浄土のリアリティ

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はじめに

浄土はあるのかないのか。この問いは、私にはナンセンスです。浄土は、それを語る者にとってリアルか。それを問題にすることにのみ意味がある。

私にとって、浄土はいつも「そこ」にあります。ただし私の側から「あれ」と指さして示せるものではなく、常に私を招き喚ぶはたらきとして、あるいは私のいのちがそこへと流れ落ちていくその生の感覚として、私が伸ばす手の先の「そこ」に息づいています。その感触を、紹介させていただくことにしましょう。

枠組み

しかしいきなり「私にとって」のリアリティを語り始めてもいささか突飛でしょうから、しばらく浄土にからむイメージの共有を目指したいと思います。浄土を語る枠組みの提案です。

浄土は、浄土単独でとらえようとしても無駄です。ここでは仮に、大乗・浄土・悪人をセットにして味わってみることにします。

大乗

基礎知識的に、大乗とはサンスクリット語マハーヤーナの訳語です。マハーは「大きい」、ヤーナは「乗り物」の意で、それまでの仏教(部派仏教)を小乗(自分一人のさとりを目指す小さな乗り物)と批判し、紀元前後頃インドに起った新しい仏教を指します。

しかしそれでは、知識の整理にはなるとしても、私にはピンときません。私は大乗の登場を、「人間の側から宇宙の側へ」といった視点の飛躍とイメージしています。

大乗の成立期には、全宇宙の総体が、ある一つの「全体」として立ち現われたという出来事がある。それが、たとえば真如実相と、あるいは空性ないし涅槃と呼ばれるようになります。私たちにとっては、それは法性法身として成仏くださった阿弥陀如来にほかならないでしょう。

大乗の出現により、我執のわだかまりを瞑想を通じて解きほぐし、私を運んでさとりに到るという困難な道が、正覚の阿弥陀に抱かれてある私を知らされるという方向に逆転するのです。

浄土

しかしなまの大乗の内実は、「全宇宙は善きものである」という宇宙そのものの自足した自覚です。あまりにも壮大で、あまりにも美しい。そこにそのまま抵抗なく融け込んでいける者ばかりであるならば問題はないのでしょうが、その全宇宙的な「善きかな」に徹底的にあらがう者として、ここにこの私が我を張っているという事実が厳然と残るところに、私を取り巻く真如空性の総体が、「この私」に相即したはたらきとして定位されることを目指す動機が生まれます。その動機こそ本願であり、本願に報いて成就されたのが浄土なのです。

浄土は、ここに迷いの私がいるが故に、そしてこの私のけがれと大乗宇宙の真理性とを両立させんがために、建立された。浄土のはたらきのおかげによって、私は迷いの凡夫のまま、真理そのもののただ中に安住していることができるのです。

悪人

そしてかげりなき「善きもの」たる大乗宇宙の真ん中で、全宇宙的な「善きかな」にどこまでも逆らいつつ、しかし最後は必ず大いなる全体へと抱き摂られていくと知らされた者が、悪人です。その心性は、逆らうことしかできないことにおいてざんのほかなく、いつ何時もそのまま真如に包まれているからには歓喜以外にありません。

輝く大乗宇宙は浄土を持つことによって初めて悪人を留め置くことができ、浄土によって悪人を包み込めてこそ大乗は真に大乗たり得る。これで、浄土の「必然性」を、少しは感じていただけるでしょうか。

いのち

ついでに、ふつうあまり考えることなくわかったことのように語られている「いのち」についても、簡単な整理をしておきましょう。

いのちは決して単純な出来事ではなくて、最低でも三つの異質な事柄が重なったことと考えられます。私たちは、一個の生き物として生き(生きるいのち)、社会的にも生かされ(つながるいのち)、さらに確かな全体へ向かって開かれ今ここに「ある」ことの意義にうなづけたとき(よろこぶいのち)、本当の意味で生きていると言えるのではないか。

ただ単に一生物として生存していること、小さないのちを生きることのみがいのちのすべてではありません。つながるいのちでさえもまだ小さい。最終的に宇宙大の「大きないのち」と出会いそれと感応してこそ、いのちのまったき姿に触れることができる。そのように考えてみてください。そこに宗教の存在意義があり、当然のことながら、浄土のリアリティも大きないのちとの関わりの中に立ち上がってくるものです。

事実と真実

もう一点、「生きる」ということにからんで、事実と真実とも意図的に区別してとらえておきます。

詰まるところ「人ごと」に過ぎない事柄すべてを、ひっくるめて事実と呼びます。それに対して、この私がまさにそこにおいて生きることのできる、あるいは生きざるを得ない、抜き差しならない現実を真実と呼び分けます。

客観的な事実は、誰にも起こる(起こり得る)ことであり、その限りにおいて真実ではありません。科学的な実証主義が大手を振っている現代は、その意味で誰も生きようとしていない時代です。逃げようのない自分自身の生と真っ向から向き合ったところに初めて、真実との出会いが生まれます。

わが生

さて、ようやく準備が整ってきました。いよいよ浄土のリアリティです。

私事ながら、私は息子を小児がんで亡くしました。

わが子が死んでいくとはどういうことなのか。否応なく、そこと向き合わざるを得なかった。それだけの「きついご催促」があってこそ気づくことのできたリアリティが、私にはあります。というより、そのリアリティと出会えなかったならば、とても生きていられないと言うべきでしょうか。

当たり前の顔をして毎日の日常を生きているとき、それは実は生きる真似事に過ぎません。かえってたとえばがんと告知され、それまで当てにしていたものがすべて頼れなくなってきたようなところにこそ、おぞましくもかけがえのないわが生の実際が立ち上がってくるのです。

私の息子遊雲ゆううんは、まさにそこで、抜き差しならない自らの生と向き合い、真実に生ききって、浄土へ還っていきました。

私は、死んでいった息子を懐かしみその思い出にすがるというのではなくて、そんなわが子にならい、わたし自身真実に生きねばならない。

「そうか。遊雲よ、あなたはあなたの生を生きよ。父さんは父さんの生を生きる」。

それこそが、遊雲が文字通りいのちをかけて教えてくれたことでした。

還相げんそうこう

小さないのちを終え、いまや大きないのちと一つになっている遊雲と、私は出会い続けていきたい。いえ、私が望むからではなく、すでに法蔵菩薩の誓いがあり、それが実現されている以上、私はとうの昔から大きないのちに出会われているのです。

ただ、それが今や人ごとではなく「遊雲のご縁の重なった」大きないのちの真実であるところに、私にとっての浄土のリアリティがあります。

遊雲はただお浄土へ往ったのではなく、私にとっての浄土そのものとして、今現にこの私にはたらきかけてくれているのでした。

合掌。

文頭

2008年 9月、『築地本願寺新報』