宙ぶらり

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人間とは宙ぶらりなことである。そう考えてみることにします。

それこそどこかふわふわして座りのよくない表現ですが、ことばのおしえ・いのちのおしえのどちらへ向かっても人間が位置づけられるようにと思ってのことで、一神教にも仏教にも触れる前のの人間の姿と受けとめてください。

宙ぶらりになる原因は、人間が精神活動をすることにあります。そしてこの宙ぶらりであることの解決が、救いです。解決は解消ではありません。ある真理体系の中に「宙ぶらりであること」が位置づけられ、意味を与えられることです。ですから宙ぶらりであることは救済にとって欠かせない要件となります。

今回は、いろんな立場で救いがどのように定位されるかを見ていきましょう。

ことばのおしえでは精神活動が理性に集約され、理性的な言語能力が別格の扱いを受けます。ただ、人間理性は完全ではなく、現実には不合理なことがたくさんあります。目の前の不合理と手の届かぬ完全な合理との間で引き裂かれている状態が、罪です。

その救いは、ことばたちの根源にある存在(=神)によって、いわば上へ向かって引き上げられるかのように究極の意義とつながれるという図式の中でとらえられるはずです。これを「上への超越」と呼んでおきます。人間は、ことばを通じて正しき意義の支配する国へ至るのです。

なお、一神教で人間が他の動物に優越した地位を与えられているのは、人間のみがことばを用いる存在だからです。動物はことばと無縁であることによって、罪すらおかすことができない。だから救われる必要がありません。「被造物である」だけでことは完結しているのです。

わたしはそれを人間の独善というふうには思わず、むしろ人間であることの義務・責任が明確に突きつけられていることと考えます。アニミズムの域の素朴な生命観でいのちのつながりの中に安住していたのでは見えないことで、そのような素朴な自然主義者を一神教側から見た場合、「人間以前」と映ることもあり得るのは心得ておいてよいでしょう。

こんな笑い話があります。アメリカのある小学校で、先生が「わたしは無神論者です」と名のりあげました。「みなさんは無神論者ですか」。聞かれた子どもたちは意味がわからず、先生が手を挙げたのでそれにならってよろこんで手を挙げました。ただ一人の女の子を除いて。先生が尋ねます。「じゃぁあなたは何なの?」 女の子が答えます。「わたしはキリスト教徒です」。先生が重ねて聞きます。「あなたはどうしてキリスト教徒なの?」 女の子はいぶかしげに、「それは、わたしのお父さんがキリスト教徒で、お母さんもキリスト教徒だからです」。先生が苛立って、「じゃぁ、お父さんが阿呆で、お母さんも阿呆だったら、あなたは何になるの?」 女の子はしばらく考えてから答えました。「そうしたら、わたしは無神論者になると思います」。

では次に、アニミズムないし民俗宗教の立場に救いはあるのか。それらは、置かれた環境の自然と調和しているおしえです。宙ぶらりであることはかえって移り変わる自然現象やいのちと折り合いがよく、解決されなければならないものとは見えにくい。つまり、救いは隠されています。特に難癖をつける必要はないものの、特定の環境を前提としている以上、常に隠れた排他性を抱えていることは注意しておきます。

実は、わたしが一番警戒しているのが現代の癒しを求める風潮です。癒しにも幅があって、素朴なアニミズムと区別する必要のないものであれば見過ごして構わないのですが、そもそも癒しが「求め」られたとき、宙ぶらりであることが生き苦しさのようなほんとうは解決されるべきものと現れているはずです。ところが癒しはそれを擬似的な調和へもっていく。もっと悪くすると、宙ぶらりなどないかのように覆い隠してしまう。これは、救いの拒否です。癒しと救いは、場合によっては正反対の出来事となるのです。

それらに照らして、仏教における救いを見てみます。

まず、宙ぶらりとはまさにしょうのことです。それはそのまま迷いであり、苦であるととらえられます。仏教で言う人間は六道(地獄・餓鬼・阿修羅・畜生・人間・天上)の一つで、どれも迷いの境界である六道の間に本質的な違いはなく、 人間界は「仏法に一番出会いやすい」と言われる以外特別な地位を与えられているわけではありません。

ですから、宙ぶらりといっても上下の方向に特に意味はなくて、ただぼんやり拡がっているようなイメージです。また、精神活動は「こころのはたらき」くらいまでゆるくとらえられます。六道にまたがって迷っているものたちが衆生ですが、この衆生は古い訳語で、げんじょう以後はじょうとされます。「こころのはたらきをもつもの」の意で、含霊がんれいと訳されることもあります。

「すべての生きもの」「生きとし生けるもの」というと、草木などの植物はもちろん、日本の環境では山や川あたりまで含まれそうな響きですが、「衆生」であれば植物が入るかどうかは語感として微妙になり、「有情」となるとさらに限定が強くなります。

