原子力

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原子力とはいったい何なのか。原子力発電所再起動云々の問題もある中、きちんと考えてみましょう。

まず、原子は物質の基本的な構成粒子です。自然界には92種類の原子があり、かつてはこれ以上分けられない最小単位と考えられましたが、今では原子が原子核とその周囲を飛び回る電子とから成ることがわかっており、厳密な意味で最小単位とは言えません。しかし原子は工夫すれば可視化することができるのに対し、原子の内部構造となるともう現実世界での感覚とはまったく違う世界ですから、まあ物質の基本粒子と思ってよいでしょう。

そして原子力は、原子核の崩壊/反応から生じるエネルギーのことを言います。ですから原子力~というのと核~というのと、内容としては同じになります。日本語では原子力~は平和利用、核~は兵器などの軍事利用と漠然と使い分けられていますが、他の言語ではそういう区別はありません。なお、MRI(Magnetic Resonance Imaging system、磁気共鳴画像装置)をかつてはNMR(Nuclear Magnetic Resonance、核磁気共鳴)と呼んでいました。しかし核~が核崩壊/反応を連想させるおそれがあることから今でははずされています。(NMRの核~は核崩壊/反応とは関係なく、放射線の被曝もありません。)

核崩壊とは、放射性元素の原子核がさまざまな段階を経て自然に壊れ、別の原子へと変っていくことを言います。得られるエネルギーは比較的小さく、原子力電池や医療用の放射線源などとして利用されています。核崩壊では原子の数は変わらないのに対し、核反応では数が増減します。一つの原子の原子核が二つに割れて二つの原子になる場合を核分裂、逆に二つの原子がくっついて一つの原子になる場合を核融合と呼びます。原爆は核分裂、水爆は核融合の利用(?)です。現時点で核融合は軍事目的以外で使われたことはありません。ですから身近な関心事としての原子力とは、核分裂のことと言ってよいでしょう。

ところで、宇宙規模で考えた場合、核反応はありふれた現象です。太陽などの恒星は核融合によって膨大なエネルギーを放出しており、わたしたちはその恩恵によって生存しています。しかし舞台を地球に限定し、その上で営まれている生命現象から考えるならば、原子力(核分裂)の見え方は随分変ります。

何より、地球型の生命現象は奇跡的とも言える微妙な範囲でのみ成り立つのです。水が液体でいられる範囲は摂氏で0度から100度までですが、仮に核分裂が起るとされる10兆度くらいを宇宙規模での現実的な温度の上限と考えても1000億分の1、地球一周に対する0.4mmくらいの幅です。地球は十分に冷えてしかも冷えすぎなかったという絶妙の環境なのです。その地球上で核分裂を起しては激しすぎます。

さらに、核分裂では放射性物質が生成されるという避けて通れない問題があります。化学的な毒物であれば少なくとも理屈上分解して無毒化するということが考えられるのに対し、放射性物質はそれ自体が原子、つまり物質の基本粒子ですから、消すことはできません。勝手に壊れていって(核崩壊して)危険な放射線を出さなくなるまで待つ以外にないのですが、ものによっては何千年、何億年という単位になります。

ですから、平たく言って、原子力などそもそも人間の扱えるようなものではないのです。安全神話と言っても放射性物質を「隔離」する技術の話に過ぎません。解毒しようのない放射性物質を産み出すという事実で考えるべきでしょう。

どこまでも「人間に扱える技術ではない」ということを前提とした上で、放射性物質に対する過剰な恐怖感があるのも確かですから、それについても説明しておきます。

まず、放射線について整理しましょう。主な放射線にはαアルファ線(ヘリウム原子核)、βベータ線(電子)、γガンマ線(電磁波)があります。順に、紙、数ミリのアルミ板、10cmの鉛板で遮蔽することができます。なお、X線はざっくり言えば弱いγ線で、数cmの鉛板で遮蔽できます。

放射線による生体への悪影響、いわゆる被曝は、核兵器の被爆などの極端なものを除外すれば、放射線の電離作用により活性酸素ができて、活性酸素が主に細胞中のDNAを傷つけることによります。膨大な量の放射線を浴びて身体中の生体組織が損傷されたちまち生体維持がむつかしくなるというこれまた極端な場合を除くと、現実的な被曝がいきなり害を産むことはありません。先々でがん化する可能性が高くなるだけです。ですから広島で原爆に遇って何ごともなく生存している人があります。

わたしたちの身体の外からの被曝は、言ってしまうならば一過性のものです。しかし放射性物質が体内に取り込まれてしまうと多少話が変わり、一過性では済まなくて、長期にわたり被曝することになります。ただ、体内に取り込まれた放射性物質の9割が排出されるのに、ヨウ素で458日、セシウムで232日とされていますから(プロトニウムでは663年ですが)、食べてしまったら最後死ぬまで逃れられないというものでもありません。

