いのちおおきく (12月9日)

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息子の葬儀が終わり、今日は初七日です。

さて、これから「日常」に戻っていかなくてはならないと思い、中断してしまっている勉強に取り掛かりなおそうとしていて、ふと遊雲の残した作品が目に入りました。

瞬間、ものすごいいとおしさに襲われ目頭が熱くなりかけるのと同時に、ああ、遊雲をこんな小さな作品に閉じ込めておく必要もないなと気づかされました。今ではすべてのことを、遊雲もそこへと抱き取られていった おおきないのち の現われと味わうことができます。

たくさんの方から、「お悔やみ申し上げます」「おさみしいことでしょう」「気を落とされませんように」といったあいさつを受けます。その心遣いには感謝しながらも、その実、家族みんな悔やんでもそんなにさみしがってもおらず、気落ちしてすらいません。むしろ、ゆったりと満たされた安らぎのような気持ちにひたっています。

昨夜家族4人で食事をしていたときも、自然に遊雲の話になったのですが、そうか、遊雲はいなくなったわけではなくて、いつもここにいて、姉のめぐみや弟の想が大きくなっていくのといっしょに歳をとっていくのだと実感しました。思い出にしがみつく必要などない。めぐみや想が穴(?)を埋めていくわけでもない。もっと当たり前に、いる。

ここのところ、住職の部屋の更新が途絶えていました。遊雲のことを離れて昨年あたりから私の思いが変わり、言葉が見つからなくなって、新しい言葉が育ってくるまで言い急ぐまいとしていたことが一番の理由なのですが、ごく最近に限って言えば、たとえば「死」をめぐって何かを表現したときそれを遊雲が目にする可能性があって、ついついためらっていたのも事実です。

今思えば、それはいらないことでした。厳しく言うならば私自身がまだまだ死という言葉(あるいは考え)に対しておびえていただけのことで、遊雲が知ったら(いや、気づいていただろうな)、笑い飛ばされてしまいそうです。

死が「終わり」やましてや「絶望」などではないことも、「死」の解決は「今」の解決であることも、とうの昔から知っており、実際遊雲の死が具体的な形で迫ってくる前には、平気で本人ともよく話していたのです。が、ぎりぎりのところそれがどんな肌触りであるのかまでは味わいきれていなかった。

さらに、私自身が死に直面しているのだとしたら、ある意味話は簡単で、ためらうことなくあれやこれやと表現しただろうと思うのです。ところが、いくらわが子といえども他者であり、その決定的な重さの前に立ち尽くしてしまっていたのでしょう。

今ではもっと踏み込めます。死とは、死を見切ったところで初めて触れることのできるいのちとは、ありがとうの一言なのでした。

ただ死んだのではダメです。また、死を切り離していのちを見ようとしたのでもお話になりません。生も死もまるまる包み込んである おおきないのち に届いてこそ、生死しょうじを離れた「今」がまぶしく輝きだし、何事と出会おうと「ありがとう」と喜べる。

言い換えるならば、死の向こうに おおきないのち のはたらきを信頼できたとき、死は恐れるべきものではなくなるのであり、真正の いのち に至る確かな道しるべとして、死は大きな意味をもっているのです。

遊雲は、まさしくそのように死を乗り越え、その向こうに拡がる おおきないのち へと還っていきました。浄土真宗では、葬儀を「告別式」とは呼びません。別れを告げる必要がないからです。新たな出会い方を知り身につけなくてはならないにしても、おおきないのち はつねにここにあります。いつでも会える。

その、「いつでも会える」思いのうちに、家族みんな、静かにくつろいでいます。遊雲、ありがとう。

合掌。

文頭


見守る (12月23日)

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「見守る」とはどういう出来事なのか、ここ数ヶ月ずっと考えてきました。

関心の中心は、たとえば「前向きに」生きる、「ポジティヴに」考える、などと表現される姿との違いにあります。一般的に言って、私はおそらく楽天的な方で、決して悲観的にものごとに接する性質たちではないと思うのですが、実はどうも「前向きに」「ポジティヴに」といった響きが好きでありません。