一旦整理すると、仏教でいう迷いとは、「こころのはたらきをもつことでぼんやり宙にただよっているようなさま」となります。そしてそれが、わたしたちにとってのいのちの実際のすがたなのです。

ばらばらないのちがそれぞれ我を張り、互いにぶつかり合い殺し合っているのが迷いの衆生(有情)であるならば、その救いはどこにあるのか。個々のいのちが昇華されて、一つと現れた全体としてのはたらき――それが涅槃でした。涅槃を知り、全体に触れること、一つのいのちに向かって開かれること。仏教の救いはそこにあります。そのとき、宙ぶらりであることは厭い嫌うべきことではなく、暖かいいのちの場と変ります。

いのちのおしえとことばのおしえは、一方は全体への昇華、他方は上への超越と、まったく異なる契機による救いの表出です。おしえの体系としては対局にありますが、その出発点としてのわたしたち人間のすがたは、どちらも「宙ぶらり」ということで重なる。そして「いのち」と「ことば」も、わたしたち人間の迷いの原因であると同時に救済の現場となる不可欠の要因であるという意味において、はらんでいる方向性は背中合わせであるにしても、実は同じ出来事を指していたのです。

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言語

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わたしたちが宙ぶらりになる原因は精神活動にある。さらっとそう言い流して話を進めてきました。

精神活動とはいささか大仰な表現ですが、やはりことばのおしえ・いのちのおしえの双方に通じる響きを持たせるためです。それをまず言語に焦点を当て、一般論としてもう少し丁寧に紹介します。

空に、きれいな月が出ています。知らずに通り過ぎていく人がいたので、「ほら、あれ」と指さしたら、その人も立ち止まって空を見上げて、「ほう!」

この指さしに相当するのが、言語の本質です。指さす指が言葉、指さされている月がその意味に当たります。大切なのは指が月に届いていないことで、直接触って「これ」と示しているのではありません。投げてやったえさがわからず見当違いなところをさがしている犬に、「違う、あそこ!」と指さして教えてやっても犬は指を見るだけ、意図が通じなくてもどかしい思いを味わわされます。

わたしたち人間は、言語によって、平面的な事象の地平から意味の世界へと離陸するのです。

又聞きの話なので正確な出典は知らないのですが、ある動物学者が研究のため同じころに生れた自分の子供とチンパンジーの赤ちゃんとをいっしょに育ててみたそうです。しばらくは事実上何も違わなかった。ところがそろって三つになったころ、人間の赤ん坊は「ひっくり返った」と。チンパンジーがただそれまでの延長で成長し続けていくだけなのと違い、人間は言葉が使えるようになった時点で「人間」に生れ変るのでしょう。

わたしは中学校二年生のとき、どうしても「抽象的」という言葉が理解できなかったのを、今でも苦くはっきり覚えています。何かで見かけてすっと意味が取れなくて、家から学校の図書館からありとあらゆる辞書を引いてみても、ぼんやりしたままわかったという気がしない。悔しくて情けなくて、すべての辞書の意味を書き写しいいとこ取りをして組み立て直し、耳あたりとしてはひっかからないきれいな自分用の説明文をつくりまでしてみたのですが、とうとうわかったとは感じられませんでした。

人間は三歳以降、事象の地面を離れ、それを見おろす意味の世界の二階に住んでいます。しかしすでに抽象的であるその事情を眺めおろすには、三階に上らなくてはなりません。十四歳前後という年齢ではまだしっかりした三階はできていない。そういうことだったのだろうと今は納得しています。

「抽象的」をきちんと意味づけることのできる三階ができれば、あとはいくらでも高いところまで昇っていけます。ただ、はっきりした根拠はなくて自分自身を観察してそう考えているだけのことながら、一時に把握できるのは、現に自分が立っている層とその下と上の三層だけではないかという気がします。というよりそれで十分なのですが。

昔、中国からインドへの経典を求めての旅は、文字どおり命がけでした。数百人で出発して、無事帰ってこられたのは数人ということもあったそうです。途中切り立つ断崖絶壁があって、道がない。ただ、崖に点々と穴が掘られていて、そこを通るものはみんな丸太を二本持って行く。崖の穴に一本の丸太を突き刺し、その上に乗って次の穴に二本目の丸太を刺す。そちらに移って前の丸太を抜き取り、次の穴へ刺して……。確かに理屈では通れることになります。本当の話なのかどうかは知りません。

とにかく、言語を使うことによって人間は宙に昇っていけるのです。ただ、それがその裏側で何を犠牲にしているのかは考えてみる必要があるでしょう。

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存在

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ことばがあらたな世界をひらいていることを、もう少し踏み込んで考えます。これまでことばあるいは言語という用語を、小さくは単語から大きくは言語活動までひっくるめ、あいまいに広く使っていました。ここでははっきりと「文」を基準にします。

