わたしなりに考えてみると、 思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、 渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、 何ものにもさまたげられないその光明は、 煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。

 ここに、 浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、 提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。 そして、 浄土往生の行を修める正機が明らかになり、 釈尊が韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。 これは、 菩薩がたが仮のすがたをとって、 苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、 また如来が慈悲の心から、 五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗るものや一闡提のものを救おうとお思いになったのである。

 よって、 あらゆる功徳をそなえた名号は、 悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらきであり、 得がたい金剛の信心は、 疑いを除いてさとりを得させてくださるまことの道であると知ることができる。

 このようなわけで、 浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、 愚かなものにもきやすい近道なのである。 釈尊が説かれたすべての教えの中で、 この浄土の教えに及ぶものはない。

 煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、 行に迷い信に惑い、 心が暗く知るところが少なく、 罪が重くさわりが多いものは、 とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、 必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、 ひとえにこの行につかえ、 ただこの信を尊ぶがよい。

 ああ、 この大いなる本願は、 いくたび生を重ねてもあえるものではなく、 まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。 思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、 遠く過去からの因縁をよろこべ。 もしまた、 このたび疑いの網におおわれたなら、 もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。 如来の本願の何とまことであることか。 摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。 世に超えてたぐいまれな正しい法である。 この本願のいわれを聞いて、 疑いためらってはならない。

 ここに愚禿釈親鸞は、 よろこばしいことに、 インド・西域の聖典、 中国・日本の祖師方の解釈に、 遇いがたいのに今遇うことができ、 聞きがたいのにすでに聞くことができた。 そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、 如来の恩徳の深いことを明らかに知った。 そこで、 聞かせていただいたところをよろこび、 得させていただいたところをたたえるのである。

 

 

【1】 つつしんで、 浄土真宗すなわち浄土真実の法をうかがうと、 如来より二種の相が回向されるのである。 一つには、 わたしたちが浄土に往生し成仏するという往相が回向されるのであり、 二つには、 さらに迷いの世界に還って衆生を救うという還相が回向されるのである。 往相の回向の中に、 真実の教と行と信と証とがある。

【2】 その真実の教を顕せば、 ¬無量寿経¼ である。 この経の大意は、 阿弥陀仏はすぐれた誓いをおこされて、 広くすべての人々のために法門の蔵を開き、 愚かな凡夫を哀れんで功徳の宝を選び施され、 釈尊はこの世にお出ましになり、 仏の教えを説いて、 人々を救い、 まことの利益を恵みたいとお思いになったというものである。 そこで、 阿弥陀仏の本願を説くことをこの経のかなめとし、 仏の名号をこの経の本質とするのである。

 どのようなことから、 この経は釈尊が世にお出ましになった本意を述べられた経であると知られるのかというと、

【3】 ¬無量寿経¼ に説かれている。

 「阿難が申しあげた。 ª世尊は今日、 喜びに満ちあふれ、 お姿も清らかで、 そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。 まるでくもりのない鏡に映った清らかな姿が、 透きとおって見えているかのようでございます。 そして、 その神々しいお姿がこの上なく超えすぐれて輝いておいでになります。 わたしは今日までこのような尊いお姿を拝見したことがございません。 そうです、 世尊、 わたしが思いますには、 世尊は、 今日、 世の中でもっとも尊いものとして、 とくにすぐれた禅定に入っておいでになります。 また、 煩悩を断ち悪魔を打ち負かす雄々しいものとして、 仏のさとりの世界そのものに入っておいでになります。 また、 迷いの世界を照らす智慧の眼として、 人々を導く徳をそなえておいでになります。 また、 世の中でもっとも秀でたものとして、 何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになります。 そしてまた、 すべての世界でもっとも尊いものとして、 如来の徳を行じておいでになります。 過去・現在・未来の仏がたは、 互いに念じあわれるということでありますが、 今、 世尊もまた、 仏がたを念じておいでになるに違いありません。 そうでなければ、 なぜ世尊のお姿がこのように神々しく輝いておいでになるのでしょうかº

