いのちって何からできている?

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いよいよ本論です。まず手始めに、一般論としていのちを概観してみましょう。

しかしいのちはある意味身近すぎ、かえって考えにくい面があります。ただ「いのちって何だろう」では言葉がすべってしまってひっかからない。それで講演などで最近使い始めたのがタイトルの問いかけです。

変な問いです。そんなこと考えてみたこともなかった、という人がほとんどでしょう。ぱっと聞くとピント外れに感じるのに、少し考えてみると、案外意味があるのかもしれないような気になる。そんな印象でしょうか。そのように感じてもらうのが目的なのですが。

この問いかけそのものへの返答を待つことはあまりありません。ですから具体例をたくさんは知らないのですが、一番多いのは「食べ物」です。老若男女、比較的まんべんなくそう答える人があります。面白いところでは「星のかけら」と答えてくれた小学校二年生の男の子がいました。(この子は毎月一回短い話をさせてもらっている養護施設の子で、いつか「わたしたちは星のかけらからできているんだよ」と話したのを覚えていてくれたようです。)高校生~壮年層の男性に多いのが「細胞」「遺伝子」といった生物学的な答えです。「感謝」も数回ありました。みんな女性でした。そのほか覚えている範囲では「愛」(男女各1)、「思いやり」(高校生女子)、そして「うた(歌? 詩?)」(女性)、「笑い」(男性)といったところです。なお、続けているときっとあるだろうと思いますが、今のところ「魂」の類には出会っていません。

けっこうばらつくものです。というより、一般論として「いのち」を考えるに当たって、まず気づいて欲しいことが「いのちには幅がある」ということなのです。みんなが同じもの(あるいはできごと)をイメージしているわけではない。

ふつう、上の質問は投げかけてほんの少し(一呼吸か二呼吸くらい)待って、すぐ「じゃあ、問い方を変えて、いのちに一番大切なものはなんだろう」と続けます。もともとはこの「いのちに一番大切なもの」から始めていたのですが、少し工夫するようになったわけです。

これにはわたしの方から選択肢を提示します。①食べ物、②思いやり、③感動です。最後の感動は、最初期には「祈り」としていました。しかし真宗教団内には現世祈祷を嫌うことから祈りという用語を忌避する風潮があり、多少それに妥協するようなかたちで「希望」に置き換えて数年使ってみたのですが、少しピントがずれている感じがぬぐえず、ここ二年ばかりは感動で通しています。

さて、いのちに一番大切なものは、食べ物、思いやり、感動のどれでしょうか。

下は小学生から上は米寿のお祝いの敬老会まで、いろんな人を対象に聞いてみると、年齢的に大ざっぱな傾向があります。小学生は八割からときによってはほぼ全員、感動に手を挙げます。年齢が上になるほど食べ物が増える。思いやりはあまり年齢に影響されずほぼ一割弱くらいの割合で支持される。福祉団体の研修会など特殊な場では半分を超えることもありますが。そして感動を選ぶ人が一人もいなかったことはなくて、思いのほか男性受けがいいようです。

ある中学校でいつも通り話を進め、「①、食べ物だと思う人は?」と挙手をうながした瞬間、正面中程に座っていた二年生の男子が手は挙げないまま「どれもる!」と必死の叫び声をあげてくれたことがありました。そうなのです。「すべて必要」が正解という意味でなく(そうであるならば何が「一番」大切かという問いかけが変だということになります)、一面的にはとらえられない広がりをひっくるめて、「いのち」という一つの言葉で呼んでいるということに注意を喚起するのがこの質問の意図なのです。

選択肢の表現はまだ改良していく余地が残っているとしても、はたして三項だけで尽くせているのかどうかは定かでありません。しかし五年ほど同じ問いかけを続けている中で、吟味は絶えず重ねているのですが、今のところ致命的な何かが欠けているという風には感じていません。ですので根拠なく、とりあえずこの三項で話を進めます。

