独生独死独去独来

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現代は、生きにくい時代です。

多くの方は、そう聞くと、「変な事件は起こるし、自殺者は多いし、ほんとうにそうだなあ」といった受け止め方で賛成くださると思うのですが、私の言いたいことは少し方向が違います。まともに生きていない人があまりにも多い。だから、生きにくい。

以前、ある関心から地獄のことを考え直したことがありました。そのとき思いがけず気がつかされたのが、地獄が地獄である理由は「死ねないこと」にあるということでした。死を隠してしまって生(健康、安全、……)にのみしがみついている現代は、その意味でまさに地獄です。

死ねないのは、きちんと生き始めていないからです。というよりも、死と切り離した生を追いかけていたのでは、まともに迷うことすらできない。

一方、現代先進国の生活は、天上界に近づいているとも言えます。天上界は快楽極まりない世界なのですが、迷いの世界であることに変わりはなく、その快楽もやがて終わるときがきます。快楽が日常である世界であるからこそ、その終わりに際しての苦痛はかえって大きい。「どうして自分だけがのけ者にされなくてはならないのだ」という思いにとらわれ、むき出しの孤独感・絶望感のうちに、転生を続けていくことになります。

思えば、天上界とは「死の問題」のみがくっきりと残された世界なのでしょう。

死の解決とは、今の解決です。言い換えれば、今・ここにおいて、まさしく生き始めることです。

では生き始めるとはどういうことか。

わたしたちがふつうに「生きている」と思っていることは、実は生きる真似事に過ぎません。頼りにならないものを当てにし、根拠なく今日の無事が明日も続くものと思い込んで、だれの生とでも置き換えられるようなのっぺらぼうな生を、ただ受け身にたどっているだけです。

わが生のむき身のおぞましさに、あるいはかけがえのなさに、気づかされたところから――人ごとではないわがこととしての生が始まります。独生独死独去独来。独り生まれ独り死し、独り去り独り来たる。『仏説無量寿経』の一節です。ずっと、厳しい現実を突きつけてくる冷たい言葉と思っていたのですが、実は生き始めよとの暖かい励ましなのでした。

この私は、全宇宙的に、孤独です。しかしこの孤独こそ、私のアイデンティティであり、全宇宙がまさにこの私を抱き包んでくださっているという証なのでした。

合掌。

文頭

2008年8月、『ゆうゆう』12号