。 おもと人びといそぎ​て寝殿しんでんに​いたる​ほど​に、 ▲にわかに​あかき​ひかり西にしより来きたりて​いる。 御おん身みは​はなはだ​かうばし。 ▲よつき​の後のちよく​もの​のたまふ。 ▲あくる年としの二に月がつ十じゅう五ご日にちの朝あさより自みづからたなごゝろ​を​あはせ​て、 東ひがしに向むかいて南无なも仏ぶつと​まふし​て拝おがみたまふ。

-▲太たい子し六歳ろくさいなる​に、 百済くだら国こくより始はじめて法ほう師し尼あま、 経きょう論ろんを​もて来きたれ​り。 太たい子しそうし​たまふ。 わたれ​る経きょう論ろんを見みんと、 香こうを​たき​て​ひらき​みる​こと​おはり​て、 また​そうし​たまふ。 ▲月つきごとの八日はちにち・十じゅう四し日にち・十じゅう五ご日にち・廿にじゅう三日さんにち・廿にじゅう九く日にち・さんじゅう日にち、 これ​を六斎ろくさいと​す。 この日ひは梵王ぼんのう帝たい釈しゃく国くにの​まつりごと​を見みる。 ものゝいのち​を​ころす​こと​を​とゞむ​べし​と。 ▲帝皇ていおうよろこび​たまひ​て、 天てん下げに詔みことのりを​くだし​たまひ​て、 此この日日にちにちには​もの​を​ころす​こと​を​とゞめ​たまふ0997。

-▲八年はちねんの冬ふゆ、 新羅しらぎ国こくより仏像ぶつぞうを​たてまつれ​り。 太たい子しそうし​たまふ。 西国さいごくの聖ひじり釈しゃ迦か牟尼むに仏ぶつの像ぞうなり​と。 ▲新羅しらぎ国こくより日にち羅らと云いう人ひと来きたれ​り。 身みに光ひかりあり。 太たい子しひそかに​いやしき衣ころもを​き​て、 もろもろ​の童わらわに​まじわり​て、 難なん波ばの館やかたに​いたり​て​これ​を​み​たまふ​に、 日にち羅ら、 太たい子しを​さし​て​あやしぶ。 太たい子しおどろき​て​もて​さる。 ▲日にち羅ら地じに​ひざまづき​て、 たなごゝろ​を​あはせ​て曰いわく、 敬きょう礼らい救世くせ観かん世ぜ音おん、 伝灯でんとう東方とうぼう粟散ぞくさん王おう、 従じゅう於お西方さいほう来らい誕たん生じょう、 皆かい演えん妙みょう法ほう度ど衆しゅ生じょうと​まふす​ほど​に、 ▲日にち羅らおほきに身みの光ひかりを​はなつ。 太たい子しまた眉み間けんより光ひかりを​はなち​たまふ。

-▲また百済くだらより弥み勒ろくの石いしの像ぞうを​もて​わたせ​り。 大臣おおおみ蘇我そがの馬うま子この宿すく弥ね、 この像ぞうを​うけ​たり。 ▲家いえの東ひがしに寺てらを造つくりて、 安あん置ちし​たてまつり​て恭く敬ぎょうし​たてまつる。 尼あま三人みたりを​すえ​て供く養ようせる​なり。 大臣おおおみ此この寺てらに塔とうをたつ。 太たい子しのたまはく、 ▲塔とうは​これ仏ぶっ舎しゃ利りの​うつわもの​なり、 釈しゃ迦か如来にょらいの御おん舎しゃ利り自じ然ねんに​いで​きたり​なむ​と。 ▲大臣おおおみこれ​を​きゝて​祈いのるに、 斎食さいじきの飯いいの​うえ​に仏ぶっ舎しゃ利り一粒ひとつぶを​え​たり。 瑠璃るりの​つぼ​に​いれ​て、 塔とうに​おき​て​おがむ。 ▲太たい子しと大臣おおおみと意こころを​ひとつ​に​して三宝さんぼうを弘ひろむ。 この時ときに国くにの内うちに病やまいおこり​て、 死しする人ひと大おほく​あり。

