身体 (9月3日)

HOME 一覧 前へ 次へ

身体とは、結局のところ一体何なのだろう。

たとえば、「身体で考える」などといった言い回しがあります。個人的には好きで、どこかひかれていながらも、それで何が言い表されているのかもう一つよくわからない。そのためどうも自分からは使いにくかった表現でもあります。

今、息子が小児がんの治療で無菌室に入っています。無菌室といっても「準」無菌環境ですから、部屋はふつうの個室で、ベッドの上半身部分を覆うようにビニールの「テント」をかけその中に頭側から滅菌処理した空気を流しているというだけの、いささか大雑把なものです。付き添いも入室時にこまめに手を洗うくらいのことで、やや拍子抜けでした。

この中で、「超大量化学療法」を受けています。本人の免疫系が自力では回復不可能なダメージを受けるのを覚悟の上で、十分効果が出ると期待できるだけの抗がん剤を投与するわけです。事前に本人の造血幹細胞が採取・保存してあり、最後にはそれを「自己移植」することで免疫系を元に戻します。

薬で抵抗力が落ちるため無菌環境にいるのですが、上述のような簡単な(?)仕掛けで空気感染はほぼ防げるとのことでした。とすると残りは接触感染だけです。ところが「皮膚」はかなり丈夫なのだそうで、ただからだに触れるだけというのならば神経質になる必要はありません。実際、着替えなどは特に消毒するでもなくそのまま使います。

問題は「粘膜」です。本人の口に触れるものに関してはかなり神経を配り、日に3度、うがいをして、薬で口内消毒をして、さらにねばっこい薬で口内粘膜を保護するという3重の作業をします。それとは別に、のどから肺の中まで、かびなどが居ついてしまわないように予防もします。

ですから飲食物に至っては、驚くほどの気の使いようです。たとえば薬をのむときの「水」にしても、3時間以内に開封した新しいペットボトル飲料でなくてはいけません。小児科で、水分の摂取を心掛けなくてはいけない患者が多いことから、病院備え付けの冷蔵庫にはいつもお茶やフルーツジュースが準備されているのですが、それすらダメなのです。

徹底的な「完全」無菌室であれば、おなかの中も一度全部殺菌消毒してしまうそうです。そうするとウンチも臭くなくなるとか。おなか(正確には消化管)の「中」といっても、靴下の裏表をひっくり返すようにして裏返してしまえば「外」です。守らなくてはならない「内」ではありません。

そんな環境で付き添っていると、生理的な意味での「身体」が非常にくっきりと見えてきます。日頃意識しにくい胃壁や腸管の「表面」が、「外」と対峙するもろく壊れやすい防護壁として感じられる。ではそれが「身体で考える」ことにつながるかというと、明らかに違います。

仏教では(しん)口意(くい)の三業、という言い方をよくします。業(行為)を、身業(しんごう)(身体的行為)・口業(くごう)(言語表現)・意業(いごう)(心意作用)の三つに分けてとらえる考え方なのですが、実は長くその分け方がよくわからずにいました。「身体で考える」と表現されるとき、漠然と想定されているであろう身体-言語、あるいは身-心といった関係とは自由で、むしろ、「私」の行為・活動を眺めるときの三側面にすぎないのです。

(ここは仏教を離れ、)やや強引に、身口意ととらえられる三面を「私」の物理-生理的な側面、社会的な側面、そして人間的(あるいは霊的ないし宗教的)な側面と解釈してしまいます。仏教理解には役立ちませんが、「身体で考える」という表現の意味するものをとらえようとする上で身口意というフレームが役立たないことははっきりしますし、強引ついでに、「身体で考える」が積極的な内容を表していると響くとき、その「身体」は身体-言語ないし身-心の二項関係の中ではとらえきれない何かを指しているのだと考えを進めてみます。

同じく仏教に、(たい)(そう)(ゆう)という見方があります。ある一つのものについて、(たい)は「ものがら」、(そう)は「あらわれ」、そして(ゆう)は「はたらき」を指します。この「体」が上で問題にした「身体」につながらないか。

「ものがら」とはわかりにくい日本語です。とりあえず「実体」と言い直しておきましょう。しかしそれではまだ「体」と「身体」のつながりが見えてきません。あるいは、見えたとしても身体を物理-生理的な「実体」におとしめることになって、話が戻ってしまう。

ここでの問題意識に照らす限りにおいて、(たい)のより積極的な意味は「全体」と翻訳したときににじみ出してくるように思います。

通常、言葉を使ってものを考えるとき、考える対象の限定を強め、よりくっきりととらえられるようになることを目指しています。それに対して「身体で考える」というとき、むしろ対象が置かれているところの背景へと意識を拡げ、全体の方からあぶり返されてくるようなかたちでその対象を浮かび上がらせる把握の仕方、目に見える表側に焦点をあわせるのではなくて裏側から触るかのような感じ取り方、自分「が」考える対象を支えるのではなくてそのものがおのずから浮力を与えられてくるような見方、が示唆されているのではないか。

息子の遊雲は、今、ふつうにとらえれば「とてもつらい治療に臨んでいるかわいそうな」状況なのですが、そばにいて、とてもそうは見えません。言葉が届かないか、そうでなければ行き過ぎてしまうのを承知で、置かれた状況を「遊んで」いるように思えてしまいます。そもそも、上で書いた「浮力」という言葉自体、息子の様子からふと思いついた表現です。大きな、確かなものにしっかりと支えられて、遊雲の名前に逆らわず(?)、ぽっかりと浮かんでいる。

そういう今も、実際には吐き気に苦しんでいます。2日以上何も食べていませんから胃液すら出てこない空の吐き気が続き、決して楽ではなくて、一見ぐったりと横になっているように見えるのですが、かけらもじたばたしたところがなく、縮こまっていません。

「身体で考える」とは、大きな全体をしっかりと感じ取り、それに身をあずけて、一番くつろげる姿勢をさがすことを言うのではないでしょうか。そこから推すならば、身体とは「姿勢」が具体化する場所であり、実現した姿勢そのもの、となります。

そうか。身体とは姿勢のことだったのか。ならば、自分の「外」、直接見えるものの「裏側」をどこまで大きくとらえているかが身体にそのまま反映するのもうなづけます。やわらかい身体でありたい。それこそが「他力」の教えに支えられた姿であるはずです。

合掌。

文頭