いのちの見方

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いのちとは流れです。かたときたりともじっとしていることがありません。止まってしまったらその時点でいのちではなくなります。

ですから、第一義的にはいのちは迷いです。それを見失ってしまうと話はちぐはぐになります。間違っていのちを無条件に善きものととらえてしまうとアニミズムで、アニミズムでは救いに届かない。その意味でわたしは「千の風になって」もそんなに大した内容だとは思っていません。遺族にとって慰めあるいは癒しにはなるでしょうし、それまで否定するつもりはありませんが。

もちろん、いのちが一面でよろこびであることも確かです。しかしただいのちというだけで信頼するわけにいかないのは、そのよろこびが永続するものでないからです。まさに諸行無常。

真宗でよく知られている「白骨の御文章」に、

…いまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年のぎょうたいをたもつべきや。…

とあります。前半の「一万年生きた人の話は聞いたことがない」はいいのですが、それに続いて後半なぜ百年と出てくるのか長く意味がわからずにいました。実際、最近では百歳を超えてのご葬儀もままありますし。ところが詩人の伊藤比呂美氏が「百年間、老いずに生きた人が、これまでにおりますか」と味わっていらっしゃるのに出会い、ようやく納得できました。間違いなく、生きるとはそのまま老いることであり、そしていつか必ず死ぬということなのです。

伊藤比呂美『読み解き「般若心経」』(朝日新聞出版、2010年)による

あるいは、映画『三丁目の夕日』の主題歌「花の名」で有名なバンプ・オブ・チキンというロックグループに「Happy」という曲があって、

悲しみは消えるというなら 喜びだってそういうものだろう

というフレーズがあります。さらには

どうせいつか終わる旅を 僕と一緒に歌おう

とも出てくる。しかもこの曲はメンバーの誕生日を祝っての曲なのです。彼ら、仏教の心をよく知っているなあと思います。

そのような「苦」の側面をはずしたとしても、動くものではあてにできません。人に道を教えるのに、「この先ちょっと行ったらいつもネコが昼寝している家があるんでそこを右に曲がって、一町も歩いたら屋根にカラスの止まっている家があるからそこを左へ入って三軒目だ」などと案内したら落語です。

あてにできぬいのちがいのちのおしえと体系づけられるには、いのちの見方の工夫が欠かせません。実はすでに簡単に紹介しており、またこれまでその見方に頼って話を進めてきてもいるのですが、あらためて整理しておきましょう。たいそうゆうです。

何より、いのちを「流れ」と見た時点で、ゆうに依っています。用は仏教概論的に説明すれば「はたらき」を意味する語で、体と対にして体用たいゆうと使われると「体は花、用は匂い」のように付随する効果を指す場合もあります。細かく具体的な用例を見ていくと意味される内容はかなり多岐にわたり、必ずしもきれいに要約できるわけではないのですが、用を参考に、なにかある動きをはらんだできごとを問題にする場面では「流れ」という着眼の仕方をしてみると有効です。

流れを流れと見たき、あるいは流れがとらえられたとき、そのことは何かある背景のようなものを前提にしています。たとえば広い体育館の真ん中で家庭用の小さな扇風機を回したところで、その正面に立てば風が来ますが、それ以上何が起こるわけではありません。しかし八畳のリビングでストーブをたいて上ばかり暑くて足元が寒いとき、天井に向けて扇風機を回せば上の暖かい空気が降りてきて部屋中が暖まります。部屋に広がった流れができるのです。

このようにある流れに着目している場面で、その流れが成り立つ広がり、別ないい方をすれば流れを支えるための場、を、「全体」ととらえます。もちろん仏教で言う体を参考としたものですが、体も本質、本体など意味に広がりがあり、場合によっては実体に近い意味で使われていることもあります。しかし仏教が無我説に立つ以上、変らぬ本質をもって確固として実在するものという意味でないことは間違いありませんから、言うならば体の響きを少しゆるめて、全体と受けとめようということです。

体・用などと持ち出すと、場違いに大げさに感じられるか、あるいは古くさい話のように思われるかもしれません。ところがそうでもなくて、日本語の文法で体言たいげん用言ようげんというのと感覚はまったくいっしょです。日本語の文法など興味のない人の方が多いでしょうが、日本語を使っている時点ですでにそういうとらえ方をしているということです。さらに、体言・用言は日本語独自の言語現象というわけではなくて、基本的にはそのまま英語やサンスクリット語など他の言語にも持ち込めます。つまり、言語活動そのものにそなわった特性なのです。

