死んでいくこと、生きるということ

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はじめに

小児がんで15歳で死んでいった、有国遊雲の父親です。最初しばらく、遊雲のことを織り交ぜて導入をさせて頂きましょう。

遊雲が小児がんとわかったのは小学校6年生のときでした。亡くなったのが中学校3年生ですから、3年というもの、小児がんと付き合ったことになります。

初めて小児がんと知らされたときは、まさに「まさか」でした。いろいろなご縁で東京で治療に臨むことになったのですが、いよいよ入院させるという直前、状況をもう一度整理しようと話したことがあります。

最初から、病名そのほかは本人にもすべて伝えていました。私が嘘がつけない性質たちであるという以上に、判ることはきちんと判っておく方が、実は楽です。そういう思いでした。

がんといっても、まだ転移しておらず最初に見つかったところだけであれば、手術が済んでしまえば本当はそれで終わりです。残念なことに、転移していないことを現在の技術で確認する方法はありませんから、念のために抗がん剤の治療は続くことになりますが。

見つかったところ、遊雲の場合は右足首の上あたりでしたが、そこだけでなく、すでにあちこち転移してしまっていたとしても、抗がん剤が効いてくれるならば、特に小さいうちの転移はさほど恐ろしくありません。

しかし、足首だけでなく、目には見えないけれどすでにあちこちに転移してしまっていて、かつ抗がん剤もうまく効いてくれなかった場合、これが最悪の場合になります。私は「3年の覚悟が必要」と言われていましたが、翻訳して「高校生になる遊雲さんには会えないかもしれない」と伝えました。

しかしそこまで言ったときに、一番大切なことが抜けているということに初めて気がつかされたのです。それまでは、事実をきちんと説明してやることで、気持ちの準備がしやすくなるだろうということだけ考えていました。しかし事実というのは「ひとごと」なんですね。他人ひとごととしての事実ではなしに、まさに自分がそこで生きる、そこで生きられる、抜き差しならないところでもう一言、言ってやりたい。切羽詰ったところで、思わず「でも、何があっても大丈夫だからね」という言葉が口をついて出たのです。

どこかで私自身、そういう話を耳にさせてもらっていたのでしょう。覚えてこそいませんが、とっさのときに、それが口をついて出た。しかし、私が「何があっても大丈夫」と言ったとしても、「何を言っているんだ!」と受け止められたら、何があっても大丈夫になりません。ところが遊雲はそのままに聞いてくれたのです。それで何があっても大丈夫が本当に「何があっても大丈夫」になりました。

つまり言ったのは私ですが、言わせてくださったのは如来様、そして、それを本当にしてくれたのは遊雲だったのです。「何があっても大丈夫」とは実際にどういうことなのか、その後時間をかけて何度も問い直してきたのですが、今、ご案内させて頂きたいことは、「事実というのは他人事である。事実とは違う、まさに自分がそこで生きていけるところを、『事実』に対して『真実』とでも使い分けていきたい」ということです。そうしないと、こういう時代ですから、事実という客観性の前に「生きている」ことをどう受け止めればよいのか、どう支えていけるのか、結構簡単に見失います。

他人事としての事実ではなく、真実を求めて、お聞き頂けたらと思います。

死んでいくこと

さて、以上を導入というか準備に代えて、まず、死とはどういうことであるのか、それを見つめてみましょう。

死という主題に触れるとき、よく使わせて頂く話があります。ムカデの話です。

つい最近、ムカデに刺されました。地下足袋の中にいたのです。私の田舎は山奥で、草を刈ったり木を切ったりと、野良仕事もしないと生活ができません。ちょっと山の手入れをしようと地下足袋をはいて、道具を取りに歩いている途中、指先に噛みつかれたのです。ムカデはしょっちゅう見かけ、普段はさほど気にしないのですが、刺された後しばらくはムカデを見かけていい気はしませんでした。

しかしそのうちにはたと気がついたのです。向こうから向かって来たムカデなどいません。必ず逃げています。さらに右足を噛まれたときも、地下足袋を時間をかけてはいたあと、しばらく歩いた先で初めて噛まれたんですね。ムカデって、ちょっと触ると食いついてくるように思っていませんか。そう言えば娘が小さいとき、庭先で、ムカデをつまんで立っていたことがありました。大慌てで払いのけましたが、刺されはしませんでした。

