確率 【数学、統計、経済、 論理学、心理学、生活】 (2004/06/08)

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確率という言葉、あるいは考え方は、思いのほかひろく現代の生活の中で用いられています。

よく引き合いに出されるのが、天気予報の 「降水確率」 です。あるいはギャンブルや株も確率と切り離せません。私個人は、子どもの病気を通じて出会った 「5年生存率」 という数字から確率を考え始めました。

確率とは何かと定義を考えようとしたとき、実は確率の考え方に大きく二通りがあって、その両方を包もうとするとかなり抽象的・形式的なものになってしまいます。ここではとりあえず、「不確実性に対する接し方」くらいの受け止め方にしておきます。

確率の考え方に大きく二通りあると言いましたが、一つは統計的 (私の語感では必然的) 確率で、もう一つは主観的確率です。

数学の一分野としての確率論は、17世紀にパスカルとフェルマーによって創られました。ある試行のもとで起こり得るすべての場合の数が n 通りあり、それらのどの 2 つも重複して起こることなく、また、どの場合の起こることも同程度に期待されるものとするとき、この試行において事象 A の起こる場合の数が a ならば、a/n を事象 A の起こる数学的確率といいます。

上で 「すべての場合の数」が有限で数えられる場合はよいのですが、そうでない場合は統計の出番となります。統計的に十分なだけの資料が集められれば、同じように考えて統計的な確率が求められます。天気予報の降水確率などはこれです。数学的にも、資料の数が多くなれば統計的確率は数学的確率と一致すると考えてよいことが証明されており、「大数の法則」 といいます。

「人は必ず死ぬ」という命題も、確率の問題として考えるならば、大数の法則に則った統計的確率といえるでしょう。このあたりから、確率とは、表面的な多様性の裏に潜む、踏み越えることのできない必然性といったイメージができてきます。ところがそうすると、たとえ大枠としてはある 「必然」 の枠内にあるとしても、ある特殊な一回性のはらむ不確実性とどのように接していけばよいのかという問題があぶりだされてきます。たとえば 「5年生存率 60 %」 と告げられたときのようなものです。

そのような主観的な面から確率を考えたのが 18 世紀イギリスの数学者トーマス・ベイズです。ベイズは、最初に適当な (主観的な、場合によっては先入観的な) 推定値を決めておき、その前提のもとに実際の出来事を観察して、そこから最初の推定値を修正していくというプロセスを数理的に確立しました。その考え方の中心にあるのは、「事象 A が起こったという条件のもとで事象 B が起こる確率は、A の起こる確率と B の起こる確率を掛け合わせたものになる」 という、条件付確率です。

ベイズ流の主観的な (最初に適当な推定値から出発する) 確率も、実際の出来事に触れて修正を重ねていくと、最終的に数学的な (あるいは統計的な) 確率に近づくことが証明されています。

実は、統計学などの分野で応用されている理論としては、ベイズ理論の方が大数の法則に則った統計的確率の理論よりも先発だったのですが、「結果から原因を推定する」 というあたりが嫌われて一時期影が薄くなっていました。ところが、技術的な扱いやすさ (最初に膨大な資料を集めなくても、「適当な数値」 からとにかく出発できる) と、人間の実際の行動との親和性から、近年急速に見直されているそうです。

「人間の実際の行動」 という観点からすれば、フランク・ナイトという経済学者はリスクと不確実性とを区別しています。ナイトはどのような理論に基づくにせよ、(危険度の)確率を 「計算できる」 ものをリスクと呼び、そのような計算 (予測) そのものがまったくできない真正の不確実性に対して、リスクはすこしも不確実ではないと断じました。

「エルスバーグのパラドックス」 と呼ばれる、不確実性に対する行動として、面白い現象があります。内容は、「T:赤い玉が 50 個、黒い玉が 50 個、計 100 個 U:赤か黒の玉がとにかく合わせて 100 個 入ったの2つのつぼを準備し、『どちらかのつぼを選んで、玉の色を予言し、目隠しして玉を1つ取り出す。予言が当たれば賞金がもらえる』 というとき、大多数が T のつぼを選ぶ」 というものです。この現象も、ナイトの考え方によれば、人間は「(リスクとは区別された)不確実性を嫌う」として理解できるようになります。

ナイトの着想を数理化していくと、とんでもない結論が導けます。確率の考え方の背景には、「あり得るすべての事象の確率を足し合わせると 1 になる」 という加法定理があるのですが、これが否定されるのです。現象は原理的に不確定性を孕んでいる? なお、このような加法性をもたない確率が量子力学の分野で応用され、キャパシティ理論と呼ばれているそうです。(残念――当然?――ながら、詳細はまったく知りません。)

確率=不確実性とのからみで、もう1点、「集団的不可知性」 という話題を紹介しておきましょう。

ものごとが不確実だというとき、情報の不足、予測する理論の不備、などいろんな原因が考えられますが、「複数の人間のもっている知識がかみ合わないとき」 に生じる不確かさを、集団的不可知性と呼びます。確定した用語ではないようですが、逆にきちんと共有された集団的知識を指すコモン・ノリッジは専門用語として定着しているそうです。

わかりやすい例は、e-メールでしょう。メールを送ったとしても、「相手がそれを読んだ」ということに確信がもてなければ、送った内容はコモン・ノリッジにはなっていません。仮に 「読んだ」 というレスを返信したとしても、今度は 「相手がレスを読んだ」 ということに確信がもてなければ同じことの繰り返しで、直接の会話のような 「同時・双方向」 の情報伝達以外には原理的に集団的不可知性がつきまとうのです。

私は、歎異抄第4条に出る 「すゑとほりたる大慈悲心」 をひっくり返した、「末通らぬ」という言い回しが好きです。これまでは、どのように人知ががんばろうと、結局は不可知としか言いようのない部分が残るという面と、ある観点からすれば筋の通った見方も、別の見方を原理的に排斥している以上全体を記述することはできないといった面との響きで、いわゆる自力無効の戒めに(自分に対して)用いていました。これからは、集団的不可知性も含んだ確率的な意味でも、「末通らぬ」 という言葉を使う必要がありそうです。

【直接参照した資料:小島寛之『確率的発想法』(NHKブックス)】

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