-▲大おお連むらじ物部もののべの弓削ゆげの守もり屋やと中臣なかとみの勝かつ海みと​ともに奏そうし​て​まふさく、 我国わがくにには​もとより神かみを​のみ​たふとみ​あがむ。 ▲しかるに蘇我そがの大臣おおおみ、 仏法ぶっぽうと云いうもの​を興おこし​て​おこなふ。 これ​に​より​て病やまい世よに​おこり​て0998、 人民おおみたからみな​たえ​ぬ​べし。 これ​は仏法ぶっぽうを​とゞめ​て​なん、 ひと​の命いのちは​のがる​べき​と​そうす。 ▲帝皇ていおう勅ちょくし​て​のたまはく、 まふす​ところ​あきらけ​し、 はやく仏法ぶっぽうを​たて​と宣せん旨じあり。

-▲太たい子し奏そうし​たまふ、 二ふたりの人ひとは​いまだ因いん果がの​ことわり​を不知しらざるなり。 ▲よき​こと​を​おこなえ​ば​さいわい​いたる、 あしき​こと​を​おこなえ​ば​わざわい来きたる。 ▲此この二ふたり​いま​かならず​わざわい​に​あい​なむ​と奏そうし​たまふ。 しかれども宣せん旨じあり​て、 守もり屋やの大おお連むらじを寺てらに​つかわし​て、 堂塔どうとうを壊やぶり仏ぶっ経きょうを​やく。 ▲焼やけのこれ​る仏ぶつをば、 難なん波ばの​ほりえ​に​すて​つ。 三人みたりの尼あまをば​せめ​うち​て​おい​いだす。 ▲この日ひ雲くもなくて大風おおかぜふき、 雨あめくだる。 太たい子し、 わざわい​は​いま​おこり​ぬ​と​のたまふ。

-▲この後のちに瘡かさの病やまい世よに​おこり​て、 やみ​いたむ​こと​やき​さく​が​ごとし。 ふたり​の大臣おおおみことに​おもき​とが​を​くひ​て、 ▲奏そうし​て​まふす、 臣おみ等らが病やみくるしみ​いたむ​こと​たえ​がたし、 ねがはくは三宝さんぼうに​いのり​たてまつらむ​と。 ▲また勅ちょくあり​て、 三人みたりの尼あまを​めし​て二人ふたりの大臣おおおみを​いのら​しむ。 ▲また堂塔どうとうたえ​うせ​に​し、 仏法ぶっぽうを改あらためしむる​なり。 これ​より​また興こうず。

-▲太たい子しの御父おんちち用明ようめい天皇てんのう位くらいに​つき​たまひ​ぬ。 二に年ねんあり​て​のたまはく、 我われ三宝さんぼうに帰依きえし​なむ​と思おもう。 ▲蘇我そが◗の大臣おおおみおほせごと​に​したがは​む​と奏そうし、 法ほう師しを​めし​て内だい裏りに​いれ​し​なり。 ▲太たい子しよろこび​て大臣おおおみの手てを​とり​て、 なみだ​を​ながし​て​のたまはく、 三宝さんぼうの​たえ​なる​こと​を0999人ひといまだ​しら​ぬ​に、 ▲大臣おおおみ意こころを​よせ​たり、 うれしく​も​ある​かな​と​のたまふ。 ある人ひとひそかに守もり屋やの大おお連むらじに​つげ​て​いはく、 ▲人々ひとびとはかりごと​を​なし​て、 兵ひょう士じを​まふけ​よ、 あひ​たすく​べし​と​いへ​り。 ▲守もり屋やの大おお連むらじまた皇すめらを呪じゅ咀そし​たてまつる​と​いふ​こと​きこえ​なれ​り​となり。 ▲蘇我そが◗の大おお臣むらじ言いはく、 太たい子し武士もののふを​ひきゐ​て守もり屋やの大おお連むらじを追おへと。 ▲守もり屋やまた兵ひょう士じを​おこし​て城しろを​つき​ふせぐ。 御おん戦いくさ、 その軍いくさこはく​さかりなり。 ▲御みかたの兵ひょう士じおそり​おのゝき​て三み度たびしりぞき​かへる。 この​とき​に太たい子し御年おんとし十じゅう六ろくなり。 将しょう軍ぐんの​うしろ​に​たち​て、 軍いくさの務つとめごと​を​しめす。