ある方が、「今日が明日のためにあるのだとしたら、今日はつまらないものになる」といった意味のことを書いていらっしゃるのを目にしたことがあります。「その通りだ!」と思わず膝を打ちました。その感覚に通じるものがあります。「前向きに」と言うとき、どうも目線が先を向きすぎているような気がする。

また、これはいささか勘ぐりすぎかなという気もするものの、「前向きに…」「ポジティヴに…」と好んで口にする人は、どこか「よりよいもの」があることを自明の前提としているように感じられてならない。「自己実現」などという表現も同列です。もっと素敵な自分になりたい、今のままでは嫌だ……。

ちなみに、私は上のような姿にけちをつけ、否定してしまおうとしているのではありません。それはそれで素敵な態度ですし、ある意味「若い」頃にはこうでなくてはとさえも思います。

が、必要以上に「前向きに」ばかりが評価されてしまうと、どこか変だという気がします。走り続けるばかりが能ではない。いつでも立ち止まってくつろげる人がよろこんで走っているのならよいのですが、止まったら倒れてしまう自転車よろしく、ひたすら動いていないと怖いというのではやはりまずいでしょう。

で、「見守る」です。

何よりまず、「見守る」ためには状況をきちんと「見」なくてはなりません。ところが、これが言うほど簡単ではない。私たちはどうしても、自分に都合のよいもの・歓迎しているものは誇張して受け止めがちで、逆に見たくないものからは無意識にでも目をそらそうとするものです。さらに同じ見たくないものでも、おびえているものは、ちゃんと見るのは避けるくせに妄想の方で拡大してしまう。

ですから、一旦はよい・わるいの判断を止めて、そのままに見、受け入れるよう「努力」する必要があります。このとき一番注意するべきツボが上で触れた「前向きに」で、これが残っていると目線が目の前の「今」に落ちません。(ついでに触れておくと、一見似たところのある「よい方へ考える」も、根っこに「より悪い状況と比較して」今をプラス側に定位しようという魂胆があるわけですから、目線がぴたりと今を捉えていないのは同じことです。)

上とは逆に、ものごとを悪い方へ悪い方へと取ってしまう人もありますが、たとえ被害妄想的であったとしても、案外こういう人の方が執われは少ないのかもしれないと思っています。もっとも、「前向きに」も「よい方へ」も私自身ながく執われていたものとしてやっと決別してきたものであるのに対し、「悪い方へ」という傾向は縁が薄く、わが身にひきつけて十分に吟味した上でのことではありませんから、ここで踏み込むには準備不足ですが。

「前向きに」にも「よい方へ」にも色づけされず、もちろん「悲観的に」もならないところへ立って、まっすぐに今目の前を見る。

やはり簡単なことではないなぁと思いつつも、無理にむつかしくしてしまわなければ、思うよりは楽に、道はひらけます。よい・わるいの判断を止めてと言うとむつかしげながら、簡単に言い直せば、「わかろう」としなければよいだけなのです。

目の前の「今」とは、ただとまどいおののくしかない、「わかる」ことを受け付けない素性のものです。それを無理にわかろうとするから、目線が「よりよい明日」に色目を使って上を通り過ぎてしまったり、「これまでの歴史」にからめられて手前に落ちてしまったりする。単純素朴に、わからないままに立ち止まることができたとき、「今」が目の前で活き活きと動き出す。

ここまで来ればあとは比較的簡単なのですが、もう一つ、越えなくてはならない、というか、私の思いとして是非踏み越えて欲しい、しきいがあります。わけがわからないままに、今目の前の出来事は、「善きかな」と味わうしかないのです。ぎりぎりのところで話が逆でしょうか。何事も「善きかな」と味わえたときに初めて、今がほんとうに輝き出す。

私にとっての「見守る」という出来事は、「今」のまぶしさの前に、ひたすらおののきうろたえることです。ここではまぶしさと形容しましたが、その実際は喜びであることもあり、悲しみ・哀しさ・つらさ・いたみであることもあります。それをあげつらう必要はない。

そして最後、一つまみだけ塩で味付けしておくならば、見守るという出来事は、見守られていると実感したことのない者にはできないことであることだけは確かです。

合掌。

文頭