きちんとした文であるかそうでないかは、動詞によります。多少細かいことは無視することになりますが、ただの単語の羅列ではなく文としてまとめているのは動詞(日本語で一般的に言えば用言)で、一つの文に中心となる動詞(述語動詞、単語としては複数のこともある)は一つだけです。

(言語の項で人間の赤ちゃんに対し「言葉が使えるようになった時点」と表現していたのは、動詞を含み、文法的に正しい文が作れるようになったとき、という意味でした。「んまんま」とか「だっこ」とかものをしゃべり始めるのはもっと早くからにしても、文法的にちゃんとした文を話すようになるのはほぼ三歳頃のようです。)

さて、述語動詞に関わる基本的な文法事項として、過去・現在・未来という時制があります。何語を学ぶにしてもまず習うのは現在時制の文ですし、現在時制が一番簡単なように思いますが、内容を考えると、実はそうとも言い切れません。

たとえば、次の英文は間違った(意味のつかめない)表現です。

× I eat an apple.

ポイントは、eat(食べる)の現在時制と an apple(リンゴ)が単数であることとがうまく両立できないことにあります。次のようにどちらかを修正すれば、意味の取れる文になります。

I am eating an apple. (私はリンゴを食べている。)

I ate an apple. (私はリンゴを食べた。)

I eat apples. (私はリンゴを食べる。)

現在といいつつ、「今まさに起っている」ことを言うには現在進行形にしなくてはなりません。では純粋な現在時制(最後の文)は、いったい何を表しているのか。実は、習慣として「よくリンゴを食べる」とか嗜好として「リンゴが好きだ~リンゴは食べられる」という(現在も含んだ)一般的な事実を示すのが、現在という時制なのです。

現在進行形(今という瞬間)でも過去・未来でもないところにある「現在」とは、言うならば事象の地平とは垂直な方向に、無時間的とも言い得るあらたな世界(今のわたしを取り巻く意味の世界)を拓いている。そのように考えることができるでしょう。

そのあたりの事情をもっとくっきり表しているのが、英語の場合の be 動詞です。他の動詞が文字通りの動きや状態を示すのに対して、数式における等号‘=’のように本来別であるのものを同一であると結びつけるような、ある特殊な「判断」を表しています。西洋古典論理学はその機能をコプラ(copula、繋辞)と呼んで取り出しそこを支点に展開したのですが、それはまさに無時間の世界で、変化や運動を論理的にとらえていこうとすると、避けようのない矛盾に陥ってしまいます。

そして、コプラの機能、あるいは be 動詞に表出されている同定判断そのものを対象化したものが、存在(英:beingビーイング、独:Seinザイン、仏:êtreエートル)です。つまり、存在の起源は言語-論理的な出来事の中にあり、それを核にして、言語は消滅変化する事象とは独立に、まさに人間的な別の世界を拓いているのです。

サンスクリット語で be 動詞に相当する語は as で、その三人称単数形が sat です。「衆生」と訳される原語 sattva はこの sat の派生語で「存在するもの」を意味します。ところが「有情」も原語は sattva なのです。ということは同じ be 動詞のはたらきのなかに、「存在」に抽象される方向と、「いのち」に昇華する方向の両方がはらまれていることになります。

この項で取り上げた存在は、ことばのおしえ寄りのものではあるにしても、そのまま存在そのもの、一神教の神に結びつくものではありません。逆に言うと、仏教における言説もこのような言語の特性と無縁ではいられません。上を仏教の側から見るならば、言葉には対象とその観察者とを実体的であるかのように「生み出してしまう」罠が仕込まれているということになります。

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こころ

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いのちのおしえの側での「精神活動」とは、こころのはたらきのことでした。これももう少し踏み込んで考える必要があるでしょう。しかし一般論にまで広げては収拾がつかなくなるので、心理学などは最初から無視し、仏教的な見方に重心を置いて紹介します。

静かな水面にポチャンとかえるが飛び込み、波紋が拡がって、またもとの静けさに戻る。

現れたのは冷たい死の静けさではなくて、静のうちに動を秘めたある「全体」である―― 涅槃のイメージに通じるものです。この静けさ~全体ということを気持ちの片隅に置きつつ、その上に現れた動きを考えます。

波でもよいのですが、渦を例に取り上げましょう。たとえばプールの水面で指をくるくる回すと、小さな渦ができて水面が少しくぼみます。その渦は、ある意味で、水から離れていわば「独り立ち」していないか。

仏教に「法」という基本語があります。「諸法無我」というときの法です。何とも全体像をとらえにくい語で、略記しても法則・正義・社会的規範、仏陀の教法、徳・属性、原因、物質的存在、概念・考えなどがすべて法と呼ばれ得ます。法 dharma(ダルマ)は「保つ」という意味の語根 dhṛ(ドゥフリ)の名詞的な派生語で、語源的には「同じ性質を保つもの」とでもいった響きをもっています。