食べ物で支えられているのは、生きるいのち、生物学的な生命です。現在、地球上で生れてくる(人間の)赤ちゃんの、三人に二人は無事に大きくはなれないと聞きました。先進国であるならばいのちを落とすことはない病気でというのはまだいい方(?)で、単に、十分に食べるものがなくて育つことのできない赤ん坊が半数を超えるとのことです。とても看過できることではありません。

しかし、生命さえ維持されるならばそれで十分かというと、そうもいかない。人間である以上、ただ生きるだけでなく、人間的に生きるということも重要でしょう。それを重視したときに選ばれるのが思いやりです。そこでとらえられているのは、つながるいのち、支え合ういのち、人間的な共感です。いじめという悲しい出来事を通じて窒息しているのはこのいのちです。

その上でなお、生きものとして生き、人間として生きてすらまだ触れきれないいのちの側面が残ります。世界の中心で愛を叫ぶしかないとき、満天の星の下で息をのむとき、息を引き取るまさにその時に静かに微笑んでいられるとき、わたしたちはまた違ういのちのに出会う。おおきないのち、よろこぶいのち、宇宙的な感動(あるいは少し響きをおとなしくすれば歓び)とでも呼ぶべきいのちです。大人になると気づかぬうちに忘れてしまっているのですが、子どもたちにとってはほんとうは身近なことです。そのような機会さえ与えられていれば。

わたしたちは実はこのような多面的ないのちを生きている。最後のおおきないのちが仏教的な真理観へとつながりやすいように意識されているのは事実ですが、どこまでも一般論として、そうです。

ところで、食べ物からできているのは考えてみればわたしたちの身体からだです。身体で支えているいのち、生命あってこその話としても、身体がいのちそのものとは思えない。そして思いやりからできているのはわたしたちの心と言えそうです。ということは、いのちそのものは感動からできていることになる?

これから、とりあえず一般論的に、それぞれのいのちのすがたを見ていきましょう。

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生命

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岩波の『理化学事典』によれば、生物は「エネルギー転換を行い、自己増殖し、かつ自己保存の能力をもつ複雑な物質系」と定義されています。生命現象を、代謝と繁殖そして生体維持の三面でとらえ、また生気のような非物質的なものとは切り離していることは読み取れるにしても、この定義では素人にはとりつく島がありません。

ところで一方、わたしたちは生きているものとそうでないものを、一目で区別できます。よくできた造花を遠目に見間違えたりはしますが、手にとってみるならば、生きているもののみが持つみずみずしさ、柔らかさ、あるいはリズムのようなものがそこに感じられないのは確かです。

今関心があるのは、「この身体で生きている」ことの中に現れている生命です。ですので自己増殖の面ははずして考えます。繁殖は個体に対するしゅのレベルでの主題で、問題点が少しずれるからです。代謝と生体維持の反応を通じて、わたしたちの身体はどういうできごとと見えるのか。しかもそれを、学問的に正確にというよりは子供でも直感的にうなずくことができるような形で、とらえてみたいと思います。

わたしたちはなぜものを食べるのでしょうか。成長期であるならば、まさに身体をつくるためといった感覚で受けとめることができます。しかしすでに成長を終え、本来であるならば体重は変わらないはずの時期に(メタボとか運動不足とかは無視します)、どうして食べ続けなければならないのか。おそらく、エネルギー補給のため、と考えている人が多いだろうと思います。ガソリンが切れてしまったら車が走れないように、わたしたちには活力のもとが要る。

それは確かに代謝の一面です。食物として摂取した化学的エネルギーを体内に貯蔵しておき(同化)、それを消費することで必要な活力を生み出す(異化)。ほとんどガソリンを燃やして車が走るというのと同等なイメージです。