きちんと観察してみると、ムカデは平和主義者なのです。ほおっておけば逃げていく。そうでなくとも、そっとつまめば噛まない。

ムカデを見かけて大騒ぎをするとき、それは空騒ぎなんですね。つまり相手をちゃんと見ていないのです。まともに見ずに勝手に恐れてるときが、実は一番怖い。

死も、やみくもに怖がるのではなく、きちんと見つめてみましょうという話です。

さて、まず、死んだらどうなるのかというところから考えてみようと思います。もちろん、これが正解ですよという話はできません。確かめようのないことですから。

しかし、世界中いろいろな教えがあり、歴史・伝統の中で支えられています。今、その内容には触れずに通り過ぎますが、死んだ後のことは何らかの形できちんと位置づけられています。無用に闇雲に恐れる必要はない。私はそのように考えています。

ところが、死んだ後といった先のことではなく、どうやって死んでいくのか、「死ぬ」とはどういうことかということも、遊雲の病状が進んでくる中で考えざるを得ませんでした。

体の中にがん細胞が増えると、栄養がどんどん取られて体が弱っていく中、いずれ肺にも転移し、最後、充分酸素を取り込めなくなって、火が消えるように死んでいくことになるだろう。今でこそ平気な顔して言ってますが、息子がどういうふうに死んでいくかを考えていると、私が殺してるような気さえしてきたものでした。しかし、病気の進み具合と、死ぬというのはどういうことかは、まだ紙一重何かが違う。

やはり死ぬということは、生きるということと裏表です。裏表きちんと繋がる形で捉えないことには、結局納得ができない。

では、生きているというのはどういうことなのか。

今私は、生きているとは「しこっている」ことだと理解しています。しこり続けているからこそ、「私」という思いが、あるいは私の身体が、ばらばらにならず、いわゆる生きているという姿をとり続ける。

そうであるならば、「死ぬ」とはしこり続けて形を保ち続けるご縁がつきて、良く言えばほぐされていく、悪く言うならばらばらになってしまうことでしょう。

ここからは、自分が「どこ」にいると受け止めているのかによって話が変わります。私は浄土真宗の住職として、如来のお慈悲、あるいは一般の方向けの言葉では「大きないのち」に包まれていると味わっています。

ならば、私という「しこり」が尽きてほぐされいくとは、つまり死んでいくとは、そのまま大きないのちの中へと抱きとられていくこととなります。

ちゃんと見つめてみると、死んだ後のことはもちろん、死ぬという出来事そのものも、それなりに受け止められるものでした。そこまで味わってきたとき、私はそもそも、最初に何を怖がっていたのだろうということに戻ってきました。

ちなみに、私は自分が死ぬことをさほど怖いと思ったことはないのです。環境その他のせいでしょう。しかし、我が子が死ぬのは怖かった。

死という言葉だけで、空騒ぎでおびえるのをやめ、きちんと見つめてみると、死は思ったほど怖くなかった。死んだ後も、死ぬという出来事も。なのに、残っているこの怖さとは一体何なのか。

そこまで考えて、初めてわかったのです。本当に怖かったのは「生きている」ことだと。

日ごろ、生きているのは当たり前と思っていますが、住職風の意地の悪い言い方させて頂くなら、それは生きる真似事です。大人になってしまうと、いろんなことを枠組みにはめこんでわかったように思い、その上で目の前のことを回していく。いつかそれが当たり前になる。今日の当たり前が明日も続いていくであろう。明後日もそうだろう。10年後はわからないにしても、そこまでは考えずに、今日の当たり前さが続いていることを生きていることのように勘違いしてしまう。しかし、それは生きる真似事です。

本当に生きているとは、例えばがんと知らされ、それまで頼りにしていたことが何も頼りにならないと気付かされて、宙に浮いてしまったような思いを味わうとき、その時のほうこそが、より生々しく生きているということだろうと私は思います。

結局、本当の生きているということからは目をそらしている。確かに四六時中そんなことを考えて過ごすわけにもいきませんけれど、「当たり前さ」の中に埋もれて過ごしている。そうするといろいろなことが、自分の方から突き放しているわけですから、見えなくなってしまっている。味わうことができなくなってしまっている。それが現実なのではないでしょうか。

