(6月8日)

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今がすべてなのだ。今だけでよいのだ。

たったそれだけのことに気づくのに、何と遠回りしてきたことか――

流れ去るときがあって、

今をその上の点のように思ってしまうとき、

私は今の中に入り込めず、

無窮のときの流れに心細く取り残されるばかり。

今とは全体なのだ。今のほかはないのだ。

そんな当たり前のことを喜ぶのに、何と深いめぐみの要ることか――

満ち足りたいのちがあって、

今をそのまっただ中に味わえたとき、

私はどこへいく必要もなく、

かぎりなきいのちに暖かく包まれるばかり。

変わろうとして達成できずに苦しまなくても、

みなぎり育ってくるものを待てるようになればよい。

続けたいものが終わっていくのをはかなむよりは、

静かにくつろいでいける大らかさを覚えよう。

今とはよろこびなのだ。今とはかなしみなのだ。

今、私は如来と出遭うのだ。

文頭


信頼 (6月20日)

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私は新しい事態に直面して何か判断をしなくてはいけないようなとき、正当に期待しえる「最善」と、そこまでの覚悟は持っておく必要があるであろう「最悪」とを押さえて、最悪から最善へ至るひろがりの中へ状況を捉え込み、その上で私が加わることのできる場所を探すような考え方をします。

そうしておくと、多少うまくいったからといって度外れに舞い上がらなくて済み、逆に少々の失敗も驚くほどのことはなくなるので、気持ちの上で余裕を持って対処できます。もちろん、いつもそのようにきれいに自分の立ち位置がつかめるわけでないのは愛嬌としても。

言い方によっては、いやらしい態度です。最初に、どちらにころぼうとうろたえなくて済む算段をしてしまうわけですから。それを心得た上で、今日はそんな高みに立ったようなもの言いを続けます。

そのように日々を過ごしていて常々思うのは、私の周りの方々がずいぶんこわばった物事の見方をなさっているなあということです。こわばった、というのは気持ちの拡がりが狭い、という意味です。今日の続きで明日もこうだろうといったくらいのもので、もっと素晴らしいことまで考えてみる欲もなければ、悪い事態を心の隅にでも留めておくほどの身構えもない。

こわばった日暮しの行動原理は経験です。しかも、安定を望む強い求心力(仏教では「我執」と呼ぶのですが)を持った経験です。そして、こわばりたがる経験を広げるのは想像力です。もっと素敵なことに対しても、嬉しくないことに対しても、草でも引きながら、あるいは酒でも呑みながらいろいろと想像してみると、少しは心のこわばりがほぐせます。

と、えらそうなことを言っている私自身が、実はどうしようもないこわばりの真ん中へ突き落とされていました。

息子の病気(小児がん)です。最善:治る 最悪:死ぬ では、しゃれにもなりません。

与えられたご縁(現在、国立がんセンターへ転院しています)に照らし、そこから精一杯「想像力」を働かせて、

最善:1年近くの治療を経て、しばらくふつうの生活を送れるところまで回復できる

最悪:静かに体力が落ちてきて、最後は肺の機能が十分でなくなり、消えるように命終えていく

というところまでイメージをひろげてはみたのですが、何の支えにもならないことに変わりはありませんでした。

一応、参考までにどう想像力を働かせたかたどり直しておきましょう。

すでに肺への転移が多数検査にかかっており、そのほか頚や股のリンパ節、骨盤内、残った右脚の筋肉内、等々、「全身症状」化している段階ですから、ここから何もなかったかのように元気になる(=ふつうに戻る)ことを「正当」に期待するのは、現在の医学に照らす限り、やはり無理です。かといっていきなり何もかも投げ出して絶望するのも短絡に過ぎる。がんを根治することは無理としても、症状を抑え、ある程度「上手につき合う」に近い状況を実現できる可能性は、まだ残されている。そこにすがろう。それが精一杯の「最善」です。