ところが20世紀中盤の生化学は、わたしたちの身体において、現実には上のイメージをひっくり返すようなことが起こっていることを明らかにしました。

ルドルフ シェーンハイマー「生体構成物質の動的状態」(ハーバード大学出版会、1942)による。もともとは講談社現代新書1891、福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』を通じて知ったことなのですが、福岡氏の話の進め方と少し変えているところもあり、元ネタと思われるこちらで参照しておきます。

第一に、食べた栄養物質のうち、実際に燃やされたものよりは身体に取り込まれたものの方が多いのです。体重は変わりませんから、取り込まれたのと同量のものが身体から外に出されていることになります。つまり食べ物は、活力源になる以上に、わたしたちの身体を「置き換え」るために使われるのです。

どうしてそんなことがわかったかというと、重窒素 15N を使って合成したタンパク質を餌として実験動物に与え、排泄物もすべて回収しておき、後で食べたタンパク質がどこへ行ったかを追跡したのです。タンパク質が分解されるとアンモニアができ、アンモニアは尿素になって尿中に排泄されますから、与えたタンパク質がエネルギー源として使われたのならば、ほとんどが分解物質として尿の中に出てくるはずです。ところが尿中に追跡できたのは 1/3 から半分弱で(与えたタンパク質の違いによって差がある)、残りのほとんどは筋肉などのタンパク質として体内に組み込まれていました。

しかも、与えたタンパク質とは違うタンパク質にもなっているのです。タンパク質はアミノ酸という小さい単位が集まってできているのですが、ロイシンとして与えても、ロイシンだけでなくグリシンやグルタミン酸など、リシンを除くすべてのアミノ酸に重窒素が追跡されました。つまり、食べたタンパク質はアミノ酸よりも小さいところまで分解され、身体の構成要素となるさまざまなタンパク質に合成され直していたわけです。身体のタンパク質の総量は変わっていませんから、その分もとからあったタンパク質は追い出されています。

さらに、ありとあらゆる生体内の化学反応は、出発物質さえあれば絶えず行われていることもわかりました。あるアミノ酸がすでに十分ある場合でもそのアミノ酸は合成され続け、一方で等量が分解されます。リシンのような一部のアミノ酸は動物体内では合成することができず外部から補わなければならないのですが、たとえリシンが不足していたとしても容赦なくリシンの分解は進みます。

わたしたちが成長を終えた後もものを食べ続けるのは、身体を維持する材料不足に陥らないためだったのです。実際、餓死はエネルギー不足としてではなく、生体活動を維持していくために欠かせない特定物質の枯渇として訪れるのだそうです。

わたしたちの常識的な身体観をくつがえすもう一つの知見は、わたしたちの身体は一時もじっとしていないことです。

もし「いつからその身体で生きているのか」と聞かれたならば、「生れたときから」と答える人がほとんどでしょう。しかし細胞レベルで考えたとしても、生れたときから変らずそのままでいるのは神経細胞などごく一部です。さらに細胞を作っているタンパク質などに目を移せば、生れたときからどころか一年前と同じというものすらほとんどないでしょう。

そればかりか、今わたしの身体を構成しているタンパク質たちでさえ、ひっきりなしに分子レベルでの交換をしているそうです。あるとき足の指先のタンパク質にあった窒素原子が、半日後には耳の一部になっているということが平気で起っているらしいのです。

このあたり、正確な時間についてはよくわからないのですが、飢餓状態のラットに重水(通常の水素の代わりに重水素 2H からできた水)を注射し、24時間後にタンパク質から単離したアミノ酸はリシンを除いてすべて重水素を含んでいたそうですから、活性の高いところでは数時間で置き換えが起るのは間違いないでしょう。またウサギのけんですら活性が見られるとありました。骨や歯となるとさらに活性は低いでしょうが、決して庭石のように静かにじっとしているだけではないのです。

