資本主義 【経済、歴史、人間】 (2005/01/26)

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「資本主義」とはどのような思想なのか。それを、佐伯啓思『「欲望」と資本主義』(講談社現代新書 1150)を主な資料に、私の個人的な関心から整理してみます。

私にとってありがたいことに、この本は経済学の専門書ではありません。

本書のスタンスは、いかなる意味でも、資料やデータを使った事実分析(ファクチュアル・アナリシス)でもなく、また抽象理論を展開する理論分析(セオレティカル・アナリシス)でもない。しいていえば、その中間にある概念分析(コンセプチュアル・アナリシス)とでもいうべきものだろう。今日のこの高度に情報化し、グローバル化した社会で「資本主義」という概念をどのように理解すればよいのか。そしてそれは文明論的、歴史的にみればどのような意味をもつのか、それが本書の主題である。(p.8)

第1章「社会主義はなぜ崩壊したのか」で、「消費者」という着眼点が提示されます。この章はこのためだけに書かれているととらえてしまいます。

…社会主義の計画経済ではそもそも厳密な意味では「消費者」という概念が存在しない。人民が何を必要とするかは、計画当局が決定するからである。だから社会主義では、人々の生活上必要なものは生産されるが、それ以上のもの、ある意味で、無駄なもの、贅沢なものは生産されない。(p.28)

第2章「八〇年代と日本の成功」は、いろんな意味で目からうろこの章でした。次の一文で集約します。

この「消費者」というカテゴリーの重要性を追及したこと、そこに日本経済の強さのひとつの要因がある。後にまた述べるが、この「消費者」というものの重要性に気づいたのは今世紀のアメリカであった。だがそれを徹底的に推し進めたのは日本である。つまり「消費資本主義」が日本で極限的なかたちで開花したのである。(p.51)

以上二章を導入に、続く四章が「本論」です。

その中、冒頭の第3章「資本主義という拡張運動」が、本書全体のいわば背骨です。この章は、1―拡張する欲望フロンティア で経済史家ブローデルによってなされた市場経済と資本主義との区別を紹介した上で、2―過剰の処理としての資本主義 でバタイユを換用して『「過剰」なものの処理としての消費」という論点を持ち込み、3―「欲望」についての考察 でさらにジンメルを参考に「価値」がどこから生まれるかを考察するという構成になっているのですが、そのような構成が無用に思えるくらいに、2の「過剰の処理としての資本主義」が強く表に出ています。

オーソドックスな

有名なリビンズの定義というのがあって、それによると、経済学とは、希少な資源の配分にかかわる学問だという。要するに、労働力や天然資源という限られた資源をいかにうまく使って人々のほしがるものを生産するかということだ。この定義はまことに「効率性」という概念になじみやすい。そして市場経済はこうした資源配分のやりかたのもっとも効率的なものだ、ということになる。(p.23)

マルクスが描いた資本主義とは、端的にいえば、資本家が貨幣を資本として投下し、剰余価値を実現し、再び資本として投下するというプロセスにほかならない。そこで重要なのは、剰余価値がどこで発生するかである。いうまでもなく、それは生産の現場で行われる。生産の現場とは、いいかえれば労働の現場でもある。だから結局、剰余価値が発生するのは、事実上、生産の場面(企業や工場)で行われる資本家と労働者の攻防ということにつきるだろう。こうしてマルクスの資本主義社会は、社会学的にみれば資本化階級と労働者階級のすさまじい階級対立ということになる。(p.63)

といった理解が

…「消費」とはなにより「浪費」つまり過剰なものの処理である、といってよいのではないか。それは欲望の充足といったようなものではなく、社会的な過剰の処理とみることができるのである。ここでわれわれが出会うのは、経済学が描いたような、希少な財貨を無限の欲望の前に配分するという行為ではなく、人間の生存をこえた過剰な財貨の処理なのである。

バタイユの議論がきわめておもしろくも示唆にとんでいるのは、経済というものを考えるやり方をまったく逆転してしまった点にある。経済は、かぎられた資源をうまく使って、人間の欲望をすこしでもたくさん満たしていこうとするものだという、通常の発想を逆転して、過剰な生産物を処理する様式だと考えた点にある。(pp.78-79)

とひっくり返されるのです。そのような見方に立ったとき、

…資本主義とは、人間の欲望を開拓し、過剰なモノの形を与えてゆく運動である。…しかも経済史家のゾンバルトによると、「贅沢」こそが資本主義の起源であり、またその決定的な特徴だという。してみると、人間の欲望をどのようなかたちで開拓し、それにどのような形でモノの表現を与えて行ったかは、現代にとどまらず資本主義をみるうえできわめて重要なことなのではなかろうか。(pp.82-83)

と、一見ショッキングながら、まさにそれが考えたかった点だというところに議論が焦点を結ぶのです。

本論の続く三章、第4章「『外』へ向かう資本主義」・第五章「『内』へ向かう資本主義」・第六章「ナルシシズムの資本主義」は、上のような論点にたって眺め返した「経済史」あるいは「文明論」で、順に19世紀までのヨーロッパ、20世紀アメリカ、80年代日本が主題とされており、第六章は内容的に第二章の再現です。いろいろ気づかされることが多く新鮮なのですが、議論の骨格は各章のタイトルに十分現わされているでしょう。

そして最終章の第7章「消費資本主義の病理」で、著者はここまで展開されてきた視座に立ち、過不足なく現代を見据えます。

…「ほんとに欲しい」とか「本来の自分」というようなもの、そのものが、暫定的な座標軸の中でたまたま成立した言説にすぎない。消費者の選択などというものは、いつもこうしてたまたま成立した座標軸の中で浮かび上がってくる文化的、価値的コンテクストにはめ込まれているだけであって、このコンテクストそのものは選択などできるものではないのだ。(p.193)

だからこれ〔注:技術のフロンティアと欲望のフロンティアの乖離〕は、一面では、人間の未知なるものに対する想像力の危機だともいえる。人間は「新しいもの」を手元にたぐりよせる強力なメカニズムを失いつつあるからだ。だが、逆にいえば、その想像力を産業技術が独占していた「近代」を脱して、それをもう一度、文化や知識の領域に取り戻す可能性も開かれてきたのである。(p.218)

さて、以上で雑な要約とさせていただいて、もう一度私個人の関心事を確認し直しましょう。

何より、「過剰」という論点が刺激的でした。本書を離れて私の語彙でとらえ直すならば、経済という現象も、またある面その「発展形」のように理解することのできる情報というものさえ、その本性は過剰であると理解されます。過剰であるとは、原理的に合理的な制御を受け付けず、常にそれを超えていくということです。あるいは、善・悪という判断の追いつけない無目的な動きだということです。

それは、私にとって 〈いのち〉 の譬喩になり得ます。

本書にならって現代を「資本主義」の時代と見るとき、私たちは好むと好まざるとにかかわらず、過剰のただ中で翻弄されている自らの姿に気づかされることになります。もちろん、それは迷いの姿です。過剰を制御する力も否定する術も、私たちにはありません。しかし、そのような過剰こそ 〈いのち〉 の実際であると味わうことができるならば、むしろその過剰へ「任せ信頼する」という方向性の中に、新しい地平が現れてくるのではなかろうかという気がするのです。

【直接参照した資料:佐伯啓思『「欲望」と資本主義』(講談社現代新書 1150)】

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