便利

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広島の知り合いが、おもしろい話をしてくれました。

やはり寺の住職をしている大学のときの同級生が熊本にいて、九州新幹線が開通したあと、電話がかかってきたそうです。乗り換えなしで簡単に来られるようになったから一度遊びに来ないかと。

この日はどうかと誘われた日がちょうど空いていたのでのこのこ行ってみたら、何のことはない寺の行事の日で、ただ焼酎を飲んで帰るつもりがしっかり法話をさせられたとこぼしていました。そのあとそのまま懇親会になって、いずれにしても焼酎は飲めたようですが。

その懇親会の席でのある総代さんの話に、せっかく九州にも新幹線ができたのだから、浄土の土産(?)に乗ってみようということになって、元気のいいおじいちゃんばかり十数人、熊本から鹿児島まで行ってきたのだそうです。みんな弁当とビールを買い込んで遠足気分はよかったのですが、まだいくらも食べないうちに「もうすぐ鹿児島中央です」と車内放送が流れて。

あわてて食べかけの弁当と飲みさしの缶ビールを両手におじいちゃんばかりぞろぞろとホームに降りたって、何とか座れるところをさがして弁当とビールは片付け、それなら帰りは景色でも見ようという気で折り返しの列車に乗ったものの……。鹿児島と熊本の間はほとんどトンネルで、景色もろくに見られず、結局くたびれただけでみんな帰ってきたとのこと。

そして最後、ぼそっとおっしゃったのだそうです。「便利なだけでちっともありがとうなかった。」

その話を聞いて考えさせられました。「便利」とはどういうことなのだろう、どんなとき「ありがたい」と感じるのだろう。

現代の生活の中でわたしたちが追い求めている便利・快適とは、できるだけ「思いどおり」に近くなることです。暑い・寒いにわずらわされることなく、重いものを抱え上げて持ち運ぶこともなく、行きたいところにはできるだけ速く楽に行くことができ、知りたいことはいつでもどこでもすぐに知ることができて……。つまりは、頭の都合が最優先で、身体の制約にはできるだけ振り回されたくないということでしょう。

ところで、一番思いどおりにならないものが、実はいのちです。

ということは、より便利になることを目指すなか、より快適にになればなるほど、わたしたちはいのちから離れてきていることになります。もっと厳しくとらえるならば、わたしたちは知らずしらずいのちを遠ざけ、場合によってはいのちを嫌ってさえいるのかもしれません。

生れるのは産院、お年寄りは介護施設、死んでいくのも病院となると、身近で生々しく生老病死に触れる機会そのものが減っています。世の中が元気なもの、強いものを基準に回っていると言われますが、その「元気なもの」も、どこか性能の良い機械と同列視されているように思える。つまり、生身の身体などというものはそもそも邪魔、「頭の都合様のお通り~」となればすべて「はは~っ」と道をあけざるを得ないようなご時世になっているのではないか。

気をつけておかないと、「思いどおり」に近づいていくのがよいことだと思いこまされてしまうと、いつの間にかそれは当然だと錯覚するようになります。ものはあって当たり前、夢は実現できて(あるいは少なくとも実現するのを妨げられないのが)当たり前、公共サービスは気持ちよく利用できて当たり前……。結局、ありがたいと感じることからは遠ざかって、そうと気づかないまま窮屈な世界へ入り込んでいくことになる。

素朴に「ありがたい」と感じることができる背景には、世の中には思い通りにならないことがたくさんある、いや、思い通りにならないことこそむしろ自然なのだという感覚が欠かせないのです。

上を間違ってとらえられると、感謝の気持ちを忘れるな、感謝には謙虚さが必要だ、だから謙虚になれ、となってしまいかねないのですが、ほんとうは逆です。思い通りにならないことをそのままに受け入れられて、ふとしたことでも素朴にありがたいと感じられるならば、その方がずっと楽で伸びやかなのです。そしてそれはそんなにむつかしいことでもありません。いのちを、もっとひらたく言えば自分が今生きていることを、ちゃんと受け入れればよいだけなのですから。