 そこで釈尊は阿難に対して仰せになった。 ª阿難よ、 神々がそなたにそのような質問をさせたのか、 それともそなた自身のすぐれた考えから尋ねたのかº

 阿難が答えていう。 ª神々が来てわたしにそうさせたのではなく、 まったく自分の考えからこのことをお尋ねしたのでございますº

 そこで釈尊は仰せになった。 ªよろしい、 阿難よ、 そなたの問いは大変結構である。 そなたは深い智慧と巧みな弁舌の力で、 人々を哀れむ心からこのすぐれた質問をしたのである。 如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。 世にお出ましになるわけは、 仏の教えを説き述べて人々を救い、 まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。 このような仏のお出ましに会うことは、 はかり知れない長い時を経てもなかなか難しいのであって、 ちょうど優曇華の咲くことがきわめてまれであるようなものである。 だから、 今のそなたの問いは大きな利益をもたらすもので、 すべての神々や人々をみな真実の道に入らせることができるのである。 阿難よ、 知るがよい。 如来のさとりは、 はかり知れない尊い智慧をそなえ、 人々を限りなく導くのである。 その智慧は実に自在であり、 何ものにもさまたげられないº」

【4】 ¬如来会¼ に説かれている。

 「阿難が申しあげた。 ª世尊、 わたしは世尊のたぐいまれな輝かしいお姿を拝見して、 このように思ったのです。 決して神々に教えられてお尋ねしたのではありませんº

 釈尊は阿難に仰せになった。 ªよろしい、 そなたは今まことによい質問をした。 如来のすぐれた弁舌の智慧をよく観察かんざつして、 このことについて尋ねたのである。 すべての仏がたは大いなる慈悲の心から人々を救うために世に現れるのであり、 それは優曇華が咲くほどきわめてまれなことである。 今、 わたしが仏としてこの世に現れた。 そこで、 あなたはこのことを尋ねたのである。 また、 あらゆる人々を哀れんで、 恵みと安らぎを与えるために、 このことについて尋ねたのであるº」

【5】 ¬平等覚経¼ に説かれている。

 「釈尊が阿難に仰せになった。 ª世間にある優曇鉢樹には、 ただ実だけがあって花はないが、 この世に仏が現れることは、 その優曇鉢樹に花が咲くほどまれなことである。 たとえ世間に仏がおられても、 出会うことはきわめて難しい。 今、 わたしは仏となってこの世に現れた。 阿難よ、 そなたはすぐれた徳があり、 聡明で善い心をそなえ、 あらかじめ仏のおこころを知って忘れず、 いつも仏のそばに仕えているのである。 そなたが今尋ねたことについて説くから、 よく聞くがよいº」

【6】 憬興が ¬述文賛¼ にいっている。

 「ª世尊は、 今日、 世の中でもっとも尊いものとして、 とくにすぐれた禅定に入っておいでになりますº とあるのは、 仏の神通力によって現された姿であり、 ただ普通と異なるというだけでなく、 等しいものがないからである。 ª煩悩を断ち悪魔を打ち負かす雄々しいものとして、 仏のさとりの世界そのものに入っておいでになりますº とあるのは、 普等三昧に入って、 多くの悪魔や魔王を制圧しておられるからである。 ª迷いの世界を照らす智慧の眼として、 人々を導く徳をそなえておいでになりますº とあるのは、 五眼を導師の徳といい、 人々を導くのに、 これ以上のものはないからである。 ª世の中でもっとも秀でたものとして、 何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになりますº とあるのは、 仏は四智をそなえて、 独り秀でておられ、 等しいものがいないからである。 ªすべての世界でもっとも尊いものとして、 如来の徳を行じておいでになりますº とあるのは、 仏は第一義天であり、 仏性は無量の徳をそなえ常住であることをさとっておられるからである。 ª阿難よ、 よく知るがよい。 如来のさとりはº とあるのは、 とくにすぐれた禅定について述べられたのである。 ªその智慧は、 実に自在でありº とあるのは、 何よりもすぐれた智慧の境地について述べられたのである。 ª何ものにもさまたげられないº とあるのは、 如来の特について述べられたのである」

【7】 すなわち、 これらの文は、 真実の教を顕す明らかなあかしである。 まことに ¬無量寿経¼ は、 如来が世にお出ましになった本意を示された正しい教えであり、 この上なくすぐれた経典であり、 すべてのものにさとりを開かせる至極最上の教えであり、 速やかに功徳が満たされる尊い言葉であり、 すべての仏がたがほめたたえておられるまことの言葉であり、 時代と人々に応じた真実の教えである。 よく知るがよい。