-▲また秦はたの川勝かわかつ、 白膠木ぬるでをもて四し天王てんのうの像ぞうを​きざみ​つくら​せ​て、 もて​もとゞり​の​うえ​に​さし、 ほこ​の​さき​に​さゝげ​て▲願がんを​おこし​て​いはく、 我われ等らをして戦いくさに​かた​しめ​たまへ、 しからば、 四し天王てんのうの像ぞうを​あらはし塔とう寺じを​たて​ん​と​いへ​り。 ▲大臣おおおみも​また如是かくのごとく願がんじ​て戦たたかふ。 物部もののべの守もり屋やの大おお連むらじ、 大おおいなる​いちゐ​の木きに​のぼり​て、 ▲物部もののべの氏うじの大だい明みょう神じんを​いのり​ちかひ​て矢やを​はなつ。 太たい子しの御おんあぶみ​に​あたれ​り。 ▲太たい子しまた舎人とねり跡あと見みの赤槫あかまるに​おほせ​て、 四し天王てんのうに​いのり​て矢やを​はなた​しむ。 ▲とおく守もり屋やの連むらじが​むね​に​あたり​て​さかさま​に木きより​おち​ぬ。 其その軍いくさみだれ破やぶれ​ぬ。 せめ​ゆき​て守もり屋やが​かうべ​を​きり​つ。 家いえの内うちの資し材ざい荘しょう園えんおば​みな寺てらの​もの​と​なし​て、 ▲玉たま造つくりの岸きしの上うえに始はじめて四し天王てんのう寺じを​たつ。 これ​より仏法ぶっぽう弥いよいよさかりなり1000。

▲太たい子しの御おん伯父おじ舅しゅうと崇す峻しゅん天皇てんのう位くらいに​つき​たまひ​ぬ。 この御ぎょ宇うに太たい子し十じゅう九く歳さいにて冠かんむりしたまふ。 また太たい子しの伯母おば推すい古こ天皇てんのう位くらいに​つき​たまへ​り。 国くにの​まつりごと​を​みな太たい子しに​まかせ​たまふ。

-▲百済くだら国こくの使つかいにて阿佐あさといふ王おう子じきたれ​り。 太たい子しを拝おがみて言いはく、 敬きょう礼らい救世くせ大だい慈じ観かん世ぜ音おん菩ぼ薩さつ、 ▲妙教みょうきょう流る通ずう東方とうぼう日本にっぽん国こく、 四し十じゅう九く歳さい伝灯でんとう演説えんぜつと​まふす。 太たい子し眉み間けんより白びゃっ光こうを​はなち​たまふ。

-▲太たい子し、 甲斐かい◗の国くにより​たてまつれ​る黒駒くろこまの足あしよつ白しろきに乗じょうじ​て、 雲くもに入いりて東ひがしに​さり​ぬ。 ▲調じょう士し麿まろ馬うまの右みぎに​そえ​り。 人々ひとびとあふぎ​て​みる。 信濃しなの◗の国くにに​いたり​て、 ▲みこし​の境さかいを​めぐり​て、 三日みっかを​へ​て帰かえりたまへ​り。

-▲太たい子し、 推すい古こ天皇てんのうの御ご前ぜんに​して、 高こう座ざに​のぼり​て ¬勝しょう鬘まん経ぎょう¼ を講こうじ​たまふ。 もろもろ​の名僧めいそうをして義ぎを​とは​しむる​に、 時ときに​こたふる​こと妙たえなり。 三日みっか講こうじ​おわる夜よる、 空そらより蓮れん華げふれ​り。 ▲華はなの広ひろさは三さん尺しゃく、 地じ三さん四し丈じょうに​ふり​つもれ​り、 四し寸すんばかり​なり。 あくる朝あさに御み門かだみ​たまふ​て、 ▲その地じに寺てらを建たつ、 いま​の橘たちばな寺でらなり。 ふれ​る華はな、 今いまに此この寺てらに​あり。