合掌

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思いどおりにならないことを、仏教では苦と呼びます。

受けとめようによっては大ざっぱな話です。虫歯が痛い、あるいはおしっこに行きたい! というだけでもそんなのんきなことがことが言っていられる状況ではありませんし、親が認知症でというのも心痛だし、ウソがばれてしまいそうになったらある意味もっと切実だし、明日の日本(~世界~人類~生態系~…)がどうなってしまうのだろうと心配し始めたらそれどころではないでしょうし。

しかしそういったことを全部心得た上で、やはり仏教で言う苦は思いどおりにならないことに極まります。

あるいは、「実存苦」といった言葉もあります。実存とは現実存在の略語で、今現にわたしがここにあることを指します。なぜわたしはいるのだろう。わたしはいていいのだろうか。こんなわたしがいること自体、許されないことのように思えて息ができないほど苦しい…… すべての人が味わうことではないかもしれませんが、襲われた当人にとっては、それこそ虫歯が痛くても関係ないくらいの深い謎です。

が、わたしは仏教が問題にしてきたのはそういう「存在の根底に関わる謎」でもないと受けとめています。ほんとうにどこまでも思いどおりにならないことこそが仏教本来の課題なのではないかと。

仏教を実存の問題の解決のように理解している人はそれなりにあります。たとえば親鸞聖人の「弥陀の五こうの思惟をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり(歎異抄)」であるとか「大悲、ものうきことなくしてつねにわれを照らしたまふ(正信偈)」という文言は確かに実存的にも読めますが(そして実はわたしもそういう読み方をしていた時期があるのですが)、気がついてみるとそんなカリカリにテンパった響きばかりではなくて、もっとゆったりとしたおおらかな心地の方が心髄です。

テンパるとは麻雀用語で「あと一枚で上がれる状態」を意味する『聴牌(てんぱい)』に俗語でよくある動詞化する接尾語『る』をつけたもので、もともとは「聴牌になる」という意味の麻雀用語だった(この場合、受動態の「テンパった(聴牌になった)」か過去形で使用されることが多い)。ここからテンパるは「準備万全の状態になる」や「目一杯の状態になる」という意味を持つようになる。更に2000年頃から後者の「目一杯の状態になる」が「余裕がなくなる」という悪い意味を持ち、「あわてて動揺する」「焦る」「のぼせる」「薬物で混乱する」など様々な余裕のない場面で使われるようになる。【『日本語俗語辞典』より】

さて、みなさんは、仏教と聞いてどんなイメージを持たれるでしょうか。線香臭いとか葬式を連想するとか景色の一部とかいう話はここではばっさり無視させてもらって、おしえそのものの受けとめ心地としての仏教です。

もっと絞り込むならば、仏教を明るい~肯定的と感じるか、暗い~否定的と感じるか、ということです。

仏教は、その根底において、一切の生きているものにとって明るい教えです。なぜならばいのから始まり、ついぞそこを離れないから。しかし現実には「生きていない」人が少なくないので、そういう人にとっては決定的に否定的で絶望的にすら見える教えです。なぜならば「生きていない」ことを全面的に嫌って、常に「生きよ」と働きかけるから。

上で仏教を実存的に理解することに抵抗した理由もここにあります。実存とはその定義からして「存在」に関わる問いですが、あえて言うならば存在とはいっさい関わらないところに仏教はその根を持っている。それがいのちなのです。

ということで苦に戻ります。

一切皆苦とは四法印の一つ、あるいは四諦と呼ばれる仏教教理の冒頭で、いうならば仏教の出発点です。一切はみな苦なり。これは実は、釈尊ならずしては選び取ることのできないものすごく優しい態度なのですが、仏教徒でさえ、この言葉に多く迷いました。

法印(dharmoddāna)とは、法の要約との意。すなわち、仏教教理の特徴をあらわしているしるしのこと。四法印とは、あらゆる現象は変化してやまない(しょぎょうじょう)、いかなる存在も不変の本質を有しない(諸法しょほう無我むが)、迷いの生存におけるすべては苦である(一切いっさいかい)、迷妄の消えた悟りの境地は静やかな安らぎである(はん寂静じゃくじょう)をいう。【『岩波仏教辞典』より】

