死を考えるということ

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よ~し、これであなたとさし向かいの話ができる!

ここまではどうしても説明が中心だった。あなたの知らないことを話してあげていたんだものね。でも説明ってみんなに向かってするから、聞いているあなたからすれば、自分は関係ないみたいなよそ事になってしまうことがあるんだ。みんな向けの話は、最悪だれ向けの話でもなくなる。いのちの話なのに。

だからこれからできるだけ説明は少なくして、確認と問いかけを中心にしよう。いのちの物語なんだから、最初の問いははっきりしている。生きてるってどういうことなんだろう、だね。あなたはちゃんと答えられる?

生きているとは宙ぶらりなことだ、迷っていることだと話してあげてはいる。そこからいのちの物語が始まると。でもそれがよそ事になってないか、確認しなおすよ。

あなたはいつから生きている? 生れたときから? じゃあ、お母さんのおなかの中にいたときは生きてなかったの? あなたはお母さんの中でもともと卵子という一個の細胞だった。やがてあなたになる卵子は、お母さんが生れたときにはもうおなかの中にあったんだよ。なら、そのお母さんが生き始めたのは……。あなたが本気でついてくるなら、どこまで続けたっていい。進化の歴史をさかのぼって、宇宙の歴史もさかのぼって、ビッグバンまで引き返してもかまわないよ。でも今現にあなたが生きている以上、宇宙の誕生の前にすらまだ夢を見ているだけのいのちをたどってしまえる。その前はどうだったの?

自分がいつから生きているのか、始まりがわからない。精一杯がんばっても、言えるのは「気がついたら生きていた」ということだけじゃないかな。

反対に、あなたの生きているはいつ終る? 死んだとき? いつ死ぬの? そんなのわかりようがない? それじゃあよそ事になってしまうから質問を変えるね。どうなったら死にきれる? 楽に確実に死ぬ方法なんかじゃなくて、何に納得したら、何を成しとげたら、何に満足したら、死んでいける? どうせ死んだら終り、考えたってムダ、などと逃げないでよ。ほんとうに死んだら終り? いざ自分が死ぬときにきれいに何もかもあきらめて安心して死ねる?

「生きている」が、「気がついたら生きていた、死ぬに死ねない、そのままわけもわからず生きている」になっていないかな。それが、迷いなんだよ! 無始むしみょうともいう。無明は迷いのこと。迷いの始まりは、迷いの身、わけもわからず生きているあなたには、わかりようがないんだ。

そして死ねないとは、どう生きたらいいのか知らないということ。ほんとうの謎は、生きていることなんだ。生きていることのただごとでなさ。ひと事ではすまないし、よそ事にしていたのではもったいないよ!

死ときちんと向き合ったとき、はじめて生きていることの大変さに気づける。死の問題をしょう一大いちだいというんだ。後生とは後の生涯で来世の意味だけど、死んだあとのことを気にしているんじゃなくて、死に照らしてはじめて自分の生涯を問うことができるということ。わかるかな。

大昔、仲間が死んでしまったとき、花を遺体のまわりに供えて埋葬したおサルさんが現れた。そのおサルさんが、今人間と呼ばれている。(正確にはこれはネアンデルタール人の話で、現在ではネアンデルタール人はあなたたち人間の直系の祖先ではなく、50万年前くらいに現生人類と分岐したあと数万年前に絶滅してしまったとされているけれど、そんなことはいいよね。)死ぬって、どういうことなんだろう? どうして、生きているんだろう……と、迷えるようになったのが人間なんだ。なら、迷うのを嫌っておサルさんに戻るより、本気で迷ってみようよ。その方が楽しいから。ぼくも人間だったときそうした。

迷った方が楽しい? その通り。どういうこと? いちばん、わくわくすることだから。迷わなかったら、現実にはりついたままだったら、何もかも当たり前だったら、素敵なわけがわからないこととは出会えないじゃない!

違う形で確認してみようか。いのちにいちばん大切なものって、何だと思う? いきなりではとまどうだろうから、三つ答えを準備してあげよう。一番、食べもの。二番、思いやり。三番、感動。さぁ、どれを選ぶ? …… 一つには選べないね。どれも大事。食べものや思いやりだけじゃなくて、いのちには感動も欠かせないんだ。

どういうことだろう。食べもので支えているのは、からだのいのち。思いやりが大切なのは、こころのいのち。でもそれだけではまだどこかさみしい。感動が思い出させてくれるのは、おおきないのち。そう、ぼく! あなたのいのちは、ぼくと出会いたがっているんだよ!

こんな俳句がある。

虫の夜の星空に浮く地球かな

大峯おおみねあきら先生というお坊さん俳人の作品で、中学校の国語の教科書にものっているから、知っている人がいるかもしれない。季節は秋だね。虫がきれいに鳴いている。それにさそわれて外へ出てみたら、満天の星! うわぁと声をのんで見上げているうちに何だか吸い込まれていくような気がしてきて――はっと気がつくと、自分が立っているこの地球もあの星たちといっしょに夜空に浮かんでいた……いつか自分は消えて、星空とひとつになっている。

これまでの話を思い出してごらん。ぼくは、あなたのこころが「自分」と閉じたときにしめ出された、あなたにとっての「他」なんだ。あなたがあなたでいる限り、あなたの側からぼくのことはわからない。でも何かのきっかけで感動できたとき、あなたの輪郭がフッとゆるんで、ぼくと、おおきないのちと、とけ合うことがあるんだ。ぼくは、あなたが我執の求心力で窒息してしまわないよう、いつもあなたをあなたの自分・・の外から引っぱっているんだから。ぼくはあなたのりきなんだから。

ほら、ちゃんと迷ったら、ぼくがいつもそばにいることが感じやすくなるでしょう?

