遺伝子・ゲノム・DNA 【生物学、医学、バイオテクノロジー、情報科学】 (2003/06/06)

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ヒトゲノムプロジェクトが完了しました。

20世紀最大の科学的発見は何かと問われたとき、ワトソンとクリックによる DNA の二重らせん構造の解明(1953年)を挙げる科学者が一番多いそうです。ヒトゲノム DNA の解読は、その延長線上に位置づけられます。

まず用語の確認をしておきましょう。

「DNA (deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)」は物質の名前です。ヌクレオチドと呼ばれる単位物質がたくさん(大腸菌 DNA で 460 万)ひも状に連なった高分子有機化合物で、単位数が数十くらいのものならば人工的に合成もされています。各ヌクレオチドには、塩基と総称されるアデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)のいずれかの突起があり、よく知られているように、このA、T、G、Cが遺伝情報を記録する「文字」として働きます。

「遺伝子」は機能を中心に考えた用語です。えんどう豆の形が丸いかしわしわかなど、遺伝的に現れる特徴を形質といい、遺伝形質を決定する因子としてとらえられたのが遺伝子です。もちろん、遺伝形質と遺伝子とが必ず 1 対 1 で対応しているわけではなく、1つの遺伝形質にたくさんの遺伝子が関与していることも、逆に1つの遺伝子が翻訳のされかたによって複数の遺伝形質に出現することもあります。

物質的には、遺伝子の実体が DNA (あるいは DNA の断片)です。ふつう数百〜数千「文字」から成りますが、ひとまとまりの遺伝子の中に意味を持たない(翻訳されない)部分がはさまっていたり、あるいははるかに離れたところに記録されている情報が合わさって1つの遺伝子として機能したりと、ちょっと一筋縄でいかないところがあるようです。

数の点では、ヒトの場合、2002年末の資料で約 3 万の遺伝子があると言われています。しかしそれらをすべてあわせても、DNA の全体からするとほんの 3% ほどにしかなりません。残りは遺伝子としては働かないただの DNA ということになるのですが、実際のところ、詳しいことはよくわかっていないというのが実情のようです。

遺伝子を載せた DNA が実際に細胞の中に納まっている姿が、「染色体」です。ヒトでは 23 対に分かれて核の中にあります。ただし、染色体としてまとまって見えるのは細胞分裂のときだけで、通常はほぐれた形で核全体に広がっています。1本につないで引き伸ばすと、約 2m の長さになります。(これが、平均して直径 0.1mm の細胞の中の、そのまた一部の核の中に詰め込まれており、体中の 60 兆個の細胞が分裂するたびに複製されるのですから、間違いが起こらない方が不思議というものです。)

少し話はそれますが、遺伝子が「遺伝」に関わるのは生殖細胞においてのみで、通常の体細胞では親から受け継いだ形質の「発現」にあずかっているだけです。遺伝子治療あるいは遺伝子操作という用語は、ときに不必要に警戒して受け止められるような気もします。極端な言い方をすれば、分子レベルでの「整形手術」に過ぎませんから、次の代(子供)に継承されることはありません。もちろん、大袈裟なくらいに慎重であってちょうどよいとは思いますが、このあたりの事情はよく理解しておく必要があるでしょう。

最後に、大腸菌なら大腸菌、ヒトならヒトというある生物種が成立する上で、必要最小限の遺伝子の1セットをゲノムと言います。とはいっても、要るところだけ(上述の、ヒトの場合の 3% )だけとって残りは捨てるというのではありません。ヒトをはじめ通常の生物の体細胞では染色体が「対」になっているので、それを半分にして考えるだけです。

ヒトのゲノムは、約 30 億文字から成ります。その解読(並び具合の解明)が、完了したわけです。

ただし、その「意味」の解明はこれからです。今は、「何とかいてあるのか全部はわからないが、とにかく文字の並び方がわかった」段階です。

さらに、今回解読されたヒトゲノムの、どこが資料を提供した個人のもので、どこがヒト全般に共通するものなのかといったあたりは、素人が調べてみた範囲でははっきりしませんでした。「個人差」に関わるのは、ゲノムにつき 300 万箇所ある多型(許される差異)とされています。ゲノム全体に対しては 0.1%、遺伝子についてだけで考えてよいのならば 3% です。それが多いのか少ないのかも、判断できません。

一般人には、用語をきちんと整理してみるくらいが精一杯でしょうか。「ヒトゲノムが解読された」ということが、科学的あるいは思想的にどのような意味を持つのかは、これから少しずつ明らかになるのを待つしかなさそうです。

住職としての立場から簡単にコメントをしておくならば、たとえば「いのちという聖域に人間が手をつけてしまった」といったトーンの反発は、多少ピントがずれているように感じています。

第一に、私の理解では、「いのち」そのものが生物学的な生命(せいめい)にのみ限定されるものではありません。直接には社会学などが対象とするような側面も、また仏教はじめ宗教が取り扱うべき側面も、「いのち」にはそのまま残ります。生物学としての理解の深化は専門家に任せればよい。ただ、そのことを通じて重心の変った「いのち」の受け止め方に対して、宗教的な意味づけの問い直しには直面せざるを得ないでしょう。それはその分野の「専門家」としての、私たちの役割です。

第二に、生物学的な側面に話を限定しても、「いのちを操作する」といった表現は、半分正しいけれども、半分誤解を招きそうだという気がします。これまで技術の対象外であった生命現象の一部に手が出せるようになったという意味では正しいでしょうが、実際に生きている細胞などの助けを借りない限り、科学者といえども何もできないのです。少なくとも現時点で、人間には生命の操作などとてもできません。生命現象の隅の隅を、ちょっとだけつついている、というくらいが正当な言い方でしょう。それで生命の驚異がより深く味わえるのならばいいじゃないか。「生命」は、人間がちょっとつついたくらいでしぼんでしまうほどもろいものではない。少々化物(ばけもの)が生まれようと、あるいは人間が滅んでしまおうとも、「生命」はしたたかに続く。やや問題発言かなとは思いますが、私はそのように考えています。

【直接参照した資料:松原謙一『遺伝子とゲノム』(岩波新書)、『岩波生物学辞典』第4版、『岩波理化学辞典』第5版、『フォトサイエンス生物図録』(数研出版)、http://jvsc.jst.go.jp/being/genome/

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