わたしは被曝は恐れる必要がない、安全だ、と言っているのではなくて、過剰に恐れるのはその精神的ストレスなどを考えればかえってマイナスだ、と伝えようとしているだけです。もとより原子力発電の肩を持とうとしているのでないことは念押しをしておきます。

さて、以上を踏まえた上で、いのちのおしえに照らして原子力をとらえてみます。

第一に、生命レベルで、原子力は人間で扱える技術ではありません。安全神話など前提をすりかえた大ウソです。

しかし過剰に放射性物質を恐れるのも、いのちのおしえには反します。それは一人歩きした可能性に振り回されていることで、むしろあたま的です。もちろん、たとえばチェルノブイリ後、一時期子どもの甲状腺がんの発生率が10倍を超えたというのは事実ですが、過剰な反応はほかでのマイナスを産んでしまいますからトータルに考えたいのち的には逆効果です。さらに、がんになろうとなるまいと、必ず死にます。それを隠してしまうとするならば、放射性物質アレルギー全般を批判する必要があるかもしれません。

そしてそれ以上に、原子力に対して被害者の立場でのみ考える人の多いことが問題です。その害さえ考えずに目先の利益だけしか見ない人はなお問題ですが、それに反対するだけでは直面している課題の本質には迫れません。いくら原子力は人間の扱えるような技術ではないとしても、応用・実現してしまうのが人間です。その原動力はもっと楽をしたい、思いどおりにしたいという人間の業です。その時点でわたしも共犯者です。

現時点での先進国の住人一人が消費しているエネルギーを全世界70億人超の人すべてが享受するとしたら、すでに地球2個分に相当するそうです。これを不自然だと思えないようであれば、人類が存続していくのは不可能でしょう。そういった方向へ向けて、少しでも「足るを知る」ことを提言していけるのはいのちのおしえのみです。

もっと踏み込むならば、地球を破滅させることさえ辞さずに欲を張っているがん細胞同等の人間の愚かさをさえ包んでいるのがいのちのおしえとも言えるのですが、それは一凡夫の踏み込むべきところではありませんからここで置きます。

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臓器移植

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続いて臓器移植にも触れておきましょう。ただ、臓器移植はまだ完成された技術ではなくこれからどんどん変っていくでしょうから、その根っこにある問題を指摘するに留まります。全体像はまだだれにも見えません。

一番身近で、すでに確立していると言える臓器移植が、輸血です。宗教的理由から輸血を拒否する人たちが現にあり、その理由もわからなくはないのですが、輸血まで嫌うと行き過ぎのように感じます。ただ、何を根拠とし、どこで線を引くかとなるとわたし自身まだあいまいです。

輸血に続くのが、角膜、腎臓、肝臓などの移植でしょうか。このあたりまではまだ受け入れられる気がします。角膜はお亡くなりの方からの提供でよく、腎臓(片方)・肝臓(一部)であればそのまま提供者の死につながるわけではないというあたりが理由と言えば理由になるでしょう。

なお、技術的には腎臓の移植はかなり困難な方に入ります。ホルモンを分泌することもあり、事後の拒絶反応が強く出る臓器だからです。そういう観点からのみ考えるならば心臓移植はむしろ簡単で、逆に一番難しくて現時点でまだ成功していないのが実は皮膚移植です。腕一本を丸ごと、あるいは顔全体、とかであれば成功例があるのですが、皮膚だけというのがかえって免疫的にやっかいなのです。また、骨髄移植をしたら血液型が変わります。

さて、微妙な問題になるのが心臓です。何より、鮮度の高い心臓を入手するには人を殺さなくてはならないのですから。そのため現在では脳死という考え方を作り出して、生きたままの心臓を取り出せるようになっています。

このあたりの事情は、今後技術が進んできたら変わってくるかもしれません。つまり、(そのような可能性があるのかないのかは知りませんが)脳死に頼らずかつてのように心停止後の心臓であっても移植できるようになったとすれば、少なくとも人を殺すという面は避けて通れるようになり、そうすれば腎臓移植との隔たりは小さくなるからです。

しかし、そうすると今度は隠れていた問題が表に出てきます。心臓を機械の部品か何かのように考える限り、入手の仕方に法的あるいは心情的なひっかかりがなくなればそれで解決ということになります。しかし、もし心臓が文字通り「心」だと考えてみたらどうなるでしょう。自分の「心」に不具合が出たとき、人の「心」で置き換える、ということは簡単にしてよいことなのでしょうか。