体言とは「独立語で、活用をせず、文の主語となり得るもの」を言い、名詞を主とする。用言は「独立して述語となることができ、語尾の活用するもの」で動詞・形容詞を指す。なお、用の読み「ヨウ(漢音)」「ユウ(呉音)」は時代の違いで意味の違いを反映したものではない。仏教では慣例的に「ユウ」と読むが、「ヨウ」と読んでもらっても問題はない。

基本的には重なる言語の特性が、ギリシャ語やラテン語では論理と取り出されてことばのおしえの根幹を支え、日本語ではそのままいのちのおしえの感覚に連なっていることになる。これを、「言語が違うから思想が異なる」というふうに考える人がある。いい方を変えれば、「日本語でなければ/日本語では表せない思想がある」ということになるが、わたしはその考えは採らない。思想・文化の差につながるのは自然環境の違いであろう。

全体は、何を問題にするかによってかなり自由に変わります。全体と流れがうまくかみ合ってそろうと、その中で特定の現象が見かけ上静かにあらわれることがあります。生命の項で触れた「平衡」が実現されたときです。それを相に相当する着眼点とします。

いのちを見つめ、出会い、そしてその中へと入りこんでいくに当たって、体・相・用にかりて全体・平衡・流れという見方に依ることにします。ただし、体:全体、相:平衡、用:流れと必ずしも一意に対応するわけではありません。たとえば川の流れにしても、雨が降って地に浸み、わき水として流れ出し、川と集まって海へ至り、また雲と昇って……という循環系の総体をイメージしたならば流れそのものが体(全体)となりますし、川のある一部分において入ってくる水と出て行く水との釣り合いが取れ、その川がたとえばナイル川と呼ばれる川として静かに現れているのを見るならば相(平衡)、そして流れそのものの感触あるいはその効果にとどまれば用(流れ)として出会うことになります。とにかく、固定したものではないのです。

ただ、大ざっぱな指針として、体(全体)をこころ、相(平衡)をすがた、用(流れ)をいのちと見ていこうとはしています。ですから生物学的な生命を物質の流れ、人間的な共感を思いの流れ、そして宇宙的な感動を歓びの流れとたどってきたのです。

そのように準備をととのえたならば、小は物理学の対象であるような一原子から大は大悲にいたるまで、あらゆるところにいのちを見ていけるはずです。そしてそうやっていのちを見つめていく中で、人間中心主義の根幹にある自己中心の考え方が、静かに柔らかいくつろぎへとほぐされていくことでしょう。

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漢訳仏典中の命

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ところで、「命」は実は仏教語ではありません。

仏教をいのちのおしえと紹介しようとしているのですから食い違うように思われるかもしれませんが、仏教に「いのち」に相当する概念のようなものがあって、それを核として体系化されているということではないのです。ことばのおしえに照らしたとき、その隅から隅までがいのちを離れていないという意味において仏教はいのちのおしえです。

しかし無用な混乱を避けるためにも、一応漢訳仏典の中で見られる命の意味を確認しておきましょう。

まず、「帰命」のようにいのちとは直接関わらない用例は除外します。漢字としての「命」は本来「みこと(神や目上の人からのさしず)」の意であったことによるものです。

そうすると残りは大きく二系統に分けられます。圧倒的に多いのが「寿命、生涯」の意味の用例で、原語は āyus(アーユス)です。そのまま寿命と漢訳されているものだけでなく、命濁(āyuṣ-kaṣāya、アーユシュ・カシャーヤ))なども含まれます。また、原語では「死ぬ、生涯を終える」という意味の表現が「命終」のように訳され原語にない命が出てくる場合もありますが、問題はないでしょう。つまり、ほとんどの命は専門語としてではなく一般語として使われているわけです。

末世においてあらわれる避けがたい五種の汚れである五濁(劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁)の一。衆生の寿命が次第に短くなること。

もう一つの系統は「生活」あるいは「持続性」の意味で命が使われている例です。原語で考えるとこれも二類あり、一つは āyus の類語ともいえる ājīva(アージーヴァ)・jīvita(ジーヴィタ)の訳語です。代表的なものが八正道の中の正命(sammā-ājīva、サンマー・アージーヴァ)で、「正しい生活」の意です。あるいはもっとも専門語らしい用語に命根(jīvita-indriya、ジーヴィタ・インドリヤ)があって、命根はアビダルマや唯識において「こころのはたらきの持続性」を表します。