少し話を急ぎすぎたような気もする。もう一度、からだのいのち、こころのいのち、そしてあなたにとってのおおきないのちを、もっとていねいになぞってみるね。ひと事じゃないんだよ。あなた自身のいのちに耳をすませて、ちゃんと聞き取ってみて。

からだのいのちは、見えるいのち。いちばん身近でわかりやすいいのち。あなたにとって、離れることのできない、抜き差しならないいのち。切ったら痛いし、病気にもなり、いつかかならず死んでいくいのちなんだから。そしてそれは、ちぎれてしまったいのちでもある。あなたがあなたのからだで生きている以上、だれにも代わってもらえない。だれと代わってあげることもできない。いのちのつながりから、はぐれてしまっている。そんなさみしいいのち。しかし同時に、いちばん正直ないのちとも言えるんだ。年を取らずに生きることはできないし、死ぬことなく生きることもできないんだから。その意味では、忘れてほしくないいのち。

こころのいのちは、見えないいのち。こころは、あなたのからだの外で成り立っているんだったよね。だから、あなたのからだを離れて、あなたのまわりのほかのこころと、共感しとけ合うこともできる。それはこころの素敵な一面。でも、こころの本質はしこりをはることだった。そっちが表に出ると、死ねないいのちにもなってしまう。さらに、小さいこころこそ、自己中、人間中の原因でもあった。だからいのちのおしえからはやはり遠いかな。共感しひろがったとしても、そこで人間称賛に止まったら、知らず自分で自分の首をしめて、いのちのやわらかく弱いすがた、あなたが迷っているということを隠してしまうことにもなる。それは思い通りにしたがるいのちで、からだをおおきないのちを忘れたいのち。そうやってぼくに背を向けられたら、ぼくにはいちばん遠いいのち。

ぼく、おおきないのちは、あなたにはわからないいのち。でもあなたが我執に窒息しないよう、いつもそばにいて支えている他力のいのち。あなたがためらわず迷いひろがっていてくれるときに、いちばん近くに届いているいのち。そしてぼくは、死なないいのち。死なないとは、永遠の寿命を持っているなどというようなかたい話とは逆で、むしろ常に生れなおしているということなんだよ。あなたの小さいいのちでならそれはしこり続ける我執でしかないけど、ぼくの側からはあなたの我執を打ち消し続けているということ。あなた、そして一切衆生がいる限り、ぼくはけっしてはたらくのをやめることはないんだ。そんなぼくがいつもそばにいるから、あなたの死ねないいのちもいつでも安心して死んでいける。そしてあなたも、いつかおおきないのちになる。かつて人間だったぼくがそうなったように。

思わず熱くなってしまった。照れ隠しに質問するね。いのちって、何からできていると思う?(われながら変な質問。)いのちははたらきで、はたらきにいちばん近いのがいのちをとらえたときの流れだから、何が流れているんだと思う? と受け止めてもらったらいい。からだのいのちは、物質、ものの流れ。こころのいのちは、あなたを取り巻くさまざまな思いの流れ。あなたの側からは囲い込んだ思いは排他の我執になってしまうけれど、その裏側ではあなたをけっして離れない大悲のこころと現れているんだよ。そしておおきないのちは、大昔のビッグバンの前の、静かないのち、眠っている可能性へと帰っていこうとするひかりの流れ。あなたはひかりじゃないけれど、あなたの我執が、あなたの迷いが、呼び起こしているひかりのいのち。

あなたが恐れず死と向き合い本気で迷ったら、あなたの生きているがどんどんやわらかくなって、こんな素敵なあなたにはわけがわからないことに包まれている。ね、うそじゃない、楽しいでしょ?

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いのちの底は抜けている

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少し、世界の見え方が変わってきていない? 勢いに乗って、生きることがめちゃくちゃ楽になる話をしてあげよう。

いきなりだけど、死は怖い? え、何を今さら。死ねない話はさっき聞いたばかりだし、怖いに決まっているでしょう! と怒られそうだ。でも、死が怖いというのと死ねないというのは、まったく違うことなんだよ。

死が怖いとは、もう少し踏み込んだらどんな感じ? 恐怖、虚無、まっ暗、冷たい、さみしい、おぞましい、得体が知れない、何も残らない、ひとりぼっち、…… いろいろだろうけれど、いったいその感じはどこからくるんだろう。今は、死ではなくて死と聞いて感じるその「感じ」の方を問題にしているんだけど。

あるいは、大切な人を失ったときの喪失感も参考になるかな。悲しさ、つらさ、さみしさ、後ろめたさ、やましさ、心もとなさ、無力感、空虚感、こころの底に穴が開いたような感じ、……

その「感じ」があなたと縁のないところでうごめいているのなら、ほんとうは何にも感じられないはずだよ。ひとが指を切っても膝をすりむいても痛くはないし、目の前の人が嘆き悲しんでいても、その嘆きも悲しみもそのままではあなたに届かない。精一杯共感しようとしてみても、どうしてもわかってあげられないことだってある。