一方、死ぬとつきつけられただけて何も考えられなくなったのではいろいろと癪です。そもそも、「どう」死ぬのか。今はまだ死にかけているわけでも何でもなくて、一時期のことを思えば明らかに痩せてはいるものの、ふつうにテレビを観、本を読み、興味を持ったことを調べ、楽しく義足の練習をしているのですから、せめてそのギャップを埋めないことには話になりません。このままいきなり死ぬのではなくて、全身のがん細胞に栄養を取られて少しずつ体力・気力が落ちていき、また同じくいきなり「首を絞められた」ように息ができなくなるのではなく、からだの中へ取り込むことのできる酸素が次第に足らなくなって、最後は静かに消えていく。苦しくはないはずです。これで「最悪」も少しは引き寄せられました。

しかし、私はただ知的に冷静に状況を把握しようなどとしているのではなくて、わが子をいつくしみ私自身活き活きと生きるために考えているはずなのです。なのにまったく役に立っていません。何だか無用な冷酷さのみが表に出て、情のかけらもなければいつくしみの香る気配もない。どうして?

正直、しばらくここで立ち尽くしていました。今考えようとしていることは、そもそも考えること自体が間違っているのではなかろうかと何度も思いました。もっと端的に言えば、考えるのを、現実を見つめるのを、止めてしまいたかった。

うすうす、どこでひっかかっているのか、気がついてはいたのです。「わが子に少しでもよい思いをさせてやりたい」などというのが、そもそもウソです。要は、私自身のおびえです。

新しい事態に直面して「私自身の加わることのできる立ち位置を探す」などと奇麗事を並べながら、私はまだ現実を直視するのを避け、一歩を踏み出してそこに「入り込む」のを嫌がっているのです。「具体的な死んで行き方」を想像などすると、私が殺しているかのような気がしてしまう。そんなことはない、私は無罪だ! 私は、わが子を思う優しい父親でいたいのだ!

やれやれ、見事なまでの心のこわばりです。

ようやく、どう心を運べばこの現実に入り込めるのか、単に高みから眺めたような冷たいイメージではなく生々しい気持ちのひろがりとして目の前の事実を受け止めることができるのか、少しだけ、わかってきました。

想像力には限界がある、ということです。私たちは死を想像することができない。

ところが、なんとも不可思議なことながら、私たちは死に信頼することができます。おびえるから怖い。おびえまいとするからなお怖い。安心しておびえればよいだけのことなのでした。

ふう。ここまで言葉にすることで、やっと一山越えられたようです。あちこちの隙間を埋めるのも、尻切れトンボの続きを形にするのも、もう少し時間をもらうことにしましょう。

合掌。

文頭


覚悟 (6月28日)

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前回の記事を上げたことで、私個人は随分気持ちが楽になりました。とは言っても、お読みくださる方には重い内容であろうかと思います。また、たとえば遊雲本人がこの記事を読んだとしたらどう受け止めるだろうかと考えると、まだ私自身に「このような記事を公開すること」に対するためらいが残っているのも事実です。

しかし、ここは踏ん張らなくては。さらに、私一人が「安心」するのでは不十分で、当人はもちろん、家族、そしてご縁あって読んでくださった方々にも、ほっこりとしたくつろぎを味わってもらえるところまで、何としても運ばなくてはなりません。

昨年から、妙に葬儀が続きます。近隣のお寺のご住職・前住様の葬儀が五件、長久寺のご門徒様の葬儀が年が明けてからだけでも六件(すでに例年の三倍)、そしてつい先日には叔父が亡くなりました。冗談半分に、こりゃお祓いでもしてもらおうか、と言いたくなります。

もちろん、仏教ではお祓いなどということをしません。元気なとき、というか、毎日が平穏に過ぎているときには「公式見解」として正論を持ち出せば済むのですが、微妙にでも「気持ち悪さ」を感じてしまっていると、公式見解で押しきったのでは大事な何かを覆い隠してしまうことになります。そこから切り込んでみましょう。

結論から言ってしまえば、お祓いに頼るとは、わけのわからないもの、合理的には対応がつかなくて立ち尽くすしかないことから目をそらして、「私には関係のないもの」としてしまい、平穏な毎日へ逃げ帰ろうとすることです。そこには大きなごまかしがあるばかりでなく、決定的に無責任です。

が、ごまかすまい、責任を担って立とう、としたとき、実はより根が深くたちの悪いごまかしに絡め取られてしまう。そもそもが何らかの意味で「考えようのないこと」に直面してうろたえているのに、いくらごまかさずに見つめようとしたところで、私たちには、結局のところ自分に「わかる」ものだけを拾い集めることしかできません。どこまでいっても「ごまかさない」ということは成就できない。

もちろん、「わかる」こと、気持ちの届くこと、を拡げることはできます。また、場合によっては最初にうろたえたことを「わかる」の中に捉え切って、ちゃんと解決できることもあります。さらには、今、隅から隅までわからなくても、いつかわかるときがくると信じられるならば、積極的に未解決のまま保留しておくという態度も選べます。

しかし、どんなに「わかる」を拡げても、決して手の届かないのが「死」です。というより話は逆で、「わかる」の根っこにある限界が抜き差しならなくなったときに「死」の問題が立ち現われるのでしょう。それに比べれば生物的な死とは実は大したことではなくて、あっけなく当たり前の出来事なのかもしれません。

実は、私自身、少なくとも自分自身に対して、死という「言葉」を口にして平気でいられるようになったのがつい先日のことです。しかしまだ「人の前で」使うときにはためらいがあって、それを乗り越えるために、ご縁ある方々に「も」死という言葉を前にしても引かなくてすむようになって欲しいと思って書いているのが今回の記事です。

3年前、遊雲が最初に入院したとき、病室は473号室でした。473号室に入院するはめになった患者が「『よぅなおさん』などとは縁起が悪い、おれはこんな病室には入らん!」と強情を張ったところ、手馴れた看護師さんが「これは『よぅなおさん』ではなくて『死なさん』と読むのよ」とかわして、強情な患者も一転ニコニコ、万事まるくおさまったという笑い話があります。人間、びくついているときには取るに足らないことにでもつっかかって、そのつもりはなくても自分の不安を増幅してしまうものです。悲しくもあり、いとおしくもあり、まぁそれが凡夫のすがたということでしょうか。

心配なさらなくても、いくら「死ぬ」「死ぬ」と口にしようが、ご縁整うまではそう簡単に死ぬものではありません。逆に、どれほど気を使って避けようとも、死ぬときにはあっけなく死ぬ。「死」をきちんと解決している方でなければ、のらりくらりと生きているにしても死んでいるのとそう変わりはありませんから、とりあえずは死という「言葉」に大げさに反応しないでいてください。

死という「言葉」にびくつかなくなってみて初めて気がつけたことがいくつかある中、一番ぎょっとしたのは、私たちが本当におびえているのは実は「死」ではなくて「生」の方なのではなかろうかということです。もう少し正確に言えば、漫然と当たり前に元気に過ごして(≒生きて)いるとき、腹の底では漠然とした「やましさ」を感じている、ということなのですが。

それに気がついたとき、生と死を互いに相反するものであるかのように位置づけるのではなくて、「生死(しょうじ)」と一つに見ることがいかに自然であるか初めて納得できました。仏教では、生死はそのまま「迷い」のことです。ところが無理に死と切り離して生のみを自分にひきつけておこうとしていると、まっとうに迷うことすらできない。

死も取り込んで生死と受け止めるには、しかし、最低限の覚悟が要るようです。ただ、たとえば精神的にタフな人が「よし、やるぞ!」と気合をかけてすっくと立ち上がるような覚悟とは随分趣が違って、「ほかに逃げ場はないわいな」とうなづく、枯れた静かな覚悟です。地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。

この覚悟は、深い。そしてそのまま、大きなくつろぎの真ん中です。

合掌。

文頭