最後に残るのが nivāsa(ニヴァーサ)の訳に出てくる命です。ニヴァーサそのものは「とどまる」の意味で「住」と訳されることが多いのですが、宿命しゅくみょう(pūrva-nivāsa、プールヴァ・ニヴァーサ)「過去世での境涯」では命とされています。この用例は業「行為、おこない(と、それが後々尾を引く慣性のような影響力)」にも重なってきます。

漢訳仏典すべてを精査したわけではありませんから保証はしかねますが、以上でおそらく大きなところは押さえているだろうと思います。結局、一方で漢訳語に出てくる命を追いかけてもあまり得られるものはなく、他方仏典中のどの命も本書で提示しようとしているいのちと食い違うものではないと確認できたものとさせてもらいます。

ついでにまったく別の角度からの話も紹介しておくと、昔ある僧侶研修会で、無理やりにでも「いのち」とルビをつけられそうな仏教語を提示して賛同が得られるかどうか試したことがあります。順不同で縁起いのち衆生いのちいのち我執いのち生死いのち輪廻いのち無量寿いのち大悲いのちは一人以上の支持者がありました。今ならば涅槃いのち真如いのち信心いのちなども提案してみたいと思いますが、ある程度踏み込んだ解釈を前提にしていますので、何の補足説明もないままでどこまでうなづいてもらえるかは不明です。

それも含め、字面上「命」と出てくる用語だけでなく、すべての仏教語が何らかの意味でいのちと関わりを持っており、だからこそ仏教はいのちのおしえたり得るのだということは、ピントの狂ったでたらめな話ではないはずです。

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悪しき涅槃

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これまで何度か、涅槃には危険な側面があり、仏教徒でさえそこで足をすくわれてきたと書いてきました。その危険な側面を言わばやり過ごした涅槃の姿はすでに記述していますが、涅槃の危険さそのものも一度きちんと見つめておこうと思います。

ある意味仏教の代名詞のように受けとめられている用語に、くうがあります。『般若心経』の「色即是空、空即是色」で有名なあの空です。何ともとらえどころのない考え方で(「とらえるな」と言っているのですから当然ですが)、その否定的なニュアンスに飲み込まれ負けてしまうと、死にます。

仏教ジョークには、仏教の無我観を揶揄したものがたくさんあります。たとえば

世界の宗教家が集会をしている際に、火事が発生した。

キリスト教徒は胸の前で十字架を切り、聖書を朗読した。

イスラム教徒はメッカの方向を向き「アッラー」へ祈りを捧げた。

ユダヤ教徒は自爆テロだと思い震えた。

仏教徒は「火事は存在しない」として座り続けた。

事務員は消化器を取ると、火を消した。

のように。仏教をニヒリズムと思っている欧米人は少なくないはずです。

ところで東海道五十三次の背景になっているのは、大乗仏教で整備された菩薩の修行階梯である五十二位説だと言われます。下から順に十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚の五十二段階で、本来妙覚は仏のことなのですが、仏を妙覚の次に置いて五十三と数えたのでしょう。五十二位のうち、十信から十回向までは凡夫の位で、大ざっぱに言ってしまえば一般大衆を仏教の中に巻き込むための方便です。仏教を受け入れた人であるならば十回向までのどこかに位が与えられているという程度に考えてください。

『華厳経』「入法界品」で、善財童子が五十三人の師を尋ねた求道の旅に由来するという方が正しいようです。

続く十地が出家した聖者の位で、実際の瞑想を通じての具体的な感触を裏支えとしつつ、その位階に重ねて菩薩とはどういう境涯かをめぐっての仏教教理が展開されています。その中、七地と八地との間に大きな隔たりがあり、八地以降はもう決して後戻りすることなく必ず仏果に至る位とされます。

その、七地と八地とを隔てる一歩を、しち沈空ちんくうの難と呼びます。曇鸞どんらん大師の『ろんちゅう』には

さつしちのうちにおいてだいじゃくめつれば、かみ諸仏しょぶつもとむべきをず、しもしゅじょうすべきをず。仏道ぶつどうてて実際じっさいしょうせんとほっす。(菩薩は七地の中でそのさとりを得れば、もはや上に仏果の求むべきはなく、下に衆生の済度すべきものはないとして、仏道修行の道を捨てて、そこでさとりを終わろうとする。)

と出てきます。大寂滅も実際も、涅槃の異名です。さとりを開いてしまうと、それはさとりではない。菩薩の死である。それこそ禅問答のようになってしまいますが、まさにそういうことが問題になっているのです。