-▲また太たい子し、 小野おのの妹いも子こを勅ちょく使しと​して、 さき​の世よに衡こう州しゅう衡山こうざんに​あり​し​とき、 たもち​たり​し​ところ​の経きょうを​おしえ​て​とり​に​つかわす。 ▲おしえ​て​のたまはく、 赤県せきけんの南みなみに衡山こうざんあり、 山内さんないに般若はんにゃ寺じあり。 ▲昔むかし同法どうほうは​みな​すでに死しし​おはり​に​けむ、 たゞ三人みたりぞ​あら​む。 吾われ1001使つかいと​なのり​て、 そこ​に住じゅうせ​し時ときたもて​り​し複ふく一巻いっかんの ¬法華ほけ経きょう¼ を、 こひ​て​もて来きたれ​と​のたまふ。 ▲妹いも子こわたり​ゆき​て、 おしえ​に​したがひ​て​もて​いたり​ぬ。 門もんに一ひとりの沙しゃ弥みあり​て、 これ​を​み​て​すなわち入いりて云いわく、 思し禅ぜん師じの使つかい来きたれ​り​と告つぐ。 ▲しわ​おひ​たる僧そう三人みたりつゑ​を​つい​て出いで、 よろこび​ゑみ​て▲使つかいに​おしえ​て経きょうを​とら​しめ​つ。 すなわち将たもちきたれ​り。

-▲太たい子しいかるが​の宮みやの寝殿しんでんの​かたはら​に舎しゃを​つくり​て夢殿ゆめどのと​なづく。 月つきに三み度たび沐浴もくよくして▲入いりたまふ。 あくる朝あさ出いで、 閻えん浮ぶ提だいの​こと​を​かたり​たまふ。 また​この中なかに入いりて諸しょ経きょうの疏しょを制せいしたまふ。 ▲あるいは七日しちにち七しち夜や出いでたまは​ず。 戸とを​とぢ​て​おと​も​し​たまは​ず。 高麗こうらいの恵慈えじ法ほう師しの云いわく、 太たい子し三昧さんまい定じょうに入いりたまへ​り、 ▲おどろかし​たてまつる​こと​なかれ​と。 八日はちにちといふ朝あさに出いでたまへ​り。 玉たま枕まくらの上うえに​ひとまき​の経きょうあり。

-▲恵慈えじ法ほう師しを​めし​て語かたりて​のたまはく、 吾われ先身さきのみに衡山こうざんに​あり​し時とき、 たもて​り​し経きょうは​これ​なり。 ▲過すぎに​し歳とし、 妹いも子こが​もて来きたりし​は、 吾わが弟子でしの経きょうなり。 三人みたりの老僧ろうそう、 吾われおさめ​し​ところ​を不知しらずして、 他た経きょうを​おくれ​り​し​なり。 ▲よて​わが​たましゐ​を​つかわし​て​とら​しむ​と​のたまふ。 ▲さき​の経きょうは​み​あわする​に、 これ​には​なき文もん字じひとつ​あり。 ▲この​たび​の経きょうは​ひとまき​に​かけ​り。 黄きなる​かみ​にて玉たまの軸じくなり。 ▲又また百済くだら国こくより僧そう道忻どうきん等ら十じゅう人にん来きたりて​つかふ​まつる。 さき​の世よに衡山こうざんにして ¬法華ほけ経きょう¼ を説ときし時とき、 ▲我われら​は盧ろ1002岳がくの道どう士しとして​ときどき​まいり​て聞きく人々ひとびとなり​と​まふす。