諦(satya)とは真理のこと。四つの真理で、たい集諦じったい滅諦めったい道諦どうたいの総称。「しょうたい」ともいう。しゃくそん鹿ろくおんにおける最初の説法(しょ転法てんぽうりん)において説いたとされる、仏教の根本教説。「苦諦」は、迷いの生存は苦であるという真理。「集諦」は、欲望の尽きないことが苦を生起させているという真理。「滅諦」は、欲望のなくなった状態が苦滅の理想の境地であるという真理。「道諦」は、苦滅にいたるためには八つの正しい修行方法(はっしょうどう)によらなければならないという真理。【『岩波仏教辞典』より】

間違いの一番大きなものは、苦を嫌ってしまうことです。苦とは思いどおりにならないことで、その根源に「思いどおりにしたい」という欲望(煩悩)があります。この欲望をどう受けとめどう解決していくかが仏教の根本的な課題であることに間違いはありません。しかしことをいて苦を消しにかかるとどうしても欲望を殺さねばならず、それは究極的に「死」に通じます。

上の四諦の語註の中、「滅諦」の解説および滅諦という用語そのものに、「消す」を連想させるものがはらまれていますが、「消す」と「消える(滅す)」、あるいは「なくす」と「なくなる」とは同じではありません。

苦を苦のままにほおっておいてよいのではない。苦の解決とは、苦を消すことではなく、苦を受け入れること、もっと積極的に言うならば苦を活かすことにあります。「思いどおりにならない」ことを消すのではなくて活かしたときに、むしろ「思いどおりにならない」こそ一切に先立つ根源的な力動であると出会いそこへ入り込んでいったところに、いのちが姿を現すのです。

合掌

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ことばのおしえ

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「いのちのおしえ」にはつい表現があります。「ことばのおしえ」です。

「ことばのおしえ」とは、一神教を指します。現代のわたしたちの生活は泣こうと騒ごうと西洋的な社会のあり方を模範とした近代化の流れの中にあり、たとえば「科学技術文明」などもことばのおしえの末裔かそうでなくても鬼っ子にはなりますから、そちらと対比してもよいといえばよいのですが、それでは相手が小さすぎるので、曖昧なことを抜きにして一神教と提示します。

大ざっぱには、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教を同類と見てひとくくりにしたとらえ方です。いい本が出ていますので、詳細はそちらをご参照ください。→『ふしぎなキリスト教

わたしは一神教に対して、根っから好意的です。より正確に言うと、ある意味、わたしは仏教よりも先に一神教に出会ってしまっていて、一神教に照らされて初めて仏教と出会えた、だから一神教抜きに今のわたしはない、という側面を持っているのです。どうしても個人史的なトーンが色濃く出てしまうのが避けられませんが、その紹介をさせてもらいましょう。

わたしは高校3年生のとき、1976年から1977年にかけて、AFS という機関を通じて一年間アメリカへ留学しています。

これはもう少し巻き戻す必要があって、中学校の後半から高校へかけて、いわゆる思春期のなか、個人的に疾風怒濤シュトルム・ウント・ドランクそのものの毎日でした。それにほとんど疲れ果て、新天地(?)へ飛び込んだら一挙にすべてが解決されそうな気がして飛びついたのが留学だったのです。

ドイツ語の「シュトルム・ウント・ドランク(Sturm und Drang)」の和訳で、ドイツ語での本来の意味は「嵐と衝動」。「疾風怒濤」という訳語はドイツ文学者である高橋健二が考案したもので、この語のイメージから「嵐と大波」と意訳されることも多い。18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動や、そのような運動で象徴される時代そのものを指す。代表的な作家として、ゲーテやシラーなどがいた。後のロマン主義に繋がる時代である。【「はてなキーワード」より】

しかしことはそんなに簡単には済まなくて、というより話はより深刻になって、自己確立前の異文化体験というとんでもない亀裂を抱え込んだまま帰国するはめになりました。ちなみに、お世話になったホストファミリーはユダヤ系で、旧約聖書をヘブライ語で読むこともほんの少しだけ教えてもらっています。