これは科学的な話ではないかもしれません。しかし現実に臓器移植をした後、好みががらりと変ったり、場合によっては臓器提供者の性癖を引き継いでしまっていたというような例も報告されているようです。いきなりそれに頼って話を進めようとしているわけではありません。が、どこかで、わたし、あるいはわたしのいのちとは何なのかをきちんと考えてみる必要はあるように思います。

逆に言うと、現在の臓器移植の少なくともどこかある一線から先は、「わたし」をわたしの身体とは独立のものとみなす、近代的自我観に立っているのです。仏教的に言っても、我執の業が生身の身体を離れて暴走しているような印象があります。どちらの「わたし」も死ねないのでした。

ある面、業の暴走の方が恐ろしいかもしれません。仮に心臓移植あたりまでは十分に市民権を得た後の話として、欧米ではまずあり得ない発想でしょうが、たとえば眼球や視神経などには異常がないのに脳に問題があってものが見えない患者に対し、何らかの方法で入手した別の脳の視覚をつかさどる部分を移植するなどということを、日本人なら考えてしまいかねないような気がします。

あるいは極端な話、首から下にはまったく問題がないのに脳だけ致命的な損傷を受けたというとき、別の人の脳をまるごと移植したとするとどうでしょう。身体をそのまま取り替える、という話と逆で、脳の方を置き換えるわけです。もう空想の域の話ながら、案外、元の自分はかなりの割合で残るかもしれません。そんな風にも想像できてしまうのが業的な発想です。

SF話はやめて、別の角度からも少し考えておきます。

わたし個人は、わたし自身が移植以外に長期生存の術がないという病気にかかったとして、別の人からの移植は望みません。また、わたしの家族がそういう状況になったとしても、当然のように移植を考えるということはしないと思います。もちろん本人の意向がからみますから、わたしの考えを押しつけることはしませんが、ただ目の前の病気に対処するというだけでなく、そういう状況に置かれたということ、あるいはそうなることでより具体的かつ目の前に突きつけられた「死んでいく」ということの方を中心に受けとめたいからです。

そのような病気になろうとなるまいと、あるいは治ろうと治るまいと、必ず死ぬ。それを見失いたくない。

これは、一つの考え方、あるいは選択肢を広げるためのある提案に過ぎなくて、移植を望む人たちが間違っていると言っているのではありません。その意味でわたしは脳死を否定していません。そういう方向の選択肢もあってよいと思う。人間は未知な領域へ踏み出さずにはすまない、よく言えば好奇心、悪く言えば業を持ったものです。技術が進んでくればそれを応用せずにはいられないのが人間です。

ただ、ある技術が確立されたとき、それを使うのが当然だという風潮になってしまうのには抵抗します。その技術を推進したがる人と、抵抗を覚える人と、どちらもいるのが自然でしょう。どちらも百パーセント正しくはない。ということはどちらもやましさを感じざるを得ない。しかしそこにやましさが残ることが、実は一番大切なことのように思います。

なお、他にはさめるところがなかったので無理やりここで少し触れるとして、臓器移植が成功したとしてももとと同じ生活に戻れるわけではないことは指摘しておきます。拒絶反応を押さえなければならないので原則として免疫抑制剤を使い続けなければならず、その影響で抵抗力はかなり落ちます。このあたりも技術の進歩でどんどん改善されてはいくでしょうが、移植さえできたら万事解決ということではなくて、いろんなものを背負い込むことになるのです。

最近、日本でもQOL(Qualityクオリティ ofオブ Lifeライフ)という表現は定着してきたようです。しかし英語の life は、生活、人生、そしていのちと、かなり幅の広い意味を持つ語です。日本語ではどう受けとめられているのでしょうか。

「生活の質」ならば、臓器移植へのハードルは低くなるように感じます。病室から出られないよりは、たとえ制約はあるにしてもふつうに近い生活が送れた方がいい。実際その通りだと思います。しかし「人生の質」ととらえると、ひょっとしたらふつうに近い生活に戻ろうとするよりも抜き差しならない現実を直視し、死という生の外ときちんと出会える方がより高くなるかもしれない。さらに「いのちの質」となると、わからなくなります。

わたしたち凡夫の側から見る限り、いのちとは本来迷いです。どんな生き方であろうといのちを離れ得ないし、またいのちに正解はありません。どうするのが正しいかと問うと、むしろいのちから離れます。しかし、やはりいのちは柔らかい。臓器移植がただ技術だけの話にとどまっては貧しくなります。そうしないためにも、せめてやましさを忘れないようにしたいと思います。

何ごとも、思いどおりにはなりませんが、必ずなるようにはなります。だからほおっておけばよいというのではなく、同じなるようになるにしても、なるようになりようとでも言うか、受け入れていく姿勢には工夫の余地があるはずです。しがみつくのとなげやりになるのとの間に、開きまかせる道がある。