わたしたちの身体は、たとえば家のように一度組み立てられた後は柱は柱、床は床、屋根は屋根と動かず静かにとどまっているのではなくて、絶えず新しい材料と入れ替わり、さらには一つ身体の中でさえあっちからこっち、ここからあそこと物質が動き回っているのです。変らぬ同じ身体と見えるのは見かけの上だけでのことで、実際には外部環境にあった物質が食べ物として絶えず入り込み排泄物として出て行くという流れと、身体の中でも物質が動き回っているという流れと、二重の意味での物質の流れが渦巻いているのです。

代謝と生体維持は別のことではなくて、同じ一つのできごとを別な角度から見ていただけだったのです。実態としての渦巻く物質の流れの中に、生体が維持されているように見える。その全体でエネルギーの収支決算を取れば代謝ととらえられる。

相反する動きの釣り合いがとれて、見かけ上変らないように見える状態を平衡と言います。

たとえば、コップに水を入れて日当たりのいい屋外に置いておけば、いずれ水は蒸発してなくなってしまいます。しかし同じコップに同じ量の水を入れ、上をラップできっちり密封してしまえば、今度は水は減りません。ところがこれを、開けたところではさかんに蒸発するが密閉しておくと蒸発しないと考えると間違いです。温度が同じならば、屋外でも密閉されていたとしても、同じ激しさで水は蒸発します。密閉容器で水が減らないのは、蒸発していく水と同じ量の水が周囲の飽和した水蒸気から凝集しているからです。出ていく水と、帰ってくる水との釣り合いがとれて、見かけ上静かにに見える。

コップの中の水だけでなく、わたしたちの身体そのものがそういう動的な平衡状態にあります。一方で片っ端から壊されており、一方でやみくもに合成されている。(成長期を別にして、適量の食事を摂り体重が維持されている場合)それが釣り合って、生れたときから同じ身体を生きているように思いこんでいるだけなのです。

生物学的に見て、生命とは「物質の流れ」です。そしてその流れのただ中で動的な平衡として現れているのが身体です。身体を「舞台に」生命現象が営まれているのではなく、物質の秩序だった流れとしての生命が今の身体「として」現れているのです。

そんな中で、生命の表れとしての身体は、何らかの音を奏でているに違いありません。あるいは、光を放っていると言ってもいい。そんな音や光が、他の生命と共振する。それが、「生きものは一目でわかる」ということなのでしょう。

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共感

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続いて共感、つまり人間的な地平に現れたいのちを考えます。共感という用語は言ってしまうならば(内容というよりは表題のための)仮のもので、あまり座りがよくはありません。キリスト教的・仏教的両方の意味を離れた、ふつうの人がふつうに使う「愛」あたりが適切かなという気もするのですが、わたし自身使い慣れていないし、語義が広いだけに話はよけい混乱しそうです。

ということで見出しは共感のままにしておき、具体的な題材として、まずアフォーダンスを取り上げます。

アフォーダンス(affordance)とは「提供する」という意味の動詞アフォード(afford)を名詞化したもので、アメリカの心理学者ジェームズ・ギブソン(1904~1979)の造語です。ギブソンは、空軍パイロットの着陸時の視知覚研究から、知覚刺激は知覚主体が環境の中で動き、姿勢を変化させて「発見」するものだと考えるようになりました。

ギブソンによれば、環境の把握・行為・行為の環境への作用といった一連の過程は一つにつながっています。すき間を急いで通り抜けようとするときには、通り抜けられるかどうか、どのくらいの速さで通り抜けるのが適切かを、すき間が教えてくれる(アフォードしている)のです。

アフォーダンスは固定したものではありません。身体、あるいは身体をコントロールする技術が変わると、それに合わせて動的に現れ方が変ります。たとえば、ふつうならば「どうぞ開けてください」とアフォードしているドアが、利き手を怪我して使えないときには、「簡単には開かないぞ」とアフォードする意地悪な頑固者に変ります。

アフォーダンス理論は、意味や価値といったものがわたしの内側にではなく、環境の側にあることを教えてくれます。『〈心〉はからだの外にある』のです。共感というできごとが起る場としての心を、単に内面的・主観的なものとしてではなくもっと広げて、人と人との「間」で息づいているものとして見るために、アフォーダンスを借りた次第です。