帰国後、誇張でなしに前に伸ばした手の先が闇に沈んで見えないような感覚の中、死にものぐるい、手当たり次第で古今東西の文学・哲学・思想に「生きていられる」手がかりを捜しました。今振り返ってみれば、中規模の日本および世界文学全集のすべて、あるいは中公から出ていた『世界の名著』の 2/3 相当くらいの本は読んだと思います。(ほとんど何も覚えてはいませんけれど。)

漱石も芥川もあるいは本居宣長も、プラトンもアリストテレスもソフォクレスも、ゲーテはもちろんシェークスピアもパスカルも、聖書もコーランもウパニシャッドも、デカルトも龍樹もアウグスチヌスも読みました。

そんな中でぶつかったのが、旧約聖書の一節だったのです。

我は、在りて在る者なり(エフイェ アシェル エフイェ)。」(出エジプト記3-14)

(わたしは、存在そのものから存在を「与えてもらって」いたんだ!)

今日のこの日では口にするのがためらわれますが、あのときの感覚を再現するために目をつむって許してもらうとして、頭の上で原爆が爆発したような衝撃でした。

(あらためて思い出してみると、まさに天が裂けて光ならぬ光があらわれ、同時に地上のもの一切が色を失った、といった感覚でした。何より音はなかった。)

そのときわたしは大学生で、「仏教の根本真理は何か」などといったことを考えてもおり、やわな縁起観にすがろうとしていたのですが、そんな(当時のわたしにとっての)仏教など跡形もなく消し飛んでしまいました。そして、洗礼を受けることを決意したのです。

ここで少し偶然のいたずらがからみます。わたしは、父はわかってくれると思って疑いませんでした。しかし電話で済む要件ではなく、手紙に書ききれることでもないので、とにかく帰省して父に話さなければと思ったのですが、バイトの都合とかどうでもよいことがひっかかって、十日ほど動くに動けなかったのです。

その十日ほどの間に、目の前にはまっさらさらがひろがり、創造主ヤハベ(エフイェ)のただしき名のみが君臨し、まさに許された被造物としてそこに立っていたつもりなのに――  自分のどこかに、仏教が残っていることに気づかされて……

これは何なのだ?! と足元を掘り返してみて、初めて出会ったのです。はんに。

不用意に「涅槃が仏教の根本真理だ」などと言ったら、心ある仏教者からは間違いなくボコボコにされます。涅槃が、少なくとも釈尊その方のおさとりの内実として、仏教の根底を支えていることに間違いはないのですが、一方でものすごく危険な一面を持っており、釈尊以後の仏弟子にとってほとんど躓きの石のようなところにあり続けているのもまた事実だからです。

これはまた項をかえて記事にしますのでそれを待っていただくとして、本題に戻ります。

ことばのおしえとは存在(エフイェ)の君臨であり、紛うことなく真理です。ただ、その「存在」の手の届かないところに、もうひとつ別のおしえがある。いのちのおしえこと、仏教です。

見失って欲しくないことは、ことばのおしえといのちのおしえとの間に、優劣のつけようはないということです。そもそも人間に、「同時に」ふたつのおしえを見晴るかす視点に立つことはできない。

わたしは、仏教の側に立つことを選んだ人間です。ですからことばのおしえ=一神教の根本真理は、今のわたしには見えません。ただ、そこに向かって開くことはできます。そういうところに立って、これからの記述を進めます。

合掌

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盲点

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「いのちのおしえ」と「ことばのおしえ」の関係について、もう少し補足しておきます。

仮に、「まったき真理」が実現している様を想像してみてください。本来、想像すらしようのないことのはずなのに、何となく何かをイメージしてしまうのが人間の不思議なところです。

「丸い三角形」でも、言われると想像してしまう(少なくとも想像しようとしてしまう)のが人間ですし、おそらく原子力を実現してしまったのも、素敵といえば素敵で、愚かといえば愚かでしかない人間ならではのなせるわざなのでしょう。