不信の目で見れば、脳死判定が不可欠な心臓などの臓器移植は自己中心主義の産物のように映ります。しかしドナー(臓器提供者)の遺族が「息子の心臓が生きていると思うと嬉しい」のような感想を残していらっしゃることを思えば、これまでにないいのちのあり方につながるのかも知れません。しばらく、見守ろうと思います。

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情報

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情報とは秩序さの度合いをとらえたものです。それをいのちとのからみの中で見てみましょう。

大学に入学して仏教を勉強し始めたころ、縁起を真剣に考えていて、ふと「もしすべてが関わり合いの中にあるのだとしたら、心を澄ませば地球の裏側のことも感じ取れるはずだ」と本気で思ったことがありました。とんでもないことに熱くなるのが若さの特権です。そして三ヶ月近く、決して座禅を組んでとか瞑想の中でとかではなくて、歩きながらとか机で頬杖をつきながらでなのですが、わたしの「今」の中に何か地球の裏側から届いてきているものがないか、探しました。

けっこういろんなことが伝わってくるものです。都会の喧噪の中を歩いていて、直接目には入らない角を曲がった先の信号が変ったのがわかります。人の流れ方の変化で推測できるというよりは、信号が変ることで起きた波がひたひたと寄せてくるといった感覚です。あるいは深夜の静かな下宿の部屋で、三軒隣の家の外の小屋で寝ている犬があくびをしたのが伝わってきて、思わず笑い出したこともあります。

面白くなって、逆にこちらから「気」のようなものを送ったとすればどのくらい伝わるだろうと試したこともあります。フッと気持ちが向いた人、たとえば二十メートルくらい前を歩いている人に思いを集中していると、歩きながら次第にそわそわしてきて後ろを気にしはじめ、最後にははっきりふり返って目が合うというようなことがけっこう簡単に起ります。知人といっしょのときに実演(?)して証言をもらってもいます。面白いのは、「じゃああの人をふり返らせろ」のように指定されてできるわけではなく、何となく「あの人」と感じた人でないと無理なのと、うまくいくのは若い女性が多いことです。(ですからもし今試してみたとしたら誤解されそうですが。)どこか、最初から共振していたのを確認するだけという感じでした。

あるいは、ハイキングで出かけた先のダム湖の水面で、いくつの波が見分けられるかずっと眺めていたことがあります。沖から堰堤へ寄せてくる波、それが反射して帰っていく波、右手の岸の出っ張りから弧状に広がってくる波とそれが帰る波、水面全体の大きなうねりに表面のさざ波、そして水面にちょっとのぞいていた棒を中心として同心円に広がる波と、一つの水面に七つまでは同時に見ることができました。つまり、わたし自身の思いもそのような波の一つととらえた上で、そこに重なってくる別の波をつかもうとしたわけです。集中するのですが、思いを凝らすというよりは思いを寛がす、あるいは調ととのえるといった感覚でした。

しかし、わたしなりにどんなに工夫してみても、地球の裏側のことは感じ取れません。そんな中で、ああ、SN比の問題なんだと納得しました。SN比(Signal to Noise ratio)とは音響関係で使われる用語で、背景の雑音に対し信号と区別できる度合いをいいます。地球の裏側のことも間違いなくここまで伝わってきているのだけれど、あるレベルを下回った信号はすでにノイズであり、もうもとの情報をくみ出すことはできないのです。

諸行無常は、一切を風化し雑音へと飲み込む逆らいようのない傾向です。それにあらがいいのちはどうすがたを現しているのか。

生命レベルでは、情報、すなわち無秩序に対する秩序(の度合い)は、第一に遺伝子に保存されています。しかしそれ以上に、壊れたところを修理して秩序を回復するというのではなく(それではどうしても後手になる)、片っ端から壊しつつ次々形にするという戦略をとり、固定的な秩序を放棄した動的な平衡と現れることで、生命は生命たり得ているのでした。

共感のいのちにおいて、無秩序は無関心でありばらばらな個人主義です。傍若無人、かたわらに人無きがごとしの振る舞いをする者(若者ばかりではなく、むしろいい歳をしたおじいちゃんに多いように思います)が増えている中、どう共感は支えられるか。かつては、ある集団がばらばらにならないようたがとして機能していた社会規範は少なくありませんでした。しかし現代ではそのような規範を嫌います。たとえば小学校の運動会の入場行進で、わたしの年代ではみんなきちんと列になって右足・左足もそろうよう練習させられたものですが、今そのような入場行進を見ると、わたしですらかえって違和感を覚えそうです。