-▲後のちの歳とし、 小野おの◗の妹いも子こ、 また大唐だいとうに​わたれ​り​し​なり。 衡山こうざんに​ゆき​たれば、 さき​の僧そうひとり​のこり​て、 ▲かたり​て​いはく、 過すぎたる歳としの秋あき、 汝なんじが​くに​の太たい子し、 もと​は思し禅ぜん師じ、 ▲青せい龍りゅうの車くるまに​のり​て、 五ご百ひゃく人にんを​したがへ​て、 東方とうぼうより空そらを​ふみ​て​きたり​て、 ▲ふるき​むろ​の内うちを​さぐり​て、 一巻いっかんの経きょうを​とり​て、 雲くもを​しのび​て​さり​し​なり​といふ。 ▲あきらかに​しり​ぬ、 此この夢殿ゆめどのに入いりたまひ​し​ほど​の​こと​なり​けり​と。

-▲太たい子し御おん后こう妃ひ柏かしわ手での氏うじかたわらに候そうろう。 太たい子し語かたりて​のたまはく、 ▲君きみ、 吾わがこゝろ​の​ごとし、 ひとつ​の​こと​も​たがは​ず。 さいわいなり。 ▲吾われ死しなむ日ひは穴あなを​おなじく​して、 ともに​うづむ​べし​と​なり。 后きさきこたえ​て​まふす、 千せん秋しゅう万歳ばんぜい、 ▲あした​ゆふべ​に​つかえ​む​と​おもふ。 いかなる​こゝろ​あり​て​か、 今日こんにちおはら​む​こと​をば​のたまふ​や​と。 ▲太たい子しこたえ​て​いはく、 始はじめ有あれ者ば終おわりあり、 者もののさだまれ​る理ことわりなり。 ▲一度ひとたび生うまれて一ひとたび死しぬる​は、 人ひとの​つね​の道みちなり。 ▲我われ昔むかし数多あまた身みを​かへ​て仏道ぶつどうを​おこなひ​つとめ​き。 わづかに小しょう国こくの太たい子しとして、 妙たえなる義ぎを流布るふし、 ▲法ほうなき​ところ​に一いち乗じょうの義ぎを​とき​つ。 五ご濁じょく悪あく世せに久ひさしく遊あそばんと​おもは​ず​と​のたまふ。

-▲后きさき、 涙なみだを流ながし​て、 もて​これ​を​うけたまはる。 太たい子し、 難なん波ばより都みやこに​かへり​たまふ、 ▲片岳かたおか山やまの道みちの辺ほとりに餓うえたる人ひと臥ふせ​り。 のり​たまへ​る黒駒くろこまあゆま​ず​して止とどまる。 太たい子し、 馬うまより​おり1003て​かたらひ​たまふ。 ▲紫むらさきの上うえの御み衣ころもを​ぬぎ​て、 おほゐ​たまふ。 即すなわち歌うたを詠えいじ​て​のたまはく、

「志奈しな天留てる屋や 片丘かたおか山やま仁に 伊悲いひ爾に于恵うゑ天て 臥ふせる多比たひ人ひと 阿波礼あわれ於夜おや奈志なし仁に 奈礼なれ奈利なり計如けめ屋や 左須さす多爾たに乃の 木見きみ屋や波那はな幾木きき仁に 伊比いひ仁に于恵うゑ天て 臥ふせ留る旅人たひひと 阿波礼あわれ」

と。 ▲餓うえたる人ひと、 頭かしらを​もちあげ​て、 御おん返かえり事ごとを​たてまつる。

「伊賀留我いかるか乃の 登と三み乃の緒お河かわ乃の 多江波たえは古曽こそ 我わが大君おほきみ乃の 御名みな乎を和春わす礼妻れめ」

▲太たい子し、 宮みやに​かへり​たまひ​て​の​のち、 此この人ひと死しに​けり。 太たい子しかなしみ​たまひ​て、 葬そうせ​しめ​たまふ。 ▲大臣おおおみ等らこの​こと​を​そしる人々ひとびと七人しちにんあり。 めし​て太たい子しのたまふ。 片丘かたおかに​ゆき​て​みよ​と​のたまへ​ば、 ▲行ゆきて​みる​に​その​かばね​なし、 ひつぎ​の​うち​はなはだ​かうばし。 みな​おどろき​あやしむ。