書名です。NHKブックス1053、河野哲也著。アフォーダンスの紹介にとどまらず「『エコロジカルな私』の哲学」として示唆に富む本です。なお、アフォーダンスそのものはむしろNHKブックス931、茂木健一郎著『心を生みだす脳のシステム』ほかによっています。

あるいは、「自分とはドーナツの穴みたいなもの」と言った人もあります。周りがなければあり得ないものとしての自分。身体的な生命に対応する内容で You are what you eat.(あなたとはあなたが食べるところのものである)という表現があるのですが、それと韻を踏めば You are who you meet.(あなたとはあなたが出会う人たちのことである)と言えそうです。

上野はじめ氏。朝日新聞記者で、自身のがん罹患体験をつづった手記を朝日新聞神奈川版に連載し、後『がんと向き合って』(晶文社)として出版。朝日文庫から文庫化もされており、引用の文は文庫化に当たって奥様の高橋美佐子氏が寄せられた後書きの中で紹介されています。上野氏には一度取材を受け、一晩語り明かしました。

わたしは子どもたちに話をするのが大好きです。「子どもたち」というのは、ばらばらな子がただ寄り集まっただけのものではなくて、あえて言うならば「子どもたち」という一つの生きものなのです。たとえば百人を相手に「親と子は同い年」という話をするとします。説明してしまうとはっと気づく新鮮さは味わえませんからそんな野暮なことはせず、ヒントは小出しにするにしても、だれか(どこか?)が気がつくのを待ちます。コツがあるとすれば、「わかるとすごく楽しいよ!」という顔をして引っ張り続けていることでしょうか。すると、かならず、「あぁ」とパッと顔の明るくなる子が出る。面白いのはそれからで、波紋のようにその明るい感じが広がっていくのです(十分に広がりきらなかったら、そうなるまで待ちます。また違うところが明るくなって、いずれ全体がこれなら次に進んで大丈夫だなという明るさになります)。百人が百人わかる必要はありません。一人一人の子にではなくて、「子どもたち」に伝われば十分なのですから。

仏教関係の小話としては有名なものです。要点は、「親はいつ親になるのか」ということです。

聞き手が大人であっても根本的な事情は変わらないはずなのですが、あそこまでの感染力はありません。子どもたちは一人一人の輪郭が柔らかい分、全体に広がって生きている度合いが大きいのでしょう。そんな得体の知れないものと出会い響き合えるから、「子どもたち」に話をするのは楽しい。

ところで、積分のことをインテグラル(integral)と言います。ばらばらのものをただ足し合わせるときには Σ(シグマ、英語で「和」を表す sum の頭文字 s に対応するギリシャ語の大文字)なのですが、積分記号∫(インテグラル、s を上下に引き延ばした記号)はカクカクせずになめらかです。それがけっこう本質を表しており、積分は「なめらかにつながっているもの」を総体として一つに取り出す計算法で、たとえば面積を足し合わせても面積のままですが、積分すると体積になるように次元が一つ上がります。なお、インテグラルはもともと「(全体の一部分として)絶対必要な、不可欠な、(他と)一体をなす」という意味を持つ語です。

本来個々人の「内面」に閉じこめられているのではなくてむしろ各人の「外」に広がっているさまざまな思いを、積分するかのように融かし合わせて出会われるある全体。それを心ととらえましょう。どの範囲をくくるかによって、家族、学校のクラス、地域などから人類まで、いろいろな広がりの心を考えることができます。

ここでは人間的な場で考えていますが、先に考えた「こころ」と、方向性はいっしょです。

そのようにしてわたしたちを覆って広がっている心は、さまざまな思いの渦です。ときにはぶつかり合い打ち消し合い、ときには共振しと流れかう思い。そんな思いの流れを、人間的ないのちの実際としての共感と呼んでおきます。