いきなり横道にそれるのは止めて、まったき真理です。

みなさんがどのような絵を想い描いていらっしゃるのか知ることはできませんが、おそらくそこに、人間の姿はないはずです。向こうが透けて見えるような妖精などであれば許されるのかなという気はするものの、重い身体を引きずって、食べ物を食べ排泄をし、という具体的な人間たち、そしてそんな人間たちが作り上げている現実的な社会が描かれていようとは思えません。

つまり、まったき真理と、具体的・歴史的な人間社会あるいは文明とは、折り合いのつこうはずのないものだということです。

でもわたしたちは真理を口にする。

わたしは、実際に真理が人間世界に触れ届いた局面が、人類の長い歴史の中で二回、あったのだと考えています。ただそのとき、まさにわたしたちに届いたというそのことによって、真理は実現し完成した、まったき姿とは異なるものと現れているはずです。

具体的には、仏教と、一神教の二つを想定しています。第三極としてあり得るとするならば儒教なのですが、今のところ仏教・一神教と見合う真理体系と理解することはできずにいます。

目に、盲点と呼ばれる解剖学的構造があります。

人間ほか多くの動物の目には、前にレンズに相当する構造物があって、そのレンズが像を結ぶあたりに何らかの光を感じ取る組織体が配置されています。人間の場合は網膜で、網膜上に隙間なく視細胞が並んでいる構図になります。ただ何の間違いか、各視細胞は眼球の「内側」に向かって視神経を伸ばしているのです。光刺激を感知したという信号は、眼球の外に出ないことには意味を持ちません。で結局、ある一点で網膜の内側をはって集まった視神経が束になって眼球の外に出、脳へとつながっています。

その、「視神経が束になって眼球の外側に出るところ」には、構造上視細胞が配置できません。それが盲点なのです。

わたしはこの話が好きでいろんな場面で使うのですが、ポイントは「見えるという出来事が成り立つために、盲点は欠かせない」ということです。「盲点があるから見える」、「見えたときには盲点ができている」、等々、いろんな言い換えができます。

その話をここで持ち出してきた意図は、まったき真理なるものが人間に「届いた」とき、必然的に盲点ができているということに気持ちを広げて欲しいためです。それに重ねて、仏教(いのちのおしえ)にとってのもっとも重要なことは一神教(ことばのおしえ)の体系にとっての盲点に像を結んでおり、その逆もしかなり、とも示唆したい。

ですからわたしの理解では、わたしたち人間に、これら二つの真理体系を同時に見通す視点に立つことはできません。ただ、それは学的に構築された真理体系が問題になるときの話であって、それらのおしえを現実に生きているわたしたち人間の実際にそんなに大きな違いはありませんから、わたしはすすんでマリア・テレサ師をすばらしい人と讃えますし、ダライ・ラマ師が欧米人の尊崇を集めて何の不思議もありません。

もっとも、一方で、キリスト教のことを学ぼうともせずにいたってピント外れな断罪をして「相手にするに足らない」といった片付け方をしている僧侶があまりに多いことに、ほとんど憤りに近い悲しさを覚えていることは言い添えておきます。(まあ何ごとにも逆はあるもので、前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が仏教に言及なさった内容も悲惨なものでしたが。)

わたしの実感として、直接それを「生きる」ことは不可能であり無意味であるとしても、一神教という人類にとってかけがえのないおしえがあるということを受け入れ、仮想的にであれそれに反照された形で仏教を見つめ直すと、より深く仏教を理解できることは間違いありません。

もっと踏み込んで厳しく発言するならば、一神教に照らされない仏教は簡単に民俗宗教に堕します。身近な人々の生活の支えになるという意味で、わたしは民俗宗教を卑下しているわけではありませんが、民俗宗教の域であるのならばその分を守り、世界に広まれ的なトンチンカンな発言は控えて欲しいものです。涅槃と(その危険性も含めて)きちんと向き合い、それを間違うことなく内面化していない僧侶の口にする仏教は、それが何宗であれ、お稲荷さんと大差ありません。