(476~542?)雁門がんもん(現在の山西省代県)の生れ。神鸞とも尊称された。四論や『涅槃経』の仏性義に通じ、『大集経』の註釈を志したが、健康を害して果さず、その後不老長生の法を求めて江南に道士陶弘景を訪ね、仙経を授かった。帰途洛陽で菩提流支に会い、浄教を授けられ仙経を焼きすてて浄土教に帰したという。東魏の皇帝の尊崇をうけ、并州(現在の山西省太原)の大巌寺に住し、後、石壁山(現在の山西省交城北)の玄中寺に入った。その後、汾州の平遥(現在の山西省汾陽)にあった山寺に移り、ここで入寂した。天親菩薩の『浄土論』を註釈して『往生論註』二巻(『浄土論註』ともいう)を著し、五念門の実践を説き、浄土教の教学と実践を確立した。著書は他に『讃阿弥陀仏偈』一巻などがある。真宗七高僧の第三祖。

空は、仏教で言う智慧と慈悲の、智慧の面に関わる実践です。対象知を内容とする知識とはまったく異なるどころか逆向きのもので、みずからのとらわれを壊していく作業であり、否定のはたらきが主です。りゅうじゅ菩薩によって体系化され、縁起、無自性と同じ内実であるとされますが、体・相・用を適用するならば、全体としては無自性、平衡としてのあらわれが縁起、そして流れとしての壊し続けるはたらきが空となるでしょう。

(150~250頃)梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。南インドの生れ。大乗仏教の教学の基盤を確立した。インドはもとより中国・チベットなどにおいても最も大きく取りあげられ、日本では古来、八宗の祖とされる。また『十住毘婆沙論』の「易行品」を著したことで浄土教の祖師とされる。その他の著作に『中論』『十二門論』『大智度論』等がある。七高僧の第一祖。

いい方を変えるならば、空とは体へ帰るいとなみです。

空は śūnya(シューニヤ)の訳語で、数字の0(ゼロ)と同じ語です。空の思想が応用されてゼロが考案されたというつながりはなく、ゼロは商人たちの間で独立に生れたようですが、感覚的には大きく共通します。たとえば 2013 は車のナンバーであればニ、ゼロ、イチ、サンという4つの数字なのに、年号として二千十三と読めば、0はその裏の位取りのシステムを透かし見せていることになります。何もないことによって全体を見せているわけです。その位取り法によって 2、0、1、3 が内的につながれ、二千十三という1つの数に現れるのです。

あるいは、子どもたちに「鼻ってどれ?」と聞いてみることがあります。みんなきょとんとしながらも、自分の鼻を指さしてくれる。「なら、鼻を持ってきて」と続けます。だれも最初は顔の真ん中の出っ張りのことを考えているわけですが、鼻は何のためにあるかと言えばにおいを嗅ぐためだから頭を置いてくるわけにいかないし、それに鼻は顔についているからいいので間違ってお尻についていたらトイレの度に大変です。ということは、結局身体全体を持っていかないと鼻をちゃんと持っていったことにならない。

ところがわたしの身体だってそれ自体で完結しているわけではありませんから、食べもの(環境)からあるいは心からみんなついてくる。そうやって広がっていき、とうとう宇宙の全体に行き着きます。鼻へのとらわれを離れるとはそういうことなのです。

そんな風に考えていると、あるとき、ほんとうに宇宙の全体と出会います。もうそれ以上の広がりはない、まさに宇宙のありたけが、一つにつながった全体として忽然と現れる。涅槃、大寂滅です。もう諸仏も衆生も見る必要がない。さとりの完成です。

しかしそれが、菩薩の死なのです。

なぜか。いのちを見失ってしまっているからです。いのちは第一義的に迷いです。さとりを完成して迷いを捨ててしまったら、それはいのちを忘れたことで仏のさとりではありません。さとりの終わりです。

智慧は迷いを許せません。つまり空は、それだけでは小さいさとりへ至り着いてしまい、仏のさとりへの道を閉ざします。だから縁起と共でなければならないのです。縁起は見かけの迷いを許します。つまり、縁起は慈悲の具現です。

しかし迷っているわたしが迷いを認めてしまったら、さとれないどころか仏道修行自体ができないではないですか。

もちろん、話は迷っていることにすら気づかないでいる凡夫の世界のことではなくて、事実上迷いの衆生と仏の境涯とを分ける裂け目に面してのことですからわたしたち凡夫にうかがい知れることではありません。しかし涅槃の危険性とはそういうことであり、それはわたしたちにも関わることなのです。「さとりのことなど仏にまかせておけばいい、わたしたちの出る幕じゃない」などとうそぶいてしまったら、その時点で救いは永久に閉ざされます。

のるかそるか。

そこに、大乗仏教が出現しなければならなかった必然性があります。

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