そして、死そのものは実は大したことではなくて、むしろ生きているということが大変なことなのだと気付かされてみると、では、死って何なのだろうとわからなくなりました。改めて考え直してみて、細かい話はとばさせてもらいますが、死とは、この私の抱えている得体の知れない「生」をくっきりと輪郭付けてくれるもの、「生きている」ということ、あるいは「今」のかけがえのなさを、くっきりと浮かび上がらせてくれるもの、それが「死」なのではなかろうかと思い至りました。

実際、遊雲が、正確にはこれは遊雲本人が言った言葉ではないのですけれど、「死をしっかり考えるということは、今を一生懸命生きることだ」というふうに残してくれているのです。あるいはどこかで、「死の解決とは今の解決である」という言葉に触れたこともあります。

ここまで、ムカデの話から始まり、ただ怖がるだけではなしに、死というものを見つめてみましょうとご案内してきたのですけれど、見つめてみたら、死そのものは実はさほど怖くはなかった。かえって最後に浮かび上がってきたものとは、生きていることであった。それも当たり前の日常の枠の中で生きている「生きる真似事」ではなしに、まさに明日をも知れない、何が起こるか分らない、というところで生かさせてもらっている、この生きていることこそが怖いことである。そして、そこまで味わわせてもらったときに、逆に死こそ、これは理解できるものではないのですが、私の生をすっぽり包んでくれている「外」として、「今」の大切さに気がつくことができる大きなご縁であった。そのように気付かされている次第です。

生きるということ

以上で、「死んでいくこと」を一通り見つめたこととさせてもらいましょう。これから、そこから振り返って生きるということを改めて味わってみようと思います。

遊雲の三回目の入院のときです。もう痩せ始めていまして、最後の手術では右足を膝上から切断し、それで何とかがんと縁が切れないだろうかと願っていた矢先に、身体中の転移が検査にかかるようになりました。

そうなると手術そのほかのことはもう考えようがありません。そういう中で、ある思いから、そのある思いというものがどういうものだったのか、自分でも実はよく分らないのですけれど、意を決して、本人に直接言いました。「今の状況から、元通り何もなかったように元気に戻るということは考えにくい。死んでいくというのがどういうことか考え始めよう」と。

しかし、本人に対してそういうはたらきかけをして、その後淡々と死についての会話が続いたというのではないのです。ですが、そういった中で結局私が気付かされていったことというのは、遊雲のためと思って色々なことを言いながら、結局一番恐れていたのは、我と我が生を直視すること、そのことであったということでした。

自分のことを離れたような言い方をちょっとさせて頂きますけれど、例えば、自分の子どもが大変な病気になった、何とか元気にさせようとしている、そういうときの思いを見つめてみることにします。

もちろん治る可能性の大きいとき、治れるということが充分なリアリティを持てる場合は「頑張ってよくなろう」で何も問題もありません。しかし、もう治るということだけにすがっていては嘘になるという場面になっても、何とか元気になろうと一生懸命はたらきかけている姿というのは、相手の為、我が子の為であるように見えながら、私も当事者であるということできつい言い方をあえてさせて頂きますが、我が子を先に逝かせるということを直視したくない、我が身可愛さでしかないのではなかろうか、そう思います。

ですから、遊雲に対して「死んでいくことがどういうことか考え始めよう」と言ったときに、「父さんは元気で当たり前に過ごしていける、あなたはもう元気にはなれない、いずれ死んでゆくのだからそろそろ覚悟を決めなさい」と言いたかったのでないことはお分かり頂けますでしょう。結局、我と我がことであったと自分に言い聞かせる、自分で納得する、そういうことであったのだろうと思います。

細かいことはもう辿れないのですけれども、そうやって必死で目の前の現実を見つめようとしていたとき、ふと気がつかされたことがありました。「死にかけている遊雲」などというのは、一回たりともいなかったのです。元気なときは元気なように、痩せてきはじめたら痩せてきはじめたときのように、いつも遊雲は生きていました。