学校関係の講演で、ときに、いじめの問題にも踏み込んで触れて欲しいと依頼されることがあります。そんなとき、仮に学校を○×小学校として、「○×小学校が生きていると考えてごらん」と振ります。さらに、「もっと小さく、○×小学校の『あなたのクラス』が生きていると考えてみようか」と続けて、「『あなたのクラスさん』は元気?」と問いかけると、そのときの子どもたちの反応で、あらましの状況は把握できます。

いい楽器からはいい音が出、ひびの入った楽器からはひびが入ったような音しか出ないように、心がきれいにひろがっていればそこに響く共感もゆったりとしたものになり、あちこち穴や流れの悪いところがある心はそのような共感しか支えられません。人間的ないのちである共感を深く響かせるためには、一人一人が不可欠インテグラルな成員としてゆったりとしたつながりの中にあり、そこから豊かな心が積分インテグラルされていることが前提なのです。

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感動

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そして最後、宇宙的ないのちとしての感動に進みましょう。「感動」も前の共感同様担わせたい役割の方が先にあって、語義は二次的です。つまり、感動という言葉の意味を考えることからでは何も始まらず、どんな響きをこの言葉に乗せたいかということの方が問題なのです。

いのちを、仮に三つの側面から見てきています。まず吟味したのは生物学的な生命で、生命は自然科学で研究できるいのちです。続いて考えた人間的な共感は、ヒューマニズム的な関心に対応したいのちと言えるでしょう。ならば自然科学、ヒューマニズムで手の届ききらないいのちとは何か。それは、何のために生れてきたのか、なぜ生きているのかといったみずからの根源的な意味に関わるいのちです。それを感動ととらえようとしているわけです。

ですから、「感動の対面」のような人間ドラマ的なものはここでは一旦除外し、むしろ(いい意味での)孤独が問題になるような感動を考えてみたいと思います。

わたしは根っからの父親っこで、小さい時分、家にいることが多くて畑仕事をしたり山の手入れをしたりして過していた父親のそばにくっついて離れませんでした。おそらく小学校に入学したかしないかくらいの頃、はっきりとは覚えていないのですがおぼろな印象に季節は春先で、芽吹いた大根を父がしゃがんでまびいていたときだったように思います。同じように近くでしゃがみこんで手遊びをしていたわたしに、父が言ってくれたことがあるのです。

その頃わたしはとも坊と呼ばれていました。仕事の手をふと止めた父が、わたしの方に向き直るというのでなく、半分独り言のように、「とも坊。宇宙は無限なんよ。じゃからね、どこをとってもそこが宇宙の真ん中なんよ。」

意味がまともにわかったはずはありません。しかしそんなこととは関係なく、見慣れた山里の景色が突然キラキラし始め、そしてそのままきゅーっとわたしを抱きしめてくれたかのようでした。暖かくて、嬉しくって、懐かしかった。

感動がどんなできごとなのか踏み込む参考に、燃焼という化学反応を考えてみます。たとえば炭が燃えるとき、炭素と酸素が C + O2 → CO2 と反応し、二酸化炭素になります。固体の炭素と酸素分子が別個にあるよりも、二酸化炭素の分子として組み替えられた方が安定で、結合エネルギーが小さくて済みます。その差額が熱として放出されるのです。

感動が暖かいとすれば、何かそれと類比されるようなことが起っているのではないか。

第一に、「わたし」とは固定したあり方ではないことになります。わたしが固定していたのでは感動という動的な、そして意味を生みだすようなできごとなど起こりえない。そして、感動の前と後とで、わたしは別の姿になっているはずです。

その上で、宇宙は歓びに満ちているとイメージしてみます。ただ、エネルギーが宙に浮いてではとらえられず、まず物質として封じこめられ、さらにその位置や運動あるいは化学的な状態などとして潜在しているように、歓びは常に自由に流れわたっているわけではなくて、「わたし」という形にいわばしこっている。そうすると、平素のわたし、毎日の生活に埋もれているときのわたしとは、流れがとどこおり歓びがわだかまった様だということになります。

