現代という時代

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これで、いのちの物語のおしえの部分は話し終った。ぼくもやれやれだけど、みんなもお疲れさま。いのちのおしえはことばのおしえに対するもので、素朴なアニミズムからは脱皮した、一切衆生に届くおしえだということだったね。でも「いのちのおしえ」という表現は、思いがけないところで足をすくわれてしまうことがある。

たとえば「いのちを大切に」といった標語。このときのいのちに、ぼくは含まれるの? かなり心細い。自分と、自分にとって大切な人たちのいのちのことしか考えられていないんじゃないかなぁ。犯罪者のいのち、ゴキブリのいのち、がん細胞のいのち、それに人間としてはもう死んでしまっているぼくのいのち。そんないのちは目に入ってもいないみたいだ。ということは、この標語はいのちのおしえとはかなり遠い。

ほかにも「いのちの教育」とか「いのちの尊さ」とかすすんでいのちと口にする人たちはたくさんいるんだけど、もしぼく(ぼくはおおきないのちなんだよ!)がそれを聞いて「ぼくのことは気づかれていないみたいだ」とがっかりするしかないなら、そのいのちはしぼんでいる。ぼくは一切の衆生に現に届いてはたらいているのに、それに気づき受けいれてもらえなければ、小さいいのちはみんな排他の我執と区別できないんだから、我執の求心力で窒息してしまうんだってば!

ある男が、家族にも友達にも一切ないしょで、一人でゴルフを始めた。きちんと計画を立てて黙々と練習し、少しずつ思い描く通りにプレーできるようになっていくのを楽しんでいた。雲の上の天使がそれを見とがめて、あるとき神様に報告した。「こんなふとどきな男がおります。少しらしめてやっていただけないでしょうか。」神様はただうなづいて数日後。またくだんの男がゴルフ場にやってきた。今日は調子がいいぞとだんだん勢いにのってきたあるホール。理想のスイングができたボールはきれいに飛んでいって、何とホールインワン! でも、その喜びを伝えていっしょに喜んでもらえる人がだれもいなかった……。

窒息したいのちって、きっとそんな感じだろうと悲しくなる。あたり一面自分一色ひといろ

いや、わたしはこの男ほど自己中(自己中心主義)じゃないから、と笑っているかもしれない。でも自分一色の自分を人間に置きかえたら、現代先進国の、とくに都市部での生活はかなりそれに近いよ。人間一色って、人がたくさんいて人間ばかり見えるなどといったのん気な話じゃない。コンビニに行けばとりあえずほしいものは手に入って、スイッチ一つでご飯も炊けるし洗濯もできるし暑い・寒いも調節できるし、ネットにつなげば知りたいことだってすぐにわかる。便利で快適でスマートで、街中が人間いろ。だったらそれは人間中(人間中心主義)だよ!

自己中にしても人間中(ここでだけの造語だけど)にしても、ふつうは自分のことはたなに上げてひとを批判するときのものだから悪意がにじみ、あんまり口にしたい表現じゃない。でももう少しこのまま続けてみよう。ただ、言い訳でもないけどこれだけはわかってね。ぼくは自己中でも人間中でもない。だってぼくには自分がないし、もう人間ではないんだもの。一方的に文句を言っているのではなくて、それではさみしいよ~とそばで悲しがっているだけなんだ。

こんな話もある。熊本の元気のいいおじいちゃんが話してた。九州新幹線が開通したとき、せっかくだからあれに乗ってみんかということになったんだって。ノリのいい友達のおじいちゃんたち十人ばかり、鹿児島まで行って帰ってみることに決まった。みんな気分は遠足、弁当買ってピール買って、ぞろぞろとまだ新車の新幹線に乗り込んだ。ほぅ、なるほどきれいじゃのぅと空いた席に座り込んで、さあ飲もう食べようとはじめて間もなく、車内放送が「もうすぐ鹿児島中央です」(30分かからない)。あわてて飲みさしの缶ビールとふたを開けた弁当を両手にホームに降りて、何とか座れるところをさがして弁当ビールは片付け、折り返しの列車に乗って、帰りは景色でも見ようかと。ところがこの区間はトンネルがほとんどで、景色もろくに見られなかったんだそうな。おじいちゃんたち、くたびれただけで帰ってきた。そのおじいちゃん、最後にポツリと「便利なだけでちぃともありがとぅなかった。」

現代において便利になるとは、できるだけ思い通りに近くなることみたいだ。疲れたり眠くなったり汗をかいたりといったからだの事情からはできるだけ離れて、ああだったら快適こうだったら楽と、頭の都合ばかりが優遇されている。それで何が悪いの? と思うかもしれないけれど、見てて危なっかしくてしかたがないんだ。からだを忘れてしまうと、頭とからだに引き裂かれているという人間であることが見えなくなってしまう。宙ぶらりなことがかくれてしまう。根本的な解決になっているのならすばらしいことだけど、むしろ変にかくされてよけい解決しにくくなってしまいそうだ。

それに宙ぶらりであることはいのちのひろがりでもあるんだから、宙ぶらりをかくしたらいのちからも遠ざかる。きっと「ありがたい」っていのちにまつわる感覚なんだ。だから便利になればなるほどありがたいとは感じにくくなる。そして、ありがたいと感じることができているときは実はものすごく幸せなときなんだよ。それから離れていくのって、自分で自分の首をしめてどんどん息苦しくなっていることでしょう? それはまずいよ!

人間中(人間中心主義)のことを、ヒューマニズムという。おかしなもので、ヒューマニズムだと語感としてはそんなに悪いことじゃないみたいに聞こえる。同じことなのに。確かに、人間解放のようなプラスの側面もあるけれど、やっぱり人間中は人間中。自己中が「自分は特別なんだ」というはた迷惑で根拠のない思い上がりなら、人間中にも「人間は特別だ」という尊大な思いがひそんでいる。最初の「いのちを大切に」という標語にも、どこかそれを感じるんだ。

だから、ぼくの話したいいのちの物語はヒューマニズムじゃない、ということをはっきりさせておく必要もあるだろう。

ヒューマニズムにいい響きも感じられるのは、古い社会体制や身分差別などの中でいわれなくおとしめられていた人たちの解放、人間回復という面があるから。おしゃさまが「人は生れによって尊いのではなくその行いによって尊い」と言いきり、当時の身分制度を根っこから否定されたように。それは大切にしなくちゃいけない。しかし、人間であることだけで人間であることが支えられるかどうか、それが問題なんだ。

人間が人間自身のことを考えてきた歴史の中には、やっぱり人間っていとしいなぁと抱きしめたくなるようなこともたくさんあるんだ。そんな話の一つを紹介してあげよう。つい最近、二十世紀冒頭のこと。

バートランド・ラッセル(1872‐1970)というイギリス人がいた。アインシュタイン博士の友達なんだよ。この人は論理学という学問を通じて、「人間がものを考える」ということを研究した。間違えることなく考えるとはどういうことかをはっきりさせて、それを積み重ね、隅からすみまで間違いの忍び込む余地のない学問の体系を作り上げようとしたんだ。ところが思いとは正反対に、そもそも人間が何かを考えるというそのことの中に、先ではどうしようもない食い違いを生んでしまう矛盾の種があることをはっきりさせてしまった。人間に、間違うことなく考えきることはできない・・・

言うならば、これにすがっていれば大丈夫だという間違いのないものを何も持たない、まる裸で弱い人間が見つけ出されてしまったんだね。これまでぼくも、人間とは宙ぶらりなことだとずっと言ってきたし、それを出発点に今のいのちの物語を続けているんだけど、それはあなたからすれば、ぼくに言われて「あぁ、ほんとだ」ということだったんじゃないかな。あなたの気づかないところでぼくがずっと支えていたから、あなたはまだ安心だったはずだ。ところがラッセルさんはぼくの知らないところで(ラッセルさんのたどろうとした道はことばのおしえの側にあるんだもの)、自分から切りひらいて同じところに行き着いた。どれだけがっかりしたか、どれだけ情けなかったか、どれだけ心細かったか想像できる? でもそこで逃げることなくそのまま立とうとしたこの人を、ぼくは精一杯応援する。そのすがたもあなたたち人間みんなの中にある人間性の一面、正直さ・謙虚さなんだよ。彼ひとりのものというわけではなくて。

こんな涙が出そうなくらいやわらかい話もたくさんあるのに、現代のヒューマニズムはただ「人間ばんざい!」と強がっているみたいだ。根拠のないことだともう気づいているはずなのに。そして見当違いに「強くなろう」とあがいているようにさえ見える。弱いからこそ素敵な人間なのに、弱いからこそ宙ぶらりのほんとうの解決、つまり人間としてやわらかく生きることと出会える道も開かれるのに。

いのちのおしえは、強がったヒューマニズム、人間中じゃない。反対に弱い人間だからこそ届き響くおしえなんだ。お願いだから力まずに正直に弱いままでいて。そのときがいちばん自然にぼくはみんなのそばにいられるんだもの。

強がりといったら、日本中(日本中心主義)というのもあるのかな。「日本は特別な国、日本人はすごいんだ」と思えば、そのときは自分が弱い人間であることを忘れられるかもしれない。けれど、すぐに窮屈になるよ。他の国を根拠なく(あるいは無理やり理屈を作り上げて)見下して偉ぶっている姿なんて、そばで見ているとほんとうに悲しくて泣きたくなる。日本だけじゃない、どこの国にも似た傾向はあるにしても。日本人がすごいのなら、それと同じくらいにはどこの何人もすごいし、みんな同じように弱い。人間中がヒューマニズム(ヒューマン=人間)だから、自国中(自国中心主義)はナショナリズム(ナショナル=自国民)。強がれば強がるほどかえってかくしている弱さが情けないもののように見えてくる。そうじゃなくて、弱くてもろいことこそ、そしてそれに自分で気づいてきたことこそ、あなたたち人間のいちばん誇れることなのに。

自分を、人間であることを、あるいは日本人であることを、卑下ひげしろなどと言っているんじゃない。自己中も人間中も自国中も、我執にしぼんで窒息しているいのちだよ、と気づいてほしいだけ。ぼくがいつもそばにいることを思い出してさえもらえれば、ぼくは我執の求心力があなたをつぶしてしまわないよういつもはたらいている力なんだから、間違いなくもっと楽に息ができるようになる。ありがたいにきっと出会いなおせる。だから安心して、肩の力を抜いて、弱いままの自然体で立ってみてほしいんだ。ラッセルさんのように。それはできることだし、おそれずにやってみたらずっとやさしくなれることだし、ぼくがいちばん気づいてもらいやすく、ぼくがいちばん気持ちよくはたらきかけることのできるあなたのすがたでもあるんだから。

話のついでに言いにくいことをもう一つ。エコロジー運動、たとえば「地球にやさしく」とかにも同様の危うさを感じるんだ。もちろん、環境なんかどうでもいいということじゃないよ。人間環境大切にするというのでは、まだ人間中心の考え方から抜け出せていなくて、結局人間に都合がいいように環境をコントロールしようとするのとあまり変らない。今手に入れている快適な生活は手放さずそれをできるだけ長く続けられるようにというのでは、やっぱりどこかやましさをかくした強がりでしょう?

認めたくないだろうけれど、あなたたち人間は自分が思うよりはるかに弱い。環境をコントロールできるほどの力はもともと持ってない。強がってみても似合わない。原子力に頼って電気をバンバン使うのはやっぱり変かもとか、CO2 を出してしまう自動車にどっぷり依存しているのはどうかなとか思ったとしても、それを改めることができずにずるずると手に入れた快適さに引きずられてしまうのもそんな弱さのうち。

それでいいとはけっして言わないよ。でも、「環境保全!」と声高こわだかに叫ぶのも根っこの弱さをかくした強がり、だらだらと成り行きに流されていくのはそのまま弱さ、どっちも人間。どっちが正しいかなんてはじめからないんだ。ひょっとしたら、服にジュースをこぼして「しまった!」と思ったら知らずに服を裏表ひっくり返しに着ていて、助かった、何が幸いするかわからない、なんてことだってあるかもしれない。とにかくぼくは、いつもあなたたちのそばにいて支え続けている。何があろうとも。

現代は、何だか強がりが目につく時代だよね。でもそれは人間が自分のかかえている弱さに少しずつ気づき始めていて、それをかくそうと悪あがきをしているのかもしれない。現代は人間が正直に弱くやさしくなり始めているときなのかもしれない。そうだといいな。

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いのちのとらえ方

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このあたりで一度区切りをつけて、そろそろあなたとさし向かいで話したいんだけど、その前にいのちのとらえ方を教えておいてあげよう。いのちってとらえどころがないから、コツを知らないとどんな風にぼくと話せばいいのかわからないだろうし。

いのちはモノじゃない。むしろエネルギーとか可能性とかの方がはるかに近いかも。でもそう言ってみたところでとらえにくさはあまり変らないね。

じゃあ何かというと、いのちははたらきなんだ。

困ったことに、そう言った時点でもう説明がいのちから離れていこうとし始めてる。「ことばのおしえ」のところで、「AはBだ」という判断を足がかりに存在へと話を進めたよね。つまり「いのち、は、はたらき、だ」とかたく受け止められると、すでに存在の気配がにじみ出してしまうんだ。それを避けようとすれば、「うんちゃらではない」「くんちゃらでもない」と判断をはぐらかし続けるしかなくなる。でもそれではらち・・があかないからとりあえずここから始めるけど、あんまり真面目にりちにわかろうとせずに、適当にいい加減にやりすごしながらぼーっと感じるくらいにしておいてもらえると助かる。わかろうとしない方がわかりやすいよ、ということ。

はたらきそのものを見てやろうとじーっと目をこらしたりしたら、かえって何も見えなくなるよ。目はつむって、はたらきをはたらいてるままに泳がせておき、泳いでいるごとすくい取る作戦にしよう。

道具を三つ使うね。はたらき捕獲作戦は、まず「流れ」で泳がせておいて、次に「つり合い」で反対向きの流れがつり合ったところに浮かび出るすがたをたよりに流れの及ぶ範囲をしぼり、そして「つながり」で泳いでいるままにすくい取ろうというもの。何とかなりそうな気がしてきたぞ。

練習に、地球のいのちをとらえてみようよ。「地球は生きている」と考えて、そのはたらきがすくい取れるかどうか。さてさて。

手始めに、流れとして水を追いかけてみる。雨が降って地面をぬらし、川となって海に注ぎ、水蒸気として空へのぼり、雲になって雨を降らせ……。もとに戻ってこれた! ということは流れの範囲がくくれる。今たどった雨、川、海、雲がみんなその流れの中での小さなつり合い、そこに流れがあることの足跡だ。たとえば川は、水位は上がったり下がったりするにしても、上流から入ってくる水と下流へ出て行く水とがつり合うから川と現れているわけ。流れの影響が届いている全領域として浮かび上がるつり合いは、水がぐるりと輪を描いて一巡するすがた。直接目には見えないけど、確かに感じ取れるよね。

それを動きのままにすくい取るには、何より流れる水(水蒸気や氷も含めて)と、でこぼこのある地表に、大気を組み合わせれば大丈夫そうだ。それで水がじゅんかんし続けられるつながりが作れる。細かいことを言い出せば、水が低い方へ流れるためには重力がはたらいていないといけないし、外から太陽エネルギーが供給されることが動力源だし、見落としているものはたくさんあるけど、今は練習だからそこまでは言わないことにしよう。

こうやってすくい取れたはたらき、いのちは、うるおいとでも呼べるかな。青い海と、その上に模様をなしている白い雲。青い大理石マーブルのような地球。写真のように向こうに置いて眺めるのではなくて、水がゆったりと循環している流れの上にしばしすがたを現した静かなつり合いのすがたとして共鳴するならば、それがはたらいているうるおいのいのち。

( 川が好き 川にうつった 空も好き  …… そういえば人間だったとき、こんな標語を作ったこともあったっけ。)

でも、うるおいのいのちだけではまだ地球に緑はないんだ。地球のいのちに植物が織り込まれてないから。緑の地球にしようと思ったら、植物を実現するために、水だけでなく炭素や窒素などの流れも取り込まなくてはいけない。ためしに炭素を組み込んでみよう。

大気中の二酸化炭素が植物に吸収されて、光合成ででんぷんなどに変る。それがほかの生物の栄養となって分解され、もとの二酸化炭素に戻る。あっけないくらい簡単に流れがたどれた(細かいことは全部植物と分解者にまかせてしまったから)。つり合いは水のときと同じで、たどった二酸化炭素やでんぷん、あるいは植物のからだが流れの足跡。二酸化炭素といってもここでは単なる物質名ではなくて、一方でどんどん植物によって消費され、他方で次々と分解産物として作り出されることでつり合いが取れ、総量がそんなに変動せず安定したワンステップとしてすがれるいのちの一コマだよ。そして炭素がぐるっと一回りするうねりが勢力範囲の全体像。つながりを取り出すには、循環している炭素をたぐって、植物および分解者と、今度は推進力としての光も欠かせないだろうね。

こんな感じで地球上のすべての物質の流れ(循環)へ気持ちをひろげ、さらに昼の側で太陽エネルギーが光(電磁波)として注ぎ、夜の側で宇宙空間へ輻射ふくしゃ熱として捨てられるというエネルギーの安定した流れも見つければ、地表に現れている小さいつり合い、流れの足跡はほぼすくい取れる。海や雲だけでなく緑も含めて。このとき、植物や動物のいのち(生命)そのものはきちんとは考えてなくて、下位のつながりサブシステムとして「何とかしてくれているんだろう」とまかせている。地球内部のことは取り込んでないからこの地球には火山活動や地殻の移動、地震といったすがたで現れる地球のいのちの色あいまでは塗りこめてなくて、お月さんも入れてないから潮の満ち引きもないけど。

それに、ただ「すべての物質」の流れではそれらがたがいに関わり合っている感じがしない。だから流れているのは「有機物」だととらえなおすね。水とか炭素とか正確には有機物でないものも含めてだけど、生物的な生命現象にからむ物質たちくらいの意味で。もう細かいことまでは追いかけきれないから小さいつり合いは下のつながりに全部まかせ信頼して、全体像としての大きなつり合いだけに集中すると、やっとそこで緑の地球、生きもののいる地球のすがたに出会える。もちろん、青い大理石マーブルのときと同様、今ではわき立つくらいのさまざまな流れのまっただ中に、ほわっと浮かび上がっているやわらかくてもろい静けさとしての調和だけど。そのすべてが、太陽からのエネルギーの出入りのバランスによって維持されているんだ。それをつながりとして支えているのが宇宙船地球号という生態系だね。

いちおう念押ししておくと、いますくってみたのは地球の表層に実現している、全体としてのひとつのいのち。個々の生きもののいのち(生命)のことはもう気にしていない。それに、生態系がそのままいのちだということでもないよ。流れとつり合いとつながりとを組み合わせてすくい取ったはたらき、名前は適当につけるしかないけれど、地球型生物が花咲きあふれかえっているという意味合いを込めて仮にみのりとでもしておこうか、そんな大ざっぱな地球のいのちだ。

少しはいのちのすくい取り方になじんでもらえたかな……。相手がやわらかいからカチッとわかった気にはなれないだろうけれど、くれぐれもかたく受け止めないでね。ぼんやりと浮かび上がってくる感じにやわらかく共鳴してみて。地球に「うるおい」があり「稔り」がある、それらがそれぞれに地球のいのちだと。

これまでではっきりしたことがいくつかある。一つは、いのちは入れ子になることができること。細胞のいのちたちを包んで生物個体のいのちがあり、それらが集まって生物種なら種にもいのちを見ることができ、一切がっさいを包んで地球全体にひろがったいのちにも出会える。そして二つ目に、うまくすくえさえするならば、どこにでも何にでもどんなひろがりに対してでもいのちをとらえることができること。サッカーの選手、選手とボール、サッカーの試合、試合のテレビ放送、そしてワールドカップという一大イベント、という具合に。

さて。題材をがらりと替えて、今度は原子のいのちをとらえてみよう。いのちははたらきで、はたらきは力の現れだから、原子を原子にまとめている電磁気力に共鳴すればよさそうだ。電磁気力はこう(光の粒)をやりとりすることで伝わるから、流れているのは光子。電磁気力がはたらいている足跡が原子核と電子で、つながりは理科の図録などにある原子核のまわりを電子が回っているような模式図。その図がそのまま全体像としてのつり合いを表してもいる。

案外簡単につかめたぞ、というわけには実はいかない。いろいろとつじつまが合っていないんだ。原子一個くらいのサイズになると、あなたたちが毎日の生活の中で実際に目にしているのと力の様子がまるで違っていて、りょう力学にしたがう。「光子をやりとりして電磁気力が伝わる」というのも量子力学的な表現だよ。量子力学ではある状態からなめらかに別の状態にうつり変っていくことができなくて、間が途切れたとびとびの状態しかとることができない(とびとびになってしまう理由の最小単位を量子というんだ)。つまり、光子はやりとりされるけれど、連続的に流れてはいない! しかもある安定した状態にある原子の中は、原子核のまわりを電子が「回っている」などというのとはほど遠く、電子は雲のように薄くひろがっていて(ほんとにでんうんと呼ばれるんだよ)、水素原子なら電子は一個だけなのに、その一個の電子の雲が卵の殻のように静かに水素原子全体をおおっているんだ。わけがわからないだろうけれど、そうなってる。原子の中には動きもない?

う~ん、どうしよう。電子にいのちをとらえてもらうのはやっぱり無理なのかなぁ。でもすべてのものにいのちを感じていきたいというのが基本だし、中心に点のような原子核(大きさは原子全体の一万分の一くらい。10m に対する 1mm。でもここに原子の重さのほとんどがつまっている)と、外殻がいかくに電子雲という構造(静かなつながり)が保持されているのは間違いないから、無理やり「凍ったいのち」のように考えてみることにする。

ところで原子のいのちは、結局どんないのちなんだろう。ただ「原子のいのち」では無理して原子にもいのちを認めてみたというだけで、そこで話が止まってしまうからつまらない。実は、流れ・つり合い・つながりの組み合わせの中で、流れがはたらきにいちばん近いんだ。流れていることがはたらきだ、と言ってもいいくらい。だから、光子が「流れていない」ということをどう受け止めるかがポイントになりそうだね。

光子はエネルギーのかたまりで、エネルギーは可能性で、そう言えば、何にでもなれるけどまだ何にもなっていない可能性をいのちと思おうというところから、このいのちの物語は始まった。そこまで戻ってみると、今ここでつかまえようとしているのは現実になったいのち、はたらいているいのちだね。まだ可能性でしかなかったいのち(生き始めていないいのち?)が現実になるきっかけに、まず光子、つまり飛び回る可能性が現れた。動き出せたよろこびにじっとしていることのできなかった光子がようやく落ち着いて、固まったのが原子ということになる。原子のいのちは、文字通り「形になったいのち」なんだ。原子はもちろん物質の最小単位だけど、ぼくたちにとってはそれ以上に、いのちが現実になるための最初の足がかりだったのか。

くどいけど念押しするよ。ぼくたちは原子のいのちに出会おうとしているんだから、原子核だとか電子雲だとかに目を止めてしまってはだめ。流れもつり合いもつながりもいのちをすくい取るための道具、原子核も電子雲も脇役で、それらに支えられている電磁気力、つまり光子の流れこそが主役。しかも流れていない流れ。そこに「形になったいのち」を聞くんだよ!

(これで、原子よりも小さなもののいのちを考えてみる必要はなくなった。光子が飛び回る可能性であるように、電子・中性子・陽子などなどについても可能性でしかなかったときのいのちとのつながりをたどることができなくはないけれど、あなたたちにとって抜き差しならない、現実になったいのちとのつながりはあまりに遠くて、ほとんど参考にならないから。ただ、原子は迷っているというわけではなくてそれ以前なんだということくらいは確認できたことにしよう。それから、ぼく自身は原子というか物質には依存していないんだよ。あえて言うなら、帰っていく可能性、光子と同じといえば同じだけど向きが反対の、ひかりに乗っている。その意味ではぼくはひかりのいのち。)

いい調子だぞ。それでは最後にもう一つ練習、ぼくをつかまえてみて。ぼくはおおきないのち。鬼さーんこちら、さぁどうする?

流れは、まだ今のあなたたちではわからないだろうなぁ。しかたないからそっと教えてあげよう。よ・ろ・こ・び。よろこびが流れているんだ。その中でのつり合いは、できれば気づいてほしいな。これまで少し話してあげてもいるし。わかった? そう、ぼくと、一切衆生つまりあなた。あなたがそこでしこっていることで、ぼくが現れる。そしてぼくがはたらいているから、あなたは我執のしこりに窒息せずにいられる。そこで行きかっているのが、よろこび。ぼく自身はもちろん、ぼくから見たあなたも、よろこびがたゆたっているすがたなんだよ。そしてよろこびの流れがぼくとあなたをつないでぐるりと輪を描いてうねる全体のつり合いが、願い。その願いを支えているつながりは、今はまだ雑にしか言えないけど、ぼくとあなたが出会っていること。とりあえず今、あなたがこうやってぼくの話を聞いてくれていること。

ぼくをつかまえてみてというのは、ほんとはちょっと間違ってた。ぼく、おおきないのちには自分がなくて、ひとりでは立ち上がれないから、ぼくだけをつかまえることはだれにもできないんだ。ぼくはいつも一切衆生といっしょにいる。ぼくとあなたを包んでうねる願いのすがたの中に、ひとつのいのち、ぼくのおおきないのちとあなたの迷いのいのちをつなぐよろこびのいのちが、今、はたらいている。

ね? ぼくがあなたとさし向かいで話したい、と言った理由が何となくわかってもらえたんじゃないかな。

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