風化しばらばらになっていく傾向を強めている個人個人の思いに、どう求心力をもたせ秩序を与えるかというのは、まだ未開拓な分野なのかもしれません。情報化社会と呼ばれみんな携帯端末を使ってメッセージのやり取りをしていながら、総量としての情報量は増えていても一つ一つの情報が意味を持ちえる広がりはどんどん狭くなっています。結果として価値観が多様化(というより細分化?)しまた刹那化しており、ある共同体全体にわたって静かに深く響く共感などというものは失われかけている。こころが、いのちが忘れられているというのならば、社会的な秩序をどう産み出し支えていくかというところから考えなくてはならないでしょう。

わたしが得手の分野でないので確かな提案もできないのですが、あえて言うならば、死を嫌い目を背ける風潮にはっきりと釘を刺し、「みんな死ぬる」ということを共有できるならば(これは生きている人すべてに通じますから)、固定的・外圧的な秩序とは違うかたちで動的な共感が支えられるのではなかろうかとは考えています。

そして最後、もう中途半端な感動のいのちは飛ばして、いのちのおしえそのものにおけるいのちの現れを紹介しましょう。

諸行無常に逆らうのは業、迷いです。ですから業を不用意に嫌って消しにかかってしまうと諸行無常に飲み込まれ、悪しき涅槃、虚無、死に行き着いてしまうのでした。完成した寂静、動きの終焉として涅槃をとらえるのではなく、一つの全体として姿を現したはたらき、あるいははたらきそのものの顕現として出会われたとき、涅槃は一如と呼ばれます。

しかし一如も一如と「仕上がって」しまうと、このわたしの迷い・苦しみを無化してしまい、教理としては現状肯定の体制側思想ともなる。どこまでもこのわたしの生の現実を迷いと残したのが、浄土教です。わたしの迷いと一如との断層が、往生と位置づけられます。

ですから往生浄土は寿命いのち尽きて死後の世界に赴くことではなく、ましてや現実逃避の来世願望でもなく、一如がわたしの業と浄土の大業とに引き裂かれているところにいのちのはたらきをとらえたおしえです。完成され固定した実体的な秩序ではなく、それを捨て、一方でやすむことなく悪業にしこり続けるわたしと、他方そのわたしを抱き破り続ける阿弥陀仏の大業との間で、動的な平衡として現れているいのちが、信心なのです。信心はその中へ入り込むならば大悲のいのちの流れ、阿弥陀仏の願力の顕現で、大悲のいのちにおいて眺めたわたしは穴です。生命現象が仮に身体という動的な平衡のすがたを見せているように、誓願のはたらきがわたしにおいて信心と現れているのです。

情報というテーマとどうつながるのかわかりにくいでしょうか。言いたいのは、わたしの、あなたの、一切衆生の生きているすがたそのものが、誓願海に浮かぶメッセージだということです。

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弥陀のお慈悲はぬくいでのう。

因幡いなばげんさん(1842~1930)として知られる妙好人(真宗のおしえを生活の中で味わい喜ばれた人)の言葉です。真宗用語にひっかかりがあるなら、「生かされてるってあったかい」くらいに受けとめてもらえば十分です。

お手洗いに駆け込んで「やれやれ間に合った」とホッとして足の先からほわ~っとした心地が広がってくるみたいに、開かれいのちが流れ、それにまかせてくつろげたときにはほんわかと暖かい。味わってもらってこそのことで本来説明するのは野暮ながら、そこでどんなことが起っているのが眺めてみましょう。

物理的な熱は、状態量ではありません。状態量とはマクロな系において状態が定まるとそれに伴って決まる量なのですが、熱はエネルギー移動の過程について定義されるもので、異質なものが接し互いに状態が変化しているところにしか現れないのです。

対して熱さ・冷たさの尺度である温度は状態量です。きちんとした定義ができたのは19世紀に入ってからと最近のことながら、粒子のランダムなふるまい(熱運動)の度合いによって決まります。温度には下限があり、-273℃以下の状態は物理的にはあり得ません。-273℃を絶対零度といい、絶対零度ではすべての粒子が熱運動を止めて寝静まっていることになります。その絶対零度を0度として測った温度を絶対温度と呼びます。

高い温度については、数百度でものが燃えだし、数千度で鉄などの金属が融け、数万度くらいで原子核と電子とがばらばらになって(プラズマと言います)飛び回るようになります。もう常識的な意味における物質が物質の形をとっていられなくなるわけです。原爆直下では一瞬にして「蒸発(プラズマ化)」して消えてしまった人もあるはずです。ついでに言えば、数億度で核融合が起り、数兆度で核分裂が始まるそうです。