断罪口調が前に出てしまうと話がさみしくなるので言い直しましょう。ほんとうに全人類、一切衆生が救われうるおしえに触れる機会がありながらそれに出会い損ねているとしたら、つまり自分自身救われ、そのよろこびからの布教活動でないのならば、当人にとっても周囲の方にとっても、あまりにももったいないことではないですか。

あなたが何教・何宗の信者であってもよい。わたしは、わたしが救われているおしえで、あなたもろとも救われます。あなたも、あなたの救われているおしえでわたしもろとも救われてください。

そしてもしまだ救われていない方、あるいは救いなどということに関心を持たずにきた方があるのならば、早くそんな人間以前のさみしいところを離れ、何より人間となって、いっしょに人間である重さとすばらしさを味わいましょう。

合掌

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アニミズム

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仏教を「いのちのおしえ」と案内しつつ、実は半分ハラハラしています。誤解されるおそれがあるからです。

誤解を避けたい点は二つあります。一つは素朴・原始的な汎生命主義、いわゆるアニミズムと混同されることで、もう一つは近世的な人間中心主義から見たいのちに矮小化されることです。

今回はまず仏教とアニミズムはどう違うのかから。

たとえば、日本の神道も、素朴ないのちのおしえです。神道をけなすつもりは毛頭ありませんが、それが日本という自然環境を離れては成り立たないもので、アラスカに住んでいるエジプト人が神道で救われるなどということがあり得ないのは確かでしょう。

そしてそれ以上に確かなことは、素朴なままの生命観は、厳格な一神教にあぶられると跡形もなく蒸発してしまうことです。そのくらい一神教の力は強い。まさに「存在」そのものの出現で、無からの創造(エクス・ニヒロ)とは、イザナギとイザナミが海をほこでかき回して引き上げたあと、ぽたぽたしたたった泥のしずくから島(日本列島?)ができたなどという神話とは次元の違うことです。

ただ、聖書にもアダムとイブの話だとかノアの箱船だとか信者でないものから見ればそうとうおとぎ話っぽいものがありますし、進化論を受け入れない人がいると聞くと「なんと偏狭な」としか理解できない人も多いでしょうから、神話と一神教がどう違うのか、もう少し説明が必要でしょうか。

ざっくり言ってしまうならば、神話世界は人間世界と類似なのです。ギリシャ神話ではいちおうゼウスが一番えらいということになっていますが、しっかりしたお父さんを家族が家の中で一番えらいと受けとめているというのと、実のところあまり違いはありません。身近な生活の中で出会ういろんなトラブルを整理したり意味づけたりする上で参考とはなるにしても、究極的にこれを基準にしておけば一切間違いないという原理が打ち出されているわけではなくて、あるのはせいぜいかけひきです。

「創造」が語られるにしても、生殖・繁殖の類比か自然現象を物語に仕立て直したもので、「存在を与える」となどいった理解を拒む話ではありません。要するに人間世界の延長なのです。

対して一神教では、まさに一・神が、原理そのものとして君臨します。結局一番強い神がその地位を得るのだろうなどと理解してしまうと、それはかけひきの域を出ませんからまだ神話です。そうではなくて、ここから先は信仰の問題です。

一・神が立ち現れると、他の一切はすべての意味も価値も失って、すかすかのぺらぺらのふわふわ、カスのようなものになってしまいます。魂を吸い取られるなどというかわいい話ではなくて、あえて言うならば、存在を回収されてしまうのです。神に赦され、存在を与えられてはじめて、わたしたちはわたしたちになる。わたしたちは「被造物」としてしかあり得ないのです。神は一切に超越したものとしてあり続け、わたしたちに神を理解するすべはない。

素朴ないのちのおしえは、自分自身の原理を持っていませんから、一神教の前には無意味、無価値です。もし仮に自前の原理を持とうとし始めたとしても、もうすでに確固たる原理そのものが君臨している以上、結局はその原理をみずからの原理とする、つまり自身が被造物であることを受け入れる以外の道は残されていません。