最後、私が会ったのは死の2週間ほど前のことです。器用な子だったのですが、持って来た先生からの手紙の封を開けるのに、もうはさみが真っ直ぐに使えませんでした。自分の指を切ってしまうのではないかとそばで見ていてはらはらするぐらい、ぎざぎざにやっと封を開けました。もう、気持ちを数分にわたってちゃんとしておくことは難しいような、そんな様子でした。そうなのですけれど、その時も初めてぱっと見たときに「ああ、ここまでもう進んでいたか」と驚いたのが半分なのですが、言葉にするとちぐはぐになるのを承知ながら、それまでの遊雲と全く変わっていなかったのです。「あぁ、遊雲は元気だ」と思ったのですね。死にかけている遊雲というのは一回たりともいなかった。いつも、その時そのときを一生懸命と言うのでしょうか、楽しく、と言っていいような気がするのですが、生きていた遊雲がいるのみでした。

その時に自分自身、気がつかされたのです。そうか、あなたはあなたの、逃げようのない、最初に申し上げましたよね、人ごと、としての事実ではなくて、もうそこで生きるしかない、そこを受け入れていくしかない、逃げ場のない、遊雲本人にとっての生をきちんと一生懸命に生きている。そうならば父さんは父さんの生を生きよう。そううなづけたときがありました。

そううなづけてからは比較的楽でした。そばにいてやりたい、という思いは常にありましたけれど、たとえ離れていても、ああ、遊雲はそばにいる、あの子は確かに何があっても大丈夫だと、私自身安心していることができるようになった気がします。

結局、遊雲が自分の病気、がんというものをいくら嫌っても、目をそらすわけにはいかなかったのですね。こうするか、ああするか、どちらか選べます、という状況であるならば、きっぱりと選ぶ子でした。「これはいや。こうして」というふうに。けれども選ぶことのできないことに関しては、不思議なほど嫌がらない子でした。進んで、と言うとちょっと響きが違うのですが、無用な抵抗をすることなく、すうっとそこに寄り添っていった、そんなところがありました。

我が子がこういう生き方をしたのであるならば、我が子を見送ってその後なお、のうのうと行き続けていかなくてはならないというのが、私が逃げることのできない私の生です。だから、それを人ごとのように話していくのではなくて、不適切なのを自分で承知しながらなのですけれど、こうなった以上精一杯のものを楽しませてもらおう。そのように心がけているところです。

その時そのときで、いろいろなつらいことは実際にありました。遊雲本人は手術を受け、抗がん剤の治療を受けたわけですから、そういう体のつらさというのも当然ありましたし、そばにいた親として、簡単に話せないような思いに襲われたことも何度もあります。そうなんですけれども、どこかいつも常に、楽しかったと言って良いような思いも味わわせてもらっていました。遊雲本人も同じところにいてくれたと思います。というよりも親として、遊雲も同じところで楽しんでいたのだと信じ切ってやろうというつもりでいます。

まとめに代えて

今日はご縁を頂きまして、死ということを目をそらさずに見つめてみた上で、結局生きているというのが実は大変なことなのだと気付いて頂けたらと願って、話させて頂きました。

生きているということのただごとでなさ、というような表現をなさっておいでの方もあるのですけれど、そこまで気持ちを運んで頂けるならば、ご自身ががんを患っていらっしゃるのか、大切な方をがんで亡くされた方であるのか、その区別を抜きにして、今私たちはみんな生きており、現に苦しんでいる同じ身なのだというところに立てます。しかもご縁整ったならば、現に苦しんでいるということそのことを、喜びにも受け止め変えていくことができると知って頂きたいのです。

死んでいくこと、生きるということ。私自身、遊雲の縁を通じてでなければ、住職という仕事をさせてもらっていながら味わえなかったことであると思います。その限りで、ここまで大きなご縁を頂いたこと、世に言う逆縁ですけれども、有り難いことであったなと喜ばせてもらっています。

皆様が抱えていらっしゃる生は、お一人お一人違います。しかし「誰にも分ってもらえない、経験した者でないと分からない」と言い始めてしまうと、それは本当に伝わりようのないものになります。

ところが、そうやって抱え込んでいらっしゃる、皆様お一人お一人の、私の重なりようのないその生を、こうやってしっかりと受け止めさせて頂けるご縁が常にあるのだということに、一緒に気持ちを開かせて頂けたら、と願いつつ終わりにさせて頂きます。今日は本当にありがとうございました。

文頭

2008年6月、東京ビハーラ「がん患者・家族語らいの会」で話したことをテープ起こししていただいたものです。