さて、熱に関して興味深いのは、熱の流れの向きは決まっていて、高温のものと低温のものとがくっつくと、必ず熱いものから冷たいものへ向かって熱が移動することです。熱力学の第二法則、あるいはエントロピー増大の法則といい、時がどうして未来へ向かってしか流れないかの根拠にもなっています。

エントロピーとはエネルギー energie に変化の意味のギリシア語 trope を添えて作られた語で、エネルギーの質の変化、乱雑さの度合いを表します。乱雑さが多いほどエントロピーは高くなります。きちんと整理整頓された部屋もほおっておくと次第に乱雑になりますが、乱雑なものが勝手に片づいていくことはありません。それがエントロピー増大の法則です。

マクロな状態における経験則でしかなかった熱力学に対し、ミクロな個々の粒子の状況と関連づけてきちんと説明できるようになったのが統計力学です。統計力学では、ある系のエントロピーを S、内部エネルギーを E、絶対温度を T として

dS / dE = 1 / T

(d は微分を示す記号、エネルギーを「ちょっと」変化させたときエントロピーがどれだけ変化するかという指標が絶対温度の逆数)

を温度の定義としています。

専門的なことをできるだけ省き、要点だけ取り出せば、ある系のエネルギーとエントロピーとの間には相観関係があって、それを取り出したものが温度だということです。

それをいのちのおしえに翻訳してみます。

エネルギーという用語は接頭語 en(内部)+ergon(仕事)からなるギリシア語 energeia に由来し、「物体内部に蓄えられた仕事をする能力」の意味です。これを「潜在的なはたらき」ととらえ、業に重ねます。同様にエントロピーは「エネルギーが質を変えることによって具体的に現れた乱雑さ」ですからそのまま業果、あるいは現実です。

dS / dE では温度の逆数になるので、便宜的にひっくり返して dE / dS とし、まず「わたし」という系で考えると、ちょっとした行い(業、dE)が我執で増幅されてさまざまな迷い(業果、dS)に結実しますから、分母が大きいため dE / dS の値は小さくなり、つまり温度は低いことになります。このときの温度は、開かれ度、救われ度とでも呼べるでしょうか。我執が強ければ強いほど開かれ度が低く、寒いところで過しているわけです。

続いて阿弥陀仏という系で見てみます。業は大願業力、一切衆生を救わんとの願力ですから絶対値が桁違いに大きい。なので「ちょっと dE」といってもありったけです。そして業果は浄土、あるいは今の話に合わせた響きで言えば一心です。現実として常に「このわたし」目がけてという単一の求心力のみ、もし変化しないと考えるなら dS = 0 で、開かれ度(というよりもこのわたしを開き破る度) dE / dS は無限大になります。浄土は熱いのです。(「熱い」が地獄を連想させるようなら、限りなく暖かいとでも言い直しましょう。)

往生、あるいは信心という契機を隔てる限りでの阿弥陀仏は、「このわたし」と無関係に自足しているような何かではなくて、このわたし目がけてのいのちのはたらきです。もしそういう言い方をするならば、衆生の数だけの阿弥陀仏がいらっしゃることになります。阿弥陀仏の生みの親は、このわたしの迷いなのです。ですからわたしとわたしにとっての阿弥陀仏とは、必然的に出会います。そして触れて開かれたら最後、熱は高い方から低い方へしか流れません。わたしの温度、開かれ度、救われ度が低ければ低いほど、たくさんの熱が流れてくる。

そして、そこで現れている熱こそ、歓喜です。わたしの内に収まる歓喜ではありません。わたしという迷いの冷たさに出会ってはじめて現れる、如来ありたけの歓喜です。

弥陀のお慈悲はぬくいでのう。生かされてるってあったかい。それは一方的なできごとなのです。

物理的な話を離れてまた違う話に、体感温度と温度計が示す客観的な温度とはずいぶん違います。晴れた冬の朝など、たとえば気温は2度だったとしても、どんどん暖かくなっているときには心細く感じません。逆に春先の曇った日、じわ~っと気温が下がっているようなときには、温度計は15度でも寒いものです。

いのちに出会い、いのちに破られ、いのちが流れる中、わたしの開かれ度がわずかずつでも上がる。その体感も、暖かさの一部です。

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物質と光

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ミラン・クンデラ(1929~)に『存在の耐えられない軽さ(The Unbearable Lightness of Being)』という小説があります。自分に都合よく言えば、「宙ぶらり」である人間の姿を描いた作品です。そしてそれを受けて、フランク・ウィルチェック(1951~)というノーベル賞物理学者が、『物質のすべては光(The Lightness of Being)』という啓蒙書を書いています。light が「軽い」「光」両方の意味をもつことにひっかけたタイトルです。「現代物理学が明かす、力と質量の起源(Mass, Ether, and the Unification of Forces)」と副題がついています。