-▲太たい子しいかるが​の宮みやに​ましまし​て、 妃きさきを語かたりたまひ​て、 沐浴もくよくし頭こうべを​あらは​せ、 浄じょう衣えを​きせ​しめ​たまふ​て、 ▲我われ今夜こよいともに去さらんと​のべ​たまひ、 床ゆかを​ならべ​て臥ふしたまひ​ぬ。 あくる朝あさに、 久ひさしく▲おき​たまは​ず、 人々ひとびと大殿おおどのの戸とを​ひらひ​て​みる​に、 ともに​かくれ​たまひ​に​けり。 ▲御み貌かおわ​もと​の​ごとし。 御おん香かおりことに馥かうばし。 御歳おんとし四し十じゅう九く歳さいなり。 ▲おはり​たまふ日ひ、 黒駒くろこまいなゝき​よばひ​て、 くさ・水みずを​くわ​ず、 輿こしに​したがひ​て​みさゝぎ​に​いたる。 ▲一度ひとたびいなゝき​て​たうれ死しぬ。 その​かばね1004を​も​うづむ。

-▲太たい子しかくれ​たまひ​し日ひ、 彼かの衡山こうざんより​もて​わたり​たまへ​り​し経きょうは、 にわかに​うせ​ぬ。 ▲いま寺てらに​ある、 妹いも子こが​もて​きたれ​り​し経きょうなり。 ▲新羅しらぎより​きたれ​り​し釈しゃ迦か仏ぶつの像ぞうは、 いまに​やましな寺でらの東ひがしの堂どうに​あり。 ▲百済くだらより​たてまつれ​り​し石いしの弥み勒ろくの像ぞうは、 いま​ふるき京みやこ元興がんごう寺じの東ひがしの堂どうにあり。 ▲太たい子し、 四し天王てんのう寺じ・法ほう隆りゅう寺じ・元興がんごう寺じ・中ちゅう宮ぐう寺じ・橘たちばな寺でら・▲蜂丘はちおか寺でら・池後いけじり寺でら・葛かずら城き寺じ・日向ひゅうが寺じを造つくりたまへり。

-▲太たい子し、 三みつ◗の御名みなあり。 一ひとつには、 厩うまや戸どの豊聡とよさと耳みみの皇おう子じと​まふす。 王宮おうぐうの厩うまや戸どの​もと​にて生うまれたまへ​り。 ▲十じゅう人にんが一度ひとたびに​うれえ​を​まふす​こと​を​よく​きゝて、 ひとこと​おも​もらさ​ず​して​ことわり​たまふ​によりて​まふす​ところ​なり。 ▲また、 聖しょう徳とく太たい子しと​まふす。 生うまれ​たまひ​て​の御おんありさま、 皆みな僧そうに​に​たまえ​り。 ▲¬勝しょう鬘まん経ぎょう¼・¬法華ほけ経きょう¼ 等とうの経きょう疏しょを製つくりて法のりを​ひろめ、 人ひとを​わたし​たまふ​によりて聖しょう徳とくと​まふす​なり。 ▲また、 上じょう宮ぐう太たい子しと​まふす。 推すい古こ天皇てんのうの御ぎょ宇うに、 太たい子しを皇宮こうぐうの南みなみに​すま​しめ​て、 国くにの​まつりごと​を​まかせ​たまふ​によりて​なり。