存在事由、存在根拠、などでは間に合いません。それ自身がそれ自身の根拠である存在そのものです。

わたしがかつて仏教の根本真理としてやわな縁起観を据えようとしていたとき、一神教と出会い、洗礼を決意したというのはそういうことだったのです。どこから出発したにせよ、究極的な原理を求めるならば、必ず一神教に帰着します。

縁起観が「やわ」だというのではなく、わたしの理解が甘かったという意味です。ここでの文脈に合わせれば涅槃に触れていなかったということで、アニミズムと根本的には区別できない程度の理解をしていました。

そうは言っても歴史的に一神教はその地位を落としてきているではないか、現にニーチェは「神は死んだ」と宣言し、すでに神なくして過しているものがたくさんいる、と反論されるかもしれません。

わたしは、人間が(昔の人間と比べればであって神との比較ではありませんが)相対的に力をつけてきて、みずから原理を構築できると錯覚しやすくなっているだけだと考えます。ニーチェが死亡宣告をしたのは、厳格な一神教に堪えられなくなって民衆が祭り上げていた擬似的な神に対してに過ぎません。いずれにしても神が死ぬことはあり得ない。キリスト教権力が人々への影響力を落としているというのであれば、それは単に政治の話でしょう。

そして、仏教です。自らの原理を持っていなくても持っていても一神教に逆らえないはずなのに、圧倒的な存在の君臨に曝されてなおわたしのうちに残っていた仏教すなわちはんとは何だったのか。

涅槃という語彙にたどり着くには、随分時間がかかりました。しかし問題は用語ではなくて、その内実です。仏教が高度な真理体系を持っていることはよいとして、それがなにがしか原理的なものであるならば、いずれ一神教に吸収されるか、そうでなければ仏教自身も一神教であったということです。が、そうでないということは、仏教の根本真理は一神教とは真理観そのものを異にしているというほかありません。

ここでは、「存在」とは異なる真理観のいわば象徴のような形で涅槃を位置づけるにとどめ、涅槃そのものの踏み込んだ説明には別に項を立てることにします。

また、これまで行きがかりからやや不用意に原理(的)という言い回しに頼ってしまっているので、少し整理しましょう。核心は、存在です。そして存在が姿を示す場、あるいは存在の似姿としての「ことば」があります。そのことばたちのつながり、論理、を、つねに根源の存在そのものとのつながりにおいて評価しつつ用いて組み立てられた体系、あるいはそのような厳格な論理性、を、仮に原理(的)と表現しています。

ですから、真正の「ことばのおしえ」は一神教のみです。自然科学もことばのおしえの家に生れた末子ですが、根っこの「存在(=神)」をはずしてしまっていますから、厳しく言えば似て非なるものです。(何より救いを語り得ません。)

仏教は、涅槃を知ることで、存在の圏外に(ことばのおしえの盲点に)立ち得ている。その点で決定的にアニミズムと区別されます。というより、真正の「いのちのおしえ」は仏教のみです。アニミズムが自らの成り立ちを原理にではなく非原理的なところへ求めるならば、最終的には一神教にあぶられても残ることができるおしえになるでしょうが、それはそのアニミズムが仏教になったということです。

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涅槃

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アニミズムの項で、涅槃が何で「ない」か――つまり存在と関わらない何か――として定位しました。今回はいよいよ涅槃そのものに入り込みます。

しかしその前に、仏教入門的に用語の解説をしておく必要があるでしょう。

ⅰ 涅槃とはサンスクリット語 nirvāna(ニルヴァーナ)の音写で、泥洹ないおんと音写されることもある。ニルヴァーナは「吹き消された」を意味する語と考えられ、そこから「煩悩の火が吹き消された状態」、「煩悩を断じたさとりの境地」として「じゃくめつ」と訳される。

語源が正確に何なのかは、確定していないらしい。

ⅱ また、「いのちの火が吹き消された」ということから、「(釈尊および聖者の)死」を意味することもあり、その場合は「滅度」とされる。「度」は「(迷いの世界からさとりの世界へ)わたる」の意。