ところが、あなたはまだ死んでないのに、感じることのできる死の恐怖、死んでしまったのは大切な人であってあなたはまだ生きているのに、ありありと感じる空虚感。それらはいったい、どこからくるんだろう。

実は、いのちの底は抜けているんだ。

底が抜けているから、ある人はそれをまっ暗と、虚無と感じる。底が抜けているから、常にわけのわからないものにさらされている。底が抜けているから、最後は無力感に行き着く。もともと底が抜けているんだから、まさに底が抜けてしまったように感じる。

いのちの底は抜けている。これは、あなたにとって、いちばん深いいのちの真実。

ここから、いのちのすべての秘密がき出してくるんだ。生きているとは、わけのわからないこと。生きているとは、思い通りにならないこと。生きているとは、完結することのできないこと。生きているとは、壊れていること。……

こんな恐ろしいことは、隠しておかなくては大変! ところが、どんなにじょうずにかくしたつもりでも、死をつきつけられたとき、大切な人を亡くしたとき、かくしようなくあなたのいのちの底がぱっくりと口を開く。

でもぼくを思い出して! 抜けているあなたのいのちの底の向こうは、ほんとうにまっ暗?

ぼくのことを知らなかったら、ぼくのことを忘れてしまっていたら、いのちの底が抜けるなんてとんでもないことだよね。だからなんとかつくろおうとする、かくそうとする、底が抜けていないフリをする、気がつかないことにする、開きなおる、……。でも無駄な悪あがきだよ。しっかりしていた底が何かの不都合で割れてしまうんじゃなくて、最初からいのちの底は抜けているんだから。

これまでの物語をゆっくり思い出してごらん。いろいろ寄り道はしたけれど、ぼく、おおきないのちがずっとそばにいたでしょ? そしてあなたはぼくの話を聞いてくれた。今、同じことをよりしっかりと話しただけ。あなたの小さいいのちの底は抜けている。でもその向こうは、ぼく、おおきないのちなんだ! まっ暗なんかじゃない。あなたにはわかることのできないぼくだけど、けっして不気味だったり悪意だったりすることなんかない。あなたのいのちの底が抜けているから、ぼくは間違いなくいつもあなたと通じていられるんだ。

あなたのいのちに通じている。これが、ぼくにとってはたったひとつの、いのちの真実。

あなたのいのちの抜けた底を通して、あなたに届いたおおきないのちのはたらき。それをいのちのおしえでは信心しんじんというんだ。ふつう信心といったら、へんきょうに思い込むことのように受け止められてしまいかねないけれど、それとはまったく違うことだよ。

何より、信心はあなたのこころのはたらきじゃない。そもそもあなたの中にはないんだもの。むしろ、あなたとぼくが出会っていること、おおきないのちにちゃんと通じていることがあなたにとっての信心。その内容、つまりおおきないのちのはたらきは、何度も言ってきたようにあなたの自分・・が閉め出している他力なんだから、あなたにはわからない。わかる必要はないんだよ。あなたのいのちの底が抜けている以上、間違いなくぼくはあなたに通じていて、ぼくのはたらきはほおっておいてもあなたに届くんだもの。

あなたが我執のしこりでつぶれてしまわないように引っぱっているのが、ぼくのはたらき。だからあなたにとって死ぬとは、あなたとしてしこり続ける縁が尽きて、そのままおおきないのちへくつろぎひろがること。ね、死は恐ろしいことじゃなくなるでしょ? でもあなたが生きている限り、死ねないのはどうしようもない。生きているとはそういうことだから。でも、死ねないいのちが心配しなくても死んでいけるよう、ぼくがいつもあなたに通じている。あなたが自分で死んでいけるよう努力して仕上がる必要さえないんだ(仕上げようとしても仕上げられないけどね)。

死んでいくことだけが問題じゃない。むしろ本当の謎は生きていることだった。生きる上でいちばんの課題は、実は底が抜けている自分のいのちをどうするか、なんだね。いのちの秘密を見直してみてごらん。(自分自身が)わけのわからないこと。(まわりが)思い通りにならないこと。完結することができない(死ねない)こと。壊れていること。

このような難題を、何とかしようと四苦八苦する。場合によったら、自分に閉じてしまう我執が諸悪の根源ととらえ(そうだけど)、それを解きほぐそうと努力しさえする。でも、ちょっと待って……。それって、必要な努力? あなたが何もしなくても、難題と見えたのは見かけだけで、どれもむしろ素敵なことじゃない? わけがわからないのはいちばん楽しいことだし、思い通りにならないから思いがけない「ありがたい」に出会えるんだし、完結できないから安心して迷い続けていられるし、すでに壊れているんだから我執さえ無理に壊す必要はないもの。

いのちの底が抜けているのが悪いことなんじゃなくて、それをどうにかしなければいけないと思いこんでいること、何とかできるはずとしがみついていることの方が苦しみの原因だったんだ。

ままにならぬと米櫃ままびつ投げりゃ あたり一面ままだらけ

ええぃ、思い通りにならん! とかんしゃくを爆発させておひつを放り投げたら、そこらじゅう米つぶだらけ。ままになった! そう。手を離して放ってしまえばいいの。いのちのおしえでいちばん邪魔になるのは、我執という以上に自分の努力への過信、とらわれなんだ。それを他力に対してりきという。自力を離れるなどと言い出せば、それはまたあたらしい難題になるよ。でもそれも無用。自力なんてはじめっから成り立っていないから。あなたのいのちは底が抜けていて、完結することができないんだもの。