わたしは法を、渦のイメージでとらえています。

渦は、重なることができます。昔よく作ったゴム動力で飛ぶ飛行機でゴムを巻くと、最初だらんと垂れ下がっていたゴムがだんだんねじれて、次第に全体がピンと張ってきます。それをさらに巻くと、ねじれて1本の太いひものようになっていたゴムに、プクンとこぶができます。このこぶは、ねじれがさらにねじれたもの、渦たちからできている一回り大きな渦です。ゴム動力の飛行機では、このこぶが次々とできていって、ゴムひもの全体がこぶだけの太いひもになるまで巻くのがふつうでした。(もっと続ければさらにねじれのねじれのねじれが作れましたが、そこまでやると強度が問題になって、ゴムが切れてしまうか機体が折れるかしてしまいました。)

仏教の伝統では、アビダルマや唯識派において、法は①しん(心の中心体)・②心所しんじょ(心に付随してはたらく細かい心作用)・③しき(いわゆる物質的なもの)・④相応そうおうぎょう(心でも物質でもなく、しかも現象を現象たらしめる原理となるもの)・⑤無為むい(現象の本質となるもの)の五つの類(用語・順序は唯識派による)に分類されていました。それに重ねるならば、こころは心・心所ということになるでしょう。しかしあえてそのような観点をとらず、基本的にはそのすべてに届くような位置づけでこころをとらえてみます。

渦が渦と現れたとき、静かな全体は、いわば破れます。そして渦そのものに求心力のようなものが備わると、渦は全体へのつながりに背を向けて、我を主張し始めます。

たとえば台風の最初は上昇気流です。上昇気流ができるとその場所の気圧が低くなりますから、周囲からそこへ向かって空気が流れ込んでくるようになる。集まった空気はたがいにぶつかり合い、行き場がないのでそろって上へ昇る。そうやって次第に渦巻き始め、やがて台風へと育っていく。台風では、いわゆる「台風の目」が周囲の空気を吸い込んで渦巻いているのです。

求心力とは我執のたとえです。我執のもとは煩悩で、煩悩の根本に無明を据えるのが仏教の基本ですが、無明は「全体を忘れそれに背を向けること」と解釈できます。さらに我執はごうと重ねられます。ただ、業がそのまま我執ではなく、業 karman(カルマン)は「行為、おこない~はたらき」を意味する中立的な語で、「全体から離れる方向のはたらき」が我執であるならば、逆に「全体に即したはたらき」はたとえば如来の救済行の拠り処ともなります。

そのような背景からまず狭くこころをとらえると、法のうち、業と縁遠いものは除外されることになります。上の五類の③色と④不相応行(アビダルマの用語では心不相応行)です。しかしあえて広く位置づけ、すべての法(=渦)にわたって、その基体とみなされるもの(波にとっての水、台風にとっての空気や雲)をこころとみなすことにします。

ふつう「物質的なもの」と理解されますが、自然科学でのような「わたしと切り離されて独立に存在し、個々に対象化され得るもの」といった響きは持ちません。「わたし(という迷いの現れ)に対して立ち上がっている環境」で、そのまま「全体」へと連なっており、それぞれが「我」を主張しているようには現れてこないものです。もっと踏み込んで言うならば、一神教でいう動物以下のように、完全には迷っていない、救われる必要のないものの総称です。

こころのはたらきが、いのちにほかなりません。我執の圏内にあるこころのはたらきは、すべて迷いのいのちです。ところが同じいのちが涅槃を知り全体とのつながりを回復したならば、それは大きな一つこころ、大悲のはたらきとしてのいのちの現れへと転ぜられます。宙ぶらりであることこそ、いのちのはたらく場であったのです。

そうすると、しき(環境として現れているいわゆる物質的なもの)にもいのちがあることになります。この場合のいのちは色がその形をとり続けていること、なにがしかの持続性をもっていることを指します。5類の④不相応行の中に「みょうこん」が含まれているのですが、それがまさにこのような「持続性」をとらえたものです。

仏教に、たいそうゆうという考え方があります。体はものがら、上で言った「基体」に相当します。相は現れたすがたや性質を意味し、用ははたらきを指します。それを依用するならば、それが何であれ考えられている対象について、わたしは今こころ(体)・すがた(相、=渦)・いのち(用)を見ていこうとしています。

仏教は唯心論と言われることがあります。心を単に主観的・内面的なものと受けとめられるならば言葉の至らない形容になりますが、上のような意味でこころを考えてもらえるならば、間違いなく仏教は体として唯心論で、それは用(はたらき)からすればそのままいのち一元論なのです。

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