わたしたちの現実として、わだかまりは、次第に大きくなります。上昇気流が条件さえととのえば台風へと育っていくように。そして抱え込んだわだかまりが大きければ大きいほど、わたしは不安定な状態に置かれていることになります。

何かのきっかけでそのわだかまりが「解放」されたとき、わたしはより安定な(わだかまり度の低い)状態へ復帰することができ、解き放たれた歓びが、本来の姿で輝く。それを意味あるいは暖かさとして味わうのでしょう。感動をそんなできごととしてとらえることができるならば、感動とは歓びの流れです。

わたしのつれそいの里は四国の観音寺で、今では橋で三系統つながっていますが、結婚当初はどこかを船のお世話にならなくてはなりませんでした。山口県側とであれば柳井~松山間のフェリーを使い、京都との行き来では宇高連絡船を使ったものです。わたしは山育ちですから船に乗るのは楽しみで、天気が許せばデッキへ出てぼーっと海を見ていたものです。

あるとき、これは船室からでしたが、沈んでいく夕日がきれいで、頬杖をついて夕日のある海の景色を見ていました。赤い夕日の下の縁が今にも水平線に届きそうで、その夕日からわたしのところまで真っ直ぐ輪郭のにじんだオレンジ色の帯が伸び、視界の全体がちらちら、キラキラと揺れていて、その中に浸っていたときにふと思いました。キラキラしているのは何だろう?

沈みゆく太陽が瞬いているのか。そうとも言えそうだけれど、どこか違う。なら、海? 水面のさざ波がちらちらキラキラの元で、それがずっと向こうまで続いているのは目の当たり確かなのに、海はたださざ波だっているだけ、そういう気で見つめてみるとすでに暗くて意外に素っ気ない。なら何が? と思ったときにやっとわかりました。キラキラしていたのはわたしだったのです。でもそれは、わたしであってわたしではない、海のさざ波たちとたわむれ、その向こうのお日様まで届いているようなわたし、逆に言えば赤い夕日が勝手に遊んでいるような、キラキラでした。

感動に際して、わたしたちは破れます。破れることで握りこんでいた歓びを宇宙へと帰し、放されたことで歓びが歓びとしての本来の姿を現しているのです。さらに感動のなか、実はわたしは消えています。なくなっているという意味ではなく、「わたし」として完結できません。破れているのですから。そうやって、丸裸以前のわたしが全宇宙的な歓びに曝される。ですから、感動とは徹底的に孤独なできごとです。

もちろんそれは、社会的な孤立などとは違う質のできごとで、そこでわたしが新しいわたしに生れ直すような、この歓びは新しいわたしと出会わなければ歓びと現れることができなかったのだというような、暖かい、孤独です。そしてそのような孤独を含む感動こそ、人間中心主義の底を破る力になります。

正確に言うと、話は微妙に逆なのかもしれません。自分を取り巻く環境を(それはローカルなアニミズム的なものであって構いません)暖かく歓びに満ちたものと受け入れられていてはじめて、わたしたちは豊かな孤独に出会え、また人間中心主義に陥らずにすむのでしょう。

その上で、一旦除外した人間ドラマ的な感動を再考してみます。

アメリカの大学女子ソフトボールの決勝戦で、四年生の選手が、生れて初めてのホームランを打ったそうです。ところが一塁を回ったところで膝を故障してしまい動けなくなりました。チームメイトが助けたり選手交代した場合、ホームランは無効になります。彼女にとって4年間で初めてのホームランでしたが、他に選択肢はないと思われました。そのとき、彼女を抱えてホームまで運んで行ったのは…… 敵チームの選手だったのです。

女子の試合で起こったちょっといい話

「人間って素晴らしい」と思わされるドラマです。しかしそこに、「人間であること」そのことの意味を問い直すような契機はありません。感動を通じてわたしが破られるにしても、そこを人間性が埋めたのでは人間の外に立てないのです。ヒューマニズムの底に潜む人間中心主義はほんとうに手強い。それを見逃さずにおくためにも、狭義の感動として、上で触れた暖かい孤独と重なるもののみを提示しておきます。

いのちそのもの、今生きているということの意味の発露を、わたしは感動に求めます。いのちとは流れです。身体的生命は物質(食べもの)の流れであり、人間的共感は思い(思いやり)の流れでした。そして今、宇宙的感動を歓びの流れとして位置づけようとしています。食べものでできているのが身体、思いやりからできているのが心、ということに合わせるならば、いのちそのものは結局歓びからできていたのでした。

なおここでの感動は、仏教的な感覚を広く下に敷いてはいますが、仏教とは独立に記述しています。つまり、宙ぶらりである限りのすべての人に届く話であり、また仏教すなわちいのちのおしえの「救い」には触れていない、どこまでも一般論としての感動です。

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三つの相

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いのちの一般的な概観として、生命、共感、感動と三つの相(すがた)を見てきました。もう一度簡単に、その関係をふり返っておこうと思います。

何より、生命以外は自然科学的な意味で実証できるものではありません。共感で少し触れたアフォーダンスは緻密な実験に基づいて組み立てられた理論でその成果がロボット工学などに応用されてもいますが、共感そのものはそこから大きく離れています。感動に至るとなおさらのこと、トータルでは実証どころか十分に理論的ですらない、言ってしまうならば単なるいのちの物語です。

ですから話がどちらへ向かおうとしているのかときに確かめておかないと、わたし自身が見失ってしまいかねないのです。

いのちの物語といってもわたしが創作している話ではなくて、わたしはむしろ最初の読者です。実際、似たようなことをいのちから聞き取って書きとめている人はたくさんあります。

たとえばアラン(1868~1951)に、エラン・ヴィタール(生命の飛躍)、エラン・ダムール(愛の飛躍)という言葉があります。単なる物質の地平から「生命」が現れるところ、そしてその上にさらに「人間性」が立ち上がってくる局面をとらえたものでしょう。

本名エミール=オーギュスト・シャルティエ。フランスの思想家、モラリスト。現代のソクラテスと呼ばれることもある。

その尻馬に乗って、人間性(共感)のさらに上に感動の天空が広がるとするならそれは何の飛躍によるのだろう、意味の飛躍? などと考えていた頃もあるのですが、生命-共感-感動は、そのような垂直方向への積み重なりではないようです。

仏教に二種世間という考え方があります。世間は基本的には迷いの境界のことですが、浄土(仏国)の形容に使われることもあります。ここでは「いのちの具体的な現れ」くらいに受けとめておきます。その世間を、けんしゅじょう世間の二つにとらえるのが二種世間です。器世間(bhājana-loka、バージャナローカ)とは文字通り噐、容れ物としての世間で、衆生にとっての環境、山や川などから植物までが含まれます。器世間に包まれている衆生の総体が衆生世間です。

物質エラン・ヴィタール生命エラン・ダムール人間性(理性)と垂直方向に階層づけて見る視点は、俯瞰的であり、いのち的というよりはどこかことば的です。対して二種世間は、衆生が同類たちに囲まれ環境に包まれてという見方ですから、言うならばエコロジカルで、よりいのちに親しいものです。

生命・共感・感動が、そのまま二種世間に翻訳できるわけではありません。しかしそのエコロジカルな感覚にならうならば、共感といういのちのすがたを真ん中に据え、環境とは言えませんがいわばその条件として生命で周囲をくくり、さらに共感だけで窒息してしまわないよう感動で穴をけておくといった位置づけができそうです。

単に条件でしかない身体的な生命のみに縛られず、しかし人間的な共感だけで完結することもない、宇宙的な感動にも触れたいのち。それを基準にいのちの物語をたどっていきましょう。

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