トイレに行きたくって、がまんしているときのことを考えてみて。やっとトイレに行けたとしよう。やれやれ~~。ほわ~っと、楽になるよね。そのとき何か楽になるための努力をした? そうじゃない、必死でこらえて苦しがっているのをやめるだけで、苦しかったものはシャーッと出ていって、ほわんとした心地が勝手にからだじゅうにひろがったんでしょう? こらえて気張るのが自力、自然に楽になるのが他力。こらえるのをやめて楽になれるのなら楽になった方が楽。あなたは、もう自分で自分を守らなくていいんだ。自分で自分を仕上げなくてもいい。何があっても大丈夫。ぼく、おおきないのちがちゃんと通じてはたらいているから。

思えば、一切衆生にとっての信心は、ぼくとちゃんと通じていること。もっと言えば、いのちの底が抜けていること。ならばもう実現されているんじゃないの? そう。だからぼくは、別に何をする必要もなくただ一切衆生のためにおおきないのちと現れているだけで、いずれ確実にすべての衆生といっしょになれる。どの衆生も逆らいきれずに最後はぼくの中へ帰ってくる。

だけど、わけもわからず生きてきて、行き当たりばったりに死んだら、知らないうちにおおきないのちになっていた、というのではやっぱりさみしいでしょ? できれば、生きている間に、いのちの底が抜けているからこそ、間違いなくおおきないのちへ帰って行けるんだと知って、そのほっこりした心地を味わってほしいんだ。だからこうやってぼくはあなたに語りかけている。

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よろこびのいのち

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あなたが自分が迷っているということにちゃんと気づきそれを受けいれてくれたら、そしておおきないのちと間違いなく通じていると知ってくれたら、これまでよりはるかにすばらしい話がひろがるんだよ。

一切衆生は迷っているんだけど、そしてそれがぼくがこうやってはたらいている理由なんだけど、自分が迷っていると知らない衆生が多いんだ。彼らのこころのからはほんとにかたく、牡蛎かきみたいにべったり現実にはりついて、ぼくのおおきな力ではたらきかけても悲しいほど手ごたえがない。

本気で迷い始めた人のこころはやわらかい。さらにいのちの底が抜けていると知ったら、もう閉じることなどできなくなるよね。今のあなたのように。そうするとぼくとのつながりはより確かなものになって、押したり引いたり伸びたり縮んだり、あなたとぼくの関わり合いがずっと濃くなるんだ。あなたが泣き、笑い、苦しみ、喜びしているすべてにぼくは寄りそって、いっしょに泣き、笑っているんだもの。それがぼくのよろこび。あなたが苦悩にのたうち回っているとしても、その分より強く確かにはたらきかけられるんだから、やっぱりぼくにはよろこび。そうやって、あなたとぼくを包んでひろがる、よろこびのいのちが喜びにかがやきを増すんだ。

よろこびの流れこそが、おおきないのちのぼくと、迷いのいのちのあなたとを小さなつり合いとして浮かび上がらせている流れ。しかもその全体のつり合いは、実現した願いなんだ。ひとつの願いが全宇宙をくまなくいろどっている。地球がみのりのいのちのはたらきで青く白くそして緑に彩られているように。一切衆生は、あなたを含め、その願いのあやとしてよろこびのいのちに織り込まれているんだよ。そのさまを支えているいわば全宇宙の生態系が、えん、すなわち一切は関わり合いの中で成り立っているということなんだけど、その焦点が、あなたとぼくのつながり、つまり信心だったんだね。信心を確かに語れたことで、ようやくここまで話がはこべた。

そのすべての上に、やわらかく静かな調和とかがやいているのがよろこびのいのち。青い地球にみのりのいのちが息づいているように。

やっと出会えたよろこびのいのちは、阿弥陀あみださま。

阿弥陀とは、不思議な名前なんだよ。実は阿弥陀仏には無量寿(amitāyusアミターユス)、無量光(amitābaアミターバ)と二つの名前がある。インドの経典を中国語(漢文)にするとき、げんじょうというお坊さん(三蔵法師のモデルになった人)はきちんと無量寿・無量光と重ねて別々に訳した。ところが玄奘さんより古い鳩摩羅くまらじゅうさんは、ただ阿弥陀とひとつに呼んでいるんだ。阿弥陀は amitaアミタ の音写で、漢訳すれば無量。もとの経典に amita という独立した名前は出てこず、amitāyus(amita + āyusアーユス〔寿〕)、amitāba(amita + ābā〔アーバー光〕)とあるだけなのに。鳩摩羅什さん、無量寿と無量光の共通するところだけ抜き出して手を抜いた?

寿いのちは慈悲、光は智慧を意味するんだ。でも重要なのは、慈悲も智慧もいのちのはたらきの二面だということ。慈悲は、迷いによりそい、現実になり、場合によったらしこることも恐れない凝縮ぎょうしゅく力。これまでの話では心と重なる面があるかな。智慧は、こだわりをやぶり、真実へ帰り、しこりを許さない拡散力。そして無量は、ぼくが死なないいのちというのと同じで、はたらき続けるということ。鳩摩羅什さんは、そんな智慧と慈悲の真ん中に、寿よりおおきないのちがはたらいていることを伝えたくて、無量寿と無量光とをつらぬき通しひとつに立ちあがったいのちを、ただ阿弥陀と呼んだんだよ。きっと。

だから、阿弥陀は一切のはたらきがひとつと現れ、はたらき続ける宇宙大のいのちの声。

智慧・慈悲という反対向きのいのちの力は、あなたの迷いのいのちの中でもはたらいているよ。慈悲はわかりやすい。ただし、智慧の力添えがなければ我執を強めるだけだけど。大悲ですら、大智と裏表でなかったならば、衆生に寄りそうことはできても衆生を迷いから解きはなつことはできないんだから。一方智慧は、頭のはたらきとまぎらわしいせいかな、いのちのはたらきとしては気づきにくい。でも、たとえば感動したりあこがれたりするとき、小さい自分を嫌って自分を超え離れようとしているとすれば、それはまさに智慧のはたらきだね。迷いのいのちなりの。

あなたが迷っていると気づいてくれたとき、そこにもきっと智慧のはたらきがある。あなたのいのちはふくらんで、それでぼくがはたらきかけやすくなるんだから。

阿弥陀仏は、もと、法蔵ほうぞうという名前のさつだった。

菩薩とは bodhisattvaボーディサットヴァ の音写語だいさっを縮めたもの。bodhi はさとり、sattva は衆生で、「さとりを求める者」の意味。あなたの感覚では菩薩って言ったら仏さまに近いくらいのすばらしい人という印象だろうけれど、そもそもさとりとはいのちのつながりにとけ込むこと。だから、今いのちの物語を聞いてくれているあなたも、菩薩なんだよ。あなたもさとりを求めているんだから。本気で迷うとはそういうこと。

法蔵菩薩は一切衆生を救済しようと思い立ち、それを実現するため、まず五こうという長い時間をかけてさまざまな衆生の実際を観察し考え抜いて、衆生の迷いのいのちを迷いのいのちのままに、ひとついのちに仕上げようと願いをおこされた。

五劫の「劫」は kalpaカルパ の音写こうの略。きわめて長い時間のこと。どのくらい長いかというと、四十里四方という大きな岩があって、三年に一度天女が舞い降りて薄い羽衣でスッとなでていって、それで岩がすり減ってなくなってしまうまでの時間だって。星が一つ生れて一生を終えるくらいの時間と思えばいいかな。その中でいろんないのち(衆生)が生れ死んでいく様子を目にして、一切の衆生を救うには、すべての小さいいのちを包んだおおきなひとついのちを仕上げるしかないと気づかれたんだ。それは願いになった。

その願いを成就せんと、法蔵菩薩はちょうさい永劫ようごうの修行を重ね、一つひとつの衆生の境涯をくまなくたどり、その境涯を衆生に代わってひとついのちのつながりへ編み上げていかれた。その願いと修行が完成して、今では阿弥陀と、よろこびのいのちの名のりを響きわたらせていらっしゃるんだ。

兆載永劫の兆も載も大きな数の単位。しかも永遠の永までつけられているんだから、もうこうなるとすべての時間だね。始まりも終わりも関係なく、そこに衆生がいる限り、ということ。だから、一切の衆生は衆生と現れた時点で、すでにひとつ願いの中に織り込まれているんだ。それを衆生に、あなたに告げるために、阿弥陀と名のられた。

これが、いのちの物語。もとをたどれば法蔵菩薩の願い。しかしそれを現実としているかなめは、ぼくとあなたがつながっていることなんだよ! 

出会いつながっていることは間違いがないとしても、あなたにわかるのは自分のいのちの底が抜けているということだけ。どうぼくを感じればいいのか、少しヒントをあげるね。

たとえば、あなたを除いた一切衆生が実はひとつのはたらきで、それがおおきないのちだと考えてもらってもいいかな。出会う人出会わない人、いい人も悪い人も、ばらばらに見ればそれぞれに迷った衆生でも、みんなそろって何かを教えてくれていると受け止めるならば、きっと見え方も変わってくるよ。

あるいは、ビッグバンの前の静かないのちが法蔵菩薩の願い、以後の宇宙の歴史が法蔵菩薩の修行、現在のしんばんしょうがぼくと思ってもらってもいい。飛ぶ雲、鳴く鳥、あなたに都合のいいことだけじゃなくて災害も厄難も込みでだけど、全体としては人間のさかしらではとらえられない調和をうたっていると信頼できるならば、もっと謙虚になれて、思い上がりも少なくなるんじゃないかな。

あるいは、あなたの迷いのいのちの底、自分のいちばん深いところに響いている「感じ」を、ぼくの声と聞いてくれてもいいんだ。そうすれば、それまでは不安や心細さとしてしか感じられなかったものが、何かおおきな暖かさに変ってくるはず!

どれがほんとなどということじゃない。ぼく、おおきないのちを、より身近にリアルに感じてもらえさえすればそれでいいんだ。その実、慣れれば、ほとんどどんなところどんなできごとにも、ぼくの気配は感じられるようになるよ。たとえば、上り坂と下り坂と、どっちが長い? 教えてあげたらつまらないから答は言わないけど、「あ、そうか!」とわかって気持ちがぽんとひろがったときにだって、ぼくがそばでにこにこしているのが感じられるはず。もちろん、あなたにぼくのこと全部はわからない。でもぼくの方からはあなたのすべてが見えていて、いつも離れずにいるんだから。

それなら、ぼく、おおきないのちの話は、阿弥陀の声なの? そう思うかもしれないね。う~ん、どう言ってあげたらいいかなぁ……。あえて言うなら……ぼくとあなたとがひとつになって響いたら、きっと阿弥陀。

ぼくはおおきないのちではたらきだけど、ぼく自身の力ではたらいているんじゃないんだ。あなたがいるから、ぼくと現れているだけ。要するに、あなたもぼくも、阿弥陀さまのはたらきのうち、ということ。

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かぎりないいのちの国

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そろそろ話も終盤にさしかかってきた。気がついてみるとまったく触れていないので、今ぼくのいるかぎりないいのちの国のことも少し話してあげよう。

かぎりないいのちの国とは、浄土のこと。ほかにも、極楽、あんにょう、無量光明土、阿弥陀仏国、いろんな名前がある。どの名前もそれぞれに素敵で、みんな向けのお話としてならいっぱい話してあげられることがあるけど、あなたとさし向かいで話せることの方が今は楽しいから、話はそちらへ向けるね。そうそう、今までかぎりないいのちの国と言ってきのは、いのちの物語にはそれがいちばん合うだろうと思っただけのこと。

あなたに向かって話したいこととなると(今、けっこう真面目な顔をしている)、ポイントは二つ。

まず、話の整理もかねて小さいことの方から話すと、浄土って、特注オーダーメイドなんだ。まだ人間だったときのぼくにとっての浄土と、あなたにとっての浄土は、まったく同じじゃない。お浄土(極楽?)という何だか楽しそうなところがあって、死んだらそこへ行くんだ~、などという浮かれた話ではないんだよ(キッパリ)。

その前に、ぼくと、ぼくのいる(あなたにとっての)浄土とがどうなっているのか整理しておこう。同じです。あなたにとっては。

あらら、そんなに驚かせた? 凍らなくてもいいのに。おおきないのちと、かぎりないいのちの国と、呼び方が違っても要はいっしょ、と言っているだけだよ。もし違いがあるとすれば、あなたへの見え方。おおきないのちのぼくはTシャツにジーパンで、かぎりないいのちの国のときはスーツにネクタイ(燕尾服でも羽織袴でもいいけど)だということ。あなたに、うわ、格好いい、いいな! と思ってほしいときにはそれなりの格好もして「ボク、ミスター浄土ね、ヨロシク」なんて現れ方もするけど、いつもは普段着のおおきないのち。

(「あなたにとっては」などととちょっと口ごもったのは、浄土、かぎりないいのちの国とあなたの前でカッコつけてるときは後ろに阿弥陀さまがいらっしゃることを意識していて、普段着のおおきないのちのときはそんなこと無頓着むとんちゃくなんだ。だからぼくにとってはちょっと違う。)

で、浄土が特注というのは、単純にだれにとってもいっしょ(?)の、死後の世界なんかじゃないということ。生きているあなたは世界に宇宙にあなたひとりの特別だから(だから偉い、なんて話じゃないよ)、あなたにぴったり寄り添えるおおきないのちも、自然にあなたに合わせたすがたになるんだ。要するに、浄土って、今現に生きているあなたにはたらいている、おおきないのちのことなの。だから、無理に浄土などと言い出さずに、おおきないのちのままでいた方が話は簡単だったかな。

で、ここからがより大切な二番目の話。おおきないのちのままでいればすみそうなのに、どうして着飾って浄土とも現れるか、ということ。先に簡単に結論を言っておくと、今の、迷っているままの、あなたの居場所を残すためなんだ。

迷いとさとりは、同居できない。まずあなたの目線で話すと、さとりとはいのちのつながりにとけ込むことだから、もしあなたのさとりが完成したとしたら、そこにはただよろこびのいのち、阿弥陀さまだけが、ゆたかにやわらかくはたらいていらっしゃることになる。つまり、あなたひとりのさとりなどということは成り立たなくて、あなたはほかの一切衆生といっしょにさとるんだ。

今度はあなたではない人、そうだな、ぼくの目線で同じことをたどってみるよ。人間だったときには「ぼく」という我執に閉じこめられて気持ちをひろげるにしても限界があったけど、「ぼく」としてしこり続ける縁が尽きたとき、そのときの「ぼく」にとっての「おおきないのち」のはたらきで、「ぼく」は「ぼく」特注のお浄土へった。そこでよろこびのいのちに帰入し、阿弥陀とひとつの声になった。さとりがひらけたんだ。すべてがひとついのちだから、ぼくとこだわる必要もないし、ぼく以外の何を見ることもない。

そこにはあなたの居場所がないでしょ?

ぼくはさとらなきゃいけない(というかもうさっている)し、あなたはまだ迷っている(としかあなたには思えない)。だから、あなたにないしょで、ぼくは二重現れの術を使っているんだ。ぼくがおおきないのちしてるときには、ほんとうはあなたももうぼくといっしょにさとっているの。いのちの底が抜けているも何も、ぼくもあなたもいっしょで阿弥陀の声。阿弥陀さまのひとり遊びとして、おおきないのちのぼくがあなたにいのちの物語を話して楽しんでいるんだ。でもまだ迷っているあなたをくっきりさせる必要があるときには、あなた特注の浄土としてあなたの前に現れる。あなたはまだ生きて迷ったままだから、いっしょにはなれないよ、と突き放してみせてね。

なぜそんな面倒なことをするのかって、だから、あなたの居場所を残すためだってば。わけもわからず「もうさとってますよ~」では、わけもわからず生きているのとまったくいっしょでしょ? 迷ったままでは大変だ、何とかしなければ、と受け止めてもらってはじめて、さとりがひらけ、おおきないのちへひろがっていくよろこびを味わうこともできる。あなたがもうさとっているのはあなたではないおおきないのちにおいてであって、あなたにはひと事。それではあなたには意味がない。だからあなたの迷いをしっかり残してあげているんだ。

あなたはもうさとっている。でもそれを自分自身でたどりなおして、わがよろこびとして味わってほしい。それに、あなたがそのように生きてくれることが、よろこびのいのちのかがやきなんだ。それを最後、いっしょにたどっていこう。

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今、いのちがあなたを生きている

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おおきないのちのぼくにとって、あなたはすでにさとっている。しかしそれは、あなたの側からしたら、今かかえている苦しみ、場合によったら受けている差別、そういったことをみ~んな無視してるというのと同じことにもなるよね。

いのちのおしえの発想は、ちょっと雑だけど比喩的に言うと、どれだけのひろがりでいのちをとらえるか、どれだけの大きさのいのちと出会うか、ということが中心。だから、あなたには抜き差しならない問題であっても、あなたの小ささ(あるいは大きさ)とかみ合わないいのちを前面に出したら、あなたのかかえている問題は見えなくなってしまうんだ。たとえば地球のうるおいというスケールのいのちと出会っているときには、あなたのからだの中の水分はからんでくるにしても、あなたの苦しみには触れてこないでしょう? あなたのからだの中の細胞一つの生命というスケールでいのちをとらえれば、あなたの苦しみには小さすぎるし。

仏教、いのちのおしえにもいろんなバリエーションがあって、ときには全宇宙のスケールでのいのちにのみ関心を寄せることもあるんだ。そのようないのちのおしえでは、あなたの痛みも苦しみも、あなたには理解できない調和の中で解消されていることになる。それは、現に苦しんでいるあなたには納得できないよね。今話しているいのちの物語は浄土のあるいのちのおしえ。あなたのための浄土で、つまり着飾ったぼくが、あなたの現実の問題をきちんと受け止めているんだ。

そういう枠組みで、ぼくはあなたの毎日の生活にどんな助言をしてあげることができるのかな。それを話して物語のしめくくりとしよう。

まず、からだのいのちから。あなたは何よりまず生きものだ。からだの声が、ちゃんと頭に届くといいな。

現代では特に、何でも思い通りになりそうな錯覚を持ちやすい。でも、いちばん思い通りにならないのが自分のいのちなんだからね。たとえば、ここはがんばらなきゃ! というときにからだがついてこないとき、それでいら立ったりすると息苦しくなる。あ、からだのいのちが余裕をほしがっているんだ、みたいにからだを大切なより所として感じられれば、少なくとも窒息はせずにすむはず。

からだのいのちに同調シンクロすると、今がひろがる。今が過去と未来を区切る一点、瞬間になるのは、頭においてなんだ。本来、頭はいのちにとっては邪魔者。これまで、今以外の時間を生きたことがある? 昨日生きていたときもそのときの今だったし、明日生きるのもそのときやってくる今でしょ? 今を離れられるのも人間だけど、ひろがった今に遊べるのはいのちならではなんだよ。

スポーツマンやミュージシャンはそんな持続する今へ簡単に入っていく。ウォーキングのような単純な動作などを通じて、からだのいのちが主役になって頭が出しゃばりにくい時間を、時々は持ってほしい。

次に、こころのいのち。とにかく、窒息していないか自分で気づけるようでいてほしいな。

田舎から都会へ出ていった女の子が、こんなことを話してた。慣れない仕事に神経をすり減らす中、電車のホームに立っていると、ふとだれかに後ろから突き落とされるんじゃないか、と怖くなるときがあるんだって。そのくらいいのちが細ってしまうんだね。そんなとき、ホームに立っている自分の足もとに、自分の両足をつつんで小さな輪を描く。そして、その輪を少しずつひろげていくんだ。まわりを見回して、この人は大丈夫そうだと思った人を勝手に自分の輪の中に入れる。というか、輪をその人も入るように大きくする。同じことを繰り返して、自分の輪がホームのこっち側の人が入るくらいまでひろがったころには、最初に感じた心細さは消えていたそうだ。

いちばん気をつけてほしいのが、自分はそんをしている! と感じたとき。損と得は裏表、だれかが損をすればだれかが得をする。あるいは、損と見えることの裏には必ず得がある。そのつながりをたどってみてごらん。その上で、やっぱりこれはおかしいと思うならば、そのとき静かに声をあげればいい。モンスターなんとかと呼ばれる人たちは、みんな心細さにふるえているんだ。声をあげなければ、権利を主張しなければ、自分が消えてしまうかのようにおびえている。あなたもいつそうなってしまわないとは限らないよ。そんなとき、つながりを思い出せれば、一息ついて考え直してみることもできるようになると思うから。

主体性信仰にもちょっと触れておこう。こんなスローガンを見かけた。

主体性を鍛えるステップ1 自分の状況を把握する
主体性を鍛えるステップ2 決断する
主体性を鍛えるステップ3 行動する

一見素敵だけど、これが真に受けられると怖いなぁ。たとえば

身体能力を鍛えるステップ1 100m で14秒を切る
身体能力を鍛えるステップ2 フルマラソンを完走する
身体能力を鍛えるステップ3 ウェイトリフティングで自分の体重を持ち上げる

などというのがあったら、そりゃ実現できればすごいけど、だれでもそうならなくてはいけないとは思わないでしょう? 主体性も、持てる人がいてもいいけれど、だれでもが持てるようなものではないんだ。それが、主体性を持たなくてはだめ、努力すればだれでもできる(できないのはあんたの努力不足)、みたいに思い込まされると、気をつけていないと窒息するよ。主体性信仰の背景には人間賛美、つまりヒューマニズムがある。でも、ぎりぎりのところで、人間に人間は支えられないんだから。そのウソにだまされないようにはしてほしい。

そして、おおきないのちについても。「わけのわからないこと」に、時々でいいから出会えるといいな。

まかせる、というのがいちばんのおすすめ。どんな場面ででもかまわないんだけど、何もかも自分でにぎり込んでしまわず、ひとにでも成り行きにでも失敗にでもまかせてみると、いろんな思いがけなかいことに出会える。努力するのがいいことだと思い込まされていると、まかせるって案外むつかしいんだ。ほったらかしの無関心との区別がつきにくいから。まかせるとは、できるだけ邪魔をせずに、流れているものを自然にスムーズに流れ続けさせること。何が流れているととらえるかは状況による。流れが、はたらきとしてのいのちにいちばん近いできごとだからね。

そして、今話してきたことを全部、簡単に実践できることがあるんだ。それは念仏ねんぶつ

念仏とは、南無阿弥陀仏と口にとなえること。なんまんだぶと声に出すこと。ナモアミダブツ、まんまんあ、声に出し方はいろいろあって、どれでもいい。また、その人にとっての声でよくて、手話だろうと何だろうとかまわない。でもなんまんだぶがどういう出来事なのか意味を知らなかったら、おまじないかたわごとのようにしか受け止めてもらえないだろうから、簡単に説明するね。

核心は、阿弥陀の名前。話したように、ただの三文字のことばなどではなくて、はたらき続ける宇宙大のいのちが、あなたにわかるよう名のりあげてくださったいのちの声なんだ。だから阿弥陀こそこれまで話してきたいのちの物語のへそ。

頭にくっついている南無は、namoナモnamasナマス の音便形)の音写で、漢訳すればみょう。常識的には「帰依します」という衆生の側の信順の気持ちを表すところだけれど、南無阿弥陀仏の南無は阿弥陀仏の側からの「まかせよ」とのよび声なんだ。帰命の命は「いのち」じゃなくて、「命じる」なんだね。あなたの力では届かないところから聞こえてくる声。

まとめて、南無阿弥陀仏とは宇宙大のよろこびのいのちがあなたにわかるように声となって現れ、まかせよと呼びかけ引き受けてくださっている、ということ。それに対する衆生の返事が、あなたの声に出たなんまんだぶ。

だから念仏は、ここでのタイトル「今、いのちがあなたを生きている」なんだ。意味がわからないという人、中には腹をたてる人もいるんだけど、できたらそのままに聞いてみて。

これだけでストンとくる人ばかりじゃなくて、説明してもらわないとわからないという人もいるだろうから、これまでずっといのちの物語を話してきた。いのちははたらきで、はたらきは流れ。そしてここでのいのちは当然よろこびのいのち。またいのちのおしえでは、あなたとはあなたの「生きている」のこと。だから「今、いのちがあなたを生きている」とは、なんまんだぶと念仏するとき、宇宙大のよろこびがあなたを流れている、ということ。

しかもその今、あなたの口になんまんだぶと称えられたそのときとは、我執に窒息しているあなたがやぶり開かれる今であるだけじゃなくて、よろこびのいのちがはたらき続けるという意味での無量、ひろがった今でもあるんだ。さらにそれがそのまま、よろこびのいのちのよろこびの声が響きわたるとき。

小さいさかずきに、できるだけたくさん水を入れるにはどうしたらいいか知ってる? 杯を静かに置いてゆっくり注げば、水面がちょっと盛り上がるくらいまでは入れられる。ふちに油を塗ればもう一滴二滴よけい注げるかもしれないね。でもたかが杯、どう逆立ちしてもバケツ一杯の水は入らない。でもね。その杯をそのまま海へ放り込んでしまえば、海一杯の水が杯の中に入っているんだよ。

なんまんだぶの念仏で、まかせよとのおおせにそのまままかせれば、あなたはすでによろこびのいのちのはたらきの真ん中。

さらに念仏は、みそもくそもいっしょくたにきれい事にしてごまかしてしまうようなことじゃないんだ。あなたの迷い、苦しみは、そのままあなたの手元にある。それを、何であれ何かがより自然に流れていくように、つまりいのちの感覚にそって、解決できるものなら解決し、受けいれるべきものであれば受けいれ、やわらかく生きていけとの励ましでもあるんだよ。

いのちの物語のすべて――法蔵菩薩の願いと修行、宇宙と生物の全歴史、そして迷いのままのあなた――が、あなたの念仏ひとつに阿弥陀と響いているということ。

ということで、いのちの物語はおしまい。浄土で、待ってるね。

ぼくもいっしょになんまんだぶ。

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