¬日に本ほん記き¼、 平へい氏し撰せん ¬聖しょう徳とく太たい子し伝でん¼、 ¬上じょう宮ぐう記き¼、 諾楽ならの古こ京きょう薬やく師し寺じの沙門しゃもん景戒けいかい之の撰せん ¬日本にっぽん国こく現報げんぽう善悪ぜんあく異記いき¼ 等とうに見みえたる​なり。 ¬日に本ほん三宝さんぼう感通かんつう集しゅう¼ 巻かん第一だいいち◗に云いわく、 天王てんのう寺じの御ご手印しゅいんの縁えん起ぎ◗に曰いわく、 宝塔ほうとう一いっ基き心しん柱ばしらの中なかに仏ぶっ舎しゃ利り毛髪もうはつを篭こめたまへり​と。云々 又また金堂こんどうの中なかに舎しゃ1005利り拾じゅう参さん粒つぶを​おさめ​いれ​たまへ​り​と。云々 崇す峻しゅん天皇てんのう元年がんねんに百済くだら国こくより仏ぶっ舎しゃ利りを​たてまつり、 ¬日に本ほん記き¼ に​いたり​て霊験れいげんを​あかさ​ず​と。 太たい子し御ご廟びょうの註ちゅう文もん出しゅつ現げんの事こと、

後ご冷泉れいぜい院いん即そく位い第だい十じゅう年ねんなり、 天てん喜ぎ二に年ねん歳さい次じ 甲きのえの午うま 僧そう忠ちゅう禅ぜん宝塔ほうとうを起たてんがために、 手てをもつて地じを削けずり、 しかる間あいだ地じ中ちゅうに一ひとつの銅函どうかんを掘ほり出いだしぬ。 その蓋ふたの銘めいにいはく、 「今年こんねん歳さい次じ 辛かのとの巳み 河内かわちの国くに石川いしかわ◗の郡こおり磯長いそなが◗の里さと、 一ひとつの勝しょう地ちにて、 もつとも称しょう美びに足たるゆゑ墓ぼ所しょを点てんじおはりぬ。 われ入にゅう滅めつ以後いご四し百ひゃく参さん拾じゅう余よ歳さいに及およびて、 この記き文もん出しゅつ現げんするかな。 その時とき国王こくおう大臣だいじん、 寺じ塔とうを発ほっ起きし、 仏法ぶっぽうを願がん求ぐすならくのみ」 と。云々

後冷泉院即位第十年也、 天喜二年歳次 甲午 僧忠禅為起宝塔、 削手于地、 而間地中▼掘出一銅函。 其蓋銘曰、 今年歳次 辛巳 河内国石川郡磯長里、 于一勝地、 尤足称美故点墓所已了。 吾入滅以後及于四百参拾余歳、 此記文出現哉。 爾時国王大臣、 発起寺塔、 願求仏法耳。云々

-内銘ないめいにいはく、 「われ利り生しょうのために、 かの衡山こうざんよりこの日域じちいきに入いりて、 守もり屋やの邪見じゃけんを降伏ごうぶくし、 つひに仏法ぶっぽうの威い徳とくを顕あらわす。 処々しょしょにおいて四し十じゅう六ろっ箇かの伽が藍らんを造ぞう立りゅうして、 一千いっせん三さん百びゃく余よ歳さいの僧そう尼にを化度けどし、 ¬法ほっ華け¼・¬勝しょう鬘まん¼・¬維ゆい摩ま¼ 等とうの大だい乗じょうの義ぎ疏しょを製せい記きす。 断悪だんあく修善しゅぜんの道みち、 やうやくもつて満足まんぞくす。

-内銘曰、 ▼吾為利生、 彼衡山入此日域、 降伏守屋之邪見、 終顕仏法之威徳。 於処処造立四十六箇之伽藍、 化度一千三百余歳之僧尼、 製記 ¬法華¼・¬勝鬘¼・¬維摩¼ 等大乗義疏。 断悪修善之道、 漸以満足矣。

¬文もん松しょう子し伝でん¼にいはく、

¬文松子伝¼云、

大だい慈じ大だい乗じょうの本ほん誓願ぜいがん、 有う情じょうを一いっ子しのごとく愍念みんねんす。 このゆゑに方便ほうべんして西方さいほうより片州へんしゅうに誕たん生じょうして正しょう法ぼうを興おこす。

大慈大乗本誓願 愍念有情如一子
是故方便従西方 誕生片州興正法

わが身みは救世くせ観かん世ぜ音おんなり。 定じょう慧え契女けいにょは大だい勢せい至しなり。 わが身みを生しょう育いくせる大だい悲母ひもは西方さいほうの教きょう主しゅ弥陀みだ尊そんなり。