ⅲ その後、部派仏教において、(釈尊の)死を「肉体も滅して生存の制約から離れ、完全に実現された涅槃」の意味で「無余むよ涅槃」ととらえる考え方が現れ、それに対して「煩悩を断じきって今後の迷いの因はないが、まだ肉体の残っている状態」を有余うよ涅槃と区別するようになる。

余 upādisesa(ウパーディセーサ)は「生命として燃えるべき薪」の意味で、身体を表す。

ⅳ 部派仏教にとって、涅槃はさとりの完成であり、修行の最終目的であった。しかしそれを自分のさとりを目指すだけの狭い立場(小乗)と批判する大乗仏教が出現し、あらたに、「さとりをひらいた後もその境地にとどまらず、迷いの世界において自在に救済活動をしてこそほんとうの涅槃」との意味で、「じゅうしょ涅槃」という涅槃観が打ち出された。

ⅴ 大乗仏教では、真如、一如、一実なども涅槃の同義語とされる。

さて、一つ注意してください。一般的に、上の解説は

※  仏教が部派(小乗)仏教→大乗仏教と展開していく中で、涅槃観も有余涅槃→無余涅槃→無住処涅槃と発展した

と整理・理解されるのですが、わたしはそれとはまったく違う形で涅槃をとらえたいのです。

理由の一つは、大乗仏教の中に身をおき、大乗仏教を通して釈尊と出会っているわたしにとって、これではまったくリアリティに欠けるからです。何より釈尊その方が大乗仏教とほとんど無縁になってしまう。そうではなく、釈尊の真意を受けとめ得た者と理解し損ねた者がいるだけで、釈尊のおしえは最初から(わたしたちの立場から言えば)大乗仏教であったに違いありません。だからといって、小乗仏教=間違った人たち 大乗仏教=正しく受けとめた者たち という図式も安直です。わたしには、釈尊のおしえがしっかりと根付き、大きく花開くのに、わたしたち衆生の側では数百年の時間が必要だった、ということだと思えます。これについてはまた別に項を立てましょう。

そしてそれ以上に、すでに涅槃を「存在の君臨に曝されて何ごともなかった」ものとして紹介しているのですが、上の理解(※)ではそこにまったく触れてきません。涅槃はもっと豊かな何かです。それを掘り出すのが今の課題なのですから。

涅槃は、寂滅、静けさです。そして存在と関わらないことからして、何らかの意味で「死」に近い、あるいは死に触れたものであるのも確かでしょう。しかし死に行き着いてしまうと行き過ぎです。釈尊は35歳でおさとりをひらかれた後、80歳で入滅なさるまで、45年間衆生済度を続けられた。釈尊のおさとりの内実が「涅槃」であったのならば、それが死に直結するものでなかったのは明らかです。

死に結実しない滅、動を拒まないない静、漲った寂けさ……。それは、動きが滅することではじめてその全貌を顕した「はたらき」なのではないか。

はたらきは、実体的にとらえることができません。最大限工夫しても、複数の項のあいだの関係性として近似するのが精一杯です。しかし関係性ははたらきそのものではないし、複数の項がまずって、その間で二次的に支えられているのだとするならば存在の圏内のできごとです。支えとなるべき個々の項を離れたはたらきなど二重に無である、単に動いた存在の残像にすぎないというのが、存在(ことばのおしえ)の側の言い分でしょう。

ところが、はたらきは「全体」として出会われたとき、確かな拠り処となります。そして全体としてのはたらきこそが唯一の確かなものと信頼されたならば、逆にはたらきの痕跡としての個々の項の方がその存在の重さを失って、影となります。というより、存在は必要なくなるのです!

全体として姿を顕した、はたらきそのもの。それが涅槃です。涅槃と拮抗しえるのは、(厳密には仏教の「外(=盲点)」にあることばですが)存在のみです。

涅槃を究極の真理として、仏教すなわちいのちのおしえが始まります。ただ、その「いのち」は、現代人がふつうに言ういのちとも、アニミズムで触れられるいのちとも隔絶しています。それをこれから時間をかけて紹介していきましょう。

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