いのちの真実 (7月20日)

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5月に、『いのちの真実』という演題で話してもらえないだろうかとの依頼を受けました。大変なタイトルです。その時はその時の思いで精一杯の話をさせていただいたのですが、話せば話すほど自分でわからなくなってきて、その後ずっと、噛み合うご縁では同じ演題で話させてもらっています。

「いのち」の分析(?)については十分に吟味を重ねてきており、(どう提示するかといった技術面を別にすれば)骨格においてもう大きな問題はない感触です。ポイントは、同じ一つの「いのち」という言葉で呼ばれる事柄を、

①生物的いのち=生きるいのち

②社会的いのち=つながるいのち・ひろがるいのち

③宇宙的いのち=よろこぶいのち・おおきないのち  ※これまでの「宗教的いのち」より変更

と3つに区別することです。これらの間の「混線」を避けるだけでも、提言するに意味のあることと納得できる手応えがあります。

そのいのちの「実際」としての、生および死(生と死をこのように分けて扱うことに問題は残りますが)の肌触りについても、十分と言えるかどうかは別にして、自分としては「これで足りる」と感じているリアリティを持っています。これまで、『死んでいくこと、生きるということ』『死の教えてくれるもの、迷いの生の語るもの』などという副題を添えての話も随分させていただいてきました。

冒頭の『いのちの真実』(提示されたもの)にも、副題として『死の教えてくれるもの、迷いの生の語るもの』(こちらからの提案)と添えました。と言うより、その時点では「いのちの真実」を「死の教えてくれるもの、迷いの生の語るもの」とパラフレーズすることで、要望に応えられるだろうと受け止めていたのです。

ところが、(少なくとも私自身における)現実は、そう簡単ではありませんでした。

2ヶ月吟味を重ねてみても、「枠組み」として間違っているとは思えません。正しさを主張するつもりは最初からないのですが、自分にとってのリアリティを支えるに当って、致命的な何かが欠けているとは感じられないのです。その限りにおいて、目指そうとしている方向が間違ってはいない。はずです。

なのに、話し終えた後の無力感が……。

この「無力感」という言葉から、かなり補足が必要です。他に思いつける表現がなくて無力感としましたが、それまであまり味わったことのない感覚で、第一そのように感じることがプラスなのかマイナスなのかからわからないのです。

自分のやり残していることがはっきりと感じられ、努力不足あるいは手抜きのように感じられる無力感であるならば、少なくとも十分な準備をしていなかったという側面において、基本的にマイナスでしょう。できる準備はしていたのだけれど、進んでみないとわからない(次の)壁にぶつかったというのならば、力不足は感じるにしても無力感とは肌触りが違います。また私にとって、そのような「失敗」はふつうプラスに感じられる。ちゃんと失敗できたときには課題も明確になりますから、(その課題に挑戦するかやめておくかは別にして)途方に暮れるということもまずありません。

失敗とも違い、手抜きの後味の悪さとも違う無力感。次に何をすればいいのかがまったく見えてこない。実際、ここ最近当サイトの更新が滞っている最大の理由がそこにあります。これまでの気持ちの枠組みであれば記事にできる出来事はそれなりにあるのですが、「書こう」というモチベーションが動かないのです。

かすかに、今の私はこの無力感こそを目指し求めているのではないかという気もしています。そうだとするならば、現実にそれを味わっているということは何らかの「成果」です。このような無力感を覚えることがプラスなのかもしれないと言った意味はそこにあります。

でも、語彙が追い着かない故の不適切な表現であるにしても、「無力感」と感じてしまう状況は、おそらく長く耐えられるものではありません。それを見失うまいとしているのだけれど、見つめ続けているとどんどん空気が希薄になっていって、酸欠になりそうな危険を感じます。そうなる前に一旦待避しては、同じことを繰り返しています。

取りあえずの策としても、「無力感」という冷たい言葉を、ほっと息のつける肯定的な表現に言い直そうという努力を続けています。たとえば、最近苦し紛れに形にした原稿に次のようなものがあります(これで本文は全文)。

仏法には無我と仰せられ候ふ。

我を滅して無我に至るにはあらず、我を忘れて万法に証せらるるにもあらず、己れ本来の面目において無我なり、我に力無きが故に。

されば護るべき我もなく、仏願に乗ずるを我が命と為して、命、我を生くるに任せるが宜しく候ふ。

是、今の成就なり、悪人の救われたる姿なり、南無阿弥陀仏の響き亘るなり。

しかしまだまだ不十分です。後半2行に、私自身のリアリティが届いていません。(断片にした個々の内容には、それぞれ実感を持っています。ところがそれをただ並べてみても、相互にくつろいでゆったりした表現にはならず、どこかそれぞれが意地を張り合っているような感覚が残ってしまいます。そのあたりが今の私の実際だということなのでしょうが。

弥陀のお慈悲はぬくいでのう。

とは、妙好人、因幡のげんさんの口癖だったと伝えられる言葉です。そこまで味わわないことには済まないことだなあ。

合掌。

文頭


全体という超越 (7月24日)

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昔(学生時代頃?)からときどき口にしていた表現があるのですが、一度正面からきちんと記述してみようという気になりました。タイトルの「全体という超越」です。

眼目は、非仏教、もっと具体的に言えば近世的な人間中心主義の言説に足をすくわれずにすむところに、一つ錨を降ろしておきたいということにあります。

哲学的にものを考えていこうとすると、個々の具体的な出来事をくくって、「抽象」的な見方を提示していくことが避けられません。この「抽象」がどういう出来事なのかということをめぐってもいろいろな議論があるのですが、そもそも「抽象」ということを嫌い、個別や具体の生々しさの中にこそ信頼するに足るものがあると受け止める心性もあります。