我身救世観世音 定慧契女大勢至
生育我身大悲母 西方教主弥陀尊

真如しんにょ真実しんじつもとより一体いったいなり。 一体いったいより三さんを現げんずるも同一どういつの身しんなり。 片城へんいきの化け縁えんまたすでに尽つきぬれば、 還かえりて西方さいほうにわが浄じょう土どを起おこす。

真如真実本一体 一体現三同一身
片城化縁亦已尽 還起西方我浄土

末まっ世せの諸しょ有う情じょうを度どせんがために、 父母ぶも所しょ生しょうの血肉けつにくの身しん、 勝しょう地ちにこの廟びょう窟くつを遺い留りゅうす。 三骨さんこつ一いち廟びょうは三尊さんぞんの位くらいなり。

1006為度末世諸有情 父母所生血肉身
遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位

過去かこ七仏しちぶつの法輪ほうりんの処ところ、 大だい乗じょう相応そうおうの功く徳どくなり。 ひとたび参詣さんけいすれば悪趣あくしゅを離はなれ、 決けつ定じょうして極楽ごくらく界かいに往おう生じょうせん。

過去七仏法輪処 大乗相応功徳也
一度参詣離悪趣 決定往生極楽界

印いん度どにては勝しょう鬘まん夫ぶ人にんと号ごうす。 晨旦しんたんでは恵思えし禅ぜん師じと称しょうす。

印度号勝鬘夫人 晨旦称恵思禅師

恵え文もん禅ぜん師じ・恵慈えじ法ほっ師し、 太たい子しの御時おんときの師し主しゅなり、 思し禅ぜん師じの御おん師しなり。

恵文禅師・恵慈法師、 太たい子し御時師主也、 思禅師御師也。

仏法ぶっぽう振旦しんたん・日域じちいきに伝来でんらいして三節さんせつあり、 いはゆる正しょう像末ぞうまつなり。 正しょう法ぼう千年せんねんの間あいだは天竺てんじくに流布るふす。 像法ぞうぼう第だい十じゅう三年さんねん漢かん明帝めいていの代よの時とき、 中ちゅう天竺てんじくの摩ま騰とう迦か・竺じく法蘭ほうらんの二人ふたりの聖しょう人にん、 仏ぶっ教きょうを白びゃく馬めに負おひて来きたる。 振旦しんたんの漢かん明帝めいてい、 都みやこの西にし白はく馬ば寺じにてはじめて仏法ぶっぽうを興おこす。 後のち四し百ひゃく八はち十じゅう余よ年ねんを経へて、 大だい日本にっぽん国こく第だい三さん十じゅうの主しゅ欽明きんめい天皇てんのうの代よ、 百済くだら国こく聖明せいめい王おう、 仏像ぶつぞう・経きょう巻かん等とうをわが朝ちょうの王おうに献けんず、 像法ぞうぼうに入いりて五ご百ひゃく歳さいなり。

仏法伝来振旦・日域有三節、 所謂正像末也。 正法千年之間天竺流布。 像法第十三年漢明帝代時、 中天竺摩騰迦・竺法蘭二人聖人、 仏教負白馬来。 振旦漢明帝、 都西白馬寺始興仏法。 後経四百八十余年、 大日本国第三十主欽明天皇代、 百済国聖明王、 仏像・経巻等献我朝王、 入像法五百歳也。

*正嘉元歳 丁巳 五月十一日書写之

愚禿親鸞 八十五歳

以彼真筆草本

*弘安六年八月三日

釈寂忍 二十五歳

*徳治第二暦孟冬六日天、 於造岡道場、 拝見此書、於和田宿坊、 書写之了。

釈覚如

豫依目所労更発、 右筆参差、 仍雇他筆雖終功、 至于奥又故書止之而已。

 

底本は本派本願寺蔵徳治二年覚如上人書写本 (ルビは有国)。