現在の物理学では物質と力とが素粒子(あるいはその後ろのフィールド)という同じ土俵で考えられており、物質のイメージも一般人の感覚とはかけ離れたものになっています。大きなスケール(といっても原子くらい)で常識的(?)に物質というと、堅くて、重さ(質量)があって、場所を占めているものなのに、どんどん小さく調べていくととうとう堅いものはみつからず、物質と力とも区別できなくなったというところでしょうか。大ざっぱに言ってしまえば、物質も力もエネルギーのかたまりなのです。エネルギーに本来形はありませんから、物質はすべて見かけの姿だということになりす。

さてその上で、ここで考えたいのは光です。

物理的に、光は物質なのか。「質量をもつもの」が物質であると考えるなら、光(光子)の質量はゼロなので物質とは呼べません。物質とエネルギーとの区別を取り払ってしまうなら、光もエネルギーを持ちますから(あるいはエネルギーの伝達形式の一つですから)広義の物質に含まれます。しかし最初に紹介した本の邦題、『物質のすべては光』を、物質=光のように真に受けるのはむつかしそうです。わたしは書名に飛びついて読んだので少しがっかりしましたが、しかし大胆な訳です。ただ、物質が一昔前のような不変で確固としたものというよりは、自由に現れ方を変える柔軟ななにかでむしろ光に近いととらえられているニュアンスは原題にもあります。

見方を変えて、すべてのものは光を発している(輝いている)というのなら、何の問題もなくその通りです。光は電磁波であり、どんな物体もその温度に応じた電磁波を輻射しています。光っているように見えないのは相対的な話で、太陽の表面では周囲より温度の低いところが黒く見えますが(黒点)、そこでさえもし地上にもってきたら眩しくて目を開けていられない明るさです。その逆で、宇宙空間の何もないところですら、ビッグバンの名残とされる温度(絶対温度で4度くらい)を持っており、(人工的にしか作れない)もっと低い温度のものと比べたらほんのりと明るいことになります。

あるいは、透明とはどういうことなのでしょうか。目に見える光(可視光線)が素通りするものとは、電磁波である光と相互作用をしないものです。ふつうの意味での物質において電磁波と相互作用するのは、直接には電子です。自由電子がふんだんにあって電気も熱もよく伝える金属は、光もよく反射します。いわゆる金属光沢です。一方、ダイヤモンドの結晶では電子がすべて強い分子結合に動員されていて遊んでいる余裕がない。光と相互作用する(邪魔する)ものがないので、あんなに堅いのに透明です。

話を可視光線に限らなければ、たとえば素粒子の一つニュートリノは弱い力(相互作用)しか受けません。弱い力は素粒子一つ分くらいの距離しか届きませんから、それにつかまるのはほんとうに希なことになります。ですから地球でさえ平気で通り抜けます。ニュートリノに対しては地球も透明なのです。

現代物理学で重力、電磁気力、強い力、弱い力と4種類あるとされている力のひとつ。強い力は陽子と中性子をまとめて原子核を作っている力で、昔は核力と呼ばれた。グルーオンという素粒子によって仲立ちされ、ちょうど原子核の直径くらいの距離しか作用を及ぼさない。弱い力は原子核の 1/1000 くらいまでしか届かず、素粒子間の反応に関係する。ウィークボソンという素粒子による。

どの宗教においても、おそらく光は特別な意味を与えられているでしょう。場合によってはまさに非物質的なものの代表としてとらえられていることもあります。今光を物理的な意味で考えているのは、けっして仏教で語られる光をそのように理解しようとしているわけではなく、現在の物理学的な知見の中に、より深く仏教と出会っていく上での参考になる何かが見つけられないかという思いからです。

しかし、物理学的に正確な電磁波としての光には思う以上に参考になることがありません。光速度が一定であるという物理的には大きな事実もあるのですが、仏教的に翻訳してそこから何か示唆が得られるようにも思えない。現実的な光は、基本的にどこまでも比喩のようです。

浄土教における光明は阿弥陀仏の徳を表し、『仏説無量寿経』にはりょう光、へん光、無碍むげ光、たい光、炎王えんのう光、清浄しょうじょう光、かん光、智慧ちえ光、だん光、なん光、しょう光、ちょう日月にちがつ光と十二通りに讃えられています。その中で中心になるのは智慧のすがたとしての光であり、衆生の迷いの闇を破るはたらきです。

仏教で言う智慧は、知識と違うのはもちろん、合理、ロゴス、調和とも大きく異なります。非合理、混沌、あるいは神秘的直感などではたえてありませんが、もっとはたらきであり力です。また、無碍(さまたげられない)といっても相互作用なく透明に通過するのではなくて、さまたげるものを破り開いていく。いのちのおしえに照らしたとき、光明はどういう位置づけになるのでしょうか。

光明は、照らすもの、つまりわたしという迷いの闇と出会ってはじめて光明です。その意味で前項の熱、歓喜と似ている。

わたしの迷いが阿弥陀仏の一心に追いつかれ抱き取られたところに、信心のいのちが姿を現します。その信心の、わたしの側からのいただき心地が暖かさであり安心であるならば、同じ信心の、如来の側の歓喜が光明です。智慧と慈悲は裏表、わたしに届いた大悲は、そのままわたしの迷いを破った智慧の光明なのです。

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いのちがわたしを生きている

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ここまでたどってくださった後でなら、このタイトルに抵抗なくうなづいていただけると思います。

この言葉そのものは、平成23(2011)年、親鸞聖人の七百五十回大遠忌に際し、真宗大谷派さんが掲げられたスローガン「今、いのちがあなたを生きている」から借りたものです。わたしは新聞の一面広告で知り、「いい表現だなあ」とストンと胸に入って、以後ときどき人にも話していました。

あるとき、ある地区の人権学習連絡協議会の総会で講師に呼ばれ、始まる前の控え室、地域の名士ばかり十数名がいらっしゃる場で雑談に出したところ、お一人火になって怒り始めた方がありました。それまでも十人が十人にすっと伝わる言葉ではなかろうと意識していましたが、まさか怒り出す人があるとは予想していなくて驚きました。それ以後、積極的にいろんな場で紹介してみています。

仮に「素敵!」から「何となくわかる気がする」くらいまでを可、「日本語が変」から「わけがわからない」~「でたらめなことを言うな!」あたりを不可として、可か不可か二択で返答してみてもらうのですが、大人が中心であればよくて八割、ざっと九割前後の方が不可です。真宗寺院の法座でお参りの方に問いかけても、可の方が半分を越えることはまずありません。子どもたちが相手である程度話をした後でなら、問題なく三分の二以上は「わかる」と受けとめてくれるのですが。

そして五回あちこちで紹介する中で一人見当、聞くと同時にパッと顔が明るくなるくらいに喜んでくださる方があります。圧倒的に女性が多い。下は高校生から上は九十近いおばあちゃんまで、年齢はばらつきます。あるご婦人は「(いのちがわたしを生きているのならば)わたしはないのですね」と静かに問い返してくださり、「その通りです」と返答しつつ、その深いまなざしに身震いがしたこともあります。

一般的に言えば、ほとんどの人には通じないのですからわかりにくい表現だと認めなければならないでしょう。しかし、数は少なくても、説明も何もいらずにすっと伝わる人があるのも事実です。持って回ったような表現だと嫌う人もあるのですが、わたしはてらいのない素朴な言葉のように感じており、ためらわずにそのまま使うことにします。

受けとめ方が人によって大きく変るのは、いのちというできごととの出会い方の違いでしょう。大ざっぱな話、いのちを、自分の内で完結しているもので、わたしという主体にとっての属性のように思っているならば、「いのちがわたしを生きている」とはわけのわからない日本語であるはずです。しかしいのち云々の前に、そもそも「わたし」がそのような閉じただけのものではありません。閉じずにはすまないわだかまりの一方で、否応なく巻き込まれ関わり合っているつながりの中で支えられてもいるのです。

自分という鎧を着込み、自己責任・自己決定あるいは主体性という言葉に踊らされ、正しくあらねばならぬ、正しくあることができると力んでいるときは、その実窮屈で、柔らかくありません。思うようにばかりも動いてくれない自分の本来のあり様に寄り添ってみると、もともと自分とはほころびており環境にさらされているものだと知らされます。そうやって出会ったわたしの「外」を、わけのわからないもの、怖いもの、悪意を持つものと避けるのではなくて、わたしを支え生かす暖かいものと味わえたところに、わたしを包むいのちが現れるのです。

わたしの外なるいのちに触れるだけでも、わたしは開かれます。しかしただわたしを包むいのちであるだけでは、はたらきとしてはまだ弱い。まさにこのわたし目がけてのはたらきかけとして出会われたとき、大悲のいのちが立ち上がります。そしてそのはたらきが今ここに届いていると実感されたならば、わたしの小さなとらわれはすでに破り去られ、わたしは穴として現れます。

結局、大悲のいのちがただはたらいているのみ。ならばわたしは無用かというとそうではなくて、わたしの迷いがここにあってこそ、いのちははたらきを示せるのです。このわたしが目当ての、このわたしのための、このわたしにおいてこその大悲なのでした。

いのちがわたしを生きている。いのちは流れです。流れに身を任せてはからわずにいられるのは、何とも安心です。

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