実は、私自身が根っこのところでそういう感性を持っているのです。ですから、二元論と聞くとその時点で抵抗感を覚えてしまい、一元論と言われて安心するようなところがあります。

上2段落は、いたって雑で、かつ間違いの多々含まれる言い方です。それを気にすると無用に煩雑で長たらしい記述をしなくてはならなくなりますから、要は、「ですから私は学者にはなれません」という言い訳とでも受け止めていただければ十分です。

ところが一方、たとえば「死んだら自然に帰っていく」といった類の素朴な生命観ないし宇宙観があります。私は『千の風になって』も同類と受け止めています。それに食ってかかる必要はないものの、やはり気をつけるところは気をつけておかないと、原始的な心性から抜け出ることができなくなります。

(私は原始的=低級、といったイメージは持っていません。しかし、そこにとどまっているだけでは洗練された「人間中心主義」に太刀打ちできないことは明らかなので、その限りで抵抗することを目指します。)

ということで、全体という超越です。整理すれば、抽象という契機に頼らず、素朴なままの自然観に堕することのない立場を探したいということです。

子どもの頃、「宇宙の果ての『向こう』はどうなっているんだろう」といったことを考えたことはないでしょうか。大人から「宇宙に果てはないんだよ」と言われても納得できなくて、一方で無理矢理わかっている風を装いながら、私も宇宙の果ての壁(なぜが一面の透明な壁)に手を当ててその向こうをのぞいている自分を想像したりしたものです。何も見えないか、うっすらと自分を含めたこちら側が映っているだけなのですが。

今では上の自分が笑えます。ほんとうに宇宙に果てはなくて、残念なことに、どこまで行ったとしてもそこはまだ宇宙の真ん中なのですから。

なんとも無力なことながら、どんなにあがいても宇宙の真ん中から離れることのできない私なのですが、そもそも宇宙というイメージを持ったとき、その宇宙は(少なくとも潜在的に)一つの「全体」として受け止められています。宇宙という言葉が俗っぽいならば、ブラフマンでも乾坤けんこんでも阿吽オームでも構いません。どう呼ばれるかが問題ではないのです。

そしてどこにいようとも(たとえ宇宙の果てに立ったつもりであったとしても)そこが宇宙の真ん中であるということにリアリティが持てたとき、全宇宙は真に全体と顕われます。ただ、それは私の理解できるものでも知ることのできるものでもありません。敢えて言うならば、(「そうで『ある』のか」ではなくて)「そうで『あった』のか」と気づかされ驚かされ、そして信頼するしかないことです。

もう一つ、もっと小さなスケールで、別の話をしましょう。

鎖の先に石を静かにぶらさげたとします。鎖と石との接点では、石が鎖を下に引く力(重力)と、鎖が石を上に引く力(張力)とが釣り合っています。だから石は動かない。

しかしこれらの力(重力・張力)は、鎖と石とを別々に扱い、それらの接点(作用点)を考えたときにのみ、表に出てくるものです(外力と呼びます)。鎖と石ではなくて、たとえば金鎖に宝石のぶらさがったペンダントのようにペンダントとして全体を一つに扱ってしまうと、宝石が金鎖を引っ張っている力などは無視されて表に出てきません(同じく内力と言います)。

ペンダントの話が嘘くさければ、最初の鎖と石の話に戻して、今度は鎖を一つ一つの輪にまでばらばらに扱ってみましょう。上の輪は下の輪(とそれに続いている輪たちと、さらにその下の石)を支え止めているわけですから、その作用点では相応の重力で下に引かれ、それと釣り合う張力が上に引いています。一本の鎖(あるいはひも)でも、上ほど強く張力がはたらき、下になるほど張力が弱くなっているわけですが、ふつう鎖の「内側」のことまでは考えないものです。

つまり、「全体という超越」とは、何かを「一つの全体」として見たとき、その「内部」の個々のことはその外には問題でなくなる、ということを指します。

ここで言う「全体」は、途中段階では任意です。都合のよい大きさで自由に扱ってよい。しかしその究極に、全宇宙としての全体があります。無限の系列ではありません。

それで何が言いたいのか。

現代の私たちは、知らず知らず「自分(自己、自我、主体、……)なるものを大前提の出発点に据え、しかもそれを過大に評価しているのではないかということです。

「私」と「あなた」の区別に目をつけ続ける限り、私の内側の個々のことは無視されてその総体としての「内面」のようなものが「あなた」と対峙している図式になりますが、「私とあなたが今出会っている」という出来事を一つの全体として捉えるならば、「わたし」の内面も「あなた」の内面もその輪郭を失って言わば融け広がります。消えてなくなるというのとは違うにしても。

さらに、全宇宙としての全体の「中に」私を位置付けて眺めたとき、私はまさに無化されます。無になって消し飛んでしまうのではなく、この私の業の姿のままに、その効力がどこにも痕跡を残さない、つまり悪が悪とならないという意味での無化です。(念のために言っておくと、もし私が善をなし得るとして、その善も善とならないのですが。)

そんな基本スタンスに立ってものごとを見つめていきたい。

ただ、思いの外私自身がその肌触りに慣れていません。少し吟味してみようとし始めると、どこか自分が人間中心主義の重力圏から抜け出せていないように、場合によってはそこからはずれることを恐れているのではなかろうかとすら、感じられます。

それに対しての、今回は第一歩です。

合掌。

文頭