エネルギー 【自然科学全般、存在論?】 (2003/10/31 後日大幅加筆修正)
エネルギーという言葉は、すでに完全に日常語の中に埋もれているようです。
自然科学においても、あまりにも基本的というのでしょうか、かえって「エネルギーとは何か」といった問いかけにそのまま答えてくれるものは、捜した範囲ではみつかりませんでした。
エネルギー(英:energy、独:energie)は、ギリシア語 energeia (en-「内部に」 + ergon「仕事」)に由来し、「物体内部に蓄えられた仕事をする能力」の意味で、T. ヤングにより 1807 年に使われたのが最初です。その頃「力」をどのように考えるかで論争が行われており、「活力 vis viva」に代わるものとして提示されました。
古典力学では、エネルギーとは「仕事量」と等価のもとして与えられ、単位として J (ジュール、次元は [ML²/T²])が使われます。
エネルギーには、運動エネルギー、位置エネルギー、熱エネルギー、電気エネルギーなどいろいろな種類がありますが、ある系の全体で考えた場合、エネルギーの総量は変わりません。これを熱力学の第一法則(エネルギー保存則)といいます。
その後、相対性理論の登場により、質量もエネルギーの形態の一つとみなされるようになりました。原子力はその応用で、0.001 g の質量がエネルギーに変ると、1 万 t のタンカーを 1 km の高さに持ち上げられるだけの仕事をする計算になります。
ところで、二十世紀前半の自然科学は、その対象を「物質とエネルギー」としていました。(今では「情報」が加わります。もっとも、「情報」とは何なのかは意外にとらえにくい問題で、あらためてまた別に整理します。) ということは、もし質量(物質の量)がエネルギーと等価に扱えるとなると、「自然界」に存在するのはエネルギーのみ、ということになります。
その上で、宇宙全体は閉じた系ですから、エネルギー保存則が成り立ちます。宇宙全体では何も変っていない?
局所的には、エネルギーの分布にはかなりムラがありますから、エネルギーの移動が起こっています。今目の前に見えるすべての出来事も、私の身体も、私の脳内の活動も、そういった「エネルギーのムラ、ないし移動」の具体的な姿です。
エネルギーは、移動することによって質が変ります。地球に降り注いだ高品質の太陽エネルギー(電磁波のエネルギー)は、植物体内で化学エネルギーに変えられたり、風その他のさまざまな気象現象のもとになったりしますが、最終的には品質の悪い熱エネルギーに変っていきます。地球は、昼の側で質の高いエネルギーを吸収し、夜の側で質の下がったエネルギーを棄てることによって、エネルギーの安定した「流れ」を維持しているのです。
エネルギーの質が変ることは、エントロピー(エネルギーの変化の意)が増えることに他なりません。そこから、エネルギーが変質して現在のように多様な表れ方をする前の、宇宙全体が高品位のエネルギーで満たされていた状態、つまりエントロピーがものすごく低い状態が想像されます。それがビッグ・バンです。
エントロピーが極端に低い状態は、エネルギー「密度」がべらぼうに高い状態です。「宇宙の『全体』が、今ある原子の中の原子核よりも小さい」! 状況を、理論物理学者は考えているのです。ここで、ミクロの世界の物理現象を記述するための「量子論」が、(物質的)宇宙の研究とつながっているのです。
さて、私がエネルギーに関心をもつのは、どこかで仏教における宇宙観の根幹と重なっているような気がするからです。
念のために断っておくと、私はエネルギーという物理的な概念を仏教の言葉で説明できると思っているのでも、逆に仏教の宇宙観を物理的に翻訳できると考えているのでもありません。物理学における考え方を、譬喩、ないし「思考実験の素材」として用い、その連想を借りて、自分の仏教的な見方を、少しでも鮮明にしてみたいと思っているにすぎません。
現実の区別を「抽象」して、物理的にある特定の見方をするならば、宇宙に「ある」のはエネルギーのみであるというとき、私は「涅槃」を連想します。
涅槃はサンスクリット語 nirvāṇa(ニルヴァーナ)の音写で、(火が)吹き消された様から、消滅、静けさなどを表わし、意訳の「寂滅」と同義語です。原始仏教においては「火」は「煩悩」の譬喩であり、煩悩が静まったさとりの境地を指しました。それが大乗仏教において存在論的に展開されたとき、「全宇宙の実相(真実の姿)」の意味に転ぜられます。「涅槃」はその「静けさ、安らかさ」に重心を置いた表現ですから語感にズレは残りますが、その保存則も含めて、イメージ上「エネルギー」と自然に重ねることができるのです。
現実の物理的世界にはエネルギーのムラがあり、それが大は銀河から星を経て、小は原子から原子核・素粒子へ至る、様々な構造として顕現しています。しかしそれらの構造は、「エネルギー」という観点からすれば、相互にかつ階層的に、密接に「つながって」います。もう一歩踏み込んで形容すれば、(均質で「動き」などというものを考えようのない状況から)エネルギー・涅槃が「動いた」姿と解釈することができます。これを「縁起」の譬喩と見ることに大きな無理はないでしょう。
では、エネルギーの「移動」は何に対応するのか。〈いのち〉です。
言うまでもありませんが、〈いのち〉は仏教語ではありません。仏教語の中から、対応しそうなものを探してくることもできなくはありません。しかし今仏教語に拘泥する必要はないでしょう。あえて言うならば、ここでの〈いのち〉は、私にとっては「仏教的な背景に載せられた」〈いのち〉であり、個人的には阿弥陀如来の「願い」を念頭に置いているのですが、それにとらわれると、私自身窮屈になってしまいます。
いきなり、切り口を変えてみましょう。「何」にならば、あるいは「どこに」ならばいのちが感じられるか。どのようなものであるならば、「生きている」と感じられるか。
目の前を通り過ぎる「ネコ」が生きていると感じられることに、異義のある方は少ないでしょう。「山」あたりでも、日本人ならば生きているという人の方が多いのではなかろうかという気がします。ならば「チョーク」ならば? 一旦、仮に「生きているとは感じにくい」と思ってください。その上で、こうしたら一片のチョークが「生きているように感じられる」のではないかという方法を、2つ考えてみました。
1つは、チョークを静かに置き、「超」低速度――1年に1コマくらい――で撮影して、それを通常再生する方法です。おそらく、チョークは風化して粉の山になっていくはずです。少しは――生きているように(あるいは、死んでいっているように)感じられるのではないか。
もう1つの方法は、もっと簡単で、おそらく、もう少しリアルだろうと思います。どこからかチョークが飛んできて、あなたの額にカツンと当るのです。台風の風で飛ばされてきたなど、偶然のように受け止められる場面であるならば、あたかもそのチョークに悪意があったかのように、「こん畜生!」 と毒づいたりしかねないのではないでしょうか。
いずれの場合も、エネルギーが「変化」しています。変化の度合いは、2番目の方が大きい。
水が流れる、火が燃える、太陽が輝く、そしてもちろん生物が生きている、など、私がいろいろ考えてみた範囲では、「いのち」が感じられる場面では必ず、エネルギーが変化しているように思えます。(「例外」は、アニメや漫画の登場人物です。しかしこれはまた別の出来事でしょう。)
くり返しておきますが、〈いのち〉をエネルギーの変化「である」と定義しようとしているのではありません。しかし、そのように「も」考えてみることで、いろいろ新しい発見ができそうには思っています。
【直接参照した資料:平凡社『世界大百科事典』(CD-Rom版)】
補註:エネルギーの「移動」という表現は、やや曖昧に用いられています。それを詰めるには「エネルギー」と「運動量」あるいは「力」の混線しているところを洗いなおす必要があるのですが、それをしてみるのもややちぐはぐな印象が拭えず、とりあえず今はこのままにしておきます。お気づきの点がありましたら是非ご教授ください。