クオリア 【脳科学、認知科学、心理学、哲学】 (2004/05/06)

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意識の中で経験される、ユニークな(くっきりと際立った個別性をもつ)質感を、クオリアといいます。

クオリア(qualia)とはもともと「質」を意味するラテン語で、アウグスチヌスの「神の国」にも出てくるとのことです。つまり、古くから多くの人に取り上げられてきた「主観的体験の特異性」を指す言葉ですが、それを拡大し、現代の自然科学における成果や限界も踏まえた上で、あらたな知の枠組みの基本概念として定位しようとしているのが茂木健一郎です。

デカルト(17世紀)以降 20世紀に至るまで、精神(主観)と物質(客観)とは切り離して考えられてきました。逆に言うならば、主観の問題を「無視」することで、科学技術は爆発的な発展をしてきたことになります。しかし主−客を分離した方法論では触れることさえできない根源的な問いが、次第にぬきさしならなくなってきたのです。

まず、「客観性」そのものの根拠がゆらぎ始めています。世界ないし宇宙には何か確固とした唯一の「正しいもの」があって、それをできるだけ正確に知ることを目指す、とでもいった素朴な知識・真理観は、何段階にもわたって打ち砕かれてきました。

数学(の基礎論)や論理学では、非ユークリッド幾何学の発見からゲーデルの不完全性定理の証明(1931年)へかけて、「唯一絶対で完全な知」が幻想であったことが明らかにされました。アインシュタインの相対性理論は、絶対時間や絶対空間といった特権的ですべての基準になりえるような枠組みはないことを主張します。さらに量子論によれば対象に影響を与えない観測は不可能であり、つまり「公正な客観」などというもの自体が成り立たないことになります。

第二に、「同一性」の問題があります。〈あるもの〉が常に同じ〈あるもの〉であるということは、実は決して自明なことではないのです。物質的な存在物にまったく変化しないものはあり得ません。とすれば「同一」とは言語−論理的な、あるいは神学的な出来事だということになりますが、一方、意味論的には「同じ」であることは文脈に大きく依存します。結局、私たちが素朴に「同じ」と思っていることの根拠は、言わば主観的な思い込みとでもいう他にないようなものなのです。

第三に、私たちが生物であるという事実があります。人間は、「知性」が、物質から独立した特権的な何かのように考えてしまいがちですが、究極的には脳内(あるいは、拡大しても「身体」内)での出来事が意識と体験され、そこから抽出された上澄みが知性の実体であるわけですから、あくまで生物の活動として妥当な範囲の内に、知的な活動のすべてが収まらなくては変です。

それは進化の問題ともつながります。生物個体としてまた生物種として、人間は存続可能な形で「進化」してきたのであり、合理的な設計に基づいていきなり登場してきたのではありません。たとえば人間が社会的動物であるならば、私たちが社会的生存形態をとっていることにも、進化論的説明がつけられるはずです。

茂木健一郎の提唱するクオリアは、このような問題への「解答」ではなく、現時点ではこれらを正当に考えていく上での出発点を与えようとするものです。また、上の整理は茂木健一郎を離れた私の個人的な問題意識によるものですので、そのままクオリアとつながるわけではありません。

しかしそうであってなお、クオリアが提示する「世界に対する態度」は示唆に富みます。

重要な脳科学的事実として、体験されるクオリアのレパートリーはあらかじめある程度決まっている、ということが明らかになっています。この点で、人間が進化の内にある生物であるということと接点を持ちます。さらに、それが同一性(の体験)の生物的根拠にもなります。効果として同じクオリアが立ち上がることが、同一性の出発点なのです。

クオリアそのものの発生・成立には、言語と類比できる側面が多々あります。というよりも、言語をその現れの一つとするような、より一般的な問題把握がクオリアであると言ってよいかもしれません。いずれにせよ、リアルな関係性の反映であるコミュニケーションにおいて生まれ、また常に新たに生成されるのがクオリアなのです。

21世紀の今、あらたに、「人間」が関心の中心となりつつあります。しかしそれは地動説から天動説への逆戻りといった意味ではなく、私たちが無自覚に作り上げてきた「自分に都合のよい世界観」のほころびが自覚され、丸裸で宇宙のど真ん中に放り出されているとでもいうべき状態に突き戻されたところ、いえ、「宇宙」すらも実は見えず、ただ無防備に立ち尽くしているという感覚、を母胎とするものです。

そこのところで、まず立ち上がってくる原感覚。そこに立ち止まろう、そこから考え始めよう、というのがクオリアという問題意識の核心です。そして、「そこに立ち止まろう」としたときすでに、人間であることのすべてが生まれ出ているのです。(動物は、あるいは知性をシミュレートしようとしているコンピュータも、「そこ」で立ち止まることはありません。) さらに、私には、そこで「立ち止まれる」こと――根源的な受動性――がまさに、原宗教の語り出だしている場であるとも感じられるのです。

参考までに、主に参照した茂木健一郎の本(下記)は、次の一文で締めくくられています。

   「私たちは、生成としての個を生きているのである。」

【直接参照した資料:茂木健一郎『意識とはなにか――〈私〉を生成する脳』(